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    平叙文であり判断を示すものが命題であるなら、「矛盾」の語源となった故事は、命題を洗い出すと次のとおりと考えます。商売の現場では、もちろん話し言葉ですが、話し言葉そのままではあまりにも省略が多く、未整理です。

    (例)楚人の示した命題
    最も堅牢な矛は、最も堅牢な盾を貫きことができ、しかも貫くことができない。
    (同一の事柄に関し)できるし、且つできない。
    (可能性が)あり、且つ(可能性が)ない。
    あり、且つあらぬ

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    tsumu 2014年9月17日 22:20

    第二の哲学(医学、物理、化学、数学及びこれらからの分岐、末流及び社会科学。別名第二の理論学)はそれぞれ或る特定の部門に関心を絞った学(専門学)であるが、第一の哲学はそうではない。第一の哲学(形而上学)は部門を有さずあまねく人間が関わっている<ある>ことの研究に携わるのであって、即ち「常に且つ必然にそうあること、多くの場合そのようにあること」のうちとりわけ<常に>という点に妥当する。

    次にアリストテレスはこの<必然>に注釈を加え、学問における<必然>とは、論証における必然性、即ち<そうあるより他はありえない>の意味としている。
    そもそも必然とは次の三義である。
    ・それなくしては必要とするものが入手できないところの<それ>。例えば薬の服用なくしては健康回復がありえないときのその<薬の服用>。
    ・衝動や意思がこれこれをしたいとするときそれに逆らう阻止、妨害。この時には結局したいことはできず<そうさせられるよりほかはない>という必然性(強制)が生じる。
    ・論証が<それはそうあるより他はありえない>という結論へ導くこと。

    分析論前書(井上忠訳)
    論証の前提は、矛盾する両命題の一肢を真なるものとしてとりあげて容認することである(というのは論証するひとは自分の前提を尋ね問うているのではなくて、自明の真として容認するのだからである)。
    ・・・論証の前提は、それが真なる前提として、個々の論証に先立つ最初の基礎諸定立によって容認されている場合である。
    <自明の真として容認した>ところを出発点とするならば論証はそれを継承するからそこには必然性が成立することになる。

    ついでながら非学問を意味する「付帯的、偶然的」存在についてアリストテレスは次の二義を挙げている。
    ・或る物事に属しそれの真実を告げはするが、しかし必然的にでもなく多くの場合にでもないこと。例えば誰かが植樹のため穴を掘っていて宝を発見したような場合。なぜなら穴掘り作業中に地面下の宝の発見というようなことは必然的なことでも多くの場合そうあることでもないから。もちろん<まぐれ、偶然>の事柄で、常にそうあることでもない。
    ・その物事に属しはするが、その物事の本質や定義のうちには存しないこと。例えば、三角形にとってその内角の和が二直角であることは三角形の定義(例えば三つの線分に囲まれた図形)には属しない付帯的、偶然的なことである。但し最初の穴掘り中の宝の発見とは異なり、三角形の内角の和が二直角であるのは常にそうある永遠的事柄である。

  • 形相因に至っては、今日主観的と考えられるだけである(西田)

    日常語の<主観的>には大きく分けて二つの意味がある。すなわち<お気に入り、贔屓、恣意>と<まちまちである。いずれが真とも決し得ない、確信を与えない>がそれである。いずれにせよ<主観的>とはいろいろあるうちからお気に入りのものを選ぶことか、そうして選ばれたものが他の者には気に入らないことかであり、どちらにしても「多くあること<多>」を前提としている。西田の<主観的と考えられるだけ>は後者の意味だろう。
    しかしながら形而上学で言う主観はけしてそんなものではない。主観は何よりも<先なるもの>であってしかも<極大の不可分割なもの>である。<先なるもの>であるから主観は<誰>とか<めいめい>とかに帰属するものではなく、むしろ<誰>とか<めいめい>とかの方こそ主観に帰属するのである。

    弁証法の<最初にくる>主観とは、次のアリストテレスの言葉で言うなら<この小部分のためあの大きな部分を共犯にする>ものであり、その時点において主観は未だ姿を現さず謎のままである。
    ・・・この領域(絶え間ない消滅と生成の過程にあるこの感覚界)は、全宇宙(非感覚界を含む)にくらべれば、言わば全くその一小部分でもないほどであるからであり、したがってこの小部分のためあの大きな部分を共犯にするよりか、むしろあの部分のためにこの部分を無罪放免にした方が当を得ていよう。

    形相因に限らず何について考えられようとも主観を脱することは不可能であり、主観を経由しないで何かが語られるということもけしてない。だから<主観的と考えられるだけ>もまた主観の産物である。主観とは根源にあって絶えず真っ先に働いている直接的な機能である。常に主観が先に仕事をしてしまうのであるから厳密には主観は対象にはならない。

    もう一つ<形相因は抽象的である>について。
    先に述べた<無規定>なものには付帯的(又は偶然的)存在ともう一つ感覚的存在がある。
    人間が感覚するものは、必然に<この何ものか>でありそれを<何処か>で、<今>感覚するのであるから、学問の根幹<常に且つ必然によってそう<ある>こと、乃至は多くの場合そう<ある>こと>に背違すること甚だしい(分析論後書)。従って学問は付帯的(又は偶然的)存在及び感覚的存在についてはこれらが<無規定>なる根拠を示しさえすればそれを捨象し、全体に関わる要素のみ抽出すること(抽象)が可能となる。否学問は必然的にそうあらねばならないのである。なお感覚的存在=客観的存在ではない。
    抽象を用いることに何等批判されるべき筋合いはない。

  • 学問はそこに至る道程をも含むから、<常に且つ必然にそうあること>に依らず、また<多くの場合そのようにあること>に依らずただ付帯的乃至は偶然的にのみ学問に関わるという仕方では学問に未達であり、学問に<関わってはいない>こと論を俟たない。とにかく到達していない限りは何を言おうとも結局は好き勝手、とりとめのない話の域を出ない。と言うのはもっぱら自説を既に世に現れた説とは他なるもの(無関係なもの)として一つ追加し並べるだけであって、既存の他説は手つかずで容認しているからである。そこには共通するもの(常に、必然、蓋然)を見出す努力が全くない。だからこうした<ある>は雑多なものとして、しかも数に限りなく生まれてくる。<と思われる>とか<と考えられる>とか言う時の<思われ>、<考えられ>も同様である。かくして付帯的(又は偶然的)意味での存在は<無規定>である。アリストテレスは更に付帯的存在は極めて<非存在>に近い、ともしている。非存在とは学的確信に結びつかない<ある>の意である。
    なおまた常に且つ必然によってそう<ある>こと、乃至は多くの場合そう<ある>ことから導かれる学問は一つで幾通りもあろう筈はない。第二の哲学は別として形而上学については特にこのことが強調されるべきである。<多様な>とか<選択可能な>など複数を想定することは形而上学とはかけ離れている。形而上学の可能性とは<別の新しい>形而上学を意味せず、先に述べたように或る思想が弁証法的運動を現に開始していないとき、その現状を脱するため模索されるべきものとして一つあるばかりである。

    「付帯的(又は偶然的)意味での存在」は以下の<思わく>にも該当しよう。プラトン「国家」(田中美知太郎訳)から。
    「・・・<ある>ものには<知識>が対応し、他方<無知>は必然的に<あらぬもの>に対応するならば、いま言われた中間的なものに対応するものとしては、<知識>と<無知>との、やはり中間にあるようなものを、求めなければならないのではないか・・・もしそのようなものがあるとすれば」。
    対話の進行はこの後、<知識>と<無知>の中間を「思わく」と定める。そしてその<思わく>に対応するものは純粋に<ある>ものと完全に<あらぬ>ものとの中間に位置付けて、<知識>と<無知>のどちらでもない<中間的な知>、すなわち『同時にあり且つあらぬ』説に一致するものという合意に達する。
    次はその対話相手グラウコンに対するソクラテスの言葉である。
    「認識される対象には真理性を提供し、認識する主体には認識機能を提供するものこそが<善>の実相(イデア)にほかならないのだ、と確言してくれたまえ」。

    アリストテレスがいま生きているとして西田の如き未達から形相因を<抽象的>だの<主観的>だのと言われたところで何の痛痒も感じないであろう。西田自身も「我々の生き方を論理的に把握せなければならない」としている。まさしく未達であることの告白である。

  • 【理論25】
    「日本文化の問題」の著者は言う。
    「形而上学」に於て、原因と云うものが四種に考えられると云う。而して形相因、質料因、動力因、目的因とに分けて居る。今日の科学では、主として動力因と云うものが考えられる。目的因と云う如きものも、全然考えられないでもないであろう。形相因に至っては、今日主観的と考えられるだけである。
    ・・・
    質料因から離された形相因と云うものは、抽象的であって、主観的たるに過ぎない。

    西田が言うが如きこの種コメントはアリストテレスの用語で言えば「付帯的(又は偶然的)意味での存在」である。付帯的又は偶然的な意味での存在にはなんらの理論もない。アリストテレスは学問をしばしば家の建築により説明する。家を作る者(建築家)についてみるにかれは家を作るが、この家の作られると同時にこれに付帯しておこる限りのいかなるものも作りはしない。なぜならこのような付帯的存在は無限に多くあるから。建築家ならば自分の作った家を「これは自分の作った家で<ある>」と認める。しかし他の者がその家を見て「これは快適で<ある>」とか「これは邪魔なもので<ある>」とか「これは有用なもので<ある>」とか「これは不恰好なもので<ある>」とかその他の同じものを何で<ある>と評したにせよ建築という制作的な学とは無関係である。建築家は家以外の如何なる<ある>も作りはしないし、あまたの毀誉褒貶は学にとっては他事に過ぎないのである。結局、「付帯的(又は偶然的)意味での存在」とは常に、そして互いに<他のもの>であるところの無限に多い<ある>であって、そこには共通するものが何等見いだせない。だからそれは無理論であり非存在なのである。

    <ある>と学問の関係については以下三つがある。
    1. 付帯的(又は偶然的)意味での存在(上記のとおり。次の2及び3との関連で言えば、常に且つ必然によってそのように<ある>のではなく、また多くの場合そのように<ある>のでもないこと。
    2.常に且つ必然によってそのように<ある>存在
    3.多くの場合そのように<ある>存在
    2及び3は学問であり1は学問ではない。もし2及び3を認めない(非認)なら1もない。このように付帯的(又は偶然的)存在は学問とは言わば対をなすのであるから、学問が非学問に言及しないわけにはいかないのである。
    アリストテレスは付帯的(又は偶然的)存在を無秩序、無限、そして先立つものではない、とする。なぜならその非学問は学問によってはじめて明らかにされ<述べられる>ものだから。そして先立つのは理性と自然である、と。

  • 【理論24】
    弁証法とは運動に他ならない。なぜなら学び始めた時と学び終えた時とでは<先立つもの>と<後なるもの>とが逆転するからである。当初手元にあるものが遠のいてそれと<隔たり>を生じるのに反し、逆にそれまで自分とは無縁と思われていたもののなかに今度は自分がいることを見出すのであるから。

    ヘーゲルはこの逆転を<顛倒(てんとう、さかさま)>としている。以下、「精神の現象学」(金子武蔵訳)から。
    顛倒せられた世界が最初の世界を己れのそとにもち、これをひとつの顛倒した反対の現実として己れから拒斥し、そこで一方の世界は<現象>であるが、これに対して他方の世界は<自体>であり、一方は<他者に対してある>ような世界であるが、これに対して他方は<自分だけで(絶対的に)ある>ような世界である。

    <顛倒せられた世界>とは形而上学的世界を、そして<最初の世界>は非形而上学的世界を意味する。この<顛倒せられた世界>は反対の現実として今や己れのものではなくなったもの、つまり<最初の世界>は拒斥するというのである。己れのものではなくなったときそのものの価値が定まるのであって、<最初の世界>の渦中にあって知り得ることではない。このような<最初の世界>を脱してのちそれの正体を知り、同時に自分のいる現在の<顛倒せられた世界>の意義を知ること、これが弁証法の終極的全容なのである。拒斥とは切り離すこと、そして対象化することであり、単に<捨て去る>ことではない。欲すればいつでも拒斥するものと向き合えるが、結果はそれに対して必ず否定的である。

    また<運動>については同書では、
    ・・右のごとく意識は自分自身において、即ち自分の知においても自分の対象においても弁証法的な運動を行うのであるが、この運動から<意識にとって新しい真実の対象が発現するかぎり>、この運動こそまさに<経験>と呼ばれているものである。

    一つしかなければ<運動>はあり得ない。諸行無常、万物流転の説はそれキリを主張する限り一つしか言わないのであるからここで言う<運動>にはあたらない。これらはむしろ運動否定の<静止>の説である。なぜなら<運動>とは運動に与る基体が二つ存しそのゆえに一方から他方への運動があるわけだから。しかも上記ヘーゲルの言のように<運動>は<経験(体験とも言い得るが)>である。むろん<最初の世界>もなんらかの経験ではあるが、しかし意義を与えられてはいない空疎な経験にしか過ぎない。弁証法における運動を経由し終えてのみ<最初の世界>の拒斥されるべきこと、その拒斥と引きかえに浮上してくるところの<顛倒せられた世界>の真義を実経験するのである。

  • 【理論23】
    転化するもののうち
    1. 付帯性における転化(例えば<教養がある>、<座る>、<歩く>は互いに関係のない付帯性であるが、<教養がある>ものが<座る>のを止めて<歩く>ならそこに転化がある)
    2. 部分の転化(例えば眼は身体の一部であるが、悪い眼がよくなったときは<身体が健康に転化した>と考えられる)
    3. それ自身において動き得るもの(可動的なもの)が動くとき、そこに転化がある

    上記3の場合において
    動くには或る第一の動かすもの、また或る動かされるものがある。さらにこのものが<それ>の中で動くところの<それ(時間)>があり、<それ>から動き始めるところの<それ(始動因)>があり、そして<それ>にまで動いてゆくところの<それ(目的)>がある。大ざっぱに言って、アリストテレスの四原因(時間は除く)とは、ここで言われる
    第一の動かすもの→形相因
    動かされるもの→質料因
    <それ>から動き始めるところの<それ>→始動因
    <それ>にまで動いてゆくところの<それ>→目的因
    である。<それ>にまで動いてゆき<それ>に到達すればそこで止まるところ<それ>とは究極の認識であり、形相である。認識は動くが究極では動かぬ形相に合致し、動くのを止めるのである。

    また転化の仕方としては
    1.基体(甲)から基体(乙)への転化→運動(熱くないものが或は冷たいものが熱くなる、この端から向こう側の端まで動く、流動しないものが流動するようになるなど。なお中間的な状態にあるものが互いに反対であるどちらかの極にまで変化する場合を含まれる)
    2.基体(甲)から基体にあらぬもの(非甲)への転化→消滅
    3.基体にあらぬもの(非甲)から基体(甲)への転化→生成
    (2及び3は矛盾的に対立する二つの極のうち矛盾許容側から矛盾解消側への転化を言う。この転化は広義には<運動>であるが、アリストテレスは1のみを<運動>とし、2,3は特に<生成・消滅>としている。排中律の<偽>が<真>への転化のような例が正にこれにあたり、中間はあり得ない。
    前回最後に述べたこと即ち、形而上学とは先なる<可能態>に新たな知を継ぎ足したり、上乗せしたり、拡張したりすることでは決してなく、先ずは先なるものの<解体>に着手すべきであるというのもそれが温存される限りつまり消滅が図られない限りは、生成もないからである。

  • 【理論22】
    我国では<不変不動>の語られることの少ないのに引きかえ<流転>については夙に有力な説がある。
    即ち、祇園精舎の鐘声、諸行無常の響あり・・・(源平盛衰記)。
    或は、行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず・・・あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず(方丈記)など。

    また日本語の存在動詞には<ある>のほかに<いる>や<おる>があることは注目されるべきである。<いる>とは、例えば今日は家に<いる>、仔犬が三匹<いる>、大勢の人が<いる>など、無生物ではなく人間を含む生き物に関し用いられる。
    しかし<いる>は他の動詞との複合用法になると無生物にもさかんに用いられる。例えば川が流れて<いる>、湯が沸いて<いる>、機械が動いて<いる>、車が走って<いる>のように、である。加えて<いる>は運動中のみならず静止していても、例えば止まって<いる>、死んで<いる>、枯れて<いる>、浮かんで<いる>のようにも言われているのである。
    <いる>用法を総覧して言えるのはこれが万物流転説によく調和し、これに馴染む限り労することなく<流転>説に嵌るであろうことである。これにおける静止はけして不変不動を意味せず、動勢を保ったまま(また動き始める)一時的な静止でしかない。
    <ある>時もあるし<あらぬ>時も<ある>は既述したところであるが、これを<いる>に適用して、<いる>時もあるし<いない>時もある、と言える。

    アリストテレスによる<ある>の四義、つまり、(1)付帯的な意味での存在(2) 真としての存在と偽としての非存在(3)述語諸形態についての存在(4)可能的な存在と現実的な存在があることは先に述べた。更に彼はディナミス(能力、可能性、可能態)とは「他のもののうちに存し、または他のものとしてのそのものそれ自体のうちに存するところの、それの転化の原理」であるばかりか一般に運動または静止のあらゆる原理である、としている。
    形而上学の学びも転化<なる>の一つであるが、これにとりかかる時点では形而上学については誰しも無学と言うほかない。そしてこれが転化の原理に随って<運動>してのち終極の完結(完全現実態)に到達するわけである。但し無学とはいえ学にとりかかる時点で学に関し単に空無とか全然白紙であるというわけではない。
    アリストテレスによれば誰もが学の最初の時点で所持するものは学の<部分>であり、学の<可能性>である。<可能態>が先なるもの、そして完全現実態は後なるものである。しかも学の原理が示すところは<部分>、<可能態>に新たな知を継ぎ足したり、上乗せしたり、拡張したりすることでは決してない。先ずは先なるものの<解体>、これである。

  • 【理論21】
    パルメニデスは<有は有るが、無は有らぬ>のみを言い、他方<なる>は言わなかったというので「万物は静止する」を唱えた者とされる。だがそれは誤りであろう。彼は<有は有るが、無は有らぬ>に続けてこう言っているのだから。探究が<有は有るが、無は有らぬ>に向かう道から逸れることは両頭の怪物どもがさまよう「臆見の道」に踏み込むことである。つまり逸脱は臆見への道に<なる>のだ、と。

    他方ヘラクレイトスの哲学はソクラテス以来お決まりの評価「万物は流転する」で片づけられている。アリストテレスもこれを踏襲する。しかし本当に彼はそれだけなのか。
    以下、断片集からヘラクレイトスの言葉。
    ・人々は理性を以て言動し、ちょうど国が法を以て強化するように、万物に共通なものを以て自らを強化しなければならない。
    ・それゆえ共通のものに従わなければならない。しかるにこのロゴスが共通なものとしてあるのだけれど多くの人間どもはあたかも自分に特別な見識があるかのように生きている。
    ・私にではなく、ロゴスに聞いて万物が一つであることを認めるのが智というものだ。

    ヘラクレイトスは<共通なもの(普遍的なもの)>たるロゴスを<止むことなき運動と変化の過程にあるもの>つまり流転するものと言ったわけではない。
    流転はヘラクレイトスよりかむしろプロタゴラスの説に帰せられるべきであろう。同じく断片集にあるプロタゴラスの言葉から、
    ・質料は流動的である。そしてそれが流動している時、流出の代わりに絶えず付加がなさえる。また知覚は年齢やその他身体の具合に応じて変形され、変化させられる。
    ・凡て現象するものの根拠は質料のうちに存している。従って質料は、他と没交渉に自分だけである限りは、可能的に、凡ての人々に現れてくるものの凡てである。

    アリストテレスは流動、転化を認める一方で不動な実在が存することを認めない論者たちを一括し、このような論者の説は結局のところ、
    すべてのものが運動していると言うよりかむしろすべてが静止していると言うべきだ、と言うことになろう。なぜなら、かれらによるとすでにあらゆる属性があらゆる基体に内在しているわけであるから、転化して何かになろうにも何も存在していないはずだからである、と述べている。
    存在事物(基体)にその属性が内在(一体をなしている)限り、<運動している>筈のものが<運動していない(静止している)>ことになり、自説に対する不信(矛盾)を自ら進んで露わにすることになる、というのである。しかも<不動な実在>を認めた訳ではない。

  • 【理論20】
    <ある>時には<ある>、<あらぬ>時には<あらぬ>と似ているものに、<ある>所には<ある>、<あらぬ>所には<あらぬ>がある。例えば、着席中のこの席から隣の空席に移動すればこの席は<ある>から<あらぬ>へ、隣は空席中の<あらぬ>から<ある>に変わる。<ある>と<あらぬ>の移動方向は逆であるがとにかく同一のものが<ある>所には<ある>し、<あらぬ>所には<あらぬ>のである。このように移動には多かれ少なかれ必ず時間を要するのであって、結局存在の移動は、先の<ある>時には<ある>、<あらぬ>時には<あらぬ>に含まれるものと見做してよい。

    或る存在事物が時刻t1に或る場所p1にあり、或る時間を経過して時刻t2において別な場所p2に移動するとしよう。こうした移動(場所、位置の変化)は動く、飛ぶ、走る、進む、来る、遠ざかるなど要するに<運動>に他ならない。そしてもし時間が経過してなお存在がp1に留まっているなら運動ではなくて<静止>である。
    次に静止中又は運動しながらその存在事物自体に時間経過による何等かの<変化>を生じる時、これもまた広義の運動である。その<変化>とは<生成・消滅>、<量的変化>及び<属性の変化>の三種であり、先の移動にこの事物自体の<変化>を加えて形而上学は「転化」とする。
    <あらぬ>から<ある>への変化=生成(あるようになる、なる)
    <ある>から<あらぬ>への変化=消滅(あらぬようになる、なくなる)
    多く<あらぬ>から多く<ある>への変化=増加(多くなる)
    多く<ある>から多く<あらぬ>への変化=減少(少なくなる)
    白く<あらぬ>から白く<ある>への変化=白さという属性の変化(白くなる)
    白く<ある>から白く<あらぬ>への変化=白さという属性の変化(白くなくなる)
    なお転化があるのは質料を有する事物についてであり、質料を有さず単に<ある>或は<あらぬ>事物(形相、本質など)には転化すなわち生成、生滅などはない。
    時間経過による諸変化は一般に<なる>とも言われる。上記の移動も位置がp1からp2に変化することは事物の<ある>場所がp1からp2に<なる>ものと考えられる。
    また<なる>の否定、つまり「<なる>ことは<あらぬ>」、「<なくなる>ことは<あらぬ>」は、上記より当然不変、不動を意味する。結局<なる>の否定は<成らない、なく成らない>ことである。
    とにかくこうして形而上学には<ある><あらぬ>ばかりでなく<なる><なくなる>も研究対象に入る。

    大人になる、夏になる、雨になる、医者になる、病気になる、(駒が)金になる、夜になる、津波が来る、台風が遠ざかる、(氷が溶けて)水になる、等。
    しかし戦争に<なる>、神に<なる>はどうだろう。戦争や祭祀は人間のする事であるから<なる>と言うよりむしろ<する>に該当するものと言い得る。

  • 【理論19】
    <反対>には、上下、左右、損益、加害と被害、生成と消滅などあり、<対立>もその<反対>一つである。しかし対立が他と異なるのは以下の点である。
    2の3倍はいくらか? これに対する答を<7ではあらぬ>と仮定してみる。すぐ分かることだがこんな答なら7のほかに無数ある。そして<あらぬ>のみで答えるとするならば「6」の<ある>を除外しておかねばならない。つまり「6」を除外しておかないと、即ち「6」の<ある>がなければ、すべて<あらぬ>ものばかりになる。<ある>は解決をもたらすが<あらぬ>はそれ単独ではそうではない。これは縄文時代も今も変わりなく、地上どこでも変わりない。つまり時と場所が関係しない。但しこれは数学(算数)。

    形而上学は<あらぬ>ものがいくつ<ある>かを数えたりしない。ありもしないものをどうして数えることが出来よう。問いが幾通りもあり、それに対する正答誤答も幾通りあるのは数学である。それに反し形而上学の問い答えはそれぞれ一つであるが。
    <あらぬ>は<あらぬ>ものの総体であり<ある>と対立する。<ある>もののみ<あり>、<あらぬ>ものは<あらぬ>と実際にこう言ったのはパルメニデスである。
    彼は言う(断片集)。
    必要なるは、ただ有るもののみ有る、と言い且つ考えることである。何故なら有は有るが、無は有らぬゆえ。このことを汝が心に留めおくことを私は命ずる。・・・(これに背いている)彼らによっては有ることと有らぬことは同一であり、また同一でないとみなされる。
    対立は既述の<真>、<偽>および矛盾に関係している。

    上、下は俗に<上には上がある>と言われるように上で<ある>ことが上では<あらぬ>こともある。左、右については、例えば本塁から見ると一塁は右で<ある>が二塁からは一塁が右では<あらぬ>こと(左)を指す。損、益とは市価以下に買い叩かれると損で<ある>が、客層を見て高値をつけて売れたなら損では<あらぬ>(得である)こと。交通事故では加害側のこともあれば被害側のこともあるし、人間には誕生があり死がある。

    対立を除く<反対>は、定式化するなら状況、事情の変化により
    <ある>時には<ある>、<あらぬ>時には<あらぬ>、ということである。
    これは「時」に<ある>と<あらぬ>が係属することから言い換えると、<ある>時もあるし、<あらぬ>時も<ある>、ともなるわけである。
    こうして単なる<反対>は、<ある>と<あらぬ>が相対的であり、両者は同格でもある。
    無矛盾律は同時に<ある>ことと<あらぬ」こととは成立しない、つまり成立不可能とする。だから<同時>でなければ矛盾に直接、抵触するものではない。だが<ある>、<あらぬ>が同時かそうではないのかの区別を要する時これをしなければ混同するだろう。

  • 【理論18】
    ハイデッガー「形而上学入門」(川原榮峰訳)から。
    存在は他の何ものとも比較されえない。存在に対する他者とは無だけである。だからそれと比較されうるものが何もない。このように存在が最も独特で最も明確なものを呈示しているとすれば、「ある」という語もまた空虚のままではありえない。事実、それはまた決して空虚ではない。

    また同書で彼は「人間とは誰か」という問いかけをする。一見奇妙に思えるこの問いの真意は、似通ったものの集合に付された<人間>にではなく、似通ったものを持たない個(一つキリ)としての存在自覚に人間の本質がある。だから人間を知りたいのなら人間とは<誰か>を問え、ということである。けして<誰でも>ではない。

    アリストテレスは無矛盾律に関しこれを<最も確かな原理>とする一方で<この原理に論証はない>とする。論証とは例えば、船は水に浮かぶ箱である、については、<水>、<浮かぶ>、<箱>を既知とし、未知或は不確かなもの、船を説明することである。しかし実体の「<ある>こと」には『「<ある>こと」は<ある>」』だけであるから別な物を持ってきて論証する便宜はない(同一律)。よって同一律自体では既知、未知、不確かなものいずれとも決することもない。それは「<あらぬ>こと」は<あらぬ>」についても同じである。ところが「<ある>こと」は<あらぬ>」だけについては違う。これは次のように到底あり得ないことであってもしこれが可能であれば到底信じられないことが続々出現してくるから。
    人間は人間である。しかしながら
    人間は人間で<ある>し同時に人間では<あらぬ>とすると、人間は人間で<あらぬ>が含意される。人間で<あらぬ>ものとは例えば、机。だから
    人間は人間で<ある>し同時に机で<ある>ことになろう。これが可能なら同様に
    机は机で<ある>し同時に机では<あらぬ>、も許せる。
    机で<あらぬ>ものとは例えば、馬。だから
    机は机で<ある)し同時に馬で<ある>、がおかしくない。
    かくて人間は人間でなく、机でなく、馬でなく、壁でなく、船でなく・・・ということになるし、同時に人間であり、机であり、馬であり、船である・・・ということにもなる。

    言っている当人すら認めないこのような不合理を是認することは<偽>である。この<認め得ないことを是認する(見逃す)>のは既知ではない証左である。<偽>については普通の論証とは異なる特別な論証(弁駁、反論、言い返す)がある(形而上学第四巻)。ともあれすべては実体、即ち<これ>なる個が間違いなく<ある>、これに懸っている。

  • 【理論17】
    ヘラクレイトスについてギリシャ哲学者列伝(加来彰俊訳)から。
    彼はいかなる人にも師事しなかった。いな、彼は「自分自身を探究して、すべてのことを自分自身から学んだ」と語っていた。

    ヘラクレイトスの言う自分<自身>とは分割不可能なもの、外からの限定を受けないものを指す。言い換えて逆にもできる。即ち分割不可能なもの、外からの限定を受けないもの、これが自分<自身>である。自分の名前、自分の経歴、自分の顔立ち、自分の考え、自分の好物、自分の住む場所(国)等々・・・これら自分に付帯するたくさん、さまざまの事柄でなく、むしろそれらに先立つ存在、それが自分自体、自分<自身>である。
    自分<自身>はそれ自身が統一体(すべてのこと)であって、ヘラクレイトスの探究はかかる意味での自分<自身>に向けられたのである。

    アリストテレスは霊魂論において<共通感覚>なる統一意識をとりあげている。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、皮膚感覚、臓器感覚等感覚器官ごと感覚の教えるところのものを統一して、即ち自分<自身>に帰属せしめて全体を認知する能力が人間(その他動物にも)には具わっているとする。しかし自分<自身>は非感覚的でありいずれかの感覚器官により直接に感覚されはしない。

    自分<自身>は存在するか?存在するとすればそれは何個か?
    無論、現実に(現実だけに)存在する。それなくしては上記のような付帯存在もないのだから。付帯存在が信じ得るものなら、先立つものは必ず存在する。
    そして現存する自分<自身>は唯一つである。多数の自分<自身>の存在を類推することはできるにせよ現実にはあくまで一個である。
    一個であるなら「~は(主語)~である(述語)」という説明・定義をすることができない。例えば、イヌは四本足、尾がある、全身ほとんどに毛がある、大きさは大きくてもロバほど大きくはない、特有の声を発する、愛玩、使役のため人間に飼われる動物であるが、こうしたイヌの定義は<これ>なる個の集合(多)を前提とし、それらに共通する特徴に着目してなされる。故にただ一個では共通点を探しえず「この<ある>もの」とでも言うしかない。実は<人間>も同様に個の集合に付された<種>の名である。<人間>と言うとき聞くとき既に定義(パターン)のやりとりは完了しているが、あらためて人間の定義をすることはもちろん可能である。しかし自分<自身>の定義はない。
    アリストテレスは、「~である」は言い得ず「この<ある>もの」としか言い得ない存在、主語とはなるが述語とはなりえない個を<実体>と呼ぶ。その意味で自分<自身>は実体である。なお、実体はこのほか定義抜きではなく定義経由の先なるものにして<一>且つ不動不変の存在(普遍的存在)がある。

  • 【理論16】
    ダイアローグにより説得を受けるほか、<反省(自省)>が必要。
    反省と言うともっぱらムショに収監中の人間のなすこととされているようであるが、かように一部の人間にだけ関わるものではない。誰しも赤ん坊としては未開であり後に反省しなかったならそのままで一生を終えることになる。そうならぬための反省である。
    マルクス・アウレリウスは自省録(神谷美恵子訳)の中で、
    現在の時を自分への贈物として与えるように心がけるがよい
    君がそんな目に遭うのは当り前さ。君は今日善い人間になるよりは明日なろうというんだ
    すべては主観に過ぎないことを思え、その主観は君の力でどうにもなるのだ

    彼が<君>と言っているのは彼自身を指すらしい。書物にする意図はなかったようである。ルネ・デカルトの省察もまた反省である。

    主観、客観なる語をアリストテレスは使ってはいない。
    敢えて言うならば、第一の哲学(形而上学)は主観世界を、第二の哲学(自然学、数学)は客観世界を考察する学である。
    自然学は付帯的諸属性を研究し、また存在する諸事物の原理を研究しはするが、それらを<存在としてではなく>運動する事物として研究している。
    数学は線、角、数またはその他の量について<存在としてではなく>これらが連続的なものとしての限りにおいて研究している。
    ところが形而上学は上記二つの学と異なりもっぱら<存在>のみを研究し、有限な事物とは離れて存し且つ不動なる或る存在に注目する。

    自然学、数学は有限なる時間内に完結せず常に延長的、拡大的である。そのため有限時間内に全体全容の把握には達せず、<部分>の認識に終わる。
    形而上学の目的は究極の認識(形相)に達することでありそこで完結する。その完結を原因として他の何かが結果すること(応用面)はない。形而上学は自由の学でもあるが、その自由とは<ただ知らんが為にのみ知る>という点にあり、何らの有用性も持たぬことに由来する。

    アリストテレスの形而上学以外の学(自然学、天体論、動物学その他)については疾うに<乗り越えられている>。
    しかし形而上学については少しも古臭くはない。主観の学であるから。そしてその主観の学が自然学及び数学の地位を決定付けている。

  • 【理論15】
    諸説すべてが真、これぞ<偽>
    諸説には真と偽がある、これが<真>

    <真>のみが<ある>もの(存在)を語る
    <偽>は<あらぬ>もの(非存在)を語る

    <真>は<偽>を経由しているので<偽>についても語ることが可能
    <偽>は<真>を経由していないので<真>について語ることは不可能

    両端のない線は直線、一方にのみ端がある線は半直線、両端のある線は線分である。
    その線分の両端を<真>と<偽>に擬すものとする。
    つぎにこの線分の中点を考える。中点は<真>と<偽>に関して果たして何を意味するか。
    中点に立つ知が<真>と<偽>の両極の別を弁え<真>を肯定、<偽>を否定する者と考えれば、これは一方の極である<真>と同じであろう。しかし<真>と<偽>の両極を否定して自らの自立を主張する者は自分を否定する者、即ち<あらぬ>を語る者である。なぜなら、先なる両極があることにより後なる中点が定まるのであるから両極の否定は自説の否定である。また両極(二つ)の単純な肯定は<真>と<偽>の隔てを知らぬ未開の人間のなすことに違いない。
    このようにして<真>と<偽>に中立はない。対立があるのみ。ただ一つの中点ばかりか線分を二つに分割しそれぞれの線分の中点に立つ知を想定しても、いなそれより更に小さく分割した線分の中点を想定しても同様であり、中立する知は存在しない。直線や半直線にはもともと中点が存しない。

    <真>が<偽>に変わることはあり得ない(すべての真が<偽>であることは除く)が、<偽>は<真>に変わりうる。
    <偽>は<真>に変わりうることは<偽>が<真>に向かう運動の可能性を蔵すること(可能態)を意味するものである。

    対話(ダイアローグ)とは、<偽>を<真>に向かわせる方法としての問答であって、その運動(過程)は弁証法的である。ディアロゴス(対話)とディアレクティケー(弁証法)は同じ接頭辞を有し、英語のダイアローグ、ディアレクティックにも通ずる。
    対話の相手の人格は尊重するものの内容はいつ果てるともなく延々と続く<対等>の対話ではけしてない。結末は先に予定されている。この意味で対話とは結局、説得に他ならないのである。説得の目的は言うまでもなく<偽>の排除である。これは最良、至高の説得であり、説き伏せる、断念させる、自首を勧めるなどの類の説得とは無縁である。

  • 【理論14】
    日本的霊性(鈴木大拙)では、万葉集について、
    生れながらの人間の情緒そのままで、まだこれがひとたびも試練を経験していない。全く嬰孩性を脱却せぬと言ってよい。と書いている。嬰孩性とは<こども性>。
    およそ<考え方>を論ずるとき、これこれの<考え方>については論外とするなどといったことはナンセンスである。古代の考えであるからとか外国の思想であるからとかいったことはその根拠付け自体が<考え方>であるがためである。
    これは了解されたものとしよう。
    万葉集の時代ばかりか以後今に至るまでこの民族には未だ<試練>の経験がないことは精神史に明かである。精神史になければ他のどこにもない。精神史は書物ばかりか今の今生きて活動している精神に書き込まれている。生存していてこれに触れぬということはありえないことである。そして<試練>とは生まれながらの性格をひっくり返してさかさまにすること。感覚と情緒(感動、慰め、癒しなど)は深い関係がある。

    あそこに島が見えている、即ち、島が<ある>。
    誰が見ても島で<ある>し、誰も見ていなくても島は<ある>。
    そこで、島が<ある>と人間が言わなくても島は『ある』。
    故に、この『ある』は言葉にならない言葉(内語)である。
    考え方のそもそもの端緒<ある>が語られないことは重大である。<初めに言葉ありき>とは初めに言葉<ある>ありき、と承知すべきである。
    <ある>の語を誰が発するのは誰か、が詮索されないことはIもyouもないことになる。また戦争責任の所在が誰に<ある>のかが問えないことになるのもここから来ている。これらのことは視覚の<無私性>に起因する。

    元来、感覚は各個人に具わる感官に依るものであるから個別的な認知である。甘さ、寒暖の度合い、痛みかゆみの具合などその人間にしか分からぬことであり、視覚についても見る角度、光源の位置、視力など見え方を左右する因子はある筈だが、それらの影響を度外視させる特別の性格が視覚にはある。それは自己の手足を見ることのほか身体から離れた事物、従って一人が多人数を、また多人数で同時に同じ事物を認知できることである。

    感覚は<ある>にせよ<あらぬ>にせよ真である。しかし人間の考え方となると全く別であってすべての考え方が真ではない。究極の認識<真>に達するには考え方の<偽>が問題となる。この<偽>こそが他ならぬ感覚ばかりか人間の考え方までもがすべて真とする説なのである。

  • 【理論13】
    世界観を変えねばならない。これでは世界観の<押し付け>だという向きもあろう。
    それは言うのが人間と考えるからであり、人間ではなく理論がそう言わせると思うべきである。<言うのが人間ではない>とは世界観を変える理論に人間のような生死はないこと。
    それにまた日本人も気付かぬまま単なる特殊性をアイデンティティと称して外国に押し付けているのではないか。

    同書にはフランス人の日本学者オギュスタ・ベルクの所説が紹介されている。即ち日本語のオノマトペ(擬態語)の多用は<現実知覚に対する概念化がより少なく、間接メディアを通過させる度合いがより少ない・・・。
    形而上学に関わるオノマトペには、いろいろ、さまざま、べつべつ、はなればなれ、まちまち、バラバラ等がある。同音反復のオノマトペは日常語に多いがオノマトペでなくても同じ日常語の、たくさん、いっぱい、多種多様等が<多>に関係することは既述のとおり。
    感覚は事物を外的にとらえる。関心が感覚に奪われるとき内面(概念化)はお留守になる。警戒心、競争心、恐怖心、射幸心、向上心、好奇心、猜疑心など人間の内面を態度、行動という外面と結びつけることと「見方、考え方がいろいろある」とすることとは同種同根である。

    著者荒木はオノマトペに関して、次のように言う。
    言語化がなされるのに際して数段階のプロセスを経るということは、その言語が如何に論理的、分析的に構築されているかの証明であるが、だからといってオノマトペは一部の西欧の学者の説いているような未開性の指標などでは絶対にない。

    <論理的、分析的に構築されている>結果、果たして何が到来するかを著者は全く知らない。<未開性の指標などでは絶対にない>と力んではいるが、生まれたばかりの子は地上どこでも未開であり恥と思うほどのことではない。未開性の問題とはいい年になっても幼稚でただ可愛いだけというのは困るという点にある。
    話されるにせよ文字となるにせよ日本語が生まれるとき先立つのは日本人の思想内容でありそれを固守する一方で日本語を論理的に改め、またモノローグ言語をダイアローグ言語にするという日本語の持つ属性を勝手に変えることは不可能である。思想内容にパッチワーク加工はあり得ない。
    そしてまた著者は「世界観を変えることは不可能である」と断言する。そこで問う。果たして目からウロコの落ちるのを防ぎきる可能性はあるのか。
    世界観が変わらぬように外国と一切の交流を断って鎖国に立ち戻るよりは世界観を変えるほうが痛みは少なかろう。

  • 【理論12】
    思想書に関しては、日本語による訳書と原書とでは原書が先なるもの訳書が後なるものであり、訳書の思想内容(考え方)と訳書を読む日本人の思想内容とでは読む前から日本人が持っている思想内容が先なるもの訳書の思想内容は後なるものである。例えば<原著者の考え方はそうであるとしても人間は大勢いるから日本人にはまた別の違った考え方がある>のように。

    西田幾多郎は「日本文化の問題」、「学問的方法」で次のように言う。
    終に尚一つ、日本の事物を研究することが日本精神であるかの如く考えられ、日本的な物の見方考え方に日本精神があること云うことが忘れられて居ると思う。外国の事物を研究してもそこに日本精神が現れると云うことを忘れてはならない。

    <忘れてはならない>ことを西田自身が忘れていることは別としても、訳書の解釈に先なるものが<日本的なものの見方考え方>としたのは正しい。
    <日本的なものの見方考え方>なくして訳書を解釈し、また解釈したことを公に<解説>したりすること不可能である。けして<白紙>で訳書を読むわけではないということである。しかもこれを<忘れている>となればこれはもう底抜けのノーコントロール。先入観に嵌り込んで、言わば自分が自分に取り囲まれる事態に陥る。

    日本語が見えると英語も見える(荒木博之)には「日本人はなぜ英語が下手なのか」に関する某氏の体験として次のことが載っている。
    ・・・そんなとき大学の食堂で一人のアメリカ人から「日本人が英語に上達するには、なにより世界観を変えねば」と繰り返し言われ、それから日本語と英語の本質的違いばかり考えて暮らした。

    驚くべきこの行き違い。
    日本人が考える英語の<上達>とは料理の上達やゴルフの上達と同様の<上達>であろう。
    しかしこのアメリカ人の言葉の<上達>の捉え方は全く違う。世界観とは形而上学そのものである。もちろん世界の諸事情といった客観的、事実的世界のことではない。
    「世界観を変える」と言うからには変える前にまず世界観があり、その上でその世界観を変え別の世界観を得ることに相違ない。従ってその別の世界観は<変える前の世界観>とそれとは<別の世界観>の二つを知っているのではないか。
    日本人に向かい繰り返して「世界観を変えねばならない」という別の世界観があることを日本人は知っているだろうか。

  • 【理論11】
    誰が見ても何々が<ある>。誰が見てもたくさんいろいろ何々が<ある>。
    この視覚の<無私性>は仮に妥当としよう。
    これをそのまま人間の「考え方」(考え方は可視的ではないのだが)に適用するとどうなるか。適用するならば、人間の考え方はたくさんいろいろ<ある>、ことになろう。
    ところが人間すべてがかく考えるのなら考え方は一つである。なぜならその考え方は<たくさんいろいろ>の点において同一であり、例外はないのだから。
    これも承認されたとするならここには矛盾のあることが発見できるに違いない。
    考え方がたくさんいろいろ<ある>ことはたくさんいろいろ<あらぬ>(一つキリ)
    視覚上の<無私性>たる客観は、矛盾を言わせるのである。
    そこで私は視覚の<無私性>とは切り離された別個の<無私性>を考えざるを得ない。

    日本的霊性(鈴木大拙)に法然「一枚起請文」について載っているが、その一節、
    上人或る時の教えに、みずから座し給える畳をさしてのたまわく、「畳のあるにつきて、破れたると破れざるとをば、論ずべきなり。畳なくば、いかが破れたると破れざるをば論ずべきぞや。
    つまり、明快なこの論理は<畳が先なるもの、破れが後なるもの>である。(ここでは宗教は無関係。ロジックにのみ注目されたい)

    先なるもの後なるものについては先に述べた如く、先なるもの=それ自体として存在するもの、後なるもの=先なる存在に付帯(付随、下属)して存在するものの謂いである。
    形而上学でアリストテレスはこの論理はプラトンがフィロソフィアの学に最初持ち込んだものとしている。時代が異なっていても同じ論理(論理は理論の「部分」、すなわち理論のパーツ)がギリシャと日本で用いられることは見落としてはならない。これは論理の持つ<無私性>による。のみならず論理は<世界性>を、そして<今日性>をも有する。
    健康が先立つ、健康でなかったなんの楽しみもない、のように。

    アナクサゴラスはこの世界のすべての秩序と配列の原因は理性であると説いた。
    論理の力(説得、納得のどちらにも関係している)はこの天与の理性に基づく。
    論理があってもこれが分断されている限り、つまりパーツがパーツである限り理論は完結しない。こうした分断、未完結に深くかかわるのが他ならぬ感覚の<無私性>である。統一の方向に向かうべきときに<たくさんいろいろ>が妨害してくること必至である。
    また感覚の<無私性>に<今日性>はあるが、世界の秩序と配列に関わる<世界性>はない。

  • 【理論10】
    ヘラクレイトス
    人間どもにとって眼や耳は悪しき証人である。彼等がわけの分からぬ魂をもっている限り。
    (彼等、魂=感覚知覚の擬人化)
    アリストテレス
    さらに我々はいずれの感覚をも知恵であるとはみなさない。もちろん、たしかに感覚は、個々特殊の物事について、きわめて重要な知識ではあるが。

    形而上学に言う<感覚>とは眼や耳など感覚器官からの刺激をうけて(感覚)、外的な事物を知ること(知覚)。形而上学(知恵)においては、感覚の定義はこれで済む。なぜなら医学や生理学は自然学に属し<第一の哲学>には属さないから。なおその他痛覚、冷温覚、触覚、臓器感覚(尿意、空腹など)なども外的な<感覚>である。

    形而上学の感覚への関心は、感覚が人間に<ある>、<あらぬ>を言わせることにある。形而上学の冒頭には、人間は見ることを好む、の言葉がある。
    感覚は動物に共通するごく自然なことで時代を超えた人間の真実である。リュケイオン最後の学頭と言われるアンドロニコスがこのことを含む巻を第一巻に配したのはアリストテレスに倣い形而上学の端緒はこれにあるとしたために違いない。
    視覚は、<境目、切れ目>を見つけてすぐに<あれ>、<これ>を言い出す。しかも自分の掌中から空に輝く天体までありとあらゆる事物、事象についてである。

    海に浮かぶ島があそこに見える、つまり、あそこに島が<ある>。
    いつ見ても<ある>、自分がここにいなくても<ある>、どの方角から見ても<ある>・・・。
    島々(島多数>であっても島のほかに海、船、雲、太陽についても同様である。
    だから一人がこう考えもするだろう。誰が見ても島は<ある>と。

    誰が見ても何々が<ある>。
    私はこれを<無私性>と呼びたい。<私>にだけ属さないでみんなに属するのだから。
    我々が客観というのはこの<無私性>ではないか。
    客観には絶大な信頼が寄せられるのにひきかえ<私性>たる主観は評価されない。
    「日本文化の問題」の著者も
    形相因に至っては今日単に主観的と考えられるだけである。
    と言う。

  • 【理論9】
    方法論(オルガノン)は多から一への問題解決の<方法>である。詭弁である多の虚偽を見破りこれを論破するための手段の一つに<論点先取の虚偽>がある。論点先取の虚偽とは、論証後の結論が推論の前提となっていることをいう。

    分析論前書64-b28 (井上忠 訳)
    証明さるべき結論を先取し容認することは、類別してみれば、結論を論証していない誤謬の部類に入る。これ(論点不確証の誤謬)は、すなわち
    ・ひとが全然推論していない場合
    ・結論よりも知られること一層少ないこと、または結論と同程度にしか知られていないことにより推論する場合
    ・結論よりも論理上後なることによってそれらより先なることを推論する場合
    (訳文を圧縮した)

    日本人に理論が<あらぬ>という(理由)でこれを持たなくてなくてはならぬ、論証。
    我々日本人が持つべきは理論である
    しかるに我々日本人は持つべき理論を持っていない
    故に我々日本人は持つべき理論を持たねばならない

    <持つべき>は理論あってのことだから要するに理論の有無である。しかしその理論が確たるものになっていない時、即ちいまだ理論が<あらぬ>時にこれを前提とする結論を出しても誰もどうしていいのか分からない。<ある>とすれば<ある>し、そうでなければ<あらぬ>のだから。<どうしていいのか分からない>ことは理論の<あらぬ>ことの証明である。

    <後なることによってそれらより先なること>
    先なることとはカネが先立つ、健康が先立つ、それである。
    理論への入口、つまり先なることは誰もが容易に信じ得ること、即ち感覚的な<ある>である。
    そして真なる理論を得たのちは、逆にその理論のほうが先立つ。理論がなければ全体が見渡せず、従って完結しないからである(弁証法の最終段階)。

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