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三木清と戸坂潤

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  • 2016/08/02 04:48
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  • 終戦の年に亡くなった西田幾多郎門下の二人の哲学者です。
    西田が6月に亡くなった後、8月には戸坂が、9月の末には三木が亡くなりました。
    いずれも、治安維持法で投獄され、獄中での病死です。
    馬鹿げた話ですが、治安維持法は終戦から2ヶ月も経ってようやく廃法になったのです。
    ということをこちらのカテゴリーを徘徊していて先ほど知りました。

    何にも知りませんが、日本の哲学者のトピが無いようなのでとりあえず立ててみました。
    また日本が昔のようになってしまったら、もうこの二人は忘れ去られてしまうような気がします。
    ご存知の方は、書き込みよろしくお願いいたします。<(_ _)>

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    Nikki 2015年3月4日 00:35

    >>10

    そうなんです。学生なのに。ビラをまいただけで処刑。
    ちなみに、白バラグループです、こういう事のようです。

    http://www.weisserose.vis.ne.jp/shirobara.html

    それでは。

  •  
    >ざっと見ましたけれど、中国や韓国の悪口を言う場所「である」、という認識で間違っていないように思われます。

     そういう話題はごく一部というか、一個だけではないですか。

     それと、中国や韓国の悪口というのは、国家論に繋がります。これをやらないと悪口を言う意味も哲学的になくなります。

     中国とか韓国、北朝鮮は、日本などがもっている公共空間(国家の母胎)というのを持ってないようです。たとえば昔の中国には私兵しかいませんでした。日本が中国と戦っていたとき、中国政府にあたるものは三カ所もありました。それぞれに兵がいて、この兵たちはまた、自国の民でも平気で殺しました。

     今の人民解放軍は共産党の軍隊です。これも一種の私兵でしょう。そして中国は国としての単位にしても、異民族がいすぎます。だから分裂するんじゃないかと言われています。今のような状態で、チベット人やウィグル人をホロコーストしているならば、分裂したほうがいいと思いませんか?

     一方、韓国、北朝鮮は、昔は国というのがなくて、700あまりの村落共同体でした。そしてここも政治の中心が何カ所かに分かれていて、あるときは日本派が、あるときは中国派が、またあるときはロシア派が台頭し、一時はロシア大使館で国王が政治をするという異常な事態もありました。

     そして現在、統一された公共空間がないことは、さまざなひずみとして現れています。たとえば、司法が大統領に隷属しているので、産経新聞みたいな問題が起こったり、賄賂政治をしているので、大統領が辞めると、袋だたきにあったり、自殺したりします。
     
     中国韓国を考えるときには、公共空間というのを考えてみるといいです。卑近な事例では、中国ではいまだに電車の中で子どもに糞をさせますね。ま、田舎の人間に限ったことかもしれませんが。韓国では、道を歩くときに体をぶつけながら歩くそうです。よけません。この世にまるで公共空間というのがないみたいです。

     まあそういうところをふまえて、三木や戸坂は国家をどういうふうに考えていたのか、ということも主題にするといいと思います。

  • First they came for the Communists, and I did not speak out—
    Because I was not a Communist.

    First they came for the Socialists, and I did not speak out—
    Because I was not a Socialist.

    Then they came for the Trade Unionists, and I did not speak out—
    Because I was not a Trade Unionist.

    Then they came for the Jews, and I did not speak out—
    Because I was not a Jew.

    Then they came for me—and there was no one left to speak for me.

    Martin Niemöller
    ---------------------------------------------------------------------
    UP

  • 初めまして。この十年間にたくさんの本を買った(ほとんど買い物依存症でした)のですが、最近、三木清の『哲学入門』が気になって読んでみたら面白くて、それまで読んでいた小説や本は後回しにしています。

    【序】
    【序論】「一 出発点」「二 人間と環境」「三 本能と知性」「四 経験」「五 常識」「六 科学」「七 哲学」 
    【第一章 知識の問題】「一 真理」「二 模写と構成」「三 経験的と先験的」「四 物 関係 形」「五 知識の相対性と絶対性」
    【第二章 行為の問題】「一 道徳的行為」「二 徳」「三 行為の目的」

    コレが『哲学入門』の目次なのですが、本文だけではなく、この目次も目にすると、人間と社会の諸現象に関して体系的にまとめてあることが分かるのですよ。
    『人生論ノート』には余り心魅かれなかったのですが、彼の『哲学入門』だけは、セネカの『生の短さについて』を読んだ時と同じくらい、今衝撃を感じています。

  • >>18

    【Re: 「人生論ノート」について】
    ありがとうございます。

    バッドワード、1つわかって○に変えたのですが、他にもあって、また投稿できず。
    その後は、アクセス禁止になってしまったようです。

    ID変えて出直しました。

    人生論ノートはあとにして、他のものをまた投稿します。

  • >>17

    【Re: 「人生論ノート」について】
    それはきっと「バッドワード」が、引用文に含まれているからだと思います。

    昔の人の文章をそのまま貼り付けると、「禁止用語」が含まれていて
    刎ねられてしまうことが多いです。

    読み直して、引っかかるような言葉があったら、○○にして
    投稿してみたら如何でしょうか?

    でも、それもあまり繰り返して試して居ると
    投稿制限に引っかかって、2時間半は投稿出来なく成りますから
    ほどほどに^^

    しかし、どんなのがバッドワードか、ヤフーも指摘してくれれば
    事は簡単なのにですねえ。やれやれ

    ご苦労様ですが、頑張って見て下さいませ。

  • 【「人生論ノート」について】
    投稿しようと思ったのですが、なぜか出来ません。

  • ハイデッゲル教授の想い出
    三木清
    http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/50539_37482.html
    >最近氏の講義には芸術論が多いということである。氏は一度フライブルク大学の総長になられ、あの『ドイツ大学の自己主張』にあるような思想を述べられたこともあるが、ナチスとの関係が十分うまく行かなかったためか、総長の職は間もなく退いてこの頃では主として芸術哲学の講義をしていられるようにいわれている。日本でもマルクス主義に対する弾圧が激しくなった頃多くの人が芸術論に逃れたことのあったのを私は想い起し、ハイデッゲル教授の現在の心境を察し、一般に哲学と政治との関係について考えさせられるのである。
    ========
    こちらの記述を見ますと、この時期、ハイデッガーは、ナチスとうまくいっていなかったような印象です。
    芸術論の講義が多いから、ということのようですね。三木さんは人が良さそうです。

    wikipediaのマルティン・ハイデッガーのページで、「ハイデッガーとナチス」の項目には、むしろ、苛烈にナチス寄りの方針をとったので学内の収拾がつかなくなったことが原因であるという記述です。

  • 【哲學はやさしくできないか】
    「哲學はやさしくできないか」より
    (三木清)
    http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46847_29523.html

    >本質問題を離れて、哲學をわかり易くするために啓蒙的な論文や書物がもつとできることは望ましいことに相違ない。哲學は學問である限りそのやうな啓蒙的なものが書かれ得る筈である。それは實際にさういふ能力のある人によつて書かれなければならぬ。啓蒙的なものだからといつて、誰にでも書けるわけのものでなく、それは普通に想像される以上に困難な仕事だ。その困難のほんたうにわかる人が、それに打ち克ちつつ啓蒙的なものを書いてくれることが希望される。固より、啓蒙的といふことと俗流化といふこととは嚴密に區別されねばならぬ。俗流化されることによつて哲學はほんとにわかるやうになるのでなく、唯わかつたやうな氣がさせられるだけであり、實は何もわかることにならないのである。俗流化は哲學を失ふ、哲學をなくすることは哲學をわかるやうにすることではなからう。哲學をわかり易くするといふ口實のもとに、俗流化によつて、哲學そのものが抹殺されたり、哲學的精神が失はれたりすることがありはしないかを警戒せねばならぬ。啓蒙は哲學そのものの啓蒙であり、哲學的精神の啓蒙でなければならぬ。それだからほんたうの「哲學者」だけが哲學について眞に啓蒙的であることができる。さういふ意味で古典こそ最上の啓蒙書なのである。
    --------

    入門書などが重要だということですね。そしてそれを書く人の能力も。考えてみますと、解釈する力と説明する力がいずれも充分に必要なのですから、大変ですよね。
    哲学者は、事象を正確に表現するために、(既存の言葉には正確に当てはまるものがない場合)新しい言葉を考えたりしますからね。
    正確さを期すがゆえにわかりにくい、そういうものをわかりやすくしかも、原形をとどめた形で伝えるのは困難を極めます。
    これは、↓に書かれている

    「今日の文学の展望」
    (宮本百合子)
    http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2794_8833.html
    「八。文化擁護のための作家の行動。その統制。」の中にある

    >機械的、反映論風に唯物史観が俗流化されて一般に流布されているため、青年の多くのものは、人類史的規模の中で主体的に自己の人間性の積極性をつかまず、何しろこの世の中で、と、現代の情勢に万端の責任を転嫁して、卑俗な事大主義の生きかたをしている、それが誤りであると指摘されたのであった。
    --------

    このような状況が前提にあったのではないかと思うのです。

    簡単で分かりやすい説明(?)は、人気を得やすいのですが、危険ですね。

    ☆わたしは反対に入門書の類をいささか軽んじていたように思います。「元の本があるのだからそっちを読めばいいでしょ」という考えで。

  • >>12

    【Re: 彼らが最初共産主義者を攻撃したとき】
    原文、ありがとうございます。
    本当に助かります。
    西田幾多郎の弟子は大勢いるのですね。

    ここ2~3日、目の調子が悪くて、あまり読めていません。もう少し、書き込みができると思ったのですが。

  • >>6

    【Re: 彼らが最初共産主義者を攻撃したとき】
    ><ニーメラーの警句>
    ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は多少不安だったが、自分が共産主義者でなかったから何もしなかった。
    ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
    ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
    ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた
    (ミルトン・マイヤーによる記述)

    ニーメラーの警句をどうもありがとうございます。

    こちらが本人の原文とされている様ですね。


    「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」

    ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
    私は共産主義者ではなかったから

    社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
    私は社会民主主義ではなかったから

    彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
    私は労働組合員ではなかったから

    そして、彼らが私を攻撃したとき
    私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった


       ===============


    >三木と戸坂は現在読書中。なのでかわりに上の文。
    >治安維持法も最初は共産主義潰しだったんですが、どんどん拡大解釈されるようになったのですね。
    >ナチスドイツも日本も同じだったようです。

    >近頃のインターネットでは、安倍政権に批判的な人、脱原発派の人、全部「反日サヨク」扱いです。

    【ファシズムは微笑みながらやってくる】ですね。

    あの幼稚アタマの安倍ちゃんの「軍国ロマン」には、ぞっとします。


    そうそう、ナチスに対抗したのはマルティン・ニーメラーの他に
    カール・バルトが居ますが
    そしてその弟子のボンヘッファーは
    ヒトラー暗殺計画に加担して処刑されました。

    ボンヘッファーについては、昔書いたものが在りますが
    また探してみますね。

    で、そのカール・バルトの弟子が、西田幾多郎の弟子の
    滝沢克己という事になるのです。^^

    滝沢克己は、後にクリスチャンになるのですが
    その頃は哲学の徒でした。

    滝沢がドイツに留学したいと西田に相談したら
    その頃、ハイデッガー全盛の頃だったのですが
    何を思ったか、神学者のカール・バルトの元へ行けと言われたのです。

    私は、この滝沢克己の神学から、西田幾多郎を知るようになりました。

  • >>9

    【Re: ここのカテゴリーって           >はじめまして、くぽぽさん】
    どうもはじめまして。

    三木清、読んでいる方がいらっしゃったのですね。
    宗教について書いた文章があることもしらず、ただ立ててしまいましたが、おかげさまで、とてもトピらしくなりました。トピを立てた甲斐がありました。

    これから、自分でも出来るだけ書いていきたいと思いますが、時々、よろしくお願いいたしますね。

  • >>8

    【Re: ここのカテゴリーって】
    どうもはじめまして。

    どうもいただきありがとうございます。

    わたしも思わずトピを立てただけで、まったく何も知りません。
    とにかく読書中です。
    引用しながら何かを言えるようになれるかどうかわかりませんが、すこしは頑張ってみたいと思います。

    ゾフィー・ショルは処刑されてしまったのですね。学生なのに。

  • >>7

    【Re: ここのカテゴリーって           >はじめまして、くぽぽさん】
    >他のカテゴリーを見ますと(法ですとか、ニュース速報ですとか)、こちらのカテゴリー以上に圧倒的な数で中国や韓国の悪口が並んでいますね。
    >今の中国や韓国がいい国だとは思いませんが、ここまで皆が同じというのは残念な気がします。

    >今の日本の世相を反映していると言えばそれまでですが、せめて「哲学」のカテゴリーでは、哲学をしませんか?
    >日本人には無理ですか?

    まことにごもっともなことです。
    私のトピ(メタ宗教)でも、それが出てきてしまうので
    その話しは打ち切りにしました。

    段々、下火にはなって来ていると思います。

    良いトピを立てて下さったなと思ってましたが
    只今、我がトピが炎上中なので^^
    こちらには伺えずにいました。

    三木清は、親鸞とパスカルしか読んで居ませんが
    西田幾多郎や京都学派の人達からは
    多くを学ばせて頂いています。
    哲学的ではなく、私は宗教的にですけれども・・・

    語れる程のものはないですけれど
    これ最近の投稿から転載させて頂きますね。

    今後ともよろしく^^

    http://textream.yahoo.co.jp/message/552019920/a5aa5bfbda165a4ka4da4a4a4f8la4j9ga4a4a4dea47a4ga4a6?comment=105278
    ==============================ここから過去ログ


    「無常の風」

    西田幾多郎の京都学派といわれる人の中哲学者三木清に
    「親鸞」という死後に発見された原稿を纏めたものがあります。
    その中で、三木氏が「無常」についてこう言っています。


    『人生の経験において我々の胸を打つものは「無常」である。
    世の中のものは移り変わって、常のものと言っては何一つもない。
    すべては時の流れに現れては過ぎゆく。
    この事実が無常と呼ばれる。

    この事実を仏教では「諸行無常」といっている。
    しかしこの事実はむしろ仏教以前のものであり
    さしあたり我々の生の体験そのものに属している。

    我々は人生の航路においてあるいは災禍に見舞われ、
    或いは病気に襲われ、あるいは近親の死に会する、
    そして我々は無常を感じる。

    この無常感はひとを仏道に入らせる動機である。
    人は生の体験において仏教の説くところが
    真実であることを理解するのである。
    我々の無常感はもとより仏教の影響によって強められ
    深められてきたのであろう。

    しかし無常は我々の原始的体験に属し
    仏教にとってその説の出てくる「基礎経験」であり。
    仏教は生の現実におけるこの「基礎経験」から出て
    これを思想にまで高めたのである。』

    三木はまた

    『仏教によると、ものが無常であるのは
    ものが因縁によってうまれた故である。
    無常は仏教の根本思想である縁起説の帰結である』

      ^^^^^^^^^^^^

    三木は、我々が散りゆく花に無常を感じるのは
    そこに我々の「生」との関連性において
    「愛すべきもの」「誇れるもの」「悲しいもの」という思い入れがあって
    その生滅変化に『必然的』なものについて無常を感じると言います。

    『花はどんなに美しく咲き誇っても、必ず枯れて散り行く運命にある』
    と言うことを知っていて、
    そのはかなさに「人間の定め」を重ね合わせ『無常』を感じるのだと。


    釈迦の出家もこの「無常の風」が
    彼の心に吹き渡ってしまったからではないのでしょうか?
    人は、突如吹き荒れる「無常の風」によって、
    「永遠の命」への渇望と促されるのだと思います。

    しかし、心には何故無常の風が吹く人と
    微風だに起こらずに死んでいく人とあるのでしょうかしらね?
    同じ人間なのに不思議です。

    いったん「無常の風に吹かれしまった人間」は
    ただひたすらに「神への回帰への道」を突っ走ることになると言うのに、、、
    止めようもなく、、、、

    人生の目的は「神を知ること」と言い切るカルヴェンと
    我々は「同類」とされている不思議を思います。

    これも一方的神の恵みなのですね。。。。

  • >>7

    【Re: ここのカテゴリーって】
    お邪魔致します。初めまして。

    確かに仰るとおり残念な点があります。
    私は、ROMに廻らせていただきますが、個人的に是非続けていただきたいと思っている一人です。

    昨日、トピ主様がご紹介くださった、青空文庫、現在少しずつ読んでいます。
    二人の哲学者をご紹介いただき、有難うございます。

    私は入門レベルですので、専らROMに廻らせていただきますが、一連の投稿を拝見してこちらを思い出しました。

    http://www.youtube.com/watch?v=3-TC7iBrYqY

    いきなり失礼致しました。お休みなさい。

  • 【ここのカテゴリーって】
    「東洋哲学」なのに、どうして日本の哲学者のトピックがないのかと思ったら、そういう場所ではなかったということなのでしょうか。

    ざっと見ましたけれど、中国や韓国の悪口を言う場所「である」、という認識で間違っていないように思われます。

    本来は、日本やアジアなどの哲学者・思想家、あるいはそういった地域で生まれた哲学・思想を語る場所である「べき」ではないかと思うのですが、無理なのでしょうか。
    他のカテゴリーを見ますと(法ですとか、ニュース速報ですとか)、こちらのカテゴリー以上に圧倒的な数で中国や韓国の悪口が並んでいますね。
    今の中国や韓国がいい国だとは思いませんが、ここまで皆が同じというのは残念な気がします。

    今の日本の世相を反映していると言えばそれまでですが、せめて「哲学」のカテゴリーでは、哲学をしませんか?
    日本人には無理ですか?

    なんて言っていてもしょうがないので、一人で地味に頑張りますか。

  • 【彼らが最初共産主義者を攻撃したとき】
    <ニーメラーの警句>
    ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は多少不安だったが、自分が共産主義者でなかったから何もしなかった。
    ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
    ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
    ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた
    (ミルトン・マイヤーによる記述)

    (wikipediaにあるものと、「自分が」の位置が違います)

    三木と戸坂は現在読書中。なのでかわりに上の文。
    治安維持法も最初は共産主義潰しだったんですが、どんどん拡大解釈されるようになったのですね。
    ナチスドイツも日本も同じだったようです。

    近頃のインターネットでは、安倍政権に批判的な人、脱原発派の人、全部「反日サヨク」扱いです。
    また同じような時代が来そうですね。
    今のところは、「在日」といわれる人たちが攻撃されているようです。
    次は?

  • >>1

    【Re: 三木清と戸坂潤】
    >西田が6月に亡くなった後、8月には戸坂が、9月の末には三木が亡くなりました。
    >いずれも、治安維持法で投獄され、獄中での病死です。

    これでは、誤解を生みますね。西田は獄中死ではありませんよね。
    戸坂と三木の二人が獄中死です。<(_ _)>

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