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    1P1話というトピで、間借りしたように書いておりましたが、
    ご迷惑をかけているような気もして、引越ししました。

    ずっと、私の出逢った静かだけれど素敵な人たち、
    その人たちの優しい日々を、細々と綴っていきたいと
    想っています。

    短くも長い…拙いお話ですけれども・・・・。

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    星(☆ 10月4日 22:18

    【魅せられた街で】

    何年ぶりだろう?

    彼女は駅前を眺めて、そう思った。
    青い空は高く、風は際立って季節の変わりを告げて吹いていた。

    綺麗な傾斜が、静かに続く。
    あの頃と変わらずそこに佇む画廊、小さな家具類を販売する店舗。
    ぽつりぽつり、新しいカフェも見える。

    その人は、無垢な神経を社会にさらすたびに磨り減らせ小さくなって行った。
    彼女は、その小さなその人に何時までも残るであろう、確かな無垢のかけらがいとおしくて、その人が好きだった。
    その人の家族、とりわけ父親は健気なその人のかけらを包み込み、全身で守っていた。
    社会に先に出た者として、また、父親として。

    あれから、この街も幾つもの変革があり、その人も人の妻になり母になった。

    彼女は、今、その人に残ったかけらはその人が培ってきた強さに、まさに強固に守られてきたと確信する。

    いろんなことがあったものね。

    彼女は少し冷たい風に呟いた。

    本当に、いろんなことがあったものね。

    もう一度彼女は呟く。

    今度は、目を閉じてその人の面影に。

    星(☆

  • 【ベレー帽】

    彼女は昨年の秋が深くなる頃、その人にベレー帽を被せて撮った一枚の写真を見ていた。

    「マダムのようですよ。」
    彼女の言葉にその人は瞳と口元を静かに緩めて、微笑みを返した。

    大好きなお母様に逢えたかしら。
    彼女は、片付ける人の居ないその人の遺品を優しく撫でながら、そう呟いた。
    小さな手帳には、たくさんの知人の連絡先が几帳面に記してあった。

    「貴女に何かあった時に、知らせて差し上げないとならない人はありますか?」
    彼女の問いかけに、その人は、
    「ないのよ。」
    と、そう答えた時も穏やかな笑みで返して下さったと、彼女は記憶を辿る。

    その人が作り出した多くのきらびやかなドレスは、あの時のか細い指先よりも遥かに雄弁なその手から生み出されたはずだったけれど、その人は彼女にその頃の事は忘れてしまったのだと笑った。
    大切に仕舞われた手帳にも、その人の忘れてしまった日々の記憶が、確かに丁寧に重ねてあり、彼女を戸惑わせた。

    彼女は、その人のデザイナーとしての名前を記す名刺を手に取り、そっと包みこんだ。
    それはいつまでも暖かく、そして控えめな形をして彼女はその人の笑顔をもう想い、目を閉じた。

    星(☆

  • 【あの日の貴女】

    「あの日の貴女に逢いたいわ。」
    その人はお堀の樹木を見上げながら、彼女に言った。

    「どの日?」
    彼女は聞き返す。

    「こんな夏の終わりの夕暮れだったわ。」
    その人は微笑みながら、
    「あっ、りすが居るわ。」と見ていた樹木を指差す。

    もう、蝉の鳴き声のシャワーは止み朝夕は過ごしやすくなってきた。
    図書館の駐車場は何時もと同じように静かで、百日紅の紅いろは風を纏いながら時々気紛れにはね除けていた。

    その人の家は、お堀のすぐそばにまだあった。
    大正時代に建てられた洋館で、その庭には真っ白な百日紅が毎年咲く。
    玄関を入ると黒光りがする廊下が続き、菱形の嵌め込み窓が何ヵ所かある。

    彼女は何度も何度もその景色を見ていたので、その時その人の家を歩いているような錯覚を感じた。

    「貴女が葡萄を持ってお見舞いに来てくれた日よ。」
    その人はそう言って、駐車場の向こうにある池を見ていた。

    その人は、思春期に差し掛かる頃から病弱で高校になっても臥せる日が多く、彼女は時折見舞いに出かけて行った。
    物静かで、冬の風が触れる事さえ躊躇うようなか細い脚でゆっくり歩く。

    今、彼女の隣に居るその人は、時の流れの中でそれなりの荷物を身につけながら、あの日より逞しくなっていた。

    「あぁ、あの日の私ね。」
    彼女は栗鼠がいたという樹木を見上げながら、その人の頬が弾けるような柔らかさでそこにある事を確認する。

    池に流れこむ人工の小さな滝の音が、心地好く静寂の中で風に乗って聞こえてきた。

    風がやわらな色でどこかに旅立って行く。

    「そう、あの日の貴女」
    その人の声も静寂を舞った。

    星(☆

  • 【木漏れ陽がもたらす静寂】

    ショッピングモ―ルの二階の窓辺には、居心地の良いソファーがあった。
    彼女はそこで久しぶりに会った息子を待つ。
    彼は長袖のスポーツウエアを探すのだと言う。
    窓からは真っ青な空と、少し色合いが違う青い海が、お互いの存在を肩肘張ることなくほんの少し意識しながら広がっていた。
    心地よい風を眼で感じながら、彼女は微笑む。

    ヨットは繋がれながらも、その身を揺らして時を充分楽しんで居るようだ。

    やがて、彼女は息子と帰路に向かう。

    海沿いの道は、この時期には珍しく空いていた。

    「穴子を食べない?」

    「それ、良いね。」

    彼女たちは、大通りをひとつ入った店に入る。

    大きな窓からは、欅の樹が木漏れ陽をまるで音を奏でるように送り出していた。
    熊蝉が陽と戯れている。

    「ひとつ道を入っただけで、気持ち良い静けさね。」

    彼は瞳で微笑み返す。

    店を出る時、彼女が美味しくいただきましたと伝えると、涼やかな目元をした店の女性は、潮風に似た声で店の奥に言葉を伝えた。

    「美味しいと言っていただきましたよ。」

    庭に出た彼女を、潮風はとても優しくかすめて過ぎて行った。

    星(☆

  • 【キャラバンからはぐれて】

    「太陽は僕を見棄てたのかな?」

    君は、日が落ちて急速に冷えて行く大気から身を守るように、毛布を被りながら呟いた。

    せつなさが闇に紛れて、ヒタヒタと君を冷たく責め立てる。

    「駱駝の睫毛が好きだ。」

    君はごく薄く色を表した月に語りかけた。
    暫くすると、空は漆黒のその皮膚から無数の光を放ち始める。
    それは、遥か彼方から気の遠くなるほどの旅を経て君に届くために、疲れはてチラチラと息も絶え絶えではあるけれど、その息は彼の溜息を誘う位綺麗だったと、君は彼女に話してくれた。

    遠い記憶の砂漠のような夜の思い出なのだと言う。

    まるで、灼熱の砂の上をゆっくりと何かを標に無言で旅を続けていた、そんな時のふとした瞬間に何もかもが忽然とこの世から消えさってしまった夕暮れに、君は駱駝の睫毛を想いながら、朝を待ち続けたのだと。

    幻か夢なのか、しかしそんな孤独な夜があったのだと、君は彼女に優しさの限りを尽くしたような細い声で語った。

    彼女は君の睫毛を見ていて、自分の瞳に溢れるものを止めることが出来なかった。

    キャラバンはゆらゆらと地表と空の境い目に、憂いを漂わせて、まだ進んでいただろうか。
    駱駝は振り返らずに、何かを食むように独り言を呟いただろうか。

    星(☆

  • 【心を削る仕事】

    彼女の正面に立つと、彼はいつものように笑みを零れ位溢れさせて、彼女の両肩に手を置いた。

    「貴女は素晴らしい。」

    ともすれば大袈裟に取られる仕草と言葉で、彼は彼女を褒める。

    彼は、生きることが困難な環境の中で、孤独に膝を抱えうずくまっている人々を、優しく手を差し伸べて救いだす仕事をしている。

    彼が時折見せる険しい表情は、その孤独を生み出した人や行為や仕組みにしか、投げ掛けられないことを彼女は知っていた。

    それは、とても鋭い視線であり、どんな恫喝よりも容赦なく向けられたが、同時に非常に静かなものだった。

    「時に、人は流されて弱き者たちは置き去りにされる。」

    彼が呟くように語った言葉をか彼女は咀嚼しながら、自らもまた弱き者たちの救済の手立てを考えて来た。

    素晴らしいのは、貴方よ。

    彼の言葉をめぐらせるとき、彼女はそう思う。

    満面の笑みを湛えて、彼にそう言葉を掛けることはこれからもないだろうけれど。

    夕暮れになって現れた、ほんの少しの晴れ間を彼女は見上げて、今日初めて微笑んだ。

    星(☆

  • 【24歳の彼を想う】

    死の淵で、彼はホスピスの木漏れ日が射す部屋で、彼女と短い会話を交わしていた。

    彼は言葉を発することが叶わなくなっていて、文字ボードで彼女に言葉を伝える。
    彼女が顔を近づけると、彼の指は彼女の唇に触れた。

    それは、彼女と彼の共有して来た不思議な哀しみに似て、柔らかで優しい温もりを持つ指先だった。

    彼女は彼の瞳の色を探る。

    彼女は、物静かな父が弟のランドセルを、時折丁寧に磨いていた事を思い出す。
    その深い茶色に、彼の瞳は似ていた。

    人が生まれ持つ、哀しみを彼女はいつ感じたのだろうと、手繰り寄せた。

    何でもない、時の狭間にそれはふと現れる。

    彼女は、思春期の夏休みの昼下がり、誰も居ない伽藍とした座敷から眺める庭にそれを感じた。

    そして、彼と初めて出逢い共有した。
    雄弁に語ることもなく、人は誰にも伝えられない、胸の芯を共有するのだと、彼女は知った。

    それは、恋ではなくてある種の愛だった。

    それぞれに恋人も友人も日常も持ちながら、彼女と彼は夕暮れに二人で過ごす。
    スケートボードをしたり、ドライブをしたりとりとめのない時は何年も流れた。

    二十歳と二十一歳の出逢いから、その時は静かな霧のように彼らを穏やかに包んでくれた。

    彼女は年に何度かこんな朝を待つ。
    空が白々と明けていき、彼の頬と瞳とそこに漂う木漏れ日の波動を、いとおしく撫でながら。

    星(☆

  • 【6月の薔薇】

    久しぶりに彼らがやって来た。
    彼の妻は、両手に薔薇の束を抱え彼女に差し出した。
    季節限定で、その人は薔薇園のお手伝いをしている。
    その季節も終わりに差し掛かり、薔薇の花を彼女に届けに来たのだ。

    5月のそれより、優しい香りを放ちながら、薔薇は彼女の胸に抱かれた。

    「うん?何かあった?」
    彼が聞く。
    「何か?何もないわ。久しぶりの休みに素っぴんで草むしりよ。」
    「若返ってない?」
    そんな会話が薔薇を掠めて交わされる。

    何もないけれど、新しい花を植えたの。

    彼女は音にはせず、今朝植えた花の苗を見た。
    忙しくて見過ごしていた庭に、小さな花が芽吹いていて、いとおしくてね。

    雨は夕方から降り始めるという。

    彼らはいつものように、その人生を変わらず二人で歩いて行く背中を彼女に見せて、遠ざかる。

    彼らと彼女の狭間に、薔薇はなにも言わず居てくれた。

    星(☆

  • 【時を流れて来た物達】

    彼女は贈り物を探していた。

    時折訪れる街の、古い商店街の茶道具を扱う店の引き戸を引く。

    「花生けにしよう。」

    音にはせずに、彼女は呟く。

    階段を下りる靴音がして店主が現れた。

    「今日は何をお探しですか?」
    微笑みを細い頬に貯めて、店主が彼女に尋ねる。

    贈り物であること、それが長い間お世話になった御礼の品であり、受け取る人が年配の男性だと彼女は店主に伝えた。

    店主と共に陳列棚を見て回り、彼女は竹の花生けを選んだ。
    短い選択の時間を、店主はいかにも彼女らしいと思う。

    その竹が二月堂の松明であることと、良い選択だと店主は彼女に話ながら、桐箱を出して来た。

    「良ければ、こちらもご覧下さい。」
    店主は彼女を奥の部屋に案内する。

    花生けを丁寧に布と和紙でくるみ、桐箱に納めながら、

    「今、漆器が来ていましてね。」
    店主は彼女に流行りの情報などを語る。

    彼女は棗や水差しなど、それぞれの語りをその面持ちに秘めて、静かに並んでいる物達を眺めながら、そこに漂う時を楽しんでいた。

    店主は桐箱の上を和紙で化粧し、真田紐で結ぶ。
    厚手の布をロールごと机の上に置き、躊躇いなく裁断した。
    布の音が真っ直ぐに響いた。

    いとおしくくるまれた竹の花生けを彼女は受け取り、店を去る。
    引き戸を閉めても店主は笑みをたたまず、彼女はなぜか新茶の香りを嗅いだような気持ちになった。

    古い商店街の茶道具を扱う店の佇まいが、その香りと共に彼女を見送っていた。

    星(☆

  • 【藤の籠】

    彼女が小学生だった頃、登校時に出会う女性がいた。
    細身で何時もスカーフを巻いていた。
    バス停まで15分位だろうか。
    綺麗に脚を運び、真っ直ぐに歩く人だと思った。

    彼女が大人になって、勤め始めた画廊にその人はやって来た。
    買い物の途中なのか、右腕に藤の籠を掛けていた。
    それは、その人の身体の幅より大きくて、しっかりした造りだったから、彼女の記憶に深く刻まれたのだろう。

    その人の細く白い首には、子供の頃に見たスカーフはなく、少し淋しそうな首すじがかえってまぶしく感じられた。

    「この間、実家の母から貴方が此処に勤めておられると聞きました。」

    その人は彼女にそう言いながら、首をほんの少し傾けた。

    「私をご存知なのですか?」

    「小さな街だもの、私の母とあなたのお母さまが昔からお付き合いがあったそうよ。」

    彼女とその人は、そうした他愛もない会話を交わした。

    その人は、企画展を一回り興味深げに観て彼女に笑顔を送り画廊を去った。

    あの頃の朝とその日までの時に流れた風景を、彼女は思う。

    そう言えば、此の季節に咲いていたあの花の名前は何だったのか?
    神社の向かいの崖の上から、藤に似た白い小ぶりな花が垂れて咲いていた。

    画廊を閉める頃、雨の匂いがした。

    懐かしい匂いだった。

    彼女が母から、その人が少し不幸な結婚をしていた時期があったのだと聞いたのは、それから数年後の雨の日だった。

    星(☆

  • 【ストライプのブラウス】

    坂を港に向かって降りて行くと、百貨店がある。
    その人は、
    「買いたいものがあるの。付き合ってほしいのだけど。」
    と、彼女に言った。
    当然のように彼女は引き受け、二人は坂を下って行った。
    その人は、膝丈の黒いスカートをはいていた
    。ふわっとしたそれは、心地良さそうにその人の細い足を引き立てていた。

    一枚のブラウスを手に取り、
    「これしかないと思うのよ。」
    その人は彼女にそう言った。
    それは、袖の無い赤いストライプでシンプルなボウタイが着いていた。
    「赤?」
    彼女は驚いてその人に語り出す。
    「あなたが選らんだの?」
    「もちろん、これしかないと思って。」
    「黒や翠や蒼出なく?」
    「そう、赤。」

    その人は、何時も男もののシャツを好んで着ていた。柔らかい髪の毛は短くカットされ、合わせるものは膝丈のパンツが常だったために、彼女は赤いストライプのブラウスを選らんだその人にとても驚いた。

    「着てみるから、見てね。」
    その人は試着室に入る。

    ほんの少しの時を経て、彼女の目の前に現れたのは、意外なほど似合っているその人の姿だった。

    「これしかないよね。」
    彼女はそう言って微笑んだ。
    「そう、良かった。」
    その人は試着室に戻って行った。

    たったこれだけの短い時を、彼女はいとおしく撫でるように思い出す。

    『八月に重い病気にかかり、まだ治療に専念しています。』
    その人からのメールは二月の初めに届いた。
    その後のメールのやり取りは、短くたどたどしいもので彼女の不安は募る。

    遠い地のその人を彼女が思う時、潮の薫りが寂しそうに流れた。

    星(☆

  • 【彼の檸檬】

    彼女の母が亡くなって、七年目の一月に雪が降った。

    母を偲んで彼女は檸檬の樹を植えたのだけれど、それは年も越さずに枯れてしまっていた。
    彼女の庭に隣接する小さな果樹園は、亡き母の義弟が端正込めて作り上げたものだった。
    その彼も昨年鬼籍に入った。

    主の居ない庭は、淋しい佇まいで哀しいほど雪が似合っていた。

    彼の庭に今年も檸檬が沢山の実をつけて、雪の白と瑞々しい黄色が彼女の胸を打つ。

    小さな果樹園は雑木林のようであり、彼が愛した様々な種類の紅葉や活け花に使う珍しい樹が落ち葉を身から放ち、土を覆っていた。
    その命の繋がりの上にも、雪は積もっていた。

    彼女が檸檬に触れると、雪がはらはらと舞いながら落ちていく。

    檸檬の樹の刺さえもいとおしく、彼女は泣いた。

    明日も雪かしら?

    静まりかえった庭には返事もなく、ただ優しい色に包まれた絵の中を、雪だけが時を刻み続けている。

    星(☆

  • 【そっと、さりげなく】

    すっと、その空間にその人は歩き出した。

    時に、それは誰の視界にも入らず彼女は成すべき事を成していく。

    彼女は、その人の行動を眼で追う。

    ゆるやかに、その人は自分が必要とされる場所に身を運ぶ。
    そして、必要である行為を成す。

    何時もそうだった。

    その人は、そうした行為を楽しみもしていた。

    「歳をとったせいかしら、少し疲れました。」
    ある時、二人で出かけた車の中で、その人は呟く。
    彼女は、はっとした。
    疲れない訳がないその人の行いを、ただただ目を細めて敬いを持って眺めた自分が、彼女は愚かにすら見えた瞬間だった。
    それから、アームカバーを自国の姉の為に買いたいと言うその人の願いを叶える為に、二人は園芸用品売り場に行く。
    無駄な行動はせずに、その人は欲しい物を次々と購入した。

    そして、「もう、これで用事はすべて終わったわ。ありがとう。」と、彼女に礼を言った。

    ボランティアといわれる行為に対して、彼女は時折思いを巡らせる。
    受け入れる側の彼女は、果たしてその行為の生む善意の中に、ふつふつと湧く泡のような思いを見つけることなく終わらせてしまいがちなのではないか。

    その人が進む、自分が必要な空間。

    彼女は、自分が見るべきその人の空間を見過ごしてきた自分に気付く。

    別れの時、

    「心、やさしい」
    幾つもの言葉を探しながら、その人は短く彼女に言った。

    星(☆

  • 【戦士を見つけた】

    もう日傘も要らないほど、ゆっくりゆっくり陽がこぼれ落ちてくる。
    木々の葉は夏を名残惜しそうに、それでも花弁を実に変えて愛しみながら抱く。

    夏の刺すほどの陽の下で、毎日毎日働く人々を見た。
    彼等は汗を避けはしない。
    時に、帽子さえ着けずにタオルの下の額で太陽熱を受け止めていた。

    エアコンの効いたビルから、彼女が出かける。

    数分後、ワンピースに隠された背中に汗がつたう。
    彼女は厚手のハンカチを額に当て、空を憂いながら見上げ、ようやく日傘をさす。

    夏は嫌いではない。
    むしろ、汗だくになって歩くのは好きだ。

    けれども、この速すぎる太陽熱を受け続けてはいけない弱さを、けだるさと共に認めようとする。

    すく側に、降り注ぐ熱の真下で働く人々がいた。

    彼女は、敬意を持って彼等を戦士と呼んだ。

    彼等は、時とも戦っていた。
    上手く手繰ったり、ほどいたり、交わしたりなだめたり、遠ざけたりする。

    もちろん、熱も時も彼等を撃ち抜いて容赦なく挑んで来る。
    蓄積が目的ではない。
    それらは、戦っている訳ではないのだから。
    しかし、彼等の身体に溜まりながらエネルギーを吸収してしまう。

    彼等は、数々の術を持ち対峙していく。

    そう、彼女は彼等を本当に質の良い戦術士だと思う。

    太陽が熱の粒子を振りかける手を緩め、背中の汗が流れなくなった昼下り、彼女は風の来る方を探した。

    金木犀の香りが僅かに届いて、また去って行く。

    星(☆

  • 【あっ、虹】

    その日、彼女は既に一週間も行方不明になっていた書留郵便をやっと自分の手に戻した。
    4日ほど、あちこちの機関に問い合わせ、その封筒は彼女の手に戻った。
    あちこち破れ、無動作にテ―プが貼られていた。
    傷ついて疲れきった封筒を、彼女は最寄りの郵便局で受けとり直ぐ様駅に急いだ。
    どうでも明日には届いていないとならない大事な書類が、封筒の中で物言わず肩をすぼめていた。
    丁寧に破損した箇所を撫でて、彼女は書類バックにそれをしまう。

    幸い新幹線には直ぐに乗れ、その書類は届くべき場所に届いた。

    まだ汗ばむような湿った風が彼女の背中を掠め、彼女は再び新幹線に乗り帰路に着く。
    相変わらず、外国人の旅行者で新幹線はこみあっていた。

    今年の9月は雨ばかりだったわ。

    彼女は安堵とも落胆とも疲労とも言えない呟きを洩らす。

    ふと見た窓から、虹が二つ見えた。

    「あっ、虹」

    彼女は小さな鈴のような声をあげ、微笑んだ。

    鉛色の空に、オレンジの光がそっと息を吹きかけて夕焼けが長い一日を慰めていた。

    星(☆

  • 【水の中で泣いたことありますか】

    その人は唐突に話始めた。
    シンプルなカットのグラスの中でマドラ―を一度回した後、少し丸くなった氷を見つめたまま、
    「水の中で泣いたことありますか?」
    とその人は彼女に聞いた。

    「あります。」

    彼女は、今朝もいできた薄いオレンジのトマトの色を思い出しながら、そう答える。
    あの時、今朝みたいにボールに水を溜めながら、急に涙が溢れだしたのだ。
    哀しみは少しの時を置いて、こみあげてくる。
    彼女はボールの水に顔を臥せて泣いた。

    「プールでね、涙が止まらなくて体ごと沈んで泣いたの。」
    その人は、氷を見つめたまま語る。
    「暫く泣いて、仰向けになったら蒼い空が揺れれていたのよ。水面の模様を通して、初めて見た空。」
    その人は彼女に視線を移した。
    そして、少し微笑んだ。

    氷が微かな音を奏でた。

    綺麗な二層に分かれたミルクティ―を、彼女は作っては自慢気に息子に差し出した頃を思った。

    哀しみの最中に、人は平静を装うことを知った頃の日々に時は静かに流れた。

    そして、ふと訪れる慟哭は秘めたまま、また時は流れる。

    そっと、人に話せる時は優しい氷の音に似ていた。

    星(☆

  • 【私達は奇跡を生きて】

    特別とは何かしら?

    生きとしいけるものとして、何も選べずに産まれ、選べずに進む道を歩く。
    もちろん、私達は選びながらこの一瞬を進む。
    私はなに不自由なく生きているのかもしれない。
    けれど、泣きたくて泣けない夜も、目覚めて朝日が昇ることがとても幸せだと感じることもある。

    生きるとは、そんな時の重なりで、あたりまえであっても当然ではない。

    そこここに、意に沿わない出来事があり、けれど、意に沿って欲しくて私達は少しづつ逞しく、慎ましく、何が正しく何が間違いかを見極めようともがく。
    苦しいとき、足元を見つめ、やがて顔を上げて硬い頬をほどいて見せる。
    それが、強がりであろうとも。

    優しくありたいと思う。

    優しさが到底及ばない人は、現実としているのね。
    それが、絶望的に哀しみを生む。

    だけれども、そんな現実の中でも、確かに優しさは見え隠れしながらそこかしこにもあるのでしょう。

    そんな事を、誰かに話しかけていた。

    生を受けるという奇跡を生きている今。

    星(☆

  • 【ワイシャツの襟】

    「窮屈じゃない?」
    彼女は彼に聞いた。
    古い倉庫が連なった先に彼の雑貨屋はあった。一昔前、彼が店を継ぐ前は随分賑わったであろう駅前の商店街にその店はあった。
    何時も、糊の効いた硬い襟のワイシャツを彼は身につけていた。

    「気にならないけど。」
    彼は笑って答える。

    蒸し暑い梅雨明けの朝も、彼はそのいでたちで倉庫の膨大な商品を仕分けして車に積み込んでいた。

    「時代が変わったよね。募集をかけると国立大卒の男の子が普通に来るんだよ。今度は続いてくれると良いんだけどね。」
    彼がそういって雇い入れた配達要員の男性は、まだ勤めている。
    人気のない古い商店街の小さな雑貨屋は、それなりに経営が成り立っていた。

    彼はいい人だ。
    ク―ルで的確な言葉を、人懐こい瞳を和らげながら話す。

    彼女は彼の言葉が好きだった。

    一度、彼の妻に聞いてみたことがあった。

    「選んで咀嚼して、そしてまた選んだ様な言葉よね、彼が使うのは。」

    妻は、「そうそう、だけど回り道した跡もなく、とても真っ直ぐで、不思議よね。」そう答えて頬を緩めた。

    回り道した跡もなく・・・そうだ、回り道していないから真っ直ぐなのだ。

    彼女は麦わら帽子から唇にこぼれる夏の陽射しを少し揺らして、彼の妻と同じ様に微笑んだ。

    細い路地の影がほんの少し揺れた。

    星(☆

  • 【写真家に戻った彼】

    特に驚きもしなかった。
    彼が何十年かぶりに写真家に戻ったという。

    修行時代の話を、彼は何時も面白可笑しく話してくれた。
    生涯の生業として選んだ道を、家業を継がなければならなくなって閉ざしていた日々の中で、彼はよく撮影旅行の話をしてくれた。

    きっと、面白くもない日々の最中で愚直ひとつ漏らすでなく、自虐的に笑いを誘ったのだろう。

    妻は、家業を嫌い長年実家がある遠い街に帰ったままだった。
    それでも、時折逢っているという噂は耳にしていた。
    その妻が彼のもとにやって来た時、いずれ彼は元の道を歩き始める予感がした。

    今年の始めに、彼は家業をあっさり遠い親戚に譲り、写真家になった。

    簡単なことではなかったろうに、彼は嬉しそうだった。
    妻もまた、何時も笑っていた。

    花は何時も何処に必ず咲いている。
    彼女はそう思う。
    カラカラに乾いた砂漠にも、人が足を踏み入れたことのない密林にも、夢のような楽園にも花は咲いている。

    藪蚊がブンブン唸っている熱帯の森にも、花は咲き蝶々は飛ぶ。

    また、彼は愉快にそんな地に分け入った話など聞かせてくれるだろうか?

    楽しみだと、彼女は微笑んだ。


    星(☆

  • 【久しぶりに貴女と】

    その人から連絡が来なくなって随分たつ。

    彼女は思いがけなく空いた時間に、その人を訪ねた。
    オレンジのシフォンケーキとベーグルをお土産に、強さを増す陽射しを楽しみながら車を走らせる。

    何度通ったことだろうか。
    いつも突然の電話が来た。
    「動悸が酷くてすぐに来てほしい。」
    「なんだか不安で起き上がれない。」
    その人はとても緊迫した時間にいた。
    彼女はすぐに向かう。
    その人を病院に連れて行くと、大抵は異常は見当たらないから、しばらく休んで帰宅を促される。
    彼女に連絡が取れないときは、救急車を呼んだこともあるとその人は告げた。

    その人は娘と二人で暮らしていたのだけれど、大抵は娘が仕事で留守であったり、休暇中だとしても旅行に出かけて居るとき「発作」は起きるのだという。

    その日、その人の頬にかかる強い陽は静かに影を落としていたが、影の中でその人の頬はゆっくり緩んだ。
    優しい笑顔だった。

    「私ね、この歳になるまで世の中の厳しさに触れて来なかったのね、きっと。」
    そう噛みしめるように、その人は言った。
    彼女は、この春から一人暮らしを始めた息子の様々な出来事を話した。

    まるで人格を完全に否定された深夜のアルバイトであるとか、日々の生活の大変さなどを彼は彼女に面白可笑しく話してくれたから、そんな些細な笑い話を彼女は語った。
    その人は本当に可笑しそうに笑う。

    リビングの窓には遮光カーテンが閉めてある。

    ゆっくりその人は席を立ち、カーテンを開けた。
    潔きよい音がして、戻って来るその人の背中に陽射しが注ぐ。
    緑濃い夏の景色がその人の背景にあった。

    もう、夏ね。
    彼女は呟いた。


    星(☆

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