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    > > イストランさんは、20年くらい前には、禅での言説、仏教言説に、体験の裏打ちがあるとは誰も思ってなかった、と繰り返し繰り返しおっしゃるけれども、見性というのは、そういう体験だ、というのは、それなりに知られていたと思いますが。
    > > だって、鹿威しの音で見性した、とか、まさに、気づき、という話が言われていますから。

    >  もちろんその程度のことはみな知っている。しかし、それがどういう体験だったかが明かされてきたのは最近でしょうね、このインターネットの発達によって。

    自他の境界がなくなる体験とか、ね。また、歓喜とか。

    >  体験話が具体性を帯びれば、それだけ体験ということが信憑性を増し、重要性が増していく。

    インドでなら、そういう体験のことは、知られていた可能性もあるのではないかな。瞑想のメッカみたいなところですから。
    しかし、西洋的な言説の俎上に乗るようになると、新しい光に照らされたような感じになりますね。
    昔の西洋にもエッグハルトなど体験者はいらしたでしょうが、神体験と結びつけられてきたかもしれないし、神無し体験などとすれば、秘匿されてきたかもしれません。

    今は個人が匿名でも個人的な体験を書いたり出来ますし、自己表現が自在になっていますからね。

    > > 一方で、そんな体験では釈尊の足元にも及ばない、と考える方々には、禅のそういう在り方は批判もされて来たのでしょう。

    >  まあそれは単なる推測です。というのは、禅の体験の内容と釈尊の体験の内容をつきあわせることは事実上不可能だからです。

    しかし、「それは、この体験だ。」という仕方で、禅の祖師たちは、釈尊から自分は何代目の見性者だ、という確認の仕方をして来ました。それでなくて、禅の仏言説はありえませんから。

    > > 日蓮上人が禅天魔と批判したのは、その増上慢を言われたので、つまり、体験したことで自分をお山の大将にしてしまう傾向を批判したのでしょう。

    >  それは禅の体験を知っていてのことではないと思う。体験などどうでもよかったかもしれない。真宗も批判されているが、体験云々という点ではなく、それら他宗全部を難癖つけて否定している。それは法華経が一番だという法華経原理主義というか、エゴセントリズムから来ている。

    いえ。日蓮上人は、なんらかの超常体験はなさっていますよ。それで、ご本尊としての曼荼羅を著されたわけですから。日蓮というお名前も、法を説くご自分への確信あっての呼称でしょう。
    法華経だけがあっても、そんな理屈では布教などできません。体験があり、その教えを広める使命が自分にあると自覚されての布教だったのでしょう。

  • まぁ、イストランさんからは、これまで私は大幅に馬鹿にされてきたわけですから、そこは、あなたが自分の考えを守るように。私も自分の考えを守ろうとするわけですよ。
    ただ、その守りが、多少過度に感じられる投稿になっているのかもしれません。

    だいたい、ほとんど、掲示版で怒ったりしてないことでも、怒っている、と思われることもままありましたから、言葉だけの掲示版って、難しいのだと思います。

    怒り方でも、演出として上手い人は、謝ってもらえて、むしろ気を遣われたりする人もいて。そのあたりは、私は下手な方だとも思っていますが。(笑)

  • >>95

    > イストランさんは、20年くらい前には、禅での言説、仏教言説に、体験の裏打ちがあるとは誰も思ってなかった、と繰り返し繰り返しおっしゃるけれども、見性というのは、そういう体験だ、というのは、それなりに知られていたと思いますが。
    > だって、鹿威しの音で見性した、とか、まさに、気づき、という話が言われていますから。

     もちろんその程度のことはみな知っている。しかし、それがどういう体験だったかが明かされてきたのは最近でしょうね、このインターネットの発達によって。

     体験話が具体性を帯びれば、それだけ体験ということが信憑性を増し、重要性が増していく。


    > 一方で、そんな体験では釈尊の足元にも及ばない、と考える方々には、禅のそういう在り方は批判もされて来たのでしょう。

     まあそれは単なる推測です。というのは、禅の体験の内容と釈尊の体験の内容をつきあわせることは事実上不可能だからです。


    > 日蓮上人が禅天魔と批判したのは、その増上慢を言われたので、つまり、体験したことで自分をお山の大将にしてしまう傾向を批判したのでしょう。

     それは禅の体験を知っていてのことではないと思う。体験などどうでもよかったかもしれない。真宗も批判されているが、体験云々という点ではなく、それら他宗全部を難癖つけて否定している。それは法華経が一番だという法華経原理主義というか、エゴセントリズムから来ている。

  • >>94

    > 私は、自分はこう思う、と書いてるだけで、私は正しい、とは書いていません。

     しかし、ときどき「自分はこう思っている。その思っている限りでは、私は私を正確にトレースしているわけで、このトレースはだから正しいのであり、ひいては私の言ってることも正しい」という感じになるのだ。

  • イストランさんは、20年くらい前には、禅での言説、仏教言説に、体験の裏打ちがあるとは誰も思ってなかった、と繰り返し繰り返しおっしゃるけれども、見性というのは、そういう体験だ、というのは、それなりに知られていたと思いますが。
    だって、鹿威しの音で見性した、とか、まさに、気づき、という話が言われていますから。

    一方で、そんな体験では釈尊の足元にも及ばない、と考える方々には、禅のそういう在り方は批判もされて来たのでしょう。

    日蓮上人が禅天魔と批判したのは、その増上慢を言われたので、つまり、体験したことで自分をお山の大将にしてしまう傾向を批判したのでしょう。

    そういえば、平塚らいてうも、見性なさって、印可だか受けていたようですね。

    その意味では、悟ったはずなんだけど、ジタバタしてしまって、事件を起こしてしまったらしいです。

    イストランさんには、禅言説が体験を元にしていた、というのは驚きだったかもしれませんが、それは、誤解でしょう。
    ただ、アドヴァイタ体験で言えば、わりに気軽に体験なさる方々が増えてきたのかもしれませんね。

  • >>1

    私は、自分はこう思う、と書いてるだけで、私は正しい、とは書いていません。


    >  しまとり氏の格言は、「我思う、ゆえに我正しい」。
    >
    >  あなたがどう思おうと、そんなことはどうでもいいんだよ、と私は何度も言った。
    >
    >  しかしそういうことを言っても、たぶん鳩が豆鉄砲くらったような顔で、へ?

  • 絶望ドボン教の命名は、たぶん私だと思う。

    絶望しなさい!ドボンしなさい!と、彼女から詰め寄られたことがありまして、ドボン教、と書いたことは記憶してます。たぶん、ドボン教だけでなく、絶望ドボン教とした気がします。

    ただ、これを彼女は気にいって、自ら、絶望ドボン教と書いたりもしていたかな………。

    暗夜の体験をするとか、絶望することが契機となり、ドボンも出来て、恩寵に出会える、という考え方。

    不幸としか思えない体験も、それへの契機と思えば、むしろ好機にもなる、という………。

  • >>91

    > > たしかに、500kcalくらいで平気とか、あるようですね。むしろ、肉食が消化するために無駄にカロリーがいるのだ、とか。
    >
    >  どうも食べない人間は、腸内に特殊な細菌環境を作っているようで。
    >
    >  ブッダボーイというのがいたのですよ、食べないことで人気が出て、ブッダの再来だとか。しかしこれだけたくさんの人間が<不食>と実践している今では、なんだかなあという感じです。

    内なる細菌などの相互作用で、外から栄養なりを取り入れなくても肉体が維持できてるということですね。眉唾にも感じますが、長期不食は可能なのかも。
    しかし、それを認めたとしても、水と空気は、いるのではないかな。まぁ、長い時間潜水できた人もいましたね。マイヨール。
    もしも、水もいらないとすると、汗も尿も便も出さなくなると思うのですが、胃も縮んでしまうでしょうし、腸もほとんど機能を失う。
    そういうことを、ブッダなどとする社会がおかしいと思います。霞を食う仙人には合ってますね。

    > > イストランさんのこの世への否定観というのは、キョーレツですよね。この世に生まれて良かったとか、全く感じませんか?ご両親が産んでくれて育ててくれて良かった、とか。

    >  生まれて来なければ、ほんとうはよかったのに、という歌(砂の果実)をミカリン氏が教えてくれましたが、そんな感じ。

    私より次元が高い人で、もう少しで生まれずに済んだのに、生まれて来てしまい残念ということなのか。生に否定的な感謝知らずの愚か者なのか。
    わからないなぁ。

    > > >  それが事実かどうかはおいておいて(たとえば龍樹というのが一人しかいなかったのか)、貴方は信仰というのを手放しで評価してますが、それはなぜですか?

    > > この世の有様の神秘というのか、素晴らしい世界と思いませんか?それは、世界は完全とは言えなくて、悲痛にあえぐ方々もいらっしゃるのは事実ですが。
    > > 生まれ落ちたこの世界が私には良いものなので、創造神は素晴らしいと感じますし、感謝しています。

    >  それは質問の意図からずれるのです。この世や神が素晴らしいという話ではなくて、神を信仰するその信仰の価値は何だろうということです。

    価値がある、とする人は、たとえば、祈りによって何かがわかったり、願いがかなったり、願いは叶わなくても自分にとって良いものがもたらされた、とする人たちですから、常に自分にとって良い方を選ばせてくれる、という信仰なのではないかな。

    私は、事実として、この世界を創り出すことはすごいことだから、創造主体はあったと思っているのです。

    ただ、それぞれの人間に分け御魂を与えているとすれば、今の社会の現状には、
    憂いても、何もすることはできないのかもしれない。人間たちに任されたのかもしれないとは感じています。

    私は私なりに誠意をもって仕事をし、、、というところです。

    > > 私が書いたことは、同じ体験をされても、つまり、別のものという感覚がなくなったことを、〈一〉という言葉を使うかどうか、という違いだけのことではないのか?ということです。
    > > アドヴァイタ体験者も、他人を他人とは認識していますから。
    >  しかし、無色界の四禅は体験者でないと実体はわからんからな。その名称だけで判断してもしょうがないように思うんだが。

    ゴウさんがインドで体験された時は、ヒンドゥー教の友人から普通にあることのように扱われた、と聞いた記憶はあります。
    禅の見性者もいらしたようだし、最近のことではないでしょう。ただ、最近のは、宗教的な探究なしに、時には突然もたらされることが多く、ブームに感じるのかも。
    あと、欧米では、神と人という超えられない一線が箍になっていたのが、外れて、そこに自由な求法の動きが生まれたのかもしれないですね。

    > > > > >  山下良道と誰かの対談でもそこを問題にしていたから、やっぱり誰でも注目するのかね。原始佛教の命題とは矛盾するから。

    > > > > 釈尊の仏教は、苦への対処法という面もありつつ、もともと涅槃を目指すものでもありましたから、不生不滅を涅槃の境地とすれば、原始仏教にあって当然だと思いますが。

    >  しかし不生不滅と言ってるわけではないのです。

    涅槃寂静と言ってます。

    > > 縁起が世俗諦に属し、不生が勝義諦に属する。
    > > と、おおまかですが、そこを意識して、経典の言葉を整理したら、矛盾しなくなるかもしれませんよ。

    >  これは中論の話の方でしましょう。世俗諦は何なのかとそこで問いましたが、縁起ですか。ただ縁起=空なんで、そこらが難かな。

    勝義諦では、縁起さえもなくなるでしょう。そこは、不空とも言える空だと思います。

  • >>90


    > たしかに、500kcalくらいで平気とか、あるようですね。むしろ、肉食が消化するために無駄にカロリーがいるのだ、とか。

     どうも食べない人間は、腸内に特殊な細菌環境を作っているようで。

     ブッダボーイというのがいたのですよ、食べないことで人気が出て、ブッダの再来だとか。しかしこれだけたくさんの人間が<不食>と実践している今では、なんだかなあという感じです。
     
     https://www.youtube.com/watch?v=1BI0Ux1T7Eo



    > イストランさんのこの世への否定観というのは、キョーレツですよね。この世に生まれて良かったとか、全く感じませんか?ご両親が産んでくれて育ててくれて良かった、とか。

     生まれて来なければ、ほんとうはよかったのに、という歌(砂の果実)をミカリン氏が教えてくれましたが、そんな感じ。


    > >  それが事実かどうかはおいておいて(たとえば龍樹というのが一人しかいなかったのか)、貴方は信仰というのを手放しで評価してますが、それはなぜですか?
    >
    > この世の有様の神秘というのか、素晴らしい世界と思いませんか?それは、世界は完全とは言えなくて、悲痛にあえぐ方々もいらっしゃるのは事実ですが。
    > 生まれ落ちたこの世界が私には良いものなので、創造神は素晴らしいと感じますし、感謝しています。

     それは質問の意図からずれるのです。この世や神が素晴らしいという話ではなくて、神を信仰するその信仰の価値は何だろうということです。


    > 私が書いたことは、同じ体験をされても、つまり、別のものという感覚がなくなったことを、〈一〉という言葉を使うかどうか、という違いだけのことではないのか?ということです。
    > アドヴァイタ体験者も、他人を他人とは認識していますから。

     しかし、無色界の四禅は体験者でないと実体はわからんからな。その名称だけで判断してもしょうがないように思うんだが。


    > > > >  山下良道と誰かの対談でもそこを問題にしていたから、やっぱり誰でも注目するのかね。原始佛教の命題とは矛盾するから。
    >
    > > > 釈尊の仏教は、苦への対処法という面もありつつ、もともと涅槃を目指すものでもありましたから、不生不滅を涅槃の境地とすれば、原始仏教にあって当然だと思いますが。

     しかし不生不滅と言ってるわけではないのです。


    > 縁起が世俗諦に属し、不生が勝義諦に属する。
    > と、おおまかですが、そこを意識して、経典の言葉を整理したら、矛盾しなくなるかもしれませんよ。

     これは中論の話の方でしましょう。世俗諦は何なのかとそこで問いましたが、縁起ですか。ただ縁起=空なんで、そこらが難かな。

  • >>89

    > > 瞑想が深くなると、外界の事象の何も感じなくなったりする記述がありますよね。
    > > 脳死状態に近いくらいの、感受機能の喪失に感じます。
    > > 仙人というのも、食べなくても平気とか、眠らなくても平気とか、人間を超えてしまうところは、仏道修行者とも重なるように感じますが。

    >  食べなくても平気というのは、現代ではさほど珍しいことではないのです。いろんな人が食べなくなってます。

    たしかに、500kcalくらいで平気とか、あるようですね。むしろ、肉食が消化するために無駄にカロリーがいるのだ、とか。

    > > ただ、仏様と、仙人とは、違いますね。

    >  まあ違いましょうね。これについては気功の本などに、中国の仙人の話がノンフィクションとして出てますが、超能力全開という感じ。たとえば、手にもった水を一瞬で凍らせてしまうとか。

    釈尊は、一人の弟子以外には霊能開発をやめさせたとか、そんな話も聞きました。霊能というのは、危うさもありますからね。

    > > > > なぜ、アドヴァイタだと、輪廻は冗談となるのですか?
    > >
    > > >  夢だから。
    > >
    > > でも、この世は、夢だけとも言えません。夢だとして、イストランさんの「二度と生まれて来たくない」気持ちは、解消されますか?
    >
    >  されないでしょう。というのはたとえ夢でも来世でまた見るわけで、それは困ると。

    イストランさんのこの世への否定観というのは、キョーレツですよね。この世に生まれて良かったとか、全く感じませんか?ご両親が産んでくれて育ててくれて良かった、とか。
    まぁ、答えたくないことなら無視して下さい。

    > > 言ってましたよ。あなたが、龍樹を散々馬鹿にし、虚言使いのように言っていたから、「体験されたからこそ、「涅槃と輪廻は同じ」なんて、驚きの言葉が出てくるのではないか」とお話しました。

    >  私は龍樹を分割してみてますね。虚言を労する龍樹と、わけの分からないことを言う龍樹と。涅槃と輪廻は同じ、というのが体験から出てくるのではないかと思うのは、アドヴァイタ体験談に引きつけてのことです。後者の体験談がなければ、龍樹についてあれこれ推測することもなかった。

    そうですね。アドヴァイタ体験があったとすれば、龍樹を評価もできる、と言われてました。それでなければ、詐欺師と変わらない扱い。

    > > でも、龍樹には、仏如来への深い信仰があり、それを示されるところが、同じ体験者だとしても、愚さんより素晴らしいと思う、とも書きました。

    >  それが事実かどうかはおいておいて(たとえば龍樹というのが一人しかいなかったのか)、貴方は信仰というのを手放しで評価してますが、それはなぜですか?

    この世の有様の神秘というのか、素晴らしい世界と思いませんか?それは、世界は完全とは言えなくて、悲痛にあえぐ方々もいらっしゃるのは事実ですが。
    生まれ落ちたこの世界が私には良いものなので、創造神は素晴らしいと感じますし、感謝しています。
    哲学者でも、ちゃんと神様を感じていた方々はいらっしゃるでしょう。
    私も疑いなく、そこにいます。
    しかし、この世界がどうなっていくのか、その運営は、私たちに託されているのでしょうね。人間は、創造の力、願ったものを実現する力も持ってはいますが、いかんせん未熟で、和やかな世界を作り出せずにいますね。

    > > それは、一と言っても、現在では、ある程度誤解されない土壌が出来ているからではないでしょうか。
    >
    >  現在の話をしているのではなかったと思う。つまり、経典上になぜ<一>という概念が出てこないのか、ということ。それが出てこないと、アドヴァイタとして見ることは完全にはできないな。

    私が書いたことは、同じ体験をされても、つまり、別のものという感覚がなくなったことを、〈一〉という言葉を使うかどうか、という違いだけのことではないのか?ということです。
    アドヴァイタ体験者も、他人を他人とは認識していますから。

    > > >  山下良道と誰かの対談でもそこを問題にしていたから、やっぱり誰でも注目するのかね。原始佛教の命題とは矛盾するから。

    > > 釈尊の仏教は、苦への対処法という面もありつつ、もともと涅槃を目指すものでもありましたから、不生不滅を涅槃の境地とすれば、原始仏教にあって当然だと思いますが。

    >  それはそうなんだが、他の概念と整合性がとれないわけ。この場合は縁起でしょうね。縁起とは、生じて滅するもの。だから生じもせず、滅しもしない不生不滅とは合わない。

    縁起が世俗諦に属し、不生が勝義諦に属する。
    と、おおまかですが、そこを意識して、経典の言葉を整理したら、矛盾しなくなるかもしれませんよ。
    二つの真理から、教えは説かれているのだ、と。

  • >>85


    > 瞑想が深くなると、外界の事象の何も感じなくなったりする記述がありますよね。
    > 脳死状態に近いくらいの、感受機能の喪失に感じます。
    > 仙人というのも、食べなくても平気とか、眠らなくても平気とか、人間を超えてしまうところは、仏道修行者とも重なるように感じますが。

     食べなくても平気というのは、現代ではさほど珍しいことではないのです。いろんな人が食べなくなってます。

    > ただ、仏様と、仙人とは、違いますね。

     まあ違いましょうね。これについては気功の本などに、中国の仙人の話がノンフィクションとして出てますが、超能力全開という感じ。たとえば、手にもった水を一瞬で凍らせてしまうとか。


    > > > なぜ、アドヴァイタだと、輪廻は冗談となるのですか?
    >
    > >  夢だから。
    >
    > でも、この世は、夢だけとも言えません。夢だとして、イストランさんの「二度と生まれて来たくない」気持ちは、解消されますか?

     されないでしょう。というのはたとえ夢でも来世でまた見るわけで、それは困ると。


    > 言ってましたよ。あなたが、龍樹を散々馬鹿にし、虚言使いのように言っていたから、「体験されたからこそ、「涅槃と輪廻は同じ」なんて、驚きの言葉が出てくるのではないか」とお話しました。

     私は龍樹を分割してみてますね。虚言を労する龍樹と、わけの分からないことを言う龍樹と。涅槃と輪廻は同じ、というのが体験から出てくるのではないかと思うのは、アドヴァイタ体験談に引きつけてのことです。後者の体験談がなければ、龍樹についてあれこれ推測することもなかった。


    > でも、龍樹には、仏如来への深い信仰があり、それを示されるところが、同じ体験者だとしても、愚さんより素晴らしいと思う、とも書きました。

     それが事実かどうかはおいておいて(たとえば龍樹というのが一人しかいなかったのか)、貴方は信仰というのを手放しで評価してますが、それはなぜですか?


    > それは、一と言っても、現在では、ある程度誤解されない土壌が出来ているからではないでしょうか。

     現在の話をしているのではなかったと思う。つまり、経典上になぜ<一>という概念が出てこないのか、ということ。それが出てこないと、アドヴァイタとして見ることは完全にはできないな。


    > >  山下良道と誰かの対談でもそこを問題にしていたから、やっぱり誰でも注目するのかね。原始佛教の命題とは矛盾するから。
    >
    > 釈尊の仏教は、苦への対処法という面もありつつ、もともと涅槃を目指すものでもありましたから、不生不滅を涅槃の境地とすれば、原始仏教にあって当然だと思いますが。

     それはそうなんだが、他の概念と整合性がとれないわけ。この場合は縁起でしょうね。縁起とは、生じて滅するもの。だから生じもせず、滅しもしない不生不滅とは合わない。

  • >>85

    シマトリさん!!頑張れ! ファイト!!

    所詮イスは、オカルトやし^^人間は悪くないが、アホなだけ^^

    存分に 叩きのめして エンジョイして下さい \(^o^)/

  • >>84

    > > しかし、キリスト教でもそうですが、宗教に真摯に取り組もうとする人たちは、性欲を抑えようとする方向の修行しますよね。
    >  
    >  するね。これも追究すれば面白そうだけど。

    そうですね。

    > > 規律は必要になるでしょうね。でも、身体を貶めて見ているようなことは、なにか違和感はありますが。仙人願望のようにも感じますが。

    >  仙人願望というのはまた別の文脈で出てくると思うな。たとえば、気功と仏教が融合したりとか。


    瞑想が深くなると、外界の事象の何も感じなくなったりする記述がありますよね。
    脳死状態に近いくらいの、感受機能の喪失に感じます。
    仙人というのも、食べなくても平気とか、眠らなくても平気とか、人間を超えてしまうところは、仏道修行者とも重なるように感じますが。
    ただ、仏様と、仙人とは、違いますね。

    > > なぜ、アドヴァイタだと、輪廻は冗談となるのですか?

    >  夢だから。

    でも、この世は、夢だけとも言えません。夢だとして、イストランさんの「二度と生まれて来たくない」気持ちは、解消されますか?

    > > 龍樹にアドヴァイタ体験があったのではないか、というのは、私の意見でもありましたから、批判はありませんが。

    >  そんなこと言ってたっけ?

    言ってましたよ。あなたが、龍樹を散々馬鹿にし、虚言使いのように言っていたから、「体験されたからこそ、「涅槃と輪廻は同じ」なんて、驚きの言葉が出てくるのではないか」とお話しました。

    でも、龍樹には、仏如来への深い信仰があり、それを示されるところが、同じ体験者だとしても、愚さんより素晴らしいと思う、とも書きました。

    > > 別のもの、という思いがなくなる、というのは、結局一つものという認識になることですし、無辺なる識だけが残るというのも、アドヴァイタ的ですよ。

    >  それはたんに推論しているだけだからな。一を体験したならば、なぜ一と言わないのか。これは重要なポイントだよ。

    それは、一と言っても、現在では、ある程度誤解されない土壌が出来ているからではないでしょうか。
    実際、アドヴァイタ体験者の方々も、では他者はいない、とは言ってはないですし、二人で飲み食いすれば、ワリカンか、自分が支払うか、相手が払う、と思っているわけで、ちゃんと、他者認識もあっての一なんです。

    無辺なる識だけがある。ならば、自他はなくなってますから、アドヴァイタでしょう。

    > > >  ウダーナにあるのは<不生>ということであって、これも重要なメルクマールになるが、いかんせん部分的だ。
    > >
    > > 不生不滅は、何も、大乗仏教だけの主張ではなかった、ということですね。たぶん。
    >
    >  そう。それを教えてくれたのは、この前法華経トピに来たきのこ氏なんだけどね。
    >
    >  山下良道と誰かの対談でもそこを問題にしていたから、やっぱり誰でも注目するのかね。原始佛教の命題とは矛盾するから。

    釈尊の仏教は、苦への対処法という面もありつつ、もともと涅槃を目指すものでもありましたから、不生不滅を涅槃の境地とすれば、原始仏教にあって当然だと思いますが。

  • >>83


    > しかし、キリスト教でもそうですが、宗教に真摯に取り組もうとする人たちは、性欲を抑えようとする方向の修行しますよね。
     
     するね。これも追究すれば面白そうだけど。


    > 規律は必要になるでしょうね。でも、身体を貶めて見ているようなことは、なにか違和感はありますが。仙人願望のようにも感じますが。

     仙人願望というのはまた別の文脈で出てくると思うな。たとえば、気功と仏教が融合したりとか。


    > なぜ、アドヴァイタだと、輪廻は冗談となるのですか?

     夢だから。


    > 龍樹にアドヴァイタ体験があったのではないか、というのは、私の意見でもありましたから、批判はありませんが。

     そんなこと言ってたっけ?


    > 別のもの、という思いがなくなる、というのは、結局一つものという認識になることですし、無辺なる識だけが残るというのも、アドヴァイタ的ですよ。

     それはたんに推論しているだけだからな。一を体験したならば、なぜ一と言わないのか。これは重要なポイントだよ。


    > >  ウダーナにあるのは<不生>ということであって、これも重要なメルクマールになるが、いかんせん部分的だ。
    >
    > 不生不滅は、何も、大乗仏教だけの主張ではなかった、ということですね。たぶん。

     そう。それを教えてくれたのは、この前法華経トピに来たきのこ氏なんだけどね。

     山下良道と誰かの対談でもそこを問題にしていたから、やっぱり誰でも注目するのかね。原始佛教の命題とは矛盾するから。

  • >>82

    > > そのように、原始仏教経典では、長く継続する必要のない教えが、変に残ってしまった、とは考えられないものでしょうか。

    >  無理じゃないかな。戒律を破ったらおしおきとかされるから。おしおきの話は、仏陀最後の旅にもあったと思う。

    では、性欲を抑える、という修行は、継続するものとしてあった。ということで。
    性欲が無くなれば、精液を出す必要はないですし、寝ているときのことは、夢を見たのではなく、ただの生理現象ということもあるからよしとしたのか。
    しかし、キリスト教でもそうですが、宗教に真摯に取り組もうとする人たちは、性欲を抑えようとする方向の修行しますよね。
    一方、人類的には性欲があるから、性体験し、子供を作ったりします。子孫繁栄という方向。

    原始仏教は、この世に二度と生まれてこない、ことを目標としているように見えることも含めて、この現世への否定にも感じますね。子孫なども作らない方がいい。本来居るべきところでないのだから、早く去りたい、という願望さえ感じます。そういう考えなら、一時的な欲望で子作りするのも罪なことですね。不幸な場所に誕生する不幸な人を増やすだけなのですからね。

    >それからスバッダという僧侶が、仏陀が死んだときに、「これでガミガミいう人もいなくなった」と悪態をついてますね。

    他の箇所でのスバッタとは別人とされているようですね。

    >  確かに、あまりにきつい戒というのは、ほどほどに適用されていたのかも知れないが、いまだ倫理道徳なんて発達してない社会であれば、戒がなければ持たないでしょう、集団生活は。

    規律は必要になるでしょうね。でも、身体を貶めて見ているようなことは、なにか違和感はありますが。仙人願望のようにも感じますが。

    > > >  第三の道として、一切をアドヴァイタもしくはゾクチェンの立場から見ると、輪廻転生は、一種の冗談となる。
    > > それは、仮構のものであって、究極のものではない。龍樹の見方がそれっぽい。
    > >
    > > 輪廻も涅槃も、別のものではないと言われていますよ。
    > > 「一切は空」からの展開かしら。

    >  その一切は空とか、輪廻と涅槃は異ならず、ということ自体がアドヴァイタ的なんだ。これに疑問を持って、道元は中国に行ったのだが。疑問が解けたという様子はない。

    なぜ、アドヴァイタだと、輪廻は冗談となるのですか?
    龍樹にアドヴァイタ体験があったのではないか、というのは、私の意見でもありましたから、批判はありませんが。

    > > 経典によるなら、「ブッダ最後の旅」には、八つの解脱が説かれますが、第四の解脱、第五の解脱などは、アドヴァイタ体験という印象もあります。
    > > 下に引用しますね。
    > >
    > > 第四の解脱………〈物質的なもの〉という想いを全く超越して、抵抗感を消滅し、〈別のもの〉という想いを起こさないことによって、〈(すべては)無辺なる虚空である〉と観じて、〈空無辺処〉に達して住する。これが、第四の解脱である。
    > >
    > > 第五の解脱………〈空無辺処〉を全く超越して、〈(すべては)無辺なる識である〉と観じて、〈識無辺処〉に達して住する。これが、第五の解脱である。
    >
    >  それは無色界の四禅の第一、第二だね。しかしそのあとの第三、第四も、さらに滅尽定と言われる究極段階にもアドヴァイタを思わせる記述はない。アドヴァイタには<一>という概念が入ってこなくてはならない。一を体験する、それはどういうことか、体験しないとわからないそうだが、とにかく記述としてはそれがメルクマールだね。

    別のもの、という思いがなくなる、というのは、結局一つものという認識になることですし、無辺なる識だけが残るというのも、アドヴァイタ的ですよ。

    >  ウダーナにあるのは<不生>ということであって、これも重要なメルクマールになるが、いかんせん部分的だ。

    不生不滅は、何も、大乗仏教だけの主張ではなかった、ということですね。たぶん。

  • >>81




    > そのように、原始仏教経典では、長く継続する必要のない教えが、変に残ってしまった、とは考えられないものでしょうか。

     無理じゃないかな。戒律を破ったらおしおきとかされるから。おしおきの話は、仏陀最後の旅にもあったと思う。それからスバッダという僧侶が、仏陀が死んだときに、「これでガミガミいう人もいなくなった」と悪態をついてますね。

     確かに、あまりにきつい戒というのは、ほどほどに適用されていたのかも知れないが、いまだ倫理道徳なんて発達してない社会であれば、戒がなければ持たないでしょう、集団生活は。


    > >  第三の道として、一切をアドヴァイタもしくはゾクチェンの立場から見ると、輪廻転生は、一種の冗談となる。
    > それは、仮構のものであって、究極のものではない。龍樹の見方がそれっぽい。
    >
    > 輪廻も涅槃も、別のものではないと言われていますよ。
    > 「一切は空」からの展開かしら。

     その一切は空とか、輪廻と涅槃は異ならず、ということ自体がアドヴァイタ的なんだ。これに疑問を持って、道元は中国に行ったのだが。疑問が解けたという様子はない。

    > 経典によるなら、「ブッダ最後の旅」には、八つの解脱が説かれますが、第四の解脱、第五の解脱などは、アドヴァイタ体験という印象もあります。
    > 下に引用しますね。
    >
    > 第四の解脱………〈物質的なもの〉という想いを全く超越して、抵抗感を消滅し、〈別のもの〉という想いを起こさないことによって、〈(すべては)無辺なる虚空である〉と観じて、〈空無辺処〉に達して住する。これが、第四の解脱である。
    >
    > 第五の解脱………〈空無辺処〉を全く超越して、〈(すべては)無辺なる識である〉と観じて、〈識無辺処〉に達して住する。これが、第五の解脱である。

     それは無色界の四禅の第一、第二だね。しかしそのあとの第三、第四も、さらに滅尽定と言われる究極段階にもアドヴァイタを思わせる記述はない。アドヴァイタには<一>という概念が入ってこなくてはならない。一を体験する、それはどういうことか、体験しないとわからないそうだが、とにかく記述としてはそれがメルクマールだね。

     ウダーナにあるのは<不生>ということであって、これも重要なメルクマールになるが、いかんせん部分的だ。

  • >>77

    返信遅くてすみません。64755へのレスも、また次の機会にさせていただきます。

    > > 四向四果もいいですが、なんで、二度とこの世に生まれて来ないはずなのに、ダライ・ラマ師は、転生されてきた魂とされるのですか?

    >  面白い。概してシマトリ氏はイッチョカミのワタチコウオモイマシュの自己中だけど、たまに面白いことも言えるんだな。

    わーい。\(^o^)/褒められたー。

    >  転生というのは事実として存在する。ダライラマばかりではなく、いろんな人が宗教的意識を持って転生している。それを大乗仏教の後継者であり、生き残りのチベット仏教は肯定的に捉えている。

    そのまま、その人と言えるのかわかりませんが、意識の継続があるようですね。ただ、他の人格の意識の憑依のようなこともあるらしい。多重人格のような事例では、脆弱になった本体の意識に、他の人格が憑依したと考えた方が理解しやすくなることもあります。転生も、部分的ということもあるかもしれませんね。

    ともあれ、チベット仏教では、転生思想があるのですね。ネットで知り合ったチベット仏教信徒の方は、釈尊は遠い昔に成仏された仏様であると言われてました。
    衆生のために、今世で悟られたようにして化導されたが、衆生への慈悲心からそうやって転生なさって法を説かれた、と理解なさっていました。
    この方は、修行が進んだ段階で学ぶ経典は、法華経と重なる点があるらしい、とおっしゃっていたのですが………。

    >  一方、原始仏教では、解脱ということはヨーガと同じ。最初から苦行だった。苦楽中道というが、実際には戒律として、寝ているとき以外は精液をもらしてはならないというのが律蔵の最初にあるほど、苦行だった。それは、生の否定とも言える。でなければそんな戒はないはずだから。

    性欲の否定なんですかね?
    こういうの、在家にも機に応じて法を説かれた釈尊として考えると、あまり、固定的に考えるものではないと思いますが。
    修行者に、一時期の修行として、性欲を抑えよ、というのは、修行の中に、ものを食べない、眠らない、などが昔からあることを考えても、一定の期間そうすることで何か気付きがあるのではないか。
    しかし、ずっと眠らないということは、不要ですし、ずっと何も食べない、ということも無理ですから。
    そのように、原始仏教経典では、長く継続する必要のない教えが、変に残ってしまった、とは考えられないものでしょうか。

    >  この二つを比べて、どちらが真実なのか。方や原始佛教の「もう二度と生まれて来ない」と、チベット仏教の「衆生済度のために化身する」と。それは私には分からない。ただ、傾向としては、原始佛教の方に親近感を感じるだけ。

    イストランさんには、人生が苦しみのようですから、共感できるのでしょうね。
    原始仏教だと、輪廻から解脱できますが、あとの仏教だと、苦しみは解脱できても、また生まれて来る可能性があるみたいですものね。

    >  第三の道として、一切をアドヴァイタもしくはゾクチェンの立場から見ると、輪廻転生は、一種の冗談となる。
    それは、仮構のものであって、究極のものではない。龍樹の見方がそれっぽい。

    輪廻も涅槃も、別のものではないと言われていますよ。
    「一切は空」からの展開かしら。

    >  しかしこのアドヴァイタが原始佛教にあるのかというと、なさそうである。ウダーナとかに不生の概念が出てくるが、それとて部分的だから。
    <

    成仏というのが、個人を超える体験ですから、アドヴァイタも含むのではないのかな。個人が、久遠から続いていた自己(=仏)に目覚めた、とするなら、自己の枠が相当広がっているわけて、アドヴァイタ的ですよ。
    ただ、私から見ると、アドヴァイタ体験って、まだ練れてない印象なんですが。
    阿羅漢果とか、それ以前の段階、みたいなものかもしれませんね。ここは、ただの推測ですよ。(笑)

    経典によるなら、「ブッダ最後の旅」には、八つの解脱が説かれますが、第四の解脱、第五の解脱などは、アドヴァイタ体験という印象もあります。
    下に引用しますね。

    第四の解脱………〈物質的なもの〉という想いを全く超越して、抵抗感を消滅し、〈別のもの〉という想いを起こさないことによって、〈(すべては)無辺なる虚空である〉と観じて、〈空無辺処〉に達して住する。これが、第四の解脱である。

    第五の解脱………〈空無辺処〉を全く超越して、〈(すべては)無辺なる識である〉と観じて、〈識無辺処〉に達して住する。これが、第五の解脱である。

  • https://www.youtube.com/watch?v=gpFwlHmG224


    Ajahn Brahm: Nibbana is not something that can be predictably acquired through sheer effort. Actually it more or less happens automatically, the more one lets go of doing, gives up the notion of a distinct 'I' and acts from the knowledge of the oneness of all beings and things. Out of these insights compassionate energy and happiness arises. Nibbana, the ultimate happiness.

    ===

    アーチャンチャーは阿羅漢に達した高僧といわれているが、そのお弟子さん(ジャックコンフィールドもそう)の一人、Ajahn Brahmの法話。ちなみにこの方はケンブリッジ大学で理論物理学を学んだという。凄い時代だとつくづく思う、この人のダンマトークも優に200本以上が無料で見放題。

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