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西洋哲学

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  • ◇社会思想全般◇

    • 163
    • 2014/06/14 01:25
    主権概念の脱構築を目指して…(^^)
  • 流行の哲学

    • 223
    • 2014/07/01 06:26
    全体主義バカお断り 不易流行の哲学ではありません。 流行の哲学です。 反創価が流行ると反創価、嫌中・嫌韓が流行ると嫌中・嫌韓になるようなバカの脳味噌を研究するトピです。 適当に。
  • ♥正義の巨匠 ミカエル君♥

    • 7
    • 2014/07/17 09:37
    彼は、何故、あれほど正義に拘わるのだろうか? 不思議だ。
  • 国賊*河野洋平を国会喚問すべし!

    • 2
    • 2014/07/24 05:44
    許されざる罪。 だが、安倍も河野談話を否定できない。 口先だけの人物。
  • 地球の公転*自転の原因?? 本当だろうか ?

    • 2
    • 2014/08/25 19:02
    なぜ、地球は自転、公転をしているんでしょうか?回転しようとする力の発生源はなんなんでしょうか? ************ 最近の理論では、たくさんの岩のかたまりが合体成長して惑星が作られる最後の段階では、地球の半分くらいの大きさのやや小さな惑星同士がぶつかって合体して、地球のような惑星になったと考えられています。 地球が自転しているのは、小さな惑星同士が合体して地球ができたときに、真正面からぶつかったわけではないからだと考えられます。 たとえば、あなたと友達がそれぞれ反対方向から走り寄ってきて、出会ったときそのまま左手同士をつないだら、二人がそれぞれ回転してしまうでしょう。それと同じです。 公転している理由は、かつて太陽系全体の材料になったとても大きなガスのかたまりが中心の星(太陽)のまわりに集まってきたときに、もともとガスのかたまりがゆっくりと回転していたために、持っていたエネルギーが中心に集められたためと考えられます。たとえて言えば、うでを広げて回転しているバレリーナが、そのうでを縮めると回転が速くなるのと同じことです。
  • イマジネーション哲学

    • 12
    • 2014/09/04 19:08
    連想哲学。詩的哲学。
  • 人間とは何者かを語ろう

    • 47
    • 2014/09/06 00:53
    人間は大同小異か小同大異か? 人は違うのか? なぜ差があるのか? 優劣はあるのか? 平等なのか? 神の創造物か猿から進化したのか? 動物とどう違うのか?似たようなものか? などなど語りましょう
  • 俺、本当は

    • 3
    • 2014/09/10 15:27
    哲学 好きさ
  • 書物カルトの悲哀心理

    • 437
    • 2014/09/10 23:48
      book-cult、書物カルト。書物に頼り、書物に溺れ、書物を読んでいないと不安に陥る、そんな者たち。  人並みの独自論文を書きたくて、多読したり、ネット掲示板でネタ探し憂さ晴らし嫌がらせ。が、一向に書けない。  書物カルトの心理、これがおもしろい。ずばり、本読みカルトの心は知的糧に飢えている。彼らはいつも内的な空腹がひどいのだ。だから、書物を漁って何か知的情報らしきものを食べていないと、ひどく不安になる。その上、彼らは他の人々も自分たちと同様と思いこんでいる。  彼らは自らの本質から湧き出る叡智を受け取れない、自らの騒々しいマインドゆえに。内なる叡智を体験したことのない者は渇く、どうしようもなく飢える。それゆえ、本を読んで外的情報を食べずにいられない。   
  • 話し言葉が含む命題

    • 340
    • 2014/09/17 22:20
    平叙文であり判断を示すものが命題であるなら、「矛盾」の語源となった故事は、命題を洗い出すと次のとおりと考えます。商売の現場では、もちろん話し言葉ですが、話し言葉そのままではあまりにも省略が多く、未整理です。(例)楚人の示した命題最も堅牢な矛は、最も堅牢な盾を貫きことができ、しかも貫くことができない。(同一の事柄に関し)できるし、且つできない。(可能性が)あり、且つ(可能性が)ない。あり、且つあらぬ
  • 日本の政治家の質

    • 12
    • 2014/09/24 04:02
    低いと思う
  • ノストラダムスの予言は外れていた!

    • 12
    • 2014/09/24 20:57
    あたりまえ
  • 政治家の仕事

    • 8
    • 2014/10/07 16:19
    いかに上手く国民を騙すか
  • 左翼の人の方が

    • 7
    • 2014/10/07 16:20
    優しいのだろうか?
  • 東大からノーベル賞授賞者が輩出されないのは

    • 3
    • 2014/10/07 23:01
    偶然なのか?
  • 日本

    • 2
    • 2014/10/09 05:59
    あんまり いい国じゃない と思う
  • 貧富の差

    • 2
    • 2014/10/09 11:29
    なくならないな
  • 日本人は

    • 3
    • 2014/10/09 21:36
    神経質すぎる
  • ☆ 「疑う」とはどういうことか ☆

    • 5
    • 2014/10/11 09:36
    ☆ 「疑う」とはどういうことか ☆ 井出 薫  デカルトは全てを疑って、最後に、絶対確実なものとして、「我思う、ゆえに、我在り」に達した。「我」が存在することは確実であり、神の存在ですら、我の存在の明証性から演繹しないとならないとデカルトは主張する(注)。ここに近代の絶対的な主体としての「我」が確立し、近代哲学は「我」を核とする学として、その後展開されることになる。 (注)但し、これは認識論的な次元での話しであり、存在論的には、神は全知全能、最高善であり、人間を含む全存在の主催者かつ創造者であることをデカルトは完全に肯定する。  だが、デカルトの主張は多くの点で疑問がある。まず「我思う」から「我在り」を導出するところに疑問がある。これが成立するためには、「我」と「思う」が分離可能な存在として表象される必要がある。そもそも疑いようがないものがあるとしても、「「我」が「思う」」ではなく、「思う」だけが疑いようがないのではないだろうか。「我」は一次的な存在ではなく、「思う」から、「我(主体)」、「対象(客体)」がそれぞれ二次的に導かれる、こういう風に考えた方がより正確と思える。事実、フッサールは、彼の哲学的思索=現象学において、そのような方向で考察を行っている。  しかし、「思う」を第一次的なものとしても、全ての疑問は解消しない。「思う」ということが本当に確実だと言えるのはどういうときか。それについて、デカルトもフッサールも明らかにしていない。無前提に内省することを通じて、そこに確実なものが見出せると言うのだが、そのようなことができるとは思えない。なぜなら「無前提に」ということがありえないからだ。確かに絶対確実な根源的存在を見い出すためには、「無前提」であることは欠かせない。前提があれば、それがより深い原理となる。たとえば、Aを前提するとき初めて「我思う」が確実になるならば、「我思う」は第一原理ではなく、Aが第一原理となる。  「我」であろうと、「我思う」であろうと、「思う」であろうと、「在る」であろうと、全て、それらを哲学的な原理として提示するためには、「言葉」の存在とその言葉が人々の間で流通しているという事実が不可欠となる。つまり、あらゆる哲学的思索に絶対に欠かすことができない前提として「言葉」がある。そして、それが継承され存続するためには文字(書き言葉)が不可欠な存在となる。このことは、先の仮定、無前提に内省する、無前提に思索することが不可能であることを示している。それゆえ、「我思う」は決して無前提に導かれるものではなく、言葉の存在、言葉が流通することを前提にして初めて導かれるものでしかない。それゆえ、それは第一原理とは言い難い。  そもそもデカルトの探究の手段である「疑う」ということは如何にして可能なのだろうか。疑うことが可能であるためには、言葉が必要だ。「何かを疑う」、「何かを信じて疑わない」こういう表現が意味を有することが「疑い」を意味あるものとする。さらに、疑いが言葉において初めて意味をなすことから、疑うためには、疑いを免れているものが存在しなくてはならないことが帰結する。時計の時刻が合っていないと疑う時に、その疑いが意味を持つためには、時計が存在していることが前提となる。時計の存在が疑わしいのであれば、時刻を疑うことは意味がなく、まず時計の存在を検証する必要があるからだ。また時計の存在を疑うのであれば、疑う理由を示す必要がある。「あの時計に見える物は単なるアクセサリーに過ぎない可能性がある、なぜなら先ほどから秒針が動いていないし、動きそうもないからだ。」などという理由を示さないとならない。そうでないと疑うことの意味が分からない。ただ「幻覚の可能性がある」と言うだけならば、「なぜ幻想だと思うのか、その根拠は何か」と問われる。このように疑う理由が明確な時は、様々なことが(その時点では)疑いを免れている。そうでないと時刻と時計の例のように無意味な疑い(疑っているとは言えないもの)になる。  このように、疑うこと、また疑いの末に確実なものを見い出すことが可能であるためには、言葉が存在しそれが人々の間で流通していること、疑いを免れた者が存在していること、この二つが不可欠の条件となる。だがこのことは、どのようなものであれ、疑う余地がないほどに確実な存在などないことを意味している。なぜなら、どのような存在であれ、常に何か別のものの存在を前提としているからだ。  ただし、このことは、疑うことが無意味であることを意味しない。ただ、「疑う」ためには、疑う根拠が必要だという、ある意味、極めて常識的なことを示している。
  • ☆ 実存とは何か ☆

    • 5
    • 2014/10/11 09:40
    ☆ 実存とは何か ☆ 井出 薫  生命の本質は何か。自己複製、代謝、変異と適応、その中でも自己複製が本質をなす。これが生物学的な模範回答だろう。しかし、生命の本質とは、その唯一性にある。  私はこの世界で唯一無二の存在で、他者とは絶対に異なる。他者も同様に唯一無二の存在として生きている。私は他者にはなれないし、他者も私にはなれない。この性質は人間だけではない。犬や猫、庭にやってくる鳥や虫たちも、同じ種でも、それぞれの個体は唯一無二の存在で、他の個体とは必ずどこかが違う。細菌や原生生物のような微生物でも、同じ種でも必ずどこかに差異があり、同一者は存在しない。微生物でもそこに存在するのは唯一無二の個体の集団なのだ。  無生物には唯一無二性はない。同一機種のパソコンは全て同じで個性はない。長く使っていると愛着が湧いてきて、壊れて同一機種に買い替えてもどこかしっくりこないところがある。だがそれも数日のことですぐに新しいパソコンに慣れて前と同じようにそれを使いこなすことになる。富士山は勿論唯一無二だが、それは世界に富士山と同じ山がないということに過ぎない。もちろん全く同じ形の山がアメリカに在っても、それを富士山と呼ぶ気にはならない。しかし、それは山なる存在が周囲の環境と切り離すことが出来ないからだ。そもそも富士山はどこからが富士山なのだろう。ここからが富士山だと地面に境界線を引くことは出来ない。引いたところで恣意的なものでしかない。富士山は周囲の環境と共存しており、そして共存していることで富士山となる。だから、地球が宇宙に二つ存在しない限り、富士山が二つあることはない。つまり富士山の唯一無二性は、同じ物が他に存在しないということを意味しているに過ぎない。ところが、生命体は同じ種が存在しているのに、各個体が唯一無二の存在としてこの世に現れている。そこに生物が持つ、そして生物以外は持ちえない本質的な唯一無二性がある。  この生命固有の唯一無二性こそが、(実存主義的な意味での)実存という概念の基盤となる。しかしながら微生物は確かに生命としての唯一無二性を有するのではあるが、微生物自身がそのことを自己認識することはない。それゆえ微生物の唯一無二性は単に外的な性質に留まる(注)。それゆえ微生物の個体は実存という概念で語ることはできない。唯一無二性が内的なものとなるとき初めて、その存在は実存となる。では、犬や猫はどうだろうか。犬や猫は自分の唯一無二性を認識している可能性がある。しかし彼らはそれを言葉で表現することができない。そして言葉で表現することが出来ないが故に、それを体系化して自らの生を意味づけることに役立たせることはできない。それゆえ、犬や猫、その他の哺乳類は実存に接近しているとは言え、いまだ唯一無二性が内在化されておらず、実存とは言えない。ただ人間だけが、自分の唯一無二性を明確に認識し、それを芸術や哲学において言葉を使い表現することを通じて、(この地球上で)唯一の実存として現れる。 (注)ここで「外的」という言葉は、外部からの観察者(つまり人間)にとってのみ意味を持つということを表現する。一方「内的」とは対象となる存在者にとって意味を持つということを指示する。私は私の唯一無二性を意識しており、それゆえ「唯一無二性」は内的な性質となる。  晩年のハイデガーはこのような実存の説明を人間中心主義(ヒューマニズム)として批判し、ポストモダニズムは総じてハイデガーの批判を継承している。しかし、それでも、人間の持つ実存的な性格を否定することはできない。そして、そのことを通じて、人間は他のあらゆる存在から区別される。  このことは、人間の優位性や特権を示すものではなく、況や人間が自然や他の生物種を侵害することを正当化するものではない。ただ、それが人間という存在の特異性を示していることだけは間違いない。人間に限らず、あらゆる生物には様々な苦痛がある。しかし人間的な苦悩を共有する存在は他にはいない。そして実存こそがその人間の特異性を説明する。哲学の学派としての実存主義は今では過去のものとなっている。しかし、実存という概念とそれに関する真摯な思索が意義を失うことはない。 了 (補足)  人間的な苦悩とは、まさに自分の唯一無二性を認識することのうちに在る。私は私以外の何物にもなれないという事実が私を苦しめる。そして、そこから人の変身願望が生まれる。私は変身することで、私以外の存在へと生まれ変わることができるように感じる。それは勿論幻想に過ぎないのであるが、この願望があらゆる芸術の根底にあると言ってもよい。カフカの「変身」は悪夢であるが、それでもカフカの願望を表現しているのかもしれない。
  • ☆ 歴史は繰り返すか ☆

    • 4
    • 2014/10/12 08:58
    ☆ 歴史は繰り返すか ☆ 井出薫  「ヘーゲルは歴史上の大事件と大人物は二度現れると言った。しかし、彼はこう付け加えるのを忘れた。最初は悲劇で、2度目は茶番劇だと。」マルクスは、ナポレオン3世登場の時代を評論したその著「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」にこう記している。  グルジアを巡るアメリカとロシアの対立は新冷戦などと称されている。国内では、小林多喜二の「蟹工船」がベストセラーになり共産党員数が急増している。歴史はやはり繰り返すのだろうか。  新冷戦については、マルクスが皮肉ったように、どうも茶番劇に終わりそうな予感がする。アメリカとロシアの間に明確なイデオロギー対立があるわけではなく、石油などの既得権益への思惑や民族意識の高まりへの恐れがあるに過ぎない。おそらくアメリカもロシアも本気でエスカレートするつもりはなく、両国が互いの利益を確保したところで手打ちがおこなわれるに違いない。勿論、冷戦時代に戻ることなど御免蒙りたいし、況や本気で戦争など始められては元も子もない。聊か見苦しいが茶番で終わりにして結構だ。ただ、今回の事件が世界の人々の現状認識を深め、より良い世界を模索する上での手掛かりとなる可能性はある。それに是非期待したい。  一方、共産主義への関心の高まりは単なる茶番とは言えない。金融商品を運用するだけで膨大な富を手にする者がいて、企業が空前の利潤を得ている一方で、身分保障がなく労働条件も劣悪な派遣社員や業務委託で働く社員が増えているのは紛れもない事実だ。対策が叫ばれながらも自殺者が3万人台という高水準で推移していることも見逃せない。全選挙区での候補者擁立の見送りなど選挙戦略の見直し、インターネットによる党大会の公開など変化の兆しが伺えるとは言え、依然として中央集権的な体制が維持されているなど旧態依然の感が拭えない現在の日本共産党では党勢拡大にも限界があるが、時代の流れを的確に把握して新しい党体制を生み出す知性と柔軟性と気概を育みそれを実行に移せば、日本の政界で、共産党が強力な対抗勢力となる可能性は十分にある。「マルクスは世界的に再評価されている」、「蟹工船がヒットして、共産主義への若者の関心が高まっている」などと言って自己満足に浸っているのではなく、現代の日本社会そして世界の在り方に批判や不満を持つ者たちに対して、自説を主張する前に、その声に耳を傾け何が問題の本質なのか、何をなすべきなのかを真摯に考えることができれば、一段の飛躍が可能となる。20世紀型の共産主義は明らかに失敗に終わった。独裁的な政治体制を別にしても、ソ連・東欧の中央集権的な計画経済は勿論、旧ユーゴスラビアや一時期のポーランドなどで行われた労働組合による企業管理も上手く機能せず、経済体制としては20世紀型共産主義が破綻したことは否定できない。21世紀が環境の世紀だとしても状況が一変するわけではない。私たちの経験は、資本主義を克服した社会でも市場機構や貨幣(あるいはそれに相当するもの)は経済運営に不可欠な道具として存続することを教えている。しかしながら、経済活動が利潤獲得という動機で駆動される資本主義が永遠に機能し続けるとは思えない。環境に優しい循環型社会=脱資本主義社会というのは短絡的な発想だが、それでも歴史が脱資本主義へと向かっていく可能性は高い。利潤獲得とは異なる動力源を有する市場経済と真に公平な民主制社会、こういう未来が想像できる。ただ勿論注意も必要だ。「共産主義実現」、「人民大衆のため」、こういう美名の下で、如何に多くの人権侵害や非道な暴力が繰り返されてきたか、日本でもかつて過激派の暴力で多数の尊い人命が失われた、その歴史的事実を忘れてはならない。暴力や人権抑圧が繰り返されたら、今度こそ共産主義に最終的な止めを刺す必要があるということになってしまう。共産主義に関心を持つ若者には、一時の熱狂で動くことなく冷静に物事を考え行動することで社会を変えていく、こういう姿勢が強く望まれる。  いずれにしろ、寄せては引く波が少しずつ海岸線の形を変えていくように、人間の社会もまた同じことを繰り返しながら少しずつ変わっていく。人々が世界の現状をよく理解し、熟慮と真摯な討議を通じて良い方向へと動いていくことを期待したい。
  • ☆ 共産主義が衰退した理由 ☆

    • 29
    • 2014/10/12 18:46
    人間には、本来的に、捨て切れない利己欲が備わっている。 他人より豊かな生活がしたい。 もっと美味い食事がしたい。 大きな家に住みたい。 金持ちになって、美人と結婚したい。 子供には、苦労させたくない。 共産主義は、人間が本来的に持つ、これらの基本的欲望を、捨て去るように要求する。 それが共産主義社会が成立する要件だからだ。 しかし、そんなことは不可能なのである。 ******************* このように、人間の自然の姿 (=本来の人間性 )に、共産主義が合致しないから衰退したのである。( あるいは反しているからである ) だから、[ 頭でっかち ] な人間が、いくらマルクスの共産主義思想に共鳴しても、人間社会全体の支配的思想になることが出来なかった。
  • 歴史は常に

    • 2
    • 2014/10/14 21:25
    捏造されるものだ
  • ☆ 生産力を形成するもの ☆

    • 2
    • 2014/10/16 20:49
    ☆ 生産力を形成するもの ☆ 井出 薫  マルクスは生産力こそ、人間の歴史と社会を規定する最重要な土台だと考えた。生産力の発展と共に、社会体制は、原始共産制、奴隷制、封建制(農奴制)、資本制と発展し、最終的には共産制が実現するとマルクスは主張する。このマルクスの考えが正しいかどうかは別にして、生産力が極めて重要な要素であることは間違いない。江戸時代の生産力では資本主義は不可能だったし、民主制も成立しなかった。江戸の文化は、江戸時代の生産力を背景としている。  しかし「生産力」とは何かとなると、これが案外難しい。生産に不可欠な要素として、労働力、生産用具(労働手段)、原料・燃料・半製品などの材料(労働対象)が挙げられる。しかし、これだけでは生産は実現しない。労働者を集め、原材料、機械を揃えただけでは生産は開始されない。適切な生産体制を組織し、労働者に規律を守らせ、機械や原材料を適切に配備することで、初めて生産が実現する。つまり3つの要素を適切に結合することが肝要となる。  この結合が上手く機能するには、適切な計画を立案し、実施状況と計画を突き合わせ乖離が生じていないか、さらには市場の動向を注視し、過剰あるいは過小な生産になっていないかを、適宜、点検し調整することが欠かせない。企業におけるこれらの管理機能は極めて重要で、生産力の重要な一部をなす。生産力は3つの要素とそれを適切に結合するための管理機能からなる。  しかし、生産活動が円滑に進むためには、これだけではまだ十分ではない。労働者が遂行すべき業務を正しく理解し、規律を守り、誠実に業務を遂行することが欠かせない。未熟練労働者で、規律を守る意識が乏しい者たちばかりの集団では、如何に巧みな計画を立案し生産体制を組織しても、絵に描いた餅に終わる。  では、どうして、労働者たちは自らの任務を理解し、規律を守り、適切に業務を遂行するのだろう。マルクスの時代であれば、そうしなければ職を失い生きていくことができないからということで説明が付く。しかし、現代では、この説明は多くの場合成り立たない。不景気で職がなくブラック企業でも大人しく働かざるを得ない場合もあるが、たいていの労働者にとって生きていく手段は複数存在し、職場環境が悪ければ転職する。それを手助けする社会的な組織も複数存在する。  大企業では、高い賃金、充実した福利厚生、年金制度などで労働者たちの歓心を買い、労働意欲を高め、労働生産性を上げることができる。しかし、現代では、そのような恵まれた労働者の数はさほど多くない。EU諸国では、多数の移民労働者が低賃金できつい仕事をしている。日本では、非正規雇用の労働者が、低賃金、低い福祉、低い社会保障という環境下で、正規雇用の労働者が嫌う仕事を黙々とこなしている。彼と彼女たちがそれでも規律を守り誠実に働くのは何故だろう。EUと日本では条件が違うので、ここでは日本を取り上げる。
  • バレーなどの身体表現芸術は視覚芸術である??

    • 99
    • 2014/10/17 00:25
    バレーは舞踏だが、あらゆる舞踏は視覚芸術ではなかろうか? 何故ならば、それは(バレー・舞踏)は音楽を伴わずとも単独で十分表現されている。 バレーならば目の前に大きな鏡を設け、それに写る自分の姿・動きを観察しながら踊りを作り上げる。 ”どう見えるか”を考えながら身体を動かす。 身体を道具に表現を見せてくれるわけだ。身体は道具であって表現の主体ではない。 バレリーナが芸術として自分の踊りを創作するとき(振付師と共に作り上げる時)、必ずどう見えるか?の計算をしている。 よってバレー(舞踏)は見るモノで、視覚芸術である。 画家は色彩を道具にあらゆる工夫を施し絵画を創作する。”どう見えるか?”の計算を無意識だったとしてもしている。 絵画同様バレーも視覚芸術である。 全ての(身体表現芸術も絵画も彫刻も)芸術はイメージを主体としてあらゆる異なった道具を駆使して表現されたものである。 イメージを主体として表現する行為を今でいう「表象行為」と言うのではなかろうか? その行為には具現の為の道具が必要で、その道具は数限りなくある事から多種多様な芸術が存在するのではなかろうか?
    • 2
    • 2014/10/18 09:17
    実験から考察すると犬も夢を見るらしい
  • 古代ギリシア人から見たら

    • 2
    • 2014/10/18 09:19
    現代日本人は、未開民族そのものだろう
  • ネットは

    • 4
    • 2014/10/18 17:32
    使いよう
  • ☆ コンピュータの原理を勉強しよう ☆

    • 9
    • 2014/10/18 19:58
    ☆ コンピュータの原理を勉強しよう ☆ 井出薫  シンドラー社のエレベータが以前プログラムのミスが原因で何度か事故を起こしていたと報じられている。同社は、今回の死亡事故とは無関係だと説明しているが、感情のないプログラムで制御されている機械の恐ろしさを思い知らされる出来事だ。  エレベータの制御に限らず、現代社会ではいたるところにコンピュータが浸透して、あらゆるものがコンピュータ制御されている。コンピュータがトラブルを起こすと、電車の運転は不可能になり、航空機の離発着もままならなくなる。銀行から預金を引き出すことも、クレジットカードを使うこともできない。幸か不幸か、世界中のコンピュータのほとんどは独立して動いているから、一斉にコンピュータが故障するということはない。しかし、インターネットの普及で、コンピュータの相互結合は強まっている。情報漏洩の頻発やウィルス・スパイウエアの蔓延などは、その象徴だと言えよう。  ところがこれだけコンピュータが普及しているにも拘わらず、人々はコンピュータのことを恐ろしいくらい知らない。20世紀初め、マックス・ウェーバーは「現代人の合理主義とは、世界は合理的に動いているはずだという信仰に過ぎない」と警告したが、ウェーバーが亡くなってから86年も経つのに、状況はほとんど変わっていない。いや寧ろその間の科学技術の目覚しい進歩とその普及は、益々人々の合理主義を盲目的なものと化している。  「コンピュータはどうやって動いているのか」、「CPU、メモリー、ハードディスク、入出力装置、これらはどのように連携をとって動作しているのか」こういう質問をされて、まともに答えられる人は10人に1人もいないだろう。現代の日本社会に多大な影響を持つ閣僚の皆様に、こういう質問をしたときに答えられる人はどれだけいるだろう。たぶん数人しかいないだろう。  もちろん、こういう質問に答えられないからといって閣僚の資質が問われることはない。知らないからといって、誰も恥じることはない。科学技術と産業が進歩すれば、私たちの身のまわりは、それがどのように動いているか分からないものだらけになるのは当然のなりゆきだ。いくら教育課程を充実させても、書籍やネットや社会人向け教室で知識を提供しても、人の脳に収まる情報量は限られている。いまの時代、どんな天才でも、どんな博識な人でも、知っていることより知らないことの方が遥かに多い。斯く言う筆者も、ときたま上の質問には何とか答えられるが、身の周りにある機械がどのように動いているのか、ほとんど知らない。  だが、コンピュータ制御がこれだけ普及してくると、やはり可能な限りすべての人が、ある程度はコンピュータの動作原理やOSの働き、プログラムの理論などについて知識を有することが望まれる。さもないと、100年後には、一握りのコンピュータの専門家と人間を凌ぐ学習能力を持つ自律型コンピュータに、人間は家畜のように支配されている、という悪夢が現実化するかもしれない。「経済学を勉強する目的は経済学者に騙されないためだ」とケインズの弟子ロビンソンは言っていたそうだが、コンピュータに支配されないためには、コンピュータの動作原理を勉強しておく必要がある。コンピュータは、他の機械と違い、人間を支配する力を持ちうることを軽視してはならない。  近年の学校の教育課程では、小さい頃からコンピュータに関する学習が進められているらしいが、子供たちに質問しても、コンピュータの基礎を理解しているとは思えない。それは大人たちがコンピュータに無知だからだろう。親に質問しても親が全く答えられないというのでは、子供も知識が身に付かない。  コンピュータ全般を理解することは易しいとは言えない。特にプログラムの原理を完全に理解するにはかなり高度な数学の知識が必要となる。しかし、先に質問したCPU・メモリ・ハードディスク・入出力装置の連携やOSの役割を理解することは誰でもその気になればできる。ワードやエクセル、インターネットエクスプローラーやアウトルックなどを一通り使いこなせるようになったら、是非コンピュータの原理についても勉強してもらいたい。コンピュータ社会で人々が安心して便利で豊かな暮らしを享受するためには、みながコンピュータの原理の初歩くらいは知っていることが不可欠だ。
  • 愛するということ

    • 26
    • 2014/10/18 20:59
    『愛』について語るトピです。 1、あなたは愛する人が居ますか? 2、あなたは家族を愛していますか? 3、貴方には心に残る愛すべき「言葉」がありますか? 4、貴方には愛する考え(思想など)がありますか? 以上の事に問題があれば一緒に考えましょう。 また、愛する対象が上記以外にあれば教えて下さい。
  • ☆ マルクスの三位一体とその限界と可能性 ☆

    • 2
    • 2014/10/19 06:28
    ☆ マルクスの三位一体とその限界と可能性 ☆ 井出 薫  三位一体(三つの位階が実は一つの実体)という言葉はよく使われるが、マルクス「資本論」は見事な三位一体をなしている。「労働価値説」、「労働過程論」、「剰余価値理論」、この三学説がそれだ。  商品価値は商品を生産するために必要な社会的平均労働時間だとする「労働価値説」から、生産に必要な労働力と生産手段のうちで新しい価値を作り出すのは労働力だけとする「労働過程論」が必然的に帰結する。生産手段が価値を作り出すのであれば、商品価値は労働時間だけでは決まらないことになり、労働価値説と矛盾するからだ。  労働価値説から剰余価値理論も必然的に帰結する。商品の価値が労働時間で決まる以上、資本家と大土地所有者が取得する利潤・利子・地代は労働者の剰余労働から生まれるしかない。  逆に労働過程論から労働価値説を導くことも容易にできるし、剰余価値理論から労働価値説を導出することもできる。このように三つの学説は等価とみてよく、ここに資本論の壮麗な体系が成立する。 (注)厳密に言えば、「労働力の担い手である労働者は、労働力それ自身を再生産するために必要な労働時間よりも長く労働することができる」という事実を追加することで初めて、労働価値説と労働過程論は剰余価値理論と等価になる。また、剰余労働が剰余価値という形態を取るのは資本主義的生産・流通過程が存在する場所に限られる。だから、剰余価値理論が、労働価値説並びに労働過程論と等価なのは、労働力再生産に必要な労働時間を超えた剰余労働が可能であることと、資本主義的生産様式が普及していることを前提したときだけということになる。だが、「資本論」が資本主義の本質の解明を試みる著作であることを考えれば、三学説は等価になる。資本主義を解明するということは、資本主義という現実を前提することであり、およそ資本主義が成立するほど生産力が向上した社会では、どこでも剰余労働が存在するからだ。  数学や理論物理学を除いて、これほどまでに完璧な論理的整合性を持つ壮麗な理論体系は、「資本論」以外一つもないと言っても過言ではない。共産主義運動に共鳴するかどうかは別にしても、マルクスの資本論が偉大な著作であり、現代でも読む価値を失っていないことは誰にも否定できない。  しかし、論理的完全性が資本論の致命的な弱点でもある。三学説の一つでも否定されれば、すべてが疑わしくなってしまうからだ。  事実、労働価値説は正しいとは言えない。それは、精々、共同体の成員全員が可能な限り働かなくては生きていけなかった極めて生産力が低い原始時代や、飢饉などで危機的な状況にあったときを除いて成立しない。剰余労働の可能性がある場所ではどこでも、何をどれだけ作るかという点で、生産活動には恣意性があり、商品価値は労働時間だけでは決まらず、需要が決定的な影響を与えることになる。従って、同等の労働量が含まれている商品でも価値が異なることはある、いや寧ろそれが普通と言わなくてはならない。労働価値説が成立する状態とは、完全雇用状態と同じく現実的にはほとんど存在しえないものと考えなくてはならない。
  • ☆ ホヤも、私は私? ☆

    • 3
    • 2014/10/20 02:19
    ☆ ホヤも、私は私? ☆  11月24日付のネイチャー誌に、ホヤの一種ウスイタボヤに、人間の主要組織適合性遺伝子複合体(MHC)と同じような組織適合性遺伝子群が存在することを確認したという論文が掲載されている。  MHCは自分の細胞と他者の細胞を区別する働きを担っており、これにより人の身体は免疫系の働きで外部から侵入する様々な病原体から守られている。-その代わり臓器移植では拒絶反応に悩まされる。-ホヤにもそういう遺伝子のグループがあるわけだ。  人は誰でも、「私は私であり、他人とは違う。私は他人になることはできないし、他人も私になることはできない」と信じている。この確信が、実存哲学の源泉であり、心理学者エリクソンをして、セルフ・アイデンティティ(自己同一性)の概念を提唱せしめた。では、ホヤのような下等?な生物にも、「私は私以外の何者でもない。私は他のホヤにはなれないし、他のホヤも私にはなれない」という信念を持っているだろうか。  「ばかばかしい、ホヤにはごく幼稚な神経系はあるかもしれないが、人間のような高等な脳はなく、私は私だなどと考えているはずがない」と誰もが思うだろう。だが、そうとは言い切れない。そもそも、「私は私だ」という意識がどこから生じているのか誰も分からない。生物進化のどの段階で自己意識が生じたのか、誰も知らない。人間は、私は私だという意識を生み出しているのは脳だと勝手に信じ込んでいるが、実は科学的な根拠はない。  近頃はチェスや将棋の世界では第一人者でもコンピュータに勝てなくなりつつある。コンピュータやロボットが知性で人間を圧倒する日が来るのはそう遠いことではない。しかし、コンピュータがどんなに発達しても、私は私だという意識を持つことはない。もちろん「私は私で、他人とは違う」と音声合成装置を使って言わせるようにプログラムすることは至って簡単だが、それは単に機械的な動作に過ぎず自己意識の存在を示すものではない。映画「2001年宇宙の旅」で、乗組員を次々と殺害したスーパーコンピュータHALが、生き残った船長にシステムを制御するメモリを破壊される場面が登場する。そこで、HALは、まるで自己意識を持ち、死を怖れているかのように「お願いです、止めてください、恐ろしい」と切々たる声で船長に訴える。しかし、その声が如何にも死を怖れる人間と同じに聞こえるとしても、シリコンのような無機物質から製造されたコンピュータには自己意識はない。すべては機械的な動作に過ぎないのだ。だとすれば、高等な知的能力を司る脳を持っていることは、「私は私だ」という意識を有する根拠にはならないことになる。  自分と他人を識別する生物学的な根拠はMHCを核とする免疫系だけに存在する。そして、脳の活動を支える神経伝達物質系、身体の調整をする内分泌系、免疫系が相互に密接に関連していて、しかも共通点が多いことを考えると、免疫系の自己識別能力こそが、私は私という意識の源泉で、高次な脳機能はただ実存とかセルフ・アイデンティティなどというややこしい概念を作り出しているだけなのかもしれない。  もしかすると、ホヤは食べられるとき「ああ、私は食べられて死んでしまう。まだ死にたくない。」と泣いているのかもしれない。これからはホヤを食するときには、皆お祈りを捧げるべきだろう。尤も、私はホヤが苦手なので、その必要はないのだが。 了 (H17/11/29記)
  • ☆ チューリングとコンピュータ ☆

    • 3
    • 2014/10/20 18:16
    ☆ チューリングとコンピュータ ☆ 井出 薫  オバマ大統領が同性婚を認めると発言した。賛否は別にして、彼が今生きていればと残念でならない天才児がいる。その名はアラン・チューリング。今年はチューリングの生誕100年。世界各国でチューリングに因んだイベントが行われ多数の書籍が出版されている。  コンピュータの父と称賛されるチューリングは同性愛者だったと言われる。しかし当時のイギリスでは同性愛は犯罪とされ、チューリングは逮捕され強制的にホルモン療法を受けさせられる。その影響かどうかは定かではないが、精神的に不安定になったチューリングは41歳の若さで自殺する。コンピュータサイエンスや純粋数学だけではなく、非線形現象や数理生物学などの分野でも画期的な業績を上げたこの不出世の天才は、現代に生きていれば、長生きして、さらに大きな業績を残していたに違いない。現代社会はコンピュータなしには成り立たない。マイナス面もあるとは言え、コンピュータが産業と人々の生活とを格段に改善したことは決して否定できない。改めて、この偉人に敬意を表したい。そして、このような悲劇が繰り返されないことを祈りたい。  チューリングの最大の業績がチューリングマシンの提唱であることに異論はないだろう。現代のコンピュータはチューリングマシンの原理を実体化したものと言ってよい。もちろん、現実のコンピュータはチューリングマシンとは異なる。無限のメモリがあるわけではなく、その代わりに遥かに短いステップで計算が遂行できるように工夫されている。それでもコンピュータはチューリングマシンの一つのバージョンだと言ってよい。何よりも凄いことは、チューリングマシンがごく簡単な機能しか持っていないにも拘わらず、人間がなしえるすべての計算を遂行できることだ。「知能とは何か」という問いは難問でいまだに意見の一致をみていない。しかし、広義の計算が知能の重要な要素であることは間違いない。ライプニッツは、知能は全て記号処理=計算に還元されると考えた。ライプニッツが正しければ、チューリングマシンは人間の知能を100%再現できることになる。そして、なおかつ有限なメモリしかない人間にはできないことまでできることになる。コンピュータはチューリングマシンの近似的な存在でしかないが、それでも人間の知能に出来るほとんどのことが今では出来る。もちろん、パターン認識やアルゴリズムのはっきりしない自然言語の理解や翻訳など人間には遠く及ばない分野もあるが、いずれ人間に追いつく日は近い。一方でコンピュータなしには不可能な事業は益々多くなっている。もはやコンピュータなしには電車を走らすことも、金銭の授受をすることすらできない。現代社会はコンピュータとネットワークの土台の上に成立している。すでに多くの分野でコンピュータは人間を遥かに凌駕しており、やがてはコンピュータがコンピュータを製造し、人間の知能では想像もつかないようなことが実現される日が来るかもしれない。  さて、もうひとつチューリングで忘れることができないのが、チューリングテストだ。目の前にテレタイプがあり、壁の向こうのコンピュータと人間が操作するテレタイプと二本の線で接続されている。被験者はテレタイプから様々な質問をして、どちらが人間であるかを推理する。もし正答率が50%まで下がったら、そのときにはコンピュータは考えることができる(=人間と同等の知能を持っている)と認めてよいとチューリングは提案する。この提案には多くの異論がある。しかし、「思考」とか「知能」の明快な定義や説明がない以上、チューリングの提案は実に説得力がある。思考や知能を、人間存在に内在する何かではなく、他者との関係性において理解しようとする点では、20世紀以降の哲学的傾向とも一致する。いや、逆に、チューリングの提案が、自律した主体としての人間という概念に深い懐疑をもたらしたとも言える。
  • 理化学研究所 (官僚機構) の隠蔽体質

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    • 2014/10/22 20:13
    理化学研究所は、SATP細胞なるものが、実在しない嘘*捏造であることを、既に3月の段階で明確に認識していた。専門家集団として。 しかし、今もって、その事実を隠し、公表しようとしない。 このような隠蔽体質は、ちょうど東北大震災において、震災当日に原子炉のメルトダウンが起きていたのに、3ヶ月間も、その事実を隠していたことと同じである。
  • ☆ 労働者は何を売るのか ☆

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    • 2014/10/23 21:05
    ☆ 労働者は何を売るのか ☆ 井出 薫  マルクスは、労働者は労働を売るのではなく労働力を売ると考えた。マルクスは労働価値説(「商品の価値は、それを生産するために必要となる社会的平均労働時間」とする説)を取り、また等価交換(商品交換では、等しい価値のものが交換されるとする考え方)(注)を仮定するため、労働者が労働を売るとしたら、資本家は利潤、利子、地代の源泉である剰余価値を獲得することは不可能だと論じる。 (注)但し、マルクスは資本論第3部「資本主義的生産様式の総過程」で、資本主義社会では、等価交換ではなく、生産価格(費用に平均利潤を加えたもの)で商品は売買されると論じている。等価交換を想定する資本論第1部と第3部の論述との関係は、マルクス経済学では、以前から大きな問題とされている。但し、本稿ではこの問題については議論しない。また、この問題は本稿での議論には影響しない。  労働価値説と等価交換を正しいとすると、労働者が労働を資本家に売るのであれば、8時間の労働をした労働者はその対価として8時間労働分の賃金を受けとることになる。労働価値説では商品の価値は労働時間で規定され、生産手段(道具や機械などの生産用具、原材料や燃料、半製品など)から新しい価値は生まれないから(注)、資本家は剰余価値を得ることができない。 (注)生産手段から新しい価値が生まれるとすると、労働価値説は成立しない。なぜなら、労働をしない生産手段が新しい価値を生み出すのであれば、商品の価値は労働時間だけでは決まらないことになるからだ。  だから、マルクスは、労働者が労働を売るのであれば資本家は剰余価値を得ることができず資本主義は成立しないと考える。そして労働価値説と等価交換が正しいとする限り、マルクスは正しい。そこで、マルクスは、労働者は労働ではなく(労働の源泉である)労働力を売ると考えれば問題が解決することに気が付く。労働者が、労働力を一つの商品であるかのように売るのであれば、利潤をもたらす剰余価値が生み出される仕組みが成立する。商品の価値は商品の生産に必要な労働時間で決まる。だとすると商品としての労働力の価値も、労働力の生産に必要な労働時間で決まる。労働力の生産-生産というよりも再生産という方が適切であるが-に必要な労働時間とは、生活必需品の生産に必要な労働時間だと考えてよい。それがあれば労働者は生活ができ生産現場で労働することができるからだ。一人の労働者が生きていくために必要となる必需品の生産に必要とされる労働時間は4時間だとしよう。この場合、労働力の価値は労働時間4時間分(これを必要労働という)に相当する。ところが、この労働力という商品は他の商品とは全く異質な性質を持つ。それは他の商品と異なり自ら労働する。それゆえ、労働力は適切な環境が整えば、その(再)生産に必要な労働時間(今の例では4時間)を超えて労働することができる。マルクスは必要労働時間(4時間)を超える労働を剰余労働と呼ぶ。たとえば8時間働けば4時間の剰余労働をしたことになる。商品の価値は生産に必要な労働時間だから、等価交換の原則に基づき、労働者が受け取ることができるのは必要労働時間4時間相当の賃金に限られる。その結果、労働者が生み出した剰余労働4時間分は必然的に資本家の手に入る。資本家の手に入った剰余労働は、商品の流通過程で剰余価値として結実し、それが莫大な不労所得を得ている支配階級(産業資本家、金融資本家、大土地所有者)の利潤、利子、地代へと分配される。  これが壮大な体系をなすマルクスの資本論の土台をなす剰余価値生産の理論だ(注)。労働価値説と等価交換を正しいとする限り、この剰余価値生産の理論の正しさは疑いようがない。 (注)剰余価値生産には、労働時間の延長又は労働密度の強化(実質的な労働時間の延長)による絶対的剰余価値生産と、技術革新などで可能となる必要労働時間の短縮による相対的剰余価値生産の二つがある。なお、本稿では詳細は省略する。
  • ☆ 哲学とは何か(第4回) ☆

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    • 2014/10/23 21:09
    ☆ 哲学とは何か(第4回) ☆ 井出 薫  自然と社会を議論する前に、「真理」という概念について簡単に論じておこう。  真理とは、命題とか言明、たとえば「机の上に猫がいる」と、事実が合致していることを普通は意味する。  しかし、命題や言明が事実と対応することが真理の条件とは限らない。1+1=2は普遍的な真理だと言われるが、1個の物と1個の物を併せても2個の物にならないことはよくあり、現実世界では1+1=2は普遍的な真理とは言えない。数学的な真理は物質世界に関わる言明や命題と異なり事実との合致により証明されるものではなく、数学体系の整合性により保証されると考えなくてはならない。1+1=2、1+2=3、3-2=1・・・代数学の体系の中で1+1=2は他の計算結果と論理的に整合するから普遍的な真理とされている。つまり、1+1=2は世界の事実と合致するから真理なのではなく、論理的な整合性により真理なのだ。  幾何学では、非ユークリッド幾何学はユークリッド幾何学と同様に矛盾のない整合的な体系として認められており、非ユークリッド幾何学とユークリッド幾何学のどちらが真理かと問うことは数学的には意味がない。それぞれの体系の様々な定理は数学的にはどちらも普遍的な真理と言わなくてはならない。 (注)ただし、物質世界がどのような幾何学に合致しているかという問いは事実との照合により真偽が決まると言える。様々な観測結果から、宇宙が非ユークリッド幾何学に従うかユークリッド幾何学に従うかを決定することは可能だから、たとえば「物理的な世界は非ユークリッド幾何学に従う」という命題は事実との照合により真偽が決定されると言ってよい。物理学的な命題と数学的な命題とでの真理の規準が全く違う。  代数学でも幾何学でも、その真理は事実との照合で証明されるのではなく、体系の中での整合性により証明される。数学ではすべての分野で整合性が真理の規準であり、現実との比較は問題とならない。 (注)前回も論じたとおり、数学世界なるものが存在して、その世界の事実と合致した数学的な公理、定理が真理なのだという数学的プラトニズムと呼ばれる立場もあるが、非ユークリッド幾何学とユークリッド幾何学が共に成り立つことをどのように説明するか、その数学的世界とはどこにどのような姿で存在しているのか、私たちはそれをどのようにして認識するのか、こういう問いに答えることは不可能であり、数学的プラトニズムは正しいとは言えない。  では、命題とか言明が真理と言える条件は事実との一致か整合性のいずれかによる、と言ってよいのだろうか。  次に、「歯が痛い」という言明を考えてみよう。この命題はどのような事実と合致しているのだろうか。心の状態?だが、私たちは心の状態をどのように観察するのか。その事実を如何にして発見するのか。歯が痛いとき、私は自分の心を覗きこみ、歯が痛いという心の状態があることを知り「歯が痛い」と言うのだろうか。そして、心の状態とその表現が合致するときに、この言明は真理だということになるのだろうか。そうではない。私が「歯が痛い」と感じるとき「歯が痛い」は端的に真理なのだ。 (注)「歯が痛い」などという言明を真偽が問題となる命題と考えることに疑問があるかもしれない。このような言明は嘘か本当かが問題となるのであり、真偽を問うものではないという意見があるかもしれない。だが、嘘か本当かという問題も、真か偽かを問うていると考えることができる。
  • 誠実主義を読んでくれ

    • 3
    • 2014/10/25 20:24
    これはスレッドの宣伝です
  • ☆ コンピュータは考えるか、感じるか ☆

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    • 2014/10/26 11:34
    ☆ コンピュータは考えるか、感じるか ☆ 井出 薫  考えるコンピュータを作ることが出来るか。これは、「考える」ということが何を意味しているかを明確にしなくては解答できない問題だ。  「考える」という言葉は様々な使われ方をする。「考える」という言葉は人間だけに適用されると主張する人が居る。この場合、「考えるコンピュータ」は問題にならない。コンピュータは人間ではないからだ。一方、将棋や囲碁を指すことは考えることだという立場もある。その場合、すでに今のコンピュータは考えていることになる。  しかし、今のコンピュータが考えていると判断するのは無理がある。コンピュータの動作は高速だが、柔軟性に欠け、課題ごとに適当なプログラムを外部から与えてやらなくてはならない。これでは、私たちが持つ「考える」というイメージに合致しない。  だから、もっと誰もが納得できるような「考える」ことの規準が求められる。  コンピュータサイエンスの父アラン・チューリングは、チューリングテストを考案した。二台の電信用タイプライターがある。壁の向こうで、一台は人間と、他の一台はコンピュータと繋がっている。テストの参加者は、二つのタイプから質問をして、どちらがコンピュータか当てることを課題として与えられる。多数の参加者を集め、正解率が50%程度になったとき、つまり二人に一人は間違えるようになったとき、コンピュータは考えているとみなしてよい、というのがチューリングの提案だ。  現代の最高性能のコンピュータでも、このテストに合格することはできない。だが、原理的にこの課題をクリアするコンピュータは実現できないとする理由はない。チューリングの提案は、考えるコンピュータを作り出そうとする人々に現実的な目標を与え、なおかつ、「考える」という曖昧な概念に明確な定義を与えた。今のところ、チューリングの提案以上に優れた「考える」ということの説明も定義もない。  しかし、チューリングテストに合格するコンピュータが登場しても、「考える」という概念を適用することに抵抗感がある人は少なくないだろう。  「考える」ではなく「感情を持つ」が課題となれば、尚更そうだ。コンピュータが如何に進歩しても感情を帰属させる気にはならないという人が圧倒的に多いだろう。感情は生物だけが有する特権であり、無生物であるコンピュータが感情を持つことなどありえないと感じるからだ。  しかし、「感情を持っている」という概念も、「考える」と同様に極めて曖昧だ。蟻が感情を持っているかどうかは人によって意見が分かれる。犬や猫ですら感情を持たないと主張する人が居る。逆に、細菌やウィルスでも生命体はすべて感情を持つと主張する人も居る。  だから、「感情」についても、チューリングテスト類似のテストが有効だろう。その場合、姿かたちが人間と同じで、振舞いも全く人間と同じに見えるアンドロイドは、感情を持つと認定されることになる。  実際、アンドロイドが生身の人間ではないということを知るまでは、私たちは相手が感情を持っていると考える。ただ、相手がアンドロイドであることを知ったときには迷いが生じるだろう。  生命体であることが「感情を持つこと」の絶対条件だとすれば、アンドロイドは排除されるように思える。しかし、バイオ素子がコンピュータやロボットに利用されるようになり、その一方で人間の身体への人工物の導入が進めば、生物と無生物の境界も曖昧になってくる。自己複製・増殖能力は生命の特徴とされるが、自己複製・増殖能力を有する機械=オートマトンが存在しうることは以前から知られている。生物と無生物の境界線は絶対的なものではない。  それでも、感情を持つことは自然に生まれた人間と高等生物だけの特権だと考える人は多い。筆者も、その気持ちは理解できる。だが論理的な根拠があるわけではない。  科学の世界と現実の世界には大きな開きがある。今のところ、感情を持つと考えなくてはならないような機械が出現する見込みはないから、両者の乖離が現実的な問題となることはない。だが、将来、人々が両者の折り合いを付けるために苦労するときが来るだろう。 (H16/8/30記)
  • パンデミックが

    • 3
    • 2014/10/28 14:51
    起きる起きると言われて、何年たっただろうか? 狼少年みたいだ
  • 納豆*ニンニク*梅干し*玄米*ぬか漬け

    • 11
    • 2014/10/29 05:42
    最高の健康食品
  • ☆ ロボットを愛せるか ☆

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    • 2014/10/29 22:36
    ☆ ロボットを愛せるか ☆  見た目は人間そのもの、振る舞いも、知能も人間と同じ。ロボットであることを指摘されなければ誰も気が付かない。当然、それを知らないで、恋に落ちる男女もいるだろう。  さて、彼女(又は彼)がロボットだと分かったら、それでも男(又は女)は愛し続けることができるだろうか。  もちろん今のところ、これは単なる空想に過ぎない。ロボットと人間では素材が違う。どんなに精巧なロボットでも傍によれば人間ではないことはすぐ分かる。そばに近寄っても分からないとしても、抱き合えば違いに気が付く。だから愛の対象にはならない。言うまでもなく、知能や感情面でも差は大きい。特に人間のような感情を持たせることは難しい。人間のような感情を持たせることができたとしても、果たして私たちはロボットに感情を持たせたいと思うだろうか。意地悪なロボット、すぐに怒り出すロボット、気に入った相手にしつこく付きまとうロボット、雰囲気を察せず一人で騒ぐロボット、そんなロボットは御免蒙ると誰もが思う。特にそのロボットが怪力の持ち主だったりしたら大変な騒ぎになる。  それでも、人間は物好きだから、人間と寸分たがわぬロボットを作ることを夢見、研究開発を続けるだろう。原理的に不可能であることが明らかでない以上、いつの日か、それと知らず男女が恋に落ちるような人間型ロボット(アンドロイド)を作り出してしまう可能性がある。そのとき、ロボットであることを知ってなおかつ、ロボットを愛することができるだろうか。  現代人のほとんどは「愛することはできない」と答えるに違いない。アニメやドラマでは、ロボットと知ってなお愛し続ける若い男、女が主人公の物語をしばしば見かける。しかし、現実には、愛情の対象は、あくまでも人から生まれた人であり、人工的に製造されたロボットではない。人を愛するとき、相手が人であることを一々意識することはないが、それは人以外でも愛せることを意味するのではなく、人以外は愛情の対象となりえないことを意味している。  愛していた相手がロボットだと分かったら、最初のうちは、戸惑いながらも愛情が残るだろう。しかし、段々と気持ちは冷めてくる。そして目の前にいるのはロボットだという事実を冷静に受け止めることができるようになったとき、大切に思う気持ちは残っても、愛は消え失せる。それで問題はないし、寧ろそれが人間として健全な態度だと言える。  しかし、将来は分からない。近代化とともに、人間は自律した個人として確立した。しかし個人であることは、必ずしも人間の本質ではない。洋の東西を問わず、前近代社会では、人間は個であるより集団の一部だった。そして、集団から個へと変容するとともに、愛情の在り方、表現方法、そして儀式が変化してきた。時代と共に、愛は変化しうる。  だから、いつの日か、ごく一部の変わり者だけではなく、普通の人が、普通にロボットを愛せる日がくるかもしれない。人とロボットの婚姻や親子関係が認められ、婚姻や親子関係が認められたロボットには人間と同等の諸権利が付与される。こういうことはありえる。現代人の多くはこういう世界は異常な世界だと感じるだろう。筆者自身も同じように感じる。しかし、個人であることが行き過ぎ、無縁社会などと呼ばれるところまで辿りついた現代、少し空想を膨らませれば、そういう時代が来ることがありえると気が付く。それどころか、高齢化が急速に進み、孤独な老人が急増している現在、寧ろそういう世界を必要とする日が迫っているようにも思える。 了 (H26/10/26記)
  • 不完全性定理の帰結 ⇒ 数学的実在論

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    • 2014/11/02 03:41
    ■『ゲーデルの哲学──不完全性定理と神の存在論』(高橋昌一郎=著/講談社 20世紀前半には、古典的世界観と人間理性を根底から覆す発見が相次いだ。物理学では相対性理論と量子力学、数学ではゲーデルの不完全性定理だ。1920年代の数学界では、厳密な構文論に基づく公理系を構築し、その無矛盾性と完全性を証明しようとするヒルベルト・プログラムが構想されていた(哲学ではフッサール現象学がそれに呼応する)。ところが、ゲーデルの不完全性定理は、いかなる数学システムにおいてもすべての真理を証明することは不可能であることを、数学的に証明してしまった。  不完全性定理は「数学の恣意性」を証明したのではない。ゲーデルは次のように述べている。「数学を生み出す原材料や基礎は、何らかの客観性を有するはずです。たとえ、数学の一部の構成要素が人間の創造であったとしても、実在論的観点なしに数学全体を考えることはできません」(p.166)。ゲーデルは唯名論を批判し、数学的実在論を立証しようとした、という著者の考察に、目からウロコが落ちる思いだった。フッサール現象学を突き抜けてハイデガーが「現存在」の分析へと向かったように、晩年のゲーデルは神の存在証明に没頭したという。
  • ☆ 数学の哲学~すべて決っているのか ☆

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    • 2014/11/02 06:49
    ☆ 数学の哲学~すべて決っているのか ☆ 井出 薫  論理学、あるいは数学の体系は、公理、推論規則、定理の3つからなる。公理は証明なしで真理とされ、定理は公理や他の(公理又は他の定理から演繹規則により導出された)定理から演繹規則により導かれる。公理と演繹規則の正しさは一般的に直観と体系が無矛盾であること、つまり「Aかつ非A」のような矛盾を含まないことで正当化される。但し、直観はしばしば当てにならないし、無矛盾であることを証明することは容易ではない。どんな数学の体系でも、その内部では無矛盾であることを証明できないことは、ゲーデルの第2不完全性定理として知られている。それゆえ、論理学や数学は、その明証性にも拘わらず、それが本当に真なのかは実のところよくわからない。ただ、圧倒的な証拠、数学が他に比べるものがないほどに優れた道具として、学問において、そして実生活や産業活動において絶大なる威力を発揮し、文明を築き上げる土台となっているという現実が、数学や(数学の基礎的な一分野とも言える)論理学が真理であることを示唆している。だがそれが本当にそうなのかは分からない。 (注)現実の様々な数学分野を調べてみると、公理と演繹規則から全ての定理が導かれている訳ではないことが容易に分かる。微分幾何学、位相幾何学、関数解析などを、全数学の基礎とも言うべき自然数論に還元することは現実的にはできない。自然数論に近い代数学でも、自然数論に還元される訳ではない。各数学分野にはそれぞれ固有の原理や方法が存在して、単純に少数の公理に還元できる訳ではない。  しかし、本稿で取り上げる問題は、全数学が特定の公理体系から演繹できるかという問題ではない。私たちが関心を持つのは、もし公理と演繹規則が与えられたならば、そこから証明される全ての定理(通常、無限にある)は、あらかじめその時点で存在すると考えてよいのかという問題だ。つまり、公理と演繹規則が定まった時点で、すでに全定理は存在し、ただ、まだ私たちが定理の証明に成功していないだけだと考えてよいのか、そうではないのか、さらに言えば、公理と演繹規則自体が、それが発見(発明?)される前から存在すると考えてよいのか、そうではないのか、これが本稿で検討する課題となる。  発見されようと、されまいと、証明されようと、されまいと、公理や定理はすでに存在しており、それは発見されることを待っているだけだと考える者が多い。数学界ではこのような考えは、数学的プラトニズムと呼ばれることがある。そして、数学的プラトニズムは多くの数学者から支持されている。小川洋子氏の傑作「博士の愛した数式」に登場する記憶障害を持つ数学博士も数学的プラトニズムを信奉している。
  • ☆ 私とは特別な存在か ☆ デカルト

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    • 2014/11/02 11:57
    ☆ 私とは特別な存在か ☆ デカルト 井出 薫  新宿駅改札出口の雑踏を歩いている。視界を遮る人々がまるで私と出会うために存在しているかのような錯覚に陥る。  視界に現われる人たちはすべて私の想像物に過ぎないのではないか。デカルトは本当にそこに人が存在するかどうか疑わしいと指摘する。  では、人々を見ている(想像している)私は存在するのか。勿論存在する。存在しないとすると、たとえ錯覚だとしても「見ている」という行為が成立しない。「見ている」とは「誰かが見ている」ということだからだ。  だが私とは誰だろう。私は私の身体ではない。私は私の手を見ることができるが、この手が本当に存在するかどうか疑わしい。背中や後頭部、さらには一番気になる顔は鏡を使わないと見ることができない。だから尚更その存在は疑わしい。鏡はしばしば錯覚の原因になる。  だとすると、私とは私の身体とは別な存在、つまり精神だということになる。デカルトはそう考えた。  哲学的に考えるとデカルトの結論は拒否しがたいものに思えてくる。  だが、そのとき、私の背中を叩く者がいる。振り返ると秋田に暮らす友人がそこにいる。偶然新宿で鉢合わせしたのだ。言葉を交わし軽く食事に行く。そのとき、私はもはや特別な存在ではなくなっている。それが精神であるか身体であるかなどということはどうでもよくなっている。私と友人の非対称性など、話題になることも、脳裏に浮かぶこともない。ビールを飲み、つまみを口にするとき、私も彼もごく普通に身体を持つ存在としてレストランの椅子に腰掛けている。  哲学的にものを考えるとき、兎角、人は自分の存在と思考を過大視する。だが、日常生活において、私の思考も語る言葉も別に他の者のそれと大して変わるところはない。そして、友と語らい仕事をする日常生活こそ私を私として特徴付ける場所なのだ。私は特別な存在ではない。友との偶然の出会いと語らい、それがそのことを証明している。 了 (補足)  「私は精神だ」というデカルトの主張と「私は特別だ」という主張には飛躍がある、「私と友人の非対称性」の「非対称性」という表現が唐突だという指摘があろう。私が精神であるにも拘わらず、友人は私にとっては物(身体的存在)としてしか現われない。このことが「非対称性」の意味であり、これにより私の存在は特別なものとなる。 (H19/7/11記)
  • スピノザ

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    年間、200人以上。 それが日本。
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    • 2014/11/08 23:36
    寿司を天ぷらにして食うそうだ、信じられない。
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    • 2014/11/09 22:25
    現代インド文化の諸要素が既に見られる
  • 古代ギリシャ人

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    • 2014/11/10 23:16
    なんで、あんなに凄い文明を創造できたのか?
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