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(株)ナイスクラップ【7598】の掲示板 2015/04/08〜

>>34

<only_yasterdayの”日本のカジュアルウェアー誕生秘話”>⑥


― 日本のカジュアルウェアーの元祖・石津謙介 ―

石津謙介が佐々木営業部(レナウンの前身)から「石津商店」と
して独立するのが1951年(昭和26年)のこと。
その後、VANの商標を登録し、1954年(昭和29年)にヴァンジ
ャケットと改称する。

で、創業当初のVANのおかれた状況をみてみることにする。

以下は「アイビーは、眠らない(花房孝典 著)」より抜粋。

”当初のVANは、英国式の高級紳士服を製造販売していた。これ
 は石津の、国際都市天津で体得した「男の正しい服装は伝統的
 な英国式のものである」という強い観念が反映されていた。
 が、当時の日本は、既製品は「吊るし」と称されて軽蔑され、
 腰弁と揶揄された一般サラリーマンでさえ、年に1、2着はオー
 ダーで背広を作るのが当然という時代であった。”

”石津は、レナウン時代に培った研究心で、さまざまな分野から
 資料を集め、研究をはじめた。当時の日本は、なにごともアメ
 リカ式が主流だった。若者のファッションも、アメリカの影響
 を強く受けていた。しかし、それはファッションといえるもの
 ではなく、米兵たちの非番の服装が手本になっていた。アロハ
 シャツにジーンズ、ラバーソールの靴にサングラスという異常
 ないでたちの若者たちが街にあふれ、世の顰蹙を買っていた。”

”石津はそこに目をつけ、マーケット・リサーチを試みた。結果、
 若者のための真っ当なファッションが市場に存在しないことに
 気づいたのである。石津は、新生VANのターゲットを若者にし
 ぼった。そして、あらゆるファッション関係の資料を漁った。”


結果、当時米国の若者の新しい潮流になっていた「アイビー・リー
グ・ルック」を、石津を媒介に日本に持ってくるという「アイビー
ルックの日本移植」がはじまるのである。

これこそが後に「カジュアルウェアー」といわれるものの出発点の
一つでもある。

  • >>37

    <only_yasterdayの”日本のカジュアルウェアー誕生秘話”>⑦

     
       【VANの悲劇・カジュアル革命】


     ― "アイビー”それは本当に革命だった ―
     
    雑誌ポパイの1978’6/10号で「VANが先生だった」という
    特集号があった。この特集は2ヶ月前のヴァンヂャケット
    倒産(1978年4月 )があり急遽企画されたものと思われる。

    「”アイビー”それは本当に革命だった」というのはその時
    の特集記事のキャッチコピーの一つなのだが、往年のファン
    にとってはそれだけ思い入れがあったということか。

    下記はその巻頭文だが、VANが台頭したころの日本の若者に
    与えた衝撃度を垣間見ることができる一文ではある。

    ”VANとの出会い、ちょっと大げさかもしれないが「文明開
     花」だった。それまで学生服しか知らなかった僕たちに
     スーツを着せ、カラーコーディネイト教えてくれたVANの
     アイビーは、僕たちにとってはじめての「洋服」であり、
     「お洒落」であったのだ。”

    ”VANが登場する以前にもたしかにアメリカがころがってい
     た。けれどコーラを除いてはほとんどのそれは大人のため
     のものであった。VANはアメリカの学生ファッションを伝え
     るだけでなく、アメリカの若者の生活、風俗、スポーツ...
     若いアメリカのすべて、僕たちのためアメリカを教えてく
     れた。”


    VANの悲劇は、日本において服装の一大変化、つまり注文服
    から既製服に転換する過程で、いきなりカジュアル革命が起
    きたことにVAN自身が気づかなかったことに尽きる。