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  • 真実は過去。

    世界で多大な影響を与えた人。マルクスとフロイト。

    その二人を同じ次元で論じたのはエーリッヒ・フロム。あの名著『自由からの逃走』の著者です。

    『疑惑と行動;マルクスとフロイトとわたくし;現代社会学叢書;エーリッヒ・フロム著』坂本健二・志賀晴彦共著が面白い。

  • >>12

    『世界史』16節『中世ヨーロッパと日本;1000~1500年。

    中世ヨーロッパとはマクニールによれば、ラテン・キリスト教圏の拡大と、学問・言語・芸術・技術の発展です。

    その当時の日本も世界に派遣を伸ばしたと記しています。415頁からです。
    『辺境の豪族は・・・・自分たち独自の行動の規範や戦士的な理想を発展させ、戦場における勇気や、選んだ指揮官への忠誠や、戦士個人個人の人間的な尊厳などを強調した。』

    『1300年ごろから以後、第3の要素が日本社会で大きく頭をもたげはじめた・・・それは町人と船乗りである。中国人が造船術の大きな改良の先がけをつくり、それをうけて、日本でも大きな発展の道が開けた。羅針盤、自在竜骨、竜骨、竹の細板製の帆の代わりの布の帆、それに一般的に作られる船の大きさや強さがましたことなど、みな中国から日本に伝えられたものである。・・・・・・1430年代に中国が海から手を引くと、日本人は南西太平洋前面にわたっての海上支配権をひきついだ。
     このような環境下にあって、十分な土地も持たず、地方的な戦乱で財産を失った貧窮のサムライたちは、海賊になればひじょうに有望な将来が開けるわけだった。そこで、日本の海寇は、見る見るうちに中国沿岸を荒らしはじめ、たくさんの金目の略奪品を母港に持ち帰ったので、都市生活の萌芽があらわれはじめた。・・・・・・。文明社会でこれと対比できるものはヨーロッパにしかなく、ヨーロッパの場合も、海賊行為からはじまって、それがやがて都市生活者のエストを形成するのに役立ったのである。』

  • 中央公論社のウイリアム・H・マクニール著;増田義郎訳の『世界史』上巻。
    第1部は紀元前500年まで
    第2部は紀元前500年から紀元1500年まで

    この2000年に期間に世界はどうなった(変化していった)とマクニールは考えたのでしょうか?
    諸文明が起きぶつかり合い、まじりあい、それらの文明を消滅させることなく、平衡させていた。

    第2部は10章に文筆されています。
    8ギリシャ文明の開化は紀元前500~336年です。
    9ヘレニズム文明の伸展は紀元前500~後200年です。
    ⒑アジア 紀元前500~後200年
    ・・・・・・
    16中世ヨーロッパと日本は1000~1500年です。
    17文明社会の外縁部は1500年までです。

  • >>10

    キリスト教と西洋史。

    その中で、修道院とは何か?

    まずは、修道院の始まり。
    修道生活は4世紀頃、ローマ帝国による迫害の終焉に伴い、より徹底したキリスト教徒の生活を求めた人々によって盛んになった。

    古代教会の時代、砂漠、洞窟、断崖絶壁の頂、あるいは地面に立てた柱の頂きで1人で修行し、隠者のような生活を送るキリスト教徒が居た。塔の頂で修行する人々は正教会では登塔者(とうとうしゃ)と呼ばれるが、これらの人々の中では登塔者聖シメオン (390-459) が代表的存在である。こうした1人で修行を行う古代教会の聖者の多くが、正教会とカトリック教会の双方で聖人として記憶されている。

    これらの1人として行う修行の形式と並行して、古代末期のエジプトから、砂漠において集団で求道生活を共にするという動きも始まった。

    このような生活スタイルは東ローマ帝国全域に広がり、砂漠においてのみならず都市においても修道を行う者も現れてきた。それに伴い、都市にも大規模な修道院が建設されていった。コンスタンディヌーポリにおけるストゥディオス修道院は463年に建てられている。東ローマ帝国内で培われた修道生活はその後、東ヨーロッパに伝播した。

    西方においても修道はアイルランドに伝わり、アイルランドの修道者たちがイギリスやヨーロッパ本土において、人里はなれた土地を開いて修道院を建て神と共にある生活を営む修道院のスタイルを広めたといわれる。

  • 歴史;歴史の中で生まれた言葉。それらの言葉がどうした過程で生まれた語り伝えられてきたかを把握する事でもある。


    西洋史を考える場合。
    『王朝』『キリスト教』『法王』『修道院』『教会』『皇帝』『教皇』『~~公領』等々。

    更に都市国家史も必要であろう。
    『ローマ史』『ベネチア史』『セビリア史』『アヴィラ史』都市の歴史の総体が西洋史かもしれませんね!

  • >>8

    クリュニー修道院(クリュニーしゅうどういん、正式名称はサン=ピエール・エ・サン=ポール・ド・クリュニー修道院。フランス語:Abbaye de Saint-Pierre et Saint-Paul de Cluny)は、当時のブルグント王国内で現在のフランス・ブルゴーニュ地方のソーヌ=エ=ロワール県・クリュニーに909年9月11日(910年とする説もある)、アキテーヌ公ギヨーム1世により創建されフランス革命まで存続したベネディクト会修道院である。

     修道院は創建後、ただちに教皇により認可された。初代院長ベルノーは修道生活立て直しのため「聖ベネディクト会則」の遵守を定めた。これが、その後、修道会での僧侶の生活の一切の根本となる重要な戒律となった。

    クリュニー修道院は、中世にクリュニー改革とよばれる修道会改革運動の中心となり、最盛期には管轄下におく修道院1200、修道士2万を数えた。またその典礼の壮麗なことでも知られた。

    927年から1156年がその最盛期にあたり、5人のきわめて高名で影響力のある修道院長を輩出した。その最後にあたるペトルス・ヴェネラビリスはクレルヴォーのベルナルドゥスからその修道院の華美を非難された。このころからクリュニーの凋落が始まってゆく。すなわち、簡素で素朴な自給自足的生活を重んじるシトー会系の修道士などから批判を受けることになった。

    クリュニー修道院の聖堂は3期に渡って建築された。第1期の"クリュニーI"と呼ばれる初代の建物は、初代院長ベルノーの指揮の元に915年から927年に掛けて建設されたと見られる小規模な聖堂であった。第2期の"クリュニーII"と呼ばれる建築は、恐らくその権勢に相応しいものが要求されたと見られ、981年から1040年に掛けてクリュニーIの横に建設された。さらにそのすぐ後の1088年から1130年に掛け、恐らくクリュニーIを取り壊して、"クリュニーIII"と呼ばれる建物が建設される。この建物の拡張は13世紀まで行われ、最終的な聖堂の大きさは入り口から後陣までの長さが約190メートル、高さが約40メートルという巨大なものであった。(ちなみにパリのノートルダム大聖堂は長さが約130メートル)

  • 塩野七生さんの十字軍物語(上)によれば、

    十字軍(軍隊)は寄せ集めの軍隊で、もちろん派遣を提案したのは法王です。
    しかし、宗教戦争ではないようです。

    皇帝と法王との権力闘争です。

    もともとはローマ帝国。
    キリスト教を公認したのはコンスタンテイヌス大帝(皇帝ではありませんよ)。キリスト教を公認し法王に宮殿をつくってあげたのです。(ローマにラテラノ宮殿をつくってあげたのです。


    ところが、ローマ帝国皇帝を自称するハインリッヒ4世は、法王に破門されカノッサ城の前に許しを請うため立ち続けたのです。ハインリッヒ4世27歳の時です。

    そうして、ハインリッヒ4世ビザンチン帝国皇帝はその権力をもって、法王を威圧します。そのためウルバン法王は法王になっても8か月間ラテラノ宮殿に入ることができなかったのです。

    ラテラノ宮殿に入るため、ウルバン2世法王はノルマンの兵士に守られて宮殿入りするのです。

    ウルバン2世とその前のグレゴリウス法王は共に、クリュニー修道院出身だそうです。

  • 世界史の部分としてのヨーロッパ史はやはり、塩野七生さんが凄いと思います。
    十字軍物語1の第2章;アンテイオキアへの長き道のり、で、塩野七生は中世・11世紀のヨーロッパについて語ります。

    ○西暦1097年、・・・当時の小アジアは、セルジューク・トルコの支配下・・・・セルジューク・トルコの中の二つの部族が、領土の拡張をめぐって争っていたのである。・・・・・・・・・。

    ○ちなみに、当時のイスラム教徒は、トルコ人でもアラブ人でもエジプト人でも、西欧人とみればどの地方の出身者であろうと関係なく、「フランク人」と呼んでいた。一方、ビザンチン帝国の領民であるギリシャ人に対しては「ローマ人」と呼んでいたのである。ビザンチン帝国が公式には、ローマ帝国と称しつづけていたからだろう。

    ○なにしろヨーロッパ人自らが、自分たちを「ヨーロッパ人」と称していなかった。「ヨーロッパ」という概念すら存在せず、ゆえに「ヨーロッパ人」そのものが存在していなかったからである。

    ○中世のヨーロッパは、近世以降のように、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、スペインと、明確には分かれていなかった。

    ○ノルマン人になると、区分けはさらに難しくなる。なにしろ彼らの現地順応能力はすこぶる高く、「ノルマン・コンクエスト」によってイギリス人になった者以外でも、ヨーロッパ大陸に残った人ならばノルマンデイー地方のフランス人で、一方南下して南イタリアとシチリアを支配下に置いたノルマン人はもはやイタリア人、となるのだ。おかげで200年も過ぎないうちに、ノルマン民族そのものが、・・・・消滅してしまうことになるのである。

    ○ロレーヌ公ゴドフロアには、ドイツの血もフランスの血も入っている。
    ○トウールーズ伯サン・ジルはフランス南部一帯の領主だからフランス人としてよいが、妻はスペインのアラゴン家から迎えている。
    ○同じフランスでも北東部のフランドル人の場合、フランスの血よりスカンデイナヴィアの血のほうを強く受けていた。

  • >>5

    チャタル・ヒュユクで都民(住民)はどのようにして生活していたのでしょう。

    チャタル・ヒュユクの人々は、社会的な階層分化がなされず、相対的に平等社会であったと思われる。はっきりと王や神官が使用したことを想起させる特徴をもった家屋が未だに発見できないからである。最近の調査で判明したのは、ジェンダーに基づくわずかな社会的区別があるということだけである。男性も女性も食物を平等に分け合い、社会的な階層としては平等であった。チャタル・ヒュユクの上層においては、人々は農業を行い家畜を飼っていたことが明らかになっている。女性の土偶は、小麦や大麦を貯蔵する室の中で発見される。小麦や大麦の他には、エンドウマメ、アーモンド、ピスタチオや果物などが栽培されていた。牛や羊の骨が見付かっているのは、動物の家畜化の始まった証拠として考えられている。しかしながら、チャタル・ヒュユクの人々にとっては、狩猟で得られる動物の肉はなお重要な食料であり続けた。土器を作り、黒曜石で石器を作ることが主要な「工業」であった。黒曜石でできた石器は、地中海産の貝やシリア産のフリントなどの物資と交易を行うために用いられたと考えられる。

  • >>4

    世界最初の都市チャタル・ヒュユクはどんな都市だったから検索してみました。
    チャタル・ヒュユク(-・ホユック,-・フユクとも;Çatalhöyük /ʧɑtɑl højyk/ ,Çatal Höyük , Çatal Hüyük)は、アナトリア地方南部、現在のトルコ共和国、コンヤ市[1]の南東数十km、コンヤ平原に広がる小麦畑をみおろす高台に位置する新石器時代から金石併用時代の遺跡である。その最下層は、紀元前7500年にさかのぼると考えられ、遺跡の規模や複雑な構造から世界最古の都市遺跡と称されることもある。チャタルとはトルコ語でforkを意味し、ヒュユク(ホユック)で丘や塚を意味するので「分岐した丘」の意味となる。

    チャタル・ヒュユクの遺丘は、チュルサンバ (Çarsamba)・チャイ川の旧河床を挟んで東西にあって、東側は、長径500m、短径300m、高さ20m弱の卵形で西側に比べて規模が大きい。うち新石器時代の文化層は15mに達し、14層の文化層が確認されている。年代的には放射性炭素年代測定で紀元前6850年から同6300年にあたる時期のもので、チャタル・ヒュユクの本体である。西側の遺丘は、チャタル・ヒュユク西遺跡と呼ばれ、径400m、高さ7.5mで規模的には東側に比べて小さく、2期にわたる彩文土器の発達した文化層が確認されており、上層は、青銅器が出現するハラフ期(4300 B.C.頃)並行とされ全体的にやや新しい。

    『世界遺産になっています』

  • >>3

    住宅を設けるとは定住生活をすると言うことです。

    猿は採取動物。狼は狩猟動物。でそれらは、テリトリーをもちますがテリトリーは定住を意味しません。


    人は、採取・狩猟を経て、牧畜移動生活と栽培(農耕)定住生活の二つの方向を選択します。

    エリコ(ジェリコ)以前にも定住栽培生活はありました。
    それは、未開地域では100年前まで継続してきた生活方式;「焼き畑耕作」です。
    しかし、焼き畑・焼き畑を繰り返すには沢山の人々を養うだけのおおきな部落・村落をつくり必要はありません。

    つまり、世代間を重ねて発展つづける(続けた)文明には至らない社会も沢山存在したはずです。

    都市ジェリコは生きるための必需の水と塩の産する場所だったのです。つまり、商都だったのです。

  • >>2

    エリコ(イェリコ、ジェリコ、アラビア語ではアリーハー、アラビア語: أريحا‎、ヘブライ語: יְרִיחוֹ‎、Jericho)は、パレスチナの市。
    死海の北西部にある町。古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現した。世界最古の町と評されることもある。世界で最も標高の低い町でもある。

    エリコは、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在はヨルダン川西岸地区に含まれる。海抜マイナス250mの低地にある。「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスがあり、人々が住み着いた。エリコの名前は『旧約聖書』にも繰り返し現れ、「棕櫚(しゅろ)の町」として知られていた。

    エリコには、異なる時代に形成されたいくつかの町があり、古代~『旧約聖書』時代のテル・エッ・スルタン(Tell es-Sultan)、紀元前後のトゥルール・アブー・エル・アラーイク(Tulul Abu el-'Alayiq)、現在の町があるテル・ハリ(er-Riha)に分かれる。テル・エッ・スルタンは、テル・ハリから2kmほど離れたところにあり、トゥルール・アブー・エル・アラーイクはテル・ハリから西へ約2kmのところにある。

  • 人は人と人の間にあって、初めて人間(成人)となります。近代国家にあって、近代国家社会の中で、公の中で、選らぶ権利を認められ行使することが可能となります。

    ローマ帝国で男中心の国(法)であり市民になるには一定期間、兵役と言う公務に服しなければなりませんでした。

    人は集まる地域を作ります。

    世界最古のそうした地域(都市)は『世界史』によれば、ジェリコと小アジアのチャタル・ヒュユクでした。

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