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(株)スターフライヤー【9206】の掲示板 2016/04/15〜2019/09/16

 ■「貨物室スペースを丸ごと売ろう」 早朝深夜の“低空飛行”続く

 黒の機体がゆっくり動き出す。コックピットで機長が左こぶしを上げた。滑走路の端から徐々にスピードを出し、機体は轟音(ごうおん)とともに、雨空へ飛び立った。
 平成18年3月16日午前7時過ぎ。新たに完成した北九州空港から、スターフライヤーの第一便が離陸した。関係者から、歓声と拍手が湧き起こった。

 もちろん、創業社長の堀高明(67)も、そこにいた。

 「いよいよ、これからです」

 コメントを求める報道陣に、そっけないほど短く答えたが、胸中は達成感でいっぱいだった。

 「飛ばない、飛ばないといわれ続けたが、ここまでこぎ着けた。第1段階はうまくいった」

 一瞬笑みを浮かべ、そして表情を引き締めた。

 スターフライヤーは、日本エアシステム(後に日本航空に吸収合併)出身の堀をはじめ、全日空など大手航空会社に籍を置いた6人が中心となって創設した。

 狙いは、さまざまな規制に守られてきた業界の常識を打ち破り、新たな航空サービス、航空会社像を確立することだった。

 国の飛行事業認可を取得し、整備士やパイロットら人材も確保した。17年9月には、東京・羽田空港の発着枠を、昼間9枠・深夜早朝帯3枠を獲得した。北九州-羽田を1日12往復するシャトル運航が実現に近づいた。

 一地方空港が、開港と同時にドル箱路線の羽田便を10便以上持つのは、極めて珍しい。背景には、堀らの努力に加え、北九州経済の潜在力があった。

 北九州にはTOTOや安川電機など、ものづくり企業が集まる。近隣の大分、山口県の一部を含めれば、年間200万人が、東京との間を移動している。大半は新幹線や福岡空港を利用していた。

 スターフライヤーは、こうした人々を取り込むことで、年間搭乗者100万人を目指した。事実上の初年度にあたる18年度黒字を見込んだ。

                 × × ×

 多くの新興航空会社が、遅れや欠航を繰り返す中で、スターフライヤーの滑り出しは順調だった。

 18年度の定刻15分内に出発する「定時出発率」は93・7%で、全日空や日本航空と同水準だった。計画通りに飛んだ割合を示す「就航率」は、99・2%で国内トップに立った。多くの関係者は、その数値に目を見張った。

 だが、堀たち経営陣にとっては、当然の帰結だった。その理由は機体にあった。

 巨大な航空機の購入費用は、1機当たり100億円前後もする。新興企業に出せる金額ではない。そこで、機体をリース会社から「賃借」する。

 スターフライヤーの経営会議では、リース対象を新規機体にするか、1~3年使用した「新古機」にするかの両案が出た。当然、新古機の方が安い。だが、堀は新規機体を選んだ。

 「われわれのビジネスモデルは、シャトル運航で1機当たりの稼働時間を増やすことにある。中古の機材ではもたない。高い“買い物”だが、無理しても新造機のリースで行こう」

 中古機材は過去、どんな整備が行われていたか詳しく調べ、参考にしなければならない。それには大がかりな点検が必要で、時間や人材も足りない。

 さらに、機体の性能もあった。有力候補に上がっていた欧州エアバスの小型旅客機「A320」(170席前後)は、搭載する電子機器の水準が急速に進歩していた。数年の違いとはいえ、新しい機材が、望ましいのは明らかだった。

 堀は全日空出身の常務、武藤康史(62)にリース契約の交渉を任せた。

 武藤は、全日空の昭和61年の国際線進出を、経営企画の部署で担当した。社費でハーバード大留学も果たした企画畑のエースだった。機材の購入経験もある。早速、米GEキャピタル・アビエーション・サービシズ(GECAS)を軸に、リース交渉を始めた。

 新規機体を借りることは決めたが、経費が抑えられれば、それにこしたことはない。

 武藤は腹案があった。

 リース会社を飛び越して、航空機メーカーとの直接交渉だった。正確にいえば、エアバスの日本法人と、米ボーイングの代理店商社に、ある商談を持ち掛けた。

 「私たちに、メーカー側からクレジットメモを出してもらえないだろうか」

 「クレジットメモ」は、メーカーが購入者に発行する書類で、後に航空機の部品調達などに際して、割引などの“特典”がある。本来、機体を借りる航空会社には縁のないものだ。

 「クレジットメモがあれば、機材の維持費用を抑えることができる」

 こう考えた武藤の脳裏には、ボーイングとエアバスの日本におけるシェア争いの図式が浮かんでいた。