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  • “正法眼蔵”の仏教の教えを現代語で表現してみたいと思います。
    目的は簡単な日本語で表現できないだろうか?ということで、あくまで意訳であり、趣味レベルですので違約だとは思いますが。
    (違約によって道元の文才は完全にオミットされますが、何を言わんとしているかなんで)
    出典はネットのブログの中から自分が理解できそうな現代語訳を見つけて、それを更に適当に自分なりに付加したり省略したものです。
    とりあえず始めたいと思いますが、途中で飽きてやめるかもしれません。すぐやめるかもしれません。あしからず。
    もっとこんなほうが正しい意味でかつ簡単でわかりやすいということがありましたらご指摘お願いします。

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    dyn***** 1月19日 10:51

    >>58

    法性の巻より
    ””しばらく馬祖に問うべし、何を呼んでか衆生とする。もし法性をよんで衆生とせば、
    「是什麼物恁麼来なり、もし衆生をよんで衆生とせば、
    「説似一物即不中なり。
    速く言え、速く言え。””

    感想:釈迦の教えでは、始まりもなく終わりもなく安定した目の前の現象世界である、という把握意識を基本にします。
    死後の世界と同様で、わからないことを考えてもしかたない。ということでしょう。
    しかし現代では、宇宙の起源や生命の起源があるていどわかってきた。
    しかしなぜという問いについては答えがない。

    以前としてなぜ始まるのか、わかりませんので、その因果関係である終わりもわからないわけです。
    宇宙の物質現象の本質は存続であり、地球上の原子はそのままで永遠に不滅の物質ですが、
    生物も生存を本能にしており、ただ、そのためにはエネルギー補給が必須というのも一つの把握意識でしょう。

  • だから現象の哲学的な表現としては般若心経
    それに生物の生存本能というのがあって
    人間の社会行動の例としては孔子
    なんだろうなあ。

  • >>56

    だから、この世界は安定していて美しい、そう思うこともありますが、そうやってじっと坐禅しているだけでは死を待つだけであって、結局は捕食活動は必要です。
    経典では捕食は他者に任せてひたすら坐禅修行したほうが悟りに達したなんてありますが、それは無理やりこじつけた話でして。
    ですから、生とは、つまるところ捕食活動なわけで、それは弱肉強食のありのままのことです。
    その中で社会組織性のある人間としては、社会強調しながら、ということになると思います。

  • >>55

    >>それはそうなんですが、人間とはどういう存在?ということになると、道元の疑問もそこにあり。
    釈迦の前の7仏、さらにその前の世界はどうなっていたのだ?というやつですね。<<

    そこで過去7仏の前の過去7仏の前の・・・という生物の進化というのがある。
    進化論を一言で、環境に適応してきた者が生き残る、というのは単なるトートロジーであります。
    分子構造以上の生物には存続のエネルギー捕食のための自己制御CPUを持っていて自ら進化しつつ遺伝子も変化させてきた。
    つまりサバイバル=生存活動のために自己進化させる制御CPUを持っているのが生物です。このサバイバルのための制御CPUを持ったものが生物と言われる。
    分子だけ、細胞だけなのに制御CPUはどこにあるかと言うと、その全体でしょう。動物になると脳ということになりますが、植物だって制御CPUがあるわけですから。

  • >>45

    >>何の説明も解釈もなしにそのままの瞬間で<<

    それはそうなんですが、人間とはどういう存在?ということになると、道元の疑問もそこにあり。
    釈迦の前の7仏、さらにその前の世界はどうなっていたのだ?というやつですね。

    社会生活を営む生物という点では科学という知恵によって楽に暮らせるようになった。
    で、もともと人間は何?ってことになると、まず核融合の中で発生した原子が宇宙の果てから果てまで変わらずにある。原子は生者必滅ではなくて永遠に不滅。

    分子~細胞になると存続するためにはエネルギーが必要で、それ以降は生物とみなされる。
    生物は他者を捕食(エネルギー確保)して存続する。
    なぜ存続するかの答えは存続しない者は滅するから、としかいいようがない。
    宇宙の素粒子でも原子でも核融合でも存続する宿命になっている。

    人間は進歩した脳(制御CPU)を持ち他者を捕食して存続エネルギーを得ながら存続する生物である。
    細胞以上の生物はいずれも制御CPUを持っている。細胞以下でも分子は他者を捕食して存続するための制御CPUを持っている。
    遺伝子は制御CPUが作り出した存続のための設計図である。

  • >>14

    【Re: 仏性2】
    一切の存在と言う言葉は、存在が今始まったと言う考え方での、この世の中と言うイメージ概念や意味ではない。
    この世の中は、永遠の過去から本来存在したものと言う意味での、この世界でもない。
    『言葉では表現することの出来ない何かだ』と言う表現を使ってみても、それでもまだ言葉の問題である。
    だから、そういう言葉によって我々の住んでいる世界の実態そのものを表していると言うわけにはいかない。
    まして、何らかの環境があって、そこから生まれてきた存在、そこから生まれてきた世界だと考える事も出来ない。
    何の原因もなしに、何の環境もなしに、ただ個々に存在するのだと言う捉え方も出来ない。
    心(主観)とか環境(客観)とか、そういう二つの物に分かれた考え方とは関係ない。
    中身と外見と言う二つに分かれた考え方で捉えられるものでもない。

    この様に考えて来ると、この世の中の生きとし生けるものが、その内容を成している一切の存在における、主観も客観も一切のものが何らかの行動によって蓄積されて生まれてきた力だと言うものでもない。
    何の原因もなしに、突然この世に現れて来たと言う形のものでもない。
    行いを基本にすれば宇宙のありのままの姿だと言う表現で言い尽くされるわけではない。
    仏道修行して得られる非常に神秘的な能力と言うものでもない。
    仏道修行に基づく日常の実践活動というものだけでもない。
    この世の中の一切の生きとし生けるもの一切の存在が、何らかの行いという努力によって累積されるものである。
    客観的な環境から生まれたものである。
    本来自然に存在するものである
    と言う解釈が仮に当っていたとするならば、仏教界において真実を得られた沢山の方々が、真実をシッカリ身につけて実践された事、あるいはそれらの方々得られた真実と言うもの、釈迦ご自身がもっておられた見方、それらのものも、様々な行動の累積によって初めて積み上げられと結果だと言う考え方になろう。
    また何らかの環境から生まれてきたもの、という考え方にもなろう。
    また本来の宇宙のそのままの姿だ、という考え方にもなろう。
    しかし、そうではないのである。
    この我々の住んでいる世界は、現実の瞬間そのものである。だからそれ以外に付け加えるべき言葉や概念は何もないのである。
    この我々の住んでいる世界は、何の説明も解釈もなしにそのままの瞬間で、行いによってその瞬間の世界に踏み込み初めて自分と世界を把握できる。
    言葉を超えた尊い世界なのである。

  • >>13

    【Re: 仏性1】
    次の言葉は『大般涅槃経』に出て来る言葉です。
    釈迦牟尼仏言『一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易』

      釈迦が言われるには、行いをもって世界に入ってゆけば、すべての生きとし生けるものという一切すべてがありのままの姿そのものである。それが永遠に続いているのであるから、この世の中の性質が変わったと言う事もない。

    道元禅師
    この『大般涅槃経』に説かれている言葉は、我々の偉大な師匠である釈迦の言葉である。
    そしてこの言葉は釈迦だけの考えではなくて、その他の行いをもって智慧を得られた方々・仏教界の沢山の先輩方の考え方であり見方である。

    この様な教えを釈迦以来勉強して来た年限が、すでに二千数百年の長きに達し、現在は日本においては仁冶二年の年に当たっている。
    釈迦以来、代々の正しい後継者によってこの教えは引き継がれて来たのである。
    引き継がれたその代々の祖師方の人数は、通算して五十代の数にのぼる。
    インドにおいては、二十八代、中国においてはニ十三代にわたって、代々その教えと言うものが保たれ、またその教えによって日常生活が行われて来た。
    そして、あらゆる方角にいる真実を得られた沢山の方々もその教えを拠り所とし、その教えを保持して今日に至った。
    『大般涅槃経』の中に説かれた釈迦の言葉『この世における一切の生きとし生けるモノは、悉く仏の性質を持っている』と言う考え方の趣旨は一体どう言う事であろうか。
    釈迦が『一切衆生悉有仏性』と説かれた教えは:『行いを基にすれば世界の諸現象は、ありのままの姿で現に我々の目の前にある』と言う教えを説かれたものに他ならない。

    ある場合には「衆生」と言う言葉を使い、
    ある場合には『有情』と言う言葉を使い、
    ある場合には『群生』と言う言葉を使い、
    ある場合には『群類』と言う言葉を使っている。
    けれども、これらはいずれも一切の生あるモノと言う意味であり、一切の現象と言う意味である。

    一切の生あるモノとは、一切の存在の事であり、
    一切の存在とは、ありのままの人としての性質そのものである。
    一切の存在のすべてを一切の生あるモノと言うのである。
    人間が一所懸命行動するまさにその瞬間においては、対象の諸現象一切がありのままそのものに他ならないのである。
    釈迦以来、代々の祖師方によって引き継がれて来た、皮・肉・骨・髄という体の実態だけではなく、一切の人々が、皮・肉・骨・髄という智慧の実態を得たりと言えるのである。
    だから、一切の人々が悟りを得た人と同じ性質を具えていると言う事が言える。

    ここではっきり知っておかなければならない。
    それは、モノの性質によって保たれているこの現実の世界は、あるとか・ないとかと言う頭の中で考えられた存在ではない。
    つまり行いとともに瞬間の世界があるという絶対の存在である。
    この世の中の一切と言う言葉は、釈迦の教えを基礎とした言葉である。
    釈迦ご自身が述べられたところである。
    釈迦がモノを見られたその真髄である。
    現にいま行動している自分自身の鼻(息)に象徴される生命に他ならない。

  • >>12

    【Re: 摩訶般若波羅蜜4】
    釈尊が言われた。
    舎利子よ。
    一切の世界は言葉で表現するかぎり般若心経の中にあり、自分と対象世界の把握意識に関し、釈尊が住したと同じようにするべきである。
    またこの正しい智慧を供養し、尊敬礼拝し、思念することも、釈尊を供養し、尊敬礼拝し、思念すると同じようにせよ。
    正しい智慧は釈尊と全く同一であり、釈尊はこの正しい智慧と全く同一だからである。
    正しい智慧とは、釈尊そのものに他ならない。
    釈尊は、正しい智慧に他ならない。
    したがってこの我々の住んでいる世界全体が般若心経という正しい智慧そのもであるから、我々の住んでいる世界全体が釈尊の教えそのものと異ならない。
    なぜかというと、舎利子よ。
    すべての真実を体得された方々が持っていた正しい均衡と調和のとれた行いは、正しい智慧によって生まれ、間違った考えからは生まれることはない。
    しかも、この正しい智慧とは、行いをしている時の心境、状態という事であるとすれば、仏というものから行いが生まれ、悟りというものも自己と対象世界の協調の行いから生まれるところの自己と対象世界の協調の行いそのものが悟りだという事にならざるを得ない。
    舎利子よ。
    菩薩摩訶薩(行いによって真実を得る人)・独覚(感覚によって真実を得る人)・阿羅漢・不還・一来・預流(思惟によって真実を得る人)等は、皆真理の過程である正しい智慧というものを基礎にして出現する。
    さらに舎利子よ。
    一切の俗世間における善行(仏道において善行として挙げられる十種類)・四静慮(物質世界における四段階の禅定)・四無色定(精神世界における四段階の禅定)・五神通(天眼通・天耳通・他神通・宿命通・如意通)という普通の人間では中々到達できないような優れた能力も、すべて正しい智慧というものを基にして出現する。

    道元禅師の注釈。
    したがってこのような記述から考えていくと、釈尊や真実を得られた方々はいずれも正しい智慧そのものである。
    正しい智慧は何であるかというと、我々が住んでいる現実世界そのものが正しい智慧そのものである。
    この我々が住んでいる宇宙というもの、現実の世界というものは何かというと、何らかのものを感じることはできるけれども、瞬間瞬間の世界を言葉で追従説明しようとしてもできない世界であるから行いにより世界との調和を体得するのである。
    不生不滅なり。
     それは過去になかったものが今生まれて来たという事ではない。
     永遠の過去から固定することできない瞬間瞬間を刻んでいる
     それがいつか無くなって行くというものでもない。
     現に存在し、また今後も存在するという性格のものである。
    不垢不浄。
     この我々の住んでいる世界とは、清いとか汚れているとかという定義づけが出来ないほど絶対の世界である。
    不増不滅なり。
     人間の思惑を超えて厳然として存在する、捉えることのでき無い瞬間とその連続が、この我々の住んでいる世界である。
     
    したがってこのように、この現実の宇宙というものは、不生不滅、不垢不浄、不増不滅のものであるというふうな、こうした正しい智慧が現実のものとして自分自身の智慧としてわが身についたという事は釈尊そのものが出現したことである。
    自分自身が釈尊になったという事と同じことである。
    その境地というものを大いに研究してみる必要があるし、その境地に自分自身で入り込む必要がある。
    この様な形で正しい智慧に供物を捧げ礼拝するという事は、釈尊そのものにお仕えするのと全く同じ意味である。
    釈尊にお仕えするという形において、自分自身が釈尊と全く同じになったという事に他ならない。

                 「正法眼蔵摩訶般若波羅蜜」 
                 1233年 夏安居
                 観音導利興聖宝林寺において衆僧に説示した。
                 1243年 旧暦春3月21日、これを書き写した。

  • >>11

    【Re: 摩訶般若波羅蜜3】
    帝釈天が釈尊に申しあげて言う。
      世尊よ、仏教を信じる者が、般若心経において説かれている正しい智慧というものを受け取り経典に説かれた理論に従って物事を考え、他の人のために経典の趣旨を演説するという事をやった場合に、それらの人々を自分はどのようにして守ることをしたならばよろしいでしょうか。お慈悲を持ってお教えくださるよう、ただただお願いいたします。

    その時善現長老が帝釈天に向かって言う。
      帝釈天よ、お前は法(対象の現象世界の秩序)を、見ることが出来るかどうか。

    帝釈天言う。
      私はこの宇宙を支配している秩序で、我々が守らなくてはならないと思われるものがあるかどうか、それをこの眼で見ることはできません。

    善現長老が言う。
      仏教を信じている男女が、この経典に書かれているような意味の深い真の智慧というものに自分自身を置くならば、行いによって対象世界の中に協調する自分の身を置き、その協調体験を日常生活に生かしていくならば、正しい智慧というものから決して離れることがなく、正しい智慧そのものを守るという事の唯一の具体的な形である。
      この様に対象世界と協調するような行いによって正しい智慧の状態に自分自身を置いておくならば、周囲からどんな手段をめぐらして災いや損害を与えられようとも、決して被害は受けない。
      帝釈天よ、正しい智慧にわが身を置くという事は、特別の事ではない。ごく普通の、行いにより世界との協調しそれによって自分自身のあたり前の状態に我が身を置くという事が、正しい智慧に我が身を置くという事に他ならない。

    銘記せよ。
    般若(正しい智慧)の経典を持ち、それを読み、般若の経典が教えている理論に従ってものを考えるという事が、正しい智慧を自分のものとして保持しているという事の意味である。
    そしてまた正しい智慧を守ろうとすることは、経典を保持し経典を読む事に他ならない。

    自分の亡くなった師匠である天童如浄禅師が言われた。
    風鈴というものは、体全体が口のような恰好をして空間にぶら下がっている。
    東・西・南・北のどこから風が吹いてきても常に音を出す。
    どこから風が吹いてきても、いつでも他の人のために般若(正しい智慧)というものを語っている。
    その般若とは何かというと、軒先にぶら下がった風鈴の、風に吹かれて「テンチントンリャン、テンチントン」と鳴る音そのものが正しい智慧を我々に語ってくれる。

    天童如浄禅師の言葉について道元禅師の注釈。
    この言葉は、釈尊以来代々の方々が伝えてきたところの、般若(正しい智慧)に関する正統な教説である。
    風鈴そのものの全体が、固定できず言葉で説明できない瞬間であるから捉えようとすれば何も無く、瞬間は刻々と継続する不生不滅の理を現す般若に他ならない。またこの言葉を言われた天童如浄禅師の体全体が般若そのものだと言う事も言える。
    そして天童如浄禅師、あるいは風鈴を取り巻いている周囲の世界全体が般若そのものである。
    東も、西も、南も、北も、この世の一切が般若(正しい智慧)そのものに他ならない。

  • >>10

    【Re: 摩訶般若波羅蜜2】
    釈尊の仏教教団の中に一人の僧侶があり、ひそかに次の様に考えた。
      この正しい智慧と知識は、全体では我々の住んでいる宇宙というものが生じたり滅したりということがあるわけではないけれども、それを個々に見ると、戒律という集合体、安定均衡しているという集合体、智慧という集合体、迷いから抜け出しているという集合体、理性によって得られる智慧という集合体、こういう様々なものがこの世にあるという教えは、それぞれ個々に理解することができる。
      また仏道修行者が最初の段階「預流果」から「一来果」「普還果」一番最後の「阿羅漢」に到達するまで、いずれも修行が積もっていく過程によって得られるところの成果があると言う理解することの可能な個々の教えがある。
      また一人で山の中に入って気持ちを落ち着けて修行をする事によって真実を得るという考え方や、修行によって得られる究極のものという、二つの個々の理解可能な教えもある。
      また最高の、正しい、均衡のとれた真実という、理解することのできる教えもある。
      また、仏(真実を得て、釈尊と同じような状態になった人)・法(我々が住んでいる宇宙)
      ・僧(釈尊の教えを得ようと一所懸命に努力している人々)という、三つの最高の価値があるという理解可能な教えもある。
      また釈尊が説法されて、それによって心というものを持った様々な生物を救済するという、理解可能な教えもある。

    釈尊は弟子の考えを察知されて、その僧侶に言った。
      お前の考えている通りだ。
      この法とは、総じては永遠の一定不変のものであるけれども、分類してみれば、個々の様々な細かい教えがある。
      しかも、深い正しい智慧というものは、非常に奥の深いものであって、頭で推察しようとして、なかなか推察仕切れるものではない。

    帝釈天が善現長老に質問していう。
      自分とこの世界を勉強しようとする人々が、非常に意味の深い真実に到達するための正しい智慧というものを学ぼうとするならば、どのような学び方をしたらよろいでしょうか。

    善現長老答えて言う。
      この我々が住んでいる対象の現象を勉強するのと同じように学んだらよろしい。

    道元禅師の注釈。
    この言葉から見ると、正しい智慧を学ぶという事は自分と対象世界の現象の関係を学ぶことと同一であり、自分と対象世界の現象お関係を学ぶという事は正しい智慧を学ぶという事に他ならない。

  • >>9

    【Re: 摩訶般若波羅蜜1】
    観世音菩薩が、坐禅という行いをしながら正しい智慧の修行を行っている時、自分と対象である現象世界を正しく把握認識するための知識を得た。
    対象の現象世界には色蘊(一切の物質世界)・受蘊(一切の感受)・想蘊(一切の思惟)・行蘊(一切の行為)・ 識蘊(一切の意識)という五つの分類の仕方がある。
    また四つの正しい智慧がある。人は苦諦・集諦・滅諦・道諦という四つの考え方を歩むというものである。
    また六つの正しい智慧がある。
    それは布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若である。
    さらに正しい智慧には、その他にもいろいろな現れ方があり、十二個の正しい智慧というものがある。
    その正しい智慧の十二個とは何かと言うと、感覚的に受け入れることに関係のある十二のものである。
    また十二の感覚的に関連した事柄に、さらにそれを受け入れる我々の心の問題を加えてみると、それが六つあるから全部で十八になる。
    十二とか十八とは何かというと「眼・耳・鼻・舌・皮膚・それから神経の中枢」である。
    そういう感覚器官に対応して、その捉える事の出来る対象として六つのものがある。
    「色・声・香・味・触・法』、目で見るところの色(物質)、耳で聞くところの音、鼻で嗅ぐところの香、舌で感じるところの味、皮膚で感じるところの触、これらを総合的に捉えるところの法、この世の実在、これを十二入と言う。
    さらにその他に「眼・耳・鼻・舌・身・意識」である。
    識とは、我々の心の意識。
    だから、色とか、音とか、臭いとか、味とか感触とか、実在とか、そういうものを捉えた心の中身の六つのものを、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識と唱えるわけである。
    これら「眼・耳・鼻・舌・身・意・色・声・香・味・触・法・眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」を総合して、十八個の正しい智慧である。
    また一つの正しい智慧がある。それは行いによって出現し成立する。
    また三つの正しい智慧がある。
    過去・現在・未来である。
    また六つの正しい智慧がある。
    「地・水・火・風・空・識」の六つの分類によって我々の住んでいる世界を表現するという考え方もある。
    また四つの正しい智慧がある。
    それは普段の日常生活において行われている、行・住、坐・臥である。

  • >>8

    【Re: 現成公案5】
    人が自分と世界との関係を悟るということは水に月が宿るのと同じでどちらも互いに損なわず争わずに協調していることを、行いによって体得することである。
    この現実世界で互いに損なわず争わず協調関係で存在するということは宇宙全体でもそうだし桶の水の中も、草に宿る一滴の露にも、滴り落ちる水滴もそうである。

    相互の協調関係によって自分自身が損なわれることはないし月が水を損なうようなこともない。

    人が自他の協調関係を体得したことによりそれがその人の障害になることもない。露に映った月が月自体を損なうことがないのと似ている。

    そして自他の協調関係が奥の深い状態であることは高いところで光っているのと同じように高ければそれだけ光は行き届くようなものである。

    協調関係という悟りの奥の深さについてはその悟りの時節にもよるから、大海のような深さもあるし、手桶の水のような浅さもあるし、月や星のような高さや広がりの違いもある。

    弟子の僧が和尚に質問した。
    「空気はどこにでも遍在しているのですからわざわざ扇子を使うこともないでしょう。そういう悟りを得たならば、そのままで十分涼しいのではないですか?」
    和尚は答えた。
    「お前は空気が遍在するということを頭の中で理解しているだけで、空気が移動することを知らない。」
    すると弟子は問うた。
    「空気が移動するとはどういうことですか。」
    和尚は黙って扇子を扇ぐという行いによってそれを示すと、弟子は「わかりました」と礼拝した。

  • >>7

    【Re: 現成公案4】
    人が自分と諸現象世界の関わり方を把握したいという気持ちを起こした当初には、世界の把握意識からはるかに遠く隔たっている。
    そのときたとえば行いによって対象世界の中に入り、現実というものが理解できる。
    人が船に乗ってただ岸を眺めているだけなら岸の方が動いているようにも見える。
    しかし櫓を漕ぐという行いをしている場合はそうはならない。漕がなければ岸は近づいてこない、岸に到達することもない。岸に到達しないように見えても漕ぐという行いをしているとやがて岸に到達する。
    この世界の諸現象では、薪は燃えてしまったら、薪には戻らない。薪の後に灰になると順序がないわけではないが、薪は薪、灰は灰であり前後は切断されていると把握するべきである。
    人の生も同じで生の後に死が来るとは考えずに生は生、死は死、生と死は切断されていると把握すべし。死を経験することはないので人は生を精一杯経験するのみである。

    このように、生きているものが死ぬといわないのが釈尊の説かれた教えにおける定まった原則である。
    死んでから生き返る事がないと言われている事が法の教えである。
    例えばそれは、冬と春との関係のようなものである。
    冬が春に変わったと言う考え方をしない。
    春が変わって夏になったという考え方をしないのが世界を捉える基本である。
    春は春、冬は冬として把握すべし。

  • >>6

    【Re: 現成公案3】
    自分と対象世界との関係は客観的に捉えるというわけにはいかない。
    自分に偏れば対象を把握できない。対象に偏れば自分を失う。

    そこで行いの世界が現実のものであるが、行い、行為というものによって考えだけの世界から抜け出すことができる。
    そして考えに偏ることなく直観的な行いを伴うことにより自分の考えに固執すること一時忘れることができる。
    そうやって自分の考えを一時忘れることにより対象世界と一体となった行いをすることができる。
    このように対象世界と自分の敷居がなくなり一体となることが悟ったということの日常生活の実体である。

  • >>5

    【Re: 現成公案2】
    自分自身というものを中心にして行いをしたりする事が迷いである。
    逆に自分を適度に抑制された状態で現実の世界が自分自身に働きかけてきて体験させてくれるのが自分と対象世界とのありのままの関係である。

  • >>2

    【Re: 現成公案1】
    人は迷いもあれば、修行をする人もあり、生もあり死もあるという世界に生きている。
    世界を自己に囚われずに見れば、死んだとか生きてるとかいっても、あまり違いはない物質世界にいる。
    しかし日常生活というのは生きるとか死ぬとか、迷うとか悟るとか、普通の人間とか、悟った人とかあれやこれやの生というものが現実なんだなあ。
    このあれやこれやの生という日常生活の実体とは桜が咲いて花見をする。日か経つと、花びらが散る、
    それと同時に刈っても刈っても空き地の草は生えてくるということであり、ありのままに見ればそれらは決してつまらないことではない。

    日常がありのままに見える余裕、ありのままに依拠するとはどういうことなのか

  • 【行仏威儀2】
    釈尊が言われた言葉がある。
      自分は真実を求めて、一所懸命努力する人の行いを実際に実践した。
      その成果である今の瞬間が、今猶(いまなお)尽きることなく永遠の意味を持っている。

    まさに銘記すべきである。
    『永遠』とは、我々の頭の中で考えられた様に、空(くう)にあって連綿として今でも続いているんだ、という考え方をするがそうではない。
    あるいは、無限の過去に向かって続いているんだ、という考え方をするがそうではない。
    釈尊が述べた永遠とは、現在の瞬間において完全な状態を達成していると言う事ある。
    『今猶』とは、単に時間が長いと言う事ではなくて、現在の瞬間でありながら、しかも永遠の意味を持っているという事に他ならない。
    この修証について大鑑慧能禅師が南嶽懐譲禅師に言われた。
    今ここに述べた修行と体験とは、まったく一つのものであって、修行と体験とを別々に切り離す事は出来ない。現実の行動が現にあるに過ぎないと言う状態は、たくさんの真実を得られた方々がいずれもそういう状態に、わが身を置きたいと念願されたものである。お前も今、述べたのとまったく同じ状態である。
    自分もまた同じ様な状態にわが身を置いている。中国における我々だけではなしに、インドにおける沢山の真実を得られた方々もいずれもその実情は同じである。
    道元禅師の注釈。
    この様に考えてくると、お前と呼ばれた南嶽懐譲禅師も、理屈ぬきに一所懸命毎日坐禅の行為をしておられたから『仏』と呼ばれたのである。大鑑慧能禅師も理屈ぬきに一所懸命毎日坐禅をしているから『仏』と呼ばれるに値するのである。
    この一所懸命日常生活をやっている何かが(つまり手が二本足が二本の生き物が)自分だと言うレッテルを張ることも出来ない。南嶽懐譲禅師とレッテルを張ることも出来ない。
    そういうレッテルを張る事の出来ない何かが、一所懸命毎日生活をしていると言う事が言える。
    この様にレッテルの張れないものとして、現に自分自身の生活の中で生きている者が、自分と言う便宜上の名前をつける事の出来る何かである。
    行動する仏に具わる威風は、自分自身が自分らしく日常生活を生きている事である。その事が沢山の真実を得られた方々の誰もが念願してこられた事であるそれを『行仏威儀』と言うのである。
    その点では、大鑑慧能禅師だけの問題ではなしに、南嶽懐譲禅師についても、南嶽懐譲禅師らしく毎日を一所懸命生きる事が、たくさんの真実を得られた方々の念願したところでありそれを『行仏威儀』と言うのである。
    『自分もまた・・・』と言われた大鑑慧能禅師は、その様な状態にあればこそ、師匠として優れていたのである。『お前もまた・・・』と大鑑慧能禅師から言われた南嶽懐譲禅師も、その様な状態であったからこそ、弟子として優れた力量を持っていたと言われたのである。
    師匠も、弟子もお互いに優れているのである。
    この様な大鑑慧能禅師、並びに南嶽懐譲禅師の様に、実際の行動を通して仏道を実践していくと言う事が『行仏威儀』と言うもののきわめて優れた例に他ならない。
    道元禅師の注釈。まさに銘記すべきである。
    この様な大鑑慧能禅師、並びに南嶽懐譲禅師の様に、実際の行動を通して仏道を実践していく事が『行仏威儀』の、きわめて優れた例に他ならない。この様な状態が、真実を得られた沢山の方々の念願したところである。それは私(道元)の問題でもあり、お前方の問題でもある。
    『お前も自分もまた同じ様な状態に、わが身を置いている』と言われた大鑑慧能禅師のお言葉は、仮に自分(道元)は、まだ未熟でそこまで達していなかったとしても、どうしてお前方自身の問題でない事があろうか。
    皆それぞれがこの様な状態において日常生活を生きているのだ。行動を通して現在の瞬間という真実と一体になっている人々の念願するところ、十分に理解するところの問題とは、いまここに述べた様な事柄である。
    この様なところから考えてくると、修行・体験と言う実践の問題は、本質・姿・あるいはすべてと言う言葉では説明する事の出来ない何かである。行動を通して真実と一体になっている人の様子は、断固として真実を仏に実践させるという状況である。
    だから、逆に仏が自主的に行動に移る事によって、真実そのものが自分に行動をとらせてくれる。この様な実情から、初めて釈尊の説かれた正しい教えのために、わが身を捨てるという事が行われるのである。
    逆に自分自身が行動しなければならないのだから、行動の最中には釈尊の教えも頭に浮かんで来る事がない。ただ一生懸命やるという事に他ならない。
    それは『不惜身命』自分自身の体や命はどうなっても構わない、と一生懸命やる事である。それはまた同時に『但惜身命』自分自身の体や命は、仏道修行のための大事な材料であるから粗末にしてはならないと言う事でもある。

  • 【行仏威儀1】
    世界把握の真実を得られた方々は、例外なしに実際に行動し具わる威厳のある姿(威儀)を実践している。そして、これこそが行動を通して瞬間の世界であるという真実と一体になっている仏(行仏)の姿である。
    行仏--行いを通して真実と一体になっている仏とは:
       報仏にあらず------過去における様々な原因の結果、得られた仏の状態とは違う。    
       化仏にあらず------変幻自在に偶発的にこの世に出現する仏でもない。
       自性身仏にあらず--自分自身の本性を発揮したところに出現する仏でもない。
       佗性身仏にあらず--他人様のおかげで何となく出現した仏でもない。
       始覚にあらず------今得られた真実だと言う事でもない。
       本覚にあらず------ずっと昔から自分に具わっている真実だと言う事でもない。
       性覚にあらず------本質的に真実と一体だと言う事でもない。
       無覚にあらず------真実の実態把握を自分は持たない事でもない。
    以上述べた様々な仏は、いずれも頭の中で考えられた観念上の仏である。瞬間瞬間の世界でしかない、一瞬前も一瞬後もなく今の瞬間でしかないという現実において実際に行動を基本にする仏と同等だとみなす訳にはいかない。行動を通して現実世界という真実と一体になった仏と比較できるような人間のあり方と言うものではない。

    まさに銘記すべきである。
    たくさんの仏と呼ばれる方々が、釈尊の説かれた行動を基本にする教えの中にわが身を置いている状態は『さとり』を必要としないのである。悟って仏になるのではなくて、悟ろうと悟るまいと修行者であれば坐禅のように行動によって真実を具体化しているときは仏である。
    だから、真実を把握した後も、一所懸命仏道修行である行動が基本という、その日常生活のあり方がわかってくると『悟る、悟らない』と言う事はどうでもよくなって、仏道修行であればただ毎日坐禅をすることが基本になる。
    ただ頭の中だけで理解しているに過ぎない報仏・化仏・自性身仏等と呼ばれる仏にあっては、毎日の坐禅を通して仏の境地と一体になっていくあり方に比べるならば、それらの仏は夢にさえこの行仏の境地を知らないであろうと言えるのである。

    『仏縛』といっているが、この言葉の意味は、真実を頭の中だけで・言葉の上だけで真実と理解し、現実の、いま目の前にある外界を受け入れる。あるいは、現実の目の前にある物事に対する理解に縛られてしまう事である。つまり、自分の考え、自分の理解に縛られてしまう事である。
    ほんの一瞬間を過ぎる間においてさえ、仏縛から離れる事ができず、いたずらに間違った理解をする。
    しかし、よくよく考えてみるならば、何の束縛する縄もないのに、みずから自分自身で縛ってしまう事態である。まさに、無縄自縛である。
    仏教とはどういう教えであろうかと、頭で考えに考え抜いているのであって、仏教の周辺にある様々の穴蔵の中に閉じこもって一所懸命あれこれと理屈を考えているに過ぎない。
    我々には、わが身に具わっている『法』と言うものがある。
    一番大切なのは、その『法』が歪んで、苦しんでいると言う実態に気がつかない事である。
    そして、この具体的なわが身が、なぜ窮地に立っているかと言う事の原因が解かっていない事である。理屈だけで仏道を勉強した人の中でも、次のような事を言っている人もいる。

    『この我々が生きている世界の本質と言うものに関連して、我々の住んでいる世界の本質とは一体何かと言う考え方を起こすならば、理解がつかなくて、迷いに迷っている姿に他ならない』

    この言葉は、この世界の本質に関連して、この世界の本質と言う考え方が起こって来る事について、この世界の本質と言う抽象概念が むしろ束縛になっている。
    そういう言葉が・そういう考え方が、束縛の原因になっていると言う事を言わずに、丁寧にもその上に、迷いに迷った状態と言う束縛を上乗せしている。
    抽象的な論議をして、仏教を勉強していく人の言葉には、我々が住んでいる世界の本質と言う言葉に迷わされた束縛がある事に気がついていない。だから非常に哀れな事ではある。
    けれども、迷いに迷った状態と言う束縛がある事を知っている点では、ややましである。
    将来真実を得たいと言う気持ちを起こす原因となるかもしれない。
    一瞬前には戻ることはなく、一瞬後はまだ到来しない。現実は今の瞬間でしかない。
    自分自身が現実に躍り出て実際に行動する事によって、束縛から脱け出す事が『行仏』である。
    行動によって自分自身の持っている束縛に縛られないのが『行仏』と言う事でもある。

  • 【即心是仏4】
    『こころ』と言うものが、何であるかと言う事が解って来ると言う事は、天が天としてそのまま、ありのままに見えると言う事、観念的な土・大地と言うものが、全部なくなってしまう事、大地は大地として、現実に我々の目の前に現れてくる来ると言う事、我々の立っている大地そのものが、様子を全く変えると言う事である。、それは今までの境地から、つまり『こころ』と言ううものが何であるかが解らなかった境地から、全く面目を一新した新しい境地に立つ事が出来る。
    過去における高僧も言われた、
    微妙であって正常であり、しかも明晰な『こころ』とは一体何であるかと言えば、山であり川であり、大地であり、太陽であり、月であり、星である。我々を取り巻いている客観世界そのものである。したがってハッキリ知る事が出来る。『こころ』とは何かと言えば、山・川・大地・太陽・月・星である。
    しかしながら、ここで述べられている事は、積極的に積極的にと言えば、かえって足りない面が出てくるし、消極的に消極的にと尻込みしていれば、かえって余分なものが出てきてしまう。山・川・大地と言う『こころ』と言うものは、別に山・川・大地の他に何かがあると言う事ではない。山・川・大地そのものが『こころ』である。
    それに対して、煙がある・波がある・風があると人間の智慧で余分なものを付け加える必要はない。
    生死去来によって表現される『こころ』とは何かと言えば、生き死に日常生活そのものである。迷いとか悟りとかと言うものは、人間の頭の中で作り出したものである。一所懸命生きてていれば、迷いもない悟りもない。ただ、一所懸命の明け暮れがあるだけである。
    土で出来た垣根や瓦や小石によって表現される『こころ』とは何かと言えば、垣根であり、土で出来た壁であり、瓦であり、小石であり、そのものにほかならない。それを、泥がどの部分で水がどの部分と分析して理解する必要はない。現実そのものに触れればいい。現実そのものが法である。
    四大五蘊と言うものによって表現される『こころ』は、四大五蘊そのものに他ならない。迷いだとか悟りだとか『こころ』が様々に動いて、とめどもないと言う事も全部人間の解釈である。我々の日常生活にそんなものはありはしない。
    椅子・払子によって表現される『こころ』と言うものは、椅子そのものであり払子そのものである。それが竹で出来ているとか、木で出来ているとか分析的な見方は必要がない。
    余分な物は、何もいらない。ただその言葉を、そのまま素直に理解し受け取ればよろしい。
    また、様々の真実を体得された方々も、余分な説明は要らない。ただ純粋な意味で、真実を体得された方々と言う事に他ならない。
    したがって『今日ただいまの心こそ、真実である』と言う思想とは、発心・修行・菩提・涅槃と言う過程を経て、一所懸命仏道修行に努力をしている姿そのものに他ならない。
    いまだ発心・修行・菩提・涅槃と言う過程を経ないで『今日ただいまの心こそ真実だ』と言う訳にはいかない。
    つまり、仏道修行を志して坐禅をやっていると言う事が『即心是仏』の意味である。
    そういう行動的な努力なしに、抽象的に頭の中で考えられた『即心是仏』と言う考え方は事実ではない。たとえ一刹那(ほんのわずかな時間)に真実を得たいという気持ちを起こしただけでも、それは『即心是仏』である。
    その『現在の瞬間における心こそ、真実そのもの』に他ならない。
    したがって拳の半分ぐらいの大きさの狭い世界の中で真実を得たいと言う気持ちを起こし、実践する場合もまさに『即心是仏』である。しかるに、長い時間に渡り修行をして真実を得た人になろうと努力する事は『今日ただいまの心こそ真実である』と言う実態とは異なると、もし、この様に主張するならば、その人々は『今日ただいまの心こそ真実である』と言う事の実態をまだ見た事がない。また、それを知らないのであり、それを学んだ事がないのである。
    『今日ただいまの心こそ真実である』と言う思想を説明してくれる正しい師匠と言うものに出会わないのである。ここで言う真実を体得された人とは、釈尊と同一人格になった人の事である。釈尊こそは『今日ただいまの心こそ真実である』と言うその実態を具えた方に他ならない。
    そうして、また過去・現在・未来における真実を体得された方々が、例えば坐禅を通して真実を得たと言う状態に入った時は、必ず釈尊と同じ人格、同じ体の状態、同じ心の状態になるのである。その釈尊と同じ人格、同じ体の状態、同じ心の状態になったことを『即心是仏』と言うのである。『今日ただいまの心こそ真実である』と言う表現をするのである。
    「正法眼蔵即心是仏」1239年 旧暦の5月25日  観音導利興聖宝林寺においてたくさんの僧侶にこの説法を行った。

  • 【即心是仏3】
    南陽慧忠禅師は、中国の第六祖大鑑慧能禅師の非常に優れた弟子であり偉大な指導者である。したがって、この南陽慧忠禅師が示された教えを、理解して仏道を学ぶ上の手本とすべきである。
    人間のあり方を体(肉体)と心(精神)とに分けて『心」は不滅であるが『肉体』は必ず滅びると言う考え方は、セニカの考え方であり決してこの教えに従ってはならない。
    ところが、最近では大宋国においても多くの寺院の最高位にある人でさえ、南陽慧忠禅師のように『この先尼外道の見が、仏道かどうか』と言う問題について、ハッキリした考え方を持っている人はいない。

    昔から南陽慧忠禅師と同じ様な徳を具えた僧侶は、今だかつてこの世に現れてきたためしがない。
    しかるに世間一般の人々が誤って考えるには、臨済禅師・徳山禅師も南陽慧忠禅師と同じ様な力量であろうと考える人々が多い。
    この様に臨済禅師・徳山禅師と南陽慧忠禅師とが、大体似たような力量だと考えられている事は、明確に物事を見る事の出来る師匠がいないと言う事が非常に気の毒な話である。

    南陽慧忠禅師がここで言っている、釈尊以来代々の真実を得られた方々が保持してきたところの即心是仏とは、外道、ニ乗の仏教を勉強する人々にとって夢にさえ見る事の出来ないことである。

      ※即心是仏:今日ただいまの心こそ真実である
      ※外道  :釈尊の教え以外の考え方
      ※ニ乗  :釈尊の教えを勉強しているのであるが、一つは、頭の中だけで釈尊の教えを勉強する人々、もう一つは、線香やお経など感覚的のものだけで仏教を勉強しようとする人々。

    この問題については、真実を得た人と同じ様に真実を得た人とだけが『今日ただいまの心こそ真実である』と言う思想をお互いに理解し、徹底的にその問題を質問し、その問題を実際に実践し実際に体験してきたのである。

      ※唯仏与仏=真実を得た人と同じように真実を得た人
        妙法蓮華経(法華経)の中に、唯仏与仏と言う思想がある。仏教・仏道の真実と言うものは、それを知った人と同じ様にそれを体験した人との間にのみ相互に理解が出来、伝承が行われると言う考え方がある。
    心とは何かと言うと、それは具体的な事物に他ならない。
    だからそれは、泥にまみれた水に浸かったと言う特別な形容も必要がないし、人間が一所懸命努力して作ったと言う人為的なものではない。
    『即心是仏』・・今日ただいまの心が瞬間の実体という真実である。
    『心即仏是』・・心であり、同時に瞬間の実体という真実であるものは正しい。
    『仏即是心』・・仏というもの瞬間の実体という真実というものは、すなわち心にほかならない。
    『即心仏是』・・今日ただいまの心というもの、それが同時に瞬間の実体という真実であり、それは正しい。
    『是仏心即』・・ただこの具体的な仏というもの、そして心と言うものは、今日ただいまの現在の瞬間においてあるものである。

    仏(真実を得られた方々)は、この世の中の色々な事物を用いて日常生活を送られたり、それと同時に色々な事物に囚われない境地で生活もしている。
    しかし、仏は自分自身を真実を得られたと抽象的に主張しない。
    この事を別の言葉で言うと『釈尊の教えそのものが、今、現に自分の目の前にある』。
    だから、今に本物になるとか、そのうちに実現するだろう、とかと待ち構える態度ではない。なぜならば『釈尊の教えそのものが、今、現に自分の目の前にある』からである。
    そして、目の前の状態はすぐに消えるはかないものだが『いつまでもこのままでいたい』と願ったり、クヨクヨしたりする態度でもない。なぜならば『釈尊の教えそのものが、今、現に自分の目の前にある』からである。

    我々が住んでいる世界は三つの世界があり、その三種類の世界と言うものは歴然としてある。
       ※三つの世界
          欲界‐‐--心を働かせて、あれも欲しい是も欲しいと言う世界
          色界‐‐--客観的に感覚的に捉えられる、物質の世界
          無色界‐‐欲界色界を乗り越えた、行動の世界

    我々の住む世界は、物質的な制約があるために完全な世界ではない。
    しかし、物質的な制約を活用している我々の日常生活がある。
    その点では、我々の住む世界はとてつもなく素晴らしい、意味の深い世界と言える。
    だから、それから抜け出すと言う事を考える必要はない。
    それは、精神的な抽象的なものだけではない。
    心とは何かと言うと、日常生活でだれでも触れるところの個々の事物というものである。

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