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神秘主義と哲学

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  • 2016/01/09 21:44
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     神秘主義と哲学と言えば、「神秘主義と倫理」もしくは「神秘主義と論理」ということになる。「神秘主義と美」という主題もあるかもしれないが。

     「神秘主義と論理」はほとんど問題にならない。『神秘主義の探求』(スタール)には龍樹の論理を神秘主義の論理として扱う話がある。しかし、それはおそらく大したものではない。また、ラッセルの『神秘主義と論理』の意義が私には分からない。

     「神秘主義と倫理」となると、かなりの話がある。宗教全体が超倫理的という話も含めて、神秘主義が超倫理的という話、など。「神秘主義と政治」あるいは「神秘主義と国家」ということも主題になるかもしれない。

     私が念頭に置いている神秘主義とは、アドヴァイタ+タントラ(禅+密教)というもので、どちらか一方だけしかないと、おかしいと感じる。クリシュナムルティやエックハルト・トールはおかしい。
     
     タントラ的神秘主義を求めるならば、山本佳人とか伊藤武を薦める。そういうものを含めないで、神秘主義=アドヴァイタとするヒクソンやイェーガーでは限界があると感じる。とくに現代アドヴァイタの大爆発が起こっている現在、アドヴァイタ一極集中でいいのかという問いは必然的だと思う。

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    ixtlan 2016年1月9日 21:44

    >>33

     
     この猫の話の思想はどこに向かっているのかというと、カスタネダの中心的思想である受動能動性に向かっている。とはいえ、その線は見やすいとは言えないが。

     猫のマックスはカスタネダの友人から殺処分されそうになっていた。カスタネダは友人が車を離れた隙に、マックスを逃がす。ここで野生の本能を取り戻したかのように見えたマックスの行動にはカスタネダは大いに満足し、自分の姿をマックスに重ねるのだった。しかしこの話をしたカスタネダに対するドン・ファンのコメントはかなり辛辣なものだった。

    ***********************************************************

     わたしは友人という友人全員にこの話をした。くりかえし話しているうちに、マックスとの同一感が実に快いものになっていった。
     わたしは、自分もマックスと同じだと思った。甘えすぎ、さまざまな面で飼い慣らされてはいるが、それでも、肥満して役立たずだったマックスにネコらしい魂が満ちたように、わたしにも人間の魂で満たされる瞬間がやってくる可能性が常にある、そう思わずにはいられなかった。

     ドン・ファンはこの話が気に入り、さりげなくいくつかコメントをした。彼によると、人間の魂に満たされること自体はそうむずかしいことではないが、それを持続させるのは戦士にしかできないこと、なのだそうだ。

    「ネコの話がどうかしたの?」わたしは訊いた。
    「お前は、マックスのように自分もチャンスをつかめると信じている、そう言ったんだ」
    「そのとおりだよ」
    「わしが言おうとしてきたのは、戦士としてお前はただ信じているだけではだめだ、ということだ。マックスを例に言うと、信じなければならないというのは、逃げたことが無益な暴走だったかもしれないってことを受け入れるってことなんだ。排水溝に飛び込んだとたんに死んだかもしれし、溺れ死んだかもしれんし、飢え死にしたかもしれんし、ネズミに食われたかもしれんのだ。戦士は、こういう可能性をすべて考えたうえで、心の奥底にある欲求に従って信じることを選ぶんだよ。
     戦士としてお前は、マックスがただ逃げおおせただけでなく自分の力を保ちつづけもした、と信じなければならんのだ。そう信じなければならん。その信念がなければ、お前には何もないということになる」(P.144)


  •  「頼むからいつもどおりにしてくれ」ドン・ファンは真顔を装って言った。
     わたしは、信じることと信じなければならないこととの違いがわからない、と言った。わたしにとってその二つは同じことだし、それを区別するのは重箱の隅をつつくようなものなのだ、と。

     「お前が友だちとその飼いネコのことを話してくれたのを覚えてるか?」彼がさりげない口調で訊いた。
     彼は空を見上げ、ペンチに背をもたせて脚を伸ばした。そして両手を頭の後ろへまわし、全身の筋肉を引き締めた。いつものように、あちこちの関節が音を立てた。

     ドン・ファンの言うわたしの話というのは、コインランドリーの乾燥機の中で死にかけている二匹の子ネコを見つけたわたしの友人のことだった。彼女はそのネコを助け出し、熱心に世話をして大きなネコになるまで育てたのだった。一匹は黒いネコ、もう一匹は赤みがかっかネコになった。
     二年後、彼女は自宅を売却した。彼女はネコを連れて行くことができず、新たな飼い主も見つからなかったので、動物病院へ連れて行って安楽死させるしかなかった。

     わたしはネコを病院へ連ぶのを手伝った。彼女は、車に乗せられたことのないネコを落ち着かせようとしていた。それでも、ネコは彼女をひっかいたり噛んだりしていた。彼女がマックスと名づけた赤みがかったネコの方がひどかった。動物病院に着くと彼女はまず黒いネコを抱きあげ、何も言わずに車を下りた。ネコはじゃれついていた。病院のガラスのドアを開けるときも軽くひっかいていた。
     わたしは後部座席にいるマックスに目をやった。わたしが動いたのでびっくりしたらしく、運転席の下へもぐり込んでしまった。シートを後ろヘスライドさせた。噛まれたりひっかかれたりするのが嫌で、シートの下へ手を伸ばす気にはなれなかった。ネコは床のくぼみで腹ばいになっていたが、かなり興奮しているようで息遺いが荒くなっていた。マックスがわたしを見て視線が合ったとき、わたしは強烈な感覚に包まれた。何かにからだをつかまれたような感覚だ。ある種の不安や絶望感、あるいは、白分かそのときの状況に関わっていることへの当惑だったかもしれない。

     わたしはマックスに、これは友だちが決めたことでわたしはただ手伝っているだけなんだ、と説明したい気分だった。ネコは、まるでわたしのことばを理解しているかのようにじっとわたしを見つめ続けていた。
     彼女が戻って来ないかと外に目を向けた。ガラスのドアの向こうにいる彼女が見えた。受付係と話をしている。からだを不思議な動揺が走り、無意識に車のドアを開けた。
     「逃げろ、マックス、逃げるんだ!」わたしはネコに叫んだ。
     マックスは車から飛び出し、いかにもネコらしい低い姿勢で通りを渡っていった。向こう側には駐車している車もなく、側溝に沿って走るマックスが見えた。大通りの角まで行くと、排水溝に飛び込んだ。
     友だちが戻ってきたので、マックスが逃げたと言った。彼女が車に乗り込んで発進させたが、二人とも押し黙っていた。
     それから数カ月のうちに、この出来事はわたしにとってひとつのシンボルになった。車から飛び出す直前、わたしを見つめるマックスの目に不思議な輝きが見えたような気がした。たぶん、本当に見えたのだと思う。そしてその一瞬、あの去勢されて肥満した役にも立たないペットが本当のネコになったのだ、と確信した。

     わたしはドン・ファンに、通りを渡って排水溝に飛び込んだときにマックスの『ネコの魂』が完璧なものとなったにちがいなく、あれほどマックスがネコらしかったことはなかったにちがいない、と言った。その出来事の印象は忘れられないものになった。

                             C・カスタネダ   『力の話』P.142

  • >>29


     神秘主義というのは現実の意味を越えた意味ないし世界を指示していなければならない。

     浮浪者が浮浪者という意味しか持てないのが現実である。浮浪者は浮浪者でないがゆえに浮浪者と呼ばれる(金剛般若経)、などと言うのが神秘主義なのか。

  • >>29

    浮浪者ではなく、不審者と書かれていたなら、印象変わるな、という感想を持ちました。
    不審者も、キリスト教を必要とするかもしれませんが、まずは、犯罪加害者にさせないように、まわりが「気をつける」ことは大事だから。


     
    >  「建物よりも人の集まりが重要である」
    >
    >  とは言うけれど、カトリックというのは概して壮麗な建物を持っていますね。それは人間の弱さではないのですか。
    >
    >  もうこれも何回も話したけれど、昔カトリック麻布教会に用があって行ったとき、そこに張り紙がしてあって、「この辺りを浮浪者がうろついています、気をつけてください」とあった。本当は浮浪者にこそキリスト教が必要なんだろうに。よく恥ずかしくもなくこんな張り紙を書けたものだと。
    >
    >  壮麗な建物には壮麗な人が集まり、みじめな建物にはみじめな人が集まる。こういう状況があるかぎり、宗教の意義がある。がしかし、こういう状況をそのままにしている宗教に未来があるとは思えない。

  •  
     「建物よりも人の集まりが重要である」

     とは言うけれど、カトリックというのは概して壮麗な建物を持っていますね。それは人間の弱さではないのですか。

     もうこれも何回も話したけれど、昔カトリック麻布教会に用があって行ったとき、そこに張り紙がしてあって、「この辺りを浮浪者がうろついています、気をつけてください」とあった。本当は浮浪者にこそキリスト教が必要なんだろうに。よく恥ずかしくもなくこんな張り紙を書けたものだと。

     壮麗な建物には壮麗な人が集まり、みじめな建物にはみじめな人が集まる。こういう状況があるかぎり、宗教の意義がある。がしかし、こういう状況をそのままにしている宗教に未来があるとは思えない。

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     CC : そんな大変な世界を生きなくちゃならないのは、この僕なんだよ。

     DH : おまえがこの世界を生きなくてはならない、というのではなくて、おまえがこの世界なんだよ。

  • 神秘主義、神秘体験に意味は無い。
    それよりも日常誰もが体験する、あたりまえの事柄に真実が隠れているのだ。

  • リパブリック讃歌の地層


     19世紀初頭、イングランドやスコットランドに端を発するプロテスタントの宗教行事としてキャンプ・ミーティングがあった。そこで歌われたフォークソングが本歌となっている。

     以来、様々な地域、グループが歌詞を変えて歌ってきたが、有名なのが、

     1.ジョン・ブラウンの歌

     2.リパブリック賛歌

     3.リパブリック賛歌・アップデート

    ということになる。
     
     2のリパブリック賛歌がもっとも有名で、かの911の後のメモリアルで歌われた(ワシントン、ロンドン)。

     この3つの歌詞の流れは、簡単に言うと、

     1.奴隷廃止を切々と歌い上げる

     2.国家のために死ぬことを理想とする

     3.そういう国家主義を批判するマーク・トゥエインの風刺

    となっている。

  •  
     カルロス・カスタネダは1968年から1998年まで計12冊のドンファン本を出した。ドン・ファンというのは好色な男のことではなく、メキシコのヤキインディアンである。

     カスタネダは人類学の調査にアリゾナやメキシコに出かけ、ドン・ファン・マトゥスと出会った。彼等は師弟関係に入り、結局カスタネダは人類学の道に進むことなく、ドンファンという希有な存在と、その教えを伝えるメッセンジャーとなった。そして、いつしかニューエイジのゴッドファーザーとも呼ばれるようになった。

     彼の書いた本は様々な文化シーンで引用された。中でも異色なのは、かのドゥルーズ・ガタリの『ミル・プラトー』で、肯定的に評価されている。

     カスタネダは終始ドン・ファンの実在を主張し、自著がルポルタージュであると弁護したが、多くの人はそれを疑った。とりわけ、彼が著作のロマン的な世界から出て、実際にカリフォルニアでドンファンの教えなるものをマイナーなグループに教え始めた90年代、もはや彼には著作という間接的な意味手段によって正体を隠すことはできなくなっていただろう。

     そして、彼の死は、あの著作の中で描かれるような呪術師としての超越的な消滅ではなく、ただの癌であることが判明している。晩年、彼に付き従った数人の女性の弟子たちは、噂によると、みな自殺したということである。

     しかし、カスタネダの著作は生命力を持って、これからも生き続けるだろう。それは解釈を要するいろいろな意味に満ちている。


  •  2001年9月14日に行われた911メモリアル集会(ワシントン、ナショナルカテドラル)で、一風変わった儀仗兵が数名登場する。彼等は途中から入場して、直立不動したまま、歌わない。なぜ彼等だけが歌わないのか。犠牲者の代表ということでもないだろう。一体彼等は何者なのか。
     
     https://www.youtube.com/watch?v=I9Y9NGXxdAg

  •  どうも、バトルヒムの中毒になってしまったみたいで。

     この曲の元の歌詞第五番(この演奏では三番)に、「人々を聖なるものとするためにイエスが死んだように、我らは人々を自由にするために<死のう/生きよう>」という部分がある。この部分で、死のうというのか、生きようというのか、これは歌い手によって勝手に変えている。

     下のは、「生きよう」というもので、こっちのほうが無難といえる。

     https://www.youtube.com/watch?v=GuG2GWIYa30

  •   
     カントもヘーゲルも、軍人というのをどこかで尊敬していた。現代日本の洗脳された人間たちからすれば受け入れがたいだろうが。

     道徳性は力と結託しなくてはならない。それも与えられた評価基準としてではなく、内面の衝動として。ここに宗教の生がある。だから危ない。

     この点では、道徳性において少しばかり変調したハイデガーも同じだ。ハイデガーのメッセージとは、死を賭して生きることができるか? というものである。

     それをフィクションとして、ルポルタージュとして、中有の世界で追求したのがカルロス・カスタネダだった。
     
     危なさは常に意識していなければならない。なにしろ死を賭して生きる者は、なんでもできるからである。

  •  
     どうしてジョーン・バエズがこの歌を歌ったのか分からない。この愛国主義的とされる歌。

     https://www.youtube.com/watch?v=YHforl6vnco

  • イェーガーの神秘主義

     ウィリギス・イェーガーはアドヴァイタを神秘主義の同義語としている。彼はタントラにも言及するが、意味のあることは言ってない(『禅キリスト教』)。これは三宝教団の出自ということで当然かもしれない。

     しかし、世界的神秘主義ということを視野にいれるならば、イェーガーやヒクソンでは不十分だろう。この点では、テンジン・ワンギェルの『チベッタン・フィーリング』の構成の方が全体的だと思う。

     しかしそれは不思議なものだ。

     シャーマニズム - タントラ - ゾクチェン

    とこうなっているのだが、最初のシャーマニズムが扱うのも、2番目のタントラが扱うのも、同じエレメント論である。つまり、陰陽五行の五とか、四大の四とか、世界を構成する原子的存在についての論である。それがどうして二段階に分かれているのかよく分からない。

     エレメント論ならば仏教的神秘主義にもあり、キリスト教神秘主義にもある。それらは神秘主義の堅物から見れば、オカルトじゃないか、ということになるだろうが(高野山の墓はエレメントの象徴になっている)。

     しかし、このようなものを無視して、果たしてアドヴァイタだけで神秘主義が成立するのか、はなはだ疑問だ。テンジン・ワンギェルはゾクチェンをアドヴァイタと同定しているわけではないが、アドヴァイタがインドの究極的神秘主義であるならば、ゾクチェンはチベットの究極的神秘主義であり、同定はされなくても、少なくとも比較はされる。

     タントラについては一体どこが起源なのかという話があるが、アドヴァイタもタントラもエジプト起源なのかもしれない。

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