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(株)ナイスクラップ【7598】の掲示板 2015/04/08〜

>>101

<only_yasterdayの”日本のカジュアルウェアー誕生秘話"㉟>

【日本の洋装化は「カジュアルウェア・軍服」から始まる】

     < 洋装化元年・1862年(文久2年) >

 ― 「服制変革ノ令」は「洋服の制定」への一里塚 ―

「服制変革ノ令」の発布をひとことでいえば、これは聖徳太子
以来続いていた中国の影響の残る「”上層階級の服制”の変革」
を奨励した最初の出来事で、服制における画期的変革といえる。
このことは慶応4年から明治5年にかけての「洋服の制定」によ
ってより明確になる。

以下は「写真にみる・日本洋装史(遠藤武/石山彰 共著)」
からの引用。

”慶応4年、新政府は、天皇命をもって、服制に関する意見を諸
臣(旧大名)に徴し、旧弊一新のたてまえから、中国風な礼服
を廃して衣冠・束帯を正服と定め、明治3年には太政官制服・
海軍制服・陸軍微章を制定して制服はすべて洋服とした。

翌4年には長年宮中に衣紋奉仕をしてきた山科・高倉両家の奉仕
を廃止、5年11月には装束をいっさい廃して、礼服はすべて洋服
と定めた。

文官・武官いずれもが礼服となったために、町には月賦屋ができ
た。そして明治6年には「改服裁縫秘伝」が、日本最初の洋服仕
立書として刊行された。

礼服、軍服が洋服となるにつれて駅逓寮・鉄道寮が洋服を採用し、
邏卒服も洋服となり、学校教員にも次第に洋服が用いられるなど
職場服の洋服採用の道が開かれていった。”

※<万機ご一新と洋服禁止令解除>
    ー洋服業界記者クラブ「日本洋服史刊行委員会発行ー

 明治4年8月9日、官吏および華士族に対し「散髪、脱刀及び
 洋式の服を用いること勝手たるべし」というお沙汰があり、つ
 いで9月4日には服制を改むるの勅諭がなされた。

 これ以後文武百官の大礼服を定め、洋服をもって正服となし、
 従来の衣冠束帯(いかんそくたい)烏帽子直垂(えぼしひたた
 れ)をもって祭服とされたのは、明治5年11月12日である
 が、それ以前に天皇をはじめ新政府の大官高官連は洋服を着用
 するようになっていた。

  • >>102

    <only_yasterdayの”日本のカジュアルウェアー誕生秘話"㊱>

    【日本の洋装化は「カジュアルウェア・軍服」から始まる】

           <脱亜入欧の先導役>
    ― 明治維新は「戎 服(じゅうふく)」から「洋服」へ ―
     
      以下は(日本洋装史 遠藤武・石山彰 共著)
     「黒船の来航と共に新しい文化が始まる」より~    

    黒船の来航とそれにつづく日米・日露・日仏の和親条約、各国
    との通商条約の締結、これにともなう神奈川・長崎・函館の開
    港があって各港に外人居留地が設けられた。

    開港ととともに居留地の人たちから、外国人をまねた服装をす
    るものが現れたので、徳川幕府では、これを異風の身なりとし
    て禁じてしまった。(文久元年7月)

    当時、洋服のことを”異風の筒袖”といって、外国製に紛らわし
    くないものならば、百姓でも町人でも、その商売によっては着
    てもいいということであった。
    町人や百姓の洋装は、都会ではなかなか着れなかったが、港町
    では大目にみられたことであった。

     異風の筒袖は慶応年代になると、西洋服にさきだって軍服を
    「戎 服」といったが、戎というのは東夷・ 西戎・北狄 ・南蛮
    の西戎で、じつは中国式な外国の類似法を、日本でも活用した
    ことによる。西戎、つまり西方諸国の意味で、南蛮にかわって
    用いられた言い方であった。

    もちろん南蛮といっても、実はスペイン・ポルトガルのヨーロッ
    パ人であったが、アジアにおける彼らの根拠地が、天川といわ
    れるマカオにあったから、彼らを南蛮と称したまでで、実際に
    は西戎のほうが正しいのである。つまり、黒船以来西洋の言葉
    にさきだって、洋服(軍服を含めて)のことを戎 服といったの
    である。

    慶応4年、横浜53番館ラタージ商会の洋服の広告から当時の値
    段をみると、
      一黒羅紗 上着 14ドルより24ドルまで
      一 同 袖無(チョッキ) 4ドル
      一 同 股引 7ドルより8ドルまで
    右の品々沢山に御座候且諸品恰好に仕立仕候間御注文奉願上候

    とある。かくして明治になって、西洋服、つまり洋服の語が出
    来上がるようになるのである。