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安部公房

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  • 2017/02/11 07:08
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    安部公房全集も完結しました。
    さらに伝記も刊行され、もう一度安部公房の真価を見直すことのできる
    情況がととのってきたと思われます。

    公房の仕事は、小説、エッセイ、詩、映画、演劇など、ずいぶん幅が
    広いですが、その一端にでもふれて感じたことを述べあいたいと思います。

    気軽にお立ち寄りください。

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    sum***** 2月11日 07:08

    本当に、お久しぶりでした。
    お元気そうで、なによりです。
    「認識論的存在論」「存在的認識論」を例えると
    ニワトリが先か、卵が先かという発想に近いようです。
    しかし、そうした発想の根拠と、また認識の理由は、現実への発展を考えて
    いるからではないでしょうか。
    自分自身を含め、現実の未来を予想しようとする行為に想えます。

  • こんにちは。お久しぶりですね。コメントをいただき、ありがとうございました。

    「現実を認識するのは、意識なのだ。」はその通りですが、同時に「意識は現実に規定されている。」と言わなければ片手落ちのように思います。それでこそ「実存」の厳しさと、弁証法的様相が浮かび上がるのではないでしょうか。

    安部公房は若き日の最初のエッセイ「問題下降に依る肯定の批判」において、真摯に「存在」を探求し始め、「〈僕は今こうやって〉」で外面と内面を(つまり存在と意識とを)分けることを否定し、「詩と詩人(意識と無意識)」ではついに「世界内=在」と「世界=内在」を止揚して主観と客観を統合する見地に到達しました。(いずれも全集第1巻所収)

    「存在論」と「認識論」も、このような弁証法的な捉え方からすれば、今や「認識論的存在論」また「存在論的認識論」としてしか論じ得ないのではないか、というように思います。

  • 実存のサルトルと「リアリズムの宿」

    ある友人が、喫茶店で時計を見つめていると、秒針が加速し
    時間の経過が短縮してしまう感覚の事を話した。
    自立神経の失調だと、認識しながらも、そうした意味を、どう捉える
    かが必要である。仮想、空想、理想、過程の域を越えない処での症例から
    認識を越えないものだとするなら、陶酔的なものかもしれない。
    しかし、それが、現実だと認識する処に、自分自身の意識が生まれる。
    現実を認識するのは、意識なのだ。
    意識が行動の指針を与え、実存を宿す。
    意識、そのものが存在を定義するものだからだ。

  • 【シュールリアリズムの原典や定義】
    前回の私の発言に対して、hirokdさんはブルトンの「シュルリアリズム宣言」にあたったり、そこにおけるシュルレアリスムの定義に戻って、丁寧にコメントされています。
    どうも、私はそこまで、原典や参考文献をおさえることが出来ていませんでした。
    そのため、もう少しそこをおさえてから、コメントをしたいと思います。

  • 【安部公房とシュールリアリズム】
    まず、前回の記事で夢判断を否定的に書きましたが、夢そのものの現実(リアル)への効用は認めます。それは安部公房の作品化にも見られるとおりでしょう。
    そして前回述べましたのは「無意識を記述する際には最低限の理性や美意識が介入する」のではないかということです。美術においても作品化には美意識が働くことを避けられないでしょう。

    さてアレンさんが書かれた中の「やはり、言語や絵画という媒体で発表すると、伝えたい無意識のイメージが変質してしまう怖れはありますね。 ただ、それの怖さを乗り越えて、当時の芸術家たちは動いていたのだと思います。」ということについて、シュールリアリスト達の内面を考えたいと思いますが、その前にもう一度ブルトンの「シュルリアリズム宣言」の要点を押さえておきたいと思います。

    定義として「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象(オートマティスム)であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれて思考の書きとり。」そしてそのあとの「百科辞典」のところでは「ある種の連想形式のすぐれた現実性」「夢の全能」「思考の無私無欲な活動などへの信頼」という具体的な方法をあげ、「他のあらゆる心のメカニズムを決定的に破産させ、人生の主要な諸問題の解決においてそれらにとってかわることをめざす。」と射程を明らかにしています。

    以下、次回に。

  • 【『水中都市・デンドロカカリヤ』第二回読書会のお知らせ】

    第8回関西安部公房オフ会(略称KAP)の読書会の開催が決まりました。

    日時:11月23日(月・祝) 午後1時ー5時
    開場:12時50分
    場所:京都市右京ふれあい文化会館 第一会議室

    読書会の課題本:『水中都市・デンドロカカリヤ』(新潮文庫)
    その中から、「闖入者」「ノアの方舟」「詩人の生涯」「手」の4作品を取り上げます。
    主宰人:hirokd267(岡田)・w1allen(岡)
    司会・進行:岡、岡田
    広報:岡

    内容:(1)自己紹介
       (2)作品が書かれた背景やトピックなどの簡単な説明
       (3)フリートーク
    (4)発表されたい方も歓迎しますので、事前に仰って下さい

    その他:途中参加も歓迎です。飲み物(酒類は不可)は各自で用意してください。軽食の持ち込みもできます。

    二次会:懇親を深めるため、二次会で和気あいあいと飲み、語りあいたいと思います。学生さんにも気軽に参加していただけるように設定します。二次会のみの参加も歓迎です。
    会場:餃子の王将 花園店(予定)
    費用 3000円以下(コース料理ではなく、自由に注文する形式です)
    注意:喫煙不可

    なお一次会の費用は 会場費分の割り勘です。
    大体、200円-400円の予定です。

    申し込み:ここでも申し込みできますが、できればでツイッターで@hirokd267宛にツイートまたはRT(リツイート)で「参加申し込み」と書いてください。

    ツイッターの会員登録は無料です。この機会に是非アカウントを取得されることをお勧めします。読書会の情報をそちらでたびたび発信していますので。
    万一、アカウント登録に失敗した場合は、w1allenまで連絡して下さい。

    では、皆さまのご参加を心からお待ちしています。
    不明の点がありましたら、遠慮なくお尋ね下さい。

  • 【夢と自動書記】

    どうも亀レスになってしまいました。申し訳ないです。
    ブルトンによる無意識を活用した芸術運動の屋台骨には、フロイトなどによる精神分析がありましたね。

    1.夢
    私は、「夢に出てくる○○は、××の象徴」式の夢判断を好みません。また、やたら性的象徴だという話になって、閉口します。
    hirokdさんのシナプスの迷走説もなるほどと思います。そこに意味を見出すのは、理性の行為ではないかと。
    ただ、夢でも、「空を飛んで気持ちがいい」とか「墜落しそうで怖い」とか、現実とは一味違う世界を体験できるという意味で、意識下の願望、恐怖と地続きな感じがします。
    シュールリアリズムの作品を見ると、夢の世界のような人間の生理に訴えかけるものを感じます。
    ただし、hirokdさんの仰るように、夢を作品にする場合、理性のフェルターで濾されて変質してしまうことはあるでしょうね。

    2.自動書記
    これも、全くの無意識の所作ではなく、理性のフィルターが見えるとの指摘ですね。
    自動筆記で、無意識の世界をそのまま現実に持ってきたように思えますが、まずイメージが有り、そこから言葉にする段階で、理性のフィルターに濾されるだろうと。
    そして、なによりセンテンスという形式でしか表現できないということは、センテンスに落としこむように理性が働いているのではないか?

    なかなか、夢や自動書記に対して厳しいですね。
    しかし、無意識を表現する際に、理性のフィルターから逃れられない感があります。
    やはり、言語や絵画という媒体で発表すると、伝えたい無意識のイメージが変質してしまう怖れはありますね。
    ただ、それの怖さを乗り越えて、当時の芸術家たちは動いていたのだと思います。

  • 【安部公房とシュールリアリズム】
    アレンさんの仰るように、ブルトンは無意識を方法として取り入れたということですが、これにはフロイトの精神分析学が根拠を与えていますね。つまり人間のいろいろな欲望が社会的規制によって抑圧され、それは無意識の世界に沈潜している。それを解放して精神の自由を取り戻さなければならない、と。
    そしてその方法は、一つには「夢」の活用であり、もう一つは理性の働きを超えた「自動筆記」なのでした。

    私は「夢判断」を信じることができません。夢は神経シナプスの電流の迷走で起こるのであって、そこに意味を見出そうとするのはまさにブルトンの排した理性の行為である、と思うわけです。
    そして自動筆記なのですが、やってみると分かりますが、諸々の困難があると思います。例えばブルトンの試作(?)「溶ける魚」の冒頭の文を例に取れば
    「公園はその時刻、魔法の泉の上にブロンドの両手をひろげていた。」
    まず「公園」はブルトンの脳裏に語として現れたのか、あるいは映像、イメージとして現れたのか。もちろん後者でしょう。だとするとイメージを語に変換する過程があるわけです。(安部公房のいうアナログからデジタルへの変換ですね。)するとそこに捨象されたイメージがあるわけで、その量は表現されたものよりはるかに多いでしょう。ではその捨象する働きは何によるものでしょうか?理性でないとしたら?
    さらに、この文は当然センテンスになっています。センテンスにするには理性の構成作用が必要でしょう。これも問題で、自動筆記で文章がこんなにまとまるのはおかしい、とも言えましょう。

    もちろんブルトンは理性による構成を全面的に否定しているわけではありません。しかしこのときの理性は、社会的規制を受けている理性とどう違うのか?

    などと疑問がいろいろ浮かんできます。

  • 【安部公房とシュールリアリズム】
    hirokd267さんに倣って、1行目をトピック名としました。
    まず、そもそもシュールリアリズムとは何か?という話でしたね。
    コンパクトに解説してくださったものに異論は全くありません。

    シュールリアリズムは、アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」が、
    核となって、活発化した芸術運動なんですね。

    シュールリアリズムは、勿論リアリズムに反発する形で生まれたのでしょう。
    そして、リアリズムが意識(或いは理性)の芸術ならば、シュールリアリズムは無意識の芸術と言えると思います。

    シュールリアリズムは、無意識というものを方法として取り入れたという点では革命的な芸術運動だったように思います。

  • >>866

    【安部公房とシュールリアリズム】
    みなさんの自由なご意見をお待ちしています。
    アレンさんにいろいろ書いていただきましたが、私としてはまず
    1。シュールリアリズムとは何か
    2。シュールリアリズムと安部公房の作品との関係
    にわけて考えたいと思います。アレンさんの書かれたことについてはまた戻ってきたいです。

    1。について、創始者の一人であるアンドレ・ブルトンは、
    それまでの「現実主義的態度」では、社会の中でいろいろな規制や理性によって我々の精神が飼い慣らされているから、精神を(諸規範から)解き放って「精神の自由」を得ることが重要だ、と考えた。それで「理性による一切の統制を取り除き、美学的または道徳的などんな気遣いからも離れた思考」を実行しようとした。
    つまりシュールリアリズム(超現実主義)はリアリズム(現実主義)に対抗する芸術上、精神生活上の立場であり、主張であるのですね。
    まずこのあたりのことについて共通理解または異見はありますか? 

    ちなみにブルトンの「シュルレアリスム宣言」は「fc2 シュルレアリスム宣言」で検索していただくと見れます。

  • >>865

    hirokd267さん、こんにちは

    まだ立ち上げ段階のトピックですが、みなさんからの書き込みもお待ちしています。

    さて、「壁」がシュールリアリズムの作品と評されることが多いようですが、それは多分、「バベルの塔の狸」の評価を巡ってなされているように思います。

    私としては、シュールリアリズムの方法を用いて、更にシュールリアリズムを超えるべく、シュールリアリズムのパロディーとして、あの作品は書かれたのではないかと考えています。

    自覚していない無意識という精神の領域を活用することには異論はないが、それを労働者や被抑圧者の芸術としか見なさない態度には、安部は批判的ではなかったかと思います。

    シュールリアリズムに限らず、安部は特定の考え方の単なる信奉者ではなく、吸収し、自分流の考えとして昇華し、創作に活かしたところが素晴らしいと思います。

  • 【安部公房とシュールリアリズム】
    安部公房の「壁」について、「シュールリアリズムの作品である」という評言を目にしました。
    Wikipediaの「シュルレアリスム」の項を見ると「作家では安部公房が優れた作品を残している」と書かれています。また「安部公房」の項にも欄外の「文学活動」のところに「第二次戦後派・シュルレアリスム」と記されています。
    でも、本当にそうでしょうか? 安部公房ファンの私にはそうは思えないのです。
    そこには「シュールリアリズム」に対するある種の誤解があるのではないか、と考え、それを学びつつAllenさんと語り合っていきたいと思います。

    なお、表記を「シュルレアリスム」でなく「シュールリアリズム」としたのは、「シュール」という日本的な表現と、安部公房のエッセイ「シュールリアリズム批判」に接続しやすいためです。

  • 第7回関西安部公房オフ会(略称KAP)の読書会の開催が決まりました。

    日時:7月18日(土) 午後1時ー5時
    開場:12時50分
    場所:京都市右京ふれあい文化会館 第二会議室

    読書会の課題本:『水中都市・デンドロカカリヤ』(新潮文庫)
    主宰人:hirokd267(岡田)・w1allen(岡)
    司会・進行:岡、岡田
    広報:岡

    内容:(1)自己紹介
       (2)作品が書かれた背景やトピックなどの簡単な説明(岡)
       (3)フリートーク
    (4)発表されたい方も歓迎しますので、事前に仰って下さい

    その他:途中参加も歓迎です。飲み物(酒類は不可)は各自で用意してください。軽食の持ち込みもできます。

    二次会:懇親を深めるため、二次会で和気あいあいと飲み、語りあいたいと思います。学生さんにも気軽に参加していただけるように設定します。二次会のみの参加も歓迎です。
    会場:餃子の王将 花園店(予定)
    費用 3000円以下(コース料理ではなく、自由に注文する形式です)
    注意:喫煙不可

    なお一次会の費用は 会場費分の割り勘です。
    大体、200円-400円の予定です。

    申し込み:ここでも申し込みできますが、できればでツイッターで@hirokd267宛にツイートまたはRT(リツイート)で「参加申し込み」と書いてください。

    ツイッターの会員登録は無料です。この機会に是非アカウントを取得されることをお勧めします。読書会の情報をそちらでたびたび発信していますので。
    万一、アカウント登録に失敗した場合は、w1allenまで連絡して下さい。

    では、皆さまのご参加を心からお待ちしています。
    不明の点がありましたら、遠慮なくお尋ね下さい。

  • 【現実と未来】
    作家が作家たらんとするのは自分の疑問へ答える資質があることです。
    それは、ある意味、凶事を意味します。
    矛盾の間から、自己の意味を倒置することです。
    表現の核心が、認識、故の展開であることがアンティテーゼであること
    そして、それが、未来であろう、何かを生むものだとしたら
    現実への認識が、多くの情報から展開を導くはずです。
    「表現」は、自由を表現することでは無い。
    今、在る、自由の意味を知ることです。
    能動と受動が、人の意識から認識する、未来を想像する力、こそ
    人の未来を左右するのだと、思えます。
    だからこそ、前向きであるのは、責任や思いやりが必要なのです。
    不信が蔓延するのは、裏切り続けているからで、元は、システムを
    理解していないからです。欲望は組織を利用し利害の意味を倒置します。
    その反面、組織への不信をテイゼする。
    個人へ課せられる能動の意味を理解するなら、状況は情況へ還元される。
    我々は、現状を、そうした立場でしか認識できない。
    だから、試すのです。
    やるべき方法と方策を模索し、与えられた立場を利用し、模索の倒置を願う。
    我々は、行動の意味を強いられています。

    小説が、散文が、詩が、、そして未来が
    我々を導くとするなら、それは、現実への疑問と、過去への邂逅であるはずです。

    未来は、必然ではない。
    また、偶然でもない。
    我々の意志を示す指針です。

  • 【稲垣さんの『安部公房の「孤独」と「文学」の力』(第16号)】
    稲垣さんへ

    第16号へのご寄稿、ありがとうございました。

    代表作の終りを集約的に引用して示したことが、安部公房という作家の姿を浮き立たせることになって、これは巧まず、面白いご寄稿となりました。

    安部公房の小説の最後には、おっしゃる通りの孤独感がいつも横溢しております。そうして、それは10代の詩の時代から変わらず、小説家になったあとの作品の最後には安部公房の透明感覚が出て来て終るのです。

    この透明感覚は、孤独ではありますし、実は死と裏腹ではありますが、安部公房の自由の感覚でもあります。

    文学の力とは、言葉の力ですし、言葉の力とは思考の力ですね。

    稲垣さんの思考の力が独自の言葉となって、安部公房と渡り合う、そのようなご寄稿を遠くない将来に戴く事を楽しみに期待をしつつ、お礼の言葉と致します。

    岩田

  • 【稲垣さんの『『けものたちは故郷をめざす』と表現者安部公房』】
    稲垣さんへ、

    このたびは、ご寄稿を戴き、ありがとうございました。

    安部公房は、10代の詩人の時代から、学んだリルケの教えの通りに
    外部に開かれている世界を知っておりましたし、自分の詩もまた小説も
    戯曲もそのように執筆したことは疑いを容れません。

    そのことを独自の言葉でお書きになっていて、稲垣さんが安部公房に惹かれる理由がよく伝わるご寄稿であったと思います。

    『けものたちは故郷をめざす』は、強烈な作品で、わたしも好きな作品です。これもまた、安部公房の脱出の物語だといえましょう。

    稲垣さんの哲学的に真摯な思考が、安部公房の世界を素材にして、より深く、言葉が紡ぎ出されることを、益々そうなることを、祈っております。

    また是非ご寄稿下さい。楽しみにお待ちしております。

    岩田

  • 【澤井館長の『安部公房没後20年記念講演会報告』】
    澤井館長へ

    第15号へのご寄稿を戴き、ありがとうございました。

    北海道の東鷹栖の地で、安部公房に関する催事のあることを読者に伝えることができて、よかったと思っております。

    保坂さんの安部公房へ言及した言葉は、安部公房という芸術家の急所を穿っていて、その肯綮に当たっていると思いました。いいご講演であったのだと、遠く東京から思っておりました。

    これからも、東鷹栖安部公房の会の益々の活動を念願致します。

    折に触れ、どうぞご寄稿下さいませ。

    楽しみにお待ちしております。

    岩田

  • 【滝口さんの『創作の秘密』】


    滝口さんへ、

    滝口さんご自身が創作家ですので、このご寄稿は、誠に興味深いものでした。

    安部公房の創作の機微に触れるテキストを集約的に引用したことは、読者にとって価値のあることでした。

    わたしの考えでは、或いは知る限りでは、作家には二種類の作家がいるのです。ひとりは、書いて書いて書いて、原稿が良くなって行く作家。もうひとりは、最初の原稿が一番よい原稿である作家です。

    安部公房は、前者であり、その師匠である石川淳は後者でした。一緒にロシアや東欧にに船で行ったときに、船中、道中で石川淳と話をして、最初原稿を書いたら直さないと聞いて驚いた安部公房の言葉が、全集のどこかにありました。

    ちなみに、わたしも後者なのです。滝口さんは、多分安部公房型の前者ではないかと拝察致します。

    またのご寄稿もお待ち致します。ご寄稿も、と言いましたのは、もし安部公房の読者として小説をお書きになったら、これは編集部内の調整が必要ではありますが、もぐら通信にお書きになることも、面白いことではないかと思ったからです。

    また、電子書籍化するときには、ご遠慮なく声をかけて下さい。

    益々の執筆の盛んなることを祈っております。

    岩田

  • 【秋川さんの『一角獣の変身』における1963年の安部公房】
    秋川さん、

    秋川さんのご寄稿は、実に美術界からの思いがけないご寄稿でした。

    安部公房と言えば、小説や、そしてより少なく演劇作家だという理解が一般でしょうが、やはり20代の初期のころに、総合藝術を目指して美術界の人間達と交流したことを、改めて思い出させてくれる貴重な文章でした。

    安部公房の言葉は、確かに辛辣で、それはそのまま当時の安部公房の小説に対する真剣な思いを彷彿とさせてくれました。

    ご寄稿に感謝です。

    秋川さんは、詩人ですので、詩人としての視点から、次回はまた安部公房についての文章を書いて下さると、読者には実に新鮮に驚かれることでしょう。

    またのご寄稿を期待しております。

    今後とも、よろしくお願い致します。

    岩田

  • 【扉】
    我々は、生きていることを「当たり前」と想っている。
    当然、生まれたことの理由を疑問視しない。
    「在る」ことばかりが先行して、「在る」ことの理由を問いづらい。
    それは、現実だから、という理由だからだ。
    在ることを信じられない理由を問うのが世間だとして
    それでは、無いことを問うことが出来るだろうか?
    短絡の理由は、現実のサイクルへ迎合している。
    想像する理由が無いゆえの根拠だ。

    我々が束縛や確執の理念を正すとき、その反側する理念の理由が生きづく。
    環境や情況と状況への思念である。

    我々は思念から、翻弄される。
    生きようとする理念を模索するように
    また、状況への疑いを抱く。

    我々は、現実を無視することは無いだろう。
    しかし、現実へ対すすことが無い限り、現実は、自分を統制すると
    いう強迫観念を抱ているだろう。
    何故なら、我々は、其処に「存在」しているからで、根幹的な
    情況を問うことになる。

    それでは、「存在」のひらめきこそが
    批評の理由なのでわなあいか?

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