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トレーダー生活の掲示板

(上からの続きです)
4.京割烹料理店の料理100人前を、中学生と高校生(私)でリヤカー(手押し荷台)満杯を引っ張って、京都駅~平安神宮、伏見稲荷神社と20kmを配達したものです。京料理の詰まったキリザメ(=1m近い料理入れ箱)を3段重ねて肩にかつぎ、サーカスの様に片手で自転車に乗り、京都市内を配達していました(一般人は自転車も持てない時代です)。私と弟は、10代で一時逃亡(私は3回)もしましたが、食う為に店に戻らざるを得ませんでした。他の人は全員、自殺、夜逃げしてゆく程の過酷労働で、睡眠以外の時間はすべて労働でした。

5.弟も、社会人になって、ようやく勉強時間を得まして、25才で日立000へ転職できました。
そこでも、社内一の早朝出勤で、全員の机をふき、皆が来る前に掃除をしておりました。九州工場長の時代も、朝一番出社で、部下の机ふきをやっていました。
私は、生涯、正論を貫いていても、よく、財閥系企業の役員まで昇進できたのが不思議です。又、社会の改善の為、放送局や公的機関へよく改善点を直訴していました。

6.親族で腎臓移植をしたとき、その子の両親が居ますのに、真っ先に、自分の腎臓提供を申し出ていました。

7.定年後も、いやな仕事は全部引き受け、真夏の酷暑下でも、親戚の関西中の墓石を 一日中みがき上げておりました。墓の傍でにぎりめしを食べ、先祖に語りかけておりました。

8.2年前に別の病に伏し、その後、ガン末期が発覚、余命6か月の今も、通信大学に通い、宇宙物理学、相対論の勉強を続けて、極めようとしております。

一言で申し上げますと、「日本の長いヒドイ戦後期、幼くて、父戦死も知らず、母の愛を受ける余裕も無く、勉強の時間も与えられない、戦争遺児が、無学の田舎者の母の、ただ、正義と純粋さを真似て、貫き通して死んで行った」と言う事と思います。

勝手な、暗いお話で、誠に申し訳ございません。自分の気休めに書きました次第です。内容が、よろしくなく、掲示板の雰囲気を壊してしまいました。お詫びいたします。
(以上はすべて、2008年の投稿です)