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日本航空(株)【9201】の掲示板 〜2015/04/28

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tabidokuc 強く売りたい 2013年1月21日 21:24

>>3886

淫行の帝王・糸山英太郎の自己紹介!

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=FN&action=m&board=1009205&tid=9205&sid=1009205&mid=166344

私(糸山英太郎)が日本航空の株を最初に取得したのはかなり前で、昭和5

0年代のことだった。

きっかけは、国際興行の社主で、JALの会長もやった故小佐野賢治さんに

勧められたからだった。

「糸山君、やっぱり空はロマンだよ。君みたいな若いもんがロマンを持たな

くてどうすうするんだ。これは日本のための投資でもあるんだよ」

「糸山君、日本は島国だ。どこへ行くにしても必ず飛行機が必要だ。君、日

本を牛耳るつもりなら、JALの株を持たなきゃいかんな」

昭和53年頃だったと記憶している、当時はJAL株は額面が

500円だったこともあり株価は3000円近くしていた。とりあえず私は

100万株ほど取得することにした。

その小佐野さんが亡くなったのは昭和61年10月27日のことであった。

小佐野さんが亡くなってしばらくすると、私のところに総会屋といわれてい

る河合大介氏が訪ねてきた。彼は私の旧くからの友人で小佐野さんとも関係

があった。その河合氏が、こう言ってきたのである。

「糸山さん、ひとつJALを助けてやってくれないか。国際興行も苦しいんで・・・」

要するにJALの株価が低迷していたので、私に「買い」に入ってほしいと

いう依頼だ。

値下がりしたままのJAL株を放っておくわけにいかない。徐々に買い足し

ていって、平成7年には1200万株にもなっていたのだ。

1200万株といえば、個人筆頭株主である。本来ならこの時点でJALか

ら大株主に対して挨拶があってしかるべきだが、何もなかった。

経営陣が誰一人として挨拶にこなかった代わりに、総会屋がやってきた。

古参の総会屋の上森子鉄氏という男だった。

次に来たのが、野村證券・第一勧銀の利益供与事件で捕まった小池隆一氏だ。

「糸山会長、申し訳ない。いずれ時機をみて社長にちゃんと挨拶に来させる

から、あんまり手荒なことをしないでください」

と、初めから低姿勢でやってきた。

「挨拶に来ないのもけしからんが、大株主なのに飛行機の席さえろくに取れないんだ」

「そんなことならお安い御用だ。席なら総務に言っていつでも取らせるか

ら」と、小池氏は即座に答えた。

個人筆頭株主の私でさえ取れない席を、総会屋の小池氏なら電話一本で取れるという。

当時のJALは、総会屋とそんなズブズブの関係だったのだ。

その後、「最後の大物総会屋」といわれた小川薫氏も来た。

「糸山さんの真意が知りたい」

「悪いようにはしないから、とにかく矛を収めてくれ」

などと話しては帰っていった。

JALという会社はいったいどうなっているのか。

まだ、ケンカも始まっていないのに、裏から手を回すことばかり考えているようだった。

(『ケンカ哲学』糸山英太郎 河出書房新社)

続く

  • 3890

    tabidokuc 強く売りたい 2013年1月21日 22:02

    >>3887

    日本航空労働組合で徘徊する、淫行の帝王・糸山英太郎の愛人とは!

    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1009205&tid=9205&sid=1009205&mid=166336

    平成14年6月4日、私(糸山英太郎)は還暦60歳の誕生日を迎えた。

    その日の午後6時から、東京・お台場にあるホテル日航東京で、これまで

    お世話になった方、これからご迷惑をおかけするかもしれない方、およそ1

    000人を招待して、新日本観光の創立70周年と、湘南工科大学就任21

    周年を記念する祝賀会を開催した。

    自民党の古賀誠前幹事長と甘利明筆頭幹事長らから祝辞をもらったうえ、親

    しくしている石原慎太郎東京都知事からもお祝いのビデオメッセージ

    が届いた。

    パーティー終了後、同じ会場で日本航空システム(現・日本航空)の特別顧

    問就任に関する記者会見を開いた。

    私の特別顧問就任は、いわばJALとの長い長いケンカの果ての、最終的な

    “落としどころ”でもあった。

    平成14年5月27日、JALの兼子勲社長と新町敏行専務(いずれも当

    時)が、ザ・イトヤマタワー17階に私を訪ねてきた。

    兼子社長からはそれまで何度も面会依頼があったが、何かと理由をつけて断

    っていた。しかし、それにも限界がある。

    「そろそろ話しを聞くべきだろう」

    兼子勲、昭和35年JALに入社、以来一貫して労務・監理部門を歩いた典

    型的なJAL官僚だ。

    平成10年6月に社長に就任した直後には、このザ・イトヤマタワーに私を訪ね、

    「どうか私が在任中は筆頭株主でいてください。絶対に迷惑はおかけしませ

    ん。そして、大所高所からのご意見を賜りたい」

    と、殊勝なことを言っていたものだ。それが、就任2年目ごろから社長の椅

    子の座り心地が気に入ってきたのか、私の意見を聞くどころか、相談にさえ

    来なくなっていた。

    そんな兼子社長だが、私が公式ホームページを通じて発信していたJAL関

    連の記事を、秘書を使って丹念にチェックさせていたというから、よほどこ

    ちらの動きが気になっていたのだろう。

    一方、私はといえば、彼らが何をしようとしているのか、まるで手にとるよ

    うにわかっていた。

    特段の策を弄さなくても、居ながらにしてJALの内部情報が自然と私のも

    とへ集まるようになっていたのだ。

    これはもう時効だから書くが、実は当時、私がつきあっていたガールフレン

    ドの一人にJALの客室乗務員がいた。

    手の内を言ってしまえば、その彼女が5つあるJALの労働組合のうちの一

    つの幹部だったのだ。

    もちろん名前を明かすわけにはいかない。

    あるときその組合幹部の彼女に、

    「俺はJALの大株主なのに、どうしておまえのところの社長」は俺に挨拶

    に来ないんだ?」

    と聞いたことがあった。すると彼女はこう言ったのだ。

    「うちの会社は育ちがよくてお高くとまっているから、先生みたいな人が

    何を言っても相手にしないんですよ」

    この言葉には“カチン”ときた。私みたいな人とは、どういう人だ・・・。

    ようし、わかった。

    やってやろうじゃないか。

    育ちがいいか、お高いのかは知らないが、おまえの会社の社長が俺のところ

    へ来るようにしてやろうじゃないか、てな具合である。

    (『ケンカ哲学』糸山英太郎 河出書房新社)

    続く