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南洲先生

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  • 2017/02/28 19:24
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    明治大正時代、主に西郷さんを知る人々によって書かれた文献から。

    その一、西南戦争時熊本鎮台指令官「谷干城」どんの見た西郷さん。






    ・・・御一新前に、西郷さんが良く親切に世話してくれた御恩は今でも忘れない。。。。。。

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    nan***** 2月28日 19:24

    >>2968

     この戦役中、艦隊勢力を用いたのは大体三方面に分れている。

    一は九州の西岸即ち肥後地方に於てし、一は九州の南岸即ち鹿児島地方に於てし、尚一は九州の東岸即ち豊後地方に於てしたのであるが、最初は九州西岸に主力を用いていた。

    初め鹿児島不穏の報に接したとき、海軍は直ちに出航準備を諸艦に命じ、伊東祐麿が艦隊指揮官となり、清輝、春日の二艦を率いて先ず鹿児島に赴き、孟春、鳳翔、丁卯、東、筑波の諸艦前後して東京湾を出発し、或は九州所々の要害を扼して人心を控制し、或は海上を巡邏して大小となく薩軍の運送船を捕獲し、以て海上交通を遮断した。

    伊東指揮官は種々偵察の上、鹿児島の空虚なる事を知り、陸軍を分遣して薩軍の内援を絶つべく建言したが、その中熊本城が包まれて危機に陷ったので、川村参軍は諸艦を熊本の南方川尻及び八代海に遣し、薩軍の背面より声援を張って陸軍の応援をさせ、二月二十五日には臨時海軍事務局を神戸に置き、以て東西の声息を通じ、諸艦の需要を弁じ、軍の進退を敏活にさせた。

  • >>2967

    第二種船隊
     高雄丸   486  1400   ―  少佐 杉 盛道
     テーボル船 489    85   ―  大尉 黒岡帯刀
     玄 武 丸 400   100   ―  少佐 児玉利國
     肇 敏 丸 494    ―   ―  雇  植田吉蔵
     合  計 1869   1589

    第三種艦船
      東   1282 1200   8  中佐 澤野種鐡
      雷 電  370   128   5  大尉 増田廣豊
      静岡丸  334   192   4  大尉 三浦 功
      通計丸  57 95   2  大尉 山澄直清
      回天丸  76    30   2  中尉 和田義政
      高龍丸  ―    ―   ―  
     合  計 2219 1645  21

     表中のテーポル船は工部省より、玄武丸は開拓使より海軍に付属し、静岡、通計、回天、萬龍の四艘は民有を傭使したのである。

  • >>2966

    第一種艦隊
    艦 名   屯 数 実馬力  砲数  艦 長
     龍  驤 2301  800   14   中佐 福島敬典
     筑  波 1978  500   12   大佐 松村淳蔵
     浅  間 1421  ―    11   少佐 緒方惟勝
     春  日 1296  1200   7   少佐 礒邊包義
     日  進 1382   710   12   中佐 伊東祐亨
     清  輝  884   720    8   中佐 井上良馨
     孟  春  357 191    5   少佐 笠間廣盾
     鳳  翔  316   213    5   少佐 山崎景則
     丁  卯  125   ―    5   少佐 青木住眞
     合  計10,034 4,334  79

  • >>2965

    十一 海 軍 の 活 勧


     十年戦争に於いて、世人は陸軍が苦戦以て偉功を奏したことをよく記憶している。然るに海軍の功力に就ては余り知らぬ人が多い。

    けれどもその実際に就て見るに、陸軍の行動を敏活ならしめ、薩軍をしてその武力を恣(ほしいまま)にせしめなかったのみならず、遂に彼が如き最後に陷らしめたものは、海軍の活動與って力あらねばならぬ。


     当時、その所轄艦船に乗込んだ者一千九百八十一人、海軍付属及び傭船に乗組んだ者二十八人、各地に派遣した者二百七十一人、合計二千二百八十人がこの戦争に従軍した。

    又艦船の数は十九隻で之を三種に分ち、第一種は肥後或は鹿児島附近にあって所々に転戦し、第二種は重に運送を司り、陸兵を所々に護送して上陸させる任に当り、第三種は伊予、土佐の辺海を警備して居った。


    今各艦の勢力及び艦長の氏名を挙げると次の如くである。

       征討参軍 海軍中将兼大輔 川  村  純  義

            大   佐   仁  礼  景  範

            中   佐   有 地  品 之 尢

            中 秘 史   有  馬  純  行

            主計中監    谷  元  道  之

       艦船乗員 少  将    伊  東  祐  麿

  • >>2964

     山口には町田梅之進、田中圓(円)亮、大多和道輔等二百余人、前原一誠の遺志を継いで、五月下旬兵を萩に挙げたが、山口警察隊の激撃するところとなって潰散し、或は戦死し、或は縛に就いて斬に処せられた。

     その他、土佐には林有造、大江卓等があり、紀州には陸奥宗光の部下があり、伊予の大洲宇和島には武田豊城、飯淵貞幹等があり、阿波徳島には井上高格があった。

    彼等は何れも政府顚覆の志を同じうし、西南の風雲を観望して未だ発せざるに先ち、或は政府の為に捕へられ或は計画を中止し、放抛して大事に至らなかった。

  • >>2963

    都城隊長東胤正も亦、十年の役都城隊を組織してより各地に転戦し、九月二十四日岩崎谷に戦死している。

    福島県の坂田諸潔の最後も亦悲壮であった。

    彼は他の同志と同じく城山籠城にまで始終したが、同朋相争うて国力を疲憊(ひはい)するに忍びずとなし、終に野村忍介、伊東祐隆、神宮司助左衛門、別府九郎等に説いて降伏の議を立てた。

    けれども首謀者の故を以て十月二十日長崎臨時裁判所にて死刑の宜告を受け、大山綱良、池辺吉十郎、後藤純平等と共に斬に処せられた。

    もとより降伏は法廷に於てその心事を、天下後世に留め置かんとするの趣旨であったのである。



    筑前には越智武部党があった。

    越智彦四郎、武部小四郎等同志一大隊を組織して薩軍と相応じ、三月二十八日福岡城を攻撃したが成功しなかった。

    その後各地に転戦して四月一日旧秋月城に入ったが、翌日官軍に襲撃せられて衆寡敵せず潰敗して縛に就き、二人共斬に処せられている。

  • >>2962

    今一人の出色せる人物としては、恐らくは佐土原隊総裁島津啓二郎であろう。

    彼は佐土原藩主鳥津忠寛の第三子、幼少降て家臣町田宗七郎の家に養われ一時町田姓を名乗ったが、後島津氏に復した。

    明治二年上京して勝海舟の門に入り、翌年米国に遊学して留まる事七年に及んだ。

    十年の役起るや同士を糾合して砂土原隊を編成し、自らその総裁として薩軍を援け、各地に転戦して遂に城山に入り、九月二十四日城山不落と共に岩崎谷に戦死した。

    この時年二十一歳であったといえばその颯爽(さっそう)たる若殿振りや察すべしである。




    旧高鍋藩主秋月種任の第三子、秋月種事も亦見逃す事の出来ぬ人物であろう。

    風采雄偉、豪傑の資を有し、用兵の術に長じた。

    十年の役高鍋隊を組織して、肥・日・隅の間に転戦し、遂に九月二十四日城山に戦死するまでのその行動は一貫している。

  • >>2961

     如上の中、最も群を抜いた人物は飫肥隊の中心人物小倉処平であった。

    彼は維新の初め上京して大学南校に入り、明治四年英国に留学した。夙に意を経世の学に留め、平生慷慨政府の欧化主義を難じた。

    その志西郷隆盛と同じであったので、郷人は彼を『飫肥西郷』と呼んでいた。

    七年江藤新平が佐賀の乱破れ、鹿児島から潜行した時、厚く之を遇して土佐に逃れしめたのは彼であった。

    後上京して大蔵省七等出仕であったが、十年の役起るや、名を郷里の鎮撫に托して帰り、同志と相謀って飫肥隊を組織し、薩軍に投じて奮戦した。

    八月十七日長井の役に傷を負い、事の遂に或らざるを知り、従容屠腹して死んだ。年三十二。

    後の大外交家たりし侯爵小村壽太郎の如きは彼の推挙を受けて世に出た人である。

  • >>2960

     日向は旧島津氏諸県郡を領し、その余の数郡に佐土原(島津淡路の所領)飫肥(伊東氏)延岡(内藤氏)高鍋(秋月氏)の四藩があった。

    廃藩の時宮崎県を置き、間もなく廃して鹿児島県に合し、十年の役に及んだ。

    薩軍大挙東上するを聞き、日向の有志は先きを争うて之に加担した。

    曰く島津啓二郎、鮫島元の率ゆる佐土原七小隊。

    曰く伊東直記。

    川崎新五郎、小倉處平(おぐらしょへい)の率ゆる飫肥三小隊。

    曰く大島景保、藁谷英孝等の率ゆる延岡隊。曰く秋月種事、泥谷直養、柿原宗敬、石井習吉等の高鍋隊。

    曰く坂田諸潔等の福島隊、曰く東胤正等の都城隊。

    総じて六箇団体を算せられた。此等の諸隊も大抵日向各地の戦闘までは従軍して苦戦している。中には最後まで薩軍に従い、城山で壮烈なる最後を遂げた者もある。

  • >>2959

    【報国隊は一名竹田隊である。 …】
     報国隊は一名竹田隊である。

    五月十三日薩軍の竹田に入るや、堀田政一、田島武馬、井上恰等の同志一千余人を糾合して報国隊を組織し、八月十七日長井の戦に至るまで薩軍に党して健闘した。

    堀田政一が長井で官軍に降った時には部下僅に四十三名となっていた。堀田は大分に送られた後、十月六日斬に処せられた。

     人吉では旧相良藩士那須拙速、犬童治成、神瀬鹿三等の同志が、人吉隊二小隊を組織して薩軍に応じた。

    熊本敗北の後、六月四日人吉亦陥るに及び、別働第二旅団に降った。

  • >>2958

     大分縣からは、中津、報国の両隊が参加した。

    中津隊は増田宋太郎、後藤純乎、梅谷安良等百五十人の組織せしもの、三月三十一日中津支庁を襲撃し、四月五日二重嶺の薩軍に合した。

    後四方に転戦し、生残りせし増田、梅谷等は可愛嶽を突破して鹿児島に入り、九月三日夜貴島清の決死隊に属して米倉襲撃の挙に加わり、奮戦終に戦死した。

    その前日増田は中津隊の同志を招き

     『形勢今日に窮迫しては最早如何ともなし難い、諸君は皆春秋に富み、前途有爲の士であるから、幸に生命を完うして故郷に帰り、我党の心事を天下後世に伝えて貰いたい。』と述べた。


     『今になって我々は皆郷国に帰り、足下一人丈けが義を行おうというのか。我々にして。国に帰るが利であるならば、何故足下独り帰らないか。』と皆の同志が言った。

    増田は之に答へて

     『予は城山に入って初めて西郷先生に会い、景慕の情に堪えない。一日先生に接すれば一日の愛がある。十日接すれば十日の愛が生じて来る。予は先生と生死を共にする決心である。』

    と語り活然として涙下った。


    衆皆之を聞き貰い泣きして一言も無かった。

    増田の死する年二十八、識見気節嶄然(ざんぜん)として群を抜いていた。後藤純平は城山陥落の時官軍に降り、十月二十日長崎で斬に処せられた。

  • >>2957

    熊本から薩軍に応じたものは、熊本、協同二隊の外に、中津大四郎の率いた一小隊龍口隊がある。

    中津は平生国粹主義を奉じ、政府の欧化政策に反対した。

    八月長井の戦に於て万事休し、部下に解散を諭したる後従容として自殺した。


    今、可愛嶽の登り口には苔蒸したる中津の墓石があり、

    『武夫(ますらお)の身はこの山にすておきて、名を後の世に残す嬉しさ。』

    の辞世が刻まれてある。

  • >>2956

     池辺は城山陷るに及び、鹿児島を距る約三里の郡山郷花尾にて屠腹せんと決心している時、遂に官軍の手に捕えられ、長崎に送られ斬に処せられた。


     池辺等の学校党と平生相合わなかった民権党も亦、専制政府を打破する目的を同じうして起った。
    崎村常雄、宮崎八郎、平川惟一、有馬源内等の組織した協同隊がそれである。

    総員三百余名、彼等も亦八月長井の戦に至るまで半歳の間、官軍と戦うて奮闘した。

    而して同志中その名天下に著はれた平川は、三月三日鍋田に、宮崎は四月一六日萩原堤に、何れも早くも戦死している。

  • >>2955

    池邊はこの語を聞いて心胸豁然(かつぜん)欣喜に堪えなかった。

    そこで佐々がこれから隆盛を訪門しようと請うたのを、『平生沈黙寡言の村田が、あそこまで打ち明けて話した以上は、もう西郷に会う必要は無い。』と斥けて、急ぎ熊本に帰り、杉浦新吉郎、桜田惣四郎、山崎定平、緒方夫門、大里八郎等の同士に報告した。



    池辺はこの時すでに西郷と共に一命を捨てて立ち上がる決心をしたのである。

    それ故、間もなく刺客問題が起こり、形勢急に迫るや、同志を結束して専ら弾薬の製造、武器の準備に着手し、薩軍熊本に向かうの報あるに及んで鎮撫本局を設け、名を鎮撫に託して秘密に計画した。

    熊本攻城戦始まるや、池辺自ら大隊長となり、杉浦新吉郎副大隊長となり、ここに熊本隊の組織成って、爾来半歳大いに官軍を悩ました。

  • >>2954

    党 薩  諸  隊


     十年の役、隆盛の徳望を慕い、政府顚覆の志を以て薩軍に与する者、九州各地に蜂起した。その最も大部隊を編成して、熊本攻城の初めから八月十七日長井村の降伏に至るまで半歳に亘って官軍と戦うた者は池邉吉十郎の率ゆる熊本隊であった。


     池邊は前にも述べた通り、熊本学校党の首領であった。

    十年一月佐々友房と共に鹿児島に行き、村田新八と会って語った。池邉曰く、

     『今、天下の俊傑朝野に軋轢(あつれ)して、少しも政治の統一が無い。西郷先生は如何なさる積りだろう。』

    村田は笑って答えた。

     「いや、そのことなら心配は要らぬ、予も亦曾てその事を先生に問うたが、それは自分で能く
     収攬(しゅうらん)出来ると申された。思うに彼等群雄は皆悉く先生嚢中(のうちゅう)の物である。』

    と、更に語を次で、  
                       `
     『天下の人物を見渡したところで、先生ほどの人物は無い。世人は先生を豪胆たる大軍人と観て居る。鹿児島も亦同じ。ひとり予は先生を以て深智大略の英雄と思っている。西郷先生を推して帝国の大宰相たらしめ一日も早くその抱負を実行せしめるのは我々の責務である。』と。

  • >>2953

     九月一日吉野方面の戦闘が未だ全く終わらざるに、薩軍の前衛は早や既に鹿児島に入った。


    この日私学校に在った新撰旅団の兵はその警戒を怠り、隊伍を散じ、又銃休憩して居った。この隙を窺い薩軍の猛者仁禮仲格以下十二三名の抜刀隊が斬込んだので、官軍狼狽支うるの暇なく壊乱した。

    又貴島清は部下二十名を伴い、城山に斬入ったが、時あたかも染川濟の警視隊が洞窟附近の前哨引揚げ最中に遭い、激戦久しきに亘った。

    折柄仁禮仲格の勝報に接したから、この方面の戦闘を後続の薩軍に委し、自らは手兵を提げて松原神社の官軍砲台に突入し、忽ち之を占領し、砲三門を奪うて之を高地稲荷堂と新照院山に備え付けた。


    この時城山も亦遂に薩軍の占領するところとなった。

    かくして城下は殆ど薩軍の有に帰し、官軍にして死守一塁を完うしたのは、ただ米倉あるのみであった。


     この夜西郷隆盛、桐野利秋等中軍を率いて鹿児島に入ったが、後軍も夜十二時頃鹿児島に到着した。そこで本営を上の一橋の川上邸に置き、次で之を城山に移した。




     嗚呼、薩軍は二月十五月雪を蹴って鹿児島を出発し、百九十九日目の九月一日再び鹿児島に帰り来った。


    篠原、永山西郷小兵衛を始め、錚々たる薩軍の諸将中戦死して姿を見せなかった者も多かったが、隆盛の温容は依然として鹿児島の市中に光り輝いたのである。

  • >>2952

    花棚に入った者は薩軍の本隊即ち中軍であった。

    ここに於て松村中尉の一個中隊は帯迫に、出羽大尉の一個中隊は花棚に向い、又大久保大尉の一個中隊を両分してその左右に応援し、兼ねて吉田街道の岐路に備えしめた。

    すでにして松村中尉の隊専ら帯迫の薩軍を破り、追撃して実方に至ったが、薩軍左右の山に拠り嶮を要して防ぎ、官軍之を抜くことが出来なかった。

    又出羽大尉は花棚を攻めたが、ここでも薩軍は要地に拠って防戦し、官軍後援至らず戦は有利でなかった。


    この時薩軍は蒲生地方より来たれる友軍と相合し、その後軍河野隊を出して官軍を支へしめ、前軍邊見隊は中軍と共に道を伊敷に取り迂回して鹿児島に入った。

    この中に一輿(こし)あり、輿の主は隆盛であったという。


    官軍は三好少将すでに帯迫に在り、野津大佐自ら戦線に臨み、将士を鼓舞して薩軍を横撃し、激戦苦闘午後五時に及んだ薩軍はますます増加するに反し、官軍は諸方面の追撃兵未だ来たり合せず、城下の連絡も亦全く絶えたから、少将は全軍を帯迫に集め、諸軍の至るを待たんとし、急に令して兵を収め、悉く帯迫に会せしめた。

  • >>2951

    之より先き官軍では曩(さ)きには可愛嶽に於いて、近くは横川に於いて薩軍の為めに乗ぜられ、事毎に失敗を繰返したから、三好第二旅団長は大に憤慨し、野津参謀長と共に自ら大久保大尉、松村中尉の三個中隊、入江中尉の工兵一個分隊を率いて九月一日海路鹿児鳥に入り、新撰旅団の一個大隊と共に、路を分って薩軍を邀撃するに決した。


     新撰旅団の兵は本道韃靼冬冬より実方を経て吉野に向い、第二旅団は支路内之丸より催馬楽、川瀬を経て川上に於て吉田街道を扼(やく)せんとし、松村中尉の隊前衛となり、出羽大尉の隊後援となり、大久保大尉は本隊を指揮して午前五時鹿児島を発し、三好少将、野津大佐も亦之に継いで発足した。


     第二旅団の前衛隊、進んで川瀬に至る頃、会々一巡査が駄馬に騎って背後より馳せ来り一書を懐中から出した。

    その書は流汗に濡れて判読に難きところもあったが、これ即ち本道新撰旅団からの警報であって、薩軍伊敷より甲突川に沿いて鹿児島に突入することを報じたものである。

    次で亦薩軍已に宮浦に出で、吉野街道より来侵せんとすとの報があり、諸軍進みて川上に至れば、薩軍の前衛果して吉野街道より来るに出会した。そこで三個中隊を右転して帯迫より疾駆吉野街道に至り、薩軍を横撃したので、薩軍左右に散じ、帯迫及び花棚に入った。

  • >>2950

    野村は鹿児島出発の時から桐野の為に妨げられてその策用いられず、薩軍遂に今日の窮境に陷ったのが痛憤に堪えられなかった。

    そこで今ここに殆ど蒲生に置てけぼりを喰ったのが残念でたまらず、舌端炎を発せんばかりに桐野に喰ってかかったが、桐野は頓と相手にせず『西郷先生に問うが可いではないか。それとも君が敵を懼(おそ)れるのなら、何故守を捨てて走らないか。』と一語冷やかに野村の肺肝を突いた。

    野村は満面朱を濺(そそ)ぎ、怒髪天を衝かんばかり、憤懣(ふんまん)の極、一語をも発せず蒲生に引返したが、間もなく哨兵は敵軍の来襲を報じて来た。

    野村は創(きず)に悩む足踏みしめ、一刀を拔いて敵軍と斬死にする覚悟であったが、衆の者はこの寡兵を以て見すみす敵に破られるより、この地を退いて西郷先生の軍に合することこそ正道であると言って承知しない。

    とうとう無理から籠に乗せられて、野村は吉田を指して疾行し、漸く前軍に加わることが出来た。

  • >>2947

    九月一日、薩軍は蒲生を発して吉田に向った。

    この時隆盛は桐野、村田等と議し、一部隊を駐(とど)めて蒲生城を守らしめんとし、野村忍介に守備の任を命じた。

    隆盛の意では野村をして蒲生に官軍の侵入を拒(ふせ)がしめ、本軍は鹿児島に於ける官軍を撃退し、然る後中原進出の策を講ぜんとするに在ったのである。

    然るに当時野村は創痍(そうい)未だ癒へざる故を以て固辞したが聴かれず、隆盛は鹿児島に向って出発した。


    野村は已むを得ず蒲生に於て官軍を拒ぐに決し、残兵を点検したが、その数僅に十余名、糧食亦二十苞に過ぎない。これでは到底防禦も出来ないから、せめて若干の守備兵たりとも呼び返さんと、隆盛を追うこと一里半に及んだが、まだ追いつかぬ前に桐野に出会した。

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