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自然は厳しい

自然は厳しい

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    mycmpot7 11月17日 20:55

    秋の句

    〇隅田川  落葉の浮かぶ  河口かな   mycmpot7

    勢いよく流れてきた隅田川も秋になると落葉を乗せて東京湾に注ぐようになる。

    夏の俳句といえば芭蕉の

    ・五月雨を 集めて早し  最上川   芭蕉

    冬と言えば

    ・一月の川一月の谷の中    飯田龍太

    5月といえば

    ・目には青葉  山ほととぎす  初鰹   山口素堂

    季節は躍動しているように見えるが果たしてそうだろうか、情報は季節ではなく憂鬱な事件を伝えてゆくのみである。

    季節はもはや地獄の季節となってしまったかのようである。

    日本人にとって春や夏は感じることできる素晴らしい季節であるが、秋はどうにもむずかしい季節である。

    まず夏に比べて気温が下がったことと、どこかで始まった紅葉の情報に鋭敏になるくらいである。

    秋を象徴するようなうたが必要だ。

    ・これがまあ終の栖か雪五尺   小林一茶

    これは、季節は移ろい夢は敗れる、しかし生きてゆく栖は残っている、生きよう、これがまあ、

    季節は冬、2メートルの雪が積もっている、これがまあ、と 決意をした、生きようと、これがまあ、

    季節は雪が積もる冬である。

    〇雪のけて 昇る稜線  初日の出   mycmpot7

    昔 冬山へ行った時の記憶である。

  • 〇欲の容認

    欲は生きている人間すべてにあるものである。

    この欲を調整することが平和につながるかというとそうではない。

    ・世界は個人の欲を否定したことによって成立しているのである。

    軍隊というものは個人の欲を超越した国家のためのボランティア団体と考えられている。

    日本はかっての戦争ですべての欲をほうむって国のためにつくすボランティアに徹したしそれを強要された。

    つまり勝つという国の欲は容認されるが個人の欲は排除されたという時代であった。

    欲は個人につきものであり食欲、性欲、金銭欲は個人に帰する大切な欲望である。

    平和の実現の原点はこの欲をどのくらい制御するかにある。

    日本は平和で豊かな国であるため、電気ガス水道のインフラは整えられていて、この欲はかなえられている。

    そして、企業は消費者の欲望を大きくすることに一生懸命だと言っていい。

    新製品や改良された製品が新製品として制作されて市場の流通に配られてゆく。

    そのためには消費者の購買意欲を高めなければ商品は売れないことになるから広告によって商品をアピールする。

    お釈迦様は人間を苦しめているのは欲であると言った、そうだろう、

    しかし、すべての欲を排除しなければならないかというとそうではないし、問題はそのことではない。

    欲をどのくらい制限するかという問題である。

    自分の欲のために人のものをとったり、人をだますようなことは行き過ぎであることはあたりまえである。

    自分の欲をどのようにするかということは決めることはできないし、制限はない。

    自分の欲をどのように容認するか、ある守るべき制約の中で決めてゆく、それが必要なことである。

  • ゆっくり上げる。

    ゴルフのスイングの話、バックスイングでゆっくり上げることはむずかしい。

    バックスイングをゆっくり上げる場合には右の腹筋とインナーマッスルに力がたくわえられる。

    この蓄えられた力が強いヘッドスピードにつながるのである。

    簡単に手で上げてしまっては体に力が加わらないため飛ばない。

    バックスイングではヘッドはゆっくりと右回転をして蓄えられた力はインパクトでアドレスの位置に戻る。

    これが体を使ったスイングの基本である。

    筋肉はこのスイングの願いをかなえてくれる力がある。

    パーオンしたいという願いが筋肉の力によって実現する。

    距離と方向の一致、この頭脳戦略に筋肉が答えてくれる方法がクラブをがゆっくり上げることにある。

    そうすることによって腹筋がスイングの力となるのである。

  • 20ヤードのアプローチではフェースは返さない。

    アドレスで構えたフェースの開きをそのまま保ってバックスイングをする。

    この時にフェースがまっすぐになっていなければボールはまがるかシャンクになって右に飛び出してしまう。

    このフェースの目標に対してまっすぐな構えはリーディングエッジにではなくトップブレードを目標に対してまっすぐにすることにある。

    20ヤードという短いアプローチで、SWのランニングアプローチの場合はトップブレードで目標に合わせるから真っすぐになる。

    スイングは遠くへ飛ばすスイングと近くに寄せるスイングがある。

    遠くへ飛ばす場合はバックスイングでクラブを開きインパクトではヒール側からボールをとらえる必要がある。

    短いアプローチではフェースはターンせずアドレスで構えたフェースの位置をインパクトでも再現する。

    ゴルフのスイングというのは、まったく簡単にパーオン出来るレベルがあるし、それですべてパーならハンディは0になる。

    方向と距離が一致することでスイングは簡単になる。

  • リージングエッジではなくトップブレードを目標に合わせる。

    これはゴルフの話、目標に向かってアドレスしてリージングエッジを目標に合わせてしまうとクラブフェースは開いている。

    これで目標にむかって正しい方向で打つのは大変だ。

    アプローチでのグリーンから20ヤードのところでもリージングエッジをフラッグに合わせたらフェースは開いていて目標を指していない。

    フェースを閉じてトップブレードで目標に合わせてこそ真っすぐになるのである。

    フェースはバックスイングでフェースが開かれて上がってゆく。

    そこで右手首は甲側に曲がる、このヒンジカクを保ったまま下半身を主体に上半身がひねられる。

    クラブはアドレスで構えた位置に降りてくる、フェースが開いていればボールは右に飛び出すわけである。

    アドレスでフェースが開いて構えればまっすぐに打つためにスイングにブレーキがかかってしまうのである。

    グリーンに近いアプローチでためしてみたらわかる、トップブレードで方向を合わせることがまっすぐになるということである。

    体はまっすぐに飛ばすためにいろいろな苦心しているのである。

    まずどうあれば体がまっすぐに距離を出すような強いスイングができるのかを考えてみる必要がある。

    フェースのまっすぐとはトップブレードのまっすぐで構えること、それがバックスイングで右手が甲側に折れたまま振り下ろすヒンジカクを保つスイングでのまっすぐになるということ。

    トップブレードを平行に構えると、リージングエッジは閉じられて左側を向いている。

    しかしこれが目標に対してまっすぐなのだ。

    練習場でもぜひためしてみてもらいたい。

  • ・自由の共有と責任の共有

    自由も責任も個人に帰すことであり、特に責任は個人を特定して責めようとする。

    個人責任論とはすべてを個人の責任に帰そうとする考え方であるが、この個人に対する責任の解決とは、

    責められた人が死ぬしかなくなるような悲劇的な結末となってしまう。

    昔の軍隊では連帯責任というものがあり、誰かが犯した罪を班全体で負うのであり全員が殴られたのである。

    この責任だけを問うやり方だと、自由の方は殴った上官のほうにだけ帰属するようなことになっていた。

    しかしここになかったのは、共有の自由であり、共有の責任だけが強調されていたのである。

    自由はその先にある、だから今私たちは自由を共有できるのである。

    責任は私にもあるし、みんなにもある、それが責任を共有することであり、その先にみんなの自由がある。

    「いいじゃないか」「許してやれよ」こういう言葉によって責任を個人から開放して、責任を共有する。

    その先にあるのは自由を共有することである。

    個人でもそうである、責任を自覚することによって自由にもなる。

    人を責任者として責めることには、自らの自由を閉ざすことになるだけである。

    自らの自由には責任がつきまとう、責任はそこだけにある、自らの意志によった自由の選択にだけ責任が課される。

    責任は押し付けられるものではない。

    かっての責任は、自由を見失った劣悪な方法を押し付けようとしたものに過ぎない。

    失われているのは自由である、何をやってもいい、そこにだけ責任があるのである。

  • 自由と責任

    責任の問題は難しい、だれが責任者であるかということが大きい関心事になっている。

    これはある場所にとどまって自由を行使できない状況を想像しているからである。

    責任は自由な意志によって発生するものであり、その自由な行動によって責任が発生するのであり、

    責任だけが問われることはないのである。

    この責任の問題は難しい問題であるが、これが自由な選択によって発せられることを見失うと単なる義務をはたしていないとうことになり糾弾される。

    まず日本人は自由であることを認識するべきだ、そこに始めて責任という問題が発生するのである。

    特殊な犯罪者のなかには自由を行使するために犯罪に走る者がいる。

    何をやっても自由であるがそこに責任が発生するのである。

    何をやっても自由、そこに目覚めるべきだ。

  • 道なき時代

    道というのは道路でもあるし。人の生きるべき生き方としての道もある。

    徳川家康は天下を治めるため道を整備して、東海道、甲州街道、中山道、日光街道、奥州街道の五つの街道を作った。

    この場合の道は徳川幕府を危険から避けて安泰な政権にするために道を作ったのである。

    道とはある地点からある地点へと移動するために絶対に必要な交通手段であるが、現代ではどうであろうか。

    道はいたるところに張りめぐされていて便利になったが、道が失われてしまった。

    道があるが道がない時代、日本全国は道路によって張りめぐりされて道がありすぎて歩くべき道がなくなってしまったのである。

    昔は道を歩くということは命がけであったのであり、それでも目的地に行きたいという思いがあったからこそ道には強い存在意義があったが、

    現代の道は使える道具に過ぎないし、単なる交通手段になってしまったのである。

    道とは昔は目的地に向かうために命がけで歩いたから関所もあり、

    それにともなって安易に行き来できる交通手段ではなかったのである。

    だから道が人生とも重ね合わせて見ることができたのではないだろうか。

    道なき道とは現代の、道が張りめぐりされている時代だからこそ明らかになる。

    山道を登ったりや川に沿ってさかのぼるなど、休日にゆくところには目的地に着くための道がはっきりと現れる。

    道なき時代とは道が張りめぐりされている現代にこそ、逆説的に明らかになる 道 の不在、

    目的地のない張りめぐりされている道路にこそ、 道 なき時代がはっきりと示されている。

  • 言語的な成立と現実

    言語はあらゆることを可能にする。

    たとえば、「私は男である」「私は女である」という言語は現実に男であっても女であっても言えることである。

    私は男であるが「私は女である」ということは言語的に成立する、

    しかし現実には男であるので「私は女である」と言うことは言えないことになるのであって、現実はこのように成立している。

    しかし、性格に関して「私は優しい」ということは、そうであるとも言えるし、そうではないとも言えるため現実的にははっきりとは、違うとは言えない。

    言語はいじめにも使われていて、「おまえは馬鹿だ」ということがまずいじめの始まりに使われる。

    克服するべきはこの言語的な問題なのであって、あらゆる言語的な問題に答えることが求められている。

    言語はあらゆることを成立させる。

    「人間は何のために生きているのか」  これは言語的な問いである。

    「私は何のために生きているのか」   これも言語的な問いである。

    人間とすると、過去から生きてきての私が生きている、そしてご先祖様からつながったこれからの子孫も問題になる。

    「私は何のために生きているのか」これが近代の言語的な問題となっているが、「人間は何のために生きているのか」これも等価である。

    言語はあらゆることを成立させることができる別次元である、現実はそのなかから現実を選択しているに過ぎない。

    言語は私たちが個人で生きていることが正しいとも間違っているとも言っていない。

    しかし私たちの賭けともいうべき願いは、言語を超えた真実に至りたいということである。

    私たち人間の生存を宇宙で保証してくれるものは何もない、

    言語だけが人間の生存を超えた真実を伝えてくれる、しかしそれは現実とは全く違う世界であって、私たち人間の知らない言語的な世界が成立しているからである。

    ・「言語が現実を規定するように働くのか、あるいは戦争や運動のような現実が言語を規定するのか」

    真実はいつでも結果としてしか現れない。

  • 軍隊を委託によって頼むこともありえる、会社であれば外注費といったところか、

    難民などにその業務を委託するということもできるかもしれない。

    しかしその場合の審査は極めて厳しいものとなるだろう、まず日本語を分かる必要があり、日本のために命を落とし

    てもかまわないかということをしっかり確認する必要がある。

    軍隊は国家の事業であるが、委託によって成立することができるかどうかこの点は考えてみる必要がある。

  • 軍隊とは何か、軍隊は敵国を攻撃するためにつくられたのではない。

    軍隊は自国を守るためにあるのであって、国を代表する、国を維持するためにあると言える。

    たとえばアメリカの軍隊はアメリカという国を代表して国を維持する働きがある。

    アメリカは多民族国家であり人種の坩堝とも言われている。

    このアメリカを代表して国を維持するのが軍隊の役目である、もしアメリカに軍隊がなくなったことを想像してみたら、国家を維持するのは政治家、アメリカの大統領の役目となり、これは絶対できないことなのである。

    軍隊は強大な兵器という物量によって攻撃して他国を押しつぶすことができるという脅威を与えているからこそ国家を維持することができるのである。

    つまり軍隊こそが国家を成立させているのであり軍隊がなくなった国家は成立しないという前提のもとに軍隊が維持されているのである。

    日本には軍隊がない、日本の国家を表すものは軍隊ではない、総理大臣がその役をになっている、しかも平和的に解決しなければならない使命をになっている。

    日本には軍隊はいらない、軍隊がなくても日本は日本という国家ははっきりと維持できるからである。

    軍隊にはもうひとつの存在意義がありそれは国家の事業であるということである。

    軍人は国家公務員であり国を代表する者となっている、軍隊がなくなったら大量の失業者がでてこれに国家は対応できないし、これは国家の事業の失敗を明らかにするだけなのである。

    戦争がなくても国家は維持されていなければならない、軍隊による国と国との戦争、これも国家の事業であり、これによって国家が維持されていると言ってもいい。

    戦争がなくても軍隊は維持されなければならない、つまり、それが国家の最大の事業であるからである。

    そのためにはたまには戦争を起こさなければならないのか、そんなことはない、軍隊は国を守るという使命によって存在しているのである。

    であるから、戦争は絶対におこしてはならないことであるはずなのである。

  • 日本の防衛上の最大な戦略

    それは日本は核を持たないと世界に宣言することである。

    先日オバマ大統領が広島に来て核廃絶の思いを伝えていった、この時こそがチャンスである。

    防衛的というのは今の日本現状であり防衛はするが攻撃はしないという立場をつらぬいている。

    核は世界で他国を攻撃するために配備されているのではない。

    敵国から自国を守るために核を持つのである、これを核の抑止力という。

    日本は核の被害を受けた世界で唯一の国である。

    日本は核を持たないということを世界に広言するべきだ。

    それが日本の防衛上の最大の戦略である。

    日本は永久に核を保持しないということを世界に言うべきである。

  • 自然は災害と同時に慈悲ももたらす。

    台風の被害と台風による水の供給は同時に起こる。

    自然のもたらす恵みと自然のもたらす災害、

    これこそ人間を超えた自然の有り様ではないか。

    自然は厳しい、しかしもう一方では自然は恵みをもたらしてくれるのである。

    この偉大な自然に対してできることは人間は達成したいという思いに自然は従ってくれるかということである。

    根性や忍耐という言葉は、厳しさの中から生まれた本当の思いが自然を動かすことができるという信念である。

    人間的なあまりに人間的な、しかしそういう人間の思いを凌駕する自然のありかたが私たち日本人の脅威であるし、

    また感謝でもあるのである。

    自然においては生物の生と死は日常的ことでありこの自然を人間は凌駕することはできない。

    つまり人間も自然に生きている生物に過ぎないのである。

    それこそが人間が生きている最大の要件ではないか、自然はいつでも人間的な思いを越える真実としてあるのではないだろうか。

  • 〇災害は 自然においての 現象だ
       人為によって 回避できない  mycmpot7

    〇災害に あって初めて わかること
      自然とは 無慈悲なちから  そのものだ mycmpot7

    自然で起きる現象によってもたらされる災害は自然という無慈悲な力によって否応なく起こるものである。

    人為によってこれを避けることはできない、このもたらされる恐怖こそが自然の本質に違いない。

    自然は厳しい、そして怖い、この恐怖は人為的なミスによっていかようにも大きくなる。

    予知や予報はこの災害への備えを的確に知らせてもらいたいものである。

  • 〇運動は 行動における  概念だ
       軍隊は 行動における  概念だ  mycmpot7

    運動するとはゴルフ サッカー 野球などの他にも登山やランニングなども運動することになる。

    行動するということは運動とはされていない、歩行 移動 あらゆる日々の行動が含まれる。

    こういう日々の活動は行動するということであるし運動することとは分けられている、活動は勉強したりの知的いとなみも含むが行動は身体を動かすことである、そのなかでも運動はまた細かく分けられている。

    北朝鮮からまたミサイルが発射された、彼らは軍隊を自らの国と他国に認めさせるためにミサイルを発射した。

    軍隊は国防のための行動をしなければ軍隊として認められないから、軍隊を維持するために行動が必要となる。

    単なる軍隊があるだけでは意味がない、

    自国を守るために他国に驚異を与えようとする行動をしなければ軍隊の威力は落ちてしまうからである。

    これは古い軍隊の思想であって、軍隊は行動をしないことが素晴らしいことなのであって、軍隊の出動という非常事

    態はないことのほうがいいのである。

    軍隊は国家の危機事態にそなえているのであって国家の危機事態はないほうがいいのである。

    軍隊が敵を攻撃することはない、軍隊は国の非常事態にのみ行動することが必要である。

    北朝鮮のミサイルは攻撃する軍隊という昔の思想をこちらにうえつけようとする浅はかな試みとしか考えられない。

    〇運動は 行動における  概念だ
      軍隊は 行動における  概念だ   mycmpot7

  • 〇うで上げて カレンダーめくり 9月来る   mycmpot7

    9月になった、二百十日という言葉があるがこれは2月の立春から数えて210日、9月の1日か2日にあたるが

    台風の襲来によって農作物が被害を受ける厄日である。

    昔の9月はこのような自然の作物の発育と同期するような捉え方をされることもあったが今はそのような思いはない。

    秋になって自然はどのような動きになるのかを知っていても現実にその季節の変化を感じることはないような時代となってしまった。

    秋の到来はテレビやネットなどの情報によって知ることが多い。

    秋の訪れもかけてあるカレンダーをめくることによって感じる。

    カレンダーをめくると9と10という月があらわれカレンダーにつけられた写真が秋の風景を見せてくれるのである。

    秋はカレンダーの日付とともにくるとさえ言えるような自然の欠如がそこにはある。

    情報は季節を演出する、自然とはもたらされる情報であって、自然そのものにめぐり合うことはなくなっている。

    カレンダーをめくることによって秋は深くなってゆく。

    〇うで上げて カレンダーめくり  9月来る   mycmpot7

  • 〇夏祭り 子供の過ぎる  夜店かな

    夏祭りである、夜ともなると子供とともに家族で夏祭りに出かける。

    会場では明るい光と大きな提灯などが祭りを盛り上げている。

    一家で夏祭りに出かける。

    しかし会場についても子供たちは夜店の食べ物にはあまり関心がないようである。

    子供たちはそこに留まろうとするのではなくある思想的な役割を担っているのである。

    親から子供へ伝わる血筋、子供はこの血筋をうながすかのように夜店を後ろに見ながら過ぎ去ってゆく。

    親は子供を見るし子供は親を見る、この血によってつながっている人間の関係こそが原点である。

    親は祭りに行っても子供を見ているし、子供も親を見ている、それが子供の行動となっている。

    〇夏祭り 子供の過ぎる  夜店かな

  • 〇走り過ぎ 走り過ぎても  果てはなし
           だたひとつだけの  メダル夢見て

    男子100m×4 リレー  銀メダルおめでとう

    この銀メダルは技術的に言えばバトン受け渡しのチームプレーがすばらしかったためのメダルだろう。

    個人よりチームとしての力が素晴らしい力を発揮したからこそメダル獲得となったのであろう。

    ところで今回のリオデジャネイロオリンピック、日本人のMVPは誰だろうか、こういう話は飲み屋の話題としては面白い。

    まず体操の団体と個人総合で金メダルを取った内村、そして卓球で中国人を10対10のジュースから勝利した水谷

    レスリングで4連覇した伊調、そして男子100m×4リレーだろう。

    私が一番感動したのは中国に勝った水谷だが、涙したのは萩野の400m個人メドレーで最初の金メダルを取ったことである。

    日本人はねばりが出てきたし簡単には負けない力がついてきたのではないだろうか。

    卓球の水谷やテニスの錦織女子レスリングの決勝など逆転で勝っていることがそれを明らかにしている。

    日本の力は逆転も可能な真の底力として発揮されていることが過去最多のメダル獲得につながっているのである。

    4年後の東京オリンピックでは真の王者としてメダル獲得に邁進してもらいたい。

  • 〇帰省車で  子供の切符  確かめる   mycmpot7

    お盆で帰省する車中、こだまか、のぞみか、ひかりか、

    子供は幼稚園年長か小学校一年生くらいか、親は35歳くらいか、ふるさとへ帰省する車中、

    特急の乗車券と特急券を子供に渡して、車掌さんが来たらこれを見せるんだぞといって子供に切符を渡している。

    しかし、高い乗車券であるためもし子供が放ったりなくしてしまっては困るため、切符を持っているかと聞いて子供

    が切符を持っていることを確認する。


    〇餅ひとつ  食ってのぞみと  したためリ   mycmpot7

    のぞみというのは新幹線、当時は最新鋭の技術を詰め込んだ最速の新幹線であった。

    餅ひとつ食うというのは正月の祝いの催しのひとコマである、この餅を食うひとりの男が男としての生命を主張しているという図である。

    自分が生きていることをだれも打ち消すことはできないという生命の強い主張となっている。

  • 日本国憲法
    第一章  天皇
    第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく。

    天皇陛下は生前退位の意向を示された。

    ご高齢のため象徴としての任務が果たせないかもしれないというお考えであった、これについては天皇のご健康を案じるとともに、

    この発言は天皇の人間宣言とも言えるものであると感じた。

    この天皇の人間宣言は昭和天皇が戦後1946年に発せられたものであるが今回の生前退位にも天皇の人間宣言というお考えを感じられる。

    天皇の憲法一条に定められている象徴ということを考えると、

    天皇も人間であるのかという問題につきあたってしまい、

    今回の天皇の人間宣言は憲法に沿っているのであるかということも考慮されなければならないこととなる。

    天皇は今の憲法では象徴である存在であり人間としての規定とは別であるとされているといっていい。

    これは憲法の象徴としての問題と同時に陛下のご健康という問題についても考える必要がある。

    私としては憲法に規定される象徴という立場よりも陛下のご健康をまず第一に考えるべきであると思っている。

    もし必要なら憲法の改正も考えてみるべきだろう。

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