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    私たちは、誰でもしあわせになりたい、世界が平和であってほしいと願って、勉強して働いて努力して生きています。知識や情報も科学・技術も学問も宗教も進歩・発展して、生活は便利でスピード化して楽になっています。

    さて、私たちは豊富な物と多くの知識を得ることによって、しあわせになったでしょうか。
    生活や勉強や仕事や娯楽に、ほんとうの喜びや充実感を感じているでしょうか。
    世界で、苦しみ・悲しみ・争い・暴力・破壊・戦争は少なくなるどころか、ますます危機的な状況になっているように見えますが、どうしてそんなことになってしまうのでしょうか。

    そのような「生きる」ことの根源にある疑問に、道をさぐっていた私に“道なき道”が見えてきたのは、Kとの出会い(本)でした。
    Kのことばから多くのことを学ぶなかで、「豊かな感受性と生命力に満ちて生き生きしていた子どもが、成長するにしたがってどうしてつまらない大人になってしまうのか。どうしてこんな“腐った社会”をつくってしまったのか」という疑問に対して、「知識・経験・信念という過去の固定した観念と、それを不安からの安定・永続願望によって未来に引きのばした理想や目的に執着して“事実”から逃避してしまった大人よりも、知識・経験が少ないからこそいつも今・現在目の前にある事実を自分の目で見て行動する子どもの方が、大人のくもった目には見えなくなってしまった事実・ありのまま・ほんとうのことが見えている」ことが、私の目には「事実」として見えてきたのです。

    今まで生活や行動をともにして語り合ってきた中学生たちや、新聞の声・掲示板で出会う子どもたちから学ぶことは多く、それはいつも新鮮であり発見であり“生きている”のです。
    そのようなことから、私はここで「生きるとはどのようなことなのか」「ほんとうのこと・真実とは何なのか」という根本的な問いを探究し、事実・ありのままを見て聞いて理解することの重要性を学んでいるKの『子供たちとの対話』を主体にその他の本からもことばを紹介しながら、今までにそしてこれからも出会う「子どもたちとの対話」ができることなら,そのような交流を通して「みなさんといっしょに学んでいきたい」と思っています。

    「子どもたちとの対話」と言いながら、私の場合は時間的にゆっくり進めたいということもあって、返信も皆さんのことばに何かを感じて書く気持ちになったものに限られてしまいます。
    今までも1・2週間から1ヵ月・2ヵ月すぎて、「忘れたころ」になってしまうようなこともありましたが、これからも「ひとりごと」として書くことも多くなると思います。

    みなさんが自由に書いて、議論するのもいいかと思いますが、私は基本的に議論するつもりはありません。どちらが正しいのかとか、正当化したり非難するのは、「事実をありのままに理解する」のをさまたげるのではないかと見ています。

    そのことについて、Kのことばがあります。
    『 私たちは本当に話を聞くことができなければなりません。「本当に聞く」とは、完全な注意を注ぐということであって、同意や反対をすることではないのです。』(K) 

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    mum***** 10月21日 12:18

    【Q&A.毎日死ぬとは(2)】
    『 もしも毎日死に、その日の終わりに心配事、嫉妬、愚かな行為と虚栄のすべて、残酷な噂話―ごたごたの全部を終わりにするなら、もしも毎日終わりに到達し、すべてを明日に持ち越さないなら、再生の可能性があるのではないでしょうか。

    なぜ私たちは蓄積するのでしょうか。蓄積するものは何でしょうか。家具や少しばかりの他のものを別にして。 私たちが蓄積するものは何でしょうか。観念、言葉、そして記憶ではないですか。

    これらと共に私たちは生きます―私たちはそれらのものです。それらのものと共に私たちは生きることを望みます。私たちは継続することを望みます。  

    しかし、もしも私たちが継続しないなら、新しい理解、新しい始まりの可能性があるでしょう。これは形而上学的ではありません。空想的な何かではありません。あなた自身でそれを実験してください、するとあなたは途方もないことが起こるのを見るでしょう。

    いかに心が、繰り返し繰り返し、来る日も来る日も、問題を悩むことか! そのような心は明らかに、新しいものを見ることができないのではないでしょうか。  

    私たちは信念に捕らわれます―宗教的、社会的、何かの信念。それらの信念は自分自身です。信念は言葉です。言葉が重要になります。私たちは、それが継続することを望む感情の中に生きます。それゆえ再生はありません。

    しかし継続しないなら、心配に継続を与えないで、考え抜き、十分に調べ、解消するなら、自分の心は他のものに新たに出会うために新鮮です。』(K)


    私の学習経過:

    『 毎日死に、すべてを明日に持ち越さないなら、再生の可能性。蓄積は観念、言葉、記憶・・継続を望む。  

    継続しないなら、新しい理解、始まりの可能性。空想でなく、途方もないことが起こる。

    いかに心が、繰り返し問題を悩むか! 心は、新しいものを見ることができない。  

    私たちは信念に捕らわれる―宗教的、社会的信念。信念は自分自身―言葉が重要、継続を望む感情、再生はない。

    継続しない、心配に継続を与えないで、考え抜き、十分に調べ、解消するなら、心は他のものに新たに出会うために新鮮。』

    教育によって、成長に従って、知識・経験・記憶・過去を積み重ねるに従って、私たちは現在・事実・生きていることから遠ざかって、死んだ過去の繰り返しに生きるのだろうか。

  • 【Q&A.毎日死ぬとは(1)】
    『 Q: 毎日死ぬということはどういうことか、説明してください。

    A: 私たちがひどく死を恐れるのはなぜでしょうか。なぜなら死が未知のものであるからです。明日、何が起きようとしているか私たちは知りません。現実に何が起きようとしているのか知りません。私たちは明日のために築くけれど、現実に、現実的に、私たちは知りません。

    それで常に明日の恐怖があります。それゆえ、恐怖が案内する要素であり、未知のものに出会うことに対して無能力です。それで、私たちは今日を明日に持ち越し続けます。それが私たちのやっていることではないでしょうか。

    私たちは私たちの特異性に、妬みに、愚かさに、記憶に継続性を与えます。私たちがどこにいようが、来る日も来る日もそれらを持ち続けます。それで死ぬ事がありません。継続の保証があるだけです。それが事実です。

    私たちの名前、行為、私たちがする物事、財産、生きていたいという欲望―これらすべては継続を与えます。継続するものは明らかに再生することができません。終わりがあるときのみ再生があり得ます。あなたが明日、今日そうであるのと同じなら、どうして再生があり得るでしょうか。

    あなたが観念に、経験に愛着しているなら、それをあなたは昨日持ち、そして明日も続けることを望むのですが、再生はありません。その経験の感情の記憶の継続はありますが、経験それ自体は死んでいます。その経験の感情の記憶だけがあるのです。そしてあなたが継続したいのはその感情です。   

    そして継続があるところ、明らかに再生はありません。けれどもそれが私たちの大抵が望んでいることなのです。私たちは継続することを望みます。私たちは心配事を、快楽を、記憶と共に継続したいのです。それで私たちの大抵は現実に非創造的です。再誕、再生の可能性はありません。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちが死を恐れるのは・・死が未知だから。明日、何が起きるか知らない。

    明日の恐怖が、今日を明日に持ち越し続け、死ぬ事がない。終わりがあるときのみ再生があり得る。

    経験自体は死んでいる。継続があるところ、再生はない。再誕、再生の可能性はない。』

    私たちは、明日の不安から過去の記憶に頼るのですが、明日は過去とは違う未知のものであり、つねに新しい事実として見なければならないようです。

  • 【自分自身を知る重要性(5)】
    『 同様に自己をいつもさらに深く広く理解するためには、受動的な気づきがなければなりません。それは極めて困難です。というのは、私たちの大抵は非難したり正当化したりするからです。私たちは何事も決して受動的に見ません。

    私たちは対象に私たち自身を投影します―絵、詩、他の何にでも―、特に私たちが関わっているところに。私たちは何の非難や正当化なしに私たち自身を見ることができません。そして、ますます広く、深く理解するつもりなら、確かにそのことは絶対必要です。

    私たちの大抵は、自己認識の探究の中で自意識に捕らえられてしまうので、危険は、捕らえられるとき、私たちが捕らえられているものを最重要なものにするということです。自意識を超えるためには、結果を獲得しようという欲望からの自由がなければなりません。なぜなら、結局、結果の達成は心が望んでいるものです。

    それは安全であること、無事であることを望み、それゆえ、それ自身のはずみからイメージ、観念を投影し、その中に避難します。そして心がつくり出すすべての幻想を避けること、それらに捕らえられるのを避けることは、結果を求める欲望がないときのみ可能です。人が瞬時瞬時生きているときのみ。』(K)


    私の学習経過:

    『 自己をさらに深く広く理解するには、受動的な気づきが絶対必要・・極めて困難。私たちは非難・正当化し、何事も決して受動的に見ない。

    自意識を超えるには、結果を獲得しようという欲望からの自由がなければ。なぜなら、結局、結果の達成は心が望んでいるもの。

    安全、無事のイメージ、観念の中に避難。心がつくり出す幻想を避けることは、結果を求める欲望がないときのみ可能。人が瞬時瞬時生きているときのみ。』

    確かに私たちは、『非難・正当化』し、目的・結果を『獲得しようとする欲望』―過去から来て未来を向いている―にとらわれていて、それは教育や社会活動の基本にもなっている。そこに『受動的な気づき』―現在・事実は見えなくなって、現在に生きてはいない。

    『心がつくり出すすべての幻想を避ける』には、自身の『結果を求める欲望』に気づいて、そこから自由になれるかどうかが問われている。

  • 【自分自身を知る重要性(4)】
    『 必要なことは誠実ではなく、何かであろう、あるまいとする意志の発揮ではなく、物事が起こるとき、瞬時瞬時、自然に自分自身を理解することです。あなたが何かにあなた自身を漸近させているとき、どうして自発的であることができるでしょうか。

    あなたはいつあなた自身の中に何かを発見しますか。予期しない瞬間、あなたが意識的に、慎重にあなたの心、思考と気持ちを形造っていないときのみ、生の出来事に対する自発的な反応があるときのみ、反応に応じて、あなたは見出します。

    しかし観念に対して誠実であろうとしている人間は決し単純であることができません。それゆえ、充分な完全な自己認識がある事ができません。

    自己認識がより十分に、より深く広く発見されうるのは、受動的な気づきがあるときのみであり、それは意志の発揮ではありません。意志と誠実は相伴います。単純と受動的な気づきは道連れです。なぜなら、深く受動的に気づいているとき、そのとき即座の理解の可能性があるからです。

    私たちが討論したように、何かを理解したいとき、あなたが理解したいという欲望にいつも駆られ、理解しようとする努力をしているなら、当然理解はありません。しかし受動的な油断のない気づきがあるなら、そのとき理解の可能性があります。』(K)


    私の学習経過:

    『 必要なことは、何かであろうとする意志でなく、物事が起こるとき、瞬時瞬時自分自身を理解すること。

    あなたはいつ自身の中に何かを発見するか。予期しない瞬間、意識的に、慎重に心、思考と気持ちを形造っていないときのみ、生の出来事に対する自発的な反応に応じて、あなたは見出す。

    観念に誠実であろうとする人間は、単純で充分な完全な自己認識がある事ができない。

    自己認識が深く広く発見されうるのは、受動的な気づきがあるときのみで、意志の発揮ではない。単純と受動的な気づきは道連れ。深く受動的に気づいているとき、即座の理解の可能性。

    理解したい欲望に努力するなら、理解はない。受動的な油断のない気づきがあるなら、理解の可能性。』

    何かになろうとする意志と、獲得しようという欲望は、必然的に知識・経験・信念に対する執着心を育て競争社会に結びつく。子育ても教育も、何の疑問も感じることなく、社会の常識・習慣・観念に従って、人類の歴史を引き継ぐ社会に適応させてしまう。

  • 【自分自身を知る重要性(3)】
    『 人は自分自身を理解するために途方もない単純さを必要とします。達成しよう、獲得しよう、何かを得ようとする欲望がないときに生じる単純さ。自己認識を通して何かを得ようと望むやいなや、自意識があり、その中に私たちは捕らえられてしまいます―それは事実です。

    あなたが様々な心理学者や聖者が言ったことを単に調べるだけでなく、あなた自身で実験するなら、誠実ではなく完全な単純さがあるのでない限り進めないということがわかる点に到達するでしょう。自意識は自己認識を通して何かを―幸福、実在、あるいは理解することでさえ―獲得しようという欲望があるときのみ生じます。

    自己認識を通じて達成を求める欲望があるとき、自意識があり、問題をさらに調べることを妨げます。私たちの大抵、特にいわゆる宗教的な人たちは誠実であろうとするので、私たちは「誠実」というこの問題、この言葉を理解しなければなりません。

    なぜなら誠実は意志を発達させ、意志は本質的に欲望であるからです。あなたはあなた自身を観念に近づけるために誠実でなければなりません。そしてここから、型とその型を実行することが最も重要になります。

    型を実行するためには意志を持たなければなりません。それは単純さを否定します。単純さは獲得しようという欲望からの自由があるとき、何の目的も念頭になしに、厭わずに自己認識に突っ込んでいくときのみ生じます。』(K)


    私の学習経過:

    『 自分自身を理解するために単純さが必要・・達成、獲得の欲望がない。自己認識を通して何かを得ようと望むや、自意識の中に捕らえられる。

    誠実ではなく完全な単純さでない限り進めない・・自意識は自己認識を通して―幸福、実在、理解でさえ―獲得の欲望があるときのみ生じる。

    達成を求める欲望があるとき、問題を調べることを妨げる。私たち、特に宗教的な人たちは誠実であろうとする。

    誠実は意志を発達・・本質的に欲望。自身を観念に近づけるために誠実で・・型と型を実行することが最も重要になる。

    単純さは獲得の欲望から自由、何の目的も念頭になし、厭わず自己認識に突っ込むときのみ生じる。』 

    教育も社会も、「達成・獲得を求める欲望」で成り立っていて、対立・争い・破壊・悲惨をつくりだしていることが・・私たち人間には、歴史的にも、現在も理解できないのかもしれない。

  • 【自分自身を知る重要性(2)】
    『 あなたが経験していないとき、本当に考え、感じ、経験していないとき、あなたはノートを取ります。しかし本当に経験していて、言われたことに沿っていくなら、そのときノートをとる時間や機会はありません。確かに、経験することは言葉を通しては生じません。ただ感情を助成するだけです。

    私が言っていたように、自己認識の探究の中で、人は自意識に捕えられます。人は「私」をますます強めます、強調します。そしてそれが起こるのはどうしてでしょうか。これらの講話すべてを通して言ったように、重要なことは「私」、私のもの、自己からの自由です。

    なぜなら、明らかに、自己の全過程と内容を知らない人は正しく考えることができないからです―それは自明です。だがしかし私たちは自己を理解することを避けます、回避します。そしてそれを回避することによって、もっと容易に自己を取り扱うことが、あるいはそれを忘れることができると私たちは思うのです。

    ところが、私たちがそれをより強烈に、より注意深く見ることができるなら、ますます自己意識するようになる危険があります。それを越えることができるでしょうか。

    それを理解するためには、私たちは誠実の問題に入らなければなりません。誠実な人は決して単純であることはできません。なぜなら誠実であろうとしている人は、常に彼自身を観念に合わせたい、あるいは漸近させたいという欲望を持っているからです。』(K)


    私の学習経過:

    『 自己認識の探究の中で、人は自意識に捕えられ、「私」を強め、強調。重要なことは「私」、私のもの、自己からの自由。

    自己の全過程を知らない人は正しく考えることができない。私たちは自己を理解することを避けることによって、容易に自己を取り扱う、忘れると思う。

    より強烈に、注意深く見ることができるなら、ますます自己意識する危険・・越えることができるか。

    理解には、誠実の問題が。誠実であろうとする人は、自身を観念に合わせたいという欲望を持っている。』

    私たちは生まれてから、言葉・行動・経験・記憶の積み重ねによって、「私」「私のもの」に対する執着を強め、積み重ねられたその「過去」の目で現在を見て、比較しながら言葉・行動を選びながら、現在を過去に合わせているようです。

  • 【自分自身を知る重要性】
    『 私たちは自己認識の重要性、そして何かの行為がある前に、正しく考えることがある前に、自分自身を知らなければならないということが如何に不可欠であるかを議論してきました。表面の意識的な心だけでなく、隠れた無意識の心も。

    そして議論してきたことを試み、験した人は、験す中で非常に奇妙なこと、自己認識を通じて人は自意識を強めるということに出会ったに違いありません。すなわち、人は自分自身により関わるようになります。

    私たちの大抵はそのことに捕われ、越えることができるようには思われません。そして私は、私たちの大抵が抑制し、自意識の中に私たち自身を限定し、越えることができないのは何故かということを討論したいと思います。

    なぜなら、その中にはさらに説明と議論を要する、非常に多くのことがあるからです。しかし、そのことに入る前に、私は一二のことを指摘しておきたいと思います。

    まず最初に、どうか写真を撮ることにかかずらわないでください。こういったこと、自分が話していることは、少なくとも私にとっては、非常にまじめなことです。これは署名ハンターに向けたものではありません。

    もしもあなたが本当にとても真剣であるなら、写真を撮ることや署名を頼むことを考えてはいないでしょう。また、そういってよろしければ、それは非常に幼稚で未熟です。

    そして私が指摘したいもうひとつのことは、すでに前に言ったように、あなたと私は私たちに立ちはだかる問題に入っていくやり方をここで一緒に実験しよう、手探りしようとしているのです。

    それは、私が言っていることをノートに取ることを気にして関わっているなら、不可能です。あなたはそれをのちほど考え抜くのではなくて、直接問題を処理できるのでなければなりません。なぜなら、何かを本当に経験しているとき、あなたはノートを取らないからです。』(K)


    私の学習経過:

    『 正しく考える前に、自分自身を知らなければならない・・表面の意識的な心だけでなく、隠れた無意識の心も。

    自己認識を通じて人は自意識を強める・・自分自身により関わるようになる。』

    私たちは、自分自身の心・考えを知っていると思っているようですが、それは「こうありたい」という願望であったり、過去の記憶に捕えられてる目的意識や観念・信念なのかもしれない。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(7) 】
    『 私たちはただ言葉から言葉に、反応から反応に生きています。私たちは「苦しむそのものが何であるか見ましょう」と決して言わないのです。そして努力によっては、修練によっては、決して見ることはできません。

    あなたは関心をもって、自発的な理解力をもって見なければなりません。そのとき苦しみ、苦痛と呼んだもの、私たちが避けるもの、そして鍛錬、すべて去りました。私の外部にあるものとして物事と関係を持たない限り、問題はありません。

    しかし私の外部のそれと関係を確立するや否や、問題があります。私が苦しみを外部の何かとして取り扱う限り―私は兄弟を失ったため、お金を持っていないため、あれやこれやのため苦しみます―、私はそれに対し関係を確立し、そしてその関係は架空のものです。

    しかし私がそのことであるなら、私が事実を見るなら、そのとき全体の物事が変容します。それはすべて違った意味を持ちます。そのとき十分な注意、統合された注意があります。そして完全に見られたものは、理解され、解消されます。それで恐怖はありません。それゆえ、「悲しみ」という言葉は非存在です。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちは「苦しむものが何であるか見てみよう」と決して言わない。努力、修練によっては、決して見ることはできない。

    関心、自発的な理解力をもって見なければならない。苦しみ、苦痛、避けるもの、鍛錬、すべて去る。私の外部にあるものとして物事と関係を持たない限り、問題はない。

    私の外部のそれと関係を確立するや否や、問題がある。関係は架空のもの。

    私が事実を見るなら、全体の物事が変容。すべて違った意味を持ち、十分な注意、統合された注意がある。完全に見られたものは、理解、解消され、恐怖はない。「悲しみ」という言葉は非存在。』

    「恐怖」と同じように、「苦しみ」は自分の外部にあるものとの関係と見ることから、非難や排除の論理が出てくるが、それは事実とは違う「不安・欲望」であり虚構なのかもしれない。「自分自身が苦しみそのもの」であることが見えれば、注意力と理解力が生まれ、苦しみは解消されるということなのでしょう。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(6) 】
    『 苦しんでいる観察者がないとき、苦しみはあなたと違うでしょうか。あなたは苦しみではないでしょうか。あなたは苦痛と別ではありません―あなたは苦痛です。さて何が起こるでしょうか。それを追ってください。

    ラベル貼りはありません。それに名前を付け、それによってそれを払いのけることはありません―あなたは単にその苦痛、その感じ、その苦悶の感覚です。そのとき、あなたがそれであるとき、何が起こりますか。それに命名しないとき、それに関して何の恐怖もないとき、中心はそれに関係していますか。中心が関係しているなら、そのとき中心はそれを恐れます。そのときそれは行動し、それについて何かするに違いありません。

    しかし中心がそれであるなら、そのときあなたはどうしますか。することは何もないのではないでしょうか。どうか、それは単なる受容ではありません。それを追ってください。すると見えるでしょう。あなたがそれなら、そしてそれを受容していないなら、ラベルを貼っていないなら、押しのけていないなら―あなたがそのことであるなら、何が起こりますか。

    そのときあなたは「私は苦しむ」と言うでしょうか。確かに、基本的な変容が起きています。そのときもはや「私は苦しむ」はありません。なぜなら苦しむ中心がないからです。そして中心は苦しみます。なぜなら中心が何であるか、私たちは決して調べたことがないからです。』(K)


    私の学習経過:

    『 苦しんでいる観察者がないとき、あなたは苦しみではないか。

    名前を付け、払いのけることはない―あなたはその苦痛、感じ、苦悶の感覚。命名しないとき、何の恐怖もないとき、中心は関係しているか。中心が関係しているなら、中心はそれを恐れる。

    中心がそれであるなら、することは何もない。あなたがそれなら、受容していないなら、ラベルを貼っていないなら、押しのけていないなら―あなたがそのことであるなら、何が起こるか。

    基本的な変容が起きて・・「私は苦しむ」はない。苦しむ中心がないから。中心が何であるか、私たちは決して調べたことがないから。』

    「私たち自身が、苦痛、感覚、苦悩そのもの」であることを知れば、『することは何もないのではないか』。

    「苦しみ」が自分の外にある・・と思うから、「押しのけようとして・・苦しむ」ということなのか・・・。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(5) 】
    『 苦しむことは単なる言葉でしょうか、それとも現実でしょうか。それが現実であって、ただの言葉でないなら、そのとき言葉は意味を持ちません。そこには、単に激しい苦痛の感覚があるに過ぎません。

    何に関してでしょうか。イメージに、経験に、あなたが持っている、あるいは持っていない何かに関して。それを持っているなら、あなたはそれを快楽と呼びます。あなたが持っていないなら、それは苦痛です。それゆえ、苦痛、悲しみは何かに対する関係の中にあります。

    その何かは単なる言語化に過ぎないのでしょうか、それとも現実でしょうか。あなたがこのすべてについてきているかどうか私はわかりません。すなわち、悲しみが存在するとき、それは何かとの関係の中にのみ存在します。それはそれ自身で存在できません―恐怖がそれ自身で存在できないで、何かとの、個人との、出来事との、感情との関係の中にあるように。

    さて、あなたは苦しみに充分気づいています。その苦しみはあなたとは別で、それゆえ、あなたは単に苦しみを知覚する観察者に過ぎないのでしょうか、それともその苦しみはあなたの部分でしょうか。確かに私たちは苦しみ、苦痛が何であるか理解しようとしています。私たちはただ表面的にではなく、それに充分に突っ込んで行こうとしています。 』(K)


    私の学習経過:

    『 苦しみは単なる言葉か、現実か。現実なら、言葉は意味を持たない。激しい苦痛の感覚に過ぎない。

    苦痛、悲しみは何かに対する関係の中にのみ存在。それ自身で存在できない。

    苦しみはあなたとは別で、苦しみを知覚する観察者に過ぎないのか、苦しみはあなたの部分か。 』

    苦しみ、悲しみは、自分と他者、あるいは外部との関係の中にあって、私たちはそれから逃げたり、それを追いだしたりしたいようです。「自身の現実から逃避しようとする心のはたらき」が、苦しみ、悲しみを生み出すのかもしれない。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(4) 】
    『 その点に達するのは非常に困難です。そうでないですか。それを本当に認識し、そして「私はひとりだ。どうやってその孤独を免れたらいいだろう。」と単に言うだけでないことは困難です。そう言うことは逃避の別の形です。

    しかしそれを意識すること、それと共に留まること、その動きを見ることは困難です。私はこれを例としてただ話しているだけです。それゆえ、徐々に、もし私がそれが開くのを、開けてくるのを許すなら、私が途方にくれているので苦しんでいるのが見えます。

    私は私が進んで見ようとしないものに注意を注ぐように言われているのです。私が見て理解するのを渋っているものが、私に押し付けられているのです。そして私が逃避するのを助けようとする無数の人たちがいます―何千ものいわゆる宗教的な人々、かれらの信仰と教条、希望と幻想を伴って―「それは運命だ。それは神の意志だ」、ほら、すべて私に出口を与えています。

    しかし私がそれと共に留まり、それを私から除かず、それを抑えるとか否定しようとしないなら、そのとき何が起こりますか。私の心の状態は、心がそのように苦しみの動きについて行っているとき、どんなですか。さて、どうかこれを追ってください。私たちが前に議論したことに続いて。』(K)


    私の学習経過:

    『 「私はひとりだ。どうやってその孤独を免れたらいいだろう。」と言うことは逃避の別の形。

    意識し、共に留まる、動きを見ることは困難・・開くのを、開けてくるのを許すなら、私が途方にくれているので苦しんでいるのが見える。

    私が進んで見ようとしないものに注意を注ぐように言われている。見て理解するのを渋っているものが、私に押し付けられている。

    私がそれと共に留まり、私から除かず、抑えるとか否定しようとしないなら、何が起こるか。
    私の心が苦しみの動きについて行っているとき、どんなか、追ってください。』

    どうやって苦しみから逃れるか・・「逃避」を考えるのでなく、『意識し、動きを見ることは困難』だが、『共に留まり、私から除かず、抑えるとか否定しようとしない』とき、何が起こるか・・という課題ですが・・・。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(3) 】
    『 それゆえ、それはどういう事でしょうか。苦しんでいるということは何でしょうか。なぜ苦しみがあるかではなく、苦しみの原因が何であるかではなく、何が現実に起こっているのでしょうか。あなたがその違いがわかるかどうかわかりません。

    そのとき私は単純に苦しみに気づいています。私とは別のものとしてではなく、苦しみを見張っている観察者としてではなく―それは私の不可欠な属性です。すなわち、私の全体が苦しんでいるのです。

    そのとき私はその動きを追うことができます。それがどこに導くかを見ることができます。確かに、私がそれをするなら、そのときそれは開けて来るのではないでしょうか。そのとき私が「私」に強調をおいていたことが見えます―私が愛する人にでなく。彼はただ私の悲惨から、孤独から、不幸から、私を隠すように作用していたのです。

    私は何者でもなかったので、彼がそうであるように望んだのです。そこでそれは去りました。私は残され、途方に暮れ、孤独です。彼なしでは、私は無です。そこで私は泣きます。彼が去ったということではありません、そうではなく私が残されているのです。私はひとりです。 』(K)


    私の学習経過:

    『 苦しんでいるということは何か。原因ではなく、何が現実に起こっているのか。

    私は単純に苦しみに気づいて・・私と別でなく、苦しみを見張る観察者でなく―私の全体が苦しんでいる。

    そのとき私はその動きを追うことができる。どこに導くかを見る、開けて来る・・「私」に強調をおいていたことが見える。私はひとりです。 』

    「苦しんでいる原因」でなく、「私自身に何が現実に起こっているか」を見る・・・
    「私」に強調をおいて―私の全体が苦しんでいる・・「苦悩は私の一部」であることが見えてくる。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(2) 】
    『 苦悩とは何でしょうか。妨害、そうではないでしょうか。様々なレベルでの―肉体での、潜在意識の様々なレベルでの。それは妨害の激烈な形であり、それを私は好みません。

    私の息子は死にました。私は彼の周りに希望のすべてを築きあげました―あるいは娘、夫、何でもその周りに。私は、私が彼にそうあって欲しいと望んだことすべてと一緒に、彼を大切にしました。そして彼を私の伴侶としてきました―ほら、そういったすべて。そして突然彼は去りました。

    それゆえ、妨害があるのではないでしょうか。その妨害を私は苦悩と呼びます。どうか、私は無情なのではありません。私たちはそれを理解しようとして調べているのです。その苦悩を私が好まないなら、そのとき私は言います、「なぜ私は悩んでいるのだろうか」、「私は彼をそんなにも愛した」、「彼はこうであった」、「私はそれを持った」。

    私たちの大抵がするように、私は言葉の中に、ラベルの中に、信念の中に逃避します。それらは麻酔剤として作用します。しかし、私がそれをしないなら、何が起こるでしょうか。私は単純に苦しみに気づいています。私はそれを非難しません。正当化しません―私は苦しんでいます。

    そのとき私はその動きについて行くことができるのではないでしょうか。そのとき私は、それが意味することの全内容について行くことができます―何かを理解しようとするという意味で「私はついて行きます」。』(K)


    私の学習経過:

    『 苦悩とは何か。妨害ではないか。私たちは理解しようと調べている。

    私は言葉、ラベル、信念の中に逃避・・麻酔剤として作用。それをしないなら、私は単純に苦しみに気づいている。非難・正当化しない―私は苦しんでいる。

    そのとき私はその動きについて行くことができる。意味する全内容に―何かを理解しようとするという意味で「私はついて行く」。』

    苦悩・苦痛から、言葉、ラベル、信念の中に逃避しないで・・「私は苦しんでいる」とき、『意味する全内容に―何かを理解しようとするという意味で「私はついて行く」ことができる。』・・・さて、その中から何が出てくるのか、何を理解するのか・・・。

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(1) 】
    『 Q: 苦痛と苦悩の意義は何でしょうか。 

    A: あなたが悩むとき、あなたが苦痛を持つとき、その意義は何でしょうか。肉体的苦痛は一つの意義を持っています。しかし多分、私たちは心理的な苦痛と苦悩を意味しているのでしょう。それは違ったレベルで、まったく違った意義を持っています。

    苦悩することの意義は何でしょうか。なぜあなたは苦悩することの意義を見出したいのでしょうか。それが意義を持っていないということではなく―私たちは見出そうとしているのです。しかしなぜあなたはそれを見いだしたいのでしょうか。なぜあなたはあなたが苦悩する理由を見出したいのでしょうか。

    「なぜ私は苦悩するのか」という質問を自問するとき、そして苦悩する原因を捜しているとき、苦悩から逃避しているのではないでしょうか。苦悩することの意義を私が捜すとき、私はそれを避けている、逃れている、それから逃げ出しているのではないでしょうか。

    事実はこうです、私は苦悩している。しかし私が心に、それに働きかける気にさせ、「さて、なぜ」と言うや否や、私はすでに苦悩の強さを薄めたのです。言い換えれば、私たちは苦悩を薄めることを、緩和すること、脇にやること、説明し去ることを望みます。確かにそれは苦悩の理解を与えません。それゆえ、それから逃げようとする欲望から自由であるなら、そのとき私は苦悩の内容が何であるか理解し始めます。』(K)


    私の学習経過:

    『 あなたが悩むとき、苦痛を持つとき、その意義は何か。なぜ意義、理由を見出したいのか。

    苦悩する原因を捜しているとき、苦悩から逃避しているのではないか。

    事実はこうです、私は苦悩して、心に、働きかける気にさせ、「さて、なぜ」と言うや否や、苦悩を薄める、緩和する、脇にやる、説明し去ることを望む。それは苦悩の理解を与えない。逃げようとする欲望から自由であるなら、苦悩の内容が何であるか理解し始める。』

    苦痛・苦悩に対して、原因をさがすのは逃避であり、苦悩を薄め、解放されたいからだが、それは理解に至らないのか。苦悩から逃げようとしないことが、その内容を「理解」し始めることにつながるという。それはどういう意味を持つのか、学んでいきましょう。

  • 【 Q&A.正しい関係とは何か(3) 】
    『 進んでいる歴史的な運動があります。実在はこの運動にどんな場所を持つのでしょうか。多分まったく何も持っていないのです。あなたや私はまったく数に入らないのです。この運動は巨人のようです。それは進んでいます。それは何世紀ものはずみを持っており、進んでいくでしょう。

    個人として、この運動に対するあなたの関係は何でしょうか。あなたが何をしようが、それに影響するでしょうか。あなたは平和主義者であるので戦争を止めることができるでしょうか。戦争があるからではなく、それとの関係を見出したからではなく、本質的に戦争は間違っており、あなたは殺すことはできないと感じるので平和主義者です。そこで事は終わります。

    しかしあなたの理解、聡明さと戦争のこの怪物のような論理的な運動の間の関係を見出そうとすることは、私にはまったく無駄なことのように思われます。私は個人であることが、さらに何が私の中に反社会的な感情をつくり出すかを見ることが、それゆえ分離的な行為から自由であることができます。

    私は少々の財産を持っているかもしれません。確かにそれは私を分離的な存在にしません。しかし分離していること、孤立していること、何ものかであることは心理的状態の総体です―それは災難をもたらすものであって、非常に破壊的です。そして、それを克服するために、私たちはあらゆる外部の禁制と刑罰と布告を持つのです。』(K)


    私の学習経過:

    『 進んでいる歴史的な運動・・何世紀ものはずみを持って。

    個人として、運動に対するあなたの関係は何か。本質的に戦争は間違っており、あなたは殺すことはできないと感じるので平和主義者。そこで終わり。

    私は個人であること、何が私の中に反社会的な感情をつくり出すかを見ること、分離的な行為から自由であることができる。

    分離、孤立、何ものかであることは心理的状態の総体―災難をもたらす、非常に破壊的。克服するため、私たちはあらゆる外部の禁制と刑罰と布告を持つ。』

    社会の中で、他者との関係の中で『何ものかであること』・・地位と権力を求める子育て・教育から始まる『反社会的な感情・分離的な行為』が『災難・破壊』につながることが、私たちは関係の中で真に理解できるようになるだろうか・・・。

  • 【 Q&A.正しい関係とは何か(2) 】
    『 集団的な行為は個人の否定と共に生じるのでしょうか。個人は集団に対立するものでしょうか。集団は偽りではないでしょうか、大衆は非実在ではないでしょうか。   

    個人を取り扱う困難を見て、私たちは対立するもの、大衆をつくり出します。それから個人と集団の間の関係を確立しようとします。個人が聡明であるなら、協力するでしょう。確かにそれが私たちの問題ではないでしょうか。

    私たちは最初に大衆をつくり出し、そして次に大衆との個人の関係を見出そうとします。しかし大衆は実在するものかどうか見出しましょう。ここにいる私たちの集まりは、催眠術によって、宣伝によって、集団にされることができます。

    様々な手段を通じて、私たちはイデオロギーのため、国家のため、教会のため、観念などなどのため、集団的に行動するよう駆り立てられる事があります。すなわち、集団的行動は恐怖、褒賞、その他もろもろを通して、外部から課せられ、指図され、押しつけられることがあります。

    その条件が造り出されたとき、私たちは造り出されたものと個人―それは現実のものです―の関係を確立しようとするのです。ところが、分離の意味のすべてを的確に理解することを通して個人が彼の分離の感覚を失い、それゆえ協力的に行動することはできないでしょうか。

    しかし、それは非常に困難なので、国家、政府、教会、組織宗教は、個人を団体となるように強制したり、誘惑したりします。個人は歴史の中にどんな場所を持っているでしょうか。あなたや私のすることが何だというのでしょうか。』(K)


    私の学習経過:

    『 個人を取り扱う困難を見て、私たちは対立するもの、大衆をつくり出す。それから個人と集団の間の関係を確立しようとします。

    様々な手段を通じて、私たちはイデオロギー、国家、教会、観念のため、集団的に行動するよう駆り立てられる。集団的行動は恐怖、褒賞、他を通して、外部から課せられ、指図され、押しつけられる。

    国家、政府、教会、組織宗教は、個人を団体となるよう強制、誘惑する。』

    個人の集合による共感・協力の意識が高まるのを利用して、組織は個人を操作するのは、政治を見れば明らか。政治家が「国民が望む」とか「国民のため」とひとくくりにして言うとき、気をつけなければいけない、だまされてはいけない。

  • 【 Q&A.正しい関係とは何か(1) 】
    『 Q: 正しい関係とは何でしょうか。個人と集団・大衆の間に。

    A: 個人と大衆の間に何か関係があるとあなたは思いますか。あなたと集団の間に。 国家、政府は私たちが単に市民、集団であることを好むでしょう。しかし私たちは最初に人間であり、そしてのちに市民です―最初に市民で、のちに人間ではなく。

    国家は私たちが人間、個人ではなく、大衆であるのを好むでしょう。私たちが市民であればあるほど、能力はますます大きく、効率はますます大きいからです―私たちは、官僚、権威主義的国家、政府が私たちにそうであるのを望む道具になります。

    それゆえ、私たちは私的な個人と市民、人間と大衆を見分けなければなりません。個人、人間は彼の私的な感情、希望、失敗、失意、熱望、感覚、快楽を持っています。そしてそのすべてを集団に還元しようと望む視点があります。というのは集団を取り扱うのは非常に簡単であるからです。

    布告を通せ、するとそれはなされる。禁制を与えよ、するとそれは従われる。それゆえ、組織があればあるほど、それらが効率的に組織されればされるほど、ますます個人は否定されます。教会によるにしろ、国家によるにしろ―私たちはそのとき皆キリスト教徒です、皆インド人です、個人ではなく。

    その精神性で、その状態の中で、それを私たちの大抵は望むのですが、個人的実在は何かの場所を持つでしょうか。私たちは集団的な行為がなければならないと認識します。』(K)


    私の学習経過:

    『 正しい関係―個人と集団の間・・

    国家、政府は私たちが市民、集団であることを好む。私たちは最初に人間、のちに市民。

    私たちは、官僚、権威主義的国家、政府が望む道具になる。

    私たちは私的な個人と市民、人間と大衆を見分けなければならない。

    効率的に組織されるほど、ますます個人は否定される。教会、国家―私たちは皆キリスト教徒、皆インド人・・個人でなく。

    私たちの大抵は望む・・個人的実在は何かの場所を持つか。私たちは集団的な行為がなければならないと認識。』

    私たち個人は、集団の中に「人間」である視点が薄れて、宗教や国家の部品として利用されている。戒律・儀式、選挙・支持率の中にまぎれてただ従うこと、個人・人間としての意思を失っていることには、気がつかないようになってしまうのだろうか。

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  • 【 Q&A.命名について(8) 】
    『 しかしこの過程は骨が折れます。それは、内部で心に起こっているあらゆることに、心が絶えず気づいていなければならないということを意味します。この点に到達するためには、初めから終わりまで、何の判断も正当化もあり得ません―これが終わりということではなく。

    終わりはありません、なぜならなお続いている途方もないものがあるからです。約束はありません。実験するのは、中心の多くの層がすべて解消されるようにあなた自身の中に深く、深く入って行くのは、あなたです。そしてあなたはそれを素早く、あるいはぐずぐずとすることができます。

    心の過程を見守ることは途方もなく興味深いことです。いかに心が言葉に依存するか、いかに言葉が記憶を刺激し、死んだ経験を生き返らせて命を与えるか。その過程の中に心は生きています、未来の中にせよ、過去の中にせよ。

    したがって、心理的のみならず神経的にも、言葉は巨大な意味を持っています。どうかこのすべてを私から、あるいは本から学ばないでください。それを他人から学ぶこと、あるいは本の中に見つけることはできません。学んだり本から見つけることは実在のものではないでしょう。

    しかしあなたはそれを経験することができます。行動しているあなた自身を見守ることができます。考えているあなた自身を見守りなさい。どんなふうにあなたが考えるか、どんなに素早くあなたが感情に、それが起きるとき命名しているかを―そしてこの全過程を見守っていることが、心をその中心から解放します。そのとき心は静かであるので、永遠のものを受け取ることができます。』(K)


    私の学習経過:

    『 心に起こるあらゆる過程を見守ることは途方もなく興味深い・・いかに心が言葉に依存、言葉が記憶を刺激、死んだ経験を生き返らせ命を与えるか。

    言葉は巨大な意味・・学んだり本から見つけることは実在ではない。

    行動し、考えている自身を見守る、どんなふうに考えるか、感情に命名しているか。

    全過程を見守ることが、心を中心から解放・・心は静かで、永遠のものを受け取ることができる。』

    心は、事実を・・言葉で見て、言葉で考えるが、言葉は事実から離れて色付けされ、好きなように、都合よく脚色されて・・私たちの生活は「事実から離れて、事実とは違う意味やイメージ」で考え、対応しているのかもしれない。

  • 【 Q&A.命名について(7) 】 
    『 心がもはや、言葉から、過去の経験からつくられた思考者としての中心でないとき―それらはすべて蓄積され、分類に、分類棚に入れられた記憶、ラベルです―そういったことを何もしていないとき、そのとき、明らかに心は静かです。

    それはもはや束縛されていません。「私」としての中心を持ちません―私の家、私の業績、私の仕事―それらはなお言葉であって、感情に対し刺激を与え、それによって記憶を強化します。これらのことが何一つ起きていないとき、心は非常に静かです。

    その状態は否定ではありません。それどころか、その点に到達するためには、あなたはこのすべてを通り抜けなければならず、それは巨大な仕事です。それは単に数組の言葉を学び、それを小学生のように繰り返すことではありません―名付けないこと、名付けないことと。

    その含みをすべてやり抜くこと、それを経験すること、どのように心が働き、それによってもはや命名していないその時点に到達するか見ること、それは思考とは別の中心がもはやないということを意味します―確かに、この全過程は真の瞑想です。

    そして心が本当に平静であるとき、そのとき測ることのできないものが生じることができます。他のどんな過程も、実在を求めるどんな探索も、単に自己投影の、手製のものに過ぎず、それゆえ実在のものではありません。』(K)


    私の学習経過:

    『 心が、言葉・過去の経験・思考者の中心―蓄積、分類、記憶、ラベルでないとき―心は静か。

    私の家、業績、仕事―言葉、感情に刺激、記憶を強化。これらが何一つ起きていないとき、心は非常に静か。名付けないこと。

    思考とは別の中心がないことを意味―全過程は真の瞑想。

    心が本当に平静であるとき、測ることのできないものが生じる。』

    現実の・目の前の・・物や事実に名前・言葉で考えたり、人に伝えるのは・・、記憶・過去であり、私たちは『感情を刺激し、記憶を強化』しながら・・現在を、過去の記憶の中に生きているのだろうか・・・。

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