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自然は厳しい

自然は厳しい

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    mycmpot7 1月19日 19:14

    私とは何か

    私とは「私」という言語であって、私と他人は言語的な差異であるがこれは生きている身体的な生物としての差異であるに過ぎない。

    私という生物と他人という生物が違うのは明らかであり、こういう「私」の使い分けができているのが実は現実である。

    それぞれの私を私ごとに記憶して私という人物をちゃんと記憶している、

    つまり他人と私との区分ができているのである。

    言語はどのように私にかかわっているか、私は努力をして人より抜きん出る存在になるべきか、

    与えられた私はそれぞれに違う。

    「私」という言葉で私の違いを明らかにすることはできない。

    私という言語にやられているのが実は動物的な私という存在である。

    真実は私になるか私を放棄するのかということであって、

    言語的な差異ではなく動物的なサバイヴァル、生き残り政策の展開なのである。

    言語は深い事実でありこれを捨て去ることは人間でなくなることだ。

    つまり、私は言語である私になりたい、それは本来の私というものを捨て去り言語である私になろうとする試みに他ならない。

    私とは他者である   言語とは捨て去られるべきであるが捨て去れないものである。

    私とは何か

  • >>144

    時間の縦軸が実は隠された次元であって私たちはその真実を願っている。

    時間は過去から未来に向かって流れる横方向のものであるがもうひとつ隠されているのが時間の縦方向の次元である。

    歴史は過去から未来へと流れる横方向の流れによって成立している。

    歴史ドラマが何年も続いてゆくことは過去を検証することによって成立している横方向のドラマである。

    ところが時間が縦に流れる物語がある、それは自分が生きてきたものがたりとしての歴史である。

    これは横方向の歴史とはひとつにならない物語であって、いわば歴史の年表に縦に交わるのが人の人生だと考えられている。

    これはなるほどと思えるが真実とされているのは遠い歴史年表の真実に過ぎないのである。

    ここに隠された時間の次元があるのでありこの隠された真実を明らかにすることが人間の進歩につながるのである。

    この新しい時間の発見が時間の縦軸であるのである。

    テレビゲームもSNSもインターネットもその問題に取り組んでいるといってもいい。

    隠された次元があるからだ、世界の困っている人に食料や支援物資を簡単に供給できる世界である。

    すべての人が思い考えている世界の実現が可能になる、テレビゲームでは実現している世界である。

    世界は隠された時間の縦軸にチャレンジしているのである。

    そういう意味で今の私たちの世界はは時間の縦軸に対してのチャレンジャーであるということである。

    時間は歴史年表のように横にだけ流れるのではなく隠された縦軸があるということである。

    それが世界の流れになっているのである。

  • 〇私たちは何のために生きているのか=私は何のために生きているのか。

    この「私たち」と「私」という差異に私の生きる人生がある。

    実は「私」は「私たち」をわかっているのであるが私にはその力がない、それならばどうするかということが私の人生になっている。

    この「私たち」の共通の思いであり願いはすべてのひとが幸せになることであり、すべての「私」がその願いをわかっているのであるが、

    自分には何もできない、「私」は「私たち」には飛躍できないでいるのである。

    私たちは何のために生きているのか。

    まったく限定した人生こそが私が、また私たちが選択した生き方である。

    なるべく限定された人生を生きる、それは「私」が選択した人生であるが実は「私たち」の生き方でもある。

    「私」は「私たち」に問う、「私たち」は何のために生きているのかと。

    答えはない、しかし、その問によって私は私の生きる道を決めているのである。

    それが「私たち」に通じている「私」の生きる道であることを信じているからだ。

  • >>145

    〇私たちは何のために生きているのか=私は何のために生きているのか

    この問題の相違である「私たち」と「私」の問題を等価してひとつの問題とすることは簡単だ。

    つまり、私は生きることに死ぬべき寿命がありある限定された存在であるという規定である。

    一方に「私たち」という命題があるがこれは人間が生まれてから死ぬまでの寿命を考えたら同じ質問になるのである。

    「私は何のために生きているのか」この疑問に答えるためには、私が死ぬということを前提にしての生きる生き方であるはずである。

    この「自分が死ぬ」を誰でもが死ぬということに広げた時に、「私たちは何のために生きているのか」という問が可能になる。

    生命は生まれてから死ぬまでの限定的なものであるが、言葉は人間の生命を超えて真実を伝え続けるのである。

    私たちの認識すべきことは私たちの生きていることは私を超えたものに依存しているということである。

    私は何のために生きているのか=私たちは何のために生きているのか

    この問題の根本はただひとつ、人間には寿命があるという認識によって解決できる。

    「私」も「私たち」にも寿命があり言語的な差異はない。

    ただひとつ、「私は何をするべきか」、このように私は成立する、言語的な問題ではない。

    私たちはそのような何をするべきかという問題にかかわっているんもである。

  • 私たちは何のために生きているのか。

    私たちの生きる最大の動機は、私たちが生まれて言葉を覚えた時の決意にさかのぼる。

    私たちは赤ん坊としてこの世に誕生して、言葉を覚える段階に突き当たる。

    この時生きようとする決意を持って言葉を覚えようとしたのである。

    その決意とは問題を解決しようとする決意である。

    しかし、赤ちゃんが、その後生きてるうちに問題の解決がとてつもなく難しいと感じていて現在に至っているのが現状である。

    私たちが生まれて解決しようと思った問題とはお母さんとお父さんを含む環境の問題であったが解決はむずかしい。

    それで私たちはその解決の方法を模索しているのである。

    私たちはある生きようとする決意によってこの世に生きている、しかしその決意を忘れて問題の紛糾によって生きようとする意欲がなくなっているのである。

    私たちは幼児の頃、この世の問題を解決しようとしてこの世で生きる決意をしたのであるが、

    生きてみると問題の解決は容易ではないことに気づいてしまう。

    この生まれてから言葉を覚える段階で決意したこと、それは問題を解決しようとする決意である。

    しかし、その決意はいまだに解決されていない。

    ただ「平和」のために自ら設定した問題を変更できるかどうか、

    私たちは何のために生きているのか、平和という理念によって私たちの問題は変更される必要がある。

    私たちは生まれてから言葉を覚えるときに言葉を覚えようと決意をした、問題を解決できると思ったからだ。

    しかし、生きてみると問題は解決するのが難しいと知るのである。

    生きるためにはどうするか、問題自体をを変更する必要がある、そのための方法が模索されている。

    未来は過去の幼児が生きようしとた問題の解決のために、

    新しい問題への変更のために、新しい問題を探しているのである。

  • 時間の縦軸

    時間には過去から未来へ流れる方向があり、年表にあらわれるように横方向に一次元のように流れているのが時間の考えである。

    空間には縦と横と高さがあり3次元として認識できるし、縦と横だけの2次元もわかる。

    ところが時間だけは過去から未来へ流れるような一次元に限られる。

    時間に縦方向があれば時間の2次元であるがそれはわかっていない。

    時間の縦方向といえば、年表ではない個人的な思い出のよう想像的な世界の実現というようなものが考えられる。

    ご先祖様は歴史に縦方向に交わる異なる時間軸である。

    しかし、空間の3次元に等しい時間の次元は隠されている。

    謎はどのように見出すべきかもわかっていない、あるいはさらなる時間を待たなければ解決できない問題かもしれない。

    時間の縦軸が歴史である横軸と交わる時が、隠された次元が明らかになる瞬間だ。

  • 最近は宗教の問題がよく取り上げられている。

    キリスト教、イスラム教、仏教、etc.

    日本には昔からすばらしい自然があった、四季があり水は豊富で自然は食べる恵みを与えてくれた。

    このような自然を崇拝するところに日本の宗教がありそれは今も続いている。

    自然は災害ももたらすから怖いものであるがそれと同時に恵みももたらしてくれるのである。

    イスラムで誕生したキリスト教やイスラム教には自然が介在していないから人と人との関係によって世界を成立させようとするしそこに人をおろそかにする悪を規定するようになっている。

    日本では自然の豊かさがあるからそんなに悪くならないし人に対しても寛容である。

    日本の神様は自然に宿っていて木も山も御神体となって神社に祀られているのである。

    つまりキリスト教のもたらすような個人の幸福を保証するような宗教ではなく、

    自然のもたらすみんなの幸福が、自然をバックボーンにして成立しているからである。

    自然は厳しいが恵みももたらす、そのような思いが日本人の根源的な思いであり、

    他のキリスト教やイスラム教徒は異なる宗教として成立しているのである。

  • ・性善説と性悪説

    人間の生まれながらの性質を善か悪かと決めるのではなく、

    相手に善として向き合うのか悪として向かい合うのかという違いである。

    先日安倍首相とプーチン大統領が会談したが、KGB出身のプーチンとの善悪の会談をしたように思う。

    政治家は経済人と異なり国民の安定と世界の平和を実現できる人であるはずである。

    それが真の政治家というものである。

    ところが政治家というものが今は経済人の都合のいいように政策を決める傀儡になってしまっているのである。

    善意はおもてなしであり経済を超えた真実であるが、もはや政治家のあるべき姿とはなっていないのが現実だ。

    この場合に欲を善とはいえないところに問題があるのであって、

    欲にとらわれている人間は善とはならないという究極的な性悪説が敷衍する。

    あほな、ばかな人間、欲もあるしもっと良くなろうとする、人間は動物になろうともするし神にもなろうとする。

    私になろうとするし、みんなにもなろうとする。

    しかしわからない、問題は放棄して、眠るしかない、明日への活力のためである。

    真実は隠されている、厳しい道を行くしかない、それが生きるということである。

  • 秋の句

    〇隅田川  落葉の浮かぶ  河口かな   mycmpot7

    勢いよく流れてきた隅田川も秋になると落葉を乗せて東京湾に注ぐようになる。

    夏の俳句といえば芭蕉の

    ・五月雨を 集めて早し  最上川   芭蕉

    冬と言えば

    ・一月の川一月の谷の中    飯田龍太

    5月といえば

    ・目には青葉  山ほととぎす  初鰹   山口素堂

    季節は躍動しているように見えるが果たしてそうだろうか、情報は季節ではなく憂鬱な事件を伝えてゆくのみである。

    季節はもはや地獄の季節となってしまったかのようである。

    日本人にとって春や夏は感じることできる素晴らしい季節であるが、秋はどうにもむずかしい季節である。

    まず夏に比べて気温が下がったことと、どこかで始まった紅葉の情報に鋭敏になるくらいである。

    秋を象徴するようなうたが必要だ。

    ・これがまあ終の栖か雪五尺   小林一茶

    これは、季節は移ろい夢は敗れる、しかし生きてゆく栖は残っている、生きよう、これがまあ、

    季節は冬、2メートルの雪が積もっている、これがまあ、と 決意をした、生きようと、これがまあ、

    季節は雪が積もる冬である。

    〇雪のけて 昇る稜線  初日の出   mycmpot7

    昔 冬山へ行った時の記憶である。

  • 〇欲の容認

    欲は生きている人間すべてにあるものである。

    この欲を調整することが平和につながるかというとそうではない。

    ・世界は個人の欲を否定したことによって成立しているのである。

    軍隊というものは個人の欲を超越した国家のためのボランティア団体と考えられている。

    日本はかっての戦争ですべての欲をほうむって国のためにつくすボランティアに徹したしそれを強要された。

    つまり勝つという国の欲は容認されるが個人の欲は排除されたという時代であった。

    欲は個人につきものであり食欲、性欲、金銭欲は個人に帰する大切な欲望である。

    平和の実現の原点はこの欲をどのくらい制御するかにある。

    日本は平和で豊かな国であるため、電気ガス水道のインフラは整えられていて、この欲はかなえられている。

    そして、企業は消費者の欲望を大きくすることに一生懸命だと言っていい。

    新製品や改良された製品が新製品として制作されて市場の流通に配られてゆく。

    そのためには消費者の購買意欲を高めなければ商品は売れないことになるから広告によって商品をアピールする。

    お釈迦様は人間を苦しめているのは欲であると言った、そうだろう、

    しかし、すべての欲を排除しなければならないかというとそうではないし、問題はそのことではない。

    欲をどのくらい制限するかという問題である。

    自分の欲のために人のものをとったり、人をだますようなことは行き過ぎであることはあたりまえである。

    自分の欲をどのようにするかということは決めることはできないし、制限はない。

    自分の欲をどのように容認するか、ある守るべき制約の中で決めてゆく、それが必要なことである。

  • ゆっくり上げる。

    ゴルフのスイングの話、バックスイングでゆっくり上げることはむずかしい。

    バックスイングをゆっくり上げる場合には右の腹筋とインナーマッスルに力がたくわえられる。

    この蓄えられた力が強いヘッドスピードにつながるのである。

    簡単に手で上げてしまっては体に力が加わらないため飛ばない。

    バックスイングではヘッドはゆっくりと右回転をして蓄えられた力はインパクトでアドレスの位置に戻る。

    これが体を使ったスイングの基本である。

    筋肉はこのスイングの願いをかなえてくれる力がある。

    パーオンしたいという願いが筋肉の力によって実現する。

    距離と方向の一致、この頭脳戦略に筋肉が答えてくれる方法がクラブをがゆっくり上げることにある。

    そうすることによって腹筋がスイングの力となるのである。

  • 20ヤードのアプローチではフェースは返さない。

    アドレスで構えたフェースの開きをそのまま保ってバックスイングをする。

    この時にフェースがまっすぐになっていなければボールはまがるかシャンクになって右に飛び出してしまう。

    このフェースの目標に対してまっすぐな構えはリーディングエッジにではなくトップブレードを目標に対してまっすぐにすることにある。

    20ヤードという短いアプローチで、SWのランニングアプローチの場合はトップブレードで目標に合わせるから真っすぐになる。

    スイングは遠くへ飛ばすスイングと近くに寄せるスイングがある。

    遠くへ飛ばす場合はバックスイングでクラブを開きインパクトではヒール側からボールをとらえる必要がある。

    短いアプローチではフェースはターンせずアドレスで構えたフェースの位置をインパクトでも再現する。

    ゴルフのスイングというのは、まったく簡単にパーオン出来るレベルがあるし、それですべてパーならハンディは0になる。

    方向と距離が一致することでスイングは簡単になる。

  • リージングエッジではなくトップブレードを目標に合わせる。

    これはゴルフの話、目標に向かってアドレスしてリージングエッジを目標に合わせてしまうとクラブフェースは開いている。

    これで目標にむかって正しい方向で打つのは大変だ。

    アプローチでのグリーンから20ヤードのところでもリージングエッジをフラッグに合わせたらフェースは開いていて目標を指していない。

    フェースを閉じてトップブレードで目標に合わせてこそ真っすぐになるのである。

    フェースはバックスイングでフェースが開かれて上がってゆく。

    そこで右手首は甲側に曲がる、このヒンジカクを保ったまま下半身を主体に上半身がひねられる。

    クラブはアドレスで構えた位置に降りてくる、フェースが開いていればボールは右に飛び出すわけである。

    アドレスでフェースが開いて構えればまっすぐに打つためにスイングにブレーキがかかってしまうのである。

    グリーンに近いアプローチでためしてみたらわかる、トップブレードで方向を合わせることがまっすぐになるということである。

    体はまっすぐに飛ばすためにいろいろな苦心しているのである。

    まずどうあれば体がまっすぐに距離を出すような強いスイングができるのかを考えてみる必要がある。

    フェースのまっすぐとはトップブレードのまっすぐで構えること、それがバックスイングで右手が甲側に折れたまま振り下ろすヒンジカクを保つスイングでのまっすぐになるということ。

    トップブレードを平行に構えると、リージングエッジは閉じられて左側を向いている。

    しかしこれが目標に対してまっすぐなのだ。

    練習場でもぜひためしてみてもらいたい。

  • ・自由の共有と責任の共有

    自由も責任も個人に帰すことであり、特に責任は個人を特定して責めようとする。

    個人責任論とはすべてを個人の責任に帰そうとする考え方であるが、この個人に対する責任の解決とは、

    責められた人が死ぬしかなくなるような悲劇的な結末となってしまう。

    昔の軍隊では連帯責任というものがあり、誰かが犯した罪を班全体で負うのであり全員が殴られたのである。

    この責任だけを問うやり方だと、自由の方は殴った上官のほうにだけ帰属するようなことになっていた。

    しかしここになかったのは、共有の自由であり、共有の責任だけが強調されていたのである。

    自由はその先にある、だから今私たちは自由を共有できるのである。

    責任は私にもあるし、みんなにもある、それが責任を共有することであり、その先にみんなの自由がある。

    「いいじゃないか」「許してやれよ」こういう言葉によって責任を個人から開放して、責任を共有する。

    その先にあるのは自由を共有することである。

    個人でもそうである、責任を自覚することによって自由にもなる。

    人を責任者として責めることには、自らの自由を閉ざすことになるだけである。

    自らの自由には責任がつきまとう、責任はそこだけにある、自らの意志によった自由の選択にだけ責任が課される。

    責任は押し付けられるものではない。

    かっての責任は、自由を見失った劣悪な方法を押し付けようとしたものに過ぎない。

    失われているのは自由である、何をやってもいい、そこにだけ責任があるのである。

  • 自由と責任

    責任の問題は難しい、だれが責任者であるかということが大きい関心事になっている。

    これはある場所にとどまって自由を行使できない状況を想像しているからである。

    責任は自由な意志によって発生するものであり、その自由な行動によって責任が発生するのであり、

    責任だけが問われることはないのである。

    この責任の問題は難しい問題であるが、これが自由な選択によって発せられることを見失うと単なる義務をはたしていないとうことになり糾弾される。

    まず日本人は自由であることを認識するべきだ、そこに始めて責任という問題が発生するのである。

    特殊な犯罪者のなかには自由を行使するために犯罪に走る者がいる。

    何をやっても自由であるがそこに責任が発生するのである。

    何をやっても自由、そこに目覚めるべきだ。

  • 道なき時代

    道というのは道路でもあるし。人の生きるべき生き方としての道もある。

    徳川家康は天下を治めるため道を整備して、東海道、甲州街道、中山道、日光街道、奥州街道の五つの街道を作った。

    この場合の道は徳川幕府を危険から避けて安泰な政権にするために道を作ったのである。

    道とはある地点からある地点へと移動するために絶対に必要な交通手段であるが、現代ではどうであろうか。

    道はいたるところに張りめぐされていて便利になったが、道が失われてしまった。

    道があるが道がない時代、日本全国は道路によって張りめぐりされて道がありすぎて歩くべき道がなくなってしまったのである。

    昔は道を歩くということは命がけであったのであり、それでも目的地に行きたいという思いがあったからこそ道には強い存在意義があったが、

    現代の道は使える道具に過ぎないし、単なる交通手段になってしまったのである。

    道とは昔は目的地に向かうために命がけで歩いたから関所もあり、

    それにともなって安易に行き来できる交通手段ではなかったのである。

    だから道が人生とも重ね合わせて見ることができたのではないだろうか。

    道なき道とは現代の、道が張りめぐりされている時代だからこそ明らかになる。

    山道を登ったりや川に沿ってさかのぼるなど、休日にゆくところには目的地に着くための道がはっきりと現れる。

    道なき時代とは道が張りめぐりされている現代にこそ、逆説的に明らかになる 道 の不在、

    目的地のない張りめぐりされている道路にこそ、 道 なき時代がはっきりと示されている。

  • 言語的な成立と現実

    言語はあらゆることを可能にする。

    たとえば、「私は男である」「私は女である」という言語は現実に男であっても女であっても言えることである。

    私は男であるが「私は女である」ということは言語的に成立する、

    しかし現実には男であるので「私は女である」と言うことは言えないことになるのであって、現実はこのように成立している。

    しかし、性格に関して「私は優しい」ということは、そうであるとも言えるし、そうではないとも言えるため現実的にははっきりとは、違うとは言えない。

    言語はいじめにも使われていて、「おまえは馬鹿だ」ということがまずいじめの始まりに使われる。

    克服するべきはこの言語的な問題なのであって、あらゆる言語的な問題に答えることが求められている。

    言語はあらゆることを成立させる。

    「人間は何のために生きているのか」  これは言語的な問いである。

    「私は何のために生きているのか」   これも言語的な問いである。

    人間とすると、過去から生きてきての私が生きている、そしてご先祖様からつながったこれからの子孫も問題になる。

    「私は何のために生きているのか」これが近代の言語的な問題となっているが、「人間は何のために生きているのか」これも等価である。

    言語はあらゆることを成立させることができる別次元である、現実はそのなかから現実を選択しているに過ぎない。

    言語は私たちが個人で生きていることが正しいとも間違っているとも言っていない。

    しかし私たちの賭けともいうべき願いは、言語を超えた真実に至りたいということである。

    私たち人間の生存を宇宙で保証してくれるものは何もない、

    言語だけが人間の生存を超えた真実を伝えてくれる、しかしそれは現実とは全く違う世界であって、私たち人間の知らない言語的な世界が成立しているからである。

    ・「言語が現実を規定するように働くのか、あるいは戦争や運動のような現実が言語を規定するのか」

    真実はいつでも結果としてしか現れない。

  • 軍隊を委託によって頼むこともありえる、会社であれば外注費といったところか、

    難民などにその業務を委託するということもできるかもしれない。

    しかしその場合の審査は極めて厳しいものとなるだろう、まず日本語を分かる必要があり、日本のために命を落とし

    てもかまわないかということをしっかり確認する必要がある。

    軍隊は国家の事業であるが、委託によって成立することができるかどうかこの点は考えてみる必要がある。

  • 軍隊とは何か、軍隊は敵国を攻撃するためにつくられたのではない。

    軍隊は自国を守るためにあるのであって、国を代表する、国を維持するためにあると言える。

    たとえばアメリカの軍隊はアメリカという国を代表して国を維持する働きがある。

    アメリカは多民族国家であり人種の坩堝とも言われている。

    このアメリカを代表して国を維持するのが軍隊の役目である、もしアメリカに軍隊がなくなったことを想像してみたら、国家を維持するのは政治家、アメリカの大統領の役目となり、これは絶対できないことなのである。

    軍隊は強大な兵器という物量によって攻撃して他国を押しつぶすことができるという脅威を与えているからこそ国家を維持することができるのである。

    つまり軍隊こそが国家を成立させているのであり軍隊がなくなった国家は成立しないという前提のもとに軍隊が維持されているのである。

    日本には軍隊がない、日本の国家を表すものは軍隊ではない、総理大臣がその役をになっている、しかも平和的に解決しなければならない使命をになっている。

    日本には軍隊はいらない、軍隊がなくても日本は日本という国家ははっきりと維持できるからである。

    軍隊にはもうひとつの存在意義がありそれは国家の事業であるということである。

    軍人は国家公務員であり国を代表する者となっている、軍隊がなくなったら大量の失業者がでてこれに国家は対応できないし、これは国家の事業の失敗を明らかにするだけなのである。

    戦争がなくても国家は維持されていなければならない、軍隊による国と国との戦争、これも国家の事業であり、これによって国家が維持されていると言ってもいい。

    戦争がなくても軍隊は維持されなければならない、つまり、それが国家の最大の事業であるからである。

    そのためにはたまには戦争を起こさなければならないのか、そんなことはない、軍隊は国を守るという使命によって存在しているのである。

    であるから、戦争は絶対におこしてはならないことであるはずなのである。

  • 日本の防衛上の最大な戦略

    それは日本は核を持たないと世界に宣言することである。

    先日オバマ大統領が広島に来て核廃絶の思いを伝えていった、この時こそがチャンスである。

    防衛的というのは今の日本現状であり防衛はするが攻撃はしないという立場をつらぬいている。

    核は世界で他国を攻撃するために配備されているのではない。

    敵国から自国を守るために核を持つのである、これを核の抑止力という。

    日本は核の被害を受けた世界で唯一の国である。

    日本は核を持たないということを世界に広言するべきだ。

    それが日本の防衛上の最大の戦略である。

    日本は永久に核を保持しないということを世界に言うべきである。

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