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アドヴァイタと仏教

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  • 2017/01/16 20:47
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     「長い間、修行と注意深い訓練、応用を通して、感覚野を統合してきたものとして、私は貴方にこう言えます。それ(不二一元)は私がしたことのなかで、最大のことであり、それより重要なことは何も思いつきません。

     数多くの疑問に答え、混乱したものを落ち着かせ、かくて、たいていの哲学者や現代物理学者や盲目の信仰者たちがあれこれ思考することを、私は直接知覚するのです。

     それは、初めて<生じ来たり、滅し去る>体験をしたときに持った「暗夜」問題を解決しました。これは私にとって、巨大な恵みとなるものでした。とても感謝しています。」(ダニエル・イングラム)
     
     http://www.dharmaoverground.org/web/guest/discussion/-/message_boards/message/396815#_19_message_397051
     

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  • 9883(最新)

    mic***** 1月16日 20:47

    熱力学
    死んだら4枚  チーーン

      あほだら きょ-

    テルゼの餌食なんだからさ  ええおっさんが 確りしろ

  • >>9881


     みちおちゃんとこのアホのシンランちゃん、ホーネンさんちのマンサクちゃんにすかし参らされて、血の池地獄で温泉巡り!!

     早よ、みちおちゃんも、血の池地獄に行かなあかんで!!

     テル痔・爺やさんねのアホンダラも待ってるし!!





                     ―⇩アホのシンランちゃんのご遺言ー

     「誠に知んぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと」

  • ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説


    贖罪
    しょくざい
    redemptio

    この観念は人間の罪と苦しみからの解放を願う多くの宗教にみられるが,キリスト教においては特に重要な意味をもつ。広い意味では神の救済,償い,和解,ゆるしと同義であるが,キリストの生と死と復活を通じての,神の恩恵として実現される人間の罪からの解放と,これによってもたらされる神との交わりの回復をいう。
    本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

  • 弥陀の本願信じるだけ

    正にはやいもんかちだな

    修行は われわれのかわりにやられた
    それが信じる者に回向される



    キリスト教では十字架による贖罪だが
    結果は 同じようなものだな


    それら信じるだけでしたねえ

  • 訂正とお詫び
    信は願より生じる、念仏成仏自然なり 高僧和讃

    ここの意味は信は如来の願によるでした。 


    信は願より生ずれば    念…】
       信は願より生ずれば
       念仏成仏自然なり
       自然はすなわち報土なり
       証大涅槃をうたがはず
         『高僧和讃』
    信心は阿弥陀さまの本願によって生ずるもので、念仏によって仏になるのは阿弥陀さまの願力による自然のはたらきであり、願力によって当然うまれるべき世界が阿弥陀さまの浄土であるから、そこに生まれると、大涅槃の仏果をさとることにはまちがいがない。


    阿弥陀経の善良な者は願いなさい

    願えば信が生じると 親鸞さまと説明 

    こことは直接関係ありませんでした。
    はやとちり お詫びと訂正いたします

    阿弥陀経
    舎利弗よ、もし善良なものたちが、このように仏がたがお説きに
    なる阿弥陀仏の名とこの経の名を聞くなら、これらのものはみな、
    すべての仏がたに護られて、この上ないさとりに向かって退くこと
    のない位に至ることができる。だから舎利弗よ、そなたたちはみな、
    わたしの説くこの教えと、仏がたのお説きになることを深く信じて
    心にとどめるがよい。

    舎利弗よ、もし人々が阿弥陀仏の国に生れたいとすでに願い、ま
    たは今願い、あるいはこれから願うなら、みなこの上ないさとりに
    向かって退くことのない位に至り、その国にすでに生れているか、
    または今生れるか、あるいはこれから生れるのである。

    だから舎利弗よ、仏の教えを信じる善良なものたちは、ぜひとも
    その国に生れたいと願うべきである。

  • 【略 『まったくそのとおりであ…】


    『まったくそのとおりである。このようなことがあるから、私はさまざまな方便や比喩を用いて解脱を説明している。ある事柄には比喩をもって説明し、ある事柄については比喩をもって説明しない。いずれにしても解脱は言葉に尽くせない、量り知れない功徳に満ちているのだから、それは妙寂に等しい。また、私も量り知れない功徳に満ちているのだ』
    『世尊、私はいまはじめてブツダが到達されているところは際限がないところであることを知りました。そうであれば当然寿命も尽きないことを知りました』
    大乗涅槃経
    抜粋

  • つづき
    空でないとは真実・善い容姿・不滅・安楽・実在・清浄・不動、そして不変などの状態を言う。たとえば瓶に付着したそれぞれの中身の色や香りや味や感触などがそれらに当たる。だから空ではないという。

    解脱はこれらの瓶のようである。しかし瓶はなにかの衝撃を受けて壊れることがあるが、解脱はそのように壊れることがない。壊れないもの、これが解脱である。

    また、解脱は愛着を離れた境地である。たとえば人々は愛着によってインドラ神や梵天やマヘーシュヴァラ神(自在天)に願いをかけて信仰する。しかし解脱の境地はそのような神々への愛着がまったくない。最高の悟りの境地に至ったら、愛着も疑念もなくなる。解脱には愛着の心や疑う心があるわけがない。

    また、解脱はすべての世俗の生業への貪りを断ち、すべての形あるもの、すべての束縛、すべての煩悩、老死の苦しみ、すべてのしがらみ、すべての果報を断ち切っている境地である。これが解脱であり、ブッダである。ブッダはしたがってすべての世俗のかかわりを断った妙寂そのものである。

    すべての人々はこの娑婆世界のさまざまな煩悩に振り回され、怖れている。だからブッダと教えと修行僧のあつまりという三つの柱に拠り所を求めている。たとえば鹿の群が猟師を怖れて逃げ去ることと同じである。逃げる時のひと跳びは、ブッダと教えと修行僧のあつまりという三つの柱の一つに寄りすがることに喩えられる。三段跳びはブッダと教えと修行僧のあつまりという三つの柱に寄りすがることに喩えられる。人々は三つの柱に寄りすがるときに安らぎを得る。この安らぎが解脱である。

    ほんとうの解脱のすがたはブッダである。ブッダの境地は妙寂そのものである。妙寂には終わりがない。終わりがない、尽きることがない、これがブッダになる可能性である。ブッダになる可能性は確実なものである。確実なものとはブッダのさとりである』

  • すべての思想の活路を断ったのが解脱である。その思想には絶対の分身であるアートマン(我)がある、アートマンはない、アートマンでないものがある、アートマンでないのではないものがあるなどという思想が見られる。
    私のいう解脱はものに対する執着を断つことを教えているのであって、「我見」を断つことを言っているわけではない。この「我見」とは仏性、つまりブッダになる可能性のことである。仏性こそ本当の解脱である。

    ・また、解脱は空でない空である。空の空とはまったく所有するものがないことである。所有するものがないという生き方を教えたのは、あのジャイナ教である。そのジャイナ教の教えからすれば解脱は得られない。彼らは空の空といったのである。これに対し解脱は空でない空である。また、解脱は空(から)にして空(から)でない境地である。

    たとえば水・酒・ヨーグルト・ギー・蜜などを入れたそれぞれの瓶などは水・酒・ヨーグルト・ギー・蜜などが入っていないときでも水の瓶・酒の瓶・ヨーグルトの瓶・ギーの瓶・蜜の瓶という。しかしこれらの瓶は空(から)でもあるとも空(から)でないとも言うことはできない。もし空(から)だといえば、それぞれに入っていた中身の色や香りや味や感触が瓶からまったく感じられないということになる。といっても、もし空でないといえば、その瓶に中身が入っていないのはどう説明することができようか。
    これと解脱も同じである。解脱には形があるとも形がないとも説くことはできない。また空であるとも空でないとも説くことはできない。もし解脱が空であるといったら、ブッダは不滅であり、安楽であり、実在であり、清浄であるということをだれが信じるだろうか。このことから解脱は空であるとも空でないとも説くことはできない。

    空とは二十五種の迷いの生存、およびさまざまな煩悩、すべての苦しみ、すべての形あるもの、すべての作られた事象などがみな実体をもたないことを言う。たとえば瓶の中にヨーグルトが入っていない状態を空と言う。

  • ・また、解脱は彼岸にわたることである。

    ・また、解脱は沈黙である。

    ・また、解脱はうるわしい境地である。

    ・また、解脱は煩悩を除く。

    194p
    ・また、解脱は私という考え、私のものという考えを離れている。
    *私と(内)、私のもの(外)。

    ・また、解脱は心の拠り所である。もし解脱に寄り掛かるならば、ほかに拠り所を求めなくてもよい。人が王にだけ頼ってほかをあてにしないでいたら、ときには裏切られることがある。しかし解脱に頼っていたら、そのような裏切りはまったくない。裏切りのない拠り所が解脱である。

    ・また、解脱には怖れがまったくない。

    ・また、解脱は超越である。

    ・また、解脱は波濤(なみ)のない境地である。

    195p
    ・また、解脱は堅い実である。

    ・また、解脱は、決定した境地である。

    196p
    ・また、解脱は水の要素と同じである。すべての生類を潤す。

    ・また、解脱とは*入り口である。門戸があればそこから入る道が通じている。

    ・また、解脱は*善である。

    197p
    ・また、解脱は究極の境地である。束縛を受けた人がその束縛から解放されて、身も心も洗われて、すっきりしてわが家に帰ることができるような状態と解脱は同じである。究極のすがすがしさが解脱である。
    *究極のすがすがしさが解脱である。

    ・また、解脱はまったくなにも起こらないという安楽の境地である。

    ・また、解脱はすべての世俗の生業を離れ、すべての苦しみを克服し、すべての幸せを味わい、永久に貪りや憎しみや愚痴を断ち、すべての煩悩の根本を抜き取った境地をいう。

    ・また、解脱は人々によって作られたものや世間のあり方に執着せず、すべての煩悩とはまったく無縁の善だけを生み出す境地である。

  • 【真実の解脱とはなにか 1…】

       真実の解脱とはなにか

    184p
    ・本当の解脱とは、すべての世間の呪縛から離れることである。

    ほんとうの解脱は私そのものである。

    ・解脱とは虚空と同じである。虚空は解脱だ。その解脱は私である。その私は虚空である。作り手によって作られたようなものではない。作られたものはちょうど城や楼閣のようなものだが、本当の解脱はそうではなく、作られたものではない。

    189p
    また、解脱は静寂ともいえる。不定ということがない。不定とは極悪人(一闡提)のようだといえる。それはどこまでも重罪を犯しつづける者であるが。仏道を成し遂げることがないということではない。なぜかというと、もしその極悪人が少しでも仏法を信じる心を起こしたら、そのとき極悪人ではなくなるからだ。もし仏教の信者になったら、極悪人の汚名を離れることができる。重罪を犯す者でも、この重罪を消したら、そのとき、ブッダになる約束を得ることができる。だからどのようなことをしても、仏道を成し遂げることができないということはありえない。
    ただ、ほんとうの解脱の場合には、罪障を滅び尽くすということがないのだ。解脱には本来罪障がないからである。静寂とは教えの世界そのものだ。教えの世界の本性は解脱のことをいう。

    190p
    ・また、解脱は無量である。

    ・また、解脱は広大である。

    ・また、解脱は最上である。

    ・また、解脱は上のない上である。

    ・また、解脱は恒常である。

    191p
    ・また、解脱とは空洞がない。

    ・また、解脱とは境界がない。虚空に限界がないのと同じことである。

    ・また、解脱を見ることができない。たとえば空中で鳥の飛んだ跡を見ることが難しいように、*解脱を見ることは難しい。また、たとえば人が自分のつむじ(頂上)を見ることができないように。未熟な修行者たちは見ることができない。
    妙寂は見ることが出来る。 ここも奥が深い。

    192p

    ・また、解脱を感じつづけることができない。たとえば幻を見つづけることができないように、*解脱を感じつづけることはできない。

    ・解脱には肉体が無い。

    ・また、解脱は一味である。

    193p
    ・また、解脱は足ることを知る境地である。

    ・また、解脱は断絶である。たとえば縄で縛られている人が、その縄を断ち切って解放されるような境地、それが解脱である。

  • 参考
    「スパトラ、すべてのものには、もの自体の特徴、もの自体とは無関係のものの特徴、もの自体と無関係のものとを共有する特徴、原因を持たない特徴などはない。ものにはなにかを作り出す特徴も、作られる特徴も、作る主体の特徴も、作られるものの特徴もない。ものの特徴とものでない特徴もない。男とか女という特徴もない。人という特徴もない。微塵の特徴もない。時節の特徴もない。自分のためという特徴もなく、他人のためという特徴もない。また自他同時のためという特徴もない。あるという特徴も、ないという特徴もない。生じるという特徴も、生じるものという特徴もない。原因という特徴もなく、原因の原因という特徴もない。結果の特徴もなく、結果の結果という特徴もない。昼夜の特徴もなく、暗夜の特徴もない。見るという特徴もなく、見る者という特徴もない。聞くという特徴もなく、聞くものという特徴もない。知るという特徴もなく、知る者という特徴もない。さとりの特徴もなく、さとった者の特徴もない。行いと言う特徴もなく、行いをなす者の特徴もない。煩悩の特徴もなく、煩悩を起す者の特徴もない。
    スパドラ、この思いは真理の境地であり、畢竟の心の働きといい、世間の第一義の真理といい、第一義の空という。下位の段階の観察では未熟な修行者のさとりしか得られないが、上位の段階の観察ではブツダの最高の悟りを得ることができる」 [大般涅槃経 ]4

  • 大般涅槃経
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%AC%E6%B6%85%E6%A7%83%E7%B5%8C

    大乗涅槃経

    また涅槃経では、この常住思想を発展昇華し、釈迦仏滅後の未来世での仏や法、またそれを遵守する僧団は不壊であり永遠のものであるという思想をさらに展開して随所に説いている。いわば涅槃経は釈迦仏滅後の未来の救いを大きな柱として最後に編纂されたものと思われる。またこれは大乗仏教の思想を発展させたものであり、如来の常住思想は、方等経典に始まり法華経でさらに発展させたものを、涅槃経ではまたさらにこれを最終形として編纂されたことがわかる。

    一乗思想についても、同じく大乗仏教の思想を発展させたものである。一乗とは一仏乗のことで、すべての衆生がひとしく仏如来となれる唯一の教法を指す。これは現在、一般的に法華経がその教えとされている。しかし涅槃経は法華経の一乗思想も受け継ぎ、さらに弁証法的、発展的な理論展開がなされている。

    たとえば法華経と涅槃経を比べてみるに、まず法華経は、華厳・阿含・方等・般若で説いた三乗(声聞・縁覚・菩薩)の方便教を会して一乗の教えに帰せしめる会三帰一を目標として説いた。しかしその三乗の差別を超えてどのように一乗に帰せしめることが可能なのか、その根拠や教説の矛盾が●法華経ではまったく説明されていない。これは『仏教布教体系』などをはじめ、仏教学で多く指摘される点である。

    また法華経は、不受余経一偈(法華経以外の経典の一言一句も受けてはいけない)、正直捨方便(仮に説いたそれまでの方便の教えを捨てよ)などと、法華以前の教えを排斥している記述が多く見受けられる。したがって法華経はそれまでの経典との関連性を断ち、また示さず、それら三乗の差別など各教説の矛盾を一挙に解消できる記述がない。これに対し涅槃経では、三乗は立場上は差別はあっても仏性はみな平等にあると説いて、法華経よりも具体的な会三帰一の根拠を理論的に説いている。したがって一乗の教えは、いわば法華経を始発とし●涅槃経を終点として説いた、といえよう。

    実際には華厳経に始り、涅槃経で終わる

  • 中間が抜けていたので
    補足しておきます。

    ↓×
    非想非非想定に入られた

    非想非非想定から起って

    無所有処定に入られた

    無所有処定から起って

    識無辺処定に入られた



    第四禅から起って 第三禅に入られた

    第三禅から起って 第二禅に入られた

    第二禅から起って 初禅に入られた

    ↓  〇
    非想非非想定に入られた

    非想非非想定から起って

    無所有処定に入られた

    無所有処定から起って

    識無辺処定に入られた




    識無辺処定から起って

    空無辺処定に入られた

    空無辺処定から起って

    第四禅に入られた




    第四禅から起って 第三禅に入られた

    第三禅から起って 第二禅に入られた

    第二禅から起って 初禅に入られた

  • 【パーリ涅槃経 …】


    パーリ涅槃経



    尊い方よ

    *不思議であります

    *珍しいことであります

    わたくしは この修行僧の集いを

    このように●喜んで信じています




    ブッタに関し 

    あるいは法に関し

    あるいは集いに関し

    あるいは道に関し

    あるいは実践に関し

    一人の修行僧にも 

    ●疑い 疑惑が起こっていません



    お前は

    アーナンダよ 

    ●清らかな信仰から 

    そのように語る



    ところが 修行完成者には

    このような智がある



    [この修行者の集いにおいては

    ブッダに関し 

    あるいは法に関し

    あるいは集いに関し

    あるいは道に関し

    あるいは実践に関して

    一人の修行僧にも

    ●疑いが 起こっていない

    この5百人の修行僧のうちの

    最後の修行僧でも

    聖者の流れに入り

    ●退堕しないはずのものであり

    必ず正しいさとりに達する]と



    さあ 修行僧たちよ

    お前たちに告げよう

    「もろもろの事象は

    過ぎ去るものである

    怠ることなく修行を完成なさい」



    そこで世尊は初禅に入られた

    初禅から起って 第二禅に入られた

    第二禅から起って 第三禅に入られた

    第三禅から起って 第四禅に入られた



    第四禅から起って

    空無辺処定に入られた

    空無辺処定から起って

    識無辺処定に入られた



    識無辺処定から起って

    無所有処定に入られた

    無所有処定から起って

    非想非非想定に入られた



    非想非非想定から起って

    滅想受定(尽滅定)に入られた




    尊い方 アヌルッダよ

    世尊はニルヴァーナ(涅槃)に

    入られました


    友 アーナンダよ

    世尊はニルヴァーナ(涅槃)に

    入られたのではありません

    滅想受定に入られたのです




    ここで世尊は滅想受定から起って

    非想非非想定に入られた

    非想非非想定から起って

    無所有処定に入られた

    無所有処定から起って

    識無辺処定に入られた



    第四禅から起って 第三禅に入られた

    第三禅から起って 第二禅に入られた

    第二禅から起って 初禅に入られた



    初禅から起って 第二禅に入られた

    第二禅から起って 第三禅に入られた

    第三禅から起って 第四禅に入られた



    第四禅から起って

    世尊はただちに
    完きニルバーナ(涅槃)に入られた

  • 無知無明なんだからさ  わらい

    それが 晴れたら 絶対の善かも しれんがね

    釈尊にも なれないから
    不可思議なる 教えも ありと

    考えても 解るようなものでも なし
    信じるのか  信じないのか それだけだ


    だからね
    一切が可能


    以上

  • ないんだ ないの

    その他に善なんてものはな

    世間虚仮
    妄念妄執


    その中での 出来事だからさ 自分中心 妄念妄執

  • >>9865

    仏の教えを信じる善良なものたちは

    仏がたの教えを信じる者が善良な者

    涅槃経  参考

    善とはブッダを信じることだ  他

  • 【仏説阿弥陀経 (略)…】
     仏説阿弥陀経


    (略)
    しかしながら舎利弗よ、わずかな功徳を積むだけでは、とてもそ
    の国に生れることはできない。

     舎利弗よ、もし善良なものが、阿弥陀仏の名号を聞き、その名号
    を心にとどめ、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、ある
    いは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心
    に思いを乱さないなら、その人が命を終えようとするときに、阿弥
    陀仏が多くの聖者たちとともにその前に現れてくださるのである。
    そこでその人がいよいよ命を終えるとき、心が乱れ惑うことなく、
    ただちに阿弥陀仏の極楽世界に生れることができる。

    舎利弗よ、わたしはこのような利益があることをよく知っている
    から、このことを説くのである。もし人々がこの教えを聞いたなら、
    ぜひともその国に生れたいと願うがよい。

    (略)

    舎利弗よ、もし善良なものたちが、このように仏がたがお説きに
    なる阿弥陀仏の名とこの経の名を聞くなら、これらのものはみな、
    すべての仏がたに護られて、この上ないさとりに向かって退くこと
    のない位に至ることができる。だから舎利弗よ、そなたたちはみな、
    わたしの説くこの教えと、仏がたのお説きになることを深く信じて
    心にとどめるがよい。

    舎利弗よ、もし人々が阿弥陀仏の国に生れたいとすでに願い、ま
    たは今願い、あるいはこれから願うなら、みなこの上ないさとりに
    向かって退くことのない位に至り、その国にすでに生れているか、
    または今生れるか、あるいはこれから生れるのである。

    だから舎利弗よ、仏の教えを信じる善良なものたちは、ぜひとも
    その国に生れたいと願うべきである。

  • 『カッサバ菩薩、娑婆世界の人々に二種類ある。信心がある人と信心がない人である。信心のある人は治すことができる。この人は必ず妙寂という傷のない状態を得ることができる。このことを私は「娑婆世界の人々を治した」という。信心のない人とは極悪人である。極悪人の一闡提(いつせんだい)とは治すことができない人のことである。極悪人の一闡提を除いたほかの人たちは治すことができる』

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