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自然は厳しい

自然は厳しい

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    mycmpot7 9月21日 18:43

    軍隊を委託によって頼むこともありえる、会社であれば外注費といったところか、

    難民などにその業務を委託するということもできるかもしれない。

    しかしその場合の審査は極めて厳しいものとなるだろう、まず日本語を分かる必要があり、日本のために命を落とし

    てもかまわないかということをしっかり確認する必要がある。

    軍隊は国家の事業であるが、委託によって成立することができるかどうかこの点は考えてみる必要がある。

  • 軍隊とは何か、軍隊は敵国を攻撃するためにつくられたのではない。

    軍隊は自国を守るためにあるのであって、国を代表する、国を維持するためにあると言える。

    たとえばアメリカの軍隊はアメリカという国を代表して国を維持する働きがある。

    アメリカは多民族国家であり人種の坩堝とも言われている。

    このアメリカを代表して国を維持するのが軍隊の役目である、もしアメリカに軍隊がなくなったことを想像してみたら、国家を維持するのは政治家、アメリカの大統領の役目となり、これは絶対できないことなのである。

    軍隊は強大な兵器という物量によって攻撃して他国を押しつぶすことができるという脅威を与えているからこそ国家を維持することができるのである。

    つまり軍隊こそが国家を成立させているのであり軍隊がなくなった国家は成立しないという前提のもとに軍隊が維持されているのである。

    日本には軍隊がない、日本の国家を表すものは軍隊ではない、総理大臣がその役をになっている、しかも平和的に解決しなければならない使命をになっている。

    日本には軍隊はいらない、軍隊がなくても日本は日本という国家ははっきりと維持できるからである。

    軍隊にはもうひとつの存在意義がありそれは国家の事業であるということである。

    軍人は国家公務員であり国を代表する者となっている、軍隊がなくなったら大量の失業者がでてこれに国家は対応できないし、これは国家の事業の失敗を明らかにするだけなのである。

    戦争がなくても国家は維持されていなければならない、軍隊による国と国との戦争、これも国家の事業であり、これによって国家が維持されていると言ってもいい。

    戦争がなくても軍隊は維持されなければならない、つまり、それが国家の最大の事業であるからである。

    そのためにはたまには戦争を起こさなければならないのか、そんなことはない、軍隊は国を守るという使命によって存在しているのである。

    であるから、戦争は絶対におこしてはならないことであるはずなのである。

  • 日本の防衛上の最大な戦略

    それは日本は核を持たないと世界に宣言することである。

    先日オバマ大統領が広島に来て核廃絶の思いを伝えていった、この時こそがチャンスである。

    防衛的というのは今の日本現状であり防衛はするが攻撃はしないという立場をつらぬいている。

    核は世界で他国を攻撃するために配備されているのではない。

    敵国から自国を守るために核を持つのである、これを核の抑止力という。

    日本は核の被害を受けた世界で唯一の国である。

    日本は核を持たないということを世界に広言するべきだ。

    それが日本の防衛上の最大の戦略である。

    日本は永久に核を保持しないということを世界に言うべきである。

  • 自然は災害と同時に慈悲ももたらす。

    台風の被害と台風による水の供給は同時に起こる。

    自然のもたらす恵みと自然のもたらす災害、

    これこそ人間を超えた自然の有り様ではないか。

    自然は厳しい、しかしもう一方では自然は恵みをもたらしてくれるのである。

    この偉大な自然に対してできることは人間は達成したいという思いに自然は従ってくれるかということである。

    根性や忍耐という言葉は、厳しさの中から生まれた本当の思いが自然を動かすことができるという信念である。

    人間的なあまりに人間的な、しかしそういう人間の思いを凌駕する自然のありかたが私たち日本人の脅威であるし、

    また感謝でもあるのである。

    自然においては生物の生と死は日常的ことでありこの自然を人間は凌駕することはできない。

    つまり人間も自然に生きている生物に過ぎないのである。

    それこそが人間が生きている最大の要件ではないか、自然はいつでも人間的な思いを越える真実としてあるのではないだろうか。

  • 〇災害は 自然においての 現象だ
       人為によって 回避できない  mycmpot7

    〇災害に あって初めて わかること
      自然とは 無慈悲なちから  そのものだ mycmpot7

    自然で起きる現象によってもたらされる災害は自然という無慈悲な力によって否応なく起こるものである。

    人為によってこれを避けることはできない、このもたらされる恐怖こそが自然の本質に違いない。

    自然は厳しい、そして怖い、この恐怖は人為的なミスによっていかようにも大きくなる。

    予知や予報はこの災害への備えを的確に知らせてもらいたいものである。

  • 〇運動は 行動における  概念だ
       軍隊は 行動における  概念だ  mycmpot7

    運動するとはゴルフ サッカー 野球などの他にも登山やランニングなども運動することになる。

    行動するということは運動とはされていない、歩行 移動 あらゆる日々の行動が含まれる。

    こういう日々の活動は行動するということであるし運動することとは分けられている、活動は勉強したりの知的いとなみも含むが行動は身体を動かすことである、そのなかでも運動はまた細かく分けられている。

    北朝鮮からまたミサイルが発射された、彼らは軍隊を自らの国と他国に認めさせるためにミサイルを発射した。

    軍隊は国防のための行動をしなければ軍隊として認められないから、軍隊を維持するために行動が必要となる。

    単なる軍隊があるだけでは意味がない、

    自国を守るために他国に驚異を与えようとする行動をしなければ軍隊の威力は落ちてしまうからである。

    これは古い軍隊の思想であって、軍隊は行動をしないことが素晴らしいことなのであって、軍隊の出動という非常事

    態はないことのほうがいいのである。

    軍隊は国家の危機事態にそなえているのであって国家の危機事態はないほうがいいのである。

    軍隊が敵を攻撃することはない、軍隊は国の非常事態にのみ行動することが必要である。

    北朝鮮のミサイルは攻撃する軍隊という昔の思想をこちらにうえつけようとする浅はかな試みとしか考えられない。

    〇運動は 行動における  概念だ
      軍隊は 行動における  概念だ   mycmpot7

  • 〇うで上げて カレンダーめくり 9月来る   mycmpot7

    9月になった、二百十日という言葉があるがこれは2月の立春から数えて210日、9月の1日か2日にあたるが

    台風の襲来によって農作物が被害を受ける厄日である。

    昔の9月はこのような自然の作物の発育と同期するような捉え方をされることもあったが今はそのような思いはない。

    秋になって自然はどのような動きになるのかを知っていても現実にその季節の変化を感じることはないような時代となってしまった。

    秋の到来はテレビやネットなどの情報によって知ることが多い。

    秋の訪れもかけてあるカレンダーをめくることによって感じる。

    カレンダーをめくると9と10という月があらわれカレンダーにつけられた写真が秋の風景を見せてくれるのである。

    秋はカレンダーの日付とともにくるとさえ言えるような自然の欠如がそこにはある。

    情報は季節を演出する、自然とはもたらされる情報であって、自然そのものにめぐり合うことはなくなっている。

    カレンダーをめくることによって秋は深くなってゆく。

    〇うで上げて カレンダーめくり  9月来る   mycmpot7

  • 〇夏祭り 子供の過ぎる  夜店かな

    夏祭りである、夜ともなると子供とともに家族で夏祭りに出かける。

    会場では明るい光と大きな提灯などが祭りを盛り上げている。

    一家で夏祭りに出かける。

    しかし会場についても子供たちは夜店の食べ物にはあまり関心がないようである。

    子供たちはそこに留まろうとするのではなくある思想的な役割を担っているのである。

    親から子供へ伝わる血筋、子供はこの血筋をうながすかのように夜店を後ろに見ながら過ぎ去ってゆく。

    親は子供を見るし子供は親を見る、この血によってつながっている人間の関係こそが原点である。

    親は祭りに行っても子供を見ているし、子供も親を見ている、それが子供の行動となっている。

    〇夏祭り 子供の過ぎる  夜店かな

  • 〇走り過ぎ 走り過ぎても  果てはなし
           だたひとつだけの  メダル夢見て

    男子100m×4 リレー  銀メダルおめでとう

    この銀メダルは技術的に言えばバトン受け渡しのチームプレーがすばらしかったためのメダルだろう。

    個人よりチームとしての力が素晴らしい力を発揮したからこそメダル獲得となったのであろう。

    ところで今回のリオデジャネイロオリンピック、日本人のMVPは誰だろうか、こういう話は飲み屋の話題としては面白い。

    まず体操の団体と個人総合で金メダルを取った内村、そして卓球で中国人を10対10のジュースから勝利した水谷

    レスリングで4連覇した伊調、そして男子100m×4リレーだろう。

    私が一番感動したのは中国に勝った水谷だが、涙したのは萩野の400m個人メドレーで最初の金メダルを取ったことである。

    日本人はねばりが出てきたし簡単には負けない力がついてきたのではないだろうか。

    卓球の水谷やテニスの錦織女子レスリングの決勝など逆転で勝っていることがそれを明らかにしている。

    日本の力は逆転も可能な真の底力として発揮されていることが過去最多のメダル獲得につながっているのである。

    4年後の東京オリンピックでは真の王者としてメダル獲得に邁進してもらいたい。

  • 〇帰省車で  子供の切符  確かめる   mycmpot7

    お盆で帰省する車中、こだまか、のぞみか、ひかりか、

    子供は幼稚園年長か小学校一年生くらいか、親は35歳くらいか、ふるさとへ帰省する車中、

    特急の乗車券と特急券を子供に渡して、車掌さんが来たらこれを見せるんだぞといって子供に切符を渡している。

    しかし、高い乗車券であるためもし子供が放ったりなくしてしまっては困るため、切符を持っているかと聞いて子供

    が切符を持っていることを確認する。


    〇餅ひとつ  食ってのぞみと  したためリ   mycmpot7

    のぞみというのは新幹線、当時は最新鋭の技術を詰め込んだ最速の新幹線であった。

    餅ひとつ食うというのは正月の祝いの催しのひとコマである、この餅を食うひとりの男が男としての生命を主張しているという図である。

    自分が生きていることをだれも打ち消すことはできないという生命の強い主張となっている。

  • 日本国憲法
    第一章  天皇
    第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく。

    天皇陛下は生前退位の意向を示された。

    ご高齢のため象徴としての任務が果たせないかもしれないというお考えであった、これについては天皇のご健康を案じるとともに、

    この発言は天皇の人間宣言とも言えるものであると感じた。

    この天皇の人間宣言は昭和天皇が戦後1946年に発せられたものであるが今回の生前退位にも天皇の人間宣言というお考えを感じられる。

    天皇の憲法一条に定められている象徴ということを考えると、

    天皇も人間であるのかという問題につきあたってしまい、

    今回の天皇の人間宣言は憲法に沿っているのであるかということも考慮されなければならないこととなる。

    天皇は今の憲法では象徴である存在であり人間としての規定とは別であるとされているといっていい。

    これは憲法の象徴としての問題と同時に陛下のご健康という問題についても考える必要がある。

    私としては憲法に規定される象徴という立場よりも陛下のご健康をまず第一に考えるべきであると思っている。

    もし必要なら憲法の改正も考えてみるべきだろう。

  • 男らしい女らしいということが昔は問題となっていたが、今はそれほどの問題とはなっていない。

    生まれたときは男か女かではっきりしているがだんだん大きくなるにつれてはっきりしなくなっている。

    しかし問題が消えたわけでなく男らしく女らしくはずっと問われている問題である。

    男女平等にかき消されて男らしく女らしくよりも問題をすり替えて政治経済の問題に行き着いている。

    昔の男らしさというとまず自らが他の男に勝って優勢にことを進める、そのために根性や忍耐は男らしさを表す言葉であった。

    こういう個人に属する問題に変わって問題になっているのが情報である。

    昔のようなテレビやラジオに加えてネットやSNSなどの情報が問題としてとってかわっている。

    今おおいに流行っているポケモンGOなどは現実と仮想がぶつかり仮想が勝ちそうな勢いになっている。

    もはや情報は個人の男であるか女であるかということを飛び越えて異次元の架空の世界での実在を認めようとしているかのようである。

    この情報による異次元の世界での問題に翻弄されているのが実情である。

    一方このような問題に参加できないものや身体的な問題をかかえる老年者や障害者は問題の外におかれて無視されてしまうようなことが起きているのである。

    人間は男か女かで生まれそれによって男らしさや女らしさを身に着けていくのでありこれを無視したら勝手な暴力こそが男らしいなどと勘違いしてしまうことも起きる。

    問題は「男らしさとは何か」ということのほうかもしれない、男についての男らしさがまったく無視されているため結婚して子供を育て一家を養うことが男らしいことであるということが忘れ去られ無視されてしまっているのである。

    「おれは男である」この自覚が必要である、ここから自らの生き方が決められるべきである、男らしいと。

    男であってもいろいろな生き方があるからそれは自由であることは許されている、しかしそれは男としての生き方であることを自覚する必要がある。

    ここが一番必要なところであって女の女らしさに合わせる必要はなく、男としての生き方であると自覚することが必要である。

    もはや男らしい女らしいなどは大きい情報の問題とはなっていないが、

    「男である」として生きていることはことは自分がわかるべき最大の問題であると言える。

  • ○ひまわりの  畑にそろう  処刑の日   mycmpot7

    ひまわりはひまわり畑で見ることが多い。

    そこではたくさんのひまわりが咲いていてその畑の風景が感動を与えて人を呼ぶ。

    このひまわりの咲き乱れている風景は普通のこじんまりとして小さい花をつける植物とは違う、

    むしろ異様に花の大きな異様な風景とも言っていい。

    ゴッホのひまわりや映画のひまわりが思い出されるがこれらは決して一様な幸福の風景ではない。

    むしろ茎に比べてあまりに大きい花は、ひまわりは処刑を待っているのかとさえ思わせるものである。

    あの大きい花をギロチン台に差し出してあっと言う間に花を切り落とされるような危険さをはらんでいる。

    あのひまわりの大きい花は自らの処刑をも覚悟した異様な風景の中に花を咲かせているかのようである。

    どこかで処刑が行われた日、ひまわりは自らの運命をそこに重ね合わせるかのように畑で咲き連ねている。


    ○ひまわりの  畑にそろう  処刑の日   mycmpot7

  • 花火大会の季節になってあちこちで花火大会が開かれている。

    これからお盆過ぎまで花火大会があちこちで開かれて夜空を賑わわせてくれる。

    現代は昔と違い花火大会を見るにもいろいろな用事を考えてその中から時間を作り出さねばならないようになり昔とは違う。

    またテレビでもネットでも全国の花火大会の情報が流されていてその地域の特有の花火の時間はそれ以外の花火の情

    報に浸食されてのびのびと花火大会を味わう余裕がなくなってきている。

    時代の様相は昔とはだいぶ違ってきていて現代は日常の用事に忙殺されて花火大会に遅れて駆けつけて見るようなことも起きている。

    ○轟きて 駆けつけて見る  花火かな    mycmpot7

    花火大会の花火の音を聞いて始まったと駆けつけて見るようなことも現代では普通のことである。

    昔の芭蕉の時代ではもっとゆっくりとした時間が流れていたのであろう、有名な

    ・五月雨を あつめて早し 最上川
    ・五月雨の 降り残してや 光堂

    これらのすばらしい句は芭蕉の生きた江戸時代の現在であったはずである。

    そして、時間は自然の息吹と等しい速さで息づいていただろうことが想像できるのである。 

    現代はゆっくりと自然と向き合うような心の余裕はなく情報がその代わりに人を動かしせっぱつまった時間に追われているような時代である。

    花火大会も昔のような余裕を持ってみることもなく時間に追われて駆けつけて見るようなことになってしまっている。

    花火の始まった音に気が付きあわてて花火を見に行くようなことが普通になっているような時代である。

    ○轟きて 駆けつけて見る  花火かな   mycmpot7

  • 人間は何のために生きているのか。

    生きるとはどういうことか、こういう人間に共通の問題があって、さらに言うなら生命は何のために誕生したのかという問題にも発展する。

    問題というものはささいな日常から地域や会社など人間が集うところでは必ず発生する。

    人間の最大の問題は何か、戦争と平和も人間の取り組む大きい問題である、

    しかし、日々の生活ではさらに深刻な問題があってそのほうが切実な問題となってしまう。

    いっそすべての問題を捨てて日常を考えてみたいのであるがこの情報化社会ではそれも難しい。

    すべての人に共通な生きている意味などは不可能であって、人間は何のために生きているのか、という問いは情報化社会とはまったく違う問題の提出となる。

    しかし現実は、自分の生きたいように生きることが認められていて、それが可能な社会となっている。

    生きるということを最も有意義なものとするためには、生まれていないことと死んでしまっていることも考えなければならない。

    生とは生み出されてから死んでゆくまでの一時期に過ぎない。

    私が生まれる前にはすごく多くの人が生きていて今につながっているのであるし、

    私が死んだあとも多くの子孫がまた新たな世界を作っていくことだろう。

    人間は何のために生きているのか、解決したい問題ではある、しかし、

    この問題を解決するためには脳が使われていない、この情報の飛び交う世界に生きるためにはもっと脳が使われなければ解決できない。

    そのためには脳にもっと栄養を与えなければ対応できない、脳にもっと栄養を!!!

    この事態を解決するために脳にもっと栄養を与えさらに脳を働かさなければ問題は解決できないのである。

    問題とは忘れ去るものである。

  • いじめはいじめの問題として発覚するのが、いじめられる者の訴えによって成立するということがある。

    いじめか、いじめでないかはいじめられるものの問題の発生によってでしか明らかになっていないのである。

    つまり、いじめるものと、いじめられるものという存在によって、いじめ問題が発生しているのであって、

    ここに第三者の「いじめである」という断定をするものがいない、これがいじめの最大の問題である。

    いじめはなるべく早くにいじめであるという認定がされるほうがいじめがエスカレートすることを防げる。

    このいじめであると断定する第三者は学校なら先生であるし、クラスメートであるかもしれない。

    実際に起こっているいじめをいじめであるということを断定する第三者がいないことが問題である。

    そのような、いじめという問題を認定する第三者が存在しているということが、いじめという問題がエスカレートすることを食い止める力となる。

    いじめは普通の日常にも存在している、ただそれは法律という第三者が監視しているからエスカレートしない。

    日本は法治国家であるからすべてを法律によって決められる、それが、いじめということを認定するような第三者としての存在となっている。

  • ・信じることと知ること

    問いとしての最高の問いとしてもいいではないか、これは小林秀雄が「信じることと知ること」という評論で問題としていることである。

    この問題で、「犬は人を信じているか」と問うてもいい。

    小林秀雄は貧乏な炭焼きの子供を取り上げて信じるということを子供が親をおもう心としている。

    陰謀な炭焼きの子供は父親の苦しみに同情して斧を父親に差し出し父親が子供を殺したという事件である。

    子供は本当に父親を信じて斧を差し出したのか、あるいはその父親を信じることの不可能を訴えたかったのか、とも

    かく父親に斧を差し出し父親によって殺されたのである。

    一方で知ることというと「万人が知るように知る、信じることはまったく個別である」小林秀雄

    情報化とは万人が知るように知ることであることである。

    情報をもとにした政治と、信じることの不可能を悟った子供を考えてみると今の事件の背景がわかる。

    問題は次のようなものである。

    信じることと知ること

    そして信じることは人間にとって大切な問題であるということを認識することである。

    真実は隠されているかもしれない、しかし、だからといって人間は知によって人間の死を定位することはない。

    犬は人間を信じている、あるいは信じようとしている、それは難かしい問いといってもいい。

    ・信じることと知ること

    という問いとしてである。

  • >>114

    人工知能が優れた能力があると宣伝されているが、

    人工知能は「もてない」という問題には関心を示さないだろうし解決しようともしないだろう。

    それどころか人間の欲望だとして排除して人間の身体を亡きものにしようとするだろう。

    それは目にみえていることで人工知能の発達は人間滅亡への道を行くことになってしまうんではないか。

    人間には欲望がありこれが生きていることの証でもあるので人工知能はこの欲望を抹殺することがないように、

    人間の知能の範囲に留めておくべきではないのかと思う。

  • >>113

    「もてない」の区分

    50歳以上と50歳以下、50過ぎたら「もてない」50以下は「もてる」

    現実を直視した場合、若いものに花を持たせる思想はこれしかない。

    若い奴は「もてる」つまりいっぱい子供を産んで少子化の問題を解決してよ、50過ぎたらもういいよ。

    「ありがとう」つまり家庭があって子供がいる50以下の平均的な仮定、これは「ありがとう」だろう。

    しかし50過ぎたらもう「もてない」でいいんじゃないか、もうもててもしょうがない。

    50過ぎたら「もてない」になる、それまでに「もてる」ときに結婚して子供を生み育てる。

    それによって少子化は解決する。

  • 「自然は厳しい」という問題に対してこの問いが成立するかどうかということがあって、政治や経済の問題と同じよ

    うに問題として成立するかどうかというlことがある。

    この問題の成立の前に厳然とそびえ立っているものが現実と言語の問題である。

    たとえば桜の花は美しいが、このように言葉にしたことによって桜の美しさから離れてしまうのだ。

    「美しい花がある花の美しさはない」桜の花から離れることは桜の美しさを失うことになるのである。

    しかし、これを問題とすることはやめよう。

    「ありがとう」である、言語が言語として成立してしかも生きていることに直結する言葉である。

    すべての人が「ありがとう」によって自らを決めてゆくことができることが理想である。

    しかしその前に現実的に問題としなければならないことがあるのである。

    それは「もてない」という問題である。

    「もてない」というのは男や女が異性に好かれない状態であるがこれは実は個人的な問題にもなってないし言語の問題ともなっていない。

    しかしこれが最大の問題である。

    現実でもっとも大切な問いはもてるかもてないかということであり、これは「もてない」という問題に結実することになるのである。

    これは現実と言語をつなぐ問題であるが実は言語的な問題として現実に投写されるのである。

    つまり言語と現実をつなぐ大切なふたつの問いがある。

    「ありがとう」 と

    「もてない」

    という問いである。

    〇現実は言語の集約へと飛翔するのである、つまり、言語は現実を投下しているのである。

    「もてない」という現実は「ありがとう」という言葉へと飛翔するべきである。

    それによって世界が平和へと導かれるはずなのである。

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