ここから本文です
  • <<
  • 442 409
  • >>
  • あー、夕陽さんよ、どーした?あ?♪

    俺は【asahi_kiku 〓 tounoshot】なんだろ?え?

    だからこう↓

    〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
    tounoの一人二役です。↓

    番犬なみのレスポンスの速さですが、文体・語彙からして別人を演じきれないところが所詮tounoクオリティ。職業、家族構成、本棚の中身まで透けて見えますね。堂々とtounoの名前で反論することもかなわない哀れな生き物ですなあ。
    〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

    と断言・公言した発言しただろう?(笑)

    だったら具体的客観的な確たる根拠証拠提示した上での同一投稿者の証明するのは、君が責任負って証明しなければならない【義務】だろが。え?


    証明出来ないのであれば、私とtounoshotさんに対して【謝罪投稿文】を投稿掲示して謝罪せよ。

    当然だろ。

    まさか?このまま、スッ惚けてシカトしてやり過ごそう、なんて、思ってないだろうねえ?

    返答不能、証明不能、現代日本語訳不能の無責任夕陽さんよ(笑)


    ま、セイゼイ、同一投稿者証明ガンバってちょーだいよ、な?(大笑い)

  • 遠野氏との議論で感じるのは、どうしても法華経を釈迦の教えだとしたい彼の欲求だ。

    どうしてこの争点に譲歩できないのだろうか?という興味によって私は議論しているに過ぎない。法華経が釈迦の教えか否かなどという問題は、本当のところは議論の余地はない。

    論理的、ということに拘り、実証主義批判を為す遠野氏に於いて重要なことは、或る理論の基礎の強固さと、そこから展開する初項と帰結からなる体系全体の整合性であろう。理論の内的整合性が重要で、そのことが当の体系を正当化する。誰が構築した体系であるのかは関係ないはずだ。論理的な人間ならば。

    もう一つ合理性がある。たとえ論理的な一貫性に貫かれた体系であろうと、科学が道徳を規定できないように、論理的な理論であることと合理的な理論であることとは異なる。
    或る教説が論理的であっても、我々の生の意味や、特定の私の生の目的に対して合理的であるとは限らない。即ち、或る理論が論理的であることに先立って、私たちや、私の生の意味や目的が特定されていなければ、その目的に対して如何なる論理の体系が合目的的に合致するのかについて判定はできない。

    或る理論に対する評価というものは、極めて困難で多くの問題を含むのであるが、釈迦の教えであることに拘る彼の議論からは、護教のちっぽけな自我が観察されるだけである。宗教を深く研究した結果がそうであることは、極めて残念なことであると言わなければならない。

  • >>435

    > あくまでも、大乗経典の原型ともいうべき「秘伝」があり、かつ長い間の仏教集団の修行の歴史があった。

     その秘伝というのは何でしょう。


    > ただ、あくまで釈迦が阿羅漢止まり、ということではないと受け取っていますよ。
    > だって、釈迦は原始仏教でも仏陀であったわけでしょう。 仏陀=めざめた人ですよね。

     阿羅漢というのは、輪廻を超越した人です。スッタニパータに「これでもう二度と生まれることはない」というブッダの言がありますが、そういう境地に達した人です。それは釈迦と同じということです。

    > また「神格化」といいますが、それは部派仏教、上座部等で出てきたと、
    > 本の立ち読みで読んだように思いますが、どうでしょう。

     そうかもですね。


    > 大乗仏教は、仏陀の神格化ではなく「衆生成仏」を究極の目標に置くのだから、神格化とは違いますよ。

     しかし、touno氏は仏陀を阿羅漢より上に置いているでしょう。そういうのが神格化の始まりなんですよ、たぶん。その仏陀とは人間には行けない境地ではないですか。

  • 天台宗や真言宗は死後に中有という霊体を認めているようです。 浄土宗そして禅宗は基本的には認めていないが、日本的な古い習慣から認めるようです。 それでも実際には禅宗の坊さんの半数以上は霊体を認めるようです。 死後の世界に悟りの道に引導を渡すらしいが、すでに仏ならば、引導なんてする必要がない、こういうところをもう少し纏めないと、現在の人たちには納得がゆかないでしょう。 浄土真宗でも最近は霊に対して寛容になってきている坊さんが多くなってきているようです。 寛容になららなければ、葬儀そのものが、葬式仏教と言われる。

    (日蓮御書)
    妙は死 法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり、天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云此の釈に依正と云うは生死なり生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし、 伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用有無の二道は本覚の真徳」と文、天地陰陽日月五星地獄乃至仏果生死の二法に非ずと云うことなし、
    是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、天台の止観に云く「起は是れ法性の起滅は是れ法性の滅」云云、釈
    迦多宝の二仏も生死の二法なり、然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと
    解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経
    を持つとは是なり、所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授
    手令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候、悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給は
    ん事歓喜の感涙押え難し、法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば定めて獄卒迎えに来つて手をや
    取り候はんずらん浅・浅・、十王は裁断し倶生神は呵責せんか。

    法華経を実経とする日蓮宗では娑婆即寂光土ですから本質的に現生でも死後も変わる事なく、仏の世界に存在する。ただし死んでも仏になれず、地獄の苦しみを味わうものもいるとする。誰でも仏で同じではない。

  • >>423

    > 勝手に考えているだけですが、ブッダの時代から相当経っているでしょう。もし広範囲に広がっていれば、それだけ統制力というのも薄くなっているはずですよね。つまり絶滅しかかっていたとしたらどうでしょうか。さらに時代が経つうちに、経典が適用できる問題を越えた問題が出てきたとしたらどうでしょうか。そういう状況では、新たな経典を生み出しても違和感がなかったのかもしれません。まったく別物ではなくて、後の時代が前の時代を飲み込むような形にすればいっそう違和感もなくなる。

    ええだから、誤解してもらいたくはないのですが、私は大乗経典は「仏陀よりの秘伝」そのものの復元だ、といっているわけではありません。
    あくまでも、大乗経典の原型ともいうべき「秘伝」があり、かつ長い間の仏教集団の修行の歴史があった。
    その場合、表面的にみれば原始仏教が中心であったとおもいます。
    そして、数百年の歳月のなかで原始仏教および「秘伝」に基づく修行の歴史のなかで、新たに分かり始めた仏教的義も出てきた。
    それらを総合した形で、大経経典が編集された可能性が一番高いのでは、と想像するわけです。

    阿含経典より優れているというのは、たとえばどういうことですか。

    >  阿含経典の釈迦というのは、<同志>ですよね。それが時代が経つと<神格>になってしまう。もうその時点で、初期仏教の精神からは離れている、別ものです。しかし、釈迦という固有名が神になっているので、連続性を強調しないわけにはいかない。不連続的連続、というのが大乗の宿命でしょう。

    阿羅漢果の成就という点からは、たしかに「同志」と仏陀自身が述べている、と書いてあったようには思います。
    ただ、あくまで釈迦が阿羅漢止まり、ということではないと受け取っていますよ。
    だって、釈迦は原始仏教でも仏陀であったわけでしょう。 仏陀=めざめた人ですよね。

    「 仏陀は人間に生れによる高下を認めず所謂四姓平等を説かれた故、各
    階層の人々が出家して比丘比丘尼となった。  (中略)  
    今『雑阿含経』一四・・・・を開くに、茂師羅は、殊勝と、縁起に就て論議を
    為した程の人であったから、彼は仏教の真理は知っていたが、定によって
    涅槃に達せず、所謂阿羅漢になれなかった。 又多聞第一の阿難も、仏
    陀に常随眤近の比丘であったにも拘らず、仏陀の在世中には、阿羅漢に
    なれなかったと伝えられている。 人々は誰人と雖も、八正道を学び、之
    を身につけさえすれば、滅諦は証せられるとの理は、仏陀より繰り返し聞
    きながら、正見(如実の知見)を身につけた者は稀であったに相違ない。 」
      (福原 亮厳『業 論』P103・P104)

    とあるように、あくまで阿羅漢果を求める人たちに「同志」として接したのだとは思います。
    しかし、それは仏陀=阿羅漢とは違うと理解していますが。

    また「神格化」といいますが、それは部派仏教、上座部等で出てきたと、
    本の立ち読みで読んだように思いますが、どうでしょう。
    大乗仏教は、仏陀の神格化ではなく「衆生成仏」を究極の目標に置くのだから、神格化とは違いますよ。


  • >とはいえ、では全面的に信頼して、果たしていいものか、という問いは相変わらず残るのでは。

    ですから、下記のように原始仏教からは、間違いなく迷える者には輪廻があるとしていますね。 大乗仏典からも輪廻は肯定ですが、空の解釈ができていない、仏教のアホ学者とかアドヴィタ洗脳者が諸法無我だから、輪廻は方便としてしまう、大きな間違いを起こしているようです。 

    『スッタニパータ』の第4章、第5章が原始仏典に於ける最古層韻文経典群であり、第四章第15経(935句~954句)が最も古層部分だそうです。(荒牧典俊博士・講談社刊原始仏典七410頁)

    その第四章の第15経を見ると、
    937句
    「無限の過去以来[上は神々の存在から下は地獄の存在に至るまで、]あらゆる方位の世間的存在へと、つぎからつぎへとつき動かされて輪廻転生しているが、いかなるところにおいても世間的存在は根底的にうつろい実質がない、」

    938句
    「あらゆるひとびとは、あらゆる方位の世間的存在へと輪廻転生しつづけていくのである。いまもしも、その矢をさえ引き抜いてしまうならば、もはや輪廻転生することはあるまい」

    「婆羅門よ。比丘ありて、初夜後夜に睡眠を損除し、精勤して懈せず、専ら道品を念じ、三昧力を以て天眼を修浄し、天眼力を以て衆生を観るに、此に死して彼に生じ、彼より此に生じ、寿命長短、顔色好醜、行に随って報を受け、善悪之趣を悉く知見す。汝は、穢濁の肉眼を以てすべからず、衆生の趣く所を徹見する能わずして便ち無しと云うなり。婆羅門よ。此を以て必ず他世ありと知るべし。」(国訳一切経・阿含部7・163頁)

    >当然、そういう否定は出てきます。昔からアドヴァイタは倫理道徳的に疑問視されてきました。しかし、なんというか、変なたとえですが、<悪の認知の否定>というのは、アドヴィタだけではなくて、キリスト教全般にもある<わさび>のようなもので、それがないと、この世界に神が存在するということの道徳的否定論になってしまうわけですね。

     つまり、こんなひどい世界に神などいるわけがない、という。<

    中東をみてもわかる通り、お互いに自分達の教義に反する者をすべて悪とし、自分達の行為を善とする一神教の恐ろしい考えがすでに善悪が見えなくなってしまう宗教なんでしょうね。

  • >>428

    > 善業善果、悪業悪果をむしろ危険として、短絡的に考えて仏陀の悟りから排除するような事が,古い時代から出てきたと思われます。

     とはいえ、では全面的に信頼して、果たしていいものか、という問いは相変わらず残るのでは。


    > 私がいいたいのは、キリスト禅のイェーガーという人に同調しているようですが、単にすべてを無我とし全責任を神にもっていってしまう思想です。  実際には悪業の行為をしても俺は無我だから関係ない、神の思し召しだなんて宗教は、仏教でも何でもない。  すくなくても、このような人を仏陀とは呼べないね。
    > 如何ですか?

     当然、そういう否定は出てきます。昔からアドヴァイタは倫理道徳的に疑問視されてきました。しかし、なんというか、変なたとえですが、<悪の認知の否定>というのは、アドヴィタだけではなくて、キリスト教全般にもある<わさび>のようなもので、それがないと、この世界に神が存在するということの道徳的否定論になってしまうわけですね。

     つまり、こんなひどい世界に神などいるわけがない、という。

  • >イェーガーの話はおいておいて、善業善果、悪業悪果というのを全面的に信頼することをためらわせるものというのがあるでしょう。

     たとえば、現世での不幸、それも差別的な不幸を前世の悪業のせいにしたりする。それは一方では、そういう不幸は受けても当然だという意識を産む。これが危険。

     他方、自分のことをそうやって慰めることもあり、とすれば、一概に危険だと言い放しもできない。<

    釈尊の解かれている因果には、数知れない縁が必ず介在していて、単純な事ではありません。
    善業善果、悪業悪果をむしろ危険として、短絡的に考えて仏陀の悟りから排除するような事が,古い時代から出てきたと思われます。
    私がいいたいのは、キリスト禅のイェーガーという人に同調しているようですが、単にすべてを無我とし全責任を神にもっていってしまう思想です。  実際には悪業の行為をしても俺は無我だから関係ない、神の思し召しだなんて宗教は、仏教でも何でもない。  すくなくても、このような人を仏陀とは呼べないね。
    如何ですか?

  • 五蘊無我ではなく、五蘊非我 でした。
    キススト教や道徳教義の孔子の教えと仏教は違います。 三世因果を説くから仏教。
    天台宗では法華経を正経としてきたが、天台大師のマカシカンのように、理論からの法華経でした。理論は法華経の14章までの迹門です。
    その為日蓮聖人が迹門は池に映った月とし、法華経本門を天の月とし、本門優位の法華経の流布に務めました。

  • 霊能を売り物にしている、新興宗教の真如苑の話があるようですが、(まこと教団事件)があるように、問題ある教団でまちがいないでしょう。 日蓮宗でも荒行をでて修法師の資格を持った僧が祈祷は行いますが、私の知る限り
    よほどの高僧でもないかぎり、マイナス思考に堕ちている人を普通に戻すくらいだと思っています。

    お釈迦様は五蘊無我を説きました、脳を含めて五蘊は肉体です。 人は霊長類と言われます。虫にも五分の魂。
    私自身は今迄多くの経験と経典から、まちがいなく、両親からのDNAによって作られた肉体の中に姿も形もない霊がすでに宿って多くの修業をしている、 肉体が滅びても業を背負った魂が死後の世界に浮遊する。
    天台宗や真言宗は、中有を認めています。 往生するとか、戻ってくる菩薩だとかいうけれど、はっきり霊体である業を背負った魂とするほうが、理解しやすく、はっきりしていれば、葬儀の大切さも見直されると思いますね
    このように考えないと五蘊無我と因果論は成立しません。

  • とりさん、渋谷での試写会の案内ありがとうございます。 観させて頂きます。
    先月上越に行ったときに、古畳など処分したり、和室から洋間に改造したり、新兵器のストーブの設置をしました。 残るは襖や障子紙の張替ですが、数が多いので、年内にできるかどうかというところです。
     古民家を2000万円かけて改造した立派な家でそばを食べさせてくれるとの事、友人と行ったが時間が夕方5時近くになっていた為、そばは無理だがコーヒーならば出せると事で、地元の方の情報を知る為、囲炉裏の前坐しました。 私はコーヒーよりも紅茶派でしたが、とても美味しいコーヒーでした。 作ってくれた人は、元は、東京の日野市から夫婦で田舎暮らしの為にきた、40歳くらいの方で、大工さんに屋根と周囲だけの建前の時の形だけを造ってもらい、後は自分でこうして週末アルバイトをしながら、たまったら材料を購入しすでに5年以上たってるらしいですが、完成はまだ先のようです。 自分で行うため、電気技師の免許をとるなど、すごい方です。 彼の新築場所はもっと奥深いところにあるようで、ゆっくりしたら、遊びに往くつもりです。 この古民家のお店には千葉と静岡から30歳前くらいの若い男性二人がいました。 NPOから派遣されている若い女性もいました。 古民家オーナーの社長さんと、話ができ、新たに過疎化の問題を身近に感じました。 今日も明日も忘年会がはじまり、上越に往くチャンスが少なく、除夜の鐘と新年祈祷の手伝いはパスして、暮れからお正月に友人とゆく予定です。 10月は収穫祭で、先月行った時には、しゃけが川に登るところを捕まえ、とても1000円以下の安い料金で提供していて、町からも多い人は20匹くらい購入していました。
    私も一匹とイクラを5000円分購入しました。 横浜の半値以下でした。 近所のおばあちゃんが
    帰りに野菜をもっていきなと、大根30本、白菜10個など、たくさんいただいてきて、知り合いの方におすそわけし喜ばれました。 
    田舎はスカイツリーはなくても山があり、人々の温かさ優しさは、都会の偽豊かさとは比べ物になりません。 これを体験しないのは、人生に置いて忘れ物を残してしまうかも?

  • >>358

    > 問題の一は、何故あの多量な大乗経典が「釈迦」の名において偽造されたか、という問題です。これと同類のケースは、ユダヤ、イスラム、キリスト教圏、あるばバビロニア等においてもないことでしょう。

     勝手に考えているだけですが、ブッダの時代から相当経っているでしょう。もし広範囲に広がっていれば、それだけ統制力というのも薄くなっているはずですよね。つまり絶滅しかかっていたとしたらどうでしょうか。さらに時代が経つうちに、経典が適用できる問題を越えた問題が出てきたとしたらどうでしょうか。そういう状況では、新たな経典を生み出しても違和感がなかったのかもしれません。まったく別物ではなくて、後の時代が前の時代を飲み込むような形にすればいっそう違和感もなくなる。

     

    > 問題の二は、なぜ大乗経典は、「如是我聞」という類似の言葉ではじまるのでしょうか。 大乗経製作は、多くの競合する大乗集団で編集されたと考えるべきでしょう。内容もちがい、その時期も違うのだからね。 にもかかわらず、口裏を合わせた如くに「如是我聞」ですよ。

     これは権威付けのためでしょう。


    > 問題の三は、普通の思想家がみたら、阿含経等より大乗経典が内容において優れているのは、疑いの余地がないでしょう。それだけのことをなす能力のある集団がなぜ、そろいもそろって釈迦の名において偽作する必要があったのでしょうか。釈迦がやったように、新しい宗教を立ちたげることがあってもよかったはずです。

     阿含経典より優れているというのは、たとえばどういうことですか。

     阿含経典の釈迦というのは、<同志>ですよね。それが時代が経つと<神格>になってしまう。もうその時点で、初期仏教の精神からは離れている、別ものです。しかし、釈迦という固有名が神になっているので、連続性を強調しないわけにはいかない。不連続的連続、というのが大乗の宿命でしょう。

  • >>378

    > これがイェーガーという方の悟りですか?
    > 私にはなるほどというのには程遠い感じを受けています。 善業善果、悪業悪果 が語られていない、 これでは良い行為も悪き行為も全て神様の性にしてしまう。 全て心配しなくてすむのなら、宗教なんていらない。

     イェーガーの話はおいておいて、善業善果、悪業悪果というのを全面的に信頼することをためらわせるものというのがあるでしょう。

     たとえば、現世での不幸、それも差別的な不幸を前世の悪業のせいにしたりする。それは一方では、そういう不幸は受けても当然だという意識を産む。これが危険。

     他方、自分のことをそうやって慰めることもあり、とすれば、一概に危険だと言い放しもできない。

  • >>418

    > ゴウさんは真言密教系の単立法人なんですが、秘伝の部分は『師匠と一対一の直伝』とのことで、教えてくれない。

     わたしだって、TMのマントラは秘伝だった。ま、それから全部公開しているサイトを見つけたけどね。


    > 思考の流れとしては、カーマストラかな?。

     そういう話は、伊藤武がすごいんじゃないかな。この人は若いときからインド中をほっつき歩いて、超実践的超理論的タントリズムを伝達中。マルマヨーガの第一人者(マルマとは、断末魔のマツマのことで、急所)。

     http://malini.blog105.fc2.com/blog-category-12.html

  • >>417

    ゴウさんは真言密教系の単立法人なんですが、秘伝の部分は『師匠と一対一の直伝』とのことで、教えてくれない。
    各地のリンガやヨーニの写真は、紹介してくれた。

    真言立川流って、何人くらいなんでしょうかね?。

    思考の流れとしては、カーマストラかな?。

  • >>373


    > そうではなく、「仏陀の教えの大半は阿含経にあり」が成立するためには、
    > 何が必要かを示す必要があります。 
    > 何故、その条件の提示が必要か。 それは宗教のかかえる「秘伝」の存在である、
    > と前から申していることです。 
    > ということで、№358を参照してください、と言っているわけです。

     仮に阿含経典が秘伝を書いてないとしても、その秘伝なるものは一体どういうものなのか。となると、普通では答えられないでしょう、秘伝なんだから。

     一方、仏陀言説として、↓こんなのが残ってます。

     「僧たちよ、これら三つは秘密裏に、公にならずに伝わっているものである。すなわち、女性との情事、ブラーミンのマントラ、間違った見方。

     しかし、僧たちよ、以下の三つは、堂々と輝き、秘密にされてはいない。すなわち、月、太陽、ダンマおよび如来による教義である。」(アングッタラ・ニカーヤ3:129)

     
     どうですか、この秘伝に対するおちょくりは。

  • >>414

    【作品解説】
    いのちと暮らす。いのちを食べる。素敵な風が吹いている!
      舞台は越後妻有の里山。この雪深い村に都会から移り住んだ木暮さん夫婦は、茅葺き屋根の古民家を修復し、見よう見まねで米を作って暮らしてきた。ゴリゴリと豆を挽いてコーヒーを淹れ、野山の恵みを食卓にならべる。悠々自適、気ままな田舎暮らしに見えるけれど、ときに自然はきびしい。冬ともなれば雪がしんしんと降り続け、来る日も来る日も雪かきに追われる。ひとりでは生きられない。
    茅葺きや稲刈りも協働作業だ。木暮さんのまわりには不思議と個性ゆたかな仲間が集まり、ことあるごとに囲炉裏を囲んで宴がはじまる。歌と笑い、もちろんお酒もかかせない。そうやって、ここでは新しいかたちの「結」がゆるやかに息づいている。
    ある春の朝、大きな地震がおきた。木暮さんの家も全壊したが、彼は再建を決意する。
    自然とともに生きるよろこびをファンタジックに描く、絵本のようなドキュメンタリー。

    監督:小林茂 撮影:松根広隆 現場録音:川上拓也 音響:菊池信之 編集・
    アソシエイトプロデューサー:秦岳志
    音楽:「めざめのとき」天野季子(作詞・作曲・歌) プロデューサー:矢田部
    吉彦 長倉徳生 後援:「小林茂の仕事」Oタスケ隊
    助成:文化芸術振興費補助金
    製作:カサマフィルム 配給:東風 2015年|99分|DCP|カラー|日本

  • こんにちは。
    友人からの案内、転載しますね。
    映画完成とのこと、よかったです。わたしは、三月に新潟市の映画館で拝見予定です。

    *******(以下 転載

    ☆ 映画「風の波紋」内覧会のご案内 ☆

    平素よりお世話になっております。ドキュメンタリー映画の小林茂です。
    皆様からのカンパによりまして、新潟県の豪雪地帯で暮らす人びとや移住者を描いた映画『風の波紋』が完成しました。深く御礼を申し上げます。東京での3月での公開にあわせ、応援体制の基礎つくりたくご案内しました。
    地方の方にも、関東の知り合いに見て、広めてくださることもお願いしたいと思います。
    また、各地で劇場公開、自主上映会ができますように、応援をよろしくおねがいします。
    (監督;小林は当日参加します)

    以下は、配給「東風」担当者より詳細です。

    今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映され好評を博した映画『風の波紋』。2016年3月ユーロスペースにて劇場公開が決定しました。つきましては、通常のプレス試写に先立ち、下記のように「関係者・内覧試写会」を開催いたしますので、ご案内申し上げます。
    ぜひこの機会にご高覧いただけますようお願い申し上げます。

    公式WEBサイト http://kazenohamon.com/

    「風の波紋」内覧試写会映画『風の波紋』先行試写会(上映時間99分)
     ※事前申込制
    2015年12月11日(金) 
    受付開始・開場:10:15 ※当日先着受付順の入場 (170席)
    上映開始:10:30 上映終了:12:09 
    ■会場:ユーロライブ (東京都渋谷区円山町1-5 KINOHAUS 2階/ユーロスペースのあるビル)

    鑑賞を希望の場合は、12/10(木)18:00までにご連絡下さい。
    ●お名前(ご所属)●当日ご連絡先 ●人数

  • 慈愛という親が子供をいつくしみ、かわいがるような、深い 愛情ならば、畜生でも行っている。
    自分の家族以外の他に対しても(勇気ある良心)は、その場にたってみて、本当にお前にできるかと問われれば、現実の私には、他にたいしても、そうでありたいと思うだけで、たぶん実行できないかもしれない。
    無始以来悪業の清算のため光り輝く魂の向上の為、この社会に生まれてきた。 

    非差別非平等が八正道にある最初の正見という事も言えると思っている。

    人間としては男女は平等、男と女の用という働きが違うのであって、これは差別とは違う。 所詮力だけが強い男は戦くらいしか、使いようがない。せめて男には雌鶏みたいに卵の一つでも産む事ができればと思ってしまう。
    力の弱い女性や子供、年寄りを護る事をこれからの人生に活かしたい。

    全ては、なんでも、かんでも平等だなんていうような宗教者は正見が初めから見えていない。

  • 大乗経典には如来蔵や法華経の仏種、涅槃経からは仏性が説かれているが、いずれもこれらは仏となる性質が具わっているという事でしょう。  仏となれる性質とは?
    親が子供をいつくしみ、かわいがるような、深い 愛情を慈愛というが、十二縁起からは執着から愛が苦になるというから、こういう性質から仏性は慈愛とは違うと思われる。 仏は悪の心を抑え絶対善の行為を行うとすれば、悪心に対する絶対の良心が必用。 涅槃経からは、有徳王の話でも法を護る時には、殉死しても悪に立ち向かう話、そして真理の法を追及するため、雪山童子のように、帝釈天にも身を捧げる。 
    シビ王の菩薩とハトと鷹の話でも、自らの命よりも、他の生命を尊び捧げる勇気ある良心が仏性かもしれない。
    人は時には、溺れかかった子供を観て、自分の事を考えないで夢中で助けに入って、逆に水死してしまった人もいるが、このような方は、生きながらにして大菩薩そのまま如来の世界で生き続ける。

  • <<
  • 442 409
  • >>
並べ替え:
古い順
新しい順