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ソフトバンクグループ(株)【9984】の掲示板 2017/03/15〜2017/03/18

「ヤフーは大企業病だ」 モバイル小僧の逆襲
 知られざるソフトバンク(4)
2017/3/16 6:30 日本経済新聞

 「まさに僕の人生が百八十度変わる出来事でした」

 孫正義の15歳下の弟・孫泰蔵はその日の衝動をこう振り返る。米ヤフー共同創業者のジェリー・ヤンと出会った時のことだ。1996年1月だった。

■ニュートンの前にリンゴを落とす

 泰蔵は2浪して東京大学に進んだが特にやりたいこともなくバンド活動に明け暮れていた。就職活動の時期が近づいた3年生の終わりごろ、兄・正義からヤンと組んで日本にヤフーを持ち込む計画を聞かされた。

 ヤンに憧れていた泰蔵は兄に頼み込んで学生ながらヤフー計画に参加した。3カ月間、キャンプ用のテントをソフトバンク本社の倉庫に持ち込んでの泊まり込みの仕事が始まる。そこで出会ったのが真冬にもかかわらずTシャツにジーンズ、サンダル姿のヤンだった。

 「ヤフーの使命は未来のニュートンの前でリンゴを落とすことだ」

 日本にはなかった本格的な検索サービスをヤンはこう例えた。その言葉に感化された泰蔵は兄の背中を追うように起業家として歩み始める。

1997年ごろのジェリー・ヤン氏。右は井上雅博氏(写真)

 孫兄弟の奮闘で立ち上がった日本版ヤフーはソフトバンクの子会社として急成長していく。2000年代に入ってインターネットバブルの崩壊や、ブロードバンド事業での大赤字という危機に直面するソフトバンクにとって、ヤフーは安定して収益をもたらしてくれる孝行息子といった存在となる。

 だが10年前の2007年、あらゆるインターネット企業を巻き込むイノベーションの波が米シリコンバレーからやってきた。「電話を再発明する」の名セリフとともにスティーブ・ジョブズが世に放ったiPhoneだ。それはインターネットがポケットに入るモバイル時代の幕開けだった。

■隠れモバイル派の逆襲

 「うちの経営陣は何も分かっちゃいない」

 ヤフーでモバイル向け技術を開発していた村上臣はいら立っていた。ロン毛にパーマの風貌は一部門を率いる管理職には、とても見えない。

 これからはモバイル、つまりスマートフォン(スマホ)の時代だ。村上は何度も上司に訴えたが、返事はつれない。「こんなちっちゃな画面でネットはしないだろ」。それに合うコンテンツをつくるのが急務だと説いても取り付く島もない。

 「やってらんねーや」。上司に辞表を出すと、村上は行動に出た。社長(当時)の井上雅博にひとこと言わないと気が済まない。井上の退社時間に合わせてエレベーター前で待ち構えた。井上は村上を食事に誘った。ヤフーを飛び出してモバイル関連のベンチャーを立ち上げる。そう言う村上に井上は言い放った。

ヤフー改革の原動力となった村上臣氏(写真)

 「ヤフーは1000人を率いているんだ。そういう体制でしかできない戦い方があるんだよ」

 村上はとっさにかみついた。

 「なに言ってるんですか。インスタグラムなんて5人やそこらで世界を変えたんです。モバイルとはそういう時代なんですよ」

 話は平行線をたどり、村上は井上とたもとを分かった。2011年4月、この時34歳。

 ヤフーを飛び出した村上を呼び止めたのが親会社のトップだった。孫は村上を呼び出すとこう言った。「俺の目が届くところにいろ」

 その言葉の意味はすぐに分かった。孫が主催する社内私塾でヤフーをテーマに議論すると言う。もうヤフーとは縁を切ったはずだが、放っておけなかった。村上はヤフー時代の「隠れモバイル派」の同志を訪ね回った。「俺がお前たちの思いを全部、孫さんにぶつけてやる!」

 2011年10月26日夕方。その時がやってきた。孫以下、居並ぶソフトバンクの経営陣。井上などヤフー幹部の面々もそろっている。壇上に上がった村上の後ろのスライドに1枚の写真が映し出された。

 「MOTTAINAI」。文字とともに一人の黒人女性の写真が映る。モッタイナイ運動で有名になったケニアのワンガリ・マータイだ。村上は間髪入れずに続けた。

 「モッタイナイ……、何がもったいないかといえば、それはヤフーの経営体制です」。その場の空気が凍り付いた。孫は腕組みしたまま表情を変えない。

■ヤフー新体制に合流

 「ヤフーは日本一のインターネット会社です。良い人材がいるのに生かし切れていない」。大企業病にかかったとの指摘から始まり、本題のモバイルシフトへの遅れへとつながる。経営陣の前でおおっぴらに、これでもかと批判し尽くした。それは村上のクーデターだった。プレゼンが終わっても孫は無言。恒例の講評はなかった。

 (あーあ……、俺、やっちゃったなぁ)

 ところが孫はこの直後に水面下で動いていた。グループ企業の管理を任せる青野史寛にウラ取りを命じたのだ。青野は村上の言い分が正しいと見ると村上に電話を寄越した。

 「いいか村上。お前、これから何が起きても逃げるなよ」

新生ヤフーの社長となった宮坂学氏(写真)

 それから3カ月ほどした時だった。村上のもとに旧知の人物が連絡してきた。川辺健太郎。ヤフー子会社GyaOの社長を務めていたが村上とは大学時代からの仲間だった。川辺は六本木のカフェで落ち合おうと言う。

 「なあ臣、ヤフーに戻ってこいよ」

 「いまさら何を言ってるんですか」

 「それがな。ここだけの話、ヤフーは経営陣を一新する。社長は宮坂さん。俺は副社長でCOO(最高執行責任者)だ。井上さんは会長にもならずに退任する」

 「マジっすか!」

 2人はレンタル会議室で宮坂学と落ち合う。この後、「爆速経営」の合言葉で新生ヤフーをけん引していく人物だ。

 「これからはモバイルに全力でシフトすべきだ。お前の力が必要なんだよ」。2人はロン毛の反逆児にモバイルシフトを託すと言う。村上はヤフーへの復帰を決めた。肩書はチーフ・モバイル・オフィサー(CMO)だ。

 村上は早速、社内の不満分子を集めて回った。あるチャットツールでこそこそと不満をぶつけ合っているエンジニアがいることを知っていた。かつての自分がそうだったからだ。さらに隠れハッカーも味方に付けた。

 「もう時効だから言いますけど」。村上は学生時代は大学のホームページに侵入して遊んだ経験の持ち主だ。隠れハッカーもすぐに特定した。

■格安スマホ花咲く

 村上は、小学3年生の頃から秋葉原に通い詰める無線少年。この頃からモバイル小僧だったわけだ。小5でアマチュア無線の免許を取ると、自転車を改造して無線機とアンテナを載せて江戸川の土手を走った。こうすればポータブル局扱いとなり地元の無線マニアの間でちょっとした人気となったのだ。いつでもどこでも誰とでもつながれる――。それはモバイルが持つ楽しさの原体験だった。

 「CMO室」に陣取った村上はヤフーをスマホ向けに大転換する作業に取りかかる。変革の成果は現在のヤフーのページをスマホで見れば分かるだろう。村上の提案が発端で大きく花開いたビジネスがある。格安ブランドのワイモバイルだ。

 2013年12月のクリスマス直前。村上は孫に格安スマホのアイデアをぶつけた。「1ギガで1980円ならどうでしょう」。孫は「これは深く検討すべきだな」と答えた。それがワイモバイルの出発点だった。

 ロン毛の反逆児が仕掛けた格安スマホは今、本体のソフトバンクさえも脅かす存在となっている。

=敬称略

(杉本貴司)