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太平洋戦争

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  • 2017/02/27 17:46
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恋の苦悩も 戦死京大生の遺稿
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6228897
※ニュースは予告なく削除される場合があります。

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  • 13882(最新)

    nyanko 2月27日 17:46

    >>13881

    十八日一四五五司令 十八日一四五五総船艇長、各衛所長、各見張所長
          〇六三〇犬吠埼東六〇〇浬に敵虚空母艦現る航行船舶対空隊間警戒を厳にせよ

    十八日一五三〇阪警長官 十八日一五三〇部下一般
          信令第十八號
          一.本日〇六〇〇犬吠埼の東六〇〇浬に航空母艦三隻を基幹とする敵機動部隊出現せり
          二.大湊警備府横須賀鎮守府に於いては夫々警戒警報、空襲警報を発令之が防衛に努めつつあり
          三.各部は警戒を厳にせよ

    十八日一四四二友ヶ島衛所長 十八日一五四〇司令
          敵らしき飛行機1機見ゆ高度五〇〇〇米進路五度 一四四二

    十八日一四一八呉鎮 十八日一五一八本隊
          呉鎮発令
          内海東部警戒警報 一四五五
          呉鎮発令呉地区、徳山地区内海政部海面警戒警報 一五〇五

    同日一五三〇長官 同上司令
          一五〇〇紀伊水道海面空襲警報大阪警備府司令長官発令

    同日一五四五司令 同日一六二五 出動総船艇長、各衛所長、各見張所長
          大阪警備府司令長官発令
          一五〇〇紀伊水道海面空襲警報

    同日一五四〇司令 同上 在泊総船艇
          同文

  • 昭和十七年大阪警備隊

    四月十六日 一四四〇 海面防備部隊 指揮官 十六日一七五〇総船艇長各衛所長 
          明十七日より約一週間友ガ島方面施設作業実施中船舶の由良瀬戸通行を禁止し加太瀬戸を通行せしむべし 
    十六日一六三五阪警参謀長 十六日一六三五指令 
          四月十六日阪警通商保護情報四十一号
          一.十五日二一〇〇大王崎の二一五度二〇浬にて敵潜水艦の攻撃を受けたる船あり同方面に非常警報発令
            中厳重警戒を要す
          二.情報に依ればパラオの南西約八〇浬附近に敵潜一隻あり
          三.本日夕刻八丈島の南に味方潜水艦行動す味方識別に注意を要す

    十七日一〇三〇作業指揮官 十七日一二五八指令
          〇六〇〇より作業開始一曳きにて六番電線揚收せしも約一〇〇〇米にして他の電線三條に交差し天候次第
          に荒天となり風向北 風速十五米波浪高く作業困難の為〇九四五中止し電線を陸上に復帰せり明日〇六〇
          〇再興の予定天候順当なれば十八日六番十九日五番揚收帰隊の予定

    十八日一二二五阪警 十八日一二二五本隊
          静岡地区空襲警報発令
          発令時刻一二三七発令者東部軍一三〇〇飛行機爆音潮岬北北方上空に聞こゆ警戒警報発令中部全域発令時
          刻一二五五発令者中部軍、空襲警報発令南北関東地区発令時刻一二二七発令者中部軍

    十八日一三二〇司令 一三二〇総船艇 警急呼集

    十八日一三四四司令 十八日一三四四総船艇
          飛行機見張に対し厳重なる警戒を要す

    十八日一三四五司令 十八日一三四五総船艇
          敵機来襲の虞あり厳重なる警戒を要す

    十八日一四三〇司令 十八日一四三〇総船艇
          本日〇六三〇犬吠埼東六〇〇浬に敵空母艦現れ航行船舶は対空警戒を厳にせよ

    十八日一四二五阪警参謀長 十八日一四二五司令(通報)
          阪警通商保護情報第四十四号
          本日〇六三〇犬吠埼東約六〇〇浬に敵空母現る航行船舶は対空隊間警戒を厳にせよ

    ↑この様に、空襲警報は事前に出るので、聞き漏らすことは無い。

  • >>13876

    風船爆弾は米国を震撼とさせたようだね、終戦迄極秘事項だったようだね、国民には不知。

    風船爆弾による心理的効果は大きく(日本側でもこの作戦自体が心理面での効果を期待していた。担当したのが参謀本部第二部第8課、情報や傍受、諜報に関わる部署であった[40]。アメリカ国民は軍事施設への散発的な攻撃よりも、森林火災に心理的パニックを起こすため、これを利用した後方攪乱という意味合いがあった。藤田信雄も参照されたい[41])、アメリカ陸軍は、風船爆弾が生物兵器を搭載することを危惧し(特にペスト菌が積まれていた場合の国内の恐慌を考慮していた[42])、着地した不発弾を調査するにあたり、担当者は防毒マスクと防護服を着用した。また、少人数の日本兵が風船に乗ってアメリカ本土に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかった。また、終戦後すぐに、細菌兵器研究者を日本に派遣し、風船爆弾開発に関わった研究者の調査を行っている[43]。
    風船爆弾対策のため、アメリカ政府と軍は大きな努力を強いられた。アメリカ政府は厳重な報道管制を敷き、風船爆弾による被害を隠蔽した。上記の事故の一報を受けた電話交換手は決して口外するなと軍から口止めされた[33]。これはアメリカ側の戦意維持のためと、日本側が戦果を確認できないようにするためであった。この報道管制は徹底したもので、戦争終結まで日本側では風船爆弾の効果は1件の報道を除いてまったくわからなかった。
    戦後すぐの日本で放送された『眞相はかうだ』でも、風船爆弾については明確に触れられておらず、「日本の潜水艦から発進した飛行機が、アメリカの都市を爆撃したというのは本当か」という質問の形式をとって曖昧な説明を行うにとどめている。これを紹介した保阪正康は、風船爆弾のために発生した山火事の件を伏せたくて、ぼかしているという印象を持っている[44]。また、1948年4月に日本劇場屋上に戦後初のアドバルーンが揚げられたが、GHQの指令で2日後に禁止となった。風船爆弾を連想させるため、という理由からである[45]。

  • 子供のころ親戚のお婆さんから竹やりの訓練のことを聞いたことがある。
    落下傘で降りてくる米兵を、竹やりで突く訓練だそうだ。
    そんなことができるわけないよね、なんて言ってた。

  • 「女学生の戦時体験」

      澤田 恵子さん

     1945年3月、東京大空襲。この頃からアメリカ空軍の日本襲来の回数は増えて いきました。

     わたしが住んでいた大阪府池田市は伊丹空港の近くだったこともあって、「警戒警報」のサイレンがなって間もなく、「空襲警報」のサイレンを聞かないうちに、飛行機上から機関銃が撃たれました。

     防空壕に入ることも出来ず、防空頭巾をつけて家の押入れで布団を被って、敵機が去るのを待ったことも、しばしばでありました。

     女学生が校庭にいて、逃げ遅れて、この機銃掃射にあって亡くなったということも聞きました。

     夜は灯火管制が厳しくなって、電灯は黒い布で覆い、光が漏れないようにしていました。
     
     お風呂を炊くための薪もだんだん手に入らなくなり、沸かしても警報が出ると入れませんでした。

     ゆっくりお風呂につかるようなことは殆どできません、お風呂でこっそり英語の単語を覚えたことも今は懐かしい思い出です。

     1945年、わたしたちは工場で働くことになりました、学徒動員です。
    5月3日がこの工場の入所式でした。

     今も鮮明に記憶にあるのは、入所式のお祝いのお食事です。それは高粱のご飯で、小豆が3粒ずつ真ん中に載っていました。工場のアセチレンガスの臭うなかでいただいたときは、なんとも言えませんでした。これほどいやなことはありませんでした。
     
     わたしにはもう一ついやなことがありました。女学生の制服です。女学生の制服は学校によって特徴がありました。

     しかし、殆どがセーラー服でした。しかし、当時は全国統一して、へちま襟で、冬は紺色で襟には白いカバーをかけ、夏は白で半袖、勿論襟はへちま襟でした。

     スカートは禁止で、モンペをはきました。そのモンペは殆どの人が古い絣の着物をモンペに改良したものでした。こんな姿で毎日工場へ働きに行きました。その後遺症なのか今でもヘチマ襟の服には抵抗があります。

     工場での仕事はジュラルミン(アルミニュームに銅・マグネシウム・マンガン・珪素などを混ぜた強い軽合金。飛行機などの材料にする。)を鑢で削って、飛行機の部品を作ることでした。

     一日中立ちんぼで、8時間くらい作業をしました。昼食は粗食そのもので空腹の毎日で、成長期の15歳だったわたしたちは本当に辛い日々でした。

     でも、そういうことは口にすることはできませんでした。当時は「兵隊さんは戦地で闘い、わたしたちは銃後を護る」ということが合言葉でした。
     
     この工場での働きが、本当にあの戦争のために役に立ったのだろうか?と思うのは、わたしだけでしょうか?・・・・・

  • 「また、陸軍登戸研究所において研究されていた炭疽菌、ペスト等の搭載が検討され、登戸研究所第七研究班はふ号兵器用の牛痘ウイルス20トンを製造し使用可能な状態まで完成していた[10]が、昭和19年10月25日の梅津美治郎参謀総長の上奏に際して昭和天皇は本作戦自体は裁可したものの細菌の搭載を裁可せず、細菌戦は実現しなかった[11]。」(ウィキ、風船爆弾)

    「昭和天皇は本作戦自体は裁可したものの細菌の搭載を裁可せず、細菌戦は実現しなかった」さすがは、昭和天皇。正しく判断していらっしゃる。

  • 「風船爆弾」

     太平洋戦争において日本陸軍が開発した、気球に爆弾を搭載した兵器である。秘匿名称は「ふ号兵器」。

     「風船爆弾」は戦後の用語で、当時の呼称は「気球爆弾」であった。戦果こそ僅少であったものの、ほぼ無誘導で、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて日本からアメリカへと、大陸間をまたいでいで使用された兵器であった。

     実戦に用いられた兵器としても約7700km(茨城県からオレゴン州への概略大気圏距離)は、発射地点から最遠地点への攻撃であった。

     風船爆弾は、陸軍少将であった草場季喜氏によれば、昭和8年(1933年)には自由気球に爆弾を懸吊し兵器として使用する着想があった。

     ほぼ同時期に陸軍少佐であった近藤至誠氏が、デパートのアドバルーンを見て「風船爆弾」での空挺作戦への利用を思いつき、軍に提案をした。

     この時点でコンニャク糊を塗布した和紙「メイジン紙」を使用することは近藤氏の想定の中にあった。

     昭和14年には関東軍に持ちこまれ、近藤氏は極秘研究主任となった。

     昭和15年に近藤氏は病死したが、研究は進められ、神奈川県の陸軍登戸研究所で開発された。

     和紙とコンニャク糊で作った気球に水素ガスを詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカ本土を攻撃しようとする兵器であった。

     小型の気球爆弾の研究命令は昭和14年8月に発令され、ふ号兵器としては昭和18年(1943年)8月に研究命令が出された。

     昭和19年(1944年)11月にふ号兵器として実用化した。当初は海軍も対米攻撃用にゴム引き絹製の気球の研究をしていたが、海軍の計画は途中で放棄され、機材と研究資料は陸軍に引き渡された。海軍式のゴム引き気球も少数、実戦に使用された。

     当時、日本の高層気象台(当時茨城県筑波郡小野川村(現・つくば市))の台長だった大石和三郎氏らが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾を吊るし、日本本土から直接アメリカ本土空襲を行うもので、千葉県一宮・茨城県大津・福島県勿来の各海岸の基地から、1944年11月から1945年3月までの間に、約9300発が放球された。

  • >>13870

    歩兵第百二十四連隊の昭和16年の編制人数は、七月十日三五三四、十月十一日三五三五名。

  • >>13870

    川口支隊の「ガ」島増派

    (イ)第十七軍、第十一航空艦隊、第八艦隊間に於ける「ソロモン」群島要地奪回作戦に関する協定の骨子
    (ⅰ)指導要綱
       1.成るべく速やかに川口支隊をまず「ガ」島に上陸せしめ一木支隊及び同島にある陸戦隊を併せ指揮せしむ
         右諸部隊の戦果を利用拡大し適時速やかに「ツラギ」付近の島嶼を奪回す
       2.「ツラギ」攻略は飛行機條奪回後期を失せず海軍航空部隊を「ガ」等に推進し海軍航空部隊及び艦艇協力の下成るべく速やかに之を実施す「ツラギ」に向かう機動は船艇に依るも状況之を要すれば海軍船舶に依ることもあり
    (ⅱ)使用兵力
       陸軍は川口支隊(川口少尉の指揮する歩兵第百二十四連隊、一木支隊)
       海軍は外南洋部隊、基地航空部隊の一部の外連合艦隊所定の兵力
    (ⅲ)上陸地点は「タイボ」岬又は「ルンガ」岬付近(何れに依るべきやは川口支隊出発までに川口市隊長に護りて艦隊指揮官と協定す)
    (ⅳ)上陸日次はV日(28日)日没後「トラック」当出発はV-4とす
    (ⅴ)川口支隊の護りて兵力は第三水雷戦隊(駆逐隊二欠)とす
    其の他略す

    歩兵第三五旅団は軍命令により八月十六日「パラオ」出発二十日朝「トラック」に入港す 軍司令官は十九日同旅団に対して左記要旨の軍命令を下達
    第十七軍命令の要旨八月十九日一二〇〇 ラバウル
    一.軍は「ポートモレスビー」作戦の既定計画を遂行すると共に速やかに「ソロモン」諸島の要地を奪回せんとす
    二.歩兵第三五旅団(歩兵第一大隊及び独立無線一小隊欠、配属部隊故の如し)は自今川口支隊となり海軍と協同して速やかに「ガ」島に上陸し一木支隊並び同島及び「ツラギ」島付近にある海軍陸戦隊を併せ指揮し「ガ」島の敵を掃滅し飛行場を確保すると共に適時速やかに「ツラギ」島及び其の付近の島嶼を奪回すべし
      歩兵第三十五旅団の一大隊は海軍所属船に依り速やかにまず「ラバウル」に前進し余の直轄たらしむべし


    ↑体験などしてもしなくても、良いんじゃないの?

    君がガ島で体験していないのと同じ。

  • http://wwws.warnerbros.co.jp/thepacific/mainsite/
    この飛行場のことは、このドラマ↑でも描かれています。

    アメリカから見た太平洋戦争で、日本人としては苦々しく思う所もありますが、お勧めです。

  • 私の戦争体験

    伊藤雄二さん
      ガダルカナル島で…

     私の所属していた部隊は、歩兵第百二十四連隊で、岡明之助大佐が指揮する約三千五百名の部隊でした。福岡編成です。

     昭和十六年十二月八日、第二次大戦(大東亜戦争)開戦と同時に川口清健少佐が指揮する(約五千四百名)部隊の主力として、ボルネオ攻略作戦、ついで翌年、昭和十七年四月フィリピンのセブ島ならびにミンダナオ島攻略作戦に参加、六月、次期作戦(フィジー、サモア攻略作戦)準備のため、南洋群島パラオ諸島コロール島において上陸戦闘訓練に終始していました。
     
     十七年の八月、突然米軍が、日本海軍が設営していたガダルカナル島ルンガ飛行場を攻撃、占領しました。これはニューブリテン島にあるラバール飛行場に重大な支障を与えるので、急いで私の所属する隊に奪還(うばい返す)のための作戦命令が下りてきました。

     十七年の八月十六日パラオ出航、トラック島、ニューブリテン島経由、ソロモン群島、ブーゲンビル島南端のショートランドで海軍の駆逐艦に乗ってガダルカナル島へと向かう事になりました。

     これは制海権、制空権がない(海や空を軍事力で支配できていない)ため、足のおそい輸送船ではとてもガダルカナル島まで行く事ができないとの判断でした。

     駆逐艦でガダルカナル島へ向け南下中、第七中隊を乗せた駆逐艦朝霧が、ガダルカナル島から飛んできた米軍の戦闘機に爆撃され轟沈、中隊長以下全員、約百七十名が艦と運命をともにしました。

     この様子を目のあたりにしたのでこれは大変な戦争になると覚悟しました。幸い私の中隊は無事十七年八月三十一日午後11時、ガダルカナル島タイボ岬という所に上陸できました。

     みんなそれぞれ約十日分の食料、米六升、小銃弾三百発、手投げ弾二発を持って、海岸線は危険なので、ジャングルを進んで飛行場の後ろに出るようにしました。

     私はジャングル伐採隊長として最大限の努力をしましたが、思うように行かず、一日に数キロ進むのがやっとでした。海軍との協定で九月十二日までに攻撃位置にたどり着くのが至上命令でした。

     これは海軍の戦艦、巡洋艦による飛行場制圧のための艦砲射撃での攻撃に乗じて川口支隊が飛行場を攻撃する計画のためです。
     
     九月十二日が至上命令でしたが、いくらがんばってもジャングルを切り開く事は進まず、十三日の夕刻、どうにか攻撃準備位置らしい所に進入する事ができました。海軍との協定延期はとてもできそうにない事でしたが、どうにか受け入れてもらえたとの事でした。

     通常、陣地攻撃というのは、陣地の地形、兵力の配備、重火器(機関銃、大砲など)の位置などをもとにして、その弱点を攻撃するのが戦法です。

     しかし、充分な準備もできず、協定の日時となり、心ならずも準備不備のまま、やみくもに敵の陣地の夜襲攻撃となりました。

     敵の第一線陣地をぬき、第二線の重火器陣地を奪い返した所で夜明けとなり、敵の戦闘機の銃撃、爆撃を受けてしまい、攻撃は失敗しました。
     私はこの戦闘で午前4時ごろ機関銃の銃撃を右大腿部に受け、神経の一部が切れて、右足が動かなくなりました。

     どうにか転がりながら、ジャングルの入り口にたどり着く事ができました。この戦闘で私の中隊は中隊長以下七十五名の者が戦死しました。遺体はそのまま、収容は不可能でした。

     それから撤退の十八年四月まで(八ヶ月間)は苦難の連続でした。上陸した時に持った食料は九月十三日までに食べつくしていました。

     制空、制海権がないので弾薬、食料の補給はまったくない状態で、ガダルカナルでの年月は飢えに飢えて、まったく餓鬼(がき:地獄で飢えとかわきに苦しみ続ける亡者)そのものでした。このようなありさまでしたので、毎日毎日、栄養失調で餓死する者がつぎからつぎへと出ました。

     米軍が積極的に攻撃してこなかったので、何とか全滅はしないですんだのです。 

     この頃、(十八年の一月)ジャングルを撤退中の私たちの中で、不思議な生命判断がはやりました。限界に近づいた肉体に残された命の日数を統計の結果から次のように判断するのです。
     立つことのできる者―約三十日間、
     体を起こして座る事のできる者―約三週間、
     寝たきりで起きれない者―一週間、
     寝たままで小便をする者―三日間、
     物を言わなくなった者―二日間、
     まばたきしなくなった者―その日限り……

     この、非科学的で、非人間的な生命判断は決してはずれることはありませんでした。

     ガダルカナル島での戦死者数、三千二百四十名、撤退できた者、二百名。

     ちなみに私がいた四中隊は戦死百五十四名、撤退できた者十三名。

     戦死者は山野に屍(しかばね)をさらしたままです。

     …私は戦死者に申し訳ない気持ちで生きています。生かされています。…

  • 【 滋賀海軍航空隊】

     昭和19年6月、甲種飛行予科練習生養成の練習航空隊として開隊した。

     昭和19年 6月12日
      甲飛13期予科練習生 約1,000名
       三重海軍航空隊 奈良分遣隊より転入隊。
     
     7月1日  三重海軍航空隊 滋賀分遣隊として開隊。
     
     8月1日  甲飛14期予科練習生 約2,000名、三重空・奈良分遣隊より転入隊。

     8月15日  滋賀海軍航空隊となる。

     9月3日  甲飛13期予科練習生の一部 第1次水中特攻隊に転出。

     9月30日  飛行専修15期予備学生 約400名入隊。

     10月1日  甲飛15期予科練習生 約3,000名入隊。

      10月3日  飛行専修2期予備生徒 約200名入隊。(この中に安倍首相の父・安倍晋太郎氏がいた )

     昭和20年3月26日 甲飛13期練習生の一部が第2次水中特攻隊に転隊。
     甲飛14期練習生の約200名が水中特攻隊に転隊。 

     4月1日  甲飛16期予科練習生 約1,000名入隊。

     4月24日  甲飛14期練習生の約300名 水中特攻隊に転隊。

     6月1日  15期予備飛行学生 砲術学校館山分校に転出。

     6月15日  甲飛13期練習生の一部 航空特攻伊吹部隊に転隊。

     6月20日  2期予備飛行生徒 砲術学校館山分校に転出。

     6月?日  14期飛行練習生の一部 三重空経由
                野辺山秋水特攻部隊に転隊。
     8月15日  敗戦

     11月30日  滋賀海軍航空隊 解隊。

  •  1944年(昭和19年) 3月15日 兵庫県西宮市の関西学院を接収し、三重海軍航空隊西ノ宮分遣隊発足。甲飛第13期前期(三重空入隊)の一部転入(7月25日卒業)

     4月1日 甲飛第14期前期の一部入隊(20年3月卒業)

     8月15日 滋賀海軍航空隊開隊に合わせ、三重空より滋賀空の分遣隊に移管。

     9月1日 卒業生の飛行練習課程凍結。

     9月15日 甲飛第15期前期の一部入隊。

     11月28日 甲飛第15期(奈良分遣隊入隊者)転入。

     1945年(昭和20年) 3月1日 独立、「西ノ宮海軍航空隊」開隊。大阪警備府隷下第24連合航空隊。甲飛第15期宝塚空に転出。

     6月1日 予科練教育凍結。

     6月30日 解隊。

     他の予科練教育隊と同様に、予科練教育の凍結を受け、終戦を待たず解散した。

     多くの生徒が本土決戦要員として陸戦部隊に編入された。

     練習生が去った関学は敗戦とともに復興活動に移り、戦時協力のために設置した理工科・航空機科を廃止し、法学科・文学科・経済学科に改編した。

     開戦前に追放した外国人講師の再招聘や共学化を推進し、現在では関西地方屈指の私学として知られる大学校となった。

  • 【西宮海軍航空隊】
     
     海軍は航空戦力の急速な拡大を図るため、甲飛12期より定数を急増した。昭和18年に募集した甲飛第13期生は、前後期合わせて20000人を超えた。

     旧来の土浦海軍航空隊・三重海軍航空隊・鹿児島海軍航空隊だけでは収容が不可能であった。そこで、海軍の飛行場に新たな予科練航空隊を併設するとともに、海軍飛行場のない遠隔地にも、航空機の操縦や整備訓練の段階に達していない予科練生の基礎訓練場として、航空隊分遣隊を設置することとした。

     西宮分遣隊を上ヶ原に設置したのは、関西学院の運営母体である日本メソヂスト教会が国策団体日本基督教団に属し、積極的な戦争協力活動を推進していたためである。

     前年度の学徒出陣によって関学の学生は減少し、残留者も勤労動員に狩り出され、軍需工場などに動員されていたため、関学の教育活動は停滞し、空室が増えていた。

     このためキャンパスの明け渡しは順調に進み、西宮分遣隊は混乱なく発足し、やがて西宮海軍航空隊として独立した。

  • >>13862

    正式名称を書いておくね。

    一 飛行学生
    二 飛行術練習生
    三 高等科飛行機整備術練習生
    四 普通科飛行機整備術練習生
    五 飛行機予備学生

    上記とは別に「飛行予科練習生」「飛行練習生」があるんだね。

  • >>13859

    服装令に無いものは存在しない。

    服装はどんな服装をしたんだろうね。

    「飛行予備学生」というのはあるようだね、これが正式名称だね。

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