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  • 『ウパニシャッド(Upanishads)』
     From Wikipedia, the free encyclopedia

    ~ウパニシャッドの中心は、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)の本質的一致(梵我一如)の思想である。~

    古代インド文明に於ける最古の哲学書であり宗教書である、「ヴェーダ」の一部。
    「ウパニシャッド」とは、一般には奥義書と訳される。また、漢字で書くと優婆尼沙曇となる。

    約200以上ある書物の総称である。各ウパニシャッドは仏教以前から存在したものから、16世紀に作られたものまであり、成立時期もまちまちである。もっとも、ウパニシャッドの最も独創的要素は、仏教興起以前に属するので、その中心思想は遅くとも西暦前7世紀ないし前6世紀に遡る。

    ウパニシャッドの語源について、「近くに座す」ととるのが一般的である。それが秘儀・秘説といった意味になり、現在のような文献の総称として用いられるようになったと広く考えられている。

    後世の作であるムクティカー・ウパニシャッドにおいて108のウパニシャッドが列記されていることから、108のウパニシャッドが伝統的に認められてきた。その中でも10数点の古い時代に成立したものを特に古ウパニシャッドと呼ぶ。多くの古ウパニシャッドは紀元前500年前後に成立し、ゴータマ・ブッダ以前に成立したものと、ゴータマ・ブッダ以後に成立したものとある。古ウパニシャッドはバラモン教の教典ヴェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタとも言われる。

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  • 210 177
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  • 210(最新)

    蝶々夫人 10月10日 08:17

    古の宗教儀式には、身体に何かしらを受け入れます。
    例えば、比較的新しいモノではキリスト教は「葡萄酒」、神道では「御神酒」、と言う風に。
    アマゾンの土着民族の宗教儀式にはもっと怖い物を使うと聞きました。それはアマゾンで採れた植物で「強い薬」だそうです。宇宙を見、自分が宇宙になるそうです。まあ、ホントかどうか。
    ブラジルでもそういった「薬」に近いモノを儀式に使うので、法的議論となっているとか?
    ブラジルのマテ茶は元気が出るそうです。相当濃厚なモノを現地の人は日常的に飲むそうですが、とてもその濃さでは日本人は飲めないと聞きました。
    ブラジルでサッカー選手達は努めて「マテ茶」を飲んだとか。
    どの宗教の何派でどんな「薬?」を使うのか、教義の内容は分かったとしても、儀式に使うそう言ったモノまでは解らない場合が多いのではないでしょうか?

    ウパニシャッド等、古代インド宗教で見られる、まるで「量子論」もどきの「自己」と「宇宙」のあり方は、もしかしたら、儀式に何か「薬?」に相当する何かを使っていたのかも知れません。
    「お香」と言って良い香りと共に何かを吸っていたのかも知れません。
    分かった物ではありませんよw
    不二一元を体験できるのは「薬?」「御神酒?」がないとダメだったりして(o゜▽゜)o

  • >>203

    体験してないから、わかりませんが。


    > なるほど。
    >
    >
    > > もし、私達が(或いは世界の全てが)、実はひとつだったとしたら・・・・
    > > 誰もがソレを知り・認める所であったとしたら・・・・
    > > 自分が一番可愛い私達は全てを愛するに違いありません。
    > > 其処に「慈悲」は当然、在るようになると想うのですが・・・。
    > >
    > > 慈悲は「自分が一番可愛い」から始まるモノだと想います。

  • >>203

    不二一元を体験されたらしいイェーガー神父は、

    >私の生きる姿勢の根本は「あなたの隣人を愛しなさい」ということにあるのではなく、
    >隣人という存在は存在しないということを体得することなのである。
    > byイエーガー神父

    続けて
    >隣人という存在は存在しないということを体得することにより、地球とこの地球上に生きる一切のものに対する責任が生じる。


    となっています。オリさんが投稿なさってました。

    自分が全ての根源だ、という自覚のようなので、これは、神=わたし、と言ってるようなものですね。
    一元なんでしょうね。

    枝の喩えだと、幹と枝という違いがありましたが。

  • >>200

    オリさんの投稿から引用。

    >>>>
    イェーガー理論と神秘主義トピ

    259
    oli***** 9月24日 20:22
    >>252
    > >「妊娠中絶した場合に生まれてこなかった子供と母親の霊魂はどうなるのでしょうか」?

    > これは難しい問題である。意見を述べることは私にはできないが、分っていることといえば、「いのち」は消滅することはあり得ないということだけである。人間にならなかったこうした存在者の「いのち」も何らかの方法で生き続けるであろうということである。

    > 個々の人間の本性である存在者の有するエネルギーの流れであるこのエネルギーのかたまりは、神性なるものの無限のエネルギーとして、私には説明できない形相で、生き続けるであろう。

    > もし私が尋ねられたら、母親に勧めるだろう、この存在者をあなたの同伴者にしなさい、この存在者との結びつきが今なおあるのですから。あなたはきっと道徳的な意味で何ら非難されることはない。

    > この結びつきは個人的な結びつきとは全く違う。枝が枝に向かって、そこにも枝がある、あそこにも枝が、あそこにも枝があるというなら、言ってみればそれは個人的な関係である。枝である自分が木に繋がる存在であることを知った時、すべての他の枝との実存的繋がりを持つからである。亡くなった人々との繋がりもこのように考えられる。それは我々が一般的に考えていることよりもはるかに深い次元の内容豊かで、包括的な繋がりと考えられ、それは私が理性的に考えることをはるかに超えているのである。

    ↑の「木」は、イエーガー神父の他の喩えでは、「いまここに鳴り響いている交響曲のような存在」のことであり、それが「神」にあたる。

    人間は交響曲の一音符であり、↑ではそれは「枝」のこと。

    宇宙で唯一真に実在しているものを「交響曲」になぞえるあたり、カトリックらしいセンスだとはいえる。マーラーもブルックナーもカトリックだった。
    <<<<

  • >>202

    なるほど。


    > もし、私達が(或いは世界の全てが)、実はひとつだったとしたら・・・・
    > 誰もがソレを知り・認める所であったとしたら・・・・
    > 自分が一番可愛い私達は全てを愛するに違いありません。
    > 其処に「慈悲」は当然、在るようになると想うのですが・・・。
    >
    > 慈悲は「自分が一番可愛い」から始まるモノだと想います。

  • >>147

    愚さんの言っている、全体意識・基底というようなことも、それが、慈悲の根源だ、ということにもなり、ある意識が時空を超えてあり、それは、慈悲でもある、というなら、まさに、神性・神意識となるでしょう。

    それは、一元論とも言えるけれど、個人の自分というものとは、明らかに違うのだから、私=神というのは違うと思う。
    最近は、愚さんも、そんな単純なことは言われてませんけどね。

  • >>192

    〇貴方を相手にしていません○

    >おはようございます。
    >第二の和ちゃん!ありがとう。

    それは自意識過剰です。
    アナタを対象にレスしていません。
    一切衆生が一切衆生にレスしています。
    あしからず、ごめなさいね。

    レス心は レスのみなり さらに我なし 相手なし

  • 〇私は誰か○

    ウパニッシャドの聖人にラマナ・マハリンは、この死んでゆく私は誰かという問いを
    したと言い、次の言葉が心底に薫習している。

    「私は誰かと尋ねることによって心は静かになる。私は誰かという思いは他の全ての
    思いを破壊するだろう。燃えている焚き火の山をかき混ぜる木の棒のように、やがて
    「私は誰か」というその思い自身も滅ぼされてしまうだろう。そうすれば自己実現が
    やってくるだろう」

    「私は誰か」というその思い自身も滅ぼされて、自己実現がやってくる。
    これは、「思いを手離す」坐禅、「思いを手離す」一心称名、「思いを手離す」無義の念仏、
    という大乗仏教の手法にも通じるものがある。

    真実の自己は、ヤージニャヴェルギヤのように「非ず、非ず…」と否定の果てに現成する。
    して、その言葉にできない自己を、ギリギリのとこまで言語化していくと、華厳哲学の
    事事無礙法界から、さらに「重重帝網を即身と名づく」という空海に辿り着く。

    無限数、無限大に、時空を超えて張り巡らされた関係性(縁起)の見えない網。
    時空を超越したすべての衆生や三界万霊に生かされている自己、一切の他力に生かされて
    いる力強い自己がここに在る。

    重々帝網を即身となづく………「私は誰か」を尋ねて15年の旅の結論であった。

  • 〇絶対者的主体性(積極的に表現できない)〇

    ――中村元『東洋のこころ』43頁~――

    絶対者の主体性をとくに強調したのは、先にあげたヤージニャヴェルギヤです。
    かれは本来の自己というものは認識され得ないもので、言葉でいい表せないものである
    と強調しました。

    …中略…

    しからばこのアートマンの本質・本体とはどういうものであるか、それを知るというのは
    どういうことであるでしょうか、かれによれば、それは一般の事物と同じ資格における認識
    の対象というものではありません。アートマンは純粋な叡智であります。それは内もなく外
    もない。あたかも塩の塊が塩の味にすぎない。そのなかに内も外も区別されないようなもの
    です。したがってアートマンは積極的な概念でもって述語できません。

    しかし、たんなる無でもない。アートマンは認識の主体であります。アートマンはそれの
    よってこそ、人がこの一切のものを認識しうるものです。だからアートマンはそれ自身は
    もはやなにものによってもとらえることができない。不可捉である。もしも強いて言葉で
    かりにいい表そうすれば、「そうでない、そうではない」と否定的に表現しうるのみである。

    絶対者を否定的に表現することは、インド思想の一つの顕著な特徴で、この特徴をとくに
    力説した最初の人はヤージニャヴェルギヤであるといえましょう。

    ………

    絶対者は、そうではない、そうではない……と否定的に表現しうるのみ。

  • 〇ブラフマンとアートマン○

    ――中村元『東洋のこころ』42頁~――

    ブラフマンとは、もとは神聖で呪力に満ちたヴェーダの言葉でしたが、それがヴェーダの
    説教、祭祀、呪詞を意味し、さらに内在する神秘的な力を意味する世界の根本原理である
    と考えました。どちらかというと非人格的なものです。これに対してアートマンはむしろ
    主体的・人格的原理であり、もとは「息」を意味する語でした。これが転じて「生気」
    「本体」、さらに「自身」を意味し、哲学的概念としては「生命原理」「自我」「自己」
    「霊魂」「本体」、やがては万物に内在する霊妙な力」を意味するようになりました。
    両者は結局同一のものである(梵我一如)、すなわち現象世界の雑多様相の根底に唯一なる
    ものがあると考えるようになりました。

    ………

    ブラフマン=神秘的な世界の根本原理
    アートマン=万物に内在する霊妙な力・霊魂

  • 〇ウパニシャド哲学○

    ――中村元『東洋のこころ』40頁~――

    …すなわち、根本的な唯一のものがあり、それがひろがったというわけです。
    世界創造神話はたくさん説かれていますが、要点をいいますと、二つの考え方があります。
    一つはあらかじめ創造者の外にある質料を使わないで、自分自身の本体の中から宇宙が
    現れ出たという考え方です。もう一つは自分の外に質料が存在している、それに対して
    創造者が力を働かせたという考え方です。もとの世界創造者としては原人とか万有を作る
    もの、黄金の胎子、創造主というようなものが考えられ、他の神々より優越します。

    ウパニシャッド哲学

    この究極的な原理を追及するという努力を徹底的におこなったのがウパニシャッドの哲学
    です。ウパニッシャッドに説かれていることと、プラトーンのもろもろの対話篇との間に
    は類似点あるということを、紀元前300年頃にインドを訪れたギリシャ人の大使メガス
    テネースがいっています。

    諸ウパニッシャッドとプラトーンの諸対話篇との比較
    (1) プラトーンの著作のようにウパニッシャッドも、それより短いが対話を含んでいる。
    (2) 人間の生き方、不死や未来の審判などの共通の哲学的問題を論じている。
    (3) 比喩による説明が面白い。
    (4) 重要な術語に通俗語源解釈が施されている。
    ウパニッシャドではいろいろなことが説かれていますが、まとめますと、「知識を重んじる」
    で共通しています。たとえば祭りでも、祭の意義を知っておこなうならばその効果を増大せ
    しめることができる、祭は宇宙及び人生を具現化したものであるといいます。
    そういう考察をすすめ、ついにアートマン(我)あるいはブラフマン(梵)というような
    抽象的概念を絶対者として考えるようになりました。そしてそれを知ることによって、絶対
    の安心立命の境地に達する、それが解脱であるといいます。

  • 〇ウパニシャド哲学○

    ――中村元『東洋のこころ』40頁~――

    …すなわち、根本的な唯一のものがあり、それがひろがったというわけです。
    世界創造神話はたくさん説かれていますが、要点をいいますと、二つの考え方があります。
    一つはあらかじめ創造者の外にある質料を使わないで、自分自身の本体の中から宇宙が
    現れ出たという考え方です。もう一つは自分の外に質料が存在している、それに対して
    創造者が力を働かせたという考え方です。もとの世界創造者としては原人とか万有を作る
    もの、黄金の胎子、創造主というようなものが考えられ、他の神々より優越します。

    ウパニシャッド哲学

    この究極的な原理を追及するという努力を徹底的におこなったのがウパニシャッドの哲学
    です。ウパニッシャッドに説かれていることと、プラトーンのもろもろの対話篇との間に
    は類似点あるということを、紀元前300年頃にインドを訪れたギリシャ人の大使メガス
    テネースがいっています。

    諸ウパニッシャッドとプラトーンの諸対話篇との比較
    (1) プラトーンの著作のようにウパニッシャッドも、それより短いが対話を含んでいる。
    (2) 人間の生き方、不死や未来の審判などの共通の哲学的問題を論じている。
    (3) 比喩による説明が面白い。
    (4) 重要な術語に通俗語源解釈が施されている。
    ウパニッシャドではいろいろなことが説かれていますが、まとめますと、「知識を重んじる」
    で共通しています。たとえば祭りでも、祭の意義を知っておこなうならばその効果を増大せ
    しめることができる、祭は宇宙及び人生を具現化したものであるといいます。
    そういう考察をすすめ、ついにアートマン(我)あるいはブラフマン(梵)というような
    抽象的概念を絶対者として考えるようになりました。そしてそれを知ることによって、絶対
    の安心立命の境地に達する、それが解脱であるといいます。

  • >>185

    〇善き生き方を学ぶ○

    どなたが先生かはしりませんが、中村元博士から学ぶものとは違います。
    歴史学的にも異質です。

    しかし、 ヒンズーからしたら仏教もヒンズー教の一部ですので、
    ヒンズー中心主義の方と議論する気はありません。

    私はインド学者になるつもりはなく、
    ウパニッシャドから善き生き方を学んでいます。

    学ぶ方向性が違うので、どこまでいっても平行線でしょうね。

    それでは、お幸せに !(^^)!

  • >>186

    >ミクロから発し、マクロへと広がり、また、マクロはミクロの集合体。

    ミクロ始原説ですか?
    私は、ミクロとマクロの対立を和合させる「即」の仏道ですから、
    話はどこまでいっても平行線でしょう。

    ではこれまでといたして、後は、一切衆生にレスするだけです。
    それでは、幸せを祈念しています。

  • >>181

    〇ミクロ即マクロ〇

    ――ミクロの世界はアートマン、マクロの世界はブラフマン、なのでしょうか!??――

    ミクロとマクロ、アートマンとブラフマンを相対化させていますから違うと思います。
    正統のウパニッシャド哲学では、ブラフマンは相対を絶した「絶対者」ですから、
    ミクロとマクロの相対を絶した世界の一者です。

    相対者からしたら相対論理を超えていますから、そう簡単に発見できないようです。
    ヨーガとか瞑想をしたらいかがですか。

    ちなみに、仏教の縁起の深みである、重々無尽の縁起の華厳哲学では。
    ミクロの中に、またミクロがありことになりまして、良寛さんも詠います。

    淡雪の中に淡雪ぞ降る。

    目の前の世界は、人間の言葉を絶して、途轍もなく深いということになります。
    大切にしたいですね。

  • >>181

    〇ウパニッシャドとは別の世界○

    >――ミクロの世界はアートマン、マクロの世界はブラフマン、なのでしょうか!??――

    個人的信念という仮説を否定するわけでないですが、インドではそういう唯物論を順世派
    というそうで、ウパニシャッドの「正統派の六派哲学」から外れます。
    ウパニッシャドとは別の世界です。
    飛躍する前に、正統派とされる六派哲学を知らなければ、ウパニッシャドを学んだことに
    はなりません。

    インド哲学の体系(六派哲学)

    1、 サーンキヤ学派
    2、 ヨーガ学派
    3、 ヴァイシェーシカ学派
    4、 ニヤーヤ派
    5、 ミーマーンサー派
    6、 ヴェーダーンタ学派

    ちなみに、私のウパニシャドの師は中村元と山尾三省です。
    ウパニッシャドとは次元が違いますので対話にはならないでしょう。

  • 〇神を求めて泣きなさい○

    神ということに関しては、一神教の絶対一の神もあり、多神教の小さな神様の集まり、
    八百万の神というのもある。
    私としたら、一なる神と無数の神が、相互に呼び合い拝み合い、相互に響き合い照らし合う
    という、一即多の神様の響き合い連合体。
    そんな私としたら、八百万神だから、私に慰めを与えてくれるものが神であり、喜びを与え
    てくれるものは何でも神である。
    そして、私にとっては、そんな八百万神も観音菩薩である。

    そんな理屈はさておいて、ウパニッシャドの聖人ラーマクリシュナの言葉で
    心底に薫習したものがある。それは次の言葉である。

    「神を求めて泣きなさい、夜も昼も泣きなさい。あなたが泣くほどに神を求めれば、
    必ず神をみることができる」

    「みる」を見ではなく両方向からみる「観」とすれば、観音経の「一心称名」「念彼
    観音力」にも親和性があり、また、法華経「寿量品」の「心に恋慕をいただき、渇仰
    し」にも親和性がある。

    相対を絶した「絶対者」は、「相対者」の私たちを呼んでいるのだから、
    その神の呼び声に「ハイ!」答えて、その名を限りに呼び続ければ、
    その相対を絶した神は、必ず「ありがとう!」と答えてくれる。

    心に恋慕を抱いて、渇仰し、泣くほどに求めれば、必ず立ち現れる。
    主客相対を絶するほど一心にその名を呼べば、必ず立ち現れる。

    ラーマクリシュナの言葉に、ウパニシャッドと仏教も互いに響き合い照らし合い、
    相即相入しているように思える。

  • 【カイヴァルヤ・ウパニシャッド】
    [弟子]
    師よ、ブラフマンの知識を私にお教えください。私はそれが、隠された、聖なる、賢者に、よって尋ねら求められる最高の知識であるということを、またソレを求める者は不浄から離れ、至高の存在に到達する者であるということを聞いております。
    [師]経典の言葉とグルへの信頼を得ることによって、ブラフマンを知るよう努めよ。ブラフマンに帰依せよ。絶えずそれを瞑想せよ。祭式によらず、子孫によらず、財産にもよらず、ただそれに帰依することにより、また、世俗に対して無関心であることにより、人は不死に達するのである。
    最高の天界は、心臓の蓮華の内に輝く。懸命に努力し、切望する者は、そこに入る。聖典の教えの神髄を理解して、彼らは世俗を放棄する。・・・・・続く

    このウパニシャッドの趣旨は、信仰と帰依と瞑想とによってアートマンを覚り、そしてブラフマンと一体になった賢者は、有為転変の輪廻から解き放たれ、再生と悲しみと死から逃れる。と言う事らしいのですが・・・・。

    詳しくは、お手持ちのウパニシャッドをご覧下さい。

    ちょっと、このカイヴァルヤの言う事から、量子哲学を思い出したのです。
    カイヴァルヤは「最高の天界は、心臓の蓮華の内に輝く」と言います。
    「アートマン=ブラフマン」と言っているだけではなく「アートマンこそブラフマンである」と、即ち「アートマンがブラフマンを造っている」と言っているのだと、私は解釈しました。
    その解釈の裏付けとしてカイヴァルヤはこう言っています―――

    『私から全てのモノは現れ、私の内に全てのモノは存在し、私へと全てのモノは帰る。私はブラフマン―――唯一して、第二のものを持たぬモノである。・・・続く』

    この古代インド哲学と現代西洋哲学とは同じなのでは!?

    と、私は人間の思想の歴史にも輪廻を見るような気がします。

  • 〇ラーマクリシュナ(いかなる宗教も誤謬をもっている)〇

    ロマン・ロダンが伝記を書いたことで私も知り得たというウパニッシャドの偉大なる聖人に、
    ラーマクリシュナがいる。彼のいくつかの言葉は私の人生を変えるほどの威力があり、その
    中で、宗教の差別対立を超えようと、その相対性を大胆にいう言葉が私に懺悔心を起させる。

    「ほかの宗教には多くの誤謬と迷信がある、と諸君はいうかもしれない。わたくしは答えよう、
    ――いかなる宗教も誤謬をもっている」

    この内省力こそが差別対立を超える源泉だろう。

  • >>174

    〇知識不足です○

    >無でもなく、有でもない、だからこういったことには「黙する」のが答えですね?

    知識不足で対話になりません。

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