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    1P1話というトピで、間借りしたように書いておりましたが、
    ご迷惑をかけているような気もして、引越ししました。

    ずっと、私の出逢った静かだけれど素敵な人たち、
    その人たちの優しい日々を、細々と綴っていきたいと
    想っています。

    短くも長い…拙いお話ですけれども・・・・。

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    星(☆ 2月7日 21:53

    【ストライプのブラウス】

    坂を港に向かって降りて行くと、百貨店がある。
    その人は、
    「買いたいものがあるの。付き合ってほしいのだけど。」
    と、彼女に言った。
    当然のように彼女は引き受け、二人は坂を下って行った。
    その人は、膝丈の黒いスカートをはいていた
    。ふわっとしたそれは、心地良さそうにその人の細い足を引き立てていた。

    一枚のブラウスを手に取り、
    「これしかないと思うのよ。」
    その人は彼女にそう言った。
    それは、袖の無い赤いストライプでシンプルなボウタイが着いていた。
    「赤?」
    彼女は驚いてその人に語り出す。
    「あなたが選らんだの?」
    「もちろん、これしかないと思って。」
    「黒や翠や蒼出なく?」
    「そう、赤。」

    その人は、何時も男もののシャツを好んで着ていた。柔らかい髪の毛は短くカットされ、合わせるものは膝丈のパンツが常だったために、彼女は赤いストライプのブラウスを選らんだその人にとても驚いた。

    「着てみるから、見てね。」
    その人は試着室に入る。

    ほんの少しの時を経て、彼女の目の前に現れたのは、意外なほど似合っているその人の姿だった。

    「これしかないよね。」
    彼女はそう言って微笑んだ。
    「そう、良かった。」
    その人は試着室に戻って行った。

    たったこれだけの短い時を、彼女はいとおしく撫でるように思い出す。

    『八月に重い病気にかかり、まだ治療に専念しています。』
    その人からのメールは二月の初めに届いた。
    その後のメールのやり取りは、短くたどたどしいもので彼女の不安は募る。

    遠い地のその人を彼女が思う時、潮の薫りが寂しそうに流れた。

    星(☆

  • 【彼の檸檬】

    彼女の母が亡くなって、七年目の一月に雪が降った。

    母を偲んで彼女は檸檬の樹を植えたのだけれど、それは年も越さずに枯れてしまっていた。
    彼女の庭に隣接する小さな果樹園は、亡き母の義弟が端正込めて作り上げたものだった。
    その彼も昨年鬼籍に入った。

    主の居ない庭は、淋しい佇まいで哀しいほど雪が似合っていた。

    彼の庭に今年も檸檬が沢山の実をつけて、雪の白と瑞々しい黄色が彼女の胸を打つ。

    小さな果樹園は雑木林のようであり、彼が愛した様々な種類の紅葉や活け花に使う珍しい樹が落ち葉を身から放ち、土を覆っていた。
    その命の繋がりの上にも、雪は積もっていた。

    彼女が檸檬に触れると、雪がはらはらと舞いながら落ちていく。

    檸檬の樹の刺さえもいとおしく、彼女は泣いた。

    明日も雪かしら?

    静まりかえった庭には返事もなく、ただ優しい色に包まれた絵の中を、雪だけが時を刻み続けている。

    星(☆

  • 【そっと、さりげなく】

    すっと、その空間にその人は歩き出した。

    時に、それは誰の視界にも入らず彼女は成すべき事を成していく。

    彼女は、その人の行動を眼で追う。

    ゆるやかに、その人は自分が必要とされる場所に身を運ぶ。
    そして、必要である行為を成す。

    何時もそうだった。

    その人は、そうした行為を楽しみもしていた。

    「歳をとったせいかしら、少し疲れました。」
    ある時、二人で出かけた車の中で、その人は呟く。
    彼女は、はっとした。
    疲れない訳がないその人の行いを、ただただ目を細めて敬いを持って眺めた自分が、彼女は愚かにすら見えた瞬間だった。
    それから、アームカバーを自国の姉の為に買いたいと言うその人の願いを叶える為に、二人は園芸用品売り場に行く。
    無駄な行動はせずに、その人は欲しい物を次々と購入した。

    そして、「もう、これで用事はすべて終わったわ。ありがとう。」と、彼女に礼を言った。

    ボランティアといわれる行為に対して、彼女は時折思いを巡らせる。
    受け入れる側の彼女は、果たしてその行為の生む善意の中に、ふつふつと湧く泡のような思いを見つけることなく終わらせてしまいがちなのではないか。

    その人が進む、自分が必要な空間。

    彼女は、自分が見るべきその人の空間を見過ごしてきた自分に気付く。

    別れの時、

    「心、やさしい」
    幾つもの言葉を探しながら、その人は短く彼女に言った。

    星(☆

  • 【戦士を見つけた】

    もう日傘も要らないほど、ゆっくりゆっくり陽がこぼれ落ちてくる。
    木々の葉は夏を名残惜しそうに、それでも花弁を実に変えて愛しみながら抱く。

    夏の刺すほどの陽の下で、毎日毎日働く人々を見た。
    彼等は汗を避けはしない。
    時に、帽子さえ着けずにタオルの下の額で太陽熱を受け止めていた。

    エアコンの効いたビルから、彼女が出かける。

    数分後、ワンピースに隠された背中に汗がつたう。
    彼女は厚手のハンカチを額に当て、空を憂いながら見上げ、ようやく日傘をさす。

    夏は嫌いではない。
    むしろ、汗だくになって歩くのは好きだ。

    けれども、この速すぎる太陽熱を受け続けてはいけない弱さを、けだるさと共に認めようとする。

    すく側に、降り注ぐ熱の真下で働く人々がいた。

    彼女は、敬意を持って彼等を戦士と呼んだ。

    彼等は、時とも戦っていた。
    上手く手繰ったり、ほどいたり、交わしたりなだめたり、遠ざけたりする。

    もちろん、熱も時も彼等を撃ち抜いて容赦なく挑んで来る。
    蓄積が目的ではない。
    それらは、戦っている訳ではないのだから。
    しかし、彼等の身体に溜まりながらエネルギーを吸収してしまう。

    彼等は、数々の術を持ち対峙していく。

    そう、彼女は彼等を本当に質の良い戦術士だと思う。

    太陽が熱の粒子を振りかける手を緩め、背中の汗が流れなくなった昼下り、彼女は風の来る方を探した。

    金木犀の香りが僅かに届いて、また去って行く。

    星(☆

  • 【あっ、虹】

    その日、彼女は既に一週間も行方不明になっていた書留郵便をやっと自分の手に戻した。
    4日ほど、あちこちの機関に問い合わせ、その封筒は彼女の手に戻った。
    あちこち破れ、無動作にテ―プが貼られていた。
    傷ついて疲れきった封筒を、彼女は最寄りの郵便局で受けとり直ぐ様駅に急いだ。
    どうでも明日には届いていないとならない大事な書類が、封筒の中で物言わず肩をすぼめていた。
    丁寧に破損した箇所を撫でて、彼女は書類バックにそれをしまう。

    幸い新幹線には直ぐに乗れ、その書類は届くべき場所に届いた。

    まだ汗ばむような湿った風が彼女の背中を掠め、彼女は再び新幹線に乗り帰路に着く。
    相変わらず、外国人の旅行者で新幹線はこみあっていた。

    今年の9月は雨ばかりだったわ。

    彼女は安堵とも落胆とも疲労とも言えない呟きを洩らす。

    ふと見た窓から、虹が二つ見えた。

    「あっ、虹」

    彼女は小さな鈴のような声をあげ、微笑んだ。

    鉛色の空に、オレンジの光がそっと息を吹きかけて夕焼けが長い一日を慰めていた。

    星(☆

  • 【水の中で泣いたことありますか】

    その人は唐突に話始めた。
    シンプルなカットのグラスの中でマドラ―を一度回した後、少し丸くなった氷を見つめたまま、
    「水の中で泣いたことありますか?」
    とその人は彼女に聞いた。

    「あります。」

    彼女は、今朝もいできた薄いオレンジのトマトの色を思い出しながら、そう答える。
    あの時、今朝みたいにボールに水を溜めながら、急に涙が溢れだしたのだ。
    哀しみは少しの時を置いて、こみあげてくる。
    彼女はボールの水に顔を臥せて泣いた。

    「プールでね、涙が止まらなくて体ごと沈んで泣いたの。」
    その人は、氷を見つめたまま語る。
    「暫く泣いて、仰向けになったら蒼い空が揺れれていたのよ。水面の模様を通して、初めて見た空。」
    その人は彼女に視線を移した。
    そして、少し微笑んだ。

    氷が微かな音を奏でた。

    綺麗な二層に分かれたミルクティ―を、彼女は作っては自慢気に息子に差し出した頃を思った。

    哀しみの最中に、人は平静を装うことを知った頃の日々に時は静かに流れた。

    そして、ふと訪れる慟哭は秘めたまま、また時は流れる。

    そっと、人に話せる時は優しい氷の音に似ていた。

    星(☆

  • 【私達は奇跡を生きて】

    特別とは何かしら?

    生きとしいけるものとして、何も選べずに産まれ、選べずに進む道を歩く。
    もちろん、私達は選びながらこの一瞬を進む。
    私はなに不自由なく生きているのかもしれない。
    けれど、泣きたくて泣けない夜も、目覚めて朝日が昇ることがとても幸せだと感じることもある。

    生きるとは、そんな時の重なりで、あたりまえであっても当然ではない。

    そこここに、意に沿わない出来事があり、けれど、意に沿って欲しくて私達は少しづつ逞しく、慎ましく、何が正しく何が間違いかを見極めようともがく。
    苦しいとき、足元を見つめ、やがて顔を上げて硬い頬をほどいて見せる。
    それが、強がりであろうとも。

    優しくありたいと思う。

    優しさが到底及ばない人は、現実としているのね。
    それが、絶望的に哀しみを生む。

    だけれども、そんな現実の中でも、確かに優しさは見え隠れしながらそこかしこにもあるのでしょう。

    そんな事を、誰かに話しかけていた。

    生を受けるという奇跡を生きている今。

    星(☆

  • 【ワイシャツの襟】

    「窮屈じゃない?」
    彼女は彼に聞いた。
    古い倉庫が連なった先に彼の雑貨屋はあった。一昔前、彼が店を継ぐ前は随分賑わったであろう駅前の商店街にその店はあった。
    何時も、糊の効いた硬い襟のワイシャツを彼は身につけていた。

    「気にならないけど。」
    彼は笑って答える。

    蒸し暑い梅雨明けの朝も、彼はそのいでたちで倉庫の膨大な商品を仕分けして車に積み込んでいた。

    「時代が変わったよね。募集をかけると国立大卒の男の子が普通に来るんだよ。今度は続いてくれると良いんだけどね。」
    彼がそういって雇い入れた配達要員の男性は、まだ勤めている。
    人気のない古い商店街の小さな雑貨屋は、それなりに経営が成り立っていた。

    彼はいい人だ。
    ク―ルで的確な言葉を、人懐こい瞳を和らげながら話す。

    彼女は彼の言葉が好きだった。

    一度、彼の妻に聞いてみたことがあった。

    「選んで咀嚼して、そしてまた選んだ様な言葉よね、彼が使うのは。」

    妻は、「そうそう、だけど回り道した跡もなく、とても真っ直ぐで、不思議よね。」そう答えて頬を緩めた。

    回り道した跡もなく・・・そうだ、回り道していないから真っ直ぐなのだ。

    彼女は麦わら帽子から唇にこぼれる夏の陽射しを少し揺らして、彼の妻と同じ様に微笑んだ。

    細い路地の影がほんの少し揺れた。

    星(☆

  • 【写真家に戻った彼】

    特に驚きもしなかった。
    彼が何十年かぶりに写真家に戻ったという。

    修行時代の話を、彼は何時も面白可笑しく話してくれた。
    生涯の生業として選んだ道を、家業を継がなければならなくなって閉ざしていた日々の中で、彼はよく撮影旅行の話をしてくれた。

    きっと、面白くもない日々の最中で愚直ひとつ漏らすでなく、自虐的に笑いを誘ったのだろう。

    妻は、家業を嫌い長年実家がある遠い街に帰ったままだった。
    それでも、時折逢っているという噂は耳にしていた。
    その妻が彼のもとにやって来た時、いずれ彼は元の道を歩き始める予感がした。

    今年の始めに、彼は家業をあっさり遠い親戚に譲り、写真家になった。

    簡単なことではなかったろうに、彼は嬉しそうだった。
    妻もまた、何時も笑っていた。

    花は何時も何処に必ず咲いている。
    彼女はそう思う。
    カラカラに乾いた砂漠にも、人が足を踏み入れたことのない密林にも、夢のような楽園にも花は咲いている。

    藪蚊がブンブン唸っている熱帯の森にも、花は咲き蝶々は飛ぶ。

    また、彼は愉快にそんな地に分け入った話など聞かせてくれるだろうか?

    楽しみだと、彼女は微笑んだ。


    星(☆

  • 【久しぶりに貴女と】

    その人から連絡が来なくなって随分たつ。

    彼女は思いがけなく空いた時間に、その人を訪ねた。
    オレンジのシフォンケーキとベーグルをお土産に、強さを増す陽射しを楽しみながら車を走らせる。

    何度通ったことだろうか。
    いつも突然の電話が来た。
    「動悸が酷くてすぐに来てほしい。」
    「なんだか不安で起き上がれない。」
    その人はとても緊迫した時間にいた。
    彼女はすぐに向かう。
    その人を病院に連れて行くと、大抵は異常は見当たらないから、しばらく休んで帰宅を促される。
    彼女に連絡が取れないときは、救急車を呼んだこともあるとその人は告げた。

    その人は娘と二人で暮らしていたのだけれど、大抵は娘が仕事で留守であったり、休暇中だとしても旅行に出かけて居るとき「発作」は起きるのだという。

    その日、その人の頬にかかる強い陽は静かに影を落としていたが、影の中でその人の頬はゆっくり緩んだ。
    優しい笑顔だった。

    「私ね、この歳になるまで世の中の厳しさに触れて来なかったのね、きっと。」
    そう噛みしめるように、その人は言った。
    彼女は、この春から一人暮らしを始めた息子の様々な出来事を話した。

    まるで人格を完全に否定された深夜のアルバイトであるとか、日々の生活の大変さなどを彼は彼女に面白可笑しく話してくれたから、そんな些細な笑い話を彼女は語った。
    その人は本当に可笑しそうに笑う。

    リビングの窓には遮光カーテンが閉めてある。

    ゆっくりその人は席を立ち、カーテンを開けた。
    潔きよい音がして、戻って来るその人の背中に陽射しが注ぐ。
    緑濃い夏の景色がその人の背景にあった。

    もう、夏ね。
    彼女は呟いた。


    星(☆

  • 【映像のなかの人】

    時に偶像化されて惑わされてしまう。

    切り取られた人に感動してしまう。

    彼女は過去に自身が陥った幾つかの出来事を思う。

    その人は、とても美しい言葉と所作で彼女を魅力した。
    老年期に差し掛かり、ひとりで車を操り旅にでる。
    目的が明らかなのだから、その人は心を踊らされている。

    私がその人の立場、年齢も環境も含めた場所に居たら出来るだろうか。
    多くの人が感じるエネルギーと意志の高さに、彼女は驚く。

    見知らぬ土地の見知らぬ人びとに、その人は真心込めた茶事を拡げる。
    時に、人は他人に猜疑心を持ち、特異な者として距離を持つ。
    ごく常識的な心の揺れは、更にその人を謙虚にした。

    雪の平原に、その人は青竹で茶室を設えた。

    藪蚊に刺されながら、漁師に茶を振舞った夏を映し出した後から流れた映像に、彼女はただ感動していた。

    その人は絶えず綺麗な笑みを湛えていた。

    その向こうにある本当の孤独を、やはり微笑みながら話す。
    幼い頃の記憶。

    偶像化する必要もないひとりの女性がそこにいた。

    平澤鶴子という人の気高さは、彼女に謙虚である無垢な人の営みを見せてくれた。

    星(☆

  • 【薫り】

    たぶん、俯きながら歩いていたのだろう。

    彼女は、ふと顔を上げる。
    そして、廻りを見回す。

    何処から来たのか、そして、何処に行ったのか。
    その、もう消えてしまった薫りを探した。
    初めて嗅いだのではないけれど、懐かしくはない。
    どこか新鮮で清々しい。

    彼女は風の行く末を追った。

    既にそこここにはある筈のない、時のように瞬時消えてしまった薫り嗅ぐ。

    胸の奥底に、それは確かに留まって存在した証を残す。

    移ろいゆく流れは、時に虚しく漂いながら跡形もなく消えてしまうのだけど、確かなものは足跡を残して、いつまでも語りかけるように彼女に纏う。

    いくつもの確かなものを身に纏い、彼女は歩く。

    時の海や空や森や平原を、彼女は自由に歩く。

    彼女を包む幾重にも重なる愛しい薫りは、誰にも知られる事なく、ほんの微かな存在だとしても、彼女は顔を上げ探す。

    本当に愛しそうに。

    その姿を、私はとても綺麗だと思う。

    五月の風が一瞬だけ薫って去った。

    星(☆

  • 〈善良な人びと〉

    ある日、彼女は呟いた。

    「昨夜と善良な人のお家におじゃましたの。」

    その夜、彼女は眠りにつくまでその人達の事を思い返していた。
    それは、絶え間ない人びとの思惑の波を不思議なほどてらいなく歩く姿であり、はすかいから見がちな視線も送らずに何気なく、あまりにも何気なく歩く姿だった。

    彼女の呟きに、彼らは驚いた。

    「私は生まれてこのかた、善良な人にあったことがないわ。」

    「表裏の無い人なんているかよ。」

    彼女は小首を傾げる。

    善良であることがそれほど稀有なのか?

    もしかすると、善良であると受けとめることが稀有なのか?

    その人たちは、決して目立つ事はない。
    ともすればそっと誰かの陰に隠れてしまいそうだ。
    そう、彼女もそれまで見過ごしていた。

    けれども、良い人びとなのだ。
    大袈裟に人を誉めたりしない。
    顔をしかめて咎めもしない。
    日常を真っ直ぐ見つめ、家族で認め合いながら良く笑う。

    派手ではない。

    個性を重んじるこの世の中で、目立つ事はない。

    けれども、その人たちは彼女をずっと昔から何時でも受け入れてくれただろう。
    それが、彼女でなくともその人たちはそうするのだろうと、彼女は思う。

    それは、彼女の一日の終わりにえもいわれぬ安らぎをもたらした。

    善良な人びとはたくさんいて、その人たちはそっと笑む。

    彼らは、
    「気を付けた方が良い」
    そういうけれど、確かにいる。

    彼女はそう思った。

    確かなものはないが、そう思った。

    星(☆

  • <何も無い部屋で>

    君がここからはじめる時を、暫し共有する。

    何時ものように、ふざけながら、そして少しばかり人生など説きながら。

    君は、ごく素直にそれを聞く。

    これから、凪いだ時があり、荒れた風が吹く。

    君の隣りで私はそれを感じられないけど、少しばかり力を貸すから、頑張れよ。

    そんなことを呟きながら、桜を見る。

    綺麗だね。

    星(☆

  • [涙の跡を]

    その人はもう乾いてしまった頬を真っ直ぐに彼女に向けて、微笑んでさえいた。

    少しまえのメールの気配が、彼女の胸を震えさせたばかりだというのに。

    そして、
    「本当は駅から此処までずっと泣いていた。」
    と言った。

    「そうだと思ったわ。」
    彼女は静かに返した。

    刹那さは、どんな瞬間に心を満たすのだろうか?
    少しずつ震えながらそれは満ちていく。
    慟哭のように、その人の肩や手を小刻みに揺らし夜の闇に満ちていく。

    誰にも悟られないように、その人は涙を流す。
    とぼとぼと、この場所に向かい暗闇に立つ。
    まだ、涙は止まらない。
    立ちつくし、その人は泣いていた。

    やがて、彼女の車がその光を放つのを止めて、その人に足音が近づく。

    その頃には、すんだ瞳の下で頬は緩む。

    哀しみや刹那さは少しも消えていなけれど、その人の頬は乾いている。

    人が人に見せたい頬が闇の中にある。

    彼女はその闇に包まれた白い頬を美しいと思った。

    少し前まで、おそらく嗚咽すら止められずに溢れた涙の跡はなかった。

    星(☆

  • 【彼の指】

    まだ小学生だった彼は、よく彼女の家にやって来た。
    物静かで、利発な少年だった。
    さりとて、それを広げて見せることもない。

    彼の両親は忙しい毎日を真正面に受け止めては、真っ直ぐに進んでいた。

    時折、彼は両手の親指と人差し指だけで懸垂をしていた。
    彼女の長男はおそらく彼には幼すぎて、遊び相手にはならなかったのだろう。

    自分の家に誰もいない時、彼はそうして彼女の家で時を過ごした。
    所在なさげにも見えたが、寂しそうではなかった。

    中学も高学年になると、校区の違いもあり彼を見かけることも少なくなったが、それでも彼女は時折彼を思い出した。

    高校は他府県を選び、彼女はますます彼を見かけなくなる。

    彼が医学生になったことは知らなかった。

    特待生で学費が要らない高校から、またひとつ彼が扉を開いたのだと彼女は思った。
    彼の姉もまた、同じように扉をひとつづつ開きながら、異国へ渡って行ったのだった。

    その彼が、医学を捨て化学の扉を開けたと聞いた時、彼女は彼の細い指を思い出した。

    しなやかで長い指四本だけで、彼が自分の全身を支える。
    表情も変えず、彼女なりの喝采に少し照れた仕草をした彼を思い出す。

    重い扉は硝子のように冷たいものだっただろう。

    両手でしっかり押しながら、彼が扉を開ける。

    唇をしっかり結んで彼が開ける。
    その先には何が見えたのだろうか?

    何時か、聞いてみたいと彼女は思った。


    星(☆

  • 【石段を登る時】

    雨に足を取られないようにその人はゆっくり石段を登る。
    細く急な坂に作ってあるその石段には、真ん中に手すりがあり人ひとりしか通れない。
    うっそうとし木々は、雨の雫を黙って受け止めては地に落とす。
    ただ、黙々と。

    五十段辺りで、その人は足を止める。
    大きく息を吐く。
    そして、またゆっくりと登る。

    その人は濃い藍色の紬を身につけていた。

    石段に裾が触れ、次第に濡れて行く。

    途中に二歳児の背位の不動明王が立っていた。

    小さな柄杓で水をかけて、傘を脇に置いたその人が手を合わせる。

    そして、左に進んでいく。

    「もうすぐ、着くわ。」

    その人は小さな声で呟いた。
    それは、雨音に消えて行く。

    だんだんと視界が開けて行く。
    つぱきの深い緑の葉が、雨によって輝きを与えられ正気を取り戻していた。

    くぐもった山の空気を渡って、その人は大きく息を吸った。
    少し雨の匂いがした。

    拘っている頃には、抗う力だけが不必要に殖えていく。
    そのうちに、それは息苦しい霧となり視界を遮りながら身に纏う。
    膝を抱えて時を待つ。

    それは、やがて思いもよらず開けていく。

    雨の後の朝陽のように、光を留めた雨粒を潔く放つ。

    その人はそんな時を今、感じているような横顔をしていた。

    星(☆

  • 【渦巻く時に迷いこみ】

    時を歩いていると、ふと凪いだり妖しくざわめいたりする瞬間があると、その人は言った。

    自らを取り巻く渦に取り込まれまいとすればするほど、もがく胸は踊り出してしまうのだと。

    頭上を通りすぎる暗黒の厚い雲を見たくないから、足元に眼をやる。
    足元の視界はとても狭い。
    やがて、その窮屈さに耐えて行けずに視線を上げる。

    何がそこにあるかは、時しか知らない。

    けれども、雪が降りだした時のような、もしくは風が急に凪いだ一瞬の静けさを、時がもたらすことがある。

    高鳴る胸は平らになり、また風が吹いてくる。

    そこには、木漏れ陽と遊ぶ風が訪れるのだと、その人は語った。

    産まれたことさえ恨んだというその人の、その話を彼女は静かに聞いていた。

    遠くまで逢いに来て良かったと思う心の淵に、切なさが寄り添って離れなかった。

    その人は、真正面の鉛いろの海を見つめ、透明な涙を溢した後で、彼女にほほえみかけた。

    星(☆

  • 【楓(ふう)の木の実】

    幾つかの場所に好きな樹木がある。

    彼女は時折その樹に逢いに行く。

    「楓の木の実が落ちている頃だわ。」
    気持ちの良い風が吹く週末に、彼女は車でその樹がある坂に向かった。

    竹林を抜けて、なだらかな坂道を登りきると分かれ道があり、そこに楓の並木道があった。

    山の中にあるためか、彼女はそこで誰かに会った記憶がない。
    静かな風景だけが広がる。

    ふと、彼女は今日会った自転車屋の店主を思い出した。
    まだ若いのだけれど、彼は何時も適度に汚れたツナギを着て、いとおしそうに自転車に対していた。
    愛想笑いもサービスト―クもせずに、技術を自転車に与えて完成させて客に手渡す、そういう仕事をしていた。

    コンスタントに彼の技術は自転車に形を残し誰かに使われ、その形が崩れると客は彼に委ねに来た。

    小さな町で彼は静かに息づいて、寡黙に仕事をする。

    「大きな店が出来ちゃったね。」
    大通りに自転車の大手チェーン店が出来た時、たまたま店を訪れた彼女は彼にそう言った。
    「まあ、そういう事もあります。」
    彼は手を止めずに答えた。

    今日、彼はあまり汚れていないツナギで自転車を洗っていた。
    何時ものように、いとおしみ丁寧に。
    彼女にはその自転車が真新しいものに見えて、少し不思議な想いを抱いた。

    「こんにちは。」
    彼女が彼に声をかける。
    「あぁ、こんにちは。」
    珍しく彼はほほえみを返した。

    彼がそこに店を構えたのは、間違いなく二十代だったはずだ。
    あれから、十年の時の流れを彼は黙々と捕らて来て彼女に今日ほほえんでいた。


    坂道のいちばん上の楓の樹木は、その実をたくさん足元に置いて、立っている。
    まるで漆黒の宇宙から時の流れを止めてやって来たような、その実を彼女は綺麗だと思う。
    様々な宇宙の塵にまみれながらやって来たその実は、少しも危険ではない刺を身に纏い、今自分の掌で深い茶色の瞳で見つめている。
    彼女はそんなふうに感じていた。

    星(☆

  • 【秋の庭で】

    真っ白なジャスミンが揺れている。

    春に咲く花には香りが溢れ、秋のそれは漂うものさえない。

    不思議だ。

    この季節の風は、知らんぷりを装いながら、執拗に花を揺らし続けるのだけれど、眼差しは何処にもないような気がする。

    「薔薇の香りがしないわ。」

    貴女が言った。

    半年ぶりに帰国した貴女の髪は、いつになく肩まで伸びて、驚くほどまっすぐだ。

    「この花は何?」

    薔薇のような唇で、貴女が問う。

    「ジャスミンよ。」

    秋風のように、乾いた声で彼女は答えた。

    香らないジャスミンを、貴女は驚いた面持ちで眺める。

    「あのね、自分の意思を伝えるべき時、裏腹な言葉が出て来たらどうする?」

    唐突に貴女は語りだした。
    めずらしいことだった。

    白か黒か、貴女は何時も決めてから言葉にする。
    曖昧な返事を欲しがることもない。

    今までの貴女はそうだった。

    生きる国も、呆れるほど執着なく変えた。

    「ん?私には想いとは違う言葉が出るなんて、よくあることよ。そして、後悔した後で訂正するのよ。ごめんなさいをそえてね。」
    彼女は時間を置かずに、しかしゆっくりと返した。

    「ごめんなさいか。」
    貴女は呟く。

    何時も綺麗に短くカットされ、これ以上ない絶妙なウェーブで貴女の表情を縁取っていた髪が、少し揺れた。

    今まで見たことのない真っ直ぐなびく髪だった。

    もしかすると、貴女が今住んでいる国を離れる気がする。
    そして、其処は貴女の終のすみかになるのかと、彼女は思った。

    そして、花が自らの香りを放つ春に、彼女は貴女が住む国を訪れようと決めた。

    風は、彼女たちの言葉の隙間を心地よい速さで抜けて行った。

    星(☆

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