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    私たちは、誰でもしあわせになりたい、世界が平和であってほしいと願って、勉強して働いて努力して生きています。知識や情報も科学・技術も学問も宗教も進歩・発展して、生活は便利でスピード化して楽になっています。

    さて、私たちは豊富な物と多くの知識を得ることによって、しあわせになったでしょうか。
    生活や勉強や仕事や娯楽に、ほんとうの喜びや充実感を感じているでしょうか。
    世界で、苦しみ・悲しみ・争い・暴力・破壊・戦争は少なくなるどころか、ますます危機的な状況になっているように見えますが、どうしてそんなことになってしまうのでしょうか。

    そのような「生きる」ことの根源にある疑問に、道をさぐっていた私に“道なき道”が見えてきたのは、Kとの出会い(本)でした。
    Kのことばから多くのことを学ぶなかで、「豊かな感受性と生命力に満ちて生き生きしていた子どもが、成長するにしたがってどうしてつまらない大人になってしまうのか。どうしてこんな“腐った社会”をつくってしまったのか」という疑問に対して、「知識・経験・信念という過去の固定した観念と、それを不安からの安定・永続願望によって未来に引きのばした理想や目的に執着して“事実”から逃避してしまった大人よりも、知識・経験が少ないからこそいつも今・現在目の前にある事実を自分の目で見て行動する子どもの方が、大人のくもった目には見えなくなってしまった事実・ありのまま・ほんとうのことが見えている」ことが、私の目には「事実」として見えてきたのです。

    今まで生活や行動をともにして語り合ってきた中学生たちや、新聞の声・掲示板で出会う子どもたちから学ぶことは多く、それはいつも新鮮であり発見であり“生きている”のです。
    そのようなことから、私はここで「生きるとはどのようなことなのか」「ほんとうのこと・真実とは何なのか」という根本的な問いを探究し、事実・ありのままを見て聞いて理解することの重要性を学んでいるKの『子供たちとの対話』を主体にその他の本からもことばを紹介しながら、今までにそしてこれからも出会う「子どもたちとの対話」ができることなら,そのような交流を通して「みなさんといっしょに学んでいきたい」と思っています。

    「子どもたちとの対話」と言いながら、私の場合は時間的にゆっくり進めたいということもあって、返信も皆さんのことばに何かを感じて書く気持ちになったものに限られてしまいます。
    今までも1・2週間から1ヵ月・2ヵ月すぎて、「忘れたころ」になってしまうようなこともありましたが、これからも「ひとりごと」として書くことも多くなると思います。

    みなさんが自由に書いて、議論するのもいいかと思いますが、私は基本的に議論するつもりはありません。どちらが正しいのかとか、正当化したり非難するのは、「事実をありのままに理解する」のをさまたげるのではないかと見ています。

    そのことについて、Kのことばがあります。
    『 私たちは本当に話を聞くことができなければなりません。「本当に聞く」とは、完全な注意を注ぐということであって、同意や反対をすることではないのです。』(K) 

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    mum***** 5月20日 15:12

    【 Q&A.命名について(3) 】
    『 あなたが命名する核は何でしょうか、常に命名し、選択し、ラベルをつけている中心は何でしょうか。私たちが行為し、判断し、命名している中心、核があると感じているのではないでしょうか。

    その中心、その核は何でしょうか。精神的精髄、神、と思いたいかもしれません。それゆえ、命名し、判断しているその核、その中心が何であるか見出しましょう。

    確かにその核は記憶ではないでしょうか。同一化され、囲い込まれた一連の感覚―現在を通して生命を与えられた過去。その核、中心が命名、ラベル貼り、回想を通じて現在を養います。

    私たちはそれを解明するとき、この中心、核が存在する限り理解はありえないのを見るでしょう。理解があるのはこの核の消失したときだけなのです。なぜなら、結局その核は記憶であるからです。様々の経験の記憶、それが名前、ラベル、同一化を与えてきました。

    それらの名づけられた、ラベルを貼られた経験の中心が、経験の記憶の感覚、快楽と苦痛にしたがって、受容と拒否の決定をしているのです。それゆえ、その中心は言葉です。名前を付けなければ、その中心はありますか。

    言葉の観点で考えないなら、言葉を使わないなら、あなたは考えることができますか。思考することは言語化を通して生じます。あるいは、言語化は思考することに応答し始めます。その中心、核は、言語化された、快と苦の数え切れない経験の記憶です。

    どうか、それをあなた自身の中で見つめてください。そうすれば言葉やラベルが実体よりはるかに重要になっているのが、そして私たちが言葉の上で生きているのがわかるでしょう。』(K)


    私の学習経過:

    『 命名、選択、判断する中心は・・記憶―現在を通して生命を与えられた過去。理解はありえない。

    言葉を使わないなら、考えることができるか。思考は言語化で生じる―中心、核は、言語化された、快と苦の数え切れない経験の記憶。

    ・・言葉やラベルが実体よりはるかに重要、言葉の上で生きている。』

    現在を見ながら・・私たちはいつも「考えて」いる・・それは言葉であり、記憶であり、過去でもある。
    言葉を覚えていない小さな子どもは・・考えないで「見る」―記憶・過去が少ないからだ。
    成長と教育は・・「実体を見る」ことから「言葉の上で生きている」ことに変化することなのか・・・。

  • おはようございます
    何ぼ対話しても治るものではない。少し陰りが晴れるだけ。心は治っていないです。

  • 【 Q&A.命名について(2) 】
    『 単に伝達するだけでないとき、花に、何かに名前をつけるとき何が起こるでしょうか。どうかそれを追ってください、それを私と考え抜いてください。

    あるものに名前を付けることによって、私たちは単にそれをある範疇に入れたに過ぎません。そして私たちはそれを理解したと思うのです。それをもっと綿密に見ません。しかし、名前を付けないなら、それを見るように強いられます。

    すなわち、花に、あるいはそれが何であっても、新しさを伴って、調査の新しい性質を伴って接近します。まるで以前に決して見たことがないかのようにそれを見ます。命名することは人々を処理する非常に簡便なやり方です―彼らはドイツ人だ、日本人だ、アメリカ人だ、インド人だと言う事によって。

    彼らにラベルを貼り、ラベルを破壊します。しかし、人々にラベルを貼らないなら、あなたは彼らを見るように強いられます。そのとき誰かを殺すことはずっと困難です。あなたはラベルを爆弾で破壊することができ、正しいと感じます。

    しかしラベルを貼らないで、したがって個々のものを見なければならないなら―それが人であろうが、花であろうが、出来事であろうが、感情であろうが―そのときあなたはそれとの関係を熟考するように強いられ、そして行為があとを継ぎます。

    それゆえ、名称をつけること、あるいはラベルを貼ることは何かを処理する、否定する、非難あるいは正当化する、非常に簡便なやり方です。それが問題の一つの側面です。』(K)


    私の学習経過:

    『あるものに名前を付けることによって、私たちは理解したと思う。もっと綿密に見ない。

    名前を付けないなら、見るように、関係を熟考するように強いられ、行為があとを継ぐ。

    名称、ラベルは、何かを処理、否定、非難・正当化する、非常に簡便なやり方』

    物や考えに名前を付けるのは、「区別し、記憶、記録、言葉で考え、人に伝える―生活・教育・社会活動に必要」だが、「言葉なしに何かを見る、考える、記憶する」ことも確かにある。

    だが、名前を付けるのは、重なって境目がない物や考えをどこかで区切って区別することでもあり、その名前で解っていると思いこみ、物や考えを「よく見る」「過去の記憶・知識・経験にとらわれないで、いま現在の目で見る」ことがおろそかになってしまうことも明らかです。

  • こんばんは
    人間まともに育って無いとダメですよ。まじめにまともに書いてくださいね。

  • 【 Q&A.命名について(1) 】
    『 Q: 命名、あるいはラベルを貼ることなしに、どうやって感情を意識できるでしょうか。私が意識したなら、それが起こると、瞬時にその感情が何であるか分かっているように思われます。あなたが「命名してはいけない」と言うとき、別のことを意味しているのでしょうか。

    A: これは非常に難しい問題です。多量の考えと、全内容に気づくことを要します。私が説明するとき、あなたが単に言葉の上でなく、経験することを通してついていくことを望みます。

    この問題を深く理解できるなら、私たちは多くのことを理解すると感じます。私は時間の中でできるなら、様々な方向から接近するようにします。それは非常に込み入った、微妙な問題だからです。

    それはあなたのすべての注意を必要とします。私たちが議論していることを、単に聞いて後ほどそれを経験しようとするのでなく、あなたはいま経験しているからです。後ほどはありません。あなたはいま、常にいま、経験するか、あるいは決して経験しないかどちらかです。

    さて、なぜ私たちは何かに名前をつけるのでしょうか。なぜ私たちは花に、人に、気持ちにラベルを貼るのでしょうか。自分の気持ちを伝達するため、花を描写するため、などなど。あるいはその気持ちと同一化するためではないですか。

    私は伝達するために、物や感情に名前を付けます―「私は怒っている」。あるいはその感情を強めたり、消したり、何かをするためにその気持ちと同一化します。私たちはあるものに、バラに、ほかの人に伝えるために名を付けます。

    名前を付けることによって、理解したと思うのです。素早くそれを見て「それはバラだ」と言い、先へ進みます。名前を付けたことで、私たちはそれを理解したと思うのです。私たちはそれを分類し、その花の全体と美しさを理解したと思うのです。』(K)


    私の学習経過:

    なぜ花や木や自分の感情に名前を付けるのか・・あたりまえのことで、普段考えたこともないことですが、改めて考えてみましょう。
    思いつくのは・・物を区別して、記憶したり、記録したり、人に伝えて話し合うときにも必要です。それがないと、生活や教育など社会活動が進まず、滞って、私たちの学習活動にも大きな困難をもたらすことは明らかなようですが・・・。
    あらためて、「命名・名前を付ける」ことの意味を考えてみましょう。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(5) 】
    『 成功したい、獲得したい、達成したいというあなたの欲望のすべての蓄積的な影響―理解を否定―に気づいてください。なぜなら、生の全体の過程の理解は欲望を通じては生じません―自発的な出会いがなければなりません。

    この心理的過程の全部を、外側の表現だけでなく見ることができるなら―いかにすべての政府、社会、様々な共同体があらゆる無情さを伴って効率を要求するか―そのとき、心は多分その慣れている習慣からつながりを断ち始めるでしょう。そのとき、実際に自由であるでしょう。もはや手段を求めていないでしょう。

    心が静かであるとき、あの創造的なものが生じます。それが創造それ自体です。それ自身の表現を見出すでしょう。あなたがそのための表現を選ぶ必要はありません。あなたが画家であるなら絵を書くでしょう。活力があり、優美を与え、幸福を与えるのは創造的な理解です―あなたが学んだ何かの技法的な表現ではありません。

    それゆえ、実在、神、あるいはそういったものは、技法を通じて、手段を通じて、長い、決心した練習と訓練を通じて生じることのないものです。既知の目的と共に並べられた道順ではありません。人は海図にない海に入らなければなりません。単独性がなければなりません。

    単独は手段のないことを意味します。手段を持っているときあなたは単独ではありません。完全に裸であること、蓄積された練習、希望、快楽、安全を求める願望のすべてが空(から)であることがなければなりません―それらはすべて手段、方法、技法を変わることなく保持することです。

    そのときのみ、もうひとつのものがあり、問題が解決します。瞬時瞬時死んでいる、したがって再生している人は生に出会うことができます。彼が生とは別であるということではありません。彼は生です。』(K)


    私の学習経過:

    『欲望の蓄積的な影響は理解を否定。人は海図にない海に入らなければ。

    そのときのみ、問題が解決。瞬時瞬時死んでいる、再生している人は生に出会うことができる。』

    技法・手段・訓練によって、成功・獲得・達成を求める欲望は理解に至らない。過去の繰り返し・積み重ねでなく、目的・達成の意志からも自由に・・現在のありのままの事実を見て、つねに新しく理解し対応していくことによって、人は真の意味で生に出会うことができるようです。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(4) 】
    『 私たちの大抵が方法、技法を求めているのは何故でしょうか。明らかに私たちは確かであること、間違えることなく確実であることを望みます。私たちは試みること、発見することを望みません。

    技法の実践は瞬時瞬時の発見を妨げます。なぜなら真理、あるいはそういったものは瞬時瞬時であり、それは連続的、増大、成長ではありません。

    私たちは確かでありたい、習慣、実践を養成したいという心理的衝動から自由であることができるでしょうか。これらは皆抵抗、防衛です。この防衛機構を持って、私たちは活力ある、素早いものを理解しようと望むのです。

    私たちがそれを見ることが、手段の養成、あるいは手段を求める探索に含まれる意味を見ることができるなら、その心理的意味を見ることができるなら―単に表面的あるいは工業的意味だけでなく、そのことは明白です。

    充分に私が説明しているとき、あなたと私がそれを試しているとき理解できるなら、私たちはそれから自由であることがどういうことか発見できるでしょう。  

    心理的に、安全でありたいという欲望から自由であることはできるでしょうか。技法、手段は安全を提供します。あなたは溝の中を走ります。そのとき、うまく行くとか行かないということはありません。

    あなたは単に自動的に作動しているに過ぎません。習慣、手段を養成するために何世紀も訓練されてきた心ができるでしょうか―そのような心が自由であることができるでしょうか。

    それは、私たちが習慣の全意義、その弾みの全体の過程を理解するときのみ可能です。私がそれを話しているとき、静かにあなた自身の過程を観察してください。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちが方法、技法を求めるのは何故か・・確実を望み、試みる、発見することを望まない。

    技法の実践は瞬時瞬時の発見を妨げる。真理は瞬時瞬時。

    心理的に、安全でありたいという欲望から自由であることはできるか。

    習慣、手段を養成するために何世紀も訓練されてきた心が自由であることができるか。』

    私たちは、未知に対する失敗を恐れて、安全・確実と思われる過去の知識・技術・経験に依存するのだが、新しい、生きている、出会い、発見は・・未知の、現在の中に、瞬間瞬間の中にしか見い出すことができないのかもしれない。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(3) 】
    『 なぜなら、創造的な衝動があるとき、それはそれ自身の技法、あるいは表現のそれ自身の手段を見いだすでしょうから。しかし技法の養成に夢中になる、熱中するなら、明らかにもうひとつのものを決して見いださないでしょう。

    私たちが技法を、確かさ、効率、継続性、持続する努力を私たちに授ける、行為の心理的な型を欲するのは何故でしょうか。結局、宗教的な本をどうしても読むなら、それの大部分は、私はまったく確信しますが―私がそのいずれかを読んだということではなく―やり方を含んでいます。

    やり方が重要になります。なぜならやり方は目標を指し示すからです。したがって目標はやり方と異なります。手段は目的と違うでしょうか。もし、心理的に、習慣、方法、手段、やり方、技法を養成するなら、目的はすでに投影され、すでに具体化されていないでしょうか。

    したがって、手段と目的は別個のものではありません。すなわち、暴力的な方法によって世界の中に平和を持つことは、どんなレベルにおいてもできません。手段と目的は分離できないものです。

    習慣を養成する心は、すでに予見される、すでに養成される、すでに存在する、心によって投影された目的をつくり出します。そしてそれが私たちの大抵が欲していることです。技法は単に既知のもの、安全、継続の養成です。

    既知のもので、心は未知のものを認識しようと望むのです。したがって、それは決してそれを理解できません。それゆえ、手段が問題です、目的ではなく。なぜなら、目的と手段は一つであるからです。それゆえ、習慣、やり方、技法を養成する心は創造性、自然発生的な発見のあの途方もない感覚を妨げます。』(K)


    私の学習経過:

    『 手段と目的は別ではない。暴力的な方法によって世界の中に平和を持つことは、どんなレベルでもできない。

    既知のもので、心は未知のものを認識しようと望む。決して理解できない。手段が問題、目的でなく、目的と手段は一つであるから。習慣、やり方、技法を養成する心は創造性、自然発生的な発見の途方もない感覚を妨げる。』

    私たちの心は、すでに知っている過去の知識・経験によって、現在の「未知」のものを理解していると思いこむように育てられ、教育されているが・・それは、先に生まれたものが後のものを支配しようとする欲望なのかもしれない。

  • おはようございます
    子供たちから何を学ぶのですか。一つだけで良いですから書いてください。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(2) 】
    『 私たちは生に出会うのに、工業的技法の精神を持ち越すのです。生に効率的に出会いたいのです。方法を必要とすると思うのです。

    大抵の宗教団体、教師は方法を提供します。どうやって平和、幸福、平穏な心を持つか、集中するかなど。

    効率があるところ、無情さがあります。ますます不寛容で、閉じて、抵抗するのです。次第に高慢の感覚を発達させ、高慢は明らかに分離することです。

    それは理解することに対して破壊的です。私たちは効率的な人たちを賞賛します。世界中の政府は効率の養成と、効率の組織に関わっています。生産する、殺すための、政党 教会 特定宗教のイデオロギーを実行するための効率。私たちは皆効率的でありたいのです。

    そのために型を求める心理的な要求を深め、その型に効率を達成するために従うのです。効率は、技法・方法の養成を意味しますが、心理的に、習慣の絶え間ない実行を意味します。

    私たちは工業の習慣について知っていますが、抵抗という心理的習慣をほとんど知りません。それが大部分の人の求めていること、そんなにも素早い生に出会うために私たちを効率的にする習慣の養成ではないということが私はまったく確かでありません。

    それゆえ、この技法、方法、手段の養成の全過程を、言葉のレベルだけでなく、深い心理的なレベルでも理解することができるなら、創造的であるということが何であるかを私たちは理解することができるだろうと私は思います。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちは生に出会うのに、工業的技法の精神・・生に効率的に出会い、方法を必要と思う。

    宗教団体、教師は方法を提供。平和、幸福、平穏な心、集中するか。

    効率は、無情さ、効率的・・不寛容で、閉じて、抵抗する。高慢の感覚を発達、分離。

    理解に破壊的。効率的な人たちを賞賛。世界中の政府は効率の養成と組織に関わる。生産、殺すための政党 教会、イデオロギーを実行する効率。

    技法、方法、手段の養成の全過程を、言葉のレベルだけでなく、深い心理的なレベルでも理解できるなら、創造的であることが何であるか理解できる。』

    社会は、私たちの心ですが、効率・方法を親・教師・指導者・政府・宗教の教えに従って、指導され従うのですが、そんな社会・人の心は・・はたして創造的なのだろうか。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(1) 】
    『 私は今朝、技法、方法、やり方の養成に含まれる意味が何であるか、そしてそれが言葉の上のレベルのみならず深い心理的なレベルで、いかに心を鈍くするか議論したいと思います。なぜなら私たちは大抵非創造的であるからです。

    私たちは、少々絵を描き、たまには一二の詩を書いたり、まれには美しい風景を楽しむかもしれません。しかし大抵は、私たちの心はやり方、習慣に捕えられ、それは技法の一形態なのですが、そのため私たちは超えることができるようには思われません。

    生の問題は方法を必要としません。なぜならそれらは非常に活発で、非常に生き生きとしているので、私たちがそのどの一つにでも固定した型、方法、やり方で近づくなら、私たちはすっかり誤解してしまい、その問題に適切に出会わないだろうからです。

    私たちの大抵は技法、方法を望むのです。なぜなら問題、生の運動は非常に生き生きとしていて、活発で、素早いので、心はそれに、明晰さを持って、速く素早く出会うことができないからです。それで、私たちは他人から仕方、方法、技法、やり方、手段を学ぼうとします。

    手段を持つとき、私たちは目的、結果を強調します。私たちは問題それ自体の理解より結果により多く関心があるのです。結果が何であるにしても。私たちの大抵が、幸福のために、考える正しいやり方のために、心の平和や魂の平和のために、あるいは何であれ、方法を求めるのはなぜでしょうか。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちの心はやり方、習慣に捕えられ、それは技法の一形態で非創造的。

    生の問題は方法を必要としない。非常に活発で、生き生きとしているので、固定した型、方法で近づくなら、問題に適切に出会わない。

    私たちは他人から仕方、方法、技法、やり方、手段を学ぼうとします。

    問題それ自体の理解より結果により多く関心がある。結果が何であるにしても。』

    私たちの「生の問題」について、過去や他人から方法、手段を学ぶのですが、それは『非常に生き生きとしていて、活発で、素早い・・生の運動』に出あうことが、そして「理解」することができないようです。

  • 【 なぜ信じるか(4) 】
    『 信念を求める欲求が理解されないとき、信念は妨害になります。それが理解されるとき、信念の問題はありません。あなたは事実に、ありのままに向き合うことができます。

    仮に死後の継続があるとしても、現在の生きる問題を解決するでしょうか。生は今です、明日でなく。そして現在を理解するためには、私は信じなければならないでしょうか。

    確かに、現在を理解するためには、それは生です、それは単に時間の期間ではありません、私はその現在に、それに十分な注意を注いで、完全に出会うことのできる心を持たなければなりません。

    しかし私の注意が信念によって逸らされている場合は、確かに現在に、完全に、充分に出会うことはありません。それゆえ、信念は実在を理解することへの妨害になります。実在は未知のものであり、そして信念は既知のものであるので、どうして既知のものが未知のものに出会うことができるでしょうか。

    しかし私たちの困難は、私たちが既知のものを持ちつつ未知のものを望むことです。私たちは既知のものを手放そうと望みません。なぜなら未知のものはあまりに恐ろしく、大きな不安定、不確かさがあるからです。

    そしてそれが、私たち自身を防護するために、信念で私たち自身を囲って守る理由です。あなたが発見するのは、不確実の、不安定の状態の中でだけです。その中に隠れ家の感覚はありません。それがあなたが見い出すためには途方にくれなければならない理由です。

    しかし私たちは途方にくれたくないのです。そして途方にくれるのを防ぐため、私たちを保護する手製の信念と神々を持つのです。そして真の危機の瞬間がくるとき、これらの神や信念は価値がありません。それゆえ、あるがままのものを本当に発見したい人にとって、信念は障害です。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちは既知のものを手放そうと望まない。未知のものは恐ろしく、大きな不安定、不確かさがあるから。

    あなたが発見するのは、不確実の、不安定の状態の中でだけ。

    私たちは途方にくれたくないので、保護する信念と神々を持つ。あるがままのものを発見したい人にとって、信念は障害。』

    生きるのは現在・・どうなるか不安で恐ろしいので、過去である知識・信念に頼るのだが、不安に向き合うときに理解と新し発見があるようです。

  • 【 なぜ信じるか(3) 】
    『 それゆえ、信念、言葉、が重要になりました。ラベルが重要になりました。もしも私が私自身を、その含む意味すべてを伴ってインド人と呼ばないなら、私は途方にくれるでしょう。私はアイデンティティを持たないでしょう。

    しかし私自身を、インド人として、インドと同一視することは、私に驚くべき威信を与えます。それは私を位置付けます。固定します。価値を与えます。それゆえ、ラベルなしには私が途方にくれることに、意識的にせよ無意識的にせよ心理的に気づくとき、信念は必要物になります。

    そのときラベルが重要になります―私のあるがままではなくてラベル、キリスト教徒、仏教徒、ヒンズー教徒、が。そして私たちはそのとき、それらの信念にしたがって生きようとします。それらの信念は自己投影されていて、したがって実在ではありません。

    確かに神を信じる人、彼の神は自己投影の神、手製の神です。しかし神を信じない人もなお同じです。それが何であるか、その至高のものを理解するためには、ひとは新鮮に、新たに、信念に束縛されないで、それに到達しなければなりません。

    そしてそれが私たちの困難であると思います―社会的に、経済的に、政治的に、そして私たちの個人的な関係の中で―、すなわち、私たちは皆、これらの問題に偏見を持って接近します。

    そして問題は活気があり、生きているので、それらに適切に出会うことができるのは、心が新しくて、何かの自己投影された手製の信念に束縛されていないときだけです。』(K)


    私の学習経過:

    『 信念、言葉、ラベルが重要に。私自身をインド人と呼ばないなら、途方にくれる。インドと同一視することは、驚くべき威信を与え、位置付け、固定し、価値を与える。信念は必要物になる。

    ラベルが重要に―私のあるがままではなくてラベル、キリスト教徒、仏教徒・・の信念にしたがって生きる。

    至高のものを理解するには、新鮮に、新たに、信念に束縛されないで到達しなければならない。

    問題は活気があり、生きている・・適切に出会うのは、心が新しく、何かの自己投影された手製の信念に束縛されないときだけ。』

    何か自分の頼れるものと自身を同一視して「信じる」のは、「依存」であり「過去」であって、「生きている現在・自分・ありのまま」を見る・理解することからの逃避なのかもしれない。

  • おはようございます
    人間書いて頂けませんか。求めているものなんですか。

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