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    1P1話というトピで、間借りしたように書いておりましたが、
    ご迷惑をかけているような気もして、引越ししました。

    ずっと、私の出逢った静かだけれど素敵な人たち、
    その人たちの優しい日々を、細々と綴っていきたいと
    想っています。

    短くも長い…拙いお話ですけれども・・・・。

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    星(☆ 11月25日 09:48

    【降注ぐ優しさ】

    買って二年というその人の車は、まるで新車のようにきれいままで車庫に納まっていた。

    「千しか走ってないの。」
    その人は、はにかむように彼女に語る。
    「こみ合っている街中は特に怖くて。」

    彼女は、その人の病室での空の色を想像した。

    『きっと、今朝の空に似た色もあったのね。』

    車は静かに走り出す。

    「ナビの操作をお願いね。」
    その人は、強張りを彼女に語ることでほどいていく。
    高速道路は避けて、山間の整備された道を選び、二人は運ばれて行く。

    『本当は、初めてなのよ。貴女が運転する車に乗るのは。』
    彼女は想う。
    長い付き合いだ。
    高校時代からだもの。
    その人は、決してアクティブでもアグレッシブルでもなかったが、正面よりほんの少しだけ下に視線を持ちながら、静かに歩く。
    存在感が放つ者の持つ、ある種のひかりはいつもそこにあった。
    それは、外に自ら放たなくても注ぐものだど、彼女は思う。

    独りでその人が開いて来た時間の長さを、計る。

    大学も仕事も、その人は視線からは外す事なく、一つの線を選択して来たのだろう。

    『本当に、貴女が運転する車に乗るのは初めてなのよ。』

    彼女は、もっと早く気付けなかった自分を想う。

    きっと、そっと寄りかかる人が必要だったのだろう。

    休暇を取ると、その人は独りで異国に滞在していた。滞在先から彼女に届く便りには、静寂が描かれていた。

    星(☆

  • 【背中に太陽を感じて】

    ドライブが来週に延びてしまい、彼女は庭の手入れをすることにした。
    蔓延ったツルニチソウが、やっと八割がた消えているけれど、まだまだ荒れている。

    丁寧に雑草を引き、裏庭に貯めた堆肥を運んで撒いていく。
    堆肥には、先週ロ―ズマリ―とバジルを混ぜ、ざっくり掻き回しておいた。

    「良いかおり、上出来。」
    彼女は微笑む。
    堆肥は、すべて彼女の庭の産物で、枯枝や枯葉、そして果物の皮などで、充分乾かしてから積み上げている。

    庭土と攪拌していくのは、彼女の手。
    大人の女性にしては小さい。

    「揉むと言うより、結ぶの。」
    独り言を呟きながら、その作業を楽しんでいる。

    彼女の背中に太陽は集まってきて、作業を見守る。

    もうすぐ太陽は、手で受け止めたいくらい愛おしい少しのぬくもりを届ける季節が来る。

    その頃、彼女は柔らかい布をふんわりと首に巻き、ゆっくりと結ぶのだろう。

    星(☆

  • 【冬待ちの微睡み】

    小春日和の車の中で、その人が寡黙になっていく。

    「微睡み」
    彼女は独り言を呟き、流れる景色の中で泳いでいるような居心地の良さを感じていた。

    渇いた葉の音、まだ彩づけない紅葉の重なり、針葉樹の落ち着き、そんな静寂を抱いたものたちの命の息を感じながら、彼女は車を山裾の小路に進めて停めた。

    ポットに容れてきたコーヒーをカップに注ぎ、車を降りてゆっくり歩き始めた彼女の前に、小さな池が広がる。

    心に少しずつ溜まってしまった澱を感じた時に、彼女は何度か独り此処を訪れていた。
    冬咲きのひまわり畑の直ぐ側にある、静な秘密の場所。
    其処で、彼女は声を出さないで暫く泣き、帰る。
    彼女には、大切な時間に思えた。

    今、微睡みの中で穏やかに過ごす車の中のその人も、今日はそんな重なってしまったものを抱えて、彼女に会いに来たのだろう。

    鳥の声が、キラキラと輝く水面に吸い込まれ、何一つ音のない世界が再び舞い降りた。

    星(☆

  • 【涙が溢れる】

    これは叙情でもない。
    季節のせいでもない。
    刹那でもない。

    ではなぜ溢れる?

    彼女はそれがどういう感情なのか、測ることさえ出来ずに立ち尽くした。
    その人が亡くなって一月が過ぎた。
    特別親しかったはずもなく、大きな影響を受けた記憶もなかった。

    人が命を全うするに必要な事を、自ら集め形にしてから、その人は逝去された。とても静かにその死は時間に溶けて行った。

    その人は、彼女の亡き母と同じ日に生を受けた。

    ただそれだけの偶然が、いつまでも彼女の目頭を熱くさせる。

    誰にも説明できない何かが、彼女の胸を塞ぎ、人知れず嗚咽する。

    こんなにも空気がすみわたり、人の心に優しさが宿る夜だとしても。

    星(☆

  • 【あの三本のかしの木は】

    子供のころ、墓地はひとりで行けない場所だった。たとえ、通学路の側にあったとしても、なぜか足早に通り過ぎた。
    なるべく見ないようにして、暗黙のルールを皆守りながら、特別な場所として敬い、そして、怖れた。

    墓地の近くには、大きなかしの木が三本あり空蝉の宝庫として男の子たちの秘密基地でもあった。
    その木に登ると、空に近づけそうなほど大きかった。

    そして、空はいつも自分たちを超越した力と夢と美しさで真上にあり続けた。

    まるで、絶対に居なくならない両親のような存在の空を、私達はサワサワと風と大木が奏でる不思議な癒しに抱かれて、もう夏が終わりに近づいているのを感じていた。

    何もかもが大きくて遠くて、はるか彼方にえたいのしれない魔物が居て、その向こうに形も測れない位の未来があった。
    見えない形を僕らは見ていた。

    確か日々。

    星(☆

  • 【突然の】

    思いもよらず何かが起こってしまう。

    朝、雨模様の空を見上げながら、なぜか優しい歌を口笛で吹く。

    通勤の車で踏切の手前で止まった途端に、子雀が飛び立つ。

    自転車に乗った中学生の少女の髪が、流れるように揺れた。

    ありふれた風景の中で、時を刻む音は笑わない人形の表情で愛おしい。

    どこかで、何かが起こってしまう。

    その人は、今朝の出来事を彼女に告げる。

    大切な人の命の火が消えたことを。

    唐突に、どこかで何かが起こってしまう。

    抗えず、その術も知らず、時はどこにいたとしても容赦なく刻まれて行く。

    その人は、まだ泣かずに彼女に告げる。

    幾つも幾つも刻まれた時の向こうで、その人はやっと泣くのだろう。

    彼女は、人知れず涙を拭いながら、泣ける自分を少し責めた。

    もうひと月もすると、蝉が時の雨を降らせるだろう。

    星(☆

  • 【刺繍】

    「3年という時を止めていたの。」

    柏葉アジサイがこぼれ咲く玄関から、その人は彼女を迎え入れながら、そう小さく呟いた。

    母を鬼籍に送り、何もかもが止まってしまったのだと、その人は話始めた。

    「どこが良いかしら?仏間?それともリビング?」

    「お父様とお母様にごあいさつしてから、居間で話を聞かせて。」
    彼女はわずかに微笑みながらそう応えた。

    仏壇のラベンダーの花が、少しだけ彼女に香りを揺らめきながら届けすぐに去った。

    居間に移り、彼女は持参したケ―キを差し出し、
    「牛乳たっぷりのコーヒーで、いただきましょうか」とその人に語りかけた。
    その人が立上がり、彼女はその人のあまりにも薄くなった身体に胸が塞がれ、ことばが出てこないでいた。

    居間には灯りがついていない。
    対面式のキッチンで、その人はやはり灯りをつけずに、コ―ヒ―を淹れた。

    リビングの一角に、本や生活に必要であろう様々なものがまとめてあり、そこに空色の木綿の手提げ袋を彼女は見つける。

    「あれ、作った?」
    彼女が指差す先を見つめ、その人は、
    「長くかかったのよ。」と返した。

    そして、彼女が手にしたその手提げ袋には白とクリーム色、ウグイス色の糸で刺繍がしてあった。

    その人は、大手の衣服メ―カ―で、長年デザイン担当として務めた経験があった。

    彼女の胸に、点のような灯りが灯った。
    理由も確証もない。希望とはまた違う、輪郭のない、しかし、空色の中に点在する透明な星のようにそれは灯った。

    その人が手にしたトレーの上で、アイスコ―ヒ―の氷が音をたてた。

    星(☆

  • 【卯の花を綺麗だと言って】

    その人は梅雨を待っていた。
    九州や関東でははや梅雨入りしたというのに、春から少しずつ作り直してきた庭はカラカラに渇いていた。
    水を欲する草花と、たとえ砂漠でも何にも頼らず生きてみせるさと涼しげな木々。
    さわさわと五月は過ぎて行った。
    切ない事も思いがけない喜びも、すがしい香りの風がどこかしらへ運び去った。

    彼女は、まだ剪定前の雑木林のように見える庭で、卯の花が白い花を揺らせる様を楽しんでいた。
    モクレン、辛夷、利休梅、額紫陽花、カシワバ紫陽花、木槿、銀木犀とこの一角には白い花が咲く樹木ばかりを植えている。中でも梅雨前の卯の花は本当に美しいと、彼女は思う。

    そう言えば、同じ事を同じ場所で呟いたひとがいたわ。

    そんな事を巡らせて、彼女は庭を後にして乾いた地を歩いていった。
    星(☆

  • 【どうしたの?】

    なにもおいていない、真四角な玄関の正面にその人のスカーフがやはり真四角な額に納められ、柔らかなオレンジが不思議な優しさを放っていた。
    それはその人と同じ温度と空気だと、彼女は思う。

    何もない空間は、無力なまっさらな白さではなく、その人が日々積み重ねてきた白さなのだろう。
    昨日今日ではなく、コツコツと積み上げた時をその人は楽しみながら今眺めていた。
    彼女は、
    「優しい樹の色ね。」
    とその人に言う。

    『わたしが好きな形と色』
    彼女は言葉に出さずに言う。

    慌てて片付けたのではなく、慌てて飾ったのではなく、其処はその人がたくさんのため息を持ち帰り帰り付く度に、頬弛ませる場所なのでしよう。

    彼女はその人が飾ったスカーフに自分の心が弛む瞬間を楽しみ、それを見ているその人の笑みをあらためてみた。

    外はとても寒い夜で、月はスカーフに似たオレンジいろをしていた。

    星(☆

  • 【夢を見たのと君が話してくれた】

    夢を見たの。

    君が話し始めた。
    とても良い眠りから醒めた、子供の様な顔をしていた。
    小さな河が流れる古い街並みにある、日本家屋はほんの少し欧米様にリノベ―ションしてあり、君は程好い曲線を描く2階へと上がって行った。
    其処には、様々な作品が並べられており、一目で趣味の域を越えない、しかし直向きな絵画や織り物や彫刻や土器が、君をまっすぐに見つめてくれたのだと、君が話してくれた。

    それで、河はなにかを奏でていたの?

    私が尋ねると、君は驚いて「気付きもしなかったよ。」と答えた。

    ただそれだけの会話だけれど、研ぎ澄ました硝子を幾重にも重ねた冬の朝の外気に、私たちは身構えていたから、君と私の表情の廻りは少しだけ温かくなった。

    裸樹から、朝陽が覗いている。

    星(☆

  • 【柔らかな襟】

    とても悔いていた。
    彼女は、その人に逢いに行かなかった事を悔いて詫びた。

    夏の終わりに、その人からか細い言葉をメールで貰っていたのに、逢いに行くべきだった。

    あの頃、何故変に気遣ってしまったのだろうかと、彼女は瞳の淵に溜まる熱い涙を感じつつ、拭えなかった。

    「18歳をそのまま現しているようで、私は貴女が好きよ。」
    その人は18が間もなく終わろうとした夏の夕暮れに、彼女に告げた。
    彼女は、自分にはない、はるかに濃い歳を重ねたその人を美しいと思った。
    それは、今まで彼女の廻りには居なかった女性だった。
    その夏の大半を、その人は京都で恋人と過ごしたのだと、彼女に話した後、細くて白い顎を少しだけ引いた。

    しなやかに歩くその人の脚は、まっすぐで細い。

    「初恋は中学の頃。主治医の先生にね。病気ばかりしていたから私。」
    その人は切れ長の目を伏せながら話していた。

    師走の初めに娘が鬼籍に入ったと、その人の母親から連絡を受け、彼女はその場に伏した。

    そして10日が過ぎた晴れた昼下り、一人きりの車の中で彼女は声をあげてはじめて泣いた。

    星(☆

  • 【無くした手袋】

    残った片方の手袋を彼女は想い出し、手に取った。
    「柔らか、そして暖かいわ。」

    二十代のある日、彼女はその手袋と出逢った。
    土曜日の始発の電車に乗って、建築を学びにある都市に通っていた頃、帰りの電車にはまだ早いからふと立ち寄った店で、魅せられてしまった。
    その頃、大人の女性はしなやかな革の手袋をしていた。
    彼女が見つけたそれは、子牛の柔らかな革に内側がカシミアで仕立ててあった。
    どちらも優しい茶色で、はめるととても手に馴染んだ。
    次の週末まで考えて、彼女はその手袋を購入する。
    それから、大切に大切に何年か使ううちに片方を無くしてしまった。
    また、ダウンコートが流行る前で、カシミアのコートにも憧れたけれど、とても高価だった為に彼女はカシミアの生地を買い、洋裁が得意だった姉に仕立ててもらった。
    そのコートに、彼女の手袋はとても似合っていた。
    時々、母の手作りのショートコートとも合わせて身につけた事を、彼女は想い出して微笑む。
    そのコートは、白とグレーのリバーシブルだったから、彼女は白を表にして好んで身につけたものだ。

    生地が裁断され、ミシンで縫われて行く様を、切れ端の布を指に絡ませて彼女は克明に想い出していた。

    「どうしても、どうしても、片方の手袋を何処で無くしたか解らない。」

    無くしたものなど、そんな記憶のほんの僅かな隙間に沈んでしまうものね、と諦めながら。
    あの頃の木枯しの哭くような声は、記憶から消えないのにね、と呟いた。

    星(☆

  • 【魅せられた街で】

    何年ぶりだろう?

    彼女は駅前を眺めて、そう思った。
    青い空は高く、風は際立って季節の変わりを告げて吹いていた。

    綺麗な傾斜が、静かに続く。
    あの頃と変わらずそこに佇む画廊、小さな家具類を販売する店舗。
    ぽつりぽつり、新しいカフェも見える。

    その人は、無垢な神経を社会にさらすたびに磨り減らせ小さくなって行った。
    彼女は、その小さなその人に何時までも残るであろう、確かな無垢のかけらがいとおしくて、その人が好きだった。
    その人の家族、とりわけ父親は健気なその人のかけらを包み込み、全身で守っていた。
    社会に先に出た者として、また、父親として。

    あれから、この街も幾つもの変革があり、その人も人の妻になり母になった。

    彼女は、今、その人に残ったかけらはその人が培ってきた強さに、まさに強固に守られてきたと確信する。

    いろんなことがあったものね。

    彼女は少し冷たい風に呟いた。

    本当に、いろんなことがあったものね。

    もう一度彼女は呟く。

    今度は、目を閉じてその人の面影に。

    星(☆

  • 【ベレー帽】

    彼女は昨年の秋が深くなる頃、その人にベレー帽を被せて撮った一枚の写真を見ていた。

    「マダムのようですよ。」
    彼女の言葉にその人は瞳と口元を静かに緩めて、微笑みを返した。

    大好きなお母様に逢えたかしら。
    彼女は、片付ける人の居ないその人の遺品を優しく撫でながら、そう呟いた。
    小さな手帳には、たくさんの知人の連絡先が几帳面に記してあった。

    「貴女に何かあった時に、知らせて差し上げないとならない人はありますか?」
    彼女の問いかけに、その人は、
    「ないのよ。」
    と、そう答えた時も穏やかな笑みで返して下さったと、彼女は記憶を辿る。

    その人が作り出した多くのきらびやかなドレスは、あの時のか細い指先よりも遥かに雄弁なその手から生み出されたはずだったけれど、その人は彼女にその頃の事は忘れてしまったのだと笑った。
    大切に仕舞われた手帳にも、その人の忘れてしまった日々の記憶が、確かに丁寧に重ねてあり、彼女を戸惑わせた。

    彼女は、その人のデザイナーとしての名前を記す名刺を手に取り、そっと包みこんだ。
    それはいつまでも暖かく、そして控えめな形をして彼女はその人の笑顔をもう想い、目を閉じた。

    星(☆

  • 【あの日の貴女】

    「あの日の貴女に逢いたいわ。」
    その人はお堀の樹木を見上げながら、彼女に言った。

    「どの日?」
    彼女は聞き返す。

    「こんな夏の終わりの夕暮れだったわ。」
    その人は微笑みながら、
    「あっ、りすが居るわ。」と見ていた樹木を指差す。

    もう、蝉の鳴き声のシャワーは止み朝夕は過ごしやすくなってきた。
    図書館の駐車場は何時もと同じように静かで、百日紅の紅いろは風を纏いながら時々気紛れにはね除けていた。

    その人の家は、お堀のすぐそばにまだあった。
    大正時代に建てられた洋館で、その庭には真っ白な百日紅が毎年咲く。
    玄関を入ると黒光りがする廊下が続き、菱形の嵌め込み窓が何ヵ所かある。

    彼女は何度も何度もその景色を見ていたので、その時その人の家を歩いているような錯覚を感じた。

    「貴女が葡萄を持ってお見舞いに来てくれた日よ。」
    その人はそう言って、駐車場の向こうにある池を見ていた。

    その人は、思春期に差し掛かる頃から病弱で高校になっても臥せる日が多く、彼女は時折見舞いに出かけて行った。
    物静かで、冬の風が触れる事さえ躊躇うようなか細い脚でゆっくり歩く。

    今、彼女の隣に居るその人は、時の流れの中でそれなりの荷物を身につけながら、あの日より逞しくなっていた。

    「あぁ、あの日の私ね。」
    彼女は栗鼠がいたという樹木を見上げながら、その人の頬が弾けるような柔らかさでそこにある事を確認する。

    池に流れこむ人工の小さな滝の音が、心地好く静寂の中で風に乗って聞こえてきた。

    風がやわらな色でどこかに旅立って行く。

    「そう、あの日の貴女」
    その人の声も静寂を舞った。

    星(☆

  • 【木漏れ陽がもたらす静寂】

    ショッピングモ―ルの二階の窓辺には、居心地の良いソファーがあった。
    彼女はそこで久しぶりに会った息子を待つ。
    彼は長袖のスポーツウエアを探すのだと言う。
    窓からは真っ青な空と、少し色合いが違う青い海が、お互いの存在を肩肘張ることなくほんの少し意識しながら広がっていた。
    心地よい風を眼で感じながら、彼女は微笑む。

    ヨットは繋がれながらも、その身を揺らして時を充分楽しんで居るようだ。

    やがて、彼女は息子と帰路に向かう。

    海沿いの道は、この時期には珍しく空いていた。

    「穴子を食べない?」

    「それ、良いね。」

    彼女たちは、大通りをひとつ入った店に入る。

    大きな窓からは、欅の樹が木漏れ陽をまるで音を奏でるように送り出していた。
    熊蝉が陽と戯れている。

    「ひとつ道を入っただけで、気持ち良い静けさね。」

    彼は瞳で微笑み返す。

    店を出る時、彼女が美味しくいただきましたと伝えると、涼やかな目元をした店の女性は、潮風に似た声で店の奥に言葉を伝えた。

    「美味しいと言っていただきましたよ。」

    庭に出た彼女を、潮風はとても優しくかすめて過ぎて行った。

    星(☆

  • 【キャラバンからはぐれて】

    「太陽は僕を見棄てたのかな?」

    君は、日が落ちて急速に冷えて行く大気から身を守るように、毛布を被りながら呟いた。

    せつなさが闇に紛れて、ヒタヒタと君を冷たく責め立てる。

    「駱駝の睫毛が好きだ。」

    君はごく薄く色を表した月に語りかけた。
    暫くすると、空は漆黒のその皮膚から無数の光を放ち始める。
    それは、遥か彼方から気の遠くなるほどの旅を経て君に届くために、疲れはてチラチラと息も絶え絶えではあるけれど、その息は彼の溜息を誘う位綺麗だったと、君は彼女に話してくれた。

    遠い記憶の砂漠のような夜の思い出なのだと言う。

    まるで、灼熱の砂の上をゆっくりと何かを標に無言で旅を続けていた、そんな時のふとした瞬間に何もかもが忽然とこの世から消えさってしまった夕暮れに、君は駱駝の睫毛を想いながら、朝を待ち続けたのだと。

    幻か夢なのか、しかしそんな孤独な夜があったのだと、君は彼女に優しさの限りを尽くしたような細い声で語った。

    彼女は君の睫毛を見ていて、自分の瞳に溢れるものを止めることが出来なかった。

    キャラバンはゆらゆらと地表と空の境い目に、憂いを漂わせて、まだ進んでいただろうか。
    駱駝は振り返らずに、何かを食むように独り言を呟いただろうか。

    星(☆

  • 【心を削る仕事】

    彼女の正面に立つと、彼はいつものように笑みを零れ位溢れさせて、彼女の両肩に手を置いた。

    「貴女は素晴らしい。」

    ともすれば大袈裟に取られる仕草と言葉で、彼は彼女を褒める。

    彼は、生きることが困難な環境の中で、孤独に膝を抱えうずくまっている人々を、優しく手を差し伸べて救いだす仕事をしている。

    彼が時折見せる険しい表情は、その孤独を生み出した人や行為や仕組みにしか、投げ掛けられないことを彼女は知っていた。

    それは、とても鋭い視線であり、どんな恫喝よりも容赦なく向けられたが、同時に非常に静かなものだった。

    「時に、人は流されて弱き者たちは置き去りにされる。」

    彼が呟くように語った言葉をか彼女は咀嚼しながら、自らもまた弱き者たちの救済の手立てを考えて来た。

    素晴らしいのは、貴方よ。

    彼の言葉をめぐらせるとき、彼女はそう思う。

    満面の笑みを湛えて、彼にそう言葉を掛けることはこれからもないだろうけれど。

    夕暮れになって現れた、ほんの少しの晴れ間を彼女は見上げて、今日初めて微笑んだ。

    星(☆

  • 【24歳の彼を想う】

    死の淵で、彼はホスピスの木漏れ日が射す部屋で、彼女と短い会話を交わしていた。

    彼は言葉を発することが叶わなくなっていて、文字ボードで彼女に言葉を伝える。
    彼女が顔を近づけると、彼の指は彼女の唇に触れた。

    それは、彼女と彼の共有して来た不思議な哀しみに似て、柔らかで優しい温もりを持つ指先だった。

    彼女は彼の瞳の色を探る。

    彼女は、物静かな父が弟のランドセルを、時折丁寧に磨いていた事を思い出す。
    その深い茶色に、彼の瞳は似ていた。

    人が生まれ持つ、哀しみを彼女はいつ感じたのだろうと、手繰り寄せた。

    何でもない、時の狭間にそれはふと現れる。

    彼女は、思春期の夏休みの昼下がり、誰も居ない伽藍とした座敷から眺める庭にそれを感じた。

    そして、彼と初めて出逢い共有した。
    雄弁に語ることもなく、人は誰にも伝えられない、胸の芯を共有するのだと、彼女は知った。

    それは、恋ではなくてある種の愛だった。

    それぞれに恋人も友人も日常も持ちながら、彼女と彼は夕暮れに二人で過ごす。
    スケートボードをしたり、ドライブをしたりとりとめのない時は何年も流れた。

    二十歳と二十一歳の出逢いから、その時は静かな霧のように彼らを穏やかに包んでくれた。

    彼女は年に何度かこんな朝を待つ。
    空が白々と明けていき、彼の頬と瞳とそこに漂う木漏れ日の波動を、いとおしく撫でながら。

    星(☆

  • 【6月の薔薇】

    久しぶりに彼らがやって来た。
    彼の妻は、両手に薔薇の束を抱え彼女に差し出した。
    季節限定で、その人は薔薇園のお手伝いをしている。
    その季節も終わりに差し掛かり、薔薇の花を彼女に届けに来たのだ。

    5月のそれより、優しい香りを放ちながら、薔薇は彼女の胸に抱かれた。

    「うん?何かあった?」
    彼が聞く。
    「何か?何もないわ。久しぶりの休みに素っぴんで草むしりよ。」
    「若返ってない?」
    そんな会話が薔薇を掠めて交わされる。

    何もないけれど、新しい花を植えたの。

    彼女は音にはせず、今朝植えた花の苗を見た。
    忙しくて見過ごしていた庭に、小さな花が芽吹いていて、いとおしくてね。

    雨は夕方から降り始めるという。

    彼らはいつものように、その人生を変わらず二人で歩いて行く背中を彼女に見せて、遠ざかる。

    彼らと彼女の狭間に、薔薇はなにも言わず居てくれた。

    星(☆

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