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アドヴァイタと仏教

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  • 2016/09/23 07:00
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     「長い間、修行と注意深い訓練、応用を通して、感覚野を統合してきたものとして、私は貴方にこう言えます。それ(不二一元)は私がしたことのなかで、最大のことであり、それより重要なことは何も思いつきません。

     数多くの疑問に答え、混乱したものを落ち着かせ、かくて、たいていの哲学者や現代物理学者や盲目の信仰者たちがあれこれ思考することを、私は直接知覚するのです。

     それは、初めて<生じ来たり、滅し去る>体験をしたときに持った「暗夜」問題を解決しました。これは私にとって、巨大な恵みとなるものでした。とても感謝しています。」(ダニエル・イングラム)
     
     http://www.dharmaoverground.org/web/guest/discussion/-/message_boards/message/396815#_19_message_397051
     

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    mic***** 9月23日 07:00

    中間が抜けていたので
    補足しておきます。

    ↓×
    非想非非想定に入られた

    非想非非想定から起って

    無所有処定に入られた

    無所有処定から起って

    識無辺処定に入られた



    第四禅から起って 第三禅に入られた

    第三禅から起って 第二禅に入られた

    第二禅から起って 初禅に入られた

    ↓  〇
    非想非非想定に入られた

    非想非非想定から起って

    無所有処定に入られた

    無所有処定から起って

    識無辺処定に入られた




    識無辺処定から起って

    空無辺処定に入られた

    空無辺処定から起って

    第四禅に入られた




    第四禅から起って 第三禅に入られた

    第三禅から起って 第二禅に入られた

    第二禅から起って 初禅に入られた

  • 【パーリ涅槃経 …】


    パーリ涅槃経



    尊い方よ

    *不思議であります

    *珍しいことであります

    わたくしは この修行僧の集いを

    このように●喜んで信じています




    ブッタに関し 

    あるいは法に関し

    あるいは集いに関し

    あるいは道に関し

    あるいは実践に関し

    一人の修行僧にも 

    ●疑い 疑惑が起こっていません



    お前は

    アーナンダよ 

    ●清らかな信仰から 

    そのように語る



    ところが 修行完成者には

    このような智がある



    [この修行者の集いにおいては

    ブッダに関し 

    あるいは法に関し

    あるいは集いに関し

    あるいは道に関し

    あるいは実践に関して

    一人の修行僧にも

    ●疑いが 起こっていない

    この5百人の修行僧のうちの

    最後の修行僧でも

    聖者の流れに入り

    ●退堕しないはずのものであり

    必ず正しいさとりに達する]と



    さあ 修行僧たちよ

    お前たちに告げよう

    「もろもろの事象は

    過ぎ去るものである

    怠ることなく修行を完成なさい」



    そこで世尊は初禅に入られた

    初禅から起って 第二禅に入られた

    第二禅から起って 第三禅に入られた

    第三禅から起って 第四禅に入られた



    第四禅から起って

    空無辺処定に入られた

    空無辺処定から起って

    識無辺処定に入られた



    識無辺処定から起って

    無所有処定に入られた

    無所有処定から起って

    非想非非想定に入られた



    非想非非想定から起って

    滅想受定(尽滅定)に入られた




    尊い方 アヌルッダよ

    世尊はニルヴァーナ(涅槃)に

    入られました


    友 アーナンダよ

    世尊はニルヴァーナ(涅槃)に

    入られたのではありません

    滅想受定に入られたのです




    ここで世尊は滅想受定から起って

    非想非非想定に入られた

    非想非非想定から起って

    無所有処定に入られた

    無所有処定から起って

    識無辺処定に入られた



    第四禅から起って 第三禅に入られた

    第三禅から起って 第二禅に入られた

    第二禅から起って 初禅に入られた



    初禅から起って 第二禅に入られた

    第二禅から起って 第三禅に入られた

    第三禅から起って 第四禅に入られた



    第四禅から起って

    世尊はただちに
    完きニルバーナ(涅槃)に入られた

  • 無知無明なんだからさ  わらい

    それが 晴れたら 絶対の善かも しれんがね

    釈尊にも なれないから
    不可思議なる 教えも ありと

    考えても 解るようなものでも なし
    信じるのか  信じないのか それだけだ


    だからね
    一切が可能


    以上

  • ないんだ ないの

    その他に善なんてものはな

    世間虚仮
    妄念妄執


    その中での 出来事だからさ 自分中心 妄念妄執

  • >>9865

    仏の教えを信じる善良なものたちは

    仏がたの教えを信じる者が善良な者

    涅槃経  参考

    善とはブッダを信じることだ  他

  • 【仏説阿弥陀経 (略)…】
     仏説阿弥陀経


    (略)
    しかしながら舎利弗よ、わずかな功徳を積むだけでは、とてもそ
    の国に生れることはできない。

     舎利弗よ、もし善良なものが、阿弥陀仏の名号を聞き、その名号
    を心にとどめ、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、ある
    いは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心
    に思いを乱さないなら、その人が命を終えようとするときに、阿弥
    陀仏が多くの聖者たちとともにその前に現れてくださるのである。
    そこでその人がいよいよ命を終えるとき、心が乱れ惑うことなく、
    ただちに阿弥陀仏の極楽世界に生れることができる。

    舎利弗よ、わたしはこのような利益があることをよく知っている
    から、このことを説くのである。もし人々がこの教えを聞いたなら、
    ぜひともその国に生れたいと願うがよい。

    (略)

    舎利弗よ、もし善良なものたちが、このように仏がたがお説きに
    なる阿弥陀仏の名とこの経の名を聞くなら、これらのものはみな、
    すべての仏がたに護られて、この上ないさとりに向かって退くこと
    のない位に至ることができる。だから舎利弗よ、そなたたちはみな、
    わたしの説くこの教えと、仏がたのお説きになることを深く信じて
    心にとどめるがよい。

    舎利弗よ、もし人々が阿弥陀仏の国に生れたいとすでに願い、ま
    たは今願い、あるいはこれから願うなら、みなこの上ないさとりに
    向かって退くことのない位に至り、その国にすでに生れているか、
    または今生れるか、あるいはこれから生れるのである。

    だから舎利弗よ、仏の教えを信じる善良なものたちは、ぜひとも
    その国に生れたいと願うべきである。

  • 『カッサバ菩薩、娑婆世界の人々に二種類ある。信心がある人と信心がない人である。信心のある人は治すことができる。この人は必ず妙寂という傷のない状態を得ることができる。このことを私は「娑婆世界の人々を治した」という。信心のない人とは極悪人である。極悪人の一闡提(いつせんだい)とは治すことができない人のことである。極悪人の一闡提を除いたほかの人たちは治すことができる』

  • ブッダはいわれた。

    『<すべて>とはさとりへの修行法を除く、常に善なる教えを楽しむことだけを<すべて>という。これはまた含みがないという。これ以外の教えには含みもあり、また含みがないともいう。私は多くの信者を楽しませようとして、教えには含みの意味があり、あるいは含みの意味がないことを知らせようとした」

    カッサバ菩薩はたいへんに喜び、躍り上がらんばかりであった。そしてブッダの前に進み申し上げた。

    「世尊、有り難いことです。世尊がご自分の子ラーフラを可愛がれるように人々を等しくあわれみくださることに接したことは得難いことです」

    「カッサバ菩薩、君がいま述べた言葉は本当に意味深い。すばらしいことを述べた」

    「世尊、お願いがあります。これまで説かれた妙寂に関する説法をまとめたものを受け継ぐならば、どのような功徳があるのか説明していただきたいものです」

    「カッサバ菩薩、もしこの妙寂に関る説法をまとめた経典の●名前を聞いたら、その功徳は未熟な修行者たちには到底理解できない。これはただブッダになった者だけがよく理解できる。なぜならばこの不思議な境地はただブッダの心の境界だから。名前を聞いただけでなく、さらに経典を暗記し、伝え、読み、唱え、理解し、書写したら、その功徳は量り知れない」


    そのとき、神々や人々やアスラ神たちはブッダの前に進んで、異口同音に次の詩偈を述べた。
    「ブッダの境地は不思議です。その教えも教えにしたがう修行者たちの心の境界も不思議です。そこでお願いいたします。しばらくここに留まってください。マハーカッサバ尊者、アーナンダ尊者、それにお二人に就いている弟子の方々が到着されるまでしばらく待ってください。マガダ国の阿闍世(あじゃせ)王は心からブッダを崇敬されています。この王はまだ到着されていませんが、すぐにおいでになるので、しばらく待ってください。ブッダ、どうかしばらくの間とどまり、人々の悩みや疑問を解決してくださいますようお願い申し上げます」

    遺言「心を慎み、怠るな!」


    涅槃経①完

  • 人々がこのように愚痴の大海に浮き沈みして苦しみ疲れ、妙寂の教えの風に遇わずにいる間は<きっと地獄や餓鬼や畜生の世界に堕ちる!>と考えるだろう。しかしこんなことを考えているうちに、大乗の妙寂の教えの風に巡り遇うことができたら、その順風によってブッダのさとりに向かい、そして真実を理解することになるだろう。そこで人々は<私たちは昔から、ずっとこのような**仏陀の*秘密の教えを見聞きしたことはない>と言って、●未経験の実感を味わうことになるだろう。かくして人々は妙寂の教えに対して●深い信心を持つようになる。

  • 殺生などの四つの大罪や母父の殺害などの大罪を犯した人たちが臨終の時、この妙寂の教えを思い出し忘れないでいるならば、たとえ地獄・畜生・餓鬼などの苦しみの世界に堕ち、また、神々の世界や人間界に生まれることがあっても、この教えのおかげでさとりを得る因縁を作ることができる。ただ極悪人の一闡提だけは除かれる。

  • あらゆる教えも瞑想も、貪りや愚痴などの煩悩の病を治し、煩悩の毒矢を抜くことはできるが、殺生などの四つの大罪や母父の殺害などの五つの大罪を犯した者を治すことはできない。

  • 次のように銘記すべきだ。
    大乗の不可思議な教えは●純粋無垢である。濁水のなかに投げ込むとその水を澄ませる魔尼宝珠のように大乗の教えもそうである、と。

    たとえば蓮華が太陽に照らされて開花するように、人々も妙寂の教えの太陽を見聞できたら、●たとえまだ心を動かされていない人も、残らずさとりへ向かおうとする。だから、かつて私は妙寂の教えが毛孔から入ると、かならずさとりへの不可思議な因縁を作ると説いたのだ。

    万が一、極悪人の一闡提はブツダになる可能性があっても、蚕が自分の繭から抜け出ることができないように、量り知れない罪障にまとわれているので自由になることができない。この罪障の呪縛によってさとりへの不思議な●因縁を作ることができない。結局は輪廻の鎖に縛られて、限りなく苦しむのである。

  • カッサバ菩薩はブッダに申し上げた。

    『世尊、いま妙寂の光は人々の心にさとりを求めようという気持ちがなくても、彼らの毛孔に光が入り込み、さとりを求めようという気持ちを起こさせると説かれましたが、そのお考えには納得できません。なぜかといいますと、彼らの多くには四つの規則破りの者(四重禁)がおり、五つの大罪(五逆罪)を犯した者がおり、そして極悪人の一闡提もおります。世尊の説で考えますと、光明が毛孔から入り、さとりの原因になるといわれるのでしたら、これらの悪人どもと、正しく規則を守り、さまざまな善行を修めている人たちの間にはどのような違いがあるのでしょう。両者の間に違いがなければ、ブッダは先に四つの頼りとすべき聖者の意義をお説きになったのはなぜですか。
    ブッダは「この妙寂の教えを一度でも聞いたら、あらゆる煩悩が消え去る」と説かれましたが、では、先に「ある人がガンジス河の沙の数に等しいほどの数のブッダに就いていてさとりを求めようという心をいくども起こしたが、ついに彼はこの妙寂の教えを聞いてもその意味が理解できなかった」と説かれたことはどういうことでしょう。このことが納得いかないと、私のすべての悩みは消えません』

  • ブッダはいわれた。

    「すべてのものは、*原因とそれに付随する*条件によって成る。人々が教化されるべきときには、その状況に応じて、その場所に私は*仮に姿を現す。姿を現したからといっても実際の姿ではない。ほんものの私は不変であるから、仮に現した私と本物の私とは、カランダカ鳥やおしどりのそれぞれの番(つがい)のように一緒にいる」

  • 「カッサバ菩薩、あらゆる事象の和合によって、老いがあり、死があると私は説いている。
    心を慎み、怠けないこと、これを甘露(不死)という。
    怠けて慎みが無いこと、これを死という。

    もし怠らなければ、不死の理を体得し、もし怠れば、常に死への道に趣く。
    怠けるのが世間のあり方である。世間のあり方は第一級の苦しみの境地である。怠けることがない、これは妙寂の境地である。この妙寂の境地を甘露、つまり第一級の安楽という。

    もし世間の事象に執着すれば、死へ趣くことになる。そして第一級の苦しみを受けるだろう。
    もし妙寂に至ると、そこは不死の境地といい、最高の安楽を受けることになるだろう。

    もし怠けることがなくなれば、たとい世間の事象の中にあっても、その境地は常に安楽であり、ついには不死で堅固な身体を得ることだろう。

    では、なにが怠けであり、怠けでないのか。

    ブッダの教えを*信じないことが怠けで、それは死への歩みである。出家した聖者は謹んで精進しているので、老いや死を怖れることがない。それは第一級の、永遠の安楽である妙寂の境地に入るからである。

    人が地上から空を仰ぎ見たときに、鳥の跡を見ることができないことを考えてみよう。
    カッサバ菩薩、人々には肉眼を超えた天眼がない。彼らは煩悩に埋もれているために、自分のなかにブッダの可能性があることを知らない。だから、私は彼らに<実在のものはない>という、本当の意味を隠した(秘密)教えを説いた。理由は、天眼をもたない人はていねいに説明しても、ほんとうに<実在のもの>を理解できないからである。なぜかというと、間違った実在のものを考えているからである。それは煩悩の然らしめるところである。つくられた世間の有様は無常である。だから私はある教えでは不滅といい、ある教えでは無常と説いているのである。

    勤勉で勇敢な人が、山頂や平地や荒野で、人の往来を見るように、
    偉大なる智慧の宮殿の、最上、不可思議の高殿に昇ると、
    自らの憂いや患いが除かれて、人々の憂いを見ることができる。

    私はあらゆる煩悩を断ち切り、知恵の山に安住し、そこから人々が煩悩に埋もれている姿を観察している」

  • ・カッサバ菩薩、どんなに多くの経典の教えを学び、種々の瞑想を修めても、この妙寂の教えを聞かなかったら、みなはかないものだといわなければならない。この妙寂の教えを聞いたら、煩悩がなくなり、人々も神々も利益を受ける。その利益とは自らにブッダになる可能性のあることを自覚することである。*これは永久になくなることはない。

    これは永久になくなることはない。


    ・あらゆる教えや瞑想の光明の中でもっとも優れている。これらの光は到底およばない。なぜかというと、妙寂の光はすべての人々の毛孔にも入るからである。
    人々はさとりを求める心などないが、その心にさとりを求めようという気持ちを起こさすきっかけを与える。だから妙寂というのである。


    ・仏法に無縁の極悪人とはだれか

    ブッダはいわれた

    『カッサバ菩薩、極悪人の一闡提を除いた他の人々は、この教えを聞いてさとりへのきっかけをつかむことができる。教えの光明が毛孔に入ったら、かならずブッダの最高のさとりをえることができる。なぜかというと、数えきれないブッダたちを供養し、信仰したら、妙寂の教えを聞くことができるからだ。たくさんの功徳を積んだ人はその功徳でブッダの大事を聞くことができる。反対に卑しい、功徳の少ない人は聞けないのだ。
    では、その大事とはなにか。それはいわゆるブッダたちが伝えた深奥な秘密の教えである仏陀になる可能性(仏性)である』


    ・まださとりを求める心を起こしていない人がいても、妙寂の教えはその心を起こすように仕向ける。なぜかというと、妙寂の教えは、あの薬樹が王であるように、あらゆる教えのなかの王で、これを*修学している人も修学していない人も、この教えを●一度でも聞いたら、信仰し、その信仰によって煩悩の病が治癒されるからである。ただ例外として、極悪人の一闡提をブッダのさとりに安住させることはできない。いかに妙寂の教えが種々の重病を治療できる妙薬であるとはいえ、死を宣告された人の病気を治すことができないようなものである。


    涅槃経から

  • それも 任せるだが

    信心がないと 駄目なのは 猿でも 解ると


    つまり 信心だった   テルゼのまったく 逆なら救われるからさ

  • テルゼくんが惑乱 くまったやつだが

    他力とは?  それら自力の行はやめなさい だ  笑う

    そして 一仏一向  奇跡でも  まて


     ポイントは勿論 悪人正機    テルゼがぐちゃぐちゃにしていたと

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