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    私たちは、誰でもしあわせになりたい、世界が平和であってほしいと願って、勉強して働いて努力して生きています。知識や情報も科学・技術も学問も宗教も進歩・発展して、生活は便利でスピード化して楽になっています。

    さて、私たちは豊富な物と多くの知識を得ることによって、しあわせになったでしょうか。
    生活や勉強や仕事や娯楽に、ほんとうの喜びや充実感を感じているでしょうか。
    世界で、苦しみ・悲しみ・争い・暴力・破壊・戦争は少なくなるどころか、ますます危機的な状況になっているように見えますが、どうしてそんなことになってしまうのでしょうか。

    そのような「生きる」ことの根源にある疑問に、道をさぐっていた私に“道なき道”が見えてきたのは、Kとの出会い(本)でした。
    Kのことばから多くのことを学ぶなかで、「豊かな感受性と生命力に満ちて生き生きしていた子どもが、成長するにしたがってどうしてつまらない大人になってしまうのか。どうしてこんな“腐った社会”をつくってしまったのか」という疑問に対して、「知識・経験・信念という過去の固定した観念と、それを不安からの安定・永続願望によって未来に引きのばした理想や目的に執着して“事実”から逃避してしまった大人よりも、知識・経験が少ないからこそいつも今・現在目の前にある事実を自分の目で見て行動する子どもの方が、大人のくもった目には見えなくなってしまった事実・ありのまま・ほんとうのことが見えている」ことが、私の目には「事実」として見えてきたのです。

    今まで生活や行動をともにして語り合ってきた中学生たちや、新聞の声・掲示板で出会う子どもたちから学ぶことは多く、それはいつも新鮮であり発見であり“生きている”のです。
    そのようなことから、私はここで「生きるとはどのようなことなのか」「ほんとうのこと・真実とは何なのか」という根本的な問いを探究し、事実・ありのままを見て聞いて理解することの重要性を学んでいるKの『子供たちとの対話』を主体にその他の本からもことばを紹介しながら、今までにそしてこれからも出会う「子どもたちとの対話」ができることなら,そのような交流を通して「みなさんといっしょに学んでいきたい」と思っています。

    「子どもたちとの対話」と言いながら、私の場合は時間的にゆっくり進めたいということもあって、返信も皆さんのことばに何かを感じて書く気持ちになったものに限られてしまいます。
    今までも1・2週間から1ヵ月・2ヵ月すぎて、「忘れたころ」になってしまうようなこともありましたが、これからも「ひとりごと」として書くことも多くなると思います。

    みなさんが自由に書いて、議論するのもいいかと思いますが、私は基本的に議論するつもりはありません。どちらが正しいのかとか、正当化したり非難するのは、「事実をありのままに理解する」のをさまたげるのではないかと見ています。

    そのことについて、Kのことばがあります。
    『 私たちは本当に話を聞くことができなければなりません。「本当に聞く」とは、完全な注意を注ぐということであって、同意や反対をすることではないのです。』(K) 

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    mum***** 8月12日 14:06

    【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(4) 】
    『 その点に達するのは非常に困難です。そうでないですか。それを本当に認識し、そして「私はひとりだ。どうやってその孤独を免れたらいいだろう。」と単に言うだけでないことは困難です。そう言うことは逃避の別の形です。

    しかしそれを意識すること、それと共に留まること、その動きを見ることは困難です。私はこれを例としてただ話しているだけです。それゆえ、徐々に、もし私がそれが開くのを、開けてくるのを許すなら、私が途方にくれているので苦しんでいるのが見えます。

    私は私が進んで見ようとしないものに注意を注ぐように言われているのです。私が見て理解するのを渋っているものが、私に押し付けられているのです。そして私が逃避するのを助けようとする無数の人たちがいます―何千ものいわゆる宗教的な人々、かれらの信仰と教条、希望と幻想を伴って―「それは運命だ。それは神の意志だ」、ほら、すべて私に出口を与えています。

    しかし私がそれと共に留まり、それを私から除かず、それを抑えるとか否定しようとしないなら、そのとき何が起こりますか。私の心の状態は、心がそのように苦しみの動きについて行っているとき、どんなですか。さて、どうかこれを追ってください。私たちが前に議論したことに続いて。』(K)


    私の学習経過:

    『 「私はひとりだ。どうやってその孤独を免れたらいいだろう。」と言うことは逃避の別の形。

    意識し、共に留まる、動きを見ることは困難・・開くのを、開けてくるのを許すなら、私が途方にくれているので苦しんでいるのが見える。

    私が進んで見ようとしないものに注意を注ぐように言われている。見て理解するのを渋っているものが、私に押し付けられている。

    私がそれと共に留まり、私から除かず、抑えるとか否定しようとしないなら、何が起こるか。
    私の心が苦しみの動きについて行っているとき、どんなか、追ってください。』

    どうやって苦しみから逃れるか・・「逃避」を考えるのでなく、『意識し、動きを見ることは困難』だが、『共に留まり、私から除かず、抑えるとか否定しようとしない』とき、何が起こるか・・という課題ですが・・・。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(3) 】
    『 それゆえ、それはどういう事でしょうか。苦しんでいるということは何でしょうか。なぜ苦しみがあるかではなく、苦しみの原因が何であるかではなく、何が現実に起こっているのでしょうか。あなたがその違いがわかるかどうかわかりません。

    そのとき私は単純に苦しみに気づいています。私とは別のものとしてではなく、苦しみを見張っている観察者としてではなく―それは私の不可欠な属性です。すなわち、私の全体が苦しんでいるのです。

    そのとき私はその動きを追うことができます。それがどこに導くかを見ることができます。確かに、私がそれをするなら、そのときそれは開けて来るのではないでしょうか。そのとき私が「私」に強調をおいていたことが見えます―私が愛する人にでなく。彼はただ私の悲惨から、孤独から、不幸から、私を隠すように作用していたのです。

    私は何者でもなかったので、彼がそうであるように望んだのです。そこでそれは去りました。私は残され、途方に暮れ、孤独です。彼なしでは、私は無です。そこで私は泣きます。彼が去ったということではありません、そうではなく私が残されているのです。私はひとりです。 』(K)


    私の学習経過:

    『 苦しんでいるということは何か。原因ではなく、何が現実に起こっているのか。

    私は単純に苦しみに気づいて・・私と別でなく、苦しみを見張る観察者でなく―私の全体が苦しんでいる。

    そのとき私はその動きを追うことができる。どこに導くかを見る、開けて来る・・「私」に強調をおいていたことが見える。私はひとりです。 』

    「苦しんでいる原因」でなく、「私自身に何が現実に起こっているか」を見る・・・
    「私」に強調をおいて―私の全体が苦しんでいる・・「苦悩は私の一部」であることが見えてくる。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(2) 】
    『 苦悩とは何でしょうか。妨害、そうではないでしょうか。様々なレベルでの―肉体での、潜在意識の様々なレベルでの。それは妨害の激烈な形であり、それを私は好みません。

    私の息子は死にました。私は彼の周りに希望のすべてを築きあげました―あるいは娘、夫、何でもその周りに。私は、私が彼にそうあって欲しいと望んだことすべてと一緒に、彼を大切にしました。そして彼を私の伴侶としてきました―ほら、そういったすべて。そして突然彼は去りました。

    それゆえ、妨害があるのではないでしょうか。その妨害を私は苦悩と呼びます。どうか、私は無情なのではありません。私たちはそれを理解しようとして調べているのです。その苦悩を私が好まないなら、そのとき私は言います、「なぜ私は悩んでいるのだろうか」、「私は彼をそんなにも愛した」、「彼はこうであった」、「私はそれを持った」。

    私たちの大抵がするように、私は言葉の中に、ラベルの中に、信念の中に逃避します。それらは麻酔剤として作用します。しかし、私がそれをしないなら、何が起こるでしょうか。私は単純に苦しみに気づいています。私はそれを非難しません。正当化しません―私は苦しんでいます。

    そのとき私はその動きについて行くことができるのではないでしょうか。そのとき私は、それが意味することの全内容について行くことができます―何かを理解しようとするという意味で「私はついて行きます」。』(K)


    私の学習経過:

    『 苦悩とは何か。妨害ではないか。私たちは理解しようと調べている。

    私は言葉、ラベル、信念の中に逃避・・麻酔剤として作用。それをしないなら、私は単純に苦しみに気づいている。非難・正当化しない―私は苦しんでいる。

    そのとき私はその動きについて行くことができる。意味する全内容に―何かを理解しようとするという意味で「私はついて行く」。』

    苦悩・苦痛から、言葉、ラベル、信念の中に逃避しないで・・「私は苦しんでいる」とき、『意味する全内容に―何かを理解しようとするという意味で「私はついて行く」ことができる。』・・・さて、その中から何が出てくるのか、何を理解するのか・・・。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(1) 】
    『 Q: 苦痛と苦悩の意義は何でしょうか。 

    A: あなたが悩むとき、あなたが苦痛を持つとき、その意義は何でしょうか。肉体的苦痛は一つの意義を持っています。しかし多分、私たちは心理的な苦痛と苦悩を意味しているのでしょう。それは違ったレベルで、まったく違った意義を持っています。

    苦悩することの意義は何でしょうか。なぜあなたは苦悩することの意義を見出したいのでしょうか。それが意義を持っていないということではなく―私たちは見出そうとしているのです。しかしなぜあなたはそれを見いだしたいのでしょうか。なぜあなたはあなたが苦悩する理由を見出したいのでしょうか。

    「なぜ私は苦悩するのか」という質問を自問するとき、そして苦悩する原因を捜しているとき、苦悩から逃避しているのではないでしょうか。苦悩することの意義を私が捜すとき、私はそれを避けている、逃れている、それから逃げ出しているのではないでしょうか。

    事実はこうです、私は苦悩している。しかし私が心に、それに働きかける気にさせ、「さて、なぜ」と言うや否や、私はすでに苦悩の強さを薄めたのです。言い換えれば、私たちは苦悩を薄めることを、緩和すること、脇にやること、説明し去ることを望みます。確かにそれは苦悩の理解を与えません。それゆえ、それから逃げようとする欲望から自由であるなら、そのとき私は苦悩の内容が何であるか理解し始めます。』(K)


    私の学習経過:

    『 あなたが悩むとき、苦痛を持つとき、その意義は何か。なぜ意義、理由を見出したいのか。

    苦悩する原因を捜しているとき、苦悩から逃避しているのではないか。

    事実はこうです、私は苦悩して、心に、働きかける気にさせ、「さて、なぜ」と言うや否や、苦悩を薄める、緩和する、脇にやる、説明し去ることを望む。それは苦悩の理解を与えない。逃げようとする欲望から自由であるなら、苦悩の内容が何であるか理解し始める。』

    苦痛・苦悩に対して、原因をさがすのは逃避であり、苦悩を薄め、解放されたいからだが、それは理解に至らないのか。苦悩から逃げようとしないことが、その内容を「理解」し始めることにつながるという。それはどういう意味を持つのか、学んでいきましょう。

  • 【 Q&A.正しい関係とは何か(3) 】
    『 進んでいる歴史的な運動があります。実在はこの運動にどんな場所を持つのでしょうか。多分まったく何も持っていないのです。あなたや私はまったく数に入らないのです。この運動は巨人のようです。それは進んでいます。それは何世紀ものはずみを持っており、進んでいくでしょう。

    個人として、この運動に対するあなたの関係は何でしょうか。あなたが何をしようが、それに影響するでしょうか。あなたは平和主義者であるので戦争を止めることができるでしょうか。戦争があるからではなく、それとの関係を見出したからではなく、本質的に戦争は間違っており、あなたは殺すことはできないと感じるので平和主義者です。そこで事は終わります。

    しかしあなたの理解、聡明さと戦争のこの怪物のような論理的な運動の間の関係を見出そうとすることは、私にはまったく無駄なことのように思われます。私は個人であることが、さらに何が私の中に反社会的な感情をつくり出すかを見ることが、それゆえ分離的な行為から自由であることができます。

    私は少々の財産を持っているかもしれません。確かにそれは私を分離的な存在にしません。しかし分離していること、孤立していること、何ものかであることは心理的状態の総体です―それは災難をもたらすものであって、非常に破壊的です。そして、それを克服するために、私たちはあらゆる外部の禁制と刑罰と布告を持つのです。』(K)


    私の学習経過:

    『 進んでいる歴史的な運動・・何世紀ものはずみを持って。

    個人として、運動に対するあなたの関係は何か。本質的に戦争は間違っており、あなたは殺すことはできないと感じるので平和主義者。そこで終わり。

    私は個人であること、何が私の中に反社会的な感情をつくり出すかを見ること、分離的な行為から自由であることができる。

    分離、孤立、何ものかであることは心理的状態の総体―災難をもたらす、非常に破壊的。克服するため、私たちはあらゆる外部の禁制と刑罰と布告を持つ。』

    社会の中で、他者との関係の中で『何ものかであること』・・地位と権力を求める子育て・教育から始まる『反社会的な感情・分離的な行為』が『災難・破壊』につながることが、私たちは関係の中で真に理解できるようになるだろうか・・・。

  • 【 Q&A.正しい関係とは何か(2) 】
    『 集団的な行為は個人の否定と共に生じるのでしょうか。個人は集団に対立するものでしょうか。集団は偽りではないでしょうか、大衆は非実在ではないでしょうか。   

    個人を取り扱う困難を見て、私たちは対立するもの、大衆をつくり出します。それから個人と集団の間の関係を確立しようとします。個人が聡明であるなら、協力するでしょう。確かにそれが私たちの問題ではないでしょうか。

    私たちは最初に大衆をつくり出し、そして次に大衆との個人の関係を見出そうとします。しかし大衆は実在するものかどうか見出しましょう。ここにいる私たちの集まりは、催眠術によって、宣伝によって、集団にされることができます。

    様々な手段を通じて、私たちはイデオロギーのため、国家のため、教会のため、観念などなどのため、集団的に行動するよう駆り立てられる事があります。すなわち、集団的行動は恐怖、褒賞、その他もろもろを通して、外部から課せられ、指図され、押しつけられることがあります。

    その条件が造り出されたとき、私たちは造り出されたものと個人―それは現実のものです―の関係を確立しようとするのです。ところが、分離の意味のすべてを的確に理解することを通して個人が彼の分離の感覚を失い、それゆえ協力的に行動することはできないでしょうか。

    しかし、それは非常に困難なので、国家、政府、教会、組織宗教は、個人を団体となるように強制したり、誘惑したりします。個人は歴史の中にどんな場所を持っているでしょうか。あなたや私のすることが何だというのでしょうか。』(K)


    私の学習経過:

    『 個人を取り扱う困難を見て、私たちは対立するもの、大衆をつくり出す。それから個人と集団の間の関係を確立しようとします。

    様々な手段を通じて、私たちはイデオロギー、国家、教会、観念のため、集団的に行動するよう駆り立てられる。集団的行動は恐怖、褒賞、他を通して、外部から課せられ、指図され、押しつけられる。

    国家、政府、教会、組織宗教は、個人を団体となるよう強制、誘惑する。』

    個人の集合による共感・協力の意識が高まるのを利用して、組織は個人を操作するのは、政治を見れば明らか。政治家が「国民が望む」とか「国民のため」とひとくくりにして言うとき、気をつけなければいけない、だまされてはいけない。

  • 【 Q&A.正しい関係とは何か(1) 】
    『 Q: 正しい関係とは何でしょうか。個人と集団・大衆の間に。

    A: 個人と大衆の間に何か関係があるとあなたは思いますか。あなたと集団の間に。 国家、政府は私たちが単に市民、集団であることを好むでしょう。しかし私たちは最初に人間であり、そしてのちに市民です―最初に市民で、のちに人間ではなく。

    国家は私たちが人間、個人ではなく、大衆であるのを好むでしょう。私たちが市民であればあるほど、能力はますます大きく、効率はますます大きいからです―私たちは、官僚、権威主義的国家、政府が私たちにそうであるのを望む道具になります。

    それゆえ、私たちは私的な個人と市民、人間と大衆を見分けなければなりません。個人、人間は彼の私的な感情、希望、失敗、失意、熱望、感覚、快楽を持っています。そしてそのすべてを集団に還元しようと望む視点があります。というのは集団を取り扱うのは非常に簡単であるからです。

    布告を通せ、するとそれはなされる。禁制を与えよ、するとそれは従われる。それゆえ、組織があればあるほど、それらが効率的に組織されればされるほど、ますます個人は否定されます。教会によるにしろ、国家によるにしろ―私たちはそのとき皆キリスト教徒です、皆インド人です、個人ではなく。

    その精神性で、その状態の中で、それを私たちの大抵は望むのですが、個人的実在は何かの場所を持つでしょうか。私たちは集団的な行為がなければならないと認識します。』(K)


    私の学習経過:

    『 正しい関係―個人と集団の間・・

    国家、政府は私たちが市民、集団であることを好む。私たちは最初に人間、のちに市民。

    私たちは、官僚、権威主義的国家、政府が望む道具になる。

    私たちは私的な個人と市民、人間と大衆を見分けなければならない。

    効率的に組織されるほど、ますます個人は否定される。教会、国家―私たちは皆キリスト教徒、皆インド人・・個人でなく。

    私たちの大抵は望む・・個人的実在は何かの場所を持つか。私たちは集団的な行為がなければならないと認識。』

    私たち個人は、集団の中に「人間」である視点が薄れて、宗教や国家の部品として利用されている。戒律・儀式、選挙・支持率の中にまぎれてただ従うこと、個人・人間としての意思を失っていることには、気がつかないようになってしまうのだろうか。

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  • 【 Q&A.命名について(8) 】
    『 しかしこの過程は骨が折れます。それは、内部で心に起こっているあらゆることに、心が絶えず気づいていなければならないということを意味します。この点に到達するためには、初めから終わりまで、何の判断も正当化もあり得ません―これが終わりということではなく。

    終わりはありません、なぜならなお続いている途方もないものがあるからです。約束はありません。実験するのは、中心の多くの層がすべて解消されるようにあなた自身の中に深く、深く入って行くのは、あなたです。そしてあなたはそれを素早く、あるいはぐずぐずとすることができます。

    心の過程を見守ることは途方もなく興味深いことです。いかに心が言葉に依存するか、いかに言葉が記憶を刺激し、死んだ経験を生き返らせて命を与えるか。その過程の中に心は生きています、未来の中にせよ、過去の中にせよ。

    したがって、心理的のみならず神経的にも、言葉は巨大な意味を持っています。どうかこのすべてを私から、あるいは本から学ばないでください。それを他人から学ぶこと、あるいは本の中に見つけることはできません。学んだり本から見つけることは実在のものではないでしょう。

    しかしあなたはそれを経験することができます。行動しているあなた自身を見守ることができます。考えているあなた自身を見守りなさい。どんなふうにあなたが考えるか、どんなに素早くあなたが感情に、それが起きるとき命名しているかを―そしてこの全過程を見守っていることが、心をその中心から解放します。そのとき心は静かであるので、永遠のものを受け取ることができます。』(K)


    私の学習経過:

    『 心に起こるあらゆる過程を見守ることは途方もなく興味深い・・いかに心が言葉に依存、言葉が記憶を刺激、死んだ経験を生き返らせ命を与えるか。

    言葉は巨大な意味・・学んだり本から見つけることは実在ではない。

    行動し、考えている自身を見守る、どんなふうに考えるか、感情に命名しているか。

    全過程を見守ることが、心を中心から解放・・心は静かで、永遠のものを受け取ることができる。』

    心は、事実を・・言葉で見て、言葉で考えるが、言葉は事実から離れて色付けされ、好きなように、都合よく脚色されて・・私たちの生活は「事実から離れて、事実とは違う意味やイメージ」で考え、対応しているのかもしれない。

  • 【 Q&A.命名について(7) 】 
    『 心がもはや、言葉から、過去の経験からつくられた思考者としての中心でないとき―それらはすべて蓄積され、分類に、分類棚に入れられた記憶、ラベルです―そういったことを何もしていないとき、そのとき、明らかに心は静かです。

    それはもはや束縛されていません。「私」としての中心を持ちません―私の家、私の業績、私の仕事―それらはなお言葉であって、感情に対し刺激を与え、それによって記憶を強化します。これらのことが何一つ起きていないとき、心は非常に静かです。

    その状態は否定ではありません。それどころか、その点に到達するためには、あなたはこのすべてを通り抜けなければならず、それは巨大な仕事です。それは単に数組の言葉を学び、それを小学生のように繰り返すことではありません―名付けないこと、名付けないことと。

    その含みをすべてやり抜くこと、それを経験すること、どのように心が働き、それによってもはや命名していないその時点に到達するか見ること、それは思考とは別の中心がもはやないということを意味します―確かに、この全過程は真の瞑想です。

    そして心が本当に平静であるとき、そのとき測ることのできないものが生じることができます。他のどんな過程も、実在を求めるどんな探索も、単に自己投影の、手製のものに過ぎず、それゆえ実在のものではありません。』(K)


    私の学習経過:

    『 心が、言葉・過去の経験・思考者の中心―蓄積、分類、記憶、ラベルでないとき―心は静か。

    私の家、業績、仕事―言葉、感情に刺激、記憶を強化。これらが何一つ起きていないとき、心は非常に静か。名付けないこと。

    思考とは別の中心がないことを意味―全過程は真の瞑想。

    心が本当に平静であるとき、測ることのできないものが生じる。』

    現実の・目の前の・・物や事実に名前・言葉で考えたり、人に伝えるのは・・、記憶・過去であり、私たちは『感情を刺激し、記憶を強化』しながら・・現在を、過去の記憶の中に生きているのだろうか・・・。

  • 【 Q&A.命名について(6) 】
    『 問題はこうではないでしょうか。怒りのような、私たちが命名する対象の感情からどうやって自由であればいいか。それにくびきをかけるのではなく、昇華するのではなく、抑圧するのではなく、それらは皆ばかげていて未熟です。

    どうやってそれから本当に自由であればいいか。それから本当に自由であるためには、言葉が感情よりもっと重要であるかどうか発見しなければなりません。「怒り」という言葉が感情それ自身より、より多くの意味を持ちます。そして、それを見出すためには、感情と命名の間に間隙がなければなりません。それが一つの部分です。

    私が感情に名前をつけないなら、思考が単に言葉のために作動していないなら、あるいは言葉、イメージ、表象の見地で私が考えないなら―それを私たちの大抵がするのですが―そのとき何が起こりますか。確かに心は、そのとき、単に観察者に過ぎないのではありません。

    すなわち、心が言葉、象徴、イメージの見地で考えていないとき思考―それは言葉ですが、とは別個の思考者がありません。そのとき心は静かではないでしょうか―静かにさせられたのではなく。それは静かです。

    心が本当に静かなとき、そのとき起こった感情は即座に対処することができます。感情が継続性を持つのは私たちが感情に名前を与え、それらを強めるときだけです。それらは中心に蓄積され、それらを強めたり伝達するため、私たちはさらにラベルを貼るのです。』(K)


    私の学習経過:

    『 心が言葉、象徴、イメージの見地で考えないとき、言葉とは別個の思考者がない・・心は静か、感情は即座に対処できる。

    感情が継続性を持つのは感情に名前を与え、強めるときだけ。中心に蓄積、強めたり伝達、さらにラベルを貼る。』

    リンゴ(もの)や悲しい(感情)などの言葉は、記憶として残り、現在進行形の現実の中で取り出したり、他者との共通理解にも使われるが、同じ言葉が、自分の現在と過去でも、伝えた相手にも・・時によって違ったイメージが描かれる。
    「言葉は事実ではない」という言葉の意味する真意を、私たちはいつも気をつけて理解し、見ていかなければならないのではないか。

  • 【 Q&A.命名について(5) 】
    『 したがって、あなたはその中になおも含まれていることを続けません。あなたはすでにそれを判断し始めている、好むか好まないか決定し始めているのです。あなたは生じているものを理解するのを続けないで、すでに判断しています。それはあなたはそこから行動する中心を持っているということを意味します。

    したがって、あなたはあなたが判断する瞬間、固定されて留まるのです。「好き」と「嫌い」という言葉が重要になります。しかしあなたが命名しないとき何が起こりますか。あなたはより直接に情緒を、感覚を見て、それに対してまったく違う関係を持ちます。ちょうど命名しないとき花に対して持つように。

    あなたはそれを新たに見ることを強いられます。あなたが人の集団に命名しない時、一人一人の個人の顔を見、その人たち皆を集団として処理しないように強いられます。したがって、あなたはずっと油断なく気を配っており、ずっとよく観察しており、より理解しています。より深く哀れみ、愛の感覚を持ちます。しかし彼ら皆を集団として処理するなら、それは終わります。

    あなたがラベルを貼らないなら、それぞれの感情をそれが生じるとき、じっと見る必要があります。ラベルを貼るとき、感情はラベルと違うでしょうか。それともラベルが感情を目覚めさせるのでしょうか。どうかそれをよく考えてください。

    私たちがラベルを貼るとき、私たちの大抵は感情を強化します。感情と命名は瞬間的です。もしも命名と感情の間に間隙があるなら、そのときあなたは感情が命名と違うかどうか見出すことができるでしょう。そのとき、感情を、それに命名することなしに取り扱うことができるでしょう。』(K)


    私の学習経過:

    『 あなたは好むか好まないか判断・行動する中心を持って固定し、理解しない。

    命名しないとき・・直接に情緒、感覚を見て、まったく違う関係・・新たに見ることを強いられ、油断なく気を配って、ずっとよく観察し、より理解している。より深く哀れみ、愛の感覚を持つ。

    私たちがラベルを貼るとき、感情を強化。感情と命名は瞬間的。』

    名前・言葉は、実物・実体ではない・・表現―過去ですから、現在どのようにもイメージできる。私とあなたでは、全く違う像―想像・映像を描いているかもしれない。自身の中でも、他者との間にも「理解」のズレがあるだろう。

  • 【 Q&A.命名について(4) 】
    『 私たちにとって真理、神というような言葉や、その言葉が表わす感情は非常に重要になりました。私たちが「アメリカ人」、「キリスト教徒」、「インド人」という言葉や、「怒り」という言葉を言うとき―私たちは感情を表している言葉です。

    しかし私たちはその感情が何であるか知りません。なぜなら言葉が重要になったからです。あなたがあなた自身を仏教徒、キリスト教徒と呼ぶとき、その言葉は何を意味しますか、あなたが決して調べたことのないその言葉の背後の意味は何でしょうか。

    私たちの中心、核は言葉、ラベルです。ラベルが重要でなく、重要なのはラベルの背後にあるものであるなら、そのときあなたは調べることができます。しかし、あなたがラベルと結びついて、それにくっついているなら、あなたは進むことができません。

    このように私たちはラベルと結びついています。家、形、名前、家具、銀行預金、私たちの意見、私たちの興奮剤などなど。私たちはそれらすべてのものです―名前によって表わされるそれらのもの。ものが重要になりました、名前、ラベル。それゆえ中心、核は言葉です。

    さて、言葉、ラベルがないなら、中心があるでしょうか。消失があります、空虚があります―恐怖の空虚ではありません、それはまったく違うものです。無としてある感覚があります。そしてすべてのラベルを除いてしまったので、あるいはむしろなぜ感情と観念にラベルを貼るかを理解したので、あなたは完全に新しいのではないでしょうか。

    そこからあなたが行動している中心はありません。中心―それは言葉―は解消されました。ラベルは取り去られました。そして中心としてのあなたはどこにいますか。あなたはそこにいます。しかし変化がありました。その変化はあなたを少し驚かせるのです。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちが、家、形、名前、家具、銀行預金、意見などラベルと結びついて、言葉や感情が重要になるとき、進むことができない。

    言葉、ラベル―中心がないなら、消失、空虚―恐怖の空虚ではないまったく違う無としてある感覚・・あなたは完全に新しい―そのときあなたは調べることができる。』

    私たちが何かを見て、それが何であるか名前・言葉を知っているとき・・見るのを、理解するのをやめてしまい、そこから先に進むことができないようです。

  • 【 Q&A.命名について(3) 】
    『 あなたが命名する核は何でしょうか、常に命名し、選択し、ラベルをつけている中心は何でしょうか。私たちが行為し、判断し、命名している中心、核があると感じているのではないでしょうか。

    その中心、その核は何でしょうか。精神的精髄、神、と思いたいかもしれません。それゆえ、命名し、判断しているその核、その中心が何であるか見出しましょう。

    確かにその核は記憶ではないでしょうか。同一化され、囲い込まれた一連の感覚―現在を通して生命を与えられた過去。その核、中心が命名、ラベル貼り、回想を通じて現在を養います。

    私たちはそれを解明するとき、この中心、核が存在する限り理解はありえないのを見るでしょう。理解があるのはこの核の消失したときだけなのです。なぜなら、結局その核は記憶であるからです。様々の経験の記憶、それが名前、ラベル、同一化を与えてきました。

    それらの名づけられた、ラベルを貼られた経験の中心が、経験の記憶の感覚、快楽と苦痛にしたがって、受容と拒否の決定をしているのです。それゆえ、その中心は言葉です。名前を付けなければ、その中心はありますか。

    言葉の観点で考えないなら、言葉を使わないなら、あなたは考えることができますか。思考することは言語化を通して生じます。あるいは、言語化は思考することに応答し始めます。その中心、核は、言語化された、快と苦の数え切れない経験の記憶です。

    どうか、それをあなた自身の中で見つめてください。そうすれば言葉やラベルが実体よりはるかに重要になっているのが、そして私たちが言葉の上で生きているのがわかるでしょう。』(K)


    私の学習経過:

    『 命名、選択、判断する中心は・・記憶―現在を通して生命を与えられた過去。理解はありえない。

    言葉を使わないなら、考えることができるか。思考は言語化で生じる―中心、核は、言語化された、快と苦の数え切れない経験の記憶。

    ・・言葉やラベルが実体よりはるかに重要、言葉の上で生きている。』

    現在を見ながら・・私たちはいつも「考えて」いる・・それは言葉であり、記憶であり、過去でもある。
    言葉を覚えていない小さな子どもは・・考えないで「見る」―記憶・過去が少ないからだ。
    成長と教育は・・「実体を見る」ことから「言葉の上で生きている」ことに変化することなのか・・・。

  • おはようございます
    何ぼ対話しても治るものではない。少し陰りが晴れるだけ。心は治っていないです。

  • 【 Q&A.命名について(2) 】
    『 単に伝達するだけでないとき、花に、何かに名前をつけるとき何が起こるでしょうか。どうかそれを追ってください、それを私と考え抜いてください。

    あるものに名前を付けることによって、私たちは単にそれをある範疇に入れたに過ぎません。そして私たちはそれを理解したと思うのです。それをもっと綿密に見ません。しかし、名前を付けないなら、それを見るように強いられます。

    すなわち、花に、あるいはそれが何であっても、新しさを伴って、調査の新しい性質を伴って接近します。まるで以前に決して見たことがないかのようにそれを見ます。命名することは人々を処理する非常に簡便なやり方です―彼らはドイツ人だ、日本人だ、アメリカ人だ、インド人だと言う事によって。

    彼らにラベルを貼り、ラベルを破壊します。しかし、人々にラベルを貼らないなら、あなたは彼らを見るように強いられます。そのとき誰かを殺すことはずっと困難です。あなたはラベルを爆弾で破壊することができ、正しいと感じます。

    しかしラベルを貼らないで、したがって個々のものを見なければならないなら―それが人であろうが、花であろうが、出来事であろうが、感情であろうが―そのときあなたはそれとの関係を熟考するように強いられ、そして行為があとを継ぎます。

    それゆえ、名称をつけること、あるいはラベルを貼ることは何かを処理する、否定する、非難あるいは正当化する、非常に簡便なやり方です。それが問題の一つの側面です。』(K)


    私の学習経過:

    『あるものに名前を付けることによって、私たちは理解したと思う。もっと綿密に見ない。

    名前を付けないなら、見るように、関係を熟考するように強いられ、行為があとを継ぐ。

    名称、ラベルは、何かを処理、否定、非難・正当化する、非常に簡便なやり方』

    物や考えに名前を付けるのは、「区別し、記憶、記録、言葉で考え、人に伝える―生活・教育・社会活動に必要」だが、「言葉なしに何かを見る、考える、記憶する」ことも確かにある。

    だが、名前を付けるのは、重なって境目がない物や考えをどこかで区切って区別することでもあり、その名前で解っていると思いこみ、物や考えを「よく見る」「過去の記憶・知識・経験にとらわれないで、いま現在の目で見る」ことがおろそかになってしまうことも明らかです。

  • こんばんは
    人間まともに育って無いとダメですよ。まじめにまともに書いてくださいね。

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