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(株)スターフライヤー【9206】の掲示板 2016/01/30〜2016/04/14

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  • 2016/04/14 22:48

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掲示板のコメントはすべて投稿者の個人的な判断を表すものであり、
当社が投資の勧誘を目的としているものではありません。

  • 片山は、羽田の便数を増やすには、北九州空港を拠点とする新たな航空会社しかないと考えた。

     だが、航空会社設立に名乗りを上げ、市に出資を依頼してきた業者の多くは、片山の質問にも満足に答えられなかった。市の金で「一山当てよう」と考える山師のような人間が含まれていた。

     そんな最中に、堀が片山に面会を申し込んだ。

     さすがにプロだった。堀の計画は、深夜早朝も飛ばし、1機当たりの飛行時間を増やすことで、コストを低く抑えるというものだった。24時間空港を目指す北九州空港ならばその条件が当てはまる。

     しかも堀の周囲には、全日空出身の武藤康史(62)ら航空業界のノウハウを持つ人間が多かった。

     実は堀は北九州と無縁ではない。日本エアシステム時代、定期便就航を目的に、旧北九州空港の滑走路延長を働きかけ、実現させた経験を持つ。市の新空港担当部署に知人も多い。

     堀との面会を終えた片山は市長室で進言した。

     「末吉さん、この航空会社は資金さえ集まれば成功すると思います」

     末吉の脳裏にあったのは、日航や全日空による路線だった。

     「信じてよいのか?。大手航空会社の印象を悪くしないだろうか…」

     末吉は一瞬考えをめぐらすと、片山に「企業誘致」名目で、堀の支援担当を命じた。

     肝心の名称が「神戸航空」のままでは具合が悪い。堀は社名をスターフライヤーに変えた。

     夜光る星「スター」に24時間運航の思いを込め、ライト兄弟の飛行機「フライヤー号」をもじった。


     片山は、企業を堀に紹介し、ともに出資を頼んで回った。航空会社設立には60億円もの資金が必要とされていた。

     堀も、ただ待っていただけではない。

     株主優待制度としてチケットを割安で購入すれば、社員の出張費を軽減でき、出資金も数年で回収できると訴えた。

     16年3月末、第1弾として、北九州都市圏の主要企業5社から、2億1千万円の出資を受けた。この実績が国土交通省に認められ、羽田空港発着枠の分配に手を挙げることができた。

     TOTO会長の重渕雅敏(80)はその年の11月、北九州商工会議所会頭に就任すると、自ら市内の会員企業に出資を打診した。会員企業を集めて、説明会を開くほどの力の入れようだった。

     北九州市の政財界には、大きな期待を寄せるわけがあった。

     四大工業地帯といわれたのは遠い過去。昭和38年の5市合併時点で100万都市だった北九州は、鉄冷えによって、どんどん人口が減少した。企業流出も相次ぎ、日銀北九州支店の移転の動きさえあった。

     市長の末吉、そして経済界の首脳は、北九州没落の原因の一つとして、空港の不便さを挙げていた。

     もともと北九州地区は、製鉄業に加え、陸路と海路における九州の玄関口として、隆盛を誇った。

     だが戦後、経済圏の拡大に伴い、交通・物流の主役は空に移った。市内には滑走路1600メートルの小規模な北九州空港しかなかった。対して、福岡市は中心部からわずかな距離に滑走路2800メートルの大空港がある。

     北九州市は、起死回生の一手として、沖合に新北九州空港建設を進めた。ただ、ハードを作っても、飛行機が飛ばなければ、無用の箱物に終わる。

     堀にとって夢であるスターフライヤー構想は、北九州にとっては、極めて現実的な要望に添ったものだった。

     市内からは中小企業も支援に手を挙げた。資本金が500万円程度のある印刷会社は1千万円を出した。

     北九州市も17年度予算で、スターフライヤーに10億円の補助金を計上した。

     だが、北九州だけでは足りなかった。

     北九州発祥のゼンリンを全国企業に育てた大迫忍(1945~2005)は、福岡都市圏に手を伸ばした。

     製造業の街・北九州と、商業都市・福岡。同じ県とはいえ、両市の間には、微妙な反発があり、これまで同じプロジェクトを協力して行った経験は、ほとんどなかった。

     大迫は、九州の発展には北九州・福岡両都市圏の連携が欠かせないと考えていた。“断交状態”だった両市の経済界の交流を進め、福岡財界に太いパイプがあった。

     大迫はスターフライヤーについて、九州電力など福岡市の主要企業で構成する「七社会」に働きかけた。

     そして、堀にこう言った。

     「彼らは、口に出さないけど、裏でOKをもらっている。お前はあいさつに行き続けろ」

     堀は大迫に頭を下げた。だが、スターフライヤーに協力してくれた大迫は病に倒れ、17年6月に死去した。59歳だった。七社会は同じ年の9月、5億円を出資した。

     堀は胸中で大迫の冥福を祈り、誓った。

     「海外と同じように、飛行機をホテル代わりに使ってもらうような航空会社を作ります。将来は24時間飛ばして、世の中を変えてみせます」(敬称略)

  • ■「新しい航空会社で世の中を変えてやる」 出資に込められた地域の願い

     「今までの航空会社とは違う新しいスタイルを始めたい。午前5時30分から翌日午前1時15分まで運航します。足を組んでも苦にならない座席間隔です」

     平成18年1月16日、品川プリンスホテル(東京都港区)で、北九州空港を拠点とするスターフライヤーの航空券発売の記者会見が開かれた。就航まで残り2カ月。創業社長の堀高明(67)は、既存の航空会社との違いを強調した。

     堀の説明は、驚きをもって受け止められた。

     シートは全席本革製。電源コンセントに液晶モニター、足置きが備えられた。座席間隔は、他社の機体に比べて10~20センチ広い。空港の搭乗待合室や受け付けカウンターに至るまで、機体と同じ黒色で統一した。

     しかも運賃は大手航空会社より2割程度、安く設定した。

     その秘密はシャトル運航にある。3機で1日計12便運航することで、1便当たりの空港従業員の人件費など固定費の負担を減らし、低価格を実現した。

     記者会見中、堀はふと、目の前に飾った航空機の模型に目を落とした。

     「大手の寡占に一石を投じる」

     そんな野心とともに、北九州という街への感謝の念がわいた。「地元の思いを大事にした経営をしなければならない」

     スターフライヤーは、地元企業の支援なくしては存在しなかった。TOTOや安川電機など有名企業から、資本金が1千万円に満たない110以上の中小・零細企業まで、計43億円を出資した。そこには、北九州活性化への願いが込められていた。

                     × × ×

     8年11月、旅行代理業「エイチ・アイ・エス」創業社長、沢田秀雄(65)=現会長=が、新規航空会社「スカイマークエアラインズ」(現スカイマーク)を設立した。定期旅客便を飛ばす航空会社の新設は、実に35年ぶりだった。

     北海道国際航空(現エア・ドゥ)やスカイネットアジア航空(現ソラシドエア)も名乗りを挙げた。

     背景には規制緩和があった。日本では戦後、航空産業の発展を目的に、国主導の航空業界の再編と、厳しい規制があった。例えば、ある路線につき運航事業者を「最大3社」と制限していた。

     このため航空業界は全日本空輸、日本航空、日本エアシステム(18年に日本航空に吸収合併)の3社による寡占が長く続いた。航空産業は大きくなったが半面、航空運賃は高止まりし、サービスもマンネリ化した。

     政府は、規制緩和を求める国内外の声に押され、こうした制限の撤廃に着手した。羽田空港の発着枠も優先的に新興航空会社に与える優遇策を打ち出した。

     新興航空会社は優遇策を追い風にした。ただ、各社とも就航時の保有機体は少なく、知名度の低さに苦しむ。大手の値下げもあって、新規参入組の業績は悪化した。

     管制の仕組み、機材の発注、予約決済システム、許認可権をもつ国との折衝など、航空業界の専門的なノウハウにも欠けていた。

     堀は、この“低空飛行”をもどかしい思いで見ていた。

     堀は業界3番手の日本エアシステムに勤めていた。自治体や国との折衝を担い、業界の人脈もある。

     「これからは、個性のある新しい航空会社が必要なんだ。俺たちなら、他社と同じ轍(てつ)は踏まない」

     13年夏、創業を決意した。堀は当初、17年度の開港を控えた神戸空港での参入を考えた。52歳だった。

     14年12月17日、「神戸航空会社」を創業した。ライト兄弟が人類史上初めてとされる飛行機を飛ばした日からちょうど100年目。航空業界にとって特別な日だった。

     ただ、神戸空港を本拠にという構想は、頓挫した。空港管理者の神戸市の目は、大手2社に向けられていた上、別の新興航空会社の就航も決まっていた。堀が望んだ24時間運用も実現しない。

     失意の堀の目に、北九州沖に建設中の空港が映った。


     北九州市企画政策室長の片山憲一(63)=現北九州エアターミナル社長=は同じ頃、一抹の不安を感じていた。

     北九州市長の末吉興一(81)=現アジア成長研究所理事長=は昭和62年の初出馬以来、地域経済浮揚のカギとして、新空港整備を掲げた。

     その新空港が17年度、周防灘を埋め立てた人工島についに開港する。

     だが、全日空や日航は、保有する羽田空港の発着枠を北九州路線に振り分ける考えはないようだった。

     地方と羽田を結ぶ東京線は航空会社にとってドル箱路線だ。だが、羽田空港の発着枠は各航空会社に割り振られている。数に限りがある。この発着枠を、これまで空港がなく、市場規模も見えない北九州に振り分ける余裕はない。

  • この板の薄さでは、売りようも買いようもないですよ。高値掴みした人達が買い煽っているだけのようです。この出来高では、値段は関係ないと思います。

  • 27年1月1日を迎えた。ふだんビジネスマンらの会話が飛び交う北九州空港の搭乗待合室に、ビオラなど弦楽四重奏の生演奏と、美しい歌声が響いた。初日の出フライトの招待客33組の前に立ったのは、大学で声楽を学んだ客室乗務員(CA)や副操縦士らだ。

     福岡・天神の人気店のパンもサービスした。社員自らがパンを袋詰めし、経費を節減した。

     機体は鹿児島・桜島への周遊飛行に離陸した。機中では、乗客の家族や恋人、友人からのメッセージを座席前のモニターで映し出した。

     「元気に暮らせるのは家族のおかげです」「お母さん、おばあちゃん、2人のおかげで、ここまでこれました」

     1時間半のフライトを終え、機体が北九州空港に帰ってきた。ロビーであいさつに出迎えた松石を、乗客の一人が抱きしめた。外は厳寒だったが、そこにいた人々の胸の内は温かくなっていた。

     その後も、機内の結婚式など、社員のアイデアから自主企画が次々と生まれた。

     社内に活力が生まれた。原油価格の低下もあり、27年3月期は最終利益4億3千万円と、2期ぶりの黒字転換を果たした。

     松石は、定期国際便の復活を夢見る。地元・北九州の夢でもある。

     「航空会社は華やかな世界じゃないんだ。青臭く、泥臭い努力が必要だ。ノウハウを蓄積し、近い将来、再び北九州から国際便を飛ばそう」

     スターフライヤーに立ち込めていた暗雲を、松石という「晴れ男」が払った。(敬称略)

  • 松石は入社初日、ちゃめっ気たっぷりに、あいさつして回った。だが、社員の表情は暗く、松石の軽口への反応も薄かった。
     「就航から8年しかたたないのに、どうも、覇気がない…」
    松石は、スターフライヤー社員に、“新興”航空会社ならではの熱気を期待していた。だが、社員はよく言えば従順、悪く言えばイエスマンばかりのような雰囲気で、「当事者」としての積極性がなかった。その表情に、松石は見覚えがあった。スカイネットアジア航空(現ソラシドエア)の社員と同じだった。スカイネットは、宮崎市に本拠を置く航空会社として、14年に宮崎-羽田線を開設した。

     だが、知名度の低さから乗客数は伸び悩んだ。使用した中古の機体は故障が相次ぎ、欠航も多かった。
     16年6月、産業再生機構の支援の下、全日空と業務提携して再建を目指すことになった。松石は17年6月、運航管理部門の担当常務に就任した。
    スカイネットは同年8月1日、長崎-羽田線の就航を予定していた。そのための機体は、契約しているルーマニアの工場で整備中だった。

     だが、就航まで1カ月半を切っても、肝心の納入時期について、報告が上がってこない。

     「一体、どうなっているんだ?」
     しびれを切らして、部下に聞いても、「大丈夫です。やっていますから心配しないでください」と気楽な返事が返ってきた。

     どこか他人任せな言葉に、嫌な予感が膨らんだ。調べさせると、案の定だった。南国・宮崎らしく「ヤシの木」を使ったロゴマークの塗装さえ、手つかずな状態だった。
    8月1日に就航するには、最低でも7月29日までに日本に持ち込み、国土交通省などの認定を受けなければならない。

     派遣会社に手配していた機体を日本まで運ぶパイロットも、いつの間にか連絡が取れなくなった。

     スカイネットの社員は、楽天的な発言から打って変わって、早々にあきらめを口にし始めた。

     松石は声を張り上げた。
    「手があるはずだ。ほかからパイロットを見つけられるはずだ。8月1日には必ず就航するんだ。最後までやるぞ!」

     松石は渋る部下を現地に向かわせ、機体整備やパイロット手配などに当たらせた。
    締め切りギリギリの7月29日夕。長崎で就航記念パーティーが開かれた。松石は胸中の不安を押し殺しながら、出席した。
    そこに、機体が、到着したとの連絡が入った。心底ホッとした。8月1日、第1便が予定通り飛び立った。

     この一件をきっかけに、社員の目つきが変わった。前向きな姿勢を示し始めた。すると業績も回復基調に向かう。松石が副社長時代の20年3月期に黒字を達成した。

     「企業は、やはり社員だ。社員が生き生きと働いて、やりがいを感じる環境こそ大事なんだ。スターフライヤーでも、社員が働きやすい環境を整えよう。まずは明るく行こう」
    松石はこう考えた。人前でしゃべるのは苦手でシャイな性格だが、靴磨きのイベントでも、あえて人前に出て、明るい社長像を演じた。


     そんな松石を、全日空からの出向組で取締役執行役員の柴田隆(59)が支えた。

     2人は誰よりも早く出社し、人気のないオフィスで、スターフライヤーの将来について話し込んだ。

     「次の新機体導入は当面先です。今は会社の体を丸める時期です。その間、人材育成に力を入れて、社員が元気よく働ける企業にしましょう」

     全日空で財務畑が長かった柴田は、経営企画本部長として、平成32(2020)年度までの経営戦略の構築を担った。27、28年度は「地盤づくり」と位置づけた。飛び立つ「飛翔期間」は29年度以降だ。

     「会社に長期計画はあるが、社員にとって、自分の働きがどう貢献するのか分かりにくいな」

     柴田は数人規模のミーティングを繰り返し、個々人の役割を徹底させた。

     人材育成の必要性は、松石も痛感していた。

     業績悪化によってスターフライヤーは事実上、全日空の傘下に入った。

     だが、松石はスターフライヤー社員に、自立心を植え付けようと考えた。特に企画力の育成を重視した。

     26年秋、松石は翌年1月1日の「初日の出フライト」を、これまでの代理店ではなく、社員が直接企画するよう命じた。指示した条件はただ一つ。利用者を「無料招待」することだけだった。

     命じられた22人のチームでは、反発するメンバーも多かった。

     「お金を払ってもらえれば、よりきめ細かなサービスをして喜んでもらえるのに…」「事業費150万円作るのに、どれだけ苦労するか」

     メンバーは週に1度、ミーティングを開き、イベントの中身や、経費の捻出のアイデアを出し合った。

     「自分たちスターフライヤーの社員が思っている感謝を、乗客に形にして伝えよう」

     ミーティングを重ねるごとに、そんな思いが募り始めた。

  •  ■「働きやすいように明るく行こう」 

    靴磨きに汗流す社長・松石禎己氏

    「東京で商談ですか。うまくいくといいですね」平成27年4月20日。早朝の北九州空港(北九州市小倉南区)の搭乗待合室で、黒エプロンを着けた男らが、額に汗をにじませながら、ビジネス客の革靴を磨いていた。航空会社、スターフライヤーの社員だ。その中で、社長の松石禎己(63)はひときわ威勢良く、冗談まじりに声をかけた。「ずいぶん使い込んでますね。このまま東京に行ったら、からかわれるかもしれませんよ」靴磨きの立案者は、松石本人だった。羽田空港周辺で、スターフライヤーの便が到着する早朝、靴磨きの店が開いていないことに気付いたからだった。地元・北九州のビジネスマンが、きれいな靴で胸を張って仕事ができるよう、サービスを始めた。靴磨きにいそしむ航空会社の社長の姿は、広くメディアに取り上げられた。スターフライヤーの顧客サービスと知名度の向上に寄与した。だが、松石の真の狙いは別にあった。

    トップである自分が、泥臭いことに取り組む姿を社員に見せることだった。泥臭さは松石の信条だ。スターフライヤーは18年3月16日、北九州-羽田線に第1便を就航した。機体は、黒と白のスタイリッシュなカラーとした。座席は間隔を他社より12~15センチ広くし、革張りシートを備えた。客席数を犠牲にしても、ちょっとぜいたくで心地よい客室を心がけた。機体の運航効率を上げ、日本航空や全日空に比べて割安な料金を設定した。良質なサービスと料金設定で路線拡大にひた走った。

    だが、逆風が襲う。

    スターフライヤーより料金が安いLCC(格安航空会社)が24年以降、急速に台頭した。大手2社も値引き攻勢を仕掛けてきた。
    さらに25年、機体のリース費用が想定を上回り、大幅な赤字に陥った。24年12月に筆頭株主となった全日空の支援を受けて、立て直しを図ることになった。そして、全日空から社長として送り込まれたのが松石だった。松石は運航整備部門のエキスパートだった。機体整備を担当するANAエアロサプライシステムの社長などを歴任した後、全日空を退職していた。ただ、松石の実直で粘り強い性格を、全日空会長の伊東信一郎(65)=現ANAホールディングス会長=は、よく知っていた。だからこそ、松石を指名した。26年3月、まず顧問として着任した松石は、前経営陣が策定した30ページほどの「経営合理化計画」に目を通した。唯一の国際線「北九州-釜山」の廃止や、30人規模の希望退職-。業績回復の道筋が示されていた。「自分と同じ考えだ。特に大きな変更をすることはない。自分の役割は、これをしっかり果たすことだ」松石は納得した表情で計画を閉じた。

     だが、気にかかったことがあった。

  • 取引の手法に名前があるんですね(~_~)勉強になります。
    今思い出したのですが、ここにも、自分の指値のワンティック上に速攻指値いれてくるやつがいました。その上に入れても、被せてくるし、キャンセルしたら、向こうもキャンセルしてくる。
    他でも、板が埋まってない銘柄でよく見ます。
    これ個人のシストレでしょうか?

  • この板ってアルゴうごいてますか?
    最近ざら場見てない…
    あと、前は原油と連動性があった気がするが、いまはないですよねー
    あと、もしかして大株主が売りさばいたりしてないかなぁ?
    株下手なので、聞き流してください。

  • 僭越ながら、このレベルの人たちがもつ銘柄ではないかと。
    まず、当期3Qが減収だったのは事実なので、理解できるというのはいみがわからない。
    当期上期と下期の原油レートを比較すると、一目瞭然で、来期の原油安の影響が上期で終わるのは誰が見てもわかる。販管費と原油レートを一緒に考えるバカはいない。
    また、成長には販管費を、押さえるとあるが、逆である、ある一定の販管費は成長には必要であるが、ストックビジネスではない、当該業界において、トップラインの伸び以上に販管費が増えていることが
    経営努力が、足りないと評価せざる得ないと考える。
    perは企業成長力を、指標であるroeの結果であり、なんら株価を評価する本質的なものではないことはいうまでもないかと。

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