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  • 医療機関で病気を治療してもらうことについて、筆者は基本的に肯定的見解をもっている。
    〝意識〟がどうの〝心〟がどうのと日頃から叫んでいる者が、物理的手段に縋るなんて矛
    盾してるじゃないかという愚な声も聞こえてきそうだが、それは誤解というものだ。
    誰も(医療機関に)「縋る」なんて言ってないのだから。

    とりあえず、(医療機関に)縋ったら何がマズイのかを説明しておこう。
    (医療機関に)縋って、医療行為を受けていることに安心してしまうと、自ら治そうとす
    る力(自己免疫力)が油断してしまうからダメなのである。
    その油断をついて、体内の敵(がん細胞)は増殖してくるだろう。

    そもそも、医療行為によってのみ実現できるのは、敵(がん細胞)の殲滅という事態では
    ない。
    それによってなしえるのは、せいぜい、敵の数を一定数まで減らすということでしかない
    のだ。

    がん治療を受けるすべての人へ捧げる。
    「自ら治すという〝意識〟を持ち続けながら補助的に医療機関の力を借り(治してもらう)
    というのが病気に対する必勝法である」

    以上。

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    tjr***** 1月3日 10:40

    自分自身の〝意識〟が自分自身の肉体に応えようとするはたらきは、もしかすると―――
    子供の頃、母親に認められようとしていた自分自身の〝意識〟に似ているのかもしれない。

    生きている間に、あらゆるものへ向う〝意識〟も最後には自分自身の肉体へ還っていく……。

    であれば、その肉体は目的であり手段でもある。
    その善悪、その限界と可能性、その適否ということに関しては、自分自身だけで決めるこ
    とはできないのかもしれない。

    他者が自分自身のそれを決める、ということも認めなければならないのではないか。
    自分自身の判断のみで自分の肉体はもうダメだと見限り、そう〝意識〟することは、実は
    自分自身を過信し他者を含むこの世界全体を過小評価しているだけなのではないだろうか。


    元旦に見舞った父は驚くほどの回復ぶりであった。
    たとえ一時の間でも、
    ずっと付き添い痩せこけた父の足を懸命にマッサージし回復を祈りつづけた母に
    明るい笑顔が戻ったことは、〝奇跡〟のように思えて仕方なかった・・・・。

  • すべての「命」には、その持続性の途切れる時期が定められているのかもしれない。
    「がん」というのは、その時期が来れば執行される切断方法のひとつに過ぎないのではないだろうか。

    その時期が来るまでは、たとえ「がん」になろうと人は死なない。
    しかし、その時期が来ているにも関わらず無駄な抵抗をする者には恐ろしいほどの苦痛が与えられるのだ・・・・。

    医学とは、苦痛を増やすためにあるのではない。
    肉体の持続が魂の持続へと繋がる瞬間を見逃しては、医学が存在する意味など無いと思う。

  • わずか2ケ月足らずの間に末期がん患者である父は、凄まじいほどに痩せ衰えてしまった。
    不謹慎ではあるが、そのベッドに横たわる姿はまるで・・・・映画で観た「手術台に載せられたバタリアン」
    のようだと思ってしまったのだ・・・・・・。
    まだ生きている人間の姿が、ミイラのようになってしまっている・・・・触れれば折れそうな、肉質と水分
    を失い縮小し切った首筋から胸元にかけては正視に耐えぬ様相を呈していた・・・・・・
    これでも・・・・こうなっても人間は・・・・・・まだ生きねばならないのだろうか・・・・・・・・・・

    ・・・・・・なんのために・・・・・・・・・・・・・・・

    医学とはいったい何のためにあるのだろう・・・・・・
    脳機能が崩壊し、そこに居ない者のことを繰り返し呼んでいるミイラのような存在を
    ただ惰性で生かさねばならない理由とは何なのだろう・・・・・・・・・(涙)

    生前の父が、≪尊厳死≫を望んでいたかどうかは定かではない。
    遺書も残されてはいないだろう。

    この痛ましい存在を無に帰すことが「犯罪」であるのならば・・・・・私は罪人の汚名を恐れはしない。

  • 意外だった・・・・・

    あんなに手術を嫌っていた父が、
    もう、いつ死んでもいいと常日頃から言っていた父が、

    おそらく、わずかでも生きている時間をのばすためにであろう
    その痩せ衰えた身体に、メスを入れることを承諾したのだ。

    二度の手術と、抗癌剤治療で、ガン細胞は縮小してきたらしい。
    母がいうには、動かなかった右手もうごくようになり、食事をとれるまでに回復したようだ。

    受話器から聞こえる、これからの介護生活の大変さも忘れたように喜ぶ母の声に
    一瞬だけ、ほんとうの〝愛〟のすがたをみたように思った・・・・・。

  • 生きてさえいればいいと思ってしまう者にかぎって、
    ああすればよかった、こうしてやればよかったと後悔するものであるらしい。

    自分にも、そんなことがあった・・・・・
    昨年、可愛がっていたネコを病気で亡くしたときが、今から思えばそうだったのかもしれない。

    獣医がサジを投げた先天性の心臓疾患で、わずか3歳の命を終えたその子を、
    救ってやれなかった自分。 ああすればよかった、こうしてやればよかったと自分を責め続けた。

    彼岸の場所で、あの子だけ一人ぼっちでいるイメージに涙が止まらず、
    心の痛みが、ずっと続いていた・・・・・・。

    ふたつの奇跡が、そんな痛ましい心を癒してくれた。

    ひとつ目の奇跡は、あの子が、暗い彼岸の場所になんか居なくて、ずっと自分のそばに居るんだと、
    飼い主の俺に教えてくれたのである。

    ストリートビューに映っていた自分の家の、窓際に座って、じっとこっちを見ているその
    子を発見したとき、
    自分がそれまで持っていたネガティブなイメージは、どこかに消えていた。

    あの子は、自分の勝手な想像の中に居るわけじゃないんだ・・・・・。
    〝そこに居るんだ〟と。

    ふたつ目の奇跡は、あの子と同じような心臓病のネコが、病院の懸命な治療にも関わらず
    死んでしまうドキュメンタリーを観たことで起こった。

    横たわるネコを心臓マッサージで蘇生させようとする病院のスタッフ。
    そのネコが、もしあの子で、もし自分が、その場に居たら、そんな光景を見ていられなかったにちがいない。

    あの子は、獣医にさえ、今度発作を起こせばもう諦めてください、と言われていた。
    以前に治療を受ける行為自体がストレスとなって重篤な発作を引き起こしてしまったことがあったからだ。

    あの子は、治療を受けず、数時間、必死に病と戦って、飼い主に見守られながら死んだ・・・・・。
    あの子にとっては、それが一番よかったのかもしれない。

    ああすればよかった、こうしてやれば・・・・なんてことは、自分が思っていただけで
    本当は、なかったんだ、きっと・・・・・・・・・・・。

  • >>26

    人か獣に殺されるのでなく、寿命なら私は往生してあきらめると
    思います。生きられる方法があれば生きたいですが、だめなら寿命だと
    あきらめると思いますが、苦しむのと痛みは嫌ですから、だめなら
    体に悪いなんて躊躇しないで、モルヒネでも何でもやってほしいです。ただし、
    これは自分の場合だけで、人の寿命はその当人が決めることで、私は自分の
    時は、自分の意志で決めたいです。

    日本では、安楽死は認められていないので、痛みの強い場合は時間の間隔で
    あまり痛み止めも、二時間たたないとやってくれません。どうせ治らないのだから、
    苦しませなくてもいいものだと思いますが、ドクターも人の命まで操作はでき
    ませんから、規則どうりにに時間は我慢しなさいと言われます。まだ、二時間
    たたないのかと、患者さんは5分おきに催促されます。その身になったら辛いはずです。

    高齢になると痛みは鈍くなる人がいますが、夫は臨終の日まで痛みを訴えることは
    なく逝きました。それだけが救いでした。誰しも楽に見送りたいです。ご心労
    お察しいたします。

  • >>26



    >生きていることだけが大前提となってしまったら、その人間はもはや「生の牢獄」に繋がれたも同じなのに。<

    難しい問題ですから、自分がそうなってみないと、本当のことはわかりませんが、私は白血病の疑いがあるといわれて、9日高熱が下がらないとき、胸骨に穴をあけられて、骨髄液を採取されました。往生するといいますが、肝が据わったように観念しました。じたばたしても9日熱が下がらないのだから、ただ事でないとあきらめました。

    連休が終わり院長先生が、出勤してきてカンファレンスの結果、コーチゾンの薬を試してみようということで、白い錠剤を一粒渡されました。その夜は奇跡のように良くねむれました。熱お下がっておりました。9日も下がらない熱が下がっていました。

    それまではもう覚悟ができていたので9日も高熱40近い熱でしたから、意識も失い、トイレが満員で、待つ間に倒れて、意識不明にもなりました。でも、往生して覚悟が決まると、死は恐ろしく思わなかったのです。地震や人に殺される恐怖と違いあきらめているからでしょうか。死というものは人によって感じ方は違うと思いますが、その時は死を受け入れたのか、絶望感はありませんでした。

    私の夫も安らかに苦しまずにいきました。ですから私は死を恐れませんが、怖いのは
    激痛に苦しむ若い人の2時間間おきの痛み止めが我慢できずに苦しむ姿です。
    悔いのないように誠心誠意尽くしたつもりでも、それでもつくしたりなかったのではと、自問自答をするときがあるものです。

    人生は振り返れば、悔いだらけのような気がします。悔いはどんなに尽くしても、もっとしてやれなかったかと、誠実に生きれば生きるほど悔いるものだと思います。
    残された時間をいきなりの事故や心不全などで いなくなる人もいるので、尽くせる時間があるだけ尽くせると思います。お大事になさってくださいませ。

  • 人間が、脳神経のみの機能によって生きている存在なのだとしたら、
    その神経回路を失うことは絶対に回避しなければならないことになるのかもしれない。

    だから、多くの人間は死を恐れるのだろう。

    生きているために・・・・なんとか生かしてもらうために、藁をも縋るおもいで
    医学に治療による救いを期待するのだ。

    生きてさえいればいいことがあると何の疑いもなく言う者がいる。
    生きていることだけが大前提となってしまったら、その人間はもはや「生の牢獄」に繋がれたも同じなのに。

    人間は、脳神経のみの機能によって、ほんとうに、それだけで生きているのだろうか?
    自分自身を成立させている前提は、ほんとうに「生きている」という事実だけなのだろうか・・・・・・?

  • >>24

    ご沙汰いたしております。以前お邪魔致したまだらです。
    お父上様の宣告、あの頃はその予兆はなかったのですか?
    ガンってある日、他人事でなくなる時があるのですね。

    あなた様にも私にもそんな日が来るのか、来ないのかは未知数
    ですが、息子さんとしてはやり切れない思いですね。
    私も危機感で夫の時は三年くらいは生きた心地はしませんでした。

    でも、夫は鈍感な人なのか、痛みや苦しみもあまり感じなく50代から
    83歳まで寿命を全ういたしました。進行がん3期が嘘のように。
    誰もが必ず苦しみや痛みがあるとは限らないものかもしれません。

    わかっていて意識すれば、神経がいつもその辺にあるので見逃すくらいの
    かすかな痛みも感じてしまうのかもしれません。知らずに済むなら私は
    自分のことは知りたくない気持ちです。

    本当のことを知っていたほうがやり残すことがないからと言いますが、知って
    意識するより、私は自分のことは知りたくありません。

    だんだん弱ってゆくのですから、もしかしたら死ぬのでは?と、夫も口にしま
    したが、私は命の期限を教える勇気がなく、肺炎を起こしているのだから、した
    たかだから、よく食べて負けない体力をつけようね。綱引きと同じで引っ張られ
    ないように、食べたくなくとも食べられたら、食べて頑張ろうと酷なことを言い続けだましました。可哀想だけど余命が一か月ないなんて言いませんでした。

     綱引きと同じだから食べられたら食べて、体力つけて頑張ろうというと、うん と、素直にこっくりとうなずきました。余命が一か月ないなんて言いません。

     ナースの方が、お荷物が多すぎるから、少しおうちに持ち帰ってくださいねと、
    いわれた時も、夫はダウンの上着を自宅に帰るときとき、きて帰るから、それは置いてくれと、いうのです。涙があふれます。気が付かないように泣きました。だますほうも
    胸が痛みます。

     貴方もどう対処なさるのか、つらいところですが、親子ですからお父様の気性で説明やうそのほうがいいかはわかると思います。書いていても涙があふれます。うちの夫は病には無知なほうでしたから、私の言うことは素直に信じてくれましたが、今でも思い出すと涙があふれます。

     どうぞ心残りでなくなさって上げてくださいませ。

  • 医師の口から父親に余命宣告が下された。
    なんの感慨もなかった。

    まるで、終点を知らせる車内アナウンスのようにそれを聞きながら
    一切の動揺も、なにか特別な感情も起こらない自分自身を、そのとき確認していた。

    治療をしなければ3ケ月。

    治療をしても、あと1年ぐらいらしい。

    自分が願っていることは、どうか苦痛のできるだけ少ない死を迎えてほしいということ
    それだけだ。

    苦しんでいる親の耳元で、「がんばって!!」などと叫ぶつもりはない。
    手の施しようがないという医者を非難するつもりもない。

    ただ、本人が納得する死を選んでくれれば、と思うだけだ。
    生きることの裏付けとしての死が、彼自身に与えられることを願うだけである。

  • 父親がガン宣告を受けた。
    ただし、その宣告は、まだ父親以外の者にしか伝えられていない。

    しょせん他人ごとだからだろうか、なんの気持ちの動揺もない。
    【死】を受け容れてもおかしくない年齢になってからのガン宣告。

    それもひとつの死に方だろうぐらいの思いしか今のところないのだ。
    <生>の向こう側へ逝けることへの祝福もないが、

    ことさらに、【死】出の日を待つ者への、時間を先取りしたような
    哀悼の感情も起こらない。

    すべては、そのとおりに・・・・決められたとおりに進んでいく。
    それを、ただ眺めているだけでいいのかもしれない・・・・・。

  • 《欲望》存在が、【死】を恐怖するのは当然である。
    【死】は、「きめの粗い」物質活動の終了を意味するのだから。
    自らの終わりを受け容れるために《欲望》は、肉体的(精神的)苦痛を経験しなければ
    ならない。 疾病や怪我によって苦しむのは、そのためなのだ。

    しかし、〝意識〟存在は、そもそも【死】を恐怖することがない。
    なぜなら、【死】とは「きめの粗い」物質活動の終了ではあっても、「きめの細かい」
    極微小な物質活動においては継続している事態に過ぎないからである。
    つまり、〝意識〟存在が定位する次元において、【死】という概念自体が消滅するのだ。

  • 「癌」などの疾病、あるいは「怪我」によって肉体的なダメージを受ける頻度が年齢と
    ともに増加するということ。  また、「認知症」などの疾患によって精神的苦痛を蒙る
    リスクが加齢とともに上昇するということには、どんな意味があるのか?

    すべての人間は、その感覚的存在を維持するために《欲望》という「きめの粗い」精神
    活動を行っている。 注意すべきは、これは非物質的な何らかの作用というわけではな
    くて、あくまで「きめの粗い」微小な物質活動を意味するということだ。

    《欲望》は必然的に、その「きめの粗い」微小な物質活動=神経反応によって苦痛を認識
    したとき、その物質活動を終了させようとする。 これが【死】への《欲望》となる。
    《欲望》された【死】は、もはや恐怖すべき対象ではなくなっているのである。

    なぜなら、恐怖とは、そもそも《欲望》されぬ状況に対して起こる感情だからだ。
    つまり、「癌」などの疾病、あるいは「怪我」によって肉体的なダメージを受ける頻度が
    年齢とともに増加するということ。また、「認知症」などの疾患によって精神的苦痛を蒙
    るリスクが加齢とともに上昇するということには、【死】への《欲望》を、人間の「きめ
    の粗い」精神活動の中に用意するという意味があったということである。


    しかし、【死】を《欲望》しない者も存在する。
    それが、「癌」などの疾病はもちろん、「怪我」あるいは「認知症」や「うつ病」すら
    も克服可能な「きめの細かい」極微小な物質活動である〝意識〟のはたらきを発動し得
    る人間存在なのだ。
    この人間存在のことを、こう呼ぶことにしよう。

    ・・・・・・・・・ 〝意識〟存在 ・・・・・・・・ であると。

  • A群:自分自身の間違いを素直に訂正する〝意識〟をもつ者の集合

    B群:自分自身の間違いを素直に訂正する〝意識〟をもたない者の集合


    A群、B群において、「進行癌」に罹患する者の人数の統計をとる。


    これは、〝意識〟が「遺伝子配列の間違い」を修正する作用があるかどうかについての
    実験であり、〝意識〟と物質との相関関係を解明する契機でもあり得るだろう。

  • >>17

    お元気そうで安心しております。
    今や、癌細胞を撃滅できた人がノーベル賞ものだと思います。
    非科学的な言い方ですが、人口が増えすぎたから、こんな現象が
    起きているという訳ではないのでしょうね。

    昔は7人から10人くらい、子供を産んでいた時代でしたが、栄養や
    医学の進まない時代で,幼児は田舎では幼い時にはやり病で、みな
    亡くなっていますね。疫痢で朝げんきな子供が夕方には亡くなる
    恐ろしい病でした。

    でも、医学の進歩でなおる病は克服できました。だが、なんで癌は?
    自分が根を下ろした場所を癌は死滅させるような、愚かな存在なので
    しょうか?共存すれば自分も生きられるのに。

    癌と同じ怖い病は、認知症も考え方で怖すぎます。私は車の事故と認知症は
    一番怖いと思います。この世には恐ろしいことがたくさんありすぎます。

    それで、もし貴方が癌にかかったらと、想定したらどんな策を取られますか?
    あとは死につえてですが、死んで帰ってきた人はいないのですから、本当の
    事は解らないが、苦痛でない物質が人体で作られて苦痛でなく逝けるなんて
    いう人もありますが、死んだら帰れないのですから、信じるにはあたえしない
    ように思います。

    いろいろ考えると、未知数なものがいかに多いかです。あとは人には運不運が
    あるということも避けられない事実ですが、運って何でしょうね。たまたまだったと
    いうだけのことでしょうか?まだら。

  • 「間違った自分自身」に固執してしまう者が「癌細胞」に侵されやすいという原理が
    あるのかもしれない。

    仮説ではあるが・・・・。

  • 増殖した「癌細胞」が、なんの医学的処方も受けることなく縮小することがあるらしい。 
    しかも、それは珍しい話ではないのだ。 
    そういう現象を「奇跡的に」などと表現したがる者ほど、実は医学に依存し医学に殺され
    ることになるのかもしれないのである。

    「癌細胞」を縮小させる〝自己免疫力〟という作用があると言われている。
    しかし、多くの人間は誤解した捉え方をして、逆に「癌細胞」の増殖を促進し免疫力を下
    げているとしか思えないのだ。

    免疫力は、自分自身の《欲望》を解放してやるほうが上昇するという思い込みがそれなの
    だが。 自分のイヤなこと(ストレスがかかること)は一切やらず、したいことだけをし
    ていれば気持ちもラクになり免疫力も上がって「癌細胞」をやっつけてしまえるんじゃな
    いかという短絡的な発想である。

    しかし、よく考えてみれば「癌細胞」も自分自身なのだ。
    それは、外部から侵入したものが自分自身に攻撃を加えているのではなくて、自分自身が
    自分自身を攻撃しているのである。
    ただ、「癌細胞」と化した「自分自身」のほうは、「間違った自分自身」なのだが・・・・・。

    「間違った自分自身」に《欲望》のままの行為を許せばどうなるだろう?
    想像するだけで、恐ろしい結果がありありと現前するではないか!
    こう考えてみると、
    〝自己免疫力〟とは、《欲望》のままに発現する力というよりも「間違った自分自身」を
    正すという〝意識〟を含んだ概念と捉えるべきなのかもしれないのである。

  • もしかしたら、こういう考え方もできるのかもしれない・・・・・。


    恐怖すべきだったのは、実は「がん」ではなく、それを治療(排除)しようとした医者だったのだ、と。


    「がん」は、ほんとうは「長く付き合えるいい奴」なのに、医者は自分たちのエゴとプライドと欲得のために
    それをひどく恐ろしいもののように宣伝することにした。


    まるで、戦争中の敵国や敵対する民族の悪評を広めるように・・・・・・


    そこに、誤解に満ちた、誤解だからこそ得体の知れぬ怖さに悩まされる「がん」の真相があるのかも
    しれないのである。

  • >>11

    こんばんは。

    「がん治療を受ける人へ送る言葉」でしたね。自分の家族語りではないのに、
    癌治療の人への贈る言葉ではないことを的外れに書いてしまいましたね。

     でも、こういう余命3年が25年も生きてくれたことが、あるという事実が
    他の人の身にも起りうるかもしれないと思い、癌は絶望ばかりりではないと
    言うことを知ってほしかったのです。


     ご自分のことより他者への思いやり立派です。でも、ご自分も大事にしてほしいです。まだら。

  • >>10

    このスレッドの趣旨は、「がん治療を受ける人へ送る言葉」としてふさわしいものは何か
    を模索してみることです。
    まだらさんの述べられた配偶者のお話しから得ることができた言葉は、
    『ガンである事実よりも自分が生きている事実に気付こう』とでも要約できるのかもしれません。

    それはそれで素晴らしいことだと思いますよ^^
    ありがとうございました。

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