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    oli***** 12月9日 06:54

    >>439

    >マハーカルナー師まで、

    本格的な方のようですね。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC


    2012年12月、メイミョー僧院にて、メソッドを修了した比丘の中から選抜された優秀者を対象に、4ヶ月間の指導者養成リトリートが開催され、パオ・セヤドーより二十四縁起識別法、道果法、天眼通、宿命通その他の高度なダンマを伝授される。
    リトリート終了後、パオ・セヤドーより、パオ森林僧院日本本部の設立と日本におけるパオ瞑想システム指導の命を受ける。


    修行の際に、原始仏教のスキームに大乗の教えなどを混ぜるべきではないとする[10]。テーラワーダの修行法の中でも、ここ200年の間に編み出された修行法については、初心者を瞑想にいざないやすいという利点は認めるものの、それで涅槃証悟に至れるかは甚だ疑問であるとする。不確実な新しい方法よりも、ブッダやブッダの弟子が実際に歩んだ「古きいにしえの道」を歩むことを選び、修行者にもそのように指導する。使用する修行マニュアルも、ブッダの死後1000年を経て成立したブッダゴーサの『清浄道論』(Visuddhi-magga)よりも、サーリプッタ長老の口伝集とされるパーリ仏典小部の『無礙解道論』(Patisambhida-magga)を優先する[8]。


    日本で活動しているテーラワーダ比丘の中では、法を伝えるときに「私」が無く、ブッダに忠実であろうとするその姿勢から、日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラを尊敬している[8]。

  • >>445

    > 私、きのこさんって存知あげませんが? 誰の別ハンですか?

    そおですか。^^

    18年も前からトリ子もご存じで
     (トリ子の冷蔵庫を買うのもご存じだったっけかな?w)
    オキタも最初からよーくご存じですよね。^^

    それでマジカナのきのこちゃんだけは知らないとは
    そんなつれないことをいわんといておくれやす。

    というわけで、あなたの好物は、キャベツ炒めといふ次第です。^^

  • >>442

    pipitさん

    前投稿で『妻女を買うこと』と書いてしまいましたが、英文に『bought』とあったり、東哲カテでも、嫁はんを金で買うて子供まで生ませたステ吉という表現が頻出したりで、面倒くさいのでついそうしてしまっただけです。

    たぶん『買う』ではなく『隷属させる』とかぐらいの意で、kiṇiṃsu も『妻女』ではなく、ṃsu が恐らく複数形を含んだ、つまり何と言いますか、オウムが使った『ダーキニー』と同じ意味あいですね。

    314の句でも、文脈上『ダーキニーは隷属する(王的な)主=pati を蔑むようになった』と訳して差し支えないような部分があったりしています。


    「昔のバラモンたちは戒律を守り、法の守護者だから尊ばれたのだ」というストレートな表現こそ残念ながらありませんが、ゴータマがこの経典でバラモンたちに遠まわしに言わんとしたのはそういうことです。

    中村御大は知ってか知らずか、当たり障りがないというかテキトーな表現をとっていますが、その故に自分で翻訳する者の中には、オウムのようにご都合主義的に解して悪用するのが出てきても致し方ないかなと思える経典ではあります。

  • >>442

    >karaさん何者っすか〜👀

    きのこさんのよくご存じのお人だと思いまちゅよ。ふふふ

  • >>440

    あ、釈尊の用語の使い方のことで思い出したので引用しますね。

    『これらの宗教用語に対して、ブッダが実行された方法として注目すべきことの一つは、使われている言葉の元にある信仰を否定するのではなく、その言葉が善き方向での用語の意味を持つなら、その言葉の意味に含まれてる間違った信仰だけを取り去られた。つまり、激しい方法で抗争するのではなく、相手を慈悲で慧に導き、別の理解がされていた言葉から、新しい知識と理解を生み、真理を見ることができるようにされたのである。
    ブッダは元の宗教で使われ定義されている言葉を特に仏法の方向に従って新しい意味で使われ、この意味において、元から使われていた言葉に新しい価値を付与された。』
    パユットー師『仏法』p19.20より引用

    しかも2500年以上経ってますしね〜

    ミャンマーで1954年に第六結集がなされたんですけど、その後ミャンマーが政変などでゴタゴタになり、結集で本決まりした経文と、決議前の資料が入れ違ってしまった混乱があったということを読んだことがあります。

    パーリ仏典内にもいろんな細かい違いがでてきたりで大変みたいですね。

    それでは失礼します(^O^)/🍀

  • >>440

    karaさん、こんばんは!

    難しいことは私にはわかりませんけど、

    すごいですね〜👀

    よくご存知ですね〜

    スッタニパータは上座部のお坊さんにとって、すごい繊細で難しくて、解説が気安くできるものやではないんだよという話は聞いたことがあります。

    一行解説するだけでもすごく意味がぶわっと広がって恐ろしいんだ、って
    一行の情報量がすごいのかもしれませんね。

    karaさん何者っすか〜👀

    情報ありがとうございます!

  • 【日記🌿】

    オリさんに紹介してもらった、マハーカルナー禅師の話は、信についての話で、私は『浄信』という言葉を思い出しました。

    それと一緒に、詩も思い出しました。
    比丘尼の長老方の詩で、友(ミッタ)から名前がとられたミッターさんに釈尊が授けた言葉を、ご自分の詩として歌ったもの、との解説がなされている詩です。

    【浄信出家のミッターよ
    友を悦ぶ者となれ
    安らな定に至るため
    多くの教えを学べかし】(ミッター長老尼8)

    また別の比丘尼、善行(バドラ)から名前がとられたバドラー長老尼には、

    【浄信出家のバドラーよ
    善行悦ぶ者となれ
    無上の定を得るために
    多くの教えを学べかし】(バドラー長老尼9)

    と釈尊から授けられたとの解説があります。
    史実かどうかはわかりませんが、釈尊が相手の名前を読み込んだ教えの詩を授けてた可能性を想像すると、微笑ましいです。

    このミッター長老尼と、バドラー長老尼は、釈尊の育ての母上、ゴータミーさまが、釈尊の許しを得てはじめて尼僧となった時、共に尼僧になった、カピラ城の女官と宮女だったと解説にはあります。

    最初、釈尊に出家を断られたゴータミーさまたちは、釈尊一行の後を追って、勝手に自分たちで頭を剃り、黄衣をまとい、数百キロの道のりを歩いて、ベーサリーの精舎の門前にたどり着いた時は姿はボロボロのうえ足は腫れて出血し、泣いていた、と読んだことがあります。
    ゴータミー王妃さまはじめその当時の女性がそんなに歩いたことなさそうですしね💦
    その姿を、アーナンダ長老が見つけて、びっくりして、釈尊にとりついでくださったとされています。

    のちにそのこと(とりついだこと)を、他の長老方から、アーナンダ尊者が怒られ責められた、って話も読んだことありますけどね(^^;;

  • >>424

    pipitさん。

    私の仏教知識なんて中村御大の足元にも及びませんよ。中村御大が中心になって編まれた仏教語辞典に私は何度も助けられ恩義も感じておりまして、御大を貶めて権威化を図ろうとする邪教の徒、例えば大川某などをいつも苦々しく思っているほどです。

    しかし、今回はオウムの件が脳裏をよぎったりして、先生!そりゃいくら何でもないでしょうと口を挟んでしまった次第です。

    私は一神教と仏教の世界認識の違いを生じさせた視点・観点や思考過程の違いに興味があるのですが、よくよく吟味してみると、290番はそんな深いレベルの記述ではなくて、ちょっとがっかりしてしまっております。


    結論から言いますと、主格が1つ省略されているだけです。省略されている主格は、(他のカーストの者)です。スッタニパータは音韻を踏んで吟唱するものだそうで、主格が並立すると流れが悪くなるので、文中に内包させるのでしょう。特に辞書にない語形には要注意でしょうね。


    290番は;
    バラモンだち(brāhmaṇā)は不婬戒を受持し、(他のカーストの者も)妻女を買うことはなく、相愛和合していた。  ですね。で、主格の省略は291番でもっと明確になります。


    291番は;
    バラモンたちは欲しいままにはさせなかった(英訳 then did not indulge)、(他のカーストの者が)月経のときに淫欲の交わりを行うのを…。  です。


    これでこの節全体の辻褄が合います。 昔のバラモンたちは、そのような存在だったと言うのです。 中村御大は286番の「かれら」に、括弧で(信徒)と付記したのに、全般的には全く迂闊な翻訳・註記をやってしまったものです。


    私はゴータマがもっとストレートに、「梵位2位というのは早い話しがエッタなんだから、カーストというのは何だか逆説的で妙なることになってるんだよ」と、バラモンたちに"嫌われる勇気"をもって説いていてくれれば、後世にこんな混乱を引き起こすことはなかったのにと思ったりしますが。

    現代の上座部もね、どこまで読解・理解しているのかしりませんが、日本にまで来てあまり人騒がせなことをしないでもらいたいですね。 NWOの使途じゃないかと思ってしまいます。

  • >>438

    オリさん、こんばんは(^O^)/

    ありがとうございます、聞きました。

    神様や阿弥陀様への信も、心には同じ働きなのかもしれないなーと思いました。

    信も、また一瞬一瞬生起する心というとこも、気がつかなかったところで、印象深いです。

    マハーカルナー師まで、よくご存知ですね!

    元気でます、ありがとうございます😊🍀

  • こんばんは。

    ご紹介したくて、ユーチューブで「マハーカルナー禅師の原始仏教トークNo023 ~信じること」を貼り付けたら、即効で削除されました。

    7分以内ですが素晴らしい内容でした。よろしかったらご覧になってみてください。

  • >>428

    花まつりさん、こんばんは(^_^)

    は〜い、

    冥想実践全然できてないので、だめですねぇ、

    すこしでもがんばってみます!

    怠け者には難しいけど、精進ですね🌱

  • 〇世界的交流の実現(中村博士)〇

    釈尊は、縁起の自己すなわち無我を説き、虚構の自我が作った垣根を取り外して行かれた方だが、
    その真摯な研究者である中村元先生も、自我の垣根を取り外し、世界的交流の実現を悲願にされた
    方である。その中に『涅槃経』が出て来て、最近私は、地球の人口を超える何兆人というあらゆる
    世界の人々が、釈尊の悟った真理を聞きたくて、共に泣き同悲同苦する。『涅槃経』はとんでもな
    く長い経典だが、最終的には、その第一巻でよいような気がする。自我の垣根を取り除き続けるこ
    とが悟りなのだと……。中村元『東洋のこころ』(p259)から引用しておきたい。

    ペナレスを訪れた人はすべてこのお寺へお詣りいたします。そこには日本人の画家が精魂傾けて
    描いた壁画がならんでいます。写真は涅槃の図です。人と人とが心が通った場合には、海を越え、
    国々の差別を超えて偉大な交流が実現されるということを痛感いたします。

    …………

    「華厳の事事無礙」及び「密教の胎蔵界曼荼羅」は、その世界的交流の実現なのだが……。
    「法界体性智」「無限大の共同体感覚」とも言い、また、宗教の垣根を超えた「隣人愛」だろう。

  • >>420

    〇中村元博士の遺言(菩薩道の復興)〇

    世界中の人の悲しみに同悲同苦したら涙が止まらないでしょう。
    その際限のない同悲同苦の涙の中で、世界中の人の涙を喜びに変えようと叶わぬ「悲願」を起こす。
    それを阿耨多羅三藐三菩提心といい。他者を慈しみ「叶わぬ悲願」に一歩足をふみ出す者を菩薩と
    いいます。中村元博士は、その「菩薩道の復興」、分け隔てのない「慈しみの復興」に賭けれら、
    私もその末席を濁させていただきたいと思っています。『中村元「仏教の真髄」を語る』の最終章
    から、中村元博士の遺言を書かせていただきます。(P126)

    〈菩薩道の復興と日本の伝統〉

    「慈しみ」は他の生存者を前提として必要としております。したがって、自分一人の幸福を目指す
    だけでは、「慈しみ」の道は完成できません。そこで大乗仏教に入ってから、慈しみの実践を説く
    人びとのことを菩薩と呼ぶようになりました。

    大乗仏教では自己の人格的完成に不可欠な要素として他者へのはたらきかけ、つまり慈しみの心を
    重視いたします。そして日本はこの「他者への慈しみ」を根本精神とする大乗仏教を長く信奉して
    まいりました。

    最近でこそ、その伝統にやや翳りが出てきているように思われますが、一千数千年の伝統を考えれ
    ば、再び大乗仏教の慈しみの精神を再興させることは、そう難しいことではないのではないかと思
    います。

    つまり大乗仏教の「菩薩道の精神」の復興ということです。それは言い換えれば人格の完成を目指
    す生き方をすることです。

    人格の完成とは、その独自の意義において完全に生きることです。それが自己の完成であり、これ
    は偉大なものによって生かされているという心をもつことでもあります。これを他の表現をもって
    するならば、めいめいの人が小宇宙であり、その小宇宙の中に大宇宙が生かされていることを実感
    することと表現できましょう。

    特に日本人の間では、「私はこういうふうに、させていただきます」という表現が使われることが
    あります。それは、自分が生かされていることを実感することと表現できましょう。自分の中に
    働いている偉大な力を認めて、「その力に生かされている、ありがたいことだ」という自覚が、そ
    こに反映しているからです。

    ですから要点は、「温かい心を持つように」ということではないかと私は思います。「我も人なり、
    彼も人なり」、その自覚をもって人に対する。そこから一日一日を生きる喜びが出てきて、「生き甲
    斐」を実感することにも通じるのです。

    いずれにしても大乗仏教の教えであり、日本文化の中心の一つでありました「慈しみの心」の復興
    に一人一人の方に目覚めていただくことが、大切だと思っています。

    以上をまとめますと、

    「世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世に
    バラモンを敬うことは楽しい。老いに至るまで戒めを保つことは楽しい。信仰が確立していること
    は楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい」(『ダンマパダ』)

    ということになるでしょうか。

    皆様の人生が安らかでありますように、これは一老人の願いでもあります。

  • >>420

    〇〈分け隔てのない〉慈悲(中道)○

    >中村御大が、翻訳もさることながら、ちょっと信じ難かったですが確かに岩波文庫の290の註でトンデモ・レベルな>解説をしてらっしゃって、どうも英訳本とか、先達の訳本なんかも参考になさったようです。

    そう、中村元博士は、あなたには分からないトンデモ・レベルなのです。
    私も自己が浄化されてやって最近〈分け隔てのない〉中道の智慧という〈慈悲〉が
    分かりました。

    世界は一組づつの二元対立で成立していますが、一組づつの片方を嫌い切るから
    とんでもないことになって行くのです。
    オームも、「オームの法」と「世俗の法」に一組のうち、「世俗の法」を憎悪し
    切り捨てたから問題を起こしたのです。

    片方に偏らず、
    〈分け隔てのない〉慈悲の心を持ちたいですね。

    〈一組づつ〉の一方に片寄らないことです。
    中村元博士は、トンデモ・レベルで「慈しみの復興」に生きられた方です。
    私も〈分け隔てのない〉慈悲の心の復興にかけています。

  • 弟子たちよ、無意味な議論をすると、心が乱れるものである。心が乱れれば修行していても悟りを開くことはできない。だから弟子たちよ、心を乱す無意味な議論は即刻やめなさい。お前たちが心の平安を得ようと思うならば、無意味な議論の過ちをなくしなさい。これを「不戯論」と名づける。

    日々、精進あれ…( ^_^)/~~~

  • お邪魔いたします…( ^_^)/

    スッタニパータは古い経典の一つですが

    それでも釈迦入滅後かなりたってから書かれたもの…

    現代のヒンズーに通づる後世の人の思想も入っているかもです

    私はDhamma-pada中心に日々精進してますが、それでさえも完全に

    鵜呑みにしているわけではありません…書いてある事実は事実であるけど

    それが本当に釈尊の教えにそった詩句であるか吟味する必要もあるでしょう

    最初は口伝で伝わった法の詩句…しかし所詮、人から人へコピーされた言葉

    最近のlet it beですらポールの母メアリーを聖母マリアと訳する人間たち…

    いわんや2,500年以上も歴史のあるインドの宗教…机上の空論より矢を抜く

    それが仏の教えを学ぶ者にとって優先事項だと思います…長文失礼 ( ^_^)/~

  • >>421

    テルゼや

    お前の

    他トピアラシ

    テルゼの神のハタラキ

    またここでやるつもりじゃな。

    これから

    酷い悪口雑言、人格捏造、人格攻撃、挙句の果ての人間性全否定!

    もう見え見え16年年の

    女狐カルト



    茶番げっぷ!!

    総攻撃司令

    出さなきゃいかんかな?

    めたとぴの総司令官 さんね

  • >>420

    karaさん、こんにちは!

    いろいろよくご存知ですね👀

    確かに、牛を殺して祭祀することが不法だと述べてますね。

    情報教えてくださってありがとうございます!

  • >>417

    >●正田大観先生訳
    婆羅門たちは、他者〔の妻〕のもとに赴きませんでした。
    また、彼らは、妻を買うこともありませんでした。
    まさしく、相愛の者と共に住むこと(夫婦生活)を、
    一緒になって喜び合いました。<

    仮にそれを、「己の妻のみにて満足する条項」としておきましょう。
    次に、中村元訳291とマヌの法典、第三章45節を続けて引用します。

    中村訳291:婆羅門たちは、(妻に近づき得る)時を除いて、月経のために遠ざかったときは、その間は決して淫欲の交わりを行わなかった。

    マヌ法典:夫は常に、己の妻のみにて満足し、正時に妻に親近すべく、かつまた彼女を喜ばさんと勤め、パルヴァンの日を除きては性交の欲望もて彼女に親近すべし。


    と、このように、291はどうやら婆羅門のサンスカーラ(浄法)を肯定しています。<婆羅門に相応しきこと>と題されたこの一連の経において、釈尊は、婆羅門の呪文と祭祀の効力を否定しています。ところが、穢れに基づく女性の扱いは何ら否定していない。ということが確認できます。

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