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(株)スターフライヤー - 株価チャート

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    vix3 強く買いたい 5月27日 08:37

    9206  スターフライヤー
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    四季報オンライン更新

  • 【これで最後らしい。】

     「この10年間わが社は、くつろぎのサービスを強みに、立ち位置を築いてきた。アクセントは変えても、大方針を変えてはダメだ。そこに新たなスターフライヤーらしさを見つけるんだ」
    PTに再考を促した。原点を重んじながら、進化をとげる-。松石の成長戦略だ。スターフライヤーの原点には、拠点の北九州も含まれる。
     「飛行機が飛ぶのは揚力ではありません。この年齢になって初めてわかりました。お客さまがいてこそ飛ぶんです」
    新たな制服を発表した3月のセレモニーで、松石は工学部出身らしい言い回しで、会場の笑いを誘った。目の前には、スターフライヤーの創業を支援した地元関係者250人がいた。「24時間運用の特性を生かして、北九州空港をいつか、海外からお客を呼び込む九州の窓口としたい。それが、会社の10年を見守ってくれた北九州への恩返しとなる。次の10年を見据えて手を打つ。それが私の役割だろう」
     松石はこう、自分に言い聞かせている。

  • 【【九州の礎を築いた群像】(5)次の10年へ 「大方針変えず手を打つのが私の役目」】
    国際定期便 復活の夢 

     5月の大型連休、黒い機体が台湾の桃園空港に到着した。連休中、北九州と台湾の間を計3往復するスターフライヤーのチャーター便だ。台北の空港では、消防車が放水のアーチで到着を歓迎した。こうしたセレモニーは、定期便就航の際によく行われるが、チャーター便では珍しい。
    「そこまでやってくれたのか」。社長の松石禎己(62)は、台湾での歓迎ぶりを聞き、頬を緩めた。直前の4月、熊本地震が発生した。家屋の倒壊や土砂崩れなど、被害の映像は、台湾など海外にも流れた。九州の旅館・ホテルは団体客のキャンセルが相次いだ。松石は搭乗者数を心配した。だが、キャンセル客はほとんどなかった。3往復のうち2往復は、ほぼ満席となった。チャーター機で北九州空港に到着した観光客は、そこから大分・由布院や長崎・九十九島など、九州各地の観光地に出かけ、九州旅行を満喫した。

     「台湾のお客さまも黒の機体や、広いシート間隔に驚いていました」「お客さまから『サービスは洗練されており、心地よい。さすが日本で(顧客満足度)一番だ』と言われました」客室乗務員のこうした報告に、松石は手応えを感じた。スターフライヤーは今、チャーター便に力を入れている。

     保有機体の稼働率を高め、採算を改善する目的だ。平成27年度は、韓国との間で計38本のチャーター便を飛ばした。初めての台湾とのチャーター便も、目前の狙いはあくまで、保有機材の稼働率アップだ。だが、松石はチャーター便を通じて、将来の国際定期便の可能性を探る。
    スターフライヤーは24年7月、北九州-韓国・釜山の定期便を新設した。国際定期便は起業以来、初めての試みだった。その後のアベノミクスによる円安効果もあり、訪日客は増加した。スターフライヤー釜山線の乗客数も、徐々に伸びた。
    ところが、リースしていた航空機の返却にかかる費用が想定以上に高くなり、会社は25年度に30億円の最終赤字を計上した。再生には経営合理化が欠かせない。筆頭株主となった全日空の意向もあり、釜山線は26年3月に運休となった。唯一の国際線取りやめは、希望退職者の募集とともに、スターフライヤーの苦境を、内外に強く印象づけた。

     それだけに松石ら経営陣は、会社再生のシンボルとなる国際線復活を夢見る。

     経営効率化と原油価格の下落を背景に、27年度は過去最高となる25億円の最終黒字を達成した。業績のV字回復によって、29年~32年度に向けた投資資金も、27億円から39億円に積み増しできた。「全日空だって、国際線の赤字脱却に昭和61年の就航から18年もかかった。長期的な経営安定のために、もう一度、国際線に挑戦したい」

     松石は、30年度末に導入する新機材の就航先として、国際線も選択肢に入れる。スターフライヤーが使用するエアバス「A320」の航続距離は5500キロだ。本拠を置く北九州空港からは、中国や韓国、台湾、東南アジアの主要都市をカバーできる。「今は国内5路線だが、どこに何便飛んでいるか、何機の機体を保有しているか、即答できないほど大きな会社にしよう」

     松石は社内にこう語りスターフライヤーが再び上昇するには、規模拡大と同時に、中身の充実が欠かせない。松石が考える中身の充実とは、これまで磨いてきたサービスのさらなる充実であり、新たな「スターフライヤーらしさ」の創造だといえる。今年3月16日、北九州市門司区の「門司赤煉(れん)瓦(が)プレイス」に、新しい制服に身を包んだスターフライヤーの客室乗務員の姿があった。
    就航10年の記念セレモニーの会場で、12月に導入予定の新制服を披露したのだった。
    スターフライヤーの客室乗務員といえば、黒と白を基調にしたパンツルックだった。就航当時は業界初の取り組みで注目を集めた。だが、肝心の乗務員からは異論もあった。「お客さまとしゃがんで話すには、スカートの方が動きやすいんです」経営陣はサービス向上の観点から、制服一新に踏み切った。パンツスーツにスカートを加え、カットソーやベスト、ワンピースなど、上下9通りのパターンから乗務員が選べるようにした。さらにスターフライヤーは4月、30年度に導入する機材の客室仕様を検討するプロジェクトチーム(PT)を設立した。PTの議論では、座席の間隔を詰めて、座席数を増やす案も浮上した。座席数を増やせば、1回当たりの飛行の乗客が増えるかもしれない。
     だが、松石の考えは違った。

  • この出来高では、株価は関係ないですね。塩漬けされて、売り手も買い手もいないようです。待つべきか 諦めるべきか

  • 出張の時に使える優待の旨味が無ければ持っている意味がない株、今のところ出張費浮くから有難い。
    とはいえ、もう少し国内路線を増やしてほしい所ではある。

  • 【熊本地震の寄付マイル数】
    18日時点330万マイルだから330万円の寄付かー。今の会社の規模からしたら相当なもんだねー。

  • 【下げ止まらない】
    毎日よく下がりますねえ..さすがに付き合いきれなくなってきました。そろそろ切ろうか迷うところです。

  • 【その4-2】

     「ここには熟練の経験者もいる。今さらレストランの人に、サービスのイロハを教わることはないだろう」

     視線の先にいる女性店長は、黒の長ズボン姿だった。格好は洗練されていたが、店員や常連客から「おかみさん」と呼ばれ、家庭的な雰囲気に包まれていた。

     これこそ、松井がスターフライヤー社員に、植え付けたいものだった。

     「見た目はクールだが、人のサービスは温かい。デザインとおもてなしの融合を、スターフライヤーの特徴にしたい」

     松井の意思は、徐々に浸透した。客室乗務員は、サービス内容を決めようと、会議を繰り返した。

     先頭に立った一人が、客室サービスグループ長の渕けい子=現・CS推進部担当部長=だった。

     渕は全日空の客室乗務員として、昭和61年の成田-米ワシントン便の初便に搭乗した経験を持つ。ベテラン中のベテランだ。全日空退社後は、客室乗務員を目指す専門学校の非常勤講師を務めていた。

     そんな渕に、堀は「ほかの航空会社と違うからスターフライヤーが存在する意味がある。それを体現するサービスを創ってほしい」と語った。松井も「どんなサービスも、一手間をかけましょう」と依頼した。

     渕は2人の言葉を軸に、機内で提供するサービスを考えた。

     東京-北九州の飛行時間は1時間40分となる。この時間内に、100人以上の乗客の性格や、その日の調子を把握し、それに見合ったサービスを提供したい。

     渕らは出発時のイヤホンの手渡しサービスを思い付いた。搭乗するお客、一人一人に手渡しすれば、客の雰囲気や性格も、ある程度わかるだろう。

     提供する飲み物にもこだわった。大手コーヒーチェーン「タリーズコーヒー」と契約を結び、チョコレートも1個添えるようにした。

     松井や渕が植えたサービスの種は、スターフライヤーの評価を高め、花を咲かせた。

                     × × ×

     とはいえ、航空業界は社員の入れ替わりが激しい。創業時を知る客室乗務員も少なくなった。松井氏のデザイン会社との契約は切れ、堀は退社した。

     渕は、スターフライヤーならではのサービスが続くか懸念した。経営が厳しくなる中で、コーヒーをのぞく一部のドリンクは、コストを切り詰め、提携先の全日空と同じものを使うようになった。

     27年の冬。渕は上司から、客室乗務員のおもてなし指針の変更を促された。

     指針は、就航前に渕が作ったものだ。「仕方ない」とあきらめながら、乗務員の指導教官に相談すると、彼女たちの意見は違った。

     「変更すべきではありません。10年続く、スターフライヤーのサービスの根幹です」

     渕は腹をくくった。

     「創業の時の思いは根付いている。それを引き継いでいこう。それこそがスターフライヤーのDNAなんだ」

     温かいサービスを軸にするのは、経営陣も変わらない。

     27年11月、3代目社長、松石禎己(63)は盾を手に、晴れやかな表彰式の舞台にいた。

     日本版顧客満足度指数(JCSI)の「国内航空会社部門」で、スターフライヤーがナンバーワンに輝いた。しかも7年連続の快挙だった。

     JCSIは、日本生産性本部が中心となって21年度に始まり、顧客満足度に関する国内最大規模の調査といえる。

     松石は「スターフライヤーが力を入れてきたホスピタリティーで、これからもお客に選ばれていくんだ」と胸を張った。(敬称略)

  • 【その4-1】
    【九州の礎を築いた群像 スターフライヤー編】(4)デザイン 「見た目はクール サービスは温かく」 顧客満足度7年連続ナンバーワン
    座席も黒で統一されたスターフライヤーの機内
     「初めて、機体の絵を見たときは『黒なのか!』と驚いた。聞いたこともない。座席もカーペットも真っ黒だ。なんてこった…。でも、今この飛行機を見れば、誰もが素晴らしいと思うだろう」

     2005(平成17)年末、フランス南西部の都市、トゥールーズにある古城の一室に、航空機メーカー、エアバス幹部の声が響いた。

     トゥールーズには同社の本社がある。スターフライヤーが使用する機体「A320」1号機の受領パーティーだった。

     機体全面を黒に塗装した旅客機は、世界でも例がなかった。飛行中に太陽の熱を吸収し、計器に異変を起こしかねないこともあった。だが、最大の理由は、誰もが先入観にとらわれ、思いつかないからだった。

     その常識を打ち破ったスターフライヤーの機体は、塗装などを担ったエアバスだけでなく、高い評価を受けた。

     スターフライヤーの機体やロゴなど一連のデザインは、日本デザイン振興会の「グッドデザイン賞」を受賞した。

     スターフライヤーが黒を採用したきっかけは、北九州市を仲介にした1人のロボットデザイナーとの出会いだった。

                     × × ×

     平成16年秋。就航が1年半後に迫り、慌ただしい堀高明(67)に、北九州市企画政策室長の片山憲一(63)=現北九州エアターミナル社長=が、ある提案をした。

     「北九州はデザインに力を入れています。最先端のとがったデザインで勝負しましょうよ。JR九州の特急『ソニック』は、(工業デザイナーの)水戸岡鋭治さんが手がけて、首都圏でも知られるようになったし、TOTOのトイレもデザインが付加価値になってるんです」

     北九州市は、新たな地元企業となるスターフライヤーの起業を支援しており、片山が担当だった。

     堀は片山の提案に頷いた。機体やロゴ、備品にいたるすべての企業デザインを、1人のデザイナーに任せようと考えた。

     ただ、資金繰りは厳しい。有名デザイナーに何億もの金を出すことはできない。

     市が主宰する工業デザイン講座「北九州デザイン塾」の講師を通じて、ロボットデザイナーの松井龍哉(47)を紹介された。

     松井は32歳で独立した業界の注目株だった。デザインしたロボットは、全日空のCMキャラクターや、宇多田ヒカルの音楽ビデオに採用された。

     松井は快諾した。新たに誕生する航空会社の、あらゆるデザインを一貫して手がけるのは、デザイナーとして新たな挑戦であり、心が躍った。

     松井の意気込みは、堀らの想定を超えた。

     パソコンの前でまさに寝食を忘れて、マウスを握りしめた。海外の1千以上の機体を調べ上げ、デザイン案を作成した。

     「一発勝負だ。これでこけると、デザイナーとしてのキャリアに、大きな傷がつく」

                     × × ×

     1カ月後。松井はデザイン案を披露した。市内にあるスターフライヤー本社の会議室で、数十人の経営陣や社員が固唾をのんでスクリーンを見つめた。

     松井は3つの機体デザインを、順々に映し出した。

     最初は赤や黄、緑、青、オレンジがちりばめられた華やかな柄。次にクリーム色を、茶色の曲線で縁取ったもの。最後に、真っ黒の機体を示した。

     「全ての色を混ぜれば黒になる。究極の色です。企業の『独自性』を訴えるには、言葉だけでは理解されない。どこにもないこの色こそ、ほかにはない機体が作れます」

     堀は迷わず黒を選択した。思い描いていた航空会社像にピッタリだった。

     計器への影響は、熱を吸収しにくい特殊な塗料を使うことで解決しようとした。エアバス技術陣は検査を繰り返し、安全性に問題はない水準に高めた。

     乗客がひざにかける毛布、スリッパ、えんぴつ、いす-。松井は精力的に1千を超えるデザインを仕上げた。

     機体の差別化の方針は決まった。次はサービスの差別化だった。

     堀は、真心のこもった接客で差別化を図ろうと考えた。それまでの大手の客室乗務員の接客に、どこか高圧的な姿勢を感じていたからだった。

     サービスも企業ブランドだ。堀は松井に、「おもてなし」の監修もするよう依頼した。

                     × × 

     「東京から北九州へは、飛行機で2万円かかりますよね。都内の高級店でフランス料理を食べるときも同じです。同じ金額では、このようなサービスになります」
     平成17年の初め。松井は東京・西麻布のレストランで、スタッフのサービスを示してこう語った。席にはスターフライヤーの客室乗務員らがいた。

     社員は皆、納得いかない様子だった。

  • 54

    glo***** 売りたい 5月12日 15:19

    まさにジリ貧
    高値掴みした人々が諦めて手放さない限り、いつまでも上昇気流は起きないのかも
    この期に及んでナンピンして傷口を広げることがないように祈ります
    なーむあーみだーんぶ

  • 【第3話その2】
    日本市場ではボーイングが、エアバスを大きくリードしていた。しかも全日空や日本航空が使っていたエアバスの機体は、更新時期が近づいていた。エアバスにとって、下手をすれば、日本市場から退場せざるを得ない状況だった。「何としても日本市場に橋頭堡(きょうとうほ)を確保しておきたい」。武藤の作戦は、エアバス側の危機感を突き、「クレジットメモ」を獲得した。GECASから、A320を3機リースすることが決まった。だが、離陸したスターフライヤーに、猛烈な向かい風が吹く。

     最大の逆風は、原価のほぼ4分の1を占める燃料費の高騰だった。
    第一便が飛んだ年の10月、石油輸出国機構(OPEC)は総会で、原油の減産を決めた。それでなくても原油は高止まりしていた。ニューヨーク原油先物相場の米国産標準油種(WTI)は、堀が創業した平成14年は1バレル=20ドル台だったが、18年は60ドルまでになっていた。OPECの決定が引き金となり、原油価格は天井知らずの上昇を続けた。
    「世界情勢で決まる話だからしようがない。山手線の混雑を怒っても、しようがない。それと同じだ」

     さすがの堀も、ぼやくことしかできなかった。
    加えて、日本有数の混雑空港となった福岡空港で、“価格破壊”が起きた。
    北九州空港開港とスターフライヤー就航に合わせて、スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)が、福岡-羽田の運賃を大幅に下げた。日本航空も追随し、両社は片道1万2千円(1週間前予約)という価格を打ち出した。

     同じ1週間前予約でも、スターフライヤーの北九州-羽田は1万7800円だった。福岡空港から客を奪い取るどころではなかった。

     さらに、スターフライヤーのビジネスモデルの肝といえる早朝深夜便の不調が続いた。搭乗率は目標の5割に対し、半年後も4割にとどまった。

     深夜早朝に羽田空港を行き来する交通手段が不十分で、利用者が深夜早朝を避けていた。やむなく堀は18年11月、北九州発の最終便と羽田発の始発便の運休を決めた。

     スターフライヤーは18年度に14億円、19年度も15億円の最終赤字を計上した。「初年度から黒字化」は遠い目標だった。

               

     堀ら経営陣も、予想外の出来事に立ち尽くしていたわけではない。
     「機体のおなかを使いましょう。貨物室のスペースを丸ごと売れないだろうか」苦境の中、武藤が経営会議でこうぶち上げた。機体の手荷物室を活用し、荷物を運ぼうというプランだった。
    とはいえ、自前で貨物事業に乗り出せば、専用の社員や施設を用意しなければならず、利益を出すことは難しい。
     「適切な提携先があればよいのだが…」堀は考えあぐねた。そこに朗報が入る。
    「福山通運が航空貨物に力を注ごうと考えている。話をつないでもいい」
    旧知の米大手航空会社の貨物事業担当者から、連絡が入った。
    武藤は福山通運社長の小丸成洋(66)と交渉した。トントン拍子に話が進み20年8月には、具体的な事業計画ができた。通信販売会社の商品や電子機器、書類、衣料品などを1便3トン、1日合計66トン輸送するというものだった。
    福山通運との提携は、年数億円の収入となった。
    20年度決算で、6900万円と1億円に満たない数字ではあるが、初の営業黒字を計上した。
    ようやく上昇気流に乗ったかに見えた。だが、堀には時間がなかった。
    「本意ではありませんが、辞めようかと思います。最終利益も出せず、平成20年度に予定していた上場もできませんでした。北九州には迷惑をかけてしまいました」
     21年春。堀は頭を下げた。相手は、北九州商工会議所の会頭で、元TOTO社長の重渕雅敏(80)だ。
     重渕はスターフライヤー創業の恩人だ。出資説明会の壇上に自ら立ち、スターフライヤーへの協力を呼びかけてくれた。その後も資金が尽きかける度に、堀は重渕に増資を相談した。
     その恩人に、辞任の報告をせざるを得ない。堀は申し訳なさでいっぱいだった。重渕の表情を伺うこともできなかった。「始めたばっかりだから赤字を出すのは仕方がないだろうに…。数年後にまた、戻ってきなさい」重渕は、こう声をかけた。
    就航前の17年、スターフライヤーが増資した際、米国のベンチャーキャピタルが出資に応じた。この会社はスターフライヤー20%の株式を握り、筆頭株主となった。投資会社は、配当や上場によるキャピタルゲインで利益を上げる。彼らの目から見れば、計画通りの黒字達成も株式上場も果たせない堀は、経営者として失格だった。経営陣の刷新を要求した。
    就航からわずか2年半。スターフライヤーに協力してきた北九州市の関係者からは、「大目にみてはどうか」と擁護する声も相次いだ。だが堀は、筆頭株主ともめることを懸念して、退社を決めた。武藤ら創業メンバーも会社を去った。(敬称略)

  • 【第3話】
     ■「貨物室スペースを丸ごと売ろう」 早朝深夜の“低空飛行”続く

     黒の機体がゆっくり動き出す。コックピットで機長が左こぶしを上げた。滑走路の端から徐々にスピードを出し、機体は轟音(ごうおん)とともに、雨空へ飛び立った。
     平成18年3月16日午前7時過ぎ。新たに完成した北九州空港から、スターフライヤーの第一便が離陸した。関係者から、歓声と拍手が湧き起こった。

     もちろん、創業社長の堀高明(67)も、そこにいた。

     「いよいよ、これからです」

     コメントを求める報道陣に、そっけないほど短く答えたが、胸中は達成感でいっぱいだった。

     「飛ばない、飛ばないといわれ続けたが、ここまでこぎ着けた。第1段階はうまくいった」

     一瞬笑みを浮かべ、そして表情を引き締めた。

     スターフライヤーは、日本エアシステム(後に日本航空に吸収合併)出身の堀をはじめ、全日空など大手航空会社に籍を置いた6人が中心となって創設した。

     狙いは、さまざまな規制に守られてきた業界の常識を打ち破り、新たな航空サービス、航空会社像を確立することだった。

     国の飛行事業認可を取得し、整備士やパイロットら人材も確保した。17年9月には、東京・羽田空港の発着枠を、昼間9枠・深夜早朝帯3枠を獲得した。北九州-羽田を1日12往復するシャトル運航が実現に近づいた。

     一地方空港が、開港と同時にドル箱路線の羽田便を10便以上持つのは、極めて珍しい。背景には、堀らの努力に加え、北九州経済の潜在力があった。

     北九州にはTOTOや安川電機など、ものづくり企業が集まる。近隣の大分、山口県の一部を含めれば、年間200万人が、東京との間を移動している。大半は新幹線や福岡空港を利用していた。

     スターフライヤーは、こうした人々を取り込むことで、年間搭乗者100万人を目指した。事実上の初年度にあたる18年度黒字を見込んだ。

                     × × ×

     多くの新興航空会社が、遅れや欠航を繰り返す中で、スターフライヤーの滑り出しは順調だった。

     18年度の定刻15分内に出発する「定時出発率」は93・7%で、全日空や日本航空と同水準だった。計画通りに飛んだ割合を示す「就航率」は、99・2%で国内トップに立った。多くの関係者は、その数値に目を見張った。

     だが、堀たち経営陣にとっては、当然の帰結だった。その理由は機体にあった。

     巨大な航空機の購入費用は、1機当たり100億円前後もする。新興企業に出せる金額ではない。そこで、機体をリース会社から「賃借」する。

     スターフライヤーの経営会議では、リース対象を新規機体にするか、1~3年使用した「新古機」にするかの両案が出た。当然、新古機の方が安い。だが、堀は新規機体を選んだ。

     「われわれのビジネスモデルは、シャトル運航で1機当たりの稼働時間を増やすことにある。中古の機材ではもたない。高い“買い物”だが、無理しても新造機のリースで行こう」

     中古機材は過去、どんな整備が行われていたか詳しく調べ、参考にしなければならない。それには大がかりな点検が必要で、時間や人材も足りない。

     さらに、機体の性能もあった。有力候補に上がっていた欧州エアバスの小型旅客機「A320」(170席前後)は、搭載する電子機器の水準が急速に進歩していた。数年の違いとはいえ、新しい機材が、望ましいのは明らかだった。

     堀は全日空出身の常務、武藤康史(62)にリース契約の交渉を任せた。

     武藤は、全日空の昭和61年の国際線進出を、経営企画の部署で担当した。社費でハーバード大留学も果たした企画畑のエースだった。機材の購入経験もある。早速、米GEキャピタル・アビエーション・サービシズ(GECAS)を軸に、リース交渉を始めた。

     新規機体を借りることは決めたが、経費が抑えられれば、それにこしたことはない。

     武藤は腹案があった。

     リース会社を飛び越して、航空機メーカーとの直接交渉だった。正確にいえば、エアバスの日本法人と、米ボーイングの代理店商社に、ある商談を持ち掛けた。

     「私たちに、メーカー側からクレジットメモを出してもらえないだろうか」

     「クレジットメモ」は、メーカーが購入者に発行する書類で、後に航空機の部品調達などに際して、割引などの“特典”がある。本来、機体を借りる航空会社には縁のないものだ。

     「クレジットメモがあれば、機材の維持費用を抑えることができる」

     こう考えた武藤の脳裏には、ボーイングとエアバスの日本におけるシェア争いの図式が浮かんでいた。

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