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  • 『ウパニシャッド(Upanishads)』
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    ~ウパニシャッドの中心は、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)の本質的一致(梵我一如)の思想である。~

    古代インド文明に於ける最古の哲学書であり宗教書である、「ヴェーダ」の一部。
    「ウパニシャッド」とは、一般には奥義書と訳される。また、漢字で書くと優婆尼沙曇となる。

    約200以上ある書物の総称である。各ウパニシャッドは仏教以前から存在したものから、16世紀に作られたものまであり、成立時期もまちまちである。もっとも、ウパニシャッドの最も独創的要素は、仏教興起以前に属するので、その中心思想は遅くとも西暦前7世紀ないし前6世紀に遡る。

    ウパニシャッドの語源について、「近くに座す」ととるのが一般的である。それが秘儀・秘説といった意味になり、現在のような文献の総称として用いられるようになったと広く考えられている。

    後世の作であるムクティカー・ウパニシャッドにおいて108のウパニシャッドが列記されていることから、108のウパニシャッドが伝統的に認められてきた。その中でも10数点の古い時代に成立したものを特に古ウパニシャッドと呼ぶ。多くの古ウパニシャッドは紀元前500年前後に成立し、ゴータマ・ブッダ以前に成立したものと、ゴータマ・ブッダ以後に成立したものとある。古ウパニシャッドはバラモン教の教典ヴェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタとも言われる。

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    和弘 9月25日 21:44

    〇ウパニシャド哲学○

    ――中村元『東洋のこころ』40頁~――

    …すなわち、根本的な唯一のものがあり、それがひろがったというわけです。
    世界創造神話はたくさん説かれていますが、要点をいいますと、二つの考え方があります。
    一つはあらかじめ創造者の外にある質料を使わないで、自分自身の本体の中から宇宙が
    現れ出たという考え方です。もう一つは自分の外に質料が存在している、それに対して
    創造者が力を働かせたという考え方です。もとの世界創造者としては原人とか万有を作る
    もの、黄金の胎子、創造主というようなものが考えられ、他の神々より優越します。

    ウパニシャッド哲学

    この究極的な原理を追及するという努力を徹底的におこなったのがウパニシャッドの哲学
    です。ウパニッシャッドに説かれていることと、プラトーンのもろもろの対話篇との間に
    は類似点あるということを、紀元前300年頃にインドを訪れたギリシャ人の大使メガス
    テネースがいっています。

    諸ウパニッシャッドとプラトーンの諸対話篇との比較
    (1) プラトーンの著作のようにウパニッシャッドも、それより短いが対話を含んでいる。
    (2) 人間の生き方、不死や未来の審判などの共通の哲学的問題を論じている。
    (3) 比喩による説明が面白い。
    (4) 重要な術語に通俗語源解釈が施されている。
    ウパニッシャドではいろいろなことが説かれていますが、まとめますと、「知識を重んじる」
    で共通しています。たとえば祭りでも、祭の意義を知っておこなうならばその効果を増大せ
    しめることができる、祭は宇宙及び人生を具現化したものであるといいます。
    そういう考察をすすめ、ついにアートマン(我)あるいはブラフマン(梵)というような
    抽象的概念を絶対者として考えるようになりました。そしてそれを知ることによって、絶対
    の安心立命の境地に達する、それが解脱であるといいます。

  • >>185

    〇善き生き方を学ぶ○

    どなたが先生かはしりませんが、中村元博士から学ぶものとは違います。
    歴史学的にも異質です。

    しかし、 ヒンズーからしたら仏教もヒンズー教の一部ですので、
    ヒンズー中心主義の方と議論する気はありません。

    私はインド学者になるつもりはなく、
    ウパニッシャドから善き生き方を学んでいます。

    学ぶ方向性が違うので、どこまでいっても平行線でしょうね。

    それでは、お幸せに !(^^)!

  • >>186

    >ミクロから発し、マクロへと広がり、また、マクロはミクロの集合体。

    ミクロ始原説ですか?
    私は、ミクロとマクロの対立を和合させる「即」の仏道ですから、
    話はどこまでいっても平行線でしょう。

    ではこれまでといたして、後は、一切衆生にレスするだけです。
    それでは、幸せを祈念しています。

  • >>182

    うろ覚えで申し訳ないのですが、ウパニシャッドはヒンドゥ教の聖典の最終部分で、かなり永年にわたる賢者・聖者の言葉で出来ています。途中にゴータマ・シッダルッタが出現しています。と、記憶しています。
    地理的には同一ではなかったかも知れませんが、仏陀の時代はちょうどヒンドゥ教の土台に在った、と言えるのでは?と想像します。
    ウパニシャッドはヒンドゥ教の聖典であるヴェーダの最終部で(同じ事言ってしまいましたねw)
    仏教と同じく「古代インド哲学」でしょう。
    むしろ、仏教より古く・新しい、と言えるかも知れません。
    ココがうろ覚えで→二つの違いは、ヒンドゥ教はインテリのモノで、仏教は民衆のモノだという事です。多分、たしかそう聞きました。

  • >>181

    〇ミクロ即マクロ〇

    ――ミクロの世界はアートマン、マクロの世界はブラフマン、なのでしょうか!??――

    ミクロとマクロ、アートマンとブラフマンを相対化させていますから違うと思います。
    正統のウパニッシャド哲学では、ブラフマンは相対を絶した「絶対者」ですから、
    ミクロとマクロの相対を絶した世界の一者です。

    相対者からしたら相対論理を超えていますから、そう簡単に発見できないようです。
    ヨーガとか瞑想をしたらいかがですか。

    ちなみに、仏教の縁起の深みである、重々無尽の縁起の華厳哲学では。
    ミクロの中に、またミクロがありことになりまして、良寛さんも詠います。

    淡雪の中に淡雪ぞ降る。

    目の前の世界は、人間の言葉を絶して、途轍もなく深いということになります。
    大切にしたいですね。

  • >>181

    〇ウパニッシャドとは別の世界○

    >――ミクロの世界はアートマン、マクロの世界はブラフマン、なのでしょうか!??――

    個人的信念という仮説を否定するわけでないですが、インドではそういう唯物論を順世派
    というそうで、ウパニシャッドの「正統派の六派哲学」から外れます。
    ウパニッシャドとは別の世界です。
    飛躍する前に、正統派とされる六派哲学を知らなければ、ウパニッシャドを学んだことに
    はなりません。

    インド哲学の体系(六派哲学)

    1、 サーンキヤ学派
    2、 ヨーガ学派
    3、 ヴァイシェーシカ学派
    4、 ニヤーヤ派
    5、 ミーマーンサー派
    6、 ヴェーダーンタ学派

    ちなみに、私のウパニシャドの師は中村元と山尾三省です。
    ウパニッシャドとは次元が違いますので対話にはならないでしょう。

  • 〇神を求めて泣きなさい○

    神ということに関しては、一神教の絶対一の神もあり、多神教の小さな神様の集まり、
    八百万の神というのもある。
    私としたら、一なる神と無数の神が、相互に呼び合い拝み合い、相互に響き合い照らし合う
    という、一即多の神様の響き合い連合体。
    そんな私としたら、八百万神だから、私に慰めを与えてくれるものが神であり、喜びを与え
    てくれるものは何でも神である。
    そして、私にとっては、そんな八百万神も観音菩薩である。

    そんな理屈はさておいて、ウパニッシャドの聖人ラーマクリシュナの言葉で
    心底に薫習したものがある。それは次の言葉である。

    「神を求めて泣きなさい、夜も昼も泣きなさい。あなたが泣くほどに神を求めれば、
    必ず神をみることができる」

    「みる」を見ではなく両方向からみる「観」とすれば、観音経の「一心称名」「念彼
    観音力」にも親和性があり、また、法華経「寿量品」の「心に恋慕をいただき、渇仰
    し」にも親和性がある。

    相対を絶した「絶対者」は、「相対者」の私たちを呼んでいるのだから、
    その神の呼び声に「ハイ!」答えて、その名を限りに呼び続ければ、
    その相対を絶した神は、必ず「ありがとう!」と答えてくれる。

    心に恋慕を抱いて、渇仰し、泣くほどに求めれば、必ず立ち現れる。
    主客相対を絶するほど一心にその名を呼べば、必ず立ち現れる。

    ラーマクリシュナの言葉に、ウパニシャッドと仏教も互いに響き合い照らし合い、
    相即相入しているように思える。

  • アートマン=ミクロ、ブラフマン=マクロ、かなあ~?????

    【仏教と量子力学】
    http://blogs.yahoo.co.jp/yoshida666t/21248915.html?__ysp=6YeP5a2Q5ZOy5a2m
    上記ブログより~以下抜粋~

    アインシュタインは「EPRパラドックス」という理論を使って量子論を論破しようとしましたが結局は量子論を崩せませんでした。

    そしてアインシュタインは言いました。

    「量子論の言い分が正しいのであれば、月は我々が『見た』からそこにあるのであって、我々が見てないときには月はそこにはないことになる。これは絶対に間違っていて、我々が見ていないときにも、月は変わらずに同じ場所にあるはずだ」 と。

    私たちも普通に考えたらアインシュタインと同じように思うはずです。

    しかし量子力学を突き詰めて考えると、誰も月のことを考えてない場合、月はある一ヶ所にはないことになる。 なぜなら私たちが感覚として捕らえることのできるマクロの世界はミクロで構成されており、ミクロの世界の電子は我々が観測していないときは「波」の状態なのでいろんなところに「重ね合わせ」の状態になっているからです。 私たちが見たときだけ電子の波が収縮して月がある一定の場所に決まることになるからです。 

    私たち誰もが疑うことなく「客観的な存在」があると信じています。私という存在の外部に「あなた」や「川」や「山」や「パソコン」など外的存在があって、それぞれが別個に存在している、と。 

    しかし量子力学が到達した結論はそうではない。

    すべての事象は私たちが見ていないときには存在していない・・・・・ということになってしまいます。

    つまりこの世は我々の意識が作り出したバーチャルの世界だということです。 実体がないということです。


    まったく不思議なことと言わねばなりません。 量子論は私たちの常識を完全に覆そうとしています。 



    ではなぜ私が冒頭で「般若心経」の一説を載せたかというと、量子力学の示したこの世の本質を、仏教は遥か古代の彼方より説き続けていたからです。  科学がなかった古代インドにおいて、自身のヨーガの修行によって量子力学が突きつけたこの世の物質世界の本質を覚り体得した人がいた、それが仏陀(お釈迦様、ゴータマ・シッダールタ)やその弟子たちだったのです。 

    「般若心経」は仏陀の入滅後数百年経たあとに成立しものなので、仏陀がまったく同じことを説いたのかというのは疑問はあるが、大乗仏教の祖といわれるナーガルジュナ(竜樹)のような天才たちがヨーガ修行の末に「空」を体得し、そして仏陀の到達した境地は「空」だったと結論づけ、般若経典を作り上げていった。そして「色即是空 空即是色」と説いて仏(ほとけ)の教えとしてきたのです。

    「すべての物質的現象には実体がない」・・・と。

    物質は本来「波」の性質も併せ持っており私たちが見た瞬間に「波」は収縮しそこに存在することになる、という量子力学が証明した事実は、仏教がいう「この世において物質的現象は実体がない」ということを科学的に結論付けたことになります。  だって観測しないとすべてはそこに存在しないのですから実体がないといえます。

    また仏教には「唯識」という哲学があります。 「唯識所変(ただ識によって変じだされた所のもの)」という考え方です。この世は心の投影なのだということです。 この哲学についてはまったく無知なので何も述べることができませんが、これも量子力学が導き出したこの世の本質を哲学として言い表した考えといえるのではないでしょうか。

    アメリカの数学者フォン・ノイマンという人物も「(電子の)波の収縮は人間の意識の中で起こる」と主張し、そして

    「量子物理学の最大の発見は、これまで考えられたことのない精神力の自覚である。すなわち実在が意識を形成するのではなく、その反対に意識が実在を形成するという自覚作用が深く潜在しているのである。こうした意味において、現代物理学の哲学は、悟りの哲学である仏教と区別できなくなりつつある」

    と述べています。

    以上は↓のブログよりお借りしたモノです。
    http://blogs.yahoo.co.jp/yoshida666t/21248915.html?__ysp=6YeP5a2Q5ZOy5a2m

    ――ミクロの世界はアートマン、マクロの世界はブラフマン、なのでしょうか!??――

  • 【カイヴァルヤ・ウパニシャッド】
    [弟子]
    師よ、ブラフマンの知識を私にお教えください。私はそれが、隠された、聖なる、賢者に、よって尋ねら求められる最高の知識であるということを、またソレを求める者は不浄から離れ、至高の存在に到達する者であるということを聞いております。
    [師]経典の言葉とグルへの信頼を得ることによって、ブラフマンを知るよう努めよ。ブラフマンに帰依せよ。絶えずそれを瞑想せよ。祭式によらず、子孫によらず、財産にもよらず、ただそれに帰依することにより、また、世俗に対して無関心であることにより、人は不死に達するのである。
    最高の天界は、心臓の蓮華の内に輝く。懸命に努力し、切望する者は、そこに入る。聖典の教えの神髄を理解して、彼らは世俗を放棄する。・・・・・続く

    このウパニシャッドの趣旨は、信仰と帰依と瞑想とによってアートマンを覚り、そしてブラフマンと一体になった賢者は、有為転変の輪廻から解き放たれ、再生と悲しみと死から逃れる。と言う事らしいのですが・・・・。

    詳しくは、お手持ちのウパニシャッドをご覧下さい。

    ちょっと、このカイヴァルヤの言う事から、量子哲学を思い出したのです。
    カイヴァルヤは「最高の天界は、心臓の蓮華の内に輝く」と言います。
    「アートマン=ブラフマン」と言っているだけではなく「アートマンこそブラフマンである」と、即ち「アートマンがブラフマンを造っている」と言っているのだと、私は解釈しました。
    その解釈の裏付けとしてカイヴァルヤはこう言っています―――

    『私から全てのモノは現れ、私の内に全てのモノは存在し、私へと全てのモノは帰る。私はブラフマン―――唯一して、第二のものを持たぬモノである。・・・続く』

    この古代インド哲学と現代西洋哲学とは同じなのでは!?

    と、私は人間の思想の歴史にも輪廻を見るような気がします。

  • >>177

    すみません。
    「学」が無いものですから。
    関係ないことかも知れませんが・・・・・ただ、お釈迦様はそう言った宇宙の有限無限・宇宙の果て・等の話には「・・・・・・」とお答えになったと聞いていたものですから。
    ゴメンね♡

    > 〇知識不足です○
    >
    > >無でもなく、有でもない、だからこういったことには「黙する」のが答えですね?
    >
    > 知識不足で対話になりません。

  • 〇ラーマクリシュナ(いかなる宗教も誤謬をもっている)〇

    ロマン・ロダンが伝記を書いたことで私も知り得たというウパニッシャドの偉大なる聖人に、
    ラーマクリシュナがいる。彼のいくつかの言葉は私の人生を変えるほどの威力があり、その
    中で、宗教の差別対立を超えようと、その相対性を大胆にいう言葉が私に懺悔心を起させる。

    「ほかの宗教には多くの誤謬と迷信がある、と諸君はいうかもしれない。わたくしは答えよう、
    ――いかなる宗教も誤謬をもっている」

    この内省力こそが差別対立を超える源泉だろう。

  • >>174

    〇知識不足です○

    >無でもなく、有でもない、だからこういったことには「黙する」のが答えですね?

    知識不足で対話になりません。

  • 〇輪廻転生の生死は苦である○

    インドにおいては古代から人は輪廻転生を繰り返し、その輪廻の生死は苦であるとし、
    輪廻転生から解脱して二度と生まれ変わらないことが涅槃であるとした。そうしたことで、
    ブラフマンという一なる絶対と、相対としてのアートマンの一体化を求めてウパニッシャド
    哲学が発達してきた。

    仏教なりとも、インドの風土で生まれた以上、輪廻転生を前提にしていて当然である。
    だからこそ、仏教の本来の旗印に「一切皆苦」を掲げるのである。現生をソコソコの浄土に
    してきた現在の日本人に一切皆苦は、夢から醒ますなと、受け入れがたいかもしれないが、
    平和ボケした現代においても、生老病死と苦は逃れ難いものであり、人生そのものが苦である。
    その苦の自覚、地獄の自覚が欠けているから仏教の一切皆苦が受け入れがたく排除している
    ということだろう。

    その苦の自覚がなければ、苦集滅道という四諦の真理も放棄することになる。
    この世はソコソコ苦しく、ソコソコ楽しく、面白おかしく過ごせばいい、という人々には、
    ウパニシャッドも仏教も必要ないだろう。

    業縁による輪廻の生死は苦である――この前提なくしてウパニッシャドも仏教もない。

  • 無でもなく、有でもない、だからこういったことには「黙する」のが答えですね?

  • 〇ヤージニャヴァルキア(絶対者の否定的な表現)〇

    ウパニッシャドで絶対者の主体性をとくに強調したのはヤージニヴァルギアだという。
    そこで興味をひくのは、かれは本来の自己というのは認識され得ないもので言葉ではいい表せ
    ないものであることを強調する。これが否定の徹底化という空思想に通じるのが面白い。

    「この我(絶対)はただ『あらず、あらず』と説き得べきのみ。彼は不可捉なり、なんとなれば
    彼は捕捉せらざればなり」

    ヤージニヴァルギアは、絶対ということを積極的に定立することの論理的矛盾に気づいていたよう
    である。絶対は、人間の言葉をもって「絶対者神が在る」と、その実在を言おうとすれば、その
    絶対者に相対者が対立させられ、「相対に対する絶対」に変貌して真の絶対がつかめなくなるという
    ことをすでに知っていたとは驚きに値する。

    仏教でも、真の絶対を表現するのに、「実在」とは言わずに、「空」とか「無性」とかと否定的な
    言葉をもっていい表してきたが、これは単に空無という虚無ではない。仏教は実践哲学であり、
    否定の果てに「あるがままの真の絶対」が発見されるようである。

    良寛様も、自己の思いを否定して、ただ拝む但行礼拝の道を歩まれた。
    その「一心称名」の観音経の精神を表わすお歌に励まされる。

    心もよ言葉も遠くとどかねば はしなく御名を唱えこそすれ

    良寛は生きている。

  • 〇ビックバンの場の根源は問えず(無記)○

    ビックバンはどこで起こったのか?
    無から突然大爆発が生じたという。無と有との融合力としても、その無と有の根源を尋ねれ
    ば、始まりの始まりはどうか? そのまた始まりはどこか? と無限遡及に陥ることは明白
    である。だから科学者もビックパンの無の場は問えず、釈尊と同じく「無記」なのである。

    その代表的な論理が、『荘子』斉物論篇にあるのは多くの方の知るところである。
    再確認したい。

    万物には、その始めがあるはずである。しかし、始めがあるとすれば、さらのその前の
    「まだ始めがなかった時」があるはずである。さらにまた、その「『まだ始めがなかった時』」
    があるはずである。

    また有があるからには、また有がなかった状態、すなわち無があるはずである。さらのその
    前に「まだ無がなかった状態」があるはずである。さらにまた、その前に「『まだ無がなかっ
    た状態』がなかった状態」があるはずである。

    このようにして、言葉に頼って有無の根源をたずねようとすると、それは果てしなくつづき、
    けっきょくその根源を尋ねようとすると、それは果てしなくつづき、結局その根源をつきと
    めることはできない。

    それなのに常識の世界では、いきなり有と無の対立があらわれる。しかしそれは確実な根拠
    をもたないものであるから、どちらが有で、どちらが無であるか。わかったものではない。

    >>>>>>>>>>

    ビックバンの無の場の始まりは分からないのである。
    釈尊も、こうした形而上学的問題は、真の哲学的問題でないから答えなかったという。
    「十難無記」という「沈黙の哲学」である。
    そして、真の哲学的問題は、無我、五蘊、縁起などにおいて扱われた現実的な問題であった
    という。そうした形而上学的な問題が間違っているのではなく、議論しても無意味であるか
    ら釈尊はそうした議論を戒めた。またウィットゲンシュタインも言う。

    「語ることにできないものごとについては、ひとは沈黙しなくてはならない」

    釈尊の縁起の哲学は、「始め」と「終り」、「有」と「無」という言語の相対論理を和合させ
    るが、それも自覚の問題をはらでいるから「無記」としたい。

  • >>170

    しまとりさん、最近急に「素人臭い平凡なイイコト」仰るんですね?(*^O^*)
    私は学がないので、残念です。

  • >>168

    芸術っていいですよね。

    これ、アーティストに憧れる、ということもありますが、その音楽なり、美術なり、物語の作り方を味わえる自分たち受け手の力量も必要ですよね。

    だから、出会いとか、感動というのは、こちら側にそれを受け止める力があることへの喜びでもあり……。

    こんな素晴らしい作品を、こんな素晴らしい作品と感じられる「わたし」のいることが嬉しい。………となることもあります。手前味噌ですが。(笑)

    釈尊も、人は自分が一番愛おしいのだ、と言われました。
    しかし、皆がそうなのだから、他の人もそういうものとして尊重しなければならない、という意味合いのことを言われてますね。
    ちょっと、話はズレましたが。(笑)

    > 確かに生きていれば「苦」です。ただ、この世にはソレをちょっと和らげてくれる麻薬(芸術)が、在ることで人間は救われています。
    > 私はソレを日常に取り入れ、なんとか自分を癒やし・慰め、やっと生きています。

  • ウパニシャッドを読んでいると面白くて身震いしてきます。
    最近は聖書と法華経だけでしたが、も一度じっくり読んでみようと想います。
    気に入っている所の拾い読みですが。

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