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     皆様、大好きな「ヤフー掲示板」に又々ちょっと顔を変えさせて頂き再々登場させていただきました。

     本名 久保 清、ニックネーム ストゥーパ(卒塔婆)と申します。本籍
     兵庫県尼崎市尾浜町一丁目246、現住所 同県同市南武庫之荘1−5−
    3。

     日本には時折帰りますが最近はその回数もどんどん減って来て今や一年のほとんどをネパールの首都カトマンズ市のボウダナート大仏塔のすぐ近く(歩いて10分、スクーターで、飛ばせば1分)で暮らしております。無職ですが、アイウエオサークル流に言えば(注:ホームページでいっぱいその言葉を拝見しましたので)「里親」をしながら晩年を健やかに、清々しく暮らしております。

     8日後に71歳になります。趣味は読書(現在、藤沢周平さんの「一茶」の再々読中)、音楽(いつも口をついて出て来る歌は「静かな静かな里の秋…」「いじわる木枯らし吹き付ける…」等々、アコーディオン、ギター、キーボード、ハーモニカなどをいつも身近に置いて暮らしております)、水彩画(ネパールの子どもたち[何故か女の子ばかり]の肖像画と言うか似顔絵と言うか… 20人足らず描きました)、ジョギング、ウォーキング(合わせて一日1時間ほど。最近は何故か家の中[室内です]を走ったり歩いたりしています)。

     家族は「里子」5人と私の6人暮らしです。「里子」はこれも何故か女の子ばかり。日本流に言えば小学生四人、中学生一人、ネパール流に言えば4年生二人、5年生二人、9年生一人。この子らの通っている学校は公立の俗称「ボウダ花園学園」と私立の俗称「オーム学園」に分かれています。

     自己紹介はこれくらいにさせて頂き、少しだけ本題に入らせて頂きます。アイウエオサークル・カトマンズ事務所職員(事務所自体は閉鎖されてもぬけの殻なのですが)杉本理事長秘書ゴクール氏と通訳ディネシュ氏が今日カンティプルテレビの取材を受けるのだそうです。テレビ出演するということだろうと思うのですが果たしてそれが放送されることになるのか没になるのか、もし放送されるとすればいつになるのかなどはわかりません。

     中途半端ですが今日のところはこれで置かせて頂きます。

     ご拝読ありがとうございました。 

     

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  • 元・「ネパール政府認可 国際NGO アイウエオサークル」(現 清算法人) による詐欺・横領の犠牲者がおられたと一昨日丹原氏から聞き驚いております。看護学生への奨学金支援の被害者だとのこと。
    ネパールの看護学校は私立が圧倒的に多いのが特徴で、学費が年15万NRs.(ネパールルピー。インドルピーとは違う。)かかるとのこと。もう一つ、特徴的なことは私立と公立の授業料の格差が格段に大きいこと。又、学校数や、募集人員数も私立が圧倒的に多く、公立看護学校に合格するのは至難中の至難。例えば、私が今もあずかっているスリジャナ・ラマ(女性。ネパールには「男性看護師」と名付けられた職種は無いとのこと。)はトリブバン大学附属ティーチングホスピタルという公立病院を今年受験し、募集定員60名のところ、ウェイティングリスト23番という好成績で、合格とも言えるし不合格とも言える形で合格(あるいは不合格)したのだった。要するに、入学辞退者が23人出れば合格となるということだが、実際には辞退者など0に近く、仮に23人出たとしても、現ナマの威力で資産家あるいは病院関係者などがその席を奪ってしまうとのこと。なお、今年その学校を受験した生徒は2000人ほど居たとのことなので、「83番」という成績は極めて好成績で、三つほどの学校を除き、他の私立学校を受験していれば、すべて立派に合格していた(もちろん、ウェイティングリストでなく。)のだ。

    そんなわけで、スリジャナは今、今年開校するある私立学校(病院は以前から有ったのだが、附属看護学校を持たなかった。)への入学手続き中で不安な毎日を送っている。詳しくはまたいずれ触れさせて頂くことが有るだろうと思う。

    一方、杉本は未だにネパールの貧しい看護学校生への貴重な奨学金を横領し続けていたのだ(注:看護学校に限らず、村の公立学校などにも多くの支援団体が奨学金支援を続けている。その多くは善意の個人からの支援金ではないかと思う。)。

    カトマンズ・メトロポリタンシティの市役所の幹部の地位にも就き、威勢を誇っていた杉本の余りに卑劣で、哀れな余生を、同じくネパールで貧しい山村の子どもたちの教育支援に携わって来た私たち(友人N氏とご家族。そして及ばずながら私。)としても平静な気持ちで見逃し続けることは出来ない。再度、立ち上がり、行動を起こさなければならないと思う。

    なお、丹原氏は、ネパール南部チトワンの学校建設に200万円もの大金を個人で寄付された方なのだが、杉本(清算人)は歴史有る「アイウエオサークル」の清算義務さえ放棄し、行方を晦ませているのだ。もうお一方の被害者、こちらは個人でなく日本の認定NPO法人なのだが、100余万円の中部(中東部?)山岳地帯であるラメチャップ郡の学校建設に寄せた資金をも同じくその清算義務を放棄し逃げているのだ。

    この二つの学校の子どもたちは、未だ元のままの不十分な校舎で勉学を続けているのだが、前記日本の支援者により、ささやかながら牧畜業(山羊、牛)などを起こしたりしての新たなる学校建設事業も模索し続けられているし、チトワンでは図書室の設置など施設面での充実を図らんが為の支援も実を結んだ。また、学校教育を背後で支える村の暮らしの充実を目指し、ガネーシャ寺院の建設やその附属施設としての集会堂の建設も既に実現している。すべて、杉本に横領された資金外の新たなる同じ支援者による支援の結果だ。

    ラメチャップの学校に関しても、同じく杉本に因る支援金被害者である前記 認定NPO法人 ISSC (国際学校建設支援協会) により、子どもたちに対する奨学金支援の拡大・充実が進んでおり、来春(ネパールの新学年は4月中旬に始まる)には新校舎での学習が実現する運びとなっているとのこと。

    もちろん、ネパールの村人たちも日本の支援に頼ってばかり居るのではなく、政府への要請や各界への要請にも走っているのだろうと思うのだが、政府側にもダリット(元低カースト、あるいは被差別カーストが住む村)支援などの優先順位もあったりして、なかなか支援が進まないと言った事情もあるのだろうと思う。

    本来、学校改築という貴重な資金として丹原氏、ISSCから提供された資金が杉本によりすべて横領されたことに源を発していることがらなのだが、何とかして、道が開けるよう、心から願っている。

  • >>500

    今 杉本さんの住所もわからず何とも手の打ちようがありませんが、このまま 人の善意の多額の金額をパーにしたままの杉本さんを 許しては 私を含め、たくさんの善意の人たちが泣くことになると思います。
    何とか居場所を突き止め、事実を明らかにし、少しでも償わせたいです。

  • 知らぬ間に もう神奈川の事務所を引き払い、大家さんも 債権者である私も どこに行ったか知りません。
    勿論、杉本さんから引っ越すという挨拶他もありませんでした。同じ債権者である○○さんと郵政とも連絡をとりましたが、誰も知りませんでした。

  •  前回引用した部分の続きです。 
    「しかし、りっぱさだけで、君を妻として遇することが出来なければ、どうしようもない」
    「いいえ、あなただけが身勝手なのではなく、私だって陶芸の道だけは、どうしても諦められないのですから、自分のことぐらい、なんとかなりますわ、あなたはあなたの、私は私の仕事を今まで通りに続け、その上であなたと……」
     千里はそう云い、たち止まって、壱岐を見上げた。しかし、壱岐は応えられなかった。
    「私が陶芸の仕事を続けるのは、おいやなの?」
    「いや、そうじゃない、実は話さずにおこうと思ったが、シベリアへ行って来る」
    「えっ、シベリアへ?」
    「朔風会の会長を引き受ける限りは、ハバロフスク、チタ、イルクーツクなどに眠る日本人墓地に詣り、ソ連当局と遺骨収集の話をして来たいのだ、もちろん、観光ビザでしか入れないのだから、ソ連側で定めたごく一部の墓地へしか詣でられないだろうが」
     壱岐は、かねて心に期していたことを話した。
    「でも、あなたはソ連側にマークされている人でしょう、観光ビザなどで行って、もしものことがあったら……」
     千里は頬を硬ばらせた。
    「もはや丸腰の私になど、ソ連側は関心を持たないだろうし、もしものことなど考えていたら、残された第三の人生は、スタート出来ないのだ」
     壱岐が静かに云うと、
    「解りましたわ、いつ、いらっしゃるの」
    「明後日からだ」
    「そんなに早く……」
     千里は絶句し、みるみる涙が溢れた。
    「大丈夫だよ、戦後三十年経つのだ、心配しなくていい」
    「使命感を持って行かれるあなたは、それでいいでしょうが、待つ私には、もう永久に帰っていらっしゃらないのではという不安な気持で一杯ですわ、私でもこうですのに、あなたが抑留中、奥様や直子さんたちは、どんな思いで、あなたの帰還を待たれたか……、私とのことであなたが、直子さんに気を遣われ、亡くなられた奥様に対して、妻の座はただ一人という思いを通して来られたお気持が、今ようやく解りましたわ」
     千里の漆黒の髪に、はらはらと雪が舞い散った。
    「さ、早く御堂の中へ入ろう」
    「ええ、でもあなた、無事に帰っていらして……」
    「大丈夫、何も起りはしないよ」
    「じゃあ、お見送りはしないけど、帰りの便を知らせて……、お迎えに行きます」
    「そうか、身勝手を有難う」
     それ以上、もう言葉は要らなかった。互いに寄り添うように、雪の三千院の庭を歩いた。

     さて、長々と引用させて頂いてしまいました。

     「壱岐と千里の愛の行方は?」と、ほんとに興味をそそられ読み続けて来た私にとっては、やっぱり、いささかストーン!とは腑に落ちない結末でした。

     単純に、本心では生涯『妻の座は一人』と心に決めていたのか… 

     でも、そう考えれば、妻の悲惨な不慮の交通事故死の後も千里との交際を続けていた壱岐の心中がわからないし、

     あるいは、また、自分の社長就任が趨勢として決まっていたような、そんな状況の中で、「我が身一身よりも会社の将来」を思い、社長退陣を迫った、そういうのっぴきならない事態が巡って来た中で、それを受け入れざるを得なかった。そして、自分自身の信念としての「第三の人生 朔風会会長の仕事」へとのめりこんで行くしかなかった。そういう運命の悪戯が、千里との愛の成就を全うさせなかったのではないか…

     とも考えられるし、

     米ソ対決時代の緊張した世界情勢を背景とした日ソ関係を考える時、シベリアを舞台とした遺骨収集の仕事が難なく進むのかを考えると、我が身の上に何が起こるかさえ予測できない、そういう状況に自分を置く中では、千里との愛を貫くことは困難だと判断した。

     と考えることもできるでしょう。 

     もちろん小説「不毛地帯」はすでに完結してしまいました。が、もし、読者がこの小説の続編を書かせて頂けるのなら、このあと、壱岐と千里両人それぞれにどういう運命が用意されているのかは神のみぞ知ることなので、再婚と初婚の違いはあれ、壱岐と千里の結婚が成就する可能性も当然有り得ることなのでしょう。

     とにかく、一人の人間が、運命の波に揉まれ続けながら、それに飲み込まれず、自分の信念を貫こうとした姿に励まされた私でした。

     拙いまとめしか書けず申し訳ありませんでした。

     今後共よろしく!杉本さんもね!

  •  突然ですがつづきです。

     「大門社長退陣表明」が発せられた緊急常務会を描いた項の最後の数行をそのまま引用させていただきます。

     「成功した今だからこそ、やらねばならないのだ。… … … … …。」
     壱岐はそう云い、一人一人の役員たちの顔を見詰めた。その言葉で、役員たちは、大門を退陣させるために、壱岐が石油開発成功の栄光を自分のものとせず、会社改善のために、自ら身を挺したことを読み取り、言葉にならぬ感動が会議室をおし包んだ。」

     さて、壱岐と千里(ちさと。秋津中将の娘。)との結婚問題に触れた項なのですが、これも、小説の中の言葉を引用しながら考えてみたいと思います。

    「近畿商事をお辞めになって、壱岐さん、これからどうなさいますの」
    「… … …、大門社長のお伴をして退職した私には、二度と会社勤めをするつもりはない」
    「じゃあ、これから……」
    「谷川さんが亡くなられた後の朔風会の会長というか、世話役を引き受けることにした、二千人の会員とともに、舞鶴に慰霊碑を建て、シベリヤの荒野で眠っている遺骨の収集を果すまで何年かかるか解らないが、第三の人生はそのことに尽したい」
    「そうでしたの、数ヶ月前、深夜、私の工房へいらした時のご様子から、いつかそんな日が来るのではないかと思っていましたけど、まさか、こんなに早くとは……」
     千里は、驚くように言葉を跡切らせた。
    「慰霊碑建立や、遺骨収集の間には、谷川さんが存命中されていた通り、会報の発行や、会員の病気見舞、子弟の奨学金や就職の世話などに走り廻ることになると思う、僅かだが、今までの貯えと退職金で、自分の身一つぐらいは食いつないで行けそうだからね、だが、君には……」
     …  …  …。
    「君とはニューヨーク以来、七年間、いかに仕事の上のぬきさしならぬ事情があったとはいえ、一日延ばしに延ばし、結局、こんなことになってしまってすまない、人生の盛りを過ぎ、経済的にも社会的にも丸腰になってしまった今、以前からの約束は果せそうになくなった」
     … … …。
    「果せないって……」
     千里は、訝しげな眼ざしを向けた。
    「今から思えば、商社マンの間に、せめて一度ぐらい君の行きたい国へ一緒に旅し、欲しいものの一つも買ってあげるべきだった……、それを仕事、仕事で押し通し、随分、我儘で思いやりのない男だった、そんな私を待ち続け、大事な時を失ったとはいえ、君は女としても、陶芸家としてもまだこれからだ、兄さん同様に、まっすぐ自分の道を貫き通してほしい」
     壱岐は一言、一言を、自らにも云いきかせるように云った。
    「兄と同じ道を歩けとおっしゃるまでもなく、私にはその道しか歩けませんわ」
     そう云うと、千里は正殿の階段を下り、そこにある庭下駄を履いて、雪の庭へ出、
    「こちらへ、降りていらして」
     白い手をさしのべた。炭櫃を提げたまだ頭の青々とした小坊主が急ぎ足で廊下を渡って来、雪の中にたち尽している千里と、廊下にたち止っている壱岐に、不審そうな視線を向けた。
     壱岐は、その無垢な瞳に心解かれるように雪庭に降りた。
    「せっかく、こうして三千院まで来たのですから、往生極楽院の阿弥陀様を拝んで行きましょう」
    「うむ、しかし……」
    「近畿商事の副社長を辞されたことと、私とのこと、どうしてそんなに気になさいますの、壱岐さんとはじめて父の仏事でお出合いし、そのあと、竹村様、西陣の叔父とこの三千院へ参りました時、私が心惹かれたのは、シベリヤから帰還されてまだ間もなく、十一年間の抑留生活で、お顔の色にどすぐろ(黒辺に音)さが残った壱岐さんでしたわ、昨年の暮れ、新聞で大門社長が相談役に勇退され、あなたも社長に殉じるように辞任されたことを知った時、突然で驚きましたけど、あなたらしいごりっぱな身の処し方だと思いましたわ」
     千里は、しみじみと云った。

     途中ですが、今日のところはこれで置かせていただきます。いくら齢をとっても恋愛関係には疎く、簡単なようにも見えるこの壱岐と千里の関係を私なりにまとめることが出来ません。

     では、また、次回に。お休みなさい。

  •  この小説は主人公壱岐 正に対抗する人物、特に、「近畿商事」筆頭副社長の里井や、「東京商事」の鮫島などの敵役と言うか脇役たちを実に巧妙に描いているので、私も、いつの間にかどんどん壱岐ファンとなり、いつ「イキ」が「サトイ」や「サメジマ」を蹴落としたり、やっつけたりするのか、そんな興味を膨らましながら読み続けたのでした。

     ところが、サトイが自ら脱落するかの如く心臓発作で倒れ、それでもまだ「次期社長」の座を目指し足掻き苦しむ姿を見たり、サメジマが、イランでの油田発掘競争でイキに敗れるのを見て、ちょっと「いい気味だ!」と思ったり、「ああ!こんな風に展開するのか!?」と思ったりしながら読み進んだのでした。

     あとは、イキがいつ、どんな形で近畿商事の社長の座に着くのかに興味を持って読んだのでした。
    大門社長に社長辞任、相談役就任を進言する腹の奥で、自分はどうやってそれを社長自身に納得させ、サトイに納得させるのか… と。

     ところが、そこへ突然大門社長に突きつけられた「退職願」! 大門社長がそこでやっと自分自身のソ連綿花買いに端を発した自信満々の職権濫用!いや、社長としての当然の職権「濫用」に、部下たちが自らの職を賭して進言してくれているのに気づき、イキの願いどうり、代表権の無い「相談役」への下座に応じる場面には感に詰まる思いがしました。

     大門は、イキがそれらしい言葉で一言も迫らなかったのに、「これからの商社は一介の相場師がまるで王か王の占い師のように君臨し引き回すものではない。今やそんな時代ではない!」と真底から気づいたのでしょう。

     イキは「これからは組織の時代だ!商社の各部門部門の組織が、たとえば人体のように、それぞれの器官の働きを精一杯発揮し、人間が人間らしくその生涯を全うできるような、そういう組織体でなければならない。」と部下に説得するのでした。

     さて、この後、小説は、「壱岐 正・再婚の行方」「壱岐 正・シベリヤ抑留遺族会会長就任・ 遺骨収集にシベリヤ渡航」と進みます。

     これに関しては、再度、読み返してみなければ、今の私にはまだよくわかりません。しばらくのご猶予を頂きたいと思います。 

    では、今日のところはこれで置かせて頂きます。

  •  おはようございます。

     日本では土日「体育の日」と運動会シーズン、そして、行楽の秋と、季節の恵みを肌で感じられたことと思います。でも、そこへ巨大台風。大島では大雨で大きな被害がありました。尊い人命が失われました。

     ラオスでは飛行機事故。

     ネパールでは秋の大祭「ダサイン」が2週間に渡って祝われました。例年、町から故郷の村への往復途上での大きなバス事故が報道されるのですが、今年は、今のところ大きな事故もなく、穏やかに祭りが終わりかけています。

     人類の営みには今も延々と自然災害との闘いが繰り広げられていますが、一方、社会的な営みに関しても絶えず艱難辛苦が付きまとって来ます。

     さて、小説、そして、私の偉人伝「不毛地帯」は、この後、
     
     「フォーク・千代田提携」問題
     「イラン陸上石油発掘」問題
     大門社長一世一代のソ連綿花買い
     大門社長退任⇒相談役
     壱岐 正副社長退任
     壱岐 正・再婚の行方
     壱岐 正・シベリヤ抑留遺族会会長就任
     同 遺骨収集にシベリヤ渡航 

    と進みます。読後一週間も経つと、もう読後の感動が失われてしまう「老い」との刻一刻の闘いを迫られている私ですので、感動したり考えさせられたりしたことなど、ほんの少し綴らせて頂き、私の偉人伝「不毛地帯」の項を閉じさせて頂きたいと思います。

     ① フォーク・千代田提携問題
     米4大自動車メーカーの一つフォーク自動車と日本の千代田自動車の提携は、ついに成らず、そればかりか、意外にも、影で交渉を同時進行させていた他のメーカー(広島に本部を置く中小メーカーの一つ)との提携を決めたのでした。
     そして、その「フォーク・千代田」の提携交渉のまとめ役を勤めたのが壱岐 正がその一員である「近畿商事」。一方、「フォーク・在広島中小メーカー」との提携交渉のまとめ役を勤めたのが「東京商事」の鮫島でした。
    フォークは千代田に在広島中小メーカーとの提携交渉を完全に隠し続け、自己の利益のみを考え、千代田との提携を拒否したのでした。
     苛烈な国際競争の一面と、そこで「生き馬の目を抜く」商戦を展開する生え抜き商社マンたちの人間像に色々と考えさせられるものがありました。

     ② イラン陸上石油発掘問題
     オイルショック以降ますます石油確保を重大国策として遂行させざるを得なかった日本が、海底油田発掘が趨勢となりつつあった国際石油開発競争の中で、最後に残る巨大陸上油田として注目されるイランの油田開発競争に引き入れられて行く、その経過を追ったのがこの項でした。

     日本は公社、商社が一団となって「日の丸グループ」を形成し、メジャー(アメリカの巨大石油資本)やインディペンダント(欧米の独立系石油会社)との入札競争に参加します。そして、「日の丸グループ」の中での各公社、商社の出資比率が決まります。日本石油公社50㌫、五菱商事25㌫、東京商事15㌫、近畿商事10㌫だったでしょうか?それを見て近畿商事は、社の命運を賭けているこの商戦に10㌫の比率でしか参加できないのでは賭ける値打ちが無いとし、「日の丸グループ」を脱退し、アメリカのあるインディペンダントと新たに戦線を組み直し、入札競争に再参入します。
     そして、ついに、「日米グループ」が「メジャー」、「日の丸グループ」を破り、採掘権を獲得します。

     この「項」の圧巻はまず何と言っても、その採掘権獲得競争の裏話とでも言うのでしょうか、中東の石油大国イランにおける商慣習の日本との余りの違いと格闘する近畿商事のベテラン商社マンらの奮闘振りでした。彼らが最後に辿り着いた仲介人はなんとイラン国王付き医師団の一人でした。そこに辿り着くまでには何人もの協力者が居て、その中に、あのいつまでもお美しくて有名な「デビ夫人」をモデルにしたと思われる日本人女性(彼女の当時のご主人はインドネシア華僑の中心メンバーの一人だった方でした。)まで登場します。波乱万丈の国際石油獲得競争の一場面でした。

     そして、この項のもう一つの圧巻は、独立系アメリカ石油資本と近畿商事の緊密な提携の下での、採掘現場技術者たちの奮闘の凄まじさでした。未知との闘いと言うのか、地下数千メートルの自然との闘いと言うのか、新たなる大油田発掘(ではなく発見。掘ってみないとわからない。)のすべての成果が彼らの肩にかかっていたのでした。

     第一次から四次までの4度に渡る発掘地点を少しずつずらせての命を削っての探田作業にもすべて失敗し、第四次での微かなしかし明らかな予兆だけを頼りに始まった第五次の探掘作業の末、見事、新油田探掘に成功した時の日米技術者の狂喜乱舞する光景は涙無しに読めるものではありませんでした。 

     ③ 大門社長一世一代のソ連綿花買い
     大門社長の近畿商事は、そのモデルになったのが大阪の伊藤忠商事だと言われ、東京の五菱商事(三菱商事がモデル?)や五井商事(三井商事がモデル?)などの財閥系総合商社とは違い、「糸へん」に始まったのでした。大門は時代を飾る一世一代の「糸へん」相場師だったのでした。

     60を過ぎ70近くになっていたのでしょうか、老練の元相場師、現五菱、五井に次ぐ業界第三位の近代的総合商社社長が最後に打って出た大博打が「ソ連綿花買い!」でした。

     ところが、稀代の相場師大門社長にして、老いによる判断力低下、状況によって機転を効かす意志の力、あるいは、市場の状況を冷静に判断し、そこから学ぶ力の低下… 等々、「不毛地帯」には「老醜」という言葉もたった一箇所でしたが使われていました。そういう諸々の要因がそうさせるのか、現実の綿花相場は1ドルを切り、50セントを切り、「売り」時を失すれば会社全体に莫大な損害をもたらすのではないか… と心配した綿花部長、業務部長、副社長(3人居たのかその内の「糸へん」に詳しい副社長)などが入れ替わり立ち代わり大門社長に提言するのでした。
    「まだまだ下がります。今が売り時です。」
    そして、それに対する大門社長の返答は、いつも、
    「まかしとき!その内上る!わしは、わしの勘一つで一介の「糸へん」商社にしか過ぎなかった大阪商事を今こうして業界第三位の総合商社にまで大きくした。」
    と繰り返すばかり。

     とうとう、痺れを切らせた元大本営参謀にして、イランでの大油田発掘成功の功などによって今や次期社長候補としてみんなが認める壱岐副社長が直接社長室へおもむき、大門社長に直談判します。

    「社長!あなたは陸軍幼年兵以来の軍人畑しか歩んで来なかった、そして、戦後も、11年間に亘りシベリヤに抑留され、ますます、世間離れし、商社などとはどこをどう転んでも結びつかない、役立たずの私を拾って下さり、今の今まで慈しみ育てて下さいました。その、社長に大恩のある私が、今更言えた義理ではないのですが、どうか社長の椅子を後進に譲り、経営の第一線から身をお引きください!」

     大門社長は、

    「軍人上がりで世間慣れしていない君を信じ、あれこれと引き立て、あるいは守って来たのに、今の言い草はなんや!?言葉を慎まなアカン!!」

    と激昂します。その後、色々と言葉の遣り取りがあり、結局、大門社長のほうが折れて、

    「わかった!わしは会長に退こう!」

    と決断するのですが、壱岐副社長は、

    「駄目です。相談役になって下さい!」

    と冷静に進言します。

     ④ 大門社長退任⇒相談役

     数日後、壱岐副社長は大阪城天守閣を眼下に見下ろす社長室を訪れ、一通の封筒を手渡します。そこには、「退職願」の三文字。
     驚いた大門社長曰く、

    「君は、代表権の無い取締役にワシを落として、君が社長になるつもりじゃなかったのか…?」

    と、漸くにしてすべてを察し、社長を辞し、相談役に退くのでした。

     今日のところはこの間の不毛地帯のあらすじをなぞった形で終わってしまいました。読者である私の「読書感想文」は次の機会にさせていただきます。

  • ない人にききやい
    じょうぶなやちゃ いいごっばっかい

     唄は啞にきけ。… … …。道は盲にきけ。… … …。理屈は聾にきけ。… … …。

     以上、「上野英信集1 話の坑口」径書房 1985.2.25.発行 からの抜粋です。記録作家 川原一之氏による解説「闇に燃える命の火の文学」から引用させて頂いています。

     私も中学生の時、近所の人たちから「おし」だと思われていたようで、あまりの無口さがそういう事態を招いていたのだろうと納得したのですが、やっぱり驚いたものでした。その私が、昭和20年、徳島の田舎に疎開していた時、まだ4歳だった(昭和21年、5歳の時だったかも?)私が近所の友達みんなで近くの那珂川の河原の藪の中を散策していたのですが、聾唖者のおにいさんだったかおじさんだったかと出会い、みんなと口を合わせて、「あの人、おしだよ!」とか、「おしや おしや!」と口走っていたのを何故か今もなお覚えています。

     掲示板にこういう言葉を使って書き込むことが許されるのかどうかはわかりません。削除されれば、再度、書き直そうと思っています。ご了承下さい。

     「もののいえない人間だけがほんとの唄をうたうことができる。」「目のみえない人間だけがほんとの道を知っている。」「耳のきこえない人間だけが真実を知っている。」丈夫なやつは口先の言葉ばかり。五体五管のそろった人間のことばなど、虚偽以外のなにものでもない。

     と、上野英信氏の『骨を噛む』から引用されています。

     続いて、川原氏は、
     なんとも凄じい「逆説の哲学」ではないか。これが、暗黒に命の根を降ろした民衆の生きた哲学なのであろうか、〈明暗の国〉の手垢に汚れた価値観をくつがえすには、ここまで根源的でなければならないのだろうか。おそらくこの哲学は、〈闇の国〉の民衆が〈明暗の国〉をとび越えて〈光の国〉へ至る唯一の飛躍の契機であるに違いないのだ。
     上野はこの里(人偏に里)諺を深い省察なしには聞くことができなかったはずだ。すべての知者へ向けられたその鉾先に、上野自身もいたからである。
     知者であるおまえの知など信用できぬ。真実の知は非知者の知のみ。
     知者であるおまえの文学など信用できぬ。真実の文学は非知者の文学のみ。
     上野がたとえ大学生から炭鉱労働者へ転進しようとも、知者であることに変わりなかった。逆説の哲学が問題にしているのは、大学の知(文学)であるか炭鉱の知(文学)であるか、といった成立の場のことでも、資本家の知(文学)であるか労働者の知(文学)であるか、といった階級性のことでもない。〈明暗の国〉のやわな発想とはまったく異なって、もっとも根本的に知の成立の源に疑問を投げつけているのだ。知の所産としての文学の存在そのものを問いつめているのである。

     更に、川原氏は、次のように解説されています。

     「上野がその問いを真正面からつきつけられたのは、鹿児島の農村でこの諺を耳にする以前、
    1953年春、日炭高松第三鉱で働いていた上野が、首を切られる事態に直面したときのことだった。」
     「朝鮮戦争が終わって、不況の時代を迎えていた筑豊に、もはや雇ってくれる炭鉱はない。食い扶持を断たれて途方にくれた二十九歳の青年に、ヤマの仲間たちは次のように声をかけてくれた。」
    と綴られ、その仲間たちの声を、上野氏の著作『骨を噛む』から、次のように引用されています。

    「なーんも心配せんでちゃよか。あんたひとりを養うぐらい、朝めしまえのへのカッパたい。まかしとき。ダテに坑内さがって石炭掘りよらせんばい。せいぜい俺たちが読んでもわかるげな、おもしろか小説ば書いてやんない。頼っちょるばい!」

     更に、川原氏の解説は次のように続きます。

     文学が商品に堕ちて以来、上野のような問いと正面から向きあった作家が、果たして何人いたであろうか。「俺たちが読んでもわかるげな、おもしろか小説ば書いてやんない」と期待してくれるヤマの仲間たちに買ってもらえる作品を書かなければ、筑豊で生活していけないのである。過酷な地底の労働から解放されて帰宅しても、ぐったり疲れきっていて、とても本を手にとるどころではない鉱夫たち。従来の職業作家がまるで読者として考えてこなかった人びとを読者とする、まったく新しい職業作家にならねばならないのだ。
     上野英信は重大な転換点に立たされた。

     途中ですが、一旦、投稿させて頂きます。

  •  おはようございます。
     ネパールは今、年間最大の祭りである「ダサイン」の真っ只中です。明日が祭りの10日目(ダサインは10日目の意)に当たりピークを迎えます。私があずかっている4人の子どもたちもみんな村へ帰りました。10月5日(ダサイン1日目)だったか6日だったかに平甕(土器のお皿です)に麦の粒を蒔きます。もちろん少し水も蒔きます。明日、芽が出た麦の粒を髪に飾ります。女性だけだったか? 男性もかな?ほんとに由緒あるお祭りです。

     さて、私が、上野英信さんの本を読むよう福地幸造先生(兵庫県立湊川高校での「ほえろ落第生」「落第生教室」の著書で有名な方。)らから薦められたのはいつの頃だったでしょうか?今からもう20年近くも前になるでしょうか。でも、私が上野さんの本を手にしたのはやっとほんの数年前のことでした。友人のご主人が遺された蔵書の中に上野英信集第1期全5巻が有ったのでした。その中の一冊を奥さんからお借りしたのに、申し訳なくも何年か私の本棚に眠らせてしまっていたのでした。

     10日ほど前に読み初めたのですが、とにかく本を読むのが遅い(頭の回転が遅いのでしょうね。)ので、あと、まだ50ページほど残しています。

     でも、意を決して読んで、ほんとによかったと思っています。

     一番よかったのは「ひとくわぼり」でした。やはり、福地先生らに「ひとくわぼり は特に読んでほしい!」と薦められていただけのことはあると心からそう思いました。

     そして、ヤマ(筑豊の炭鉱のことです)の仲間だった千田梅二さんの木版画が挿絵としてすべてのページに挿入されていて、更に興味深く読み進めることが出来たのでした。上野さん、千田さん、そしてそのお仲間の方々が、ヤマで働く仲間たちに喜んで読んでもらえるよう、大変なご苦労の末、そのような本作りに至ったのだそうです。この本が出版されたのは1985年2月25日でしたが、ほんとの意味での初版は1953年から4年にかけてガリ版刷りでもちろん製本も版画の刷りもすべて自前で取り組まれたのでした。そして、100部から150部の本がヤマの仲間たちの手に渡ったのでした。

     冒頭の「せんぷりせんじが笑った!」「はじめての発言」「みんなで書いたラクガキ」「親と子の夜」の4編はどれも10~20ページ程度の短編で、「ヤマの仲間たち自身が主人公」なので、奪い合うように本が手に手に渡ったようです。「ひとくわぼり」は120ページもある長編と言ってもいいくらいの作品なのですが、民話風の語り口で書かれているので、「版画だけを見ながら親が子に語り聞かせてあげてもいいだろうなあ!」と思える作品です。なにしろ、すべてのページに千田さんの版画が刷られているのですから。

     お話の内容や感想は又後日にということで、今日のところはこれでお暇させていただきます。では、また。

  •  おはようございます。

     ネパールは今一年で一番大きくて一番賑やかな祭り「ダサイン」の真っ最中です。日本の盆暮れの帰省風景に似た風景が二三日前から展開されています。ここ首都カトマンズからも故郷へ向かう人々のバスの列が東へ西へと続いています。悲しい話なのですが毎年この帰省(あるいは帰京)風景の中で、何件かのバス事故が起こり、尊い人命が失われます。屋根にまで多くの人たちがどっさり座り込んでいるのですから、尚更のことなのかも知れません。私も14年ほど前にそれが珍しくて一二度屋根の上に乗ったことがありますが、今なら、年老いた結果の体力不足などもあって、尚更怖くて、そんな無茶なことは出来ません。

     さて、10月5日に投稿させて頂いて以来、ほぼ一週間、山崎豊子著「不毛地帯」に魅せられて毎日のようにその続きに読み耽っていました。そして、一昨日、この大河小説を読了しました。思えば、私が、前回大河小説を読んでから、2年7,8ヶ月もの月日が過ぎ去っていました。その、前回読んだ大河小説というのは、あの有名な司馬遼太郎著「竜馬がゆく」でした。坂本竜馬と壱岐 正、前者は本名、後者は本名でなく小説上の名前で登場していますが、壱岐 正のモデルとなった人物はほぼ明らかにされています。もちろん、そうではなく、複数の人物から構成されたモデルだとする説などもあるようですが、まあ、それにしても、その根幹を成す中心人物は「瀬島龍三氏」だとされています。

     幕末に活躍した坂本竜馬、昭和に活躍の舞台を持った瀬島龍三の生き様を描いたこの二つの大河小説に、私は、時代が違い、「英雄」と「庶民」の絶対的な違いまで存在するとは言うものの、毎日毎日わくわくしながらこれらの大河小説をまさに「偉人伝」として読んだのでした。瀬島龍三氏を「偉人」として紹介される方は残念ながら少ないと思うのですが、私にとってはまさしく「野口英世」や「二宮尊徳」や「湯川秀樹」や「リンカーン」「エジソン」… … と並ぶまさに「偉人」でした。

     しかし、坂本竜馬の実像は竜馬が「いった(行った)」その竜馬とは色々と懸け離れているという記事も目にしたことがあるし、壱岐 正に至っては更にそうだという説があるように、どちらも「小説」の主人公なのだから、「モデル」とは全くの別人として読み、考えるほうがいいのだろうと思います。

     私は、坂本竜馬を「私の」坂本竜馬として読み、壱岐 正を「私の」壱岐 正として手に汗して読みました。
    それで、ここからは、歴史上の人物としてのモデルからは離れて、二大大河小説(もちろん、立派な大河小説は古今東西無数に有るのは承知の上での話です。)の主人公として読んだ感想など綴らせて頂こうと思います。

     先ほど「偉人伝」として読んだと書きましたが、先ほど野口英世以下列挙させて頂いた、私が少年時代に読んだ(か読んでいないかは正直言ってもう忘れてしまったのですが…)「偉人伝」とは多いに違います。

     少年少女が読む「伝記」は、主人公の偉業が彼らの心を奮い立たせるよう、それを第一に願って、伝記作家が精魂込めて書き残した物なのだろうと思います。しかし、大人が読む伝記は、そういう少年少女向きの配慮などは抜きにして、書かれるのだろうと思います。

     大人が小説を伝記として読もうが、身辺雑記として読もうが、娯楽として読もうが、… … …、それは大人の勝手です。でも、子ども(たとえば子ども時代の私)が「リンカーン伝」を身辺雑記として読んだわけは無く、娯楽としても別に笑いが止まらない伝記ではありませんでした。私は私なりにリンカーンの黒人に寄せる心に感動したのだと思います。少年少女を感動させ奮い立たせる何かを持たない伝記は伝記ではないと思います。

     そして、大人の伝記は、彼が、30歳になろうが、50歳になろうが、70歳、90歳になろうが、彼の心に火をつけてくれる、優しく言えば、ポッと火を灯してくれる、そんなものであってほしいと私は思っているので、「竜馬がゆく」も「不毛地帯」も「私の偉人伝」として読んだのでした。

     さて、小説、そして、私の偉人伝「不毛地帯」は、この後、「フォーク・千代田提携」問題(意外な結果に終わる!)、「イラン陸上石油発掘」問題、大門社長一世一代のソ連綿花買い、大門社長退任⇒相談役、壱岐 正副社長退任、壱岐 正・再婚の行方、壱岐 正・シベリヤ抑留遺族会会長就任、同 遺骨収集にシベリヤ渡航 と
    進みます。

     では、また。後日お会いしましょうネ!杉本さん!杉本さんの敬愛される偉人伝、お持ちでしょうか?お持ちで無ければ、ぜひ、それを見つけられて、もう一度、心を奮起させ、ご自身の再生を成し遂げて下さい!

  •  いつごろの事だったのでしょうか?

     山崎豊子著「不毛地帯第4巻」(電子書籍。新潮社版。全五巻。)に、「近畿商事」(伊藤忠商事がモデルだとか…)がイラン、リビア等で石油を巡る開発競争、そして貿易等に携わる様子が詳しく描かれています。
     そして、もう一つ、これも同じ頃の話なのでしょうか、日米自動車会社の国際提携の動きとそれに関わる近畿商事、東京商事等各商社、自動車会社、銀行の動きが様々に描かれています。

     まあ、社会科の教科書や経済関係の専門書を読んでいるような、そんな感じもしながら読んでいます。正直言って今の今まで私は商事会社の仕事の内容も自動車会社の経営上の問題もほとんど何も知りませんでした。初めて知る世界にグイグイ引き込まれて行く思いで読んでいます。

     イランでは、めまぐるしく世の中が変転する中で石油産業がどんどん進展して行く、油田探索、石油採掘、その販売… それらに、近畿商事、東京商事、五菱商事、五井商事等各社がしのぎを削る… 初めて知るその凄まじさに圧倒されました。

     私の知るイラン(インドの西端タール砂漠に夢のように浮かぶ中世さながらの城塞都市「ジャイサルメール」には二度も行きましたが、その先のパキスタン、イランまでは足を延ばせませんでした。)はなんと言っても「ペルシャの市場にて」の名曲で知ったイランでした。そう、ペルシャ猫のペルシャ。

     イランって国中至る所に石油が出て、私が思っていたのとは遥かに違う豊かな国だったんですね。

     まあ、あのホメイニ師が歴史の舞台に華々しく登場されて以来のイランについては色々興味を持って見続けて来たのですが、この小説に描かれているイランはそれよりだいぶ昔のイランです。

     リビアに関しては、新油田発見、掘削、石油販売に関する日本の各商社間の競争などが描かれています。でも、そのリビアもいわゆる「アラブの春」の嵐で今大きく変転しています。
     イランでもリビアでも、王族、あるいは旧王族を頂点とする人々が、巨大と言うのか莫大と言うのか… そういう石油利権を巡って勇躍するあるいは暗躍する様が、言い換えれば彼らが創り上げた世の中のからくりが見事に描かれていて、興味を誘われました。
     過酷な砂漠の気候についても、私は、気候のよかった冬のインドのタール砂漠しか知らず、勉強になりました。

     うろ覚えで史実と違ってはいけないので、今から、少し、年表で調べてみたいと思います。イランとリビアについて です。

     … … …

     さて、「ウィキペデイア」や「歴史年表」を調べてみたのですが、歴史的事実と小説とを対照
    するのが難しく、もっともっと勉強して、いつかしっかり書ける時が来るまでは遠慮させていた
    だくことにしました。

     「日米自動車問題」に関してもやはり史実との対応が難しいのでやはり遠慮させていただくこ
    とにしました。

     やはり、小説は小説、歴史は歴史、それぞれ別個に読むことしか私には無理なようです。申し
    訳ありませんでした。

     杉本さん!色々ご存知でしたら、ぜひ、お教えくださいね。

  •   杉本さん!お元気ですか?突然ですが今どんなご本をお読みでしょうか?

     私、最近、人類の負の遺産と言うか、歴史の暗部と言うか、これまで自分勝手に避けて来た問題にもしっかり臨み、「読んで 知って 考える」ことが大切だと思い、いろんな本を読んでいます。

     まず、先日亡くなられた山崎豊子さん(ご冥福をお祈りします!)の「不毛地帯」という小説で「シベリア抑留」のことを知りました。そして、同じ本で、ほんの少しですが、「東京裁判(極東軍事裁判)」のことも知りました。あと、「ナチスのユダヤ人虐殺」に関しても、いつか知らなければならないと思っています。

     昨日、本棚の隅っこから探し出した「新編 三光 第一集」(KAPPA NOVELS ドキュメント シリーズ 光文社 1982年8月10日 初版1刷発行)を手に取り、冒頭の数ページだけでしたが、初めて読みました。1982,3年頃に買ったのだろうと思うのですが、何故か、写真などをパラパラッと見ただけで本文にまでは進まなかったのか進めなかったのか… そういう一冊だったのだろうと思います。

     昨日も、冒頭に掲載されている16ページほどある写真を見て、70歳を過ぎた私には心理的に刺激が強すぎて、「とても読めそうにないなあ!」と思いました。

     私が4歳半の時に第二次世界大戦が終わりました。従って、私には戦争責任などが有ろうはずが無いので、「何も気にせずどんどん読めばいい」と思うのですが、「シベリア抑留」と違って日本人が加害者側に立ち、それ(「シベリア抑留」)より遥かに残虐な加害者となった事実を知るのはほんとに辛いことだと思いました。しかし、意を決して、

    《 殺光 焼光 略光  これを三光という  殺しつくし 焼きつくし 奪いつくすことなり》

    という冒頭の一文を読み、24枚の写真を見、中国略図を見、本田勝一さんの まえがき …「反省なき民族」のために…
    を読みました。

     本田勝一さんの「まえがき」は、ある意味で「ほっとする」ような次の文章で始まっています。

    「人類には確かに共通する性格がある。
     たとえば戦争での残虐行為ということになると、アウシュヴィッツのナチ・ドイツとか、中国その他での日本軍、ベトナムでの米軍、中央アジアでの蒙古軍等々、とくに侵略軍の側に特徴的である。どの民族(あるいはどの国)は常に残虐で、どの民族は常に決して残虐行為・侵略行為をしたことがない、といったことはありえない。すなわち、侵略を「する側」になるやいなや、いかなる民族も残虐非道の鬼になりうる点で、人類は共通の性格を持っている。」

     そして、

    「しかし、民族によって異なる歴史はもちろん、異なる性格がかなりあることをも、他方では認めざるをえない。日本の近代史・現代史をみるとき、その意味での著しい特徴のひとつは、自らの力で体制を根底からくつがえしたことが一度もないという点であろう。天皇の名において何がなされようと、ついにこれが根底から批判されてくつがえることはなかったし、軍国主義路線の果てにアジアに惨憺たる情況をもたらした末、自国民をあれほどの目にあわせたA級戦犯を、戦後も平気で総理にする神経を持つ。」

    とつづき、更に、まだまだ続くのですが、それは又後日触れさせて頂くとして、「本文1」を読みました。なお、この本文は1から15まで有って、すべて、「日中戦争」に従軍した下士官・兵によって綴られた文章を「中国帰還者連絡会」が15編の日中戦争記録集としてまとめられたものです。

     さて、ここまでの写真や文章を見たり読んだりしながら、私が思ったのは、私の年代(小学校5年生から中学3年生だったのは 1953年から57年まででした。)にはどんな社会科教科書で日本と世界のどんな歴史を学んでいたのかな? ということでした。

     私がよく覚えている事柄で、年次まではっきりしているのは1952年(昭和27年)の「講和条約発効」とか、1954年(昭和29年)の「第五福竜丸ビキニで被爆」とかだけで、あとは、年次がよくわからないのですが、勤務評定反対闘争、砂川闘争などもその頃だったのでしょうか?

     太平洋上、及びそこに浮かぶ島々で日本がアメリカと戦争していたということはよく知っていても、何故か日中戦争のことはほとんど知らなかったのでした。

     そんなわけで今ウィキペディアで色々調べてみました。いわゆる「日中戦争」自体は1937年に始まり1945年に終結となっているようですが、日中戦争と中国・内戦とが絡まり、複雑な様相も呈していたようですね。いわゆる「三光」についても諸説あり、南京大虐殺の真偽を頂点に日中戦争の実相も未だ解明されていない点も多いようですね。そして、今、私がご紹介させていただいている「新編 三光 第1集 中国帰還者連絡会編 光文社」に関しても、色々問題点が指摘されているようだし、その点を考慮しながら読み進めないといけないようです。今は雲行きが怪しくなっているとは言え、文化的にも、歴史的にも一番関係の深かった国、「中国」との関係にも影響することなので、ここは一つ真剣に読んで行きたいと心を新たにしています。

     何か2013年10月2日突如迷宮に迷い込み難題に取り付かれた感じがします。

     杉本さん!あなたが抱えておられる難題も難題!私がまさに今日嵌まり込んだ難題も難題!共に、難題克服に真剣に取り組みましょう。

     私は、私の亡父と同い年で、現在100歳を越えておられる、ある友人のご尊父から、日中戦争中の中国でのご活動(彼は商社マンでした)を再度お聞きできれば… と思っております。10年以上前になるのですが、一度当時のお話をお聞きしたことがあります。

  •  日曜日のお昼になりましたが、こちらは平日です。日曜日が平日だなんて、頑なに「元欧米植民地略奪帝国」の慣習に擦り寄らないところが、ネパールって以外に覇気があると初め思ったのですが、その覇気は実は隣国インドへ向けられているのだという説を読んだのか聞いたのかして、「なるほど!そのほうがよくわかる。」と思ったのでした。インドはイギリス風に日曜日が休日なのです。でも、未だ本当の理由は知りません。イギリスやフランス、ポルトガルによる支配以前にインド全土を支配していた諸々のイスラム帝国が日曜日を休日にしていたなどとは到底考えられませんしね。イギリスの風習を踏襲したのではないでしょうか?

     杉本さん、今朝投稿した中に一つ誤りがありましたので訂正します。中ほどの次の箇所です。

     「でも、I氏 、ISSCにとってはその200万、100万…」のところ、I氏でなくT氏でし
    た。

     
     杉本さん、私は、この2ヶ月、ずっと、山崎豊子著「不毛地帯」を読んでいます。電子書籍で全5巻あるので、あと2,3週間掛かりそうです。その第一巻の中に主人公壱岐 正が極寒のシベリア各地の収容所を転々とさせられるいわゆる「シベリア抑留」の記述が登場します。そして、ある時、東京裁判へソ連側証人として他の二人の上官と共に出廷させられるのですが、その中の最上官だった秋山中将が裁判を前にした夜、薬物を口に含んで獄舎で自決します。

     秋山中将の子息は尉官級の軍人で南方戦線に出征していたのですが、自分の命令で部下を多数死に追い遣った事を悔い、戦後復員してから、巷へ戻る事を拒否し、比叡山に入り、千日回峰業、更にはそれにも増して厳しい修行を積むのでした。大病に罹るのですがそれさえ修行で克服します。

     ある時、陶芸家として新しい人生を歩んでいる、兄一人、妹一人のきょうだいである秋山千里が小さな庵へ兄を訪ねます。そこで、兄が妹に茶を淹れながら、次のような話をするのでした。

     「それなら、私が勝手なお喋りをしよう、以前から手をつけている日本天台の菩薩道に関する研究は遅々として進まないが、仏者としてつくづく思うことは、仏教の根本は、一言で解りやすくいえば、共生の精神だと思う、自分のためだけの生き方ではなく、自分の生き方が、人に感銘を与え、人に倖せをもたらせる自他共に生きる共生の心が存在しなければならない、したがって、自分の執着、執念だけで動けば、自分を縛すると同時に、相手をも縛することになり、共生の世界を失い、修羅の世界に没してしまうことになる、難しい何万巻の経典も要約すれば、その根本はここに至ると思う」

     この中の共生には「ともいき」とふりがなが打たれています。この本が発行されたのは1983年な
    ので、30年前。すでに「共生」という言葉は一般社会で使われていたのではなかったかと思うので
    すが、元々仏教用語「ともいき」だったようですね。

     私は、あちこちでいい言葉に出会うと、すぐに、「おーーーっ!これを今日以後座右の銘にしよ
    う!」などと思うのですが、天台宗の菩薩道はおろか何の宗教経典も学んだことがありません。と
    ころが、幸いと言うか、運命の出会いと言うか、7年ほど前からここボウダナート(ボウダは仏陀。
    ラマ教のメッカ。)で暮らし、大仏塔を毎日のように目にし、仏塔の周りの丸い参詣道を歩く内
    に、眠っていた仏心がほんのちょっとは目覚めたのでしょうか、仏陀に関する一般教養書のようなも
    のを一二読んだりはしました。

     杉本さんがブログでアイウエオサークル刊行の「ネパールの昔話」だったかの本の紹介を何度もされているのを読み、その一つ一つの昔話の「教訓」を辿ってみたくなったのですが、残念ながらその本が有りません。

     まあ、どうせ、そういう教訓通り生きられるわけがないのでいいのですが、今日知った「ともいき」(共生)、執着、執念、修羅の世界(修羅場なのでしょう)は今後私なりに心に置いて生きて行きたいと思っています。

     「ともいき」の共に生きる相手は家族や友人だけではなく世界中の人みんななんでしょうね。大仏塔界隈で出会う道端で布施を乞うておられる方々も「ともいき」の相手だったんだと改めて心を新たにしました。

     先日、ふと視線を落とした時に見えた老婆の腕は、半分無くて尖がっていました。昔ハンセン病に犯されたのでしょうね。

     では、杉本さん、お元気で!

  •  杉本さん!

     お節介やめてくれ! とおっしゃりたいかも知れません。でも、あなたの起した「国際ボランティア貯金」流用事件は、最大時2700万人居た「同貯金」加入者すべてを裏切るほんとに大それた事件でした。

     生来気弱な私が仮に同じ事件を起し、どなたかから糾弾を受ければ、私に出来る範囲内で債務返済に応じるでしょう。

     さて、「債権者3者」と機構が称する方々の中で最大の債権者は「債権額八百数十万(もう、利子が膨らんで一千万円を越えているかも?)」の機構なのですが、その機構の金は元をたどれば2700万人のボランティア貯金加入者の金なのです。私のボランティア貯金の額は1円か2円です。「利子の20パーセント(私の場合。20㌫から100㌫まで加入者が自分で決める。)がボランティア貯金として寄贈されたので、1円か2円にしかならないのです。おそらく2700万人《全国民の5人に一人》もの加入者の中には大富豪の方々もたくさんおられたでしょう。でも、仮にその大富豪の方々が利子の100㌫を寄贈されていたとしても、ボランティア貯金額が100万円とか200万円とかになるでしょうか?郵便貯金の利子っていくらくらいなんでしょう?私は知りませんが0.いくらとかそんなものなんでしょうね。だから、大富豪さんには申し訳ないのですが、個人で100万円、200万円(この方々のアイウエオサークルへの寄金は国際ボランティア貯金からではなく、直接、ご本人のお財布の中から支出されたものです。)を直接アイウエオサークルに寄贈されたISSC(国際学校建設支援協会。認定NPO法人。)、T氏お二方こそ清算法人アイウエオサークルに対する最大の寄金者なのです。

     杉本さん!あなたが、今、1円でも2円でもいいからT氏、ISSC、機構に返済されればどうですか。「返済する!」という意志を示すことと、示さないのでは、あなたが、生涯、詐欺者、不正流用者、まあ、早い話が泥棒です、「泥棒!」と呼ばれ続けるか、そうでないかの分かれ道なのです。機構は、貴方に対する取立て状況を見ていて誰にでも判るように、このままうやむやにするのでしょうね。国際ボランティア貯金者それぞれの貯金額は限られています。1円、2円から100円、200円、そして、1000円、2000円、そんなものでしょう。私みたいに郵貯簡保管理機構に「私が杉本に盗られた国際ボランティア貯金1円を返せ!」などという人間はまあ居ないでしょう。ほかにもいっぱい「1円返せ!」「カ・エ・セ!イ・チ・エン!」とおっしゃる方がいっぱいおられたら愉快なんですけどね。

     でも、I氏 、ISSCにとってはその200万、100万(正確には110万だったかな?以下110万とします。)は、「ネパールに学校を建ててあげて下さい!」と杉本さん、あなたに託した大切なお金なのです。返してあげて下さい!そうすれば、今や「地に落ちている」あなたという人間がまた見直されることになるでしょう。

     「地に落ちている」と言うのは、最近、あなたに対する批判をどんな言葉でどんなにきつく書いても、簡単に「確認」「投稿」を通るんですよ。審査員の方が審査されるようですが、T氏、ISSCの粘り強い、地道な活動が実を結んで「世間」がどんな投稿でも許してしまうようになって来ているんですよ。あなたは広い世間まで敵に回してしまったんです。

     今のまま、何の誠意も示さず、逃げ回っていては、あなたを育てたご両親の労苦を無駄にし、恥の上塗りをさせることになります。また、あなたのお子さんたちが世間から白い目で見られ続けることになります。

     あなたは、ネパールで、貧しい村人たちに限らず、カトマンズの金持ち連中(私は、いい金持ちもいるだろうとかそんなこととは関係無しに金持ちは嫌いです。特に、日本人を騙して観光ビザを取ってもらったのに、その恩人を裏切って、3年も4年も、あるいは、10年も13年も、不法滞在して金を儲け、大金持ちになった人間を人間とは思いません。)や、市役所の役人たちや、政府の高官たちとも親しくしていたんでしょう、それだったら、「ネパールに於ける親子関係にどんな問題があるか」百もご承知でしょう!

     親子関係がうまく行かなくなることほど悲しいことはありません。子が親を悲しませることほど大きな親不孝はありません。

     ネパールでは、子が親を悲しませるのではなく、親が子どもを悲しませる「子不幸」を地で行っている親がいっぱい居ますね。

     私が今、「私設児童養護施設」であずかっている子や、以前その仕事を長年に亘り手伝っていた
    「公設児童養護施設」であずかっていた子どもたちの親子関係を見る時、ほんとに目を背けたくなります。

     今、私の家には、何故か、あなたの描かれた「学校の絵」があります。二階建てで全12教室ある煉瓦建ての学校です。村の石と泥の学校ではありません。

     私が何故「なんだ!こんなもん!大泥棒杉本の描いた絵なんて…!どうせまた、この学校を建てるのにどなたかが寄附して下さった大金の一部をこっそり私的流用などしてるんだろう!」と、一気に破り捨ててしまわないのか…? わかりますか!? そう、もうお気付きでしょう。

     隣りに、同じ学校を描いたもう一枚の絵が飾ってあるからなのです。同じ額の中に納まっています。こちらは大人の描いた写真みたいな絵ではありません。きっちり長方形に描かれていなくて、屋根も曲がっています。そう、子どもの描いた絵です。

     その娘(こ)は彼女が初めてバイクの後ろに乗せられてカトマンズへ向かった日に、スクーターに同じように娘(私たちが施設であずかっていた娘)を乗せて走っていた私と、雨のドゥリケルで出会った娘(こ)なのでした。これ以上はプライバシーの問題になるので書きませんが、もうおわかりでしょう。

     親子関係に戻ります。「アイウエオサークル給料不払い問題」の被害者ゴクール氏がバイクの後ろに乗せていたその娘は村でおじいさんと一緒に暮らしていました。両親とはどういうことで離れてしまっていたのか、私は未だに知りません。ネパールという国では、両親、あるいは片親が居ても、その両親、あるいは片親と一緒に暮らしていない子がいっぱい居るのです。母親が我が子を棄てて再婚したりする例もある(のかな?未だにヒンズー教は寡婦再婚を禁じている、法律的にはどうか知らないけれど、実質的に。でも、寡婦でない人が夫を棄てて家を出て再婚するのは差し支えないのかな?)

     今、私のこの部屋(私設児童養護施設のオフィス)に20枚の絵が貼られています。肖像画と呼んでほしいのですが、似顔絵という人が多いかな? 20人の女の子が描かれています。日本で言えば小中学校の年齢に当たる子らの絵です。この中に母子家庭の子が6人、父子家庭の子が3人、親戚のおじさん、おばさんに育てられている子が一人、両親共に揃っている子が5人います。すべて、私がはっきり摑んでいる子だけについて集計しています。

     ネパールの家庭状況が日本と大きく違うのは、父親に棄てられた子がほんとに多いということなのです。父親が平気で二人、三人の奥さんを持って(法律的にどうなっているのか私は知りません。)奥さんだけでなく多くの場合「奥さんといっしょに子どもまで」棄ててしまうのです。新しい奥さんに自分が生んだ子の世話を託す根性が無いんでしょうね。そんなふうにして棄てられた子が、この絵に描かれている子らの中に3人居ます。

     一番悲しいのは、幼い頃(5,6歳か?いや、4,5歳か?)から学校にも通わせてもらえないで、近所の金持ちの家の子守として雇われたり、親戚の家や他人の家のメイドとして雇われて行く子がいっぱい居るということです。実の親が、口減らしや少しでも親元に金が入るように、ほんとに少しの金です、その金のために、幼い子らを他人の家で働かせる親がいるのです。

     杉本さんはすべてご存知だと思います。 

     そんなネパールで活動された方が、「そんな可愛そうな子を出汁にして」甘い汁を吸って来た。許せることでしょうか?

     どうか、罪を償って下さい。一度は債権者にそう約束されたんでしょう!その時点に戻りましょう。世間を甘く見ては駄目です!後できっと後悔します。

     今日のところは一応これで置かせていただきます。

  •  ご厄介おかけして申し訳ありません。ジオログのURLは以下の通りです。よろしくお願い致します。
    http://heartland.geocities.yahoo.co.jp/gl/undertwobigeyes

  •  何故か、何回やっても、「確認」はできるのですが「投稿」ができません。

     申し訳ないのですが、下記、「ameba」のブログに転載しております。そちらをご覧頂けると幸いです。

     よろしくお願い致します。

  • こんにちは。杉本さん!そして、皆さん!

     今朝もたった40分間の散歩ですが山あり谷ありといった感じの近所の道を朝6時過ぎから歩きました。その谷はカトマンズ国際空港の北端の金網の外にあるのですが、ちょうどその金網の張ってある所が崖になっていて、その崖を降りた谷間から空港とは反対側にある崖を登るとそこは空港滑走路と同じ高さで、100mほど向こうに滑走路が見え小型機が一機迂回しているのが見えました。青く塗られた国内線の飛行機でした。そして、その丘からはボウダ(仏陀)、カパン、ジョルパティといった町々が大きな大きな風景画のように眼下に拡がっているのが見渡せるのでした。その中央にボウダナート大仏塔が聳えていて、その左の方(仏塔から歩いて10分も掛からない所なのですが)には、カトマンズ一の高級ホテル「ハイアットリージェンシー」の茶色の△屋根が重なったような牧歌的な建物が見渡せます。そして、その向こうに、今朝もヒマラヤの峰が近くの緑の山と山の間に三つ四つ連なって聳えているのが見えました。雨上がりではなく朝からきれいに晴れていたので、鮮明には見えず、少し霞んでいたのですが、いかにも雨季明け近いカトマンズの山川の眺めでした。川と言うのは丘のすぐ下を流れている聖なるバグマティ川なのでした。インドの大地を悠々と流れるガンジス河の遥かなる数十、数百の支流の内の一つで、すぐ近くにヒンズー教の大いなる聖地パシュパティが在り、その聖なる川、バグマティ川で人々は沐浴したり、死者を葬るのです。

     さて、昨日ご紹介した山本周五郎著「街へゆく電車」なのですが、主人公は「六ちゃん」。職業は市電の運転手。そして、もう一人、いや一匹かな? の主人公が大きなオスの三毛猫の「とら」。いつも六ちゃんの市電の前を悠々と歩いて市電の運行を妨げるのでした。そして、そのほかの登場人物は、てんぷら屋さんをしていて、いつも精進揚げのてんぷらを揚げている六ちゃんのおかあさん。ろくちゃんは朝夕「おかあさんの頭がよくなりますように!」と願いながら、おかあさんと一緒に団扇太鼓を叩きながら「なんみょうれんぎょう なんみょうれんぎょう …」とお祈りをしています。

     川向こうの、軒の低い中二階の長屋や掘っ立て小屋のような家々があちこちに並んでいたり固まっていたりまばらに建っていたりするあたりに「とら」の飼い主である半助が住んでいて、六ちゃんたちはその辺りを「街」と呼び、自分たちが住んでいる所は「街」とは違う「繁華街」と呼んでいます。

     紙の文庫本にして16ページほどの短編で、今要約した部分はその半分にも満たないのですが、とにかく難しい小説です。私の大好きな宮本輝さんの短編小説とは随分違って、とにかく難しいです。多分、最後に解説か何かがあり、15編ある短編について何か考える糸口を与えてもらえるのではないかと思うのですが、目次の最後のほうに解説とか後書きとかがあるようには書かれていません。今、最終頁を調べてみましたがやはり何もありませんでした。これはもう、「読書百篇意自ずから…」で何度も何度も繰り返し読むしかないかな… と思っています。百篇で住むかな?どなたかご教示願えないでしょうか?「解説」だけを集めた文庫など無いのでしょうか?いやいや、「とにかく意味がわからなければ読んだ甲斐が無い!」と考える読書法が間違っているのでしょうか?「人生経験の長さだけで何もかもわかるはずだ!」と考えるのが浅はか過ぎるのでしょうね。

     杉本さん!どうでしょう?

    ナマスカール!社会貢献活動家杉本清彦殿  こんにちは。杉本さん!そして、皆さん!   今朝もたった40分間の散歩ですが山あり谷ありといった感じ

  • じゃない。戦後日本にも。今のカトマンズにも。いっぱい!!

     おはようございます。

     山崎豊子著「不毛地帯」の第三巻目(電子辞書)がちょっと事情があってまだこのコンピューターに入って来ないので、以前に読んだ山本周五郎著「季節のない街」(短編小説集です。)の中の一編をちょっと読み返してみました。短編集の冒頭の一編です。「街へゆく電車」。

     主人公は「六ちゃん」。「不毛地帯」とは違って六ちゃんが庶民の中のその又庶民と言った方なので、特定のモデルになった方は居られなかったのかも知れないし、ひょっとして居られたかも知れません。
     場所も「街へゆく電車」という標題通り、どこか市電が走っていた街だと思うのですが、東京かも知れないし、大阪かも知れないし、地方の小都市(いや、地方の大都市かな?)、札幌、函館、仙台、広島、長崎 … … 等々のどこかだったのかも知れません。

     私がこの短編集に興味を持ったのは、以前いっぱいご紹介させていただいた山本周五郎著「虚空遍歴」の解説に奥野健男氏が次のように書かれていたからです。

     もちろん山本周五郎文学の特質は、これら本格的長編のみにあるのではない。かえってぼくは『青べか物語』(新潮文庫)『季節のない街』などに集められている短編をはじめ、『落葉の隣り』(新潮社刊)のようなさりげない作品に、他の誰にももとめることができない山本周五郎のみが表現し得る特質を見出す。裏街の陋屋にひっそりと生きる江戸時代の、そして現代のつつましい庶民たちを描く時、ぼくたち読者は故知らぬ深い感動にうちふるえ、どこかへ吸いこまれて行くような気持になる。作者の短編におけるさわりの美しさ、かなしさは無類であり、どんな人々の心もとらえてしまう。

     「裏街の陋屋にひっそりと生きる江戸時代の、そして現代のつつましい庶民たち」というある意味ではこれもモデルと言うか「集団モデル、モデル集団」の居るお話です。
     私は、自分自身が幼い頃、そうした裏町の陋屋で何年も過ごした経験があり、成長して小学校教師という職に就いた関係で、裏町の陋屋で暮らす人々の子どもたちを教えた経験が何度も有ったり、順序が逆になりますが、学生時代に、神戸の当時日本最大と言われた都市被差別部落で「子ども会活動」や部落解放運動の末席に加えさせて頂き、神戸市役所での対市交渉の場に参加したり、地元部落の青年たちと一緒に伊賀上野(三重県)で開かれた第10回部落解放全国青年集会に参加したり… と言ったこともあり、更に、退職後、図らずもネパールで暮らすことになり、再び、三度、裏町の陋屋で暮らす人々の子どもたちとの関係を持つことになり、今日に至っております。   

     カトマンズでは、数ある小さな河川敷に密集するいわゆるスラム街だけが「裏町の陋屋」ではありません。今や数百万の人々の住む大都市「カトマンズ」には、平屋から3階、4階、5階建てのレンガ造りのビルの中に一室あるいは一室と小さな台所付きの部屋(トイレは共同。もちろん、入浴〔と言うか沐浴と言うべきか…〕の為の小さなシャワーが一つあるシャワー室も共用。)で何人もが暮らしているのをいっぱい見かけます。これは、日本の時代劇で見る長屋の暮らしそのものです。井戸端会議など、江戸の200年前の井戸端会議と今のネパールの井戸端会議(家にシャワー室が無く、飲み水さえ、近くにある共同水栓まで水汲みに行く人々もいっぱいいます。)を見ればまさに「何処も同じ、姦しいのは…」という風景が見られます。

     いつか私の部屋に真夜中ククリ(ネパールの刀)を持って脅しに来た金持ちで、最高カースト僧侶階層に属するある男がこんなふうに言いました。脅しに来るひと月ほど前のことだったでしょうか?

     「久保さん!この道から向こうの街は、マオバディ(マオイスト)と泥棒しか住んでいない街です。」

     この男の言う街の名は日本語で言うと「新しい街、新町」とでも言うのでしょうか?ネパール語での町名は秘匿させて頂きます。ロシヤ語では「ノーヴァヤ街」英語では「NEW TOWN」です。今、私は、まさに,そのニュータウンで、子どもたち4人と一緒に住んでいます。名犬スシュマも居ます。

     さて、私は、泥棒かマオバディか? どっちに入るのでしょう? 

     2005年のクリスマスに出会い、それから、5年近く「〇〇〇〇子どもの家」で一緒に暮らして来たかわいい子どもたち(女子の就学率の低さを憂え女子に限ってあずかった)、3年前からはその内3人乃至5人の子等と一緒に暮らし、「〇〇〇〇子どもの家」を事業を引継ぎ、学校へ通わせて来たのですが、その子らの心に火をつけ、奪ってしまう「泥棒」かな?それとも、かつて何年も心酔したことのある毛沢東に火をつけられたマオバディ(マオイスト)かな?

     脱線しましたね。すみません。では、つづきはまた。

     そうそう、杉本さん!ジャンバルジャンは稀代の大泥棒でしたね。前にいっぱい杉本さん宛てに書かせて頂きました。でも、「改心して」いいこともいっぱいしたのか?「改心しないまま」いいこともいっぱいしたのか?今も世界中の子どもたち、もちろん大人たちの心にも火をつけ続けていますね。
     大泥棒ジャンバルジャンでなければ出来なかったことなのかも知れません。

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