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5917 - (株)サクラダ

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  • 2018/05/15 19:50
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    rokku_de_go 5月15日 19:50

    私と出会った僧侶達。

    浄土真宗→真宗は宗派がいろいろあって、私と意見が合う僧侶と、意見の合わない僧侶がいる。
         つうか、
         同じ真宗同士でも、意見が殆ど合わない僧侶がいる。
         たぶん、宗派が違うんだろう?


    真言宗→密教で、秘密の教えはあまり公言しない、
        般若心経を依典としている為、その解釈には勉強になった、
        禅宗とは、解釈の違いがある。
        どちらかというと、バラモン教?
        そんなイメージ

    日蓮系→これは全く意見が合わない

    禅宗→曹洞宗も臨済宗も、日本ナイズされていているから、それに合わせる必要がある。

    こんなところか・・・

  • >その慌てた瞬間に、どうも悟ったらしい。

    つまり、阿弥陀仏に帰依するのだけど、
    実はその本質的なことは別にある。

    帰依という日常の中にあって、ある瞬間の「非日常」を垣間見るのだ。
    (しかしこれは、そう簡単ではない)

    日常というのは、何らかの目的をもち、それに沿い行動するのが常だ。
    そういった目的感も何もかもリセットするのが只管打坐だ。

    只管打坐は人為的に作られた、非日常の空間を追体験することなのだ。
    (まあ、それなりに体験はできる、ということだ)

    永平寺では、歯の磨き方からトイレの使い方まで、そりゃあまあ厳しい修行がある。
    毎日同じことを繰り返すのだ。
    これが動中禅なのだ。

    動中禅とは、同じことを何度も何度も繰り返す。
    それがどういうことか・・・・
    後にその意味が分かってくるだろう。
    (ただし、十年も二十年もやって分からん者もいるし、数ヶ月で分かる者もいる)

  • 道元は、坐禅していて何かのドサクサに紛れて身心脱落したらしい。
    つまり何かに「気づく」ことは、人によって全部違う。

    何人かの僧侶とコンタクトを取って、いろいろ印象が残る話もあるのだけど、
    ある浄土真宗の僧侶の話。

    真宗は阿弥陀仏に帰依してお願いするのだけど、
    いつものように、阿弥陀仏の手綱を持ちながら念仏を唱えていた。
    しかしある瞬間に、その手綱を間違って放してしまったという。
    この時にその修行僧は慌てたらしい。

    その慌てた瞬間に、どうも悟ったらしい。

    浄土真宗は絶対他力ですから、
    自力の禅とは親和性がある。
    真宗も禅も目標は有余涅槃(この世で彼岸に到達すること)

    浄土真宗というのは、そういう宗教なのだ、。
    阿弥陀如来に帰依する、という意味がここに集約されている。

  • 禅僧はよく円相を書く。
    丸い円のことだ。
    始めもなく、終わりもない、それは命かもしれないし、全宇宙かもしれない。
    意味はない。
    あえて言うなら、悟りとか、真理とか、仏性とか、永遠とか、
    どう捉えるかは個人の自由なのだ。

    「即心即仏 円相の位相」などと正法眼蔵には書かれているけど、これは悟った境涯のことだ。

    円周率は、小数点以下が無限だ。
    循環(ループ)しない。無限に続くのだ。
    何故そうなるかは、実際アタマで考えれば納得する。
    こういった永遠性について、イメージとして禅僧は円相を好むのかもしれんね。

    禅においての永遠というのは、つまり瞬間のことなのだ。
    瞬間を悟ると、禅坊主は「不死を得る」ともいう。

    不死のことを大死ともいう。
    大死というのは涅槃のことだ。涅槃寂静は彼岸の悟りの境地を言う。

    死にきって、それで不死を得る、永遠と瞬間は同義なのだ。

    ニーチェの「永遠に反復」もつまりは、瞬間の生を意味する。

    円相とは、こういった意味もあるんだねえ、。

    5917 - (株)サクラダ 禅僧はよく円相を書く。 丸い円のことだ。 始めもなく、終わりもない、それは命かもしれないし、全宇宙か

  • 宇宙創成のビックバンは、どのように起きたのか?は
    今までの学説ですと、
    陰因子と陽因子が宇宙には元々バランスよくあって、
    陰と陽ですから、互いに相殺されれば無になる。→→これが正常な宇宙。

    ところが何かのアクシデント(ゆらぎ)によって、そのバランスが崩れ、
    陽因子だけ残り・・・・その残存が物質世界→→これがビックバンと考えられていた。

    じゃあ、残った陰因子は何処に行ったのか?→これが謎とされた。

    量子物理学では、こういった物理的実在論の謎が全部解ける。
    量子実在論→→世界は仮想現実なのだ。


    仮想現実については、驚くべきことに多くの実証がある。
    つまり量子物理学は急速にその発展が成されているのが現在の状況。

    ※この量子物理学の発展と、唯識論について、そのうち私の見解を書いてみる。
      ちなみに私は中観派でして、どうも唯識派には詳しくはない。
      唯識とユングの関連性についても書いてみたい。

  • ナーガールジュナ後、三世紀か四世紀あたりに世親が現れました。
    世親は説一切有部の流れを汲む唯識派です。

    唯識ですから、先ず六識が優先され、六識があって初めて物質の存在がある。という考え。
    逆に言うと、そもそも六識がないと、物質の存在そのものはない。ということ。

    これは、月を見た段階で、月の存在があり、月を見なければ、そもそも月の存在はありえない。
    という、かのアインシュタインの論争でも有名です。
    アインシュタインは、そんなことはアリエナイと疑義を呈したものです。

    中観派は縁起で説明できますが、どうも唯識派は私はあまり評価してなかったのですが・・・
    近年の物理学の発展において、量子力学と照らし合わせると、どうも世親も優れた学僧であることは間違いない。

    つうか、物理学がやっと世親に追いついた。というべきか?

    三次元までは、ニュートン力学。
    四次元はアインシュタイン。
    五次元以上は、どうも量子力学の範疇になるかと・・・
    (意識が物理現象を変化させる)→これは実証済。

    世親のいう阿頼耶識とかは、今でいうハイヤーセルフのことですね。

    故安保教授とかも、最終的には精神世界にまで踏み込んだ学説を発表してますし、
    今後、癌治療には、この分野も発展するかもしれません。
    イメージ療法とかはこれに該当する。

  • 私は癌のステージ4ですから、それを医師から告げられると、死ぬ恐怖はありました。
    頭頚部癌は、転移よりも再発で死ぬことが多いようです、。


    私は2回再発しました。→再々発と言うらしい。
    これで一端は死ぬ覚悟みたいのはあったんですが、
    ある日、その覚悟を乗り越えて、妙な「生きる確信」みたいな感情が湧きました。
    これは不思議ですね。

    もうこの治療を終えたら、もう一切治療はしない。みたいになって、
    そしたら癌の影が消えたのです、。

    この原因とか、いろいろ考えてみますと、
    故安保教授とか、典座教訓とか、ヒポクラテスとか、その他諸々のことが頭を駆け巡りました。

    般若心経は、大般若経のエッセンスですから、そこには凝縮された「生きる智慧」が書かれておったのは確かです。
    この巡り合いを仏縁とか言いますね。

    仏教は不一不二です。
    つまり信仰という、信仰そのものの対象が無い宗教です。
    ようは自己洞察こそ、それが宗旨です。
    限りなく自己を習う。


          <仏道をならふというふは、自己をならふなり>(正法眼蔵・ 現成公案より

  • ゴータマ・ブッダは、古代バラモン教の行者ですから、バラモン教の影響を受けていたのは間違いない。
    バラモン教は、梵我一如です。
    梵は→ブラフマン
    我は→アートマン

    梵と我が一如ですから、不二にして一元、→→→不二一元論。

    仏教は不一不二、で一元論ではない、という違いがある。
    しかしゴータマ・ブッダについては、梵我一如を発展させた思想です。
    (仏教は、厳密には思想とは違う)

    正法眼蔵は、古代インド哲学にまで遡った方が解釈しやすい。
    ______________

    故安保徹教授は、どちらかというと古代ギリシャの紀元前460年くらいの
    ヒポクラテスの時代にまで遡った方が理解しやすい。

    原点回帰は重要です。
    モノゴトの本質は、むしろこういった回帰することによって見えてくるのかもしれません。

    現代の医療は、経済の一環で発展してきましたから、
    方向性そのものが間違い。
    ってのが、故安保徹教授のテーゼです。

    ________________
    いずれにしても、
    少し掘り下げて書いていこうかと思います。

  • ワイルド系とか、サバイバル系とか、それに関する「食」について
    私は好んで動画を観ています。

    ちなみに私は玄米菜食で、肉・魚は全く食べません。
    タンパク質は、豆腐、納豆、みそ、とかで補ってます。

    料理は全部自分でやります、
    (ちなみに家族はいます)
    https://www.youtube.com/watch?v=P18D8T0CcUA

  • 道元が入栄してから直ぐに、典座和尚と巡り合います。
    典座(てんぞ)というのは、いわゆる僧侶の料理を作る役目の僧のことです、。

    道元はこの僧より、大切なことを学ぶ。
    いわゆる人生の巡り合わせというんでしょうか?
    私もこの一期一会は仏縁なのかと思いますね。


    永平寺において、この典座和尚の教訓は現在まで生きてます。
    私もこの教訓には大変影響受けてます、。

    まあ、こういった縁をもちまして、
    私も癌と巡り合い、そしてこの典座教訓が大いに役立った、。
    ということなんですが。

    永平寺には、坐禅を主に修行する他に、
    坐禅を全くしない、典座を一生懸命修行する僧もいて、
    見性率は後者の方が高いらしいですよ。
    これは以外かと思いますが、私はそう思いませんね。

    自分がいろいろ体験してきて、そして少しづつ分かってくることがあります。
    先ず、なんでも自分がやってみることです。
    典座教訓というのは、そういう自分で何でもやれ、ってこってすから。


    私の癌が寛解したのも、典座教訓との巡り合わせですね。

  • 「前後ありといへども、前後際断せり 」
    について。

    これは簡単にいうと色即是空のことです。

    正法眼蔵は、修行僧向けとか、在家向けとか、その内容も様々で全部ひっくるめて正法眼蔵です。
    色即是空は般若心経に書かれてますが、
    その内容は、般若波羅蜜。
    言うなれば、生きる智慧のことが書かれています。

    私は癌になり、この般若波羅蜜により多くのことが助かりました。
    ステージ4ですが、今はすっかり転移もなく元気にしてます。

    仏教では四苦といいますが、生老病死の四つですね、。
    生きる苦もあれば、
    老いる苦もあります。
    病の苦もありますね、。
    それから死ぬ苦です。

    般若波羅蜜は、これら一切の苦の寂滅のことが書かれています。

    般若心経は、彼岸に到達すれば般若波羅蜜を獲得できる。
    と書かれています。
    ギャーティー、ギャーティーの部分は真言ですね。
    おまじないのようなもんです。

    此岸から彼岸まで頑張って行くことが宜しいかとおもいます。
    さすれば般若波羅蜜を得ることができます。

  • 禅の修行をしていると、神秘体験らしきことに遭遇する、。
    これを「悟った」などと誤解されやすいけど、それは悟りではない。
    禅でいう魔境というやつだ。
    勿論、その時点にいては魔境とは全く分からんですけど。

    私がそういう体験をしたのは、秋の風が吹いている時期だった。
    車に乗っていて、赤信号で停車し、前面の景色を眺めていると、
    枯葉がまるでスローモーションのようにゆっくりと空中を舞うのだ。
    非常にそれが美しい、。
    しかも心は歓喜で絶頂に達するのだ。
    何と世界は美しく、甘美なるもか、そのような精神状態におかれる。

    信号待ちだから、それほどの時間は要しないだろうけど、それは長い時間に感じられる。
    その長い時間の感覚は、全くもって不思議だ。


    ある程度坐禅をすると、神秘体験らしきものは誰でも遭遇する、。
    それは初歩の初歩だ、。
    こういった体験に固執してしまうと、禅病とか神経衰弱になったりする。
    修行僧でも自死とかする場合があるから、要注意だ。

  • 「前後ありといへども、前後際断せり 」
    について。

    道元はアタマが良く賢い人だったらしいから、勿論初期仏教は熱心に研究したと思われる。
    初期仏教は数多の部派が現れ、
    その中でも最大の説一切有部は、三法印における「諸法無我」と「諸行無常」について
    理論体系をしていった。


    無我であって、そして無常なるもの。
    こういった基本的なことを背景として、刹那滅論を展開する、。

    刹那滅論より→→中論→→正法眼蔵、というように、その経緯も研究すると面白い。

    そもそもゴータマ・ブッダの理論を体系つけていけたのは、ナーガールジュナ以降だ。
    それ以前においては、どうも理論の摺り合わせ自体が、どうも無理があるようなのだ。

    ナーガールジュナは、雑阿含経を下敷きに理論体系をしていったらしい、。
    雑阿含経において、空思想の萌芽ともいえる文言の記載もあったりして、
    初期仏教とはいえ、優秀な学僧もいたんだなあ、と関心する。

    歴史に埋もれてしまいそうな、そんな経典であっても、
    それを新しく世に再生させる才能。
    これこそが天才なんだろう。
    中論は、そういった経緯があるのだ。

  • 「前後ありといへども、前後際断せり 」
    について。


    仏教は一如の法門でして、そもそも主客という概念はない。
    ゆえに、主客対立に依りてもたらされる「変化」そのものは、ありようがない。
    (変化とは、主客における対立そのものだから)

    主客がそもそも無いのであれば、西洋哲学的論理において、理論体系は無理なのだ。
    (ここのところが非常に大事)

    こういったことを念頭に、正法眼蔵を解釈していかねばならない。
    というか、
    ここが分からんと、そもそも正法眼蔵解釈は無理なのだ。
    観念論とは違うから、。
    あくまでも一如の法門であることを前提とせねばならない。

  • 「瞬間」のことは、
    正法眼蔵において、
    「前後ありといへども、前後際断せり 」などの記述があって、
    これは時系列的脈絡の断滅を意味する。

    こういった論法は初期仏教においてもあり、説一切有部においては刹那滅として理論体系されている。
    つまり仏教2500年の歴史において、学僧達が学んできた足跡は受け継がれている、というこだ。



    癌が結果だとすれば、因は何か?と問い、
    因改めるならば、果は良くなる。
    これが因果の理法なのだ、。


    癌になったら、まず生活習慣をガラリと変える工夫をしよう、。
    これが癌に対処する第一歩と考えればベター。
    このことについて、次に書いていく、。

    注意・西洋医学における癌治療は対処療法なのだ、。
       これでは、癌に対処できても、根本的治癒にはならないのは自明の理である、。

  • ニーチェの「永遠の反復」は、それ自体には意味はなくて、
    あるのは事実だけ。
    事実だけに生きられたら、人は超人になれる。

    中論よりは、かなり浅いですが、キリスト教批判という観点ならば一石を投じた.
    しかしニーチェは西洋哲学では、かなり難解だろう?
    むしろ東洋哲学に近い。

    ニーチェが仏教をパクったかもしれんね。
    人生の教訓にはなる。


    昔、「太陽がいっぱい」というフランス映画があった。
    あれもニヒリズム的映画だった。
    しかしあの映画は、ストーリーを楽しむことよりも、
    世の女性達が、アランドロンの顔を映画で観て楽しんだようだ。

    現在で言えば、ヨン様を映画で観るようなもんかな?

    5917 - (株)サクラダ ニーチェの「永遠の反復」は、それ自体には意味はなくて、 あるのは事実だけ。 事実だけに生きられたら、

  • 【中論の骨子の部分】

    初めから自分は世界の因果律の一環だから、
    去るとか来るとか、生まれるとか死ぬとか無い。
    そのように、ただあるだけ。

    気づいた時が「そうだった事」があるだけ。
    これを他人に説明するのは背理法みたいなもんで
    人が固定観念にしていく事を、全部叩いていくのが一つのセオリー。

    事実に即して考える方が正しい、と言ってるだけです、。
    自分の固定観念がどうであっても、現実は目前にある事実以外のものは無いから、
    ある意味において認識は虚妄であるとも言える。

    それは事実は事実として既にあるのだから、
    他のもの(人の認識とか)であるはずもない。

    ※祖師西来意の公案は、
       事実は庭前の柏樹子そのままの、あるがままに過ぎない。と
       その位相どおりがが、いわゆる再来意なのだ。

    注意・この事に関しては、ニーチェの「永遠の反復」を思い出すと良い。
       反復というのは、その瞬間の事実の事なのだ、。

  • 私が高校2年の時の担任が、女教師で、
    この教師とは何やらウマが合わなくて、ことごとく私を小馬鹿にしておったんですね。
    (私を嫌ってたのは明らか)

    私が「社会に出たら〇〇になりたい」と言うと、
    この先生は「あなたには無理だから」というように、私を小馬鹿にするんですよ。

    私もこれにはブチ切れてましたね。
    ブチ切れるといっても、何かで仕返しをしてやりたかったんです。
    そして私は意地になって勉強したんです。
    この先生の鼻をあかしたかった。それだけです。

    どういう訳か、私が勉強したお蔭で、どうにか大学の推薦を受けることができた。
    それから私は人生が変わってきました。

    社会人になってから、この女教師と遭遇する機会がありましてね、その先生に私は
    「先生、私は〇〇になれました」と言ったんです、。

    その先生はビックリしてました。
    私は「〇〇になれたのは先生のお蔭です。有難う御座いました」。と言いました。
    その先生は涙ぐんで「おめでとうございます」と言ってくれた。
    この時が一番嬉しかったですね。

    私は今でもその先生は尊敬してるんですよ。
    チョと間違えれば、私はグレてしまったかもしれませんね。
    人生とは分からんもんですね。

  • そもそもゴータマ・ブッダの説示を論理的に説明するのは不可能、とされた。
    それを論理的に説明したのが中論だ、。

    とはいっても、そもそも論理的説明が不可なので、
    ナーガールジュナは、説一切有部を論破することにおいて、その核心部分を抽出するという論法を用いたのだ。

    これはいわば天才的だ。
    誰でもこんなことは考えも及ばなかっただろうし、
    そういう天才が現れたことでも奇跡的だろう、とおもう。

    後でニーチェのことも書いていこうかと思いますが、
    ニーチェの永劫回帰は、少し誤解されやすい。
    「永遠の反復」が和訳としてはベストかと思う。


    ニーチェと道元(正法眼蔵)について、面白い相似性についても書いてみようかと思います。

  • 「昧」というのは、あやふやな、とか、くらい、とかの意味ですが、
    「不昧」といえば、あやふやではない、とか、くらくはない、とかの意味になる。

    端的に言えば、
    不昧因果とは、道理にくらくない。→道理に明るい。という意味になる。
    ここのとこが重要で、百丈野狐のポイント。

    不落因果は、因果に落ちない、という意味ですが、
    これは中論における戯論に該当する。

    戯論というのは二項対立のことで、
    いうならば論理というのは、二項対立においてその論理の整合性を追求される学問ですが、
    そのすべては戯論という論法に終始する。

    これが中論におけるコアな部分ですが、
    この論法は中論において一貫性を維持する。

    ナーガールジュナは、一時期、自分はゴータマ・ブッダを越えたと自負したらしい、。
    (この意味も私は納得する)
    しかしながら、ジュナは最終的にゴータマ・ブッダを「崇拝奉る」と記しているように、
    ブッダへの畏敬の念が強かったがうかがわれる。


    ※私は数多くの僧侶と交流をもってきたけど、その一人の僧侶は
      同じことを何度も何度も繰り返すことによって、少しづつ分かってくる、と言ってた。
      「少しづつ」というのぱ、勿論謙遜の意味で、それが頓悟なのだ。

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