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    私たちは、誰でもしあわせになりたい、世界が平和であってほしいと願って、勉強して働いて努力して生きています。知識や情報も科学・技術も学問も宗教も進歩・発展して、生活は便利でスピード化して楽になっています。

    さて、私たちは豊富な物と多くの知識を得ることによって、しあわせになったでしょうか。
    生活や勉強や仕事や娯楽に、ほんとうの喜びや充実感を感じているでしょうか。
    世界で、苦しみ・悲しみ・争い・暴力・破壊・戦争は少なくなるどころか、ますます危機的な状況になっているように見えますが、どうしてそんなことになってしまうのでしょうか。

    そのような「生きる」ことの根源にある疑問に、道をさぐっていた私に“道なき道”が見えてきたのは、Kとの出会い(本)でした。
    Kのことばから多くのことを学ぶなかで、「豊かな感受性と生命力に満ちて生き生きしていた子どもが、成長するにしたがってどうしてつまらない大人になってしまうのか。どうしてこんな“腐った社会”をつくってしまったのか」という疑問に対して、「知識・経験・信念という過去の固定した観念と、それを不安からの安定・永続願望によって未来に引きのばした理想や目的に執着して“事実”から逃避してしまった大人よりも、知識・経験が少ないからこそいつも今・現在目の前にある事実を自分の目で見て行動する子どもの方が、大人のくもった目には見えなくなってしまった事実・ありのまま・ほんとうのことが見えている」ことが、私の目には「事実」として見えてきたのです。

    今まで生活や行動をともにして語り合ってきた中学生たちや、新聞の声・掲示板で出会う子どもたちから学ぶことは多く、それはいつも新鮮であり発見であり“生きている”のです。
    そのようなことから、私はここで「生きるとはどのようなことなのか」「ほんとうのこと・真実とは何なのか」という根本的な問いを探究し、事実・ありのままを見て聞いて理解することの重要性を学んでいるKの『子供たちとの対話』を主体にその他の本からもことばを紹介しながら、今までにそしてこれからも出会う「子どもたちとの対話」ができることなら,そのような交流を通して「みなさんといっしょに学んでいきたい」と思っています。

    「子どもたちとの対話」と言いながら、私の場合は時間的にゆっくり進めたいということもあって、返信も皆さんのことばに何かを感じて書く気持ちになったものに限られてしまいます。
    今までも1・2週間から1ヵ月・2ヵ月すぎて、「忘れたころ」になってしまうようなこともありましたが、これからも「ひとりごと」として書くことも多くなると思います。

    みなさんが自由に書いて、議論するのもいいかと思いますが、私は基本的に議論するつもりはありません。どちらが正しいのかとか、正当化したり非難するのは、「事実をありのままに理解する」のをさまたげるのではないかと見ています。

    そのことについて、Kのことばがあります。
    『 私たちは本当に話を聞くことができなければなりません。「本当に聞く」とは、完全な注意を注ぐということであって、同意や反対をすることではないのです。』(K) 

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    mum***** 12月9日 15:27

    【Q&A.嘘とは何か(6)】
    『 ところが、何かであることを企てないなら、恐怖感はありません。矛盾はありません。意識的にも無意識的にも、どんなレベルにおいても、私たちの中に嘘はありません―抑圧すべきものは。

    私たちの生の大抵は気分とポーズの事柄であるので、私たちはポーズをとります―それは矛盾です。気分が消えるとき、私たちはそうであるものです。本当に重要なのは、あなたが丁寧な、罪のない嘘をつくかつかないかではなく、この矛盾です。

    この矛盾が存在する限り、表面的な生存があり、守られなければならない表面的な恐怖があるに違いありません―それで罪のない嘘、その他もろもろが続きます。私たちはこの問題を見ることが、何が嘘で何か真実か尋ねるのではなく、対立を取り上げないで私たち自身の中の矛盾の問題を調べることができます―それは極度に困難です。

    なぜなら、私たちは感情にそんなにも依存しているので、私たちの生は大抵矛盾しているからです。私たちは記憶に、意見に頼ります。私たちは覆い隠したい非常に多くの恐怖を持っています―これらはすべて私たち自身の中に矛盾をつくり出します。そしてその矛盾が耐えられなくなるとき、分別を外します。

    人は平和を望み、そして人がすることは何でも、家庭の中だけでなく外部でも、戦争をつくり出します。そして、葛藤をつくり出すものを理解するかわりに、私たちはますます一つのこと、反対物になろうとするだけであり、それによってより大きな裂け目をつくり出します。』(K)


    私の学習経過:

    『 何かであることを企てないなら、恐怖感・矛盾・・嘘―抑圧はない。重要なのは、嘘でなく矛盾。

    矛盾が存在する限り、表面的な生存、恐怖―罪のない嘘がある。何が嘘で何か真実かでなく、私たち自身の中の矛盾の問題。

    私たちは感情に依存しているので、生は矛盾。記憶に、意見に頼り、多くの恐怖を持ち―矛盾をつくり出し、耐えられなくなって、分別を外す。

    人は平和を望み、人がすることは何でも、家庭・外部でも、戦争をつくり出す。葛藤を理解せずに、反対物になろうとするだけで、より大きな裂け目をつくり出す。』

    私たちの心は、「安全」とともに「何かになる」ことを望んで、現在の事実との「矛盾」が生じ、「恐怖心」にもつながる。矛盾は対立・争いから戦争にも発展する・・人類の歴史なのか。

  • 【Q&A.嘘とは何か(5)】
    『 なぜ私たちは型、基準、近似、観念を持ち、それに従って生きようとしているのでしょうか。明らかに安全であるため、無事であるため、一般的であるため、私たち自身のいい意見を持つため。

    矛盾の種子があります。私たちが何かであろうとしている限り、矛盾があるに違いありません。嘘と真実の裂け目があるに違いありません。

    あなたが静かに調べようとするなら、これは重要であると思います。嘘と真実があるのではないということではなくて、しかしなぜ私たち自身の中に矛盾が。

    それは私たちが何かであろうと企てているからではないでしょうか―高尚であろう、善良であろう、高潔であろう、創造的であろう、幸福であろうなど。

    何かでありたいという欲求そのものの中に、矛盾があります。他の何かでありたいということでなく。そんなにも破壊的であるのはこの矛盾です。

    人が何かと、完全に同一化することができるなら、そのとき矛盾はやみます。しかし何かと完全に私たち自身を同一化するとき、自己閉鎖があり、抵抗があり、それは不平衡をもたらします。

    なぜ私たち自身の中に矛盾があるのでしょうか。私は何かをしました。それが明るみに出ることを望みません。私は指標に達しないある事を考えました。それは私を矛盾した状態にし、私はそれを好みません。

    それゆえ、近似があるところ、恐怖があるに違いありません。矛盾するのはこの恐怖です。』(K)


    私の学習経過:

    『 なぜ私たちは型、基準、近似、観念を持ち、それに従って生きようとするのか。明らかに安全、無事、一般的で、自身のいい意見を持つため。

    矛盾の種子・・何かであろうとする限り、矛盾が、嘘と真実の裂け目がある。

    なぜ私たち自身に矛盾が・・何かであろうと企て―高尚、善良、高潔、創造的、幸福。

    欲求そのものの中に破壊的である矛盾がある。

    何かと完全に自身を同一化するとき、自己閉鎖、抵抗があり、不平衡をもたらす。

    なぜ私たち自身に矛盾があるのか。矛盾するのは恐怖。』

    「安全・無事、成功・幸福を望む」のは、『欲求そのものの中に破壊的である矛盾』があって、必然的に「恐怖」をもたらし、常に「闘わなければならない」。
    それが歴史的にも現在も変わらない教育や社会の基本になって、人はつねに欲望と現実の闘いに人生の大半を尽くさなければならないのだろうか。

  • 【Q&A.嘘とは何か(4)】
    『 嘘とは実際には何でしょうか。なぜ嘘を言うことは間違っているのでしょうか。これは私たちの生活のあらゆるレベルで、深くて微妙な問題ではないでしょうか。

    嘘とは何でしょうか。矛盾、自己矛盾ではないでしょうか。人は意識的に、あるいは無意識的に矛盾することがあり得ます。それは故意でも無意識でもあり得ます。矛盾はとても微妙であったり、明白であったりすることがあります。そして矛盾の中の裂け目が非常に大きいとき、そのとき人は平衡を失ったり、裂け目を理解して、それを直すことをし始めたりします。

    嘘とは何か、なぜ私たちは嘘をつくかという問題を理解するためには、対立物の観点で考えることなしにそれを調べなければなりません。私たち自身の中の矛盾のこの問題を、矛盾しないようにしようとせずに見ることができますか。

    この問題を調べる中での困難は、私たちがそんなにも容易に嘘を非難するということではないでしょうか。それを理解するために、真実か嘘かという観点でなく、矛盾とは何かという観点でそれを考えることができるでしょうか。

    なぜ私たちは矛盾するのでしょうか。私たち自身の中に矛盾があるのでしょうか。基準に、型に従って生きようとする企てがないでしょうか―型に私たち自身を絶え間なく近づけること、他人の目か私たち自身の目に、何者かであろうとする絶え間ない努力が。型に順応したいという欲求があるのではないでしょうか。その型に従って生きていないとき、矛盾があるのです。』(K)


    私の学習経過:

    『 嘘とは何か。なぜ嘘を言うことは間違っているのか。 嘘とは自己矛盾ではないか。

    困難は、私たちが容易に嘘を非難することではないか。理解するために、真実か嘘かという観点でなく、矛盾とは何かという観点で考えることができるか。

    なぜ私たちは矛盾するのか。基準に、型に従って生きようと―自身を絶え間なく近づける、他人か私たち自身の目に、何者かであろうとする絶え間ない努力。型に順応したいという欲求・・その型に従って生きていないとき、矛盾がある。』

    『嘘は自己矛盾』であり、『型に従って生きよう』とすることから、「安全に」そして何かを「獲得したい」という『絶え間ない努力』と、事実・現実との矛盾から発生する。それが自身の中にも、他者との間にも「葛藤、対立や争い、不信感」を生み出すのです。

  • 【Q&A.嘘とは何か(3)】
    『 数週間前に議論した、思考者と思考は一つであるという問題をとりましょう。それはあなたにとって真理であるかもしれません。なぜならそれを直接経験したからです。しかし私がそれを繰り返すなら、それは真実ではないのではないでしょうか―真実、虚偽に対して対立したものとしてではなく。

    それは現実のものではないでしょう。単に反復的なものであるだけで、意味を持たないでしょう。しかし、反復によって、私たちは教条をつくり出します。教会を建てます。その中に避難します。言葉、真理でないものが「真理」になります。言葉はそのものではありません。

    私たちにとって、ものは言葉です。それが実際に理解していないものを反復することに、そんなにも注意しなければならない理由です。

    あなたが何かを理解するなら、伝達することができます。しかし言葉と記憶はそれらの情緒的な意味を失っています。そのために、普通の会話の中で、人の外貌、語彙は変化します。

    私たちは自己認識を通して真理を求めており、単なる宣伝者ではないので、これを理解することが重要です。反復を通して、言葉によって、あるいは感情によって自分自身を催眠術にかけるからです。

    人は幻想に捕えられます。それから自由であるためには、直接に経験することが肝要です。直接経験するためには、反復の、習慣の、言葉の、感情の過程にある自分自身に気づかなければなりません。その気づきは人に途方もない自由を与えます。再生、絶え間なく経験すること、新しさがあります。』(K)


    私の学習経過:

    『 繰り返すなら真実、現実ではない、意味を持たない。言葉はそのものではない。言葉と記憶は情緒的な意味を失う。

    自己認識を通して真理を求め、理解が重要。反復、言葉、感情によって自分自身を催眠術にかける。

    人は幻想に捕えられ、自由であるには、直接経験することが肝要。直接経験するには、反復、習慣、言葉、感情の過程にある自分自身に気づき―人に途方もない自由を与え、再生、絶え間ない経験、新しさがある。』

    言葉は事実ではないのですが、その「記憶である言葉」を「現実」と混同し、単なる言葉に感情移入して怒ったり喜んだり、時にその言葉が私たちの「現在」を大きく変え、思ってもみない方向に向かってしまうこともあるようです。

  • 【Q&A.嘘とは何か(2)】
    『 例として愛の気持ちを取り上げましょう。それを繰り返すことができるでしょうか。「汝の隣人を愛せよ」を聞くとき、それはあなたにとって真理でしょうか。

    それはあなたがあなたの隣人を愛するときだけ、真理です。そしてその愛は、言葉以外は繰り返すことができません。けれども私たちの大抵は反復、「汝の隣人を愛せよ」、あるいは「貪ることなかれ」、で幸福、満足です。

    それゆえ、他の人の真理、あるいはあなたが持った現実の経験は、単に反復を通じては実在になりません。それどころか、反復は実在を妨げます。単に特定の観念を繰り返すことは実在ではありません。

    さて、この中にある困難は対立物の見地で考えることなしに問題を理解することです。嘘は真理に対立するものではありません。人は言われたことの真理を、嘘か真理かというような対立や対比の中でなく見ることができます。

    しかし、私たちの大抵は理解することなしに反復するということをただ見てください。例えば、私たちは「名づけないこと」を議論してきました。あなた方の多くは、私はきっとそうだと思いますが、それは「真理」であると思って、それを反復するでしょう。

    あなたは経験を、それが直接の経験であるなら、決して反復しないでしょう。あなたはそれを伝達するかもしれません。しかしそれが真の経験であるとき、その背後の感情は去ります。言葉の背後の情緒的な内容はまったく消散します。』(K)


    私の学習経過:

    『 他人の真理、あなたの現実の経験は、反復を通じては実在にならない。反復は実在を妨げ、特定の観念を繰り返すのは実在ではない。

    困難は対立物の見地で考えることなしに問題を理解すること。私たちの大抵は理解することなしに反復する。「真理」と思って、反復する。

    あなたは直接の経験であるなら、決して反復しない。真の経験であるとき、背後の感情は去る。』

    太陽が昇って生活が始まるとき、それは昨日の繰り返しではなく、「日々新しい時を刻む」ということが理解できないのは、親や指導者の言葉に従う・・社会の教え・教育の結果ではないのかと思えるのだが・・・。

  • 【Q&A.嘘とは何か(1)】
    『 Q: どうして真理は、あなたが言ったように、繰り返されるとき嘘になるのでしょうか。嘘とは実際には何でしょうか。なぜ嘘を言うことは間違っているのでしょうか。これは私たちの生活のすべてのレベルで、深遠で微妙な問題ではないでしょうか。

    A: この中には二つの質問があります。それで最初のものを調べましょう。真理が繰り返されるとき、どうしてそれは嘘になるのでしょうか。繰り返すということは何なのでしょうか。理解を繰り返すことができるでしょうか。

    私があることを理解します。私はそれを繰り返すことができるでしょうか。私はそれを言語化することができます。私はそれを伝達することができます。しかし確かに、経験は繰り返されることではありません。しかし私たちは言葉に捕らえられ、経験の意味を取り逃します。

    あなたが経験を持つなら、それを繰り返すことができますか。あなたは繰り返したいかもしれません。その反復、感覚を求める欲望を持つかもしれません。しかし一度あなたは経験をします。それは過ぎ去ります。繰り返すことができません。

    反復できることは感覚、そしてその感覚に生命を与える対応する言葉です。あいにく私たちの大抵は宣伝家なので、言葉の反復に捕えられます。それゆえ、私たちは言葉の上で生き、真理は否定されます。』(K)


    私の学習経過:

    『 真理が繰り返されるとき、どうして嘘になるのか。繰り返すとは何なのか。理解を繰り返すことができるか。

    言語化、伝達できるが、経験は繰り返されることではない。私たちは言葉に捕えられ、経験の意味を取り逃す。

    あなたが経験を持つなら、繰り返すことができるか。繰り返したい・・反復、感覚を求める欲望を持つかもしれない。しかし一度経験し、過ぎ去り、繰り返すことができない。

    反復は感覚に生命を与える対応する言葉。あいにく私たちは宣伝家なので、言葉の反復に捕えられる。私たちは言葉の上で生き、真理は否定される。』

    理解・経験を繰り返すとは、言葉による言語化によって、記憶した過去を思いだして繰り返すことを意味するようです。だが、過ぎ去った経験・過去は単なる記憶・言葉であるので、『言葉の反復に捕えられ、言葉の上で生きる』だけであって、その中に「生きている現在」の真理はない・・『繰り返すのは嘘になる』ということなのではないか。

  • 【Q&A.毎日死ぬとは(3)】
    『 困難は、私たちの大抵は過去の記憶の中に、あるいは将来の希望、願望の中に生きることを望むことです。現在は重要でなく、昨日と明日を生き、両者に継続を与えることを示します。 

    このことを実際に実験し、蓄積したあらゆるものに対し、毎日、毎瞬、本当に死ぬなら、そのとき不死の可能性があります。  

    不死は継続ではありません、継続は時間に過ぎません。記憶、観念、言葉に対してのみ継続があるのです。しかし、継続からの自由があるとき、始めも終わりもない状態があります。

    それは、あなたが単に継続の結果に過ぎないなら理解することはできません。毎瞬死に、再び誕生することが重要です―昨日あったようにではなく。

    これは非常に重要です、あなたがそれを真剣に調べようとするなら。なぜなら、この中に創造の、変容の可能性があるからです。私たちの生の大抵は、どうやって再生するか知らないので、非常に不幸です。

    昨日によって、昨日の記憶、不運、不幸、出来事、失敗によって、私たちは疲れ果て、破壊されます。昨日は私たちの心とハートに重荷を負わせます。その重荷を持って私たちは、時間の限界の内では理解できないことを理解しようと望むのです。

    そのことが、人がその言葉の深い意味で創造的であろうとするなら、毎瞬のあらゆる蓄積に対する死があることが不可欠である理由です。これは空想、神秘的な経験ではありません。継続としての時間がいかに創造を妨げるかという意味全体を理解するとき、これを直接、単純に経験できます。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちは過去の記憶、将来の願望の中に生きることを望む。現在は重要でなく、昨日と明日を生き、継続を与えることを示す。 

    蓄積したあらゆるものに、毎日、毎瞬、本当に死ぬなら、不死の可能性がある。継続からの自由があるとき、始めも終わりもない状態がある。毎瞬死に、再び誕生することが重要・・創造の、変容の可能性がある。

    昨日の記憶、不運、不幸、出来事、失敗によって、私たちは疲れ果て、破壊され、心に重荷を負う。継続の時間が創造を妨げる意味全体を理解するとき、直接、単純に経験できる。』

    私たちは過去の記憶の中に生き、明日につなぐ願望をつくりだしている。それは「現在を見て生きる」のでなく、「時間に縛られる」教育と社会の結果なのかもしれない。

  • 【Q&A.毎日死ぬとは(2)】
    『 もしも毎日死に、その日の終わりに心配事、嫉妬、愚かな行為と虚栄のすべて、残酷な噂話―ごたごたの全部を終わりにするなら、もしも毎日終わりに到達し、すべてを明日に持ち越さないなら、再生の可能性があるのではないでしょうか。

    なぜ私たちは蓄積するのでしょうか。蓄積するものは何でしょうか。家具や少しばかりの他のものを別にして。 私たちが蓄積するものは何でしょうか。観念、言葉、そして記憶ではないですか。

    これらと共に私たちは生きます―私たちはそれらのものです。それらのものと共に私たちは生きることを望みます。私たちは継続することを望みます。  

    しかし、もしも私たちが継続しないなら、新しい理解、新しい始まりの可能性があるでしょう。これは形而上学的ではありません。空想的な何かではありません。あなた自身でそれを実験してください、するとあなたは途方もないことが起こるのを見るでしょう。

    いかに心が、繰り返し繰り返し、来る日も来る日も、問題を悩むことか! そのような心は明らかに、新しいものを見ることができないのではないでしょうか。  

    私たちは信念に捕らわれます―宗教的、社会的、何かの信念。それらの信念は自分自身です。信念は言葉です。言葉が重要になります。私たちは、それが継続することを望む感情の中に生きます。それゆえ再生はありません。

    しかし継続しないなら、心配に継続を与えないで、考え抜き、十分に調べ、解消するなら、自分の心は他のものに新たに出会うために新鮮です。』(K)


    私の学習経過:

    『 毎日死に、すべてを明日に持ち越さないなら、再生の可能性。蓄積は観念、言葉、記憶・・継続を望む。  

    継続しないなら、新しい理解、始まりの可能性。空想でなく、途方もないことが起こる。

    いかに心が、繰り返し問題を悩むか! 心は、新しいものを見ることができない。  

    私たちは信念に捕らわれる―宗教的、社会的信念。信念は自分自身―言葉が重要、継続を望む感情、再生はない。

    継続しない、心配に継続を与えないで、考え抜き、十分に調べ、解消するなら、心は他のものに新たに出会うために新鮮。』

    教育によって、成長に従って、知識・経験・記憶・過去を積み重ねるに従って、私たちは現在・事実・生きていることから遠ざかって、死んだ過去の繰り返しに生きるのだろうか。

  • 【Q&A.毎日死ぬとは(1)】
    『 Q: 毎日死ぬということはどういうことか、説明してください。

    A: 私たちがひどく死を恐れるのはなぜでしょうか。なぜなら死が未知のものであるからです。明日、何が起きようとしているか私たちは知りません。現実に何が起きようとしているのか知りません。私たちは明日のために築くけれど、現実に、現実的に、私たちは知りません。

    それで常に明日の恐怖があります。それゆえ、恐怖が案内する要素であり、未知のものに出会うことに対して無能力です。それで、私たちは今日を明日に持ち越し続けます。それが私たちのやっていることではないでしょうか。

    私たちは私たちの特異性に、妬みに、愚かさに、記憶に継続性を与えます。私たちがどこにいようが、来る日も来る日もそれらを持ち続けます。それで死ぬ事がありません。継続の保証があるだけです。それが事実です。

    私たちの名前、行為、私たちがする物事、財産、生きていたいという欲望―これらすべては継続を与えます。継続するものは明らかに再生することができません。終わりがあるときのみ再生があり得ます。あなたが明日、今日そうであるのと同じなら、どうして再生があり得るでしょうか。

    あなたが観念に、経験に愛着しているなら、それをあなたは昨日持ち、そして明日も続けることを望むのですが、再生はありません。その経験の感情の記憶の継続はありますが、経験それ自体は死んでいます。その経験の感情の記憶だけがあるのです。そしてあなたが継続したいのはその感情です。   

    そして継続があるところ、明らかに再生はありません。けれどもそれが私たちの大抵が望んでいることなのです。私たちは継続することを望みます。私たちは心配事を、快楽を、記憶と共に継続したいのです。それで私たちの大抵は現実に非創造的です。再誕、再生の可能性はありません。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちが死を恐れるのは・・死が未知だから。明日、何が起きるか知らない。

    明日の恐怖が、今日を明日に持ち越し続け、死ぬ事がない。終わりがあるときのみ再生があり得る。

    経験自体は死んでいる。継続があるところ、再生はない。再誕、再生の可能性はない。』

    私たちは、明日の不安から過去の記憶に頼るのですが、明日は過去とは違う未知のものであり、つねに新しい事実として見なければならないようです。

  • 【自分自身を知る重要性(5)】
    『 同様に自己をいつもさらに深く広く理解するためには、受動的な気づきがなければなりません。それは極めて困難です。というのは、私たちの大抵は非難したり正当化したりするからです。私たちは何事も決して受動的に見ません。

    私たちは対象に私たち自身を投影します―絵、詩、他の何にでも―、特に私たちが関わっているところに。私たちは何の非難や正当化なしに私たち自身を見ることができません。そして、ますます広く、深く理解するつもりなら、確かにそのことは絶対必要です。

    私たちの大抵は、自己認識の探究の中で自意識に捕らえられてしまうので、危険は、捕らえられるとき、私たちが捕らえられているものを最重要なものにするということです。自意識を超えるためには、結果を獲得しようという欲望からの自由がなければなりません。なぜなら、結局、結果の達成は心が望んでいるものです。

    それは安全であること、無事であることを望み、それゆえ、それ自身のはずみからイメージ、観念を投影し、その中に避難します。そして心がつくり出すすべての幻想を避けること、それらに捕らえられるのを避けることは、結果を求める欲望がないときのみ可能です。人が瞬時瞬時生きているときのみ。』(K)


    私の学習経過:

    『 自己をさらに深く広く理解するには、受動的な気づきが絶対必要・・極めて困難。私たちは非難・正当化し、何事も決して受動的に見ない。

    自意識を超えるには、結果を獲得しようという欲望からの自由がなければ。なぜなら、結局、結果の達成は心が望んでいるもの。

    安全、無事のイメージ、観念の中に避難。心がつくり出す幻想を避けることは、結果を求める欲望がないときのみ可能。人が瞬時瞬時生きているときのみ。』

    確かに私たちは、『非難・正当化』し、目的・結果を『獲得しようとする欲望』―過去から来て未来を向いている―にとらわれていて、それは教育や社会活動の基本にもなっている。そこに『受動的な気づき』―現在・事実は見えなくなって、現在に生きてはいない。

    『心がつくり出すすべての幻想を避ける』には、自身の『結果を求める欲望』に気づいて、そこから自由になれるかどうかが問われている。

  • 【自分自身を知る重要性(4)】
    『 必要なことは誠実ではなく、何かであろう、あるまいとする意志の発揮ではなく、物事が起こるとき、瞬時瞬時、自然に自分自身を理解することです。あなたが何かにあなた自身を漸近させているとき、どうして自発的であることができるでしょうか。

    あなたはいつあなた自身の中に何かを発見しますか。予期しない瞬間、あなたが意識的に、慎重にあなたの心、思考と気持ちを形造っていないときのみ、生の出来事に対する自発的な反応があるときのみ、反応に応じて、あなたは見出します。

    しかし観念に対して誠実であろうとしている人間は決し単純であることができません。それゆえ、充分な完全な自己認識がある事ができません。

    自己認識がより十分に、より深く広く発見されうるのは、受動的な気づきがあるときのみであり、それは意志の発揮ではありません。意志と誠実は相伴います。単純と受動的な気づきは道連れです。なぜなら、深く受動的に気づいているとき、そのとき即座の理解の可能性があるからです。

    私たちが討論したように、何かを理解したいとき、あなたが理解したいという欲望にいつも駆られ、理解しようとする努力をしているなら、当然理解はありません。しかし受動的な油断のない気づきがあるなら、そのとき理解の可能性があります。』(K)


    私の学習経過:

    『 必要なことは、何かであろうとする意志でなく、物事が起こるとき、瞬時瞬時自分自身を理解すること。

    あなたはいつ自身の中に何かを発見するか。予期しない瞬間、意識的に、慎重に心、思考と気持ちを形造っていないときのみ、生の出来事に対する自発的な反応に応じて、あなたは見出す。

    観念に誠実であろうとする人間は、単純で充分な完全な自己認識がある事ができない。

    自己認識が深く広く発見されうるのは、受動的な気づきがあるときのみで、意志の発揮ではない。単純と受動的な気づきは道連れ。深く受動的に気づいているとき、即座の理解の可能性。

    理解したい欲望に努力するなら、理解はない。受動的な油断のない気づきがあるなら、理解の可能性。』

    何かになろうとする意志と、獲得しようという欲望は、必然的に知識・経験・信念に対する執着心を育て競争社会に結びつく。子育ても教育も、何の疑問も感じることなく、社会の常識・習慣・観念に従って、人類の歴史を引き継ぐ社会に適応させてしまう。

  • 【自分自身を知る重要性(3)】
    『 人は自分自身を理解するために途方もない単純さを必要とします。達成しよう、獲得しよう、何かを得ようとする欲望がないときに生じる単純さ。自己認識を通して何かを得ようと望むやいなや、自意識があり、その中に私たちは捕らえられてしまいます―それは事実です。

    あなたが様々な心理学者や聖者が言ったことを単に調べるだけでなく、あなた自身で実験するなら、誠実ではなく完全な単純さがあるのでない限り進めないということがわかる点に到達するでしょう。自意識は自己認識を通して何かを―幸福、実在、あるいは理解することでさえ―獲得しようという欲望があるときのみ生じます。

    自己認識を通じて達成を求める欲望があるとき、自意識があり、問題をさらに調べることを妨げます。私たちの大抵、特にいわゆる宗教的な人たちは誠実であろうとするので、私たちは「誠実」というこの問題、この言葉を理解しなければなりません。

    なぜなら誠実は意志を発達させ、意志は本質的に欲望であるからです。あなたはあなた自身を観念に近づけるために誠実でなければなりません。そしてここから、型とその型を実行することが最も重要になります。

    型を実行するためには意志を持たなければなりません。それは単純さを否定します。単純さは獲得しようという欲望からの自由があるとき、何の目的も念頭になしに、厭わずに自己認識に突っ込んでいくときのみ生じます。』(K)


    私の学習経過:

    『 自分自身を理解するために単純さが必要・・達成、獲得の欲望がない。自己認識を通して何かを得ようと望むや、自意識の中に捕らえられる。

    誠実ではなく完全な単純さでない限り進めない・・自意識は自己認識を通して―幸福、実在、理解でさえ―獲得の欲望があるときのみ生じる。

    達成を求める欲望があるとき、問題を調べることを妨げる。私たち、特に宗教的な人たちは誠実であろうとする。

    誠実は意志を発達・・本質的に欲望。自身を観念に近づけるために誠実で・・型と型を実行することが最も重要になる。

    単純さは獲得の欲望から自由、何の目的も念頭になし、厭わず自己認識に突っ込むときのみ生じる。』 

    教育も社会も、「達成・獲得を求める欲望」で成り立っていて、対立・争い・破壊・悲惨をつくりだしていることが・・私たち人間には、歴史的にも、現在も理解できないのかもしれない。

  • 【自分自身を知る重要性(2)】
    『 あなたが経験していないとき、本当に考え、感じ、経験していないとき、あなたはノートを取ります。しかし本当に経験していて、言われたことに沿っていくなら、そのときノートをとる時間や機会はありません。確かに、経験することは言葉を通しては生じません。ただ感情を助成するだけです。

    私が言っていたように、自己認識の探究の中で、人は自意識に捕えられます。人は「私」をますます強めます、強調します。そしてそれが起こるのはどうしてでしょうか。これらの講話すべてを通して言ったように、重要なことは「私」、私のもの、自己からの自由です。

    なぜなら、明らかに、自己の全過程と内容を知らない人は正しく考えることができないからです―それは自明です。だがしかし私たちは自己を理解することを避けます、回避します。そしてそれを回避することによって、もっと容易に自己を取り扱うことが、あるいはそれを忘れることができると私たちは思うのです。

    ところが、私たちがそれをより強烈に、より注意深く見ることができるなら、ますます自己意識するようになる危険があります。それを越えることができるでしょうか。

    それを理解するためには、私たちは誠実の問題に入らなければなりません。誠実な人は決して単純であることはできません。なぜなら誠実であろうとしている人は、常に彼自身を観念に合わせたい、あるいは漸近させたいという欲望を持っているからです。』(K)


    私の学習経過:

    『 自己認識の探究の中で、人は自意識に捕えられ、「私」を強め、強調。重要なことは「私」、私のもの、自己からの自由。

    自己の全過程を知らない人は正しく考えることができない。私たちは自己を理解することを避けることによって、容易に自己を取り扱う、忘れると思う。

    より強烈に、注意深く見ることができるなら、ますます自己意識する危険・・越えることができるか。

    理解には、誠実の問題が。誠実であろうとする人は、自身を観念に合わせたいという欲望を持っている。』

    私たちは生まれてから、言葉・行動・経験・記憶の積み重ねによって、「私」「私のもの」に対する執着を強め、積み重ねられたその「過去」の目で現在を見て、比較しながら言葉・行動を選びながら、現在を過去に合わせているようです。

  • 【自分自身を知る重要性】
    『 私たちは自己認識の重要性、そして何かの行為がある前に、正しく考えることがある前に、自分自身を知らなければならないということが如何に不可欠であるかを議論してきました。表面の意識的な心だけでなく、隠れた無意識の心も。

    そして議論してきたことを試み、験した人は、験す中で非常に奇妙なこと、自己認識を通じて人は自意識を強めるということに出会ったに違いありません。すなわち、人は自分自身により関わるようになります。

    私たちの大抵はそのことに捕われ、越えることができるようには思われません。そして私は、私たちの大抵が抑制し、自意識の中に私たち自身を限定し、越えることができないのは何故かということを討論したいと思います。

    なぜなら、その中にはさらに説明と議論を要する、非常に多くのことがあるからです。しかし、そのことに入る前に、私は一二のことを指摘しておきたいと思います。

    まず最初に、どうか写真を撮ることにかかずらわないでください。こういったこと、自分が話していることは、少なくとも私にとっては、非常にまじめなことです。これは署名ハンターに向けたものではありません。

    もしもあなたが本当にとても真剣であるなら、写真を撮ることや署名を頼むことを考えてはいないでしょう。また、そういってよろしければ、それは非常に幼稚で未熟です。

    そして私が指摘したいもうひとつのことは、すでに前に言ったように、あなたと私は私たちに立ちはだかる問題に入っていくやり方をここで一緒に実験しよう、手探りしようとしているのです。

    それは、私が言っていることをノートに取ることを気にして関わっているなら、不可能です。あなたはそれをのちほど考え抜くのではなくて、直接問題を処理できるのでなければなりません。なぜなら、何かを本当に経験しているとき、あなたはノートを取らないからです。』(K)


    私の学習経過:

    『 正しく考える前に、自分自身を知らなければならない・・表面の意識的な心だけでなく、隠れた無意識の心も。

    自己認識を通じて人は自意識を強める・・自分自身により関わるようになる。』

    私たちは、自分自身の心・考えを知っていると思っているようですが、それは「こうありたい」という願望であったり、過去の記憶に捕えられてる目的意識や観念・信念なのかもしれない。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(7) 】
    『 私たちはただ言葉から言葉に、反応から反応に生きています。私たちは「苦しむそのものが何であるか見ましょう」と決して言わないのです。そして努力によっては、修練によっては、決して見ることはできません。

    あなたは関心をもって、自発的な理解力をもって見なければなりません。そのとき苦しみ、苦痛と呼んだもの、私たちが避けるもの、そして鍛錬、すべて去りました。私の外部にあるものとして物事と関係を持たない限り、問題はありません。

    しかし私の外部のそれと関係を確立するや否や、問題があります。私が苦しみを外部の何かとして取り扱う限り―私は兄弟を失ったため、お金を持っていないため、あれやこれやのため苦しみます―、私はそれに対し関係を確立し、そしてその関係は架空のものです。

    しかし私がそのことであるなら、私が事実を見るなら、そのとき全体の物事が変容します。それはすべて違った意味を持ちます。そのとき十分な注意、統合された注意があります。そして完全に見られたものは、理解され、解消されます。それで恐怖はありません。それゆえ、「悲しみ」という言葉は非存在です。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちは「苦しむものが何であるか見てみよう」と決して言わない。努力、修練によっては、決して見ることはできない。

    関心、自発的な理解力をもって見なければならない。苦しみ、苦痛、避けるもの、鍛錬、すべて去る。私の外部にあるものとして物事と関係を持たない限り、問題はない。

    私の外部のそれと関係を確立するや否や、問題がある。関係は架空のもの。

    私が事実を見るなら、全体の物事が変容。すべて違った意味を持ち、十分な注意、統合された注意がある。完全に見られたものは、理解、解消され、恐怖はない。「悲しみ」という言葉は非存在。』

    「恐怖」と同じように、「苦しみ」は自分の外部にあるものとの関係と見ることから、非難や排除の論理が出てくるが、それは事実とは違う「不安・欲望」であり虚構なのかもしれない。「自分自身が苦しみそのもの」であることが見えれば、注意力と理解力が生まれ、苦しみは解消されるということなのでしょう。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(6) 】
    『 苦しんでいる観察者がないとき、苦しみはあなたと違うでしょうか。あなたは苦しみではないでしょうか。あなたは苦痛と別ではありません―あなたは苦痛です。さて何が起こるでしょうか。それを追ってください。

    ラベル貼りはありません。それに名前を付け、それによってそれを払いのけることはありません―あなたは単にその苦痛、その感じ、その苦悶の感覚です。そのとき、あなたがそれであるとき、何が起こりますか。それに命名しないとき、それに関して何の恐怖もないとき、中心はそれに関係していますか。中心が関係しているなら、そのとき中心はそれを恐れます。そのときそれは行動し、それについて何かするに違いありません。

    しかし中心がそれであるなら、そのときあなたはどうしますか。することは何もないのではないでしょうか。どうか、それは単なる受容ではありません。それを追ってください。すると見えるでしょう。あなたがそれなら、そしてそれを受容していないなら、ラベルを貼っていないなら、押しのけていないなら―あなたがそのことであるなら、何が起こりますか。

    そのときあなたは「私は苦しむ」と言うでしょうか。確かに、基本的な変容が起きています。そのときもはや「私は苦しむ」はありません。なぜなら苦しむ中心がないからです。そして中心は苦しみます。なぜなら中心が何であるか、私たちは決して調べたことがないからです。』(K)


    私の学習経過:

    『 苦しんでいる観察者がないとき、あなたは苦しみではないか。

    名前を付け、払いのけることはない―あなたはその苦痛、感じ、苦悶の感覚。命名しないとき、何の恐怖もないとき、中心は関係しているか。中心が関係しているなら、中心はそれを恐れる。

    中心がそれであるなら、することは何もない。あなたがそれなら、受容していないなら、ラベルを貼っていないなら、押しのけていないなら―あなたがそのことであるなら、何が起こるか。

    基本的な変容が起きて・・「私は苦しむ」はない。苦しむ中心がないから。中心が何であるか、私たちは決して調べたことがないから。』

    「私たち自身が、苦痛、感覚、苦悩そのもの」であることを知れば、『することは何もないのではないか』。

    「苦しみ」が自分の外にある・・と思うから、「押しのけようとして・・苦しむ」ということなのか・・・。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(5) 】
    『 苦しむことは単なる言葉でしょうか、それとも現実でしょうか。それが現実であって、ただの言葉でないなら、そのとき言葉は意味を持ちません。そこには、単に激しい苦痛の感覚があるに過ぎません。

    何に関してでしょうか。イメージに、経験に、あなたが持っている、あるいは持っていない何かに関して。それを持っているなら、あなたはそれを快楽と呼びます。あなたが持っていないなら、それは苦痛です。それゆえ、苦痛、悲しみは何かに対する関係の中にあります。

    その何かは単なる言語化に過ぎないのでしょうか、それとも現実でしょうか。あなたがこのすべてについてきているかどうか私はわかりません。すなわち、悲しみが存在するとき、それは何かとの関係の中にのみ存在します。それはそれ自身で存在できません―恐怖がそれ自身で存在できないで、何かとの、個人との、出来事との、感情との関係の中にあるように。

    さて、あなたは苦しみに充分気づいています。その苦しみはあなたとは別で、それゆえ、あなたは単に苦しみを知覚する観察者に過ぎないのでしょうか、それともその苦しみはあなたの部分でしょうか。確かに私たちは苦しみ、苦痛が何であるか理解しようとしています。私たちはただ表面的にではなく、それに充分に突っ込んで行こうとしています。 』(K)


    私の学習経過:

    『 苦しみは単なる言葉か、現実か。現実なら、言葉は意味を持たない。激しい苦痛の感覚に過ぎない。

    苦痛、悲しみは何かに対する関係の中にのみ存在。それ自身で存在できない。

    苦しみはあなたとは別で、苦しみを知覚する観察者に過ぎないのか、苦しみはあなたの部分か。 』

    苦しみ、悲しみは、自分と他者、あるいは外部との関係の中にあって、私たちはそれから逃げたり、それを追いだしたりしたいようです。「自身の現実から逃避しようとする心のはたらき」が、苦しみ、悲しみを生み出すのかもしれない。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(4) 】
    『 その点に達するのは非常に困難です。そうでないですか。それを本当に認識し、そして「私はひとりだ。どうやってその孤独を免れたらいいだろう。」と単に言うだけでないことは困難です。そう言うことは逃避の別の形です。

    しかしそれを意識すること、それと共に留まること、その動きを見ることは困難です。私はこれを例としてただ話しているだけです。それゆえ、徐々に、もし私がそれが開くのを、開けてくるのを許すなら、私が途方にくれているので苦しんでいるのが見えます。

    私は私が進んで見ようとしないものに注意を注ぐように言われているのです。私が見て理解するのを渋っているものが、私に押し付けられているのです。そして私が逃避するのを助けようとする無数の人たちがいます―何千ものいわゆる宗教的な人々、かれらの信仰と教条、希望と幻想を伴って―「それは運命だ。それは神の意志だ」、ほら、すべて私に出口を与えています。

    しかし私がそれと共に留まり、それを私から除かず、それを抑えるとか否定しようとしないなら、そのとき何が起こりますか。私の心の状態は、心がそのように苦しみの動きについて行っているとき、どんなですか。さて、どうかこれを追ってください。私たちが前に議論したことに続いて。』(K)


    私の学習経過:

    『 「私はひとりだ。どうやってその孤独を免れたらいいだろう。」と言うことは逃避の別の形。

    意識し、共に留まる、動きを見ることは困難・・開くのを、開けてくるのを許すなら、私が途方にくれているので苦しんでいるのが見える。

    私が進んで見ようとしないものに注意を注ぐように言われている。見て理解するのを渋っているものが、私に押し付けられている。

    私がそれと共に留まり、私から除かず、抑えるとか否定しようとしないなら、何が起こるか。
    私の心が苦しみの動きについて行っているとき、どんなか、追ってください。』

    どうやって苦しみから逃れるか・・「逃避」を考えるのでなく、『意識し、動きを見ることは困難』だが、『共に留まり、私から除かず、抑えるとか否定しようとしない』とき、何が起こるか・・という課題ですが・・・。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(3) 】
    『 それゆえ、それはどういう事でしょうか。苦しんでいるということは何でしょうか。なぜ苦しみがあるかではなく、苦しみの原因が何であるかではなく、何が現実に起こっているのでしょうか。あなたがその違いがわかるかどうかわかりません。

    そのとき私は単純に苦しみに気づいています。私とは別のものとしてではなく、苦しみを見張っている観察者としてではなく―それは私の不可欠な属性です。すなわち、私の全体が苦しんでいるのです。

    そのとき私はその動きを追うことができます。それがどこに導くかを見ることができます。確かに、私がそれをするなら、そのときそれは開けて来るのではないでしょうか。そのとき私が「私」に強調をおいていたことが見えます―私が愛する人にでなく。彼はただ私の悲惨から、孤独から、不幸から、私を隠すように作用していたのです。

    私は何者でもなかったので、彼がそうであるように望んだのです。そこでそれは去りました。私は残され、途方に暮れ、孤独です。彼なしでは、私は無です。そこで私は泣きます。彼が去ったということではありません、そうではなく私が残されているのです。私はひとりです。 』(K)


    私の学習経過:

    『 苦しんでいるということは何か。原因ではなく、何が現実に起こっているのか。

    私は単純に苦しみに気づいて・・私と別でなく、苦しみを見張る観察者でなく―私の全体が苦しんでいる。

    そのとき私はその動きを追うことができる。どこに導くかを見る、開けて来る・・「私」に強調をおいていたことが見える。私はひとりです。 』

    「苦しんでいる原因」でなく、「私自身に何が現実に起こっているか」を見る・・・
    「私」に強調をおいて―私の全体が苦しんでいる・・「苦悩は私の一部」であることが見えてくる。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(2) 】
    『 苦悩とは何でしょうか。妨害、そうではないでしょうか。様々なレベルでの―肉体での、潜在意識の様々なレベルでの。それは妨害の激烈な形であり、それを私は好みません。

    私の息子は死にました。私は彼の周りに希望のすべてを築きあげました―あるいは娘、夫、何でもその周りに。私は、私が彼にそうあって欲しいと望んだことすべてと一緒に、彼を大切にしました。そして彼を私の伴侶としてきました―ほら、そういったすべて。そして突然彼は去りました。

    それゆえ、妨害があるのではないでしょうか。その妨害を私は苦悩と呼びます。どうか、私は無情なのではありません。私たちはそれを理解しようとして調べているのです。その苦悩を私が好まないなら、そのとき私は言います、「なぜ私は悩んでいるのだろうか」、「私は彼をそんなにも愛した」、「彼はこうであった」、「私はそれを持った」。

    私たちの大抵がするように、私は言葉の中に、ラベルの中に、信念の中に逃避します。それらは麻酔剤として作用します。しかし、私がそれをしないなら、何が起こるでしょうか。私は単純に苦しみに気づいています。私はそれを非難しません。正当化しません―私は苦しんでいます。

    そのとき私はその動きについて行くことができるのではないでしょうか。そのとき私は、それが意味することの全内容について行くことができます―何かを理解しようとするという意味で「私はついて行きます」。』(K)


    私の学習経過:

    『 苦悩とは何か。妨害ではないか。私たちは理解しようと調べている。

    私は言葉、ラベル、信念の中に逃避・・麻酔剤として作用。それをしないなら、私は単純に苦しみに気づいている。非難・正当化しない―私は苦しんでいる。

    そのとき私はその動きについて行くことができる。意味する全内容に―何かを理解しようとするという意味で「私はついて行く」。』

    苦悩・苦痛から、言葉、ラベル、信念の中に逃避しないで・・「私は苦しんでいる」とき、『意味する全内容に―何かを理解しようとするという意味で「私はついて行く」ことができる。』・・・さて、その中から何が出てくるのか、何を理解するのか・・・。

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