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  • 台湾の霊堂、日本兵弔い続け70年 


    「心一つに戦った」絆今も大切に


     戦後70年、第二次大戦で亡くなった日本兵を弔い続ける小さな霊堂が台湾・新竹市にある。戦時中、日本兵と絆を育んだ住民たちが、米軍による空爆の犠牲者を悼んで小さな石などを祭るようになり、終戦後の戒厳令下、親日的な行動が許されなかった時代も大切に守り続けてきた。

    現地の住民は「日本人と心を一つにして先の大戦を戦ったという思いがあったから、今日まで慰霊を続けてきたのだと思う」と語る。(永原慎吾)

     鮮やかな朱色の門をくぐると、絶え間なくたかれた線香の香りがほのかに漂う。地元住民が手を合わせる祭壇には、高さ20~40センチほどだが、軍刀を携えた3体の日本兵像が縦一列に鎮座する。

     台湾海峡からの強風が吹き付けることから「風の街」とも呼ばれる新竹市。その海岸近くに位置する道教の寺院「新竹代天府」の境内に、日本兵を祭る「聖軍堂」がある。

    ■  ■  ■

     日本の統治時代、市内には日本軍の飛行基地があった。「日本兵は偉そうで、もし戦争に負けていなければ、今でも威張っていたかもしれない」と振り返る住民もいる。

     それでも多くの日本兵は規律正しく振る舞い、住民との絆を強めたと伝えられている。大雨の際、地元の橋が流されないか日本兵が警戒にあたり、1人が濁流にのまれて亡くなったとも言われている。

     戦局が悪化する中、戦火は台湾にも及び、昭和18年11月には新竹市の基地も米軍による空爆を受け、25人の日本兵が亡くなった。記録には残っていないが、終戦間際にも爆撃があり、日本兵だけでなく住民も犠牲になったという。

     新竹代天府の現在の責任者、彭徳林(ポントゥリン)主任委員(63)によると、終戦直後から日本兵の魂が宿るとされる石をお堂に祭るようになった。国民党政府が戒厳令を敷き、親日的な行動を許さなくなっても住民による慰霊は途絶えなかった。役人から「日本兵を祭っているのか」と質されるたびに「台湾人だ」とごまかし、守り通したという。

    ■  ■  ■

     国民党政府を率いた蒋介石(1887~1975年)が死去した後、日本兵の像が安置され、お堂は「聖軍堂」と名付けられた。死者を悼む慰霊祭も続けられている。

     新竹市に住む廖受章(リャオショウチャン)さん(84)は、今も慰霊を続ける1人。13歳で親元を離れて日本に渡り、神奈川県にあった高座海軍工廠(こうしょう)などで少年工として戦闘機づくりに従事した。

     空襲におびえながらの作業だったが、「子供や夫を戦地に送った日本人たちに食事をごちそうしてもらい、かわいがってもらった」と振り返る。

     終戦後、台湾に戻り、同じく少年工として働いた台湾人らで作る「台湾高座会」に入会し、聖軍堂の存在を知った。

     戦後70年もの間、なぜ台湾の地で日本兵が弔われ続けているのか。廖さんは、かつて学んだ流暢(りゅうちょう)な日本語で「日本人と心を一つにして先の大戦を戦ったという思いがあったから、今日まで慰霊を続けてきたのだと思う。あなたたちの先祖を台湾人が大切に思っていること、日本と台湾の絆が残っていることを知ってほしい」と語った。

    聖軍堂に地元の神々とともに安置された日本兵の像(写真左の3体)=台湾・新竹市

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  • 禁断の扉をあけましたね!!






           取り返しのつかない事態に発展するかも・・・・・






     保導連盟事件(ほどうれんめいじけん)とは、1950年の夏、朝鮮戦争で敗走していた韓国軍が、共産主義からの転向者やその家族の統制組織「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯など、少なくとも20万人あまりを大量虐殺した事件である。


     朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会の研究では60万人から120万人が虐殺されたとしている。韓国政府の真実•和解のための過去史整理委員会は朝鮮戦争の初期に韓国政府によって子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害し、排水溝や炭鉱や海に遺棄したことを確認した。


     共産主義者に虐殺の罪を着せていた。韓国ではこの事件はタブー視されており、このような失政から目をそらすために反日教育をしたとも言われている.李承晩の韓民党は全羅地方の資本家・湖南財閥が中心になって結集、組織した政党であるが併合時は日本人であり親日家と言うのもおかしいと思われます。


     終戦時日本に生活基盤を持たれ朝鮮に帰国されなかった方は245人と言われてます。戦後在日の方は60万人います。なぜ増えたのかは朝鮮戦争以降密入国された方が多いのではないでしょうか。


    245人の方から60万人の子供孫を増やそうとしたら何人子供を生めばいいのか鼠ではない限り無理でしょう。在日参選権が提出されるようですがこれは日本人として断固反対です。


    処刑された人たち。韓国保導連盟事件。 ↓

    「心一つに・・・」 絆今も大切に 禁断の扉をあけましたね!!               取り返しのつかない事態に発展するかも・・・・

  • 「女性のための国際戦犯法廷」について

    1.「女性国際戦犯法廷」主催者“vaww-net-japan”は、発足時、下の住所でした。
    代表:松井やより 副代表:中原道子 西野瑠美子 事務局長:金富子
    〒135-8585 東京都江東区潮見2-10-10


    つまり『女性国際戦犯法廷』を主宰した団体は、「カトリック中央協議会」「日本カトリック正義と平和協議会」のもとで生まれたのです。

    2.「女性国際戦犯法廷」に対する冒とくと誹謗中傷を許さない日・朝女性の緊急集会」というのが、2005年2月1日(火)午後1時~3時、衆議院第2議員会館第1会議室で行われました。議員会館を会場として手配したのは民主党衆院議員の石毛えい子氏でした。これはいわゆるNHKの番組改変に抗議してのものです。


    この“実行委員会”連絡場所、03-3816-4344(担当チョン)というのが、
    朝鮮総連傘下
    ○在日本朝鮮民主女性同盟(女性同盟)(中央本部) 委員長 金昭子
    〒112-0001 東京都文京区白山4―33―14
    TEL 03(3816)4344 ←これに同じです。

    「女性国際戦犯法廷」に対する冒とくと誹謗中傷を許さない日・朝女性の緊急集会・実行委員会は、朝鮮総連下部機関「在日本朝鮮民主女性同盟(女性同盟)」 の中にあるのです。

    金昭子氏は「総連・中央委員会副議長」であり、更に
    [朝鮮新報 2003.8.5]によれば、

    『3日行なわれた最高人民会議第11期代議員選挙で金正日総書記は、第649号選挙区で全有権者から得票、当選した。今選挙では総聯中央の徐萬述議長、許宗萬責任副議長、梁守政副議長(商工連会長)、金昭子副議長(女性同盟中央委員長)、張炳泰朝鮮大学校学長、朴喜徳総聯中央経済委員会副委員長を含む687人が選ばれた。(朝鮮通信)』

    つまり北朝鮮最高人民会議代議員(国会議員)なのです。
    カトリック正義と平和協議会を発祥の場所とした“VAWW―NETジャパンは、いま朝鮮総連のコントロール下にあり、その責任者は北朝鮮本国最高人民会議代議員の金昭子です。


    勿論、「カトリック正義と平和協議会」も深く関与し続けています。深く関与するというより、本来北の工作員であるものがカトリックに侵入しているのでしょう。
    そしてそれは教育界、政界も同様と思います。

    「心一つに・・・」 絆今も大切に 「女性のための国際戦犯法廷」について  1.「女性国際戦犯法廷」主催者“vaww-net

  • 徐載弼の高潔な魂



    校書官副正字の官職にありながら金・玉均の
    勧誘を受けて、東京の戸山陸軍幼年学校に一年間(
    一八八三)留学した。彼は慶應義塾にて日本語を学び、
    先進国日本の諸制度や文物等を開眼望眺していた。



    しかしクーデターは失敗に終り、
    徐氏は金・玉均・朴泳孝・徐光範らと共に日本へ亡命した。
    彼は逆賊とみなされ、徐氏一家は悲惨な結末となる。

    彼の父母と妻の兄は服毒自殺し、弟は処刑され、
    妻は舅姑に従い自殺した。二歳になる息子は面倒を
    見る者がおらず餓死したと伝えられている。

    (同じ東洋人なのに日本人よりも
    徹底してるのには言うべき言葉なし!
    哀れ。悲惨な末路。)



    その頃、国王のロシア公館播遷という事変が起こり、
    国家の威信がまるつぶれになると、彼はロシア公使館で
    国王に謁見し、王宮に還御なさるよう懇切に進言したが
    入れられず、親露派の李範晋などは彼を名指してあいも
    変わらぬ反逆児だと奏上したこともあった。

    このような
    ことがあってから徐載弼は、国王や政府の計画とか
    事業などとはきっばり緑を切り、国民の啓蒙のため
    物心両面から誠意を尽くすことになった。

    (これが彼の今後の既定方針となる。)

    徐載弼と李承晩 -その政見相違-



    徐載弼の帰国は徐氏一族に大きな喜びを与えた。
    彼らは徐載弼の帰国により、門閥が大きく隆盛するものと
    多くの期待をかけていた。しかし、徐載弼はソウルの
    親戚の家にも訪れることなく、公務を終えると
    朝鮮ホテルにて大部分の時間を過ごした。



    徐のこのような思想は彼が形式のみに拘泥しない最も単純な
    人間であることを物語っている。彼はすでに家族観念を
    清算した人間であった。ただ、彼の考えの中には公的
    業務のみがあり、国家の将来と現実の浄化と整理にあった。


    彼は、代が途絶えるという東洋的な思考法を重要視しない、
    西欧的思考法の所有者であった。一族では徐載弼の拒絶にも
    かかわらず、子孫が断絶することをいたく憂い、彼の改心を
    願って努力したが、すべては無駄であった。

    (乞い願わくは
    爪の垢を煎じて飲みたいものだと
    その気にさせる
    こういった人物もいたのだ!)

    「心一つに・・・」 絆今も大切に 徐載弼の高潔な魂     校書官副正字の官職にありながら金・玉均の 勧誘を受けて、東京の戸山陸軍幼年

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