ここから本文です
  • 1

    私たちは、誰でもしあわせになりたい、世界が平和であってほしいと願って、勉強して働いて努力して生きています。知識や情報も科学・技術も学問も宗教も進歩・発展して、生活は便利でスピード化して楽になっています。

    さて、私たちは豊富な物と多くの知識を得ることによって、しあわせになったでしょうか。
    生活や勉強や仕事や娯楽に、ほんとうの喜びや充実感を感じているでしょうか。
    世界で、苦しみ・悲しみ・争い・暴力・破壊・戦争は少なくなるどころか、ますます危機的な状況になっているように見えますが、どうしてそんなことになってしまうのでしょうか。

    そのような「生きる」ことの根源にある疑問に、道をさぐっていた私に“道なき道”が見えてきたのは、Kとの出会い(本)でした。
    Kのことばから多くのことを学ぶなかで、「豊かな感受性と生命力に満ちて生き生きしていた子どもが、成長するにしたがってどうしてつまらない大人になってしまうのか。どうしてこんな“腐った社会”をつくってしまったのか」という疑問に対して、「知識・経験・信念という過去の固定した観念と、それを不安からの安定・永続願望によって未来に引きのばした理想や目的に執着して“事実”から逃避してしまった大人よりも、知識・経験が少ないからこそいつも今・現在目の前にある事実を自分の目で見て行動する子どもの方が、大人のくもった目には見えなくなってしまった事実・ありのまま・ほんとうのことが見えている」ことが、私の目には「事実」として見えてきたのです。

    今まで生活や行動をともにして語り合ってきた中学生たちや、新聞の声・掲示板で出会う子どもたちから学ぶことは多く、それはいつも新鮮であり発見であり“生きている”のです。
    そのようなことから、私はここで「生きるとはどのようなことなのか」「ほんとうのこと・真実とは何なのか」という根本的な問いを探究し、事実・ありのままを見て聞いて理解することの重要性を学んでいるKの『子供たちとの対話』を主体にその他の本からもことばを紹介しながら、今までにそしてこれからも出会う「子どもたちとの対話」ができることなら,そのような交流を通して「みなさんといっしょに学んでいきたい」と思っています。

    「子どもたちとの対話」と言いながら、私の場合は時間的にゆっくり進めたいということもあって、返信も皆さんのことばに何かを感じて書く気持ちになったものに限られてしまいます。
    今までも1・2週間から1ヵ月・2ヵ月すぎて、「忘れたころ」になってしまうようなこともありましたが、これからも「ひとりごと」として書くことも多くなると思います。

    みなさんが自由に書いて、議論するのもいいかと思いますが、私は基本的に議論するつもりはありません。どちらが正しいのかとか、正当化したり非難するのは、「事実をありのままに理解する」のをさまたげるのではないかと見ています。

    そのことについて、Kのことばがあります。
    『 私たちは本当に話を聞くことができなければなりません。「本当に聞く」とは、完全な注意を注ぐということであって、同意や反対をすることではないのです。』(K) 

  • <<
  • 1170 1151
  • >>
  • 1170(最新)

    mum***** 2月18日 17:28

    【 Q&A. 過去の記憶・知識・経験によって現在を理解できるか(4) 】
    『 挑戦に対する応答の適切さは、知識ではなく、以前の記憶ではなく、その新しさ、新鮮さに依存します。そして蓄積された経験の継続があるとき、その新鮮さは否定されます。その再生の性質は否定されます。したがって、各瞬間に終わりが、各瞬間に死がなければなりません。

    おそらく幾人かの方はこのように話すことはいかにも結構だと感じるかもしれませんが、あなたが実際にそれを実験するなら、あなたはいかに途方もなく、いかに速やかに挑戦を理解するか、いかに深く挑戦にかかわるか、そして単にそれに反応するに過ぎないのではないのが見えるでしょう。

    確かに、人が理解するのは、新しく新鮮である心自身を、心が再生できるときだけです―「あけっ広げ」なのではなく。そのときそれはざるのようです。問題は常に新しいので―悲しみは常に新しいのです、単に他の何かの記憶に過ぎないのでなく、真の悲しみであるなら―、あなたはそれを理解しなければなりません。

    それに新鮮に近づかなければなりません。新鮮な心を持たなければなりません。それゆえ、個人的あるいは集団的な経験の蓄積としての知識、そのような知識は理解することに対する障害です。』(K)


    私の学習経過:

    私たちの日々の生活は、晴れたり雨が降ったりの、そして春夏秋冬の繰り返しになっているようですが、実は同じものはないのかもしれない。それに何より私たち生き物は、目に見えないものも含めて日々変化している。日々刻々変化する生き物も土も空も、つねに変化し、生まれ変わっているのだ。

    だが私たちは、現在も過去と同じ繰り返しだと思って、いつも過去を振り返り、過去から逃れられない・・と思いこんでいるのだ。それが、教育・指導・読書・学習・成長の本質になっているのではないか。そこには新しい挑戦はなく、古いものの繰り返しになっている。

  • おはようございます
    お書きはハジメが全然ない。ハジメを書いてください。よろしくお願いします。

  • 【 Q&A. 過去の記憶・知識・経験によって現在を理解できるか(3) 】
    『 まず第一に、挑戦はいつも新しいことを見なければなりません。それは新しいに違いありません。さもなければそれは挑戦ではありません。問題は常に新しい問題です。なぜならそれは瞬時瞬時変化しているからです。

    そしてそれがそうしていないなら、それは問題ではありません。それは静的です。それゆえ、挑戦が新しいなら、心は新しくなければなりません。それはそれに新鮮に到達しなければなりません。

    そして過去によって荷を負わされていてはなりません。しかし心は過去のものです。したがって、心は静かでなければなりません。問題が非常に大きいとき、ほとんど思考なしに、私たちは本能的にこうします。

    問題が本当に新しいとき、心は静かです。それはもはやしゃべっていません。もはや蓄積された知識によって荷を負わされていません。そのとき、その新しさをもってそれは応答し、それゆえ挑戦の理解があります。

    確かに、それがどんなふうにすべての創造性が起こるかです。創造、あるいは創造性のあの感覚は瞬時瞬時です。それは蓄積を持ちません。あなたはその創造性の表現のための技術を持っているかもしれません。

    しかしその創造性の感覚が生じるのは、心が絶対に静かで、もはや過去によって、心が集めた無数の経験、感覚によって、荷を負わされていないときだけです。』(K)


    私の学習経過:

    『挑戦はいつも新しい。問題は常に新しい。瞬時瞬時変化。心は新しく新鮮に到達しなければ。

    問題が本当に新しいとき、心は静か。蓄積された知識によって荷を負わされていない。新しさをもって応答、それゆえ挑戦の理解がある。

    創造性のあの感覚は瞬時瞬時。蓄積を持たない。過去に心が集めた無数の経験、感覚によって、荷を負わされていないときだけ。』   

    「生きる」ことは「現在」であり、記憶・知識・情報・習慣はすべてがいまは生きていない固定し、死んだ「過去」なのだが、人は、社会は・・その過去に頼り、依存し、囚われている。それは人間の心が死んでいることを意味するのかもしれない。

  • 【 Q&A. 過去の記憶・知識・経験によって現在を理解できるか(2) 】
    『 応答とは何でしょうか。応答は様々の経験の集積の結果です―記憶、様々な経験の感覚。経験それ自体ではなくて記憶と経験の感覚。したがって挑戦に出会うのは感覚です。挑戦に出会うのは記憶です。

    それが蓄積された知識と私たちが呼ぶものではないでしょうか。したがって、知識は常に既知のもの、過去のもの、条件付けられたものです。条件付けられたものが、無条件のもの、挑戦に出会います。

    それゆえ、二つのものの間に関係はありません。そのときあなたは、条件付けられた心、条件付けられた応答に従って挑戦を翻訳します。そしてそれは障害ではないでしょうか。

    それゆえ、どうやって挑戦に適切に出会うかが問題です。私がそれに私の過去の経験と共に出会うなら、それは適切でないことを非常によく見ることができます。

    そして私の心は過去のものです。私の思考は過去のものの結果です。それゆえ、思考が挑戦に出会うことができるでしょうか―思考、知識の所産、様々な経験の結果などが。思考は挑戦に出会うことができるでしょうか。思考は条件付けられているので、どうして思考がそれに出会うことができるでしょうか。

    思考はそれに部分的に、したがって不適切に出会うことができます―それゆえ、摩擦、苦痛、その他すべてがあります。それゆえ、挑戦に出会う違ったやり方があるのではないでしょうか。そしてそのやり方、その過程は何でしょうか。それがこの問題に含まれていることです。』(K)


    私の学習経過:

    私たちの生活、生はすべてが新しい事実との出会い―挑戦であるが・・・

    『 挑戦に出会うのは感覚・記憶―蓄積された知識。

    知識は常に既知、過去、条件付けられたもの。条件付けられたものが、無条件の挑戦に出会う。

    条件付けられた心、応答に従って挑戦を翻訳・・それは障害。

    私の心・思考は過去の結果・・挑戦に出会うことができるか―思考、知識、経験の結果など。

    思考は部分的に、不適切に出会う―摩擦、苦痛、すべてがある』

    記憶・知識はすべてが過去―条件づけられた、限定的な思考であって、「現在」の「事実」を「ありのままに見る―理解」ではなく、挑戦に不適切に対応することになる。

  • 【 Q&A. 過去の記憶・知識・経験によって現在を理解できるか(1) 】
    『 Q: 過去の経験は、現在における自由と正しい行為に向かっての助けでないでしょうか。知識は障害でなく、解放する要素であることはないのでしょうか。

    A: 私たちは過去を通して現在を理解するでしょうか。経験の蓄積を通して私たちは何かを理解するでしょうか。知識とは何でしょうか。

    理解することを与えてくれるとあなたが言う、経験の蓄積とは何でしょうか。そういったすべては何でしょうか。そして過去の経験とは何でしょうか。

    それを少々調べましょう。なぜなら、過去が、それはあなたの出来事の、経験の記憶の蓄積ですが、あなたに現在の経験の理解を与えるかどうかを見出すことは非常に重要であるからです。

    さて、経験があるとき何が起こりますか。その過程は何でしょうか。経験とは何でしょうか。挑戦と応答、そうでないでしょうか。それが私たちが経験と呼ぶものです。

    さて、挑戦は常に新しいに違いありません。さもなければそれは挑戦ではありません。そして私が私の過去の条件付けにしたがって応答するなら、私はそれに適切に、充分に、完全に出会うでしょうか。私はそれを理解するでしょうか。

    何といっても、生は挑戦と応答の過程です。それは休みなく続く過程です。そして応答が不適切であるとき、挑戦と応答の間に摩擦があります―悲しみ、苦痛があります。

    応答が挑戦に等しいとき、そのとき調和があります。そのとき挑戦と応答の間に統合があります。さて、挑戦に対する私の応答は、それが過去の種々の経験に基づいているなら、そのような応答は適切でありうるでしょうか。それは同じレベルで挑戦と出会うことができるでしょうか。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちは過去を通して現在を理解するか。経験の蓄積を通して理解するか。知識とは何か。』

    私たちは生まれたときから・・言葉・道具・食事・生活の方法・手段を、親や社会の教育によって学んで成長してきた。これは過去の知識・経験の繰り返し。
    けれども、現在、目の前の風景・出来事をどのように見て、考えて、行動するか・・・「現在」を見て、過去の記憶を捨てて「理解」し「行動」しているか・・という問いかけ。  

    『 生は挑戦と応答・・挑戦は常に新しい。過去にしたがって応答するなら、適切に、充分に、完全に理解するか。』

  • 【 支配と服従(7) 】
    『 私はいくつかの質問を持っています。しかしそれに答える前に、ノートをとっている方はそうすべきでないと言ってよろしいでしょうか。

    理由を説明しましょう。私は集団でなく、個人に、あなたに話しています。あなたと私は一緒に あることを経験しています。あなたは私が言っていることをノートにとっているのではなく、経験しているのです。私たちは一緒に旅に行っているのです。

    そして単にノートを取ることに関わっているなら、あなたは本当に聞いてはいないのです。あなたはそれをじっくり考えるために書き下ろす、あるいはここにいないあなたの友人に告げるためにと言うでしょう。しかし、確かにそれは重要ではないのではないでしょうか。

    重要なことはあなたと私が理解することです。そして理解するためには、あなたは全部の注意を注がなければなりません。そしてノートをとっているとき、どうして全部の注意を注ぐことができるでしょうか。どうか、このことの重要さを見てください。

    するとそのときあなたは自然にノートをとることを止めるでしょう。あなたは強制される必要はありません、告げられる必要はありません。

    なぜなら、これらの会合で重要なことは非常に多くの言葉ではなく、背後の内容、心理的な含蓄であるからです。そしてあなたが充分な注意を、意識的な注意を注がない限り、それらを理解することはできません。』(K)


    私の学習経過:

    『 私は集団でなく、個人に、あなたに話している。あなたと私は一緒に経験している。

    単にノートを取ることに関わっているなら、あなたは本当に聞いてはいない。じっくり考えるために、友人に告げるため・・それは重要ではない。

    重要なことはあなたと私が理解すること。理解するためには、全部の注意を注がなければならない・・このことの重要さ。

    重要なことは非常に多くの言葉ではなく、背後の内容、心理的な含蓄・・充分な注意を、意識的な注意を注がない限り、理解することはできない。』

    『全部の注意を注ぐことの重要さ』・・とは、そういうことなのか・・・。『背後の内容、心理的な含蓄』を見るためには、『充分な注意、意識的な注意を注がない限り、理解することはできない。』という。
    私たちの生活は、現在を注意して見ていないのですね・・・。

  • こんにちは。
    これだけ書いて何故不登校者減らないの?。もっと他に違う処し方あると確信している。

  • >>1158

    こんにちは。
    あなたは人間育ってない。だから書いている。これ何という。底抜けの馬鹿という。

    あなたを育てた親が肝心要のこと何も教えなかった、と云うことだよ。

  • 【 支配と服従(6) 】
    『 支配しようとする無意識の欲求を伴う、奉仕したいという欲求はもっとずっと取り扱うことが困難です。支配があるとき愛があり得るでしょうか。

    あなたは愛していると言い、しかも支配している誰かに対し関係していることができるでしょうか。そのとき、確かに、あなたは単に利用しているに過ぎないのです。利用があるとき、関係はないのではないでしょうか。

    それゆえ、この問題を理解するためには、支配の問題全体に対し敏感でなければなりません。支配すべきでない、あるいは従順であるべきだということではありません。この問題全体に対する気づきがなければなりません。

    気づいているためには、一方を支持することなく、何の非難もなしにそれに接近しなければなりません。それはするのが非常に困難なことです。なぜなら、私たちは大抵非難するように傾くからです。

    理解していると私たちは思うので非難するのです。私たちは理解していません。非難するやいなや、私たちは理解することを止めているのです。それは物事を払いのけるもっとも容易なやり方の一つです―誰かを非難することは。

    しかしこの全過程を理解することは、心の大変な油断のなさを必要とします。心が非難していたり、正当化していたり、それが感じることに単に同一化していたりするときには、心は油断なく気を配っていません。

    それゆえ、自己認識は瞬時瞬時の絶え間ない発見です。しかしその発見は、過去が意見、障壁を投げ上げるなら否定されます。心の累積的な行為は即座の理解を妨げます。』(K)


    私の学習経過:

    『 問題を理解するには、支配の問題全体に敏感で、気づきがなければならない。

    私たちは理解していると思うので非難するが・・理解を止めている―物事を払いのけるもっとも容易なやり方。

    全過程を理解するには、心の大変な油断のなさが必要。心が非難、正当化、同一化しているときには、心は油断なく気を配っていない。

    自己認識は瞬時瞬時の絶え間ない発見・・過去が意見、障壁を投げ上げる―心の累積的な行為は即座の理解を妨げる。』

    社会は・・非難、正当化、同一化で成り立っているようですが、問題を理解するには『心の累積的な行為は即座の理解を妨げる』・・過去の記憶・知識・経験・信念を捨てて、現在の事実を見ることから、つねに新しい姿・発見・理解があるのです。

  • 【 支配と服従(5) 】
    『 そこで、私たちは非難なしにこの問題を見ることができるでしょうか。私たちは私たち自身の内側にこの過程が働いているのを単に観察することが、静かに見守ることができるでしょうか。

    それは非常に容易に私たちの関係すべての中に観察され得るのです。展開する全現象をただ静かに見守ってください。あなたの支配の非難、正当化がないとき、それは開き始め、何の障害もないことが見えるでしょう。

    そのときあなたはすべての意味が見え始めるでしょう。個人的支配のことのみならず、また公的な支配、他の集団による一つの集団の、他の国による一つの国の、他のイデオロギーによる一つのイデオロギーの支配などなども。

    自己認識はどんな種類の理解のためにも絶対必要です。そして関係は生であるので―関係なしには生存はあり得ません―あなたがそれに正しく接近するなら、この支配の過程が非常に多くの仕方でそれ自身を表現しているのが見え始めるでしょう。

    そしてあなたがこの全過程を、無意識的にだけでなく意識的にも理解するとき、それからの自由があります。確かに自由があるに違いありません。そしてそのときのみ、越える可能性があるのです。

    なぜなら、特定の形の信念、特定の意見に束縛された、単に支配し、主張しているに過ぎない心は、さらに進むことができず、長い旅をすることができず、空高く舞い上がることができないからです。

    それゆえ、自分自身を理解する中で、支配というこの最も困難で複雑な問題を理解することが、不可欠ではないでしょうか? それはそのような微妙な形をとります。そしてそれが正義の形をとるとき、それは非常に頑固になります。』(K)


    私の学習経過:

    私たちは自分の中にある・・何か自分の外部にあるものに対する「支配」の心を、まず見い出すことができるか。そして、そのありのままの姿を『静かに見守ることができるか・・非難、正当化なく』
    それが私たちの課題です。

  • >>1157

    相変わらず、馬鹿。

    又、口論戦争。


    好きだね。(やりたいのは、貴女なの、分かってないし。

  • >>1153

    おはようございます
    あなたのお書きは過去からの踏襲書いているだけ。こんなことでは絶対に直らないよ直せない。

    子供さんの気持ち、判ったら、つかまえたら、直る。今の専門家達に把握技量全くない。

  • >>1155

    日馬富士、引退すべきでは、無い。当然の処置、に。
    勿論、貴ノ岩。


    これが、すもうかい。

  • >>1154

    >絶え間ない衝突・悲しみ。関係の中の安全、隠れ家を求める・・挫折、充足はない。私自身を隔離する。

    嘘であって欲しい。

  • 【 支配と服従(4) 】
    『 孤立の過程の一つは支配です。孤立に導く恐怖はもう一つの形をとるのではないでしょうか。主張したい、支配したい、服従したいという欲求のみならず、孤立の過程の中に、独りである、孤独であるという意識があります。

    私たちは大抵孤独です―「独り」という言葉を使いたくありません。それは違った意味を持つからです。私たちの大抵は孤立しています。関係しているかもしれないけれど、自分自身の世界の中に生きています。

    結婚して子供を持っているかもしれないけれど、自分の固有の世界の中に生きています。それは非常に孤独な世界です。時たま喜び、娯楽、幸福などが開くことのある、悲しい世界です。一人だけの寂しい世界です。

    それから逃避するために、私たちは何者かであろうとします。主張しようとします。支配しようとします。それゆえに、私たちのあるがままから逃避するために、支配はそれを通して私たち自身から飛揚できる手段になります。

    それゆえ、この支配の全過程は、私たちの現状に向かい合うことを避けたいという欲求があるときだけでなく、孤立していたいという欲求があるときもまた起こるのではないでしょうか。

    私たち自身の中にこの過程を、非難の精神でではなく、それは単に反対側を取ることに過ぎません、なぜ私たちが支配しようとか非常に卑屈になろうとする、このとてつもない欲求を持つのかを理解するために見ることができるなら、もし私たちが反対の側を取るという何の感覚もなしにそれに気づいていることができるなら、私たちが逃げ出そうとしている孤立のその状態を実際に経験するだろうと私は思います。

    そのとき私たちはそれを解決することができるでしょう。すなわち、何かを理解するなら、私たちはそれから自由です。恐怖があるのは理解しないときだけです。』(K)


    私の学習経過:

    『孤独・孤立・・自分自身の世界の中に生きる。
    結婚して・・自分の固有の世界に生き、孤独な世界、時たま喜び、娯楽、幸福などが開く、悲しい世界。
    あるがままから逃避するために、支配は自身から飛揚できる手段になる。
    恐怖があるのは理解しないときだけ。』

    これはどう理解したらいいか・・結婚・子供の中に、孤独な世界、悲しい世界、一人だけの寂しい世界・・・。
    私たちのものの見方と理解力が問われているようです。

  • 【 支配と服従(3) 】
    『 関係の中で、私があなたを支配し、あなたが私を支配するなら、私たちはお互いを理解するでしょうか。それが生ではないでしょうか。関係は生です。関係は行為です。

    私が単に支配の自己閉鎖する行為の中に生きるなら、何か関係があるでしょうか。支配は孤立の過程であり、それは関係を否定しないでしょうか。

    支配は関係を破壊する分離の過程でないでしょうか。そしてこれは本当に、私が求めているものでしょうか。そして、支配や屈従の何かの感覚があるなら、二人の人間の間に関係があり得るでしょうか。

    生は関係です―人は孤立して生きることはできません。しかし、私たちの目標は偽装の中に、攻撃的な主張のあの気持ちの中に、それが支配ですが、無意識的に私たち自身を隔離することではないでしょうか。

    それゆえ、独裁的に支配する過程は、孤立の過程ではないでしょうか、そしてこれが私たちの大抵の望むことではないでしょうか。私たちの大抵はそれをせっせと養成します。

    なぜなら、関係の中で開いていることは非常に苦痛で、それはとてつもない英知と順応性、素早さ、理解を要します。そしてそれがないとき、私たち自身を隔離しようとします。それで支配の過程は孤立の過程ではないでしょうか。

    明らかにそうです。それは自己閉鎖の過程です。そして私が私自身の意見、私自身の欲望、私自身の野心、支配しようとする私の衝動に囲まれ、包まれるとき、私は関係しているでしょうか。そして関係がないなら、どうして何かの真の生存が可能でしょうか。

    絶え間のない衝突が、それゆえ悲しみがないでしょうか。それゆえ、関係の中での私たちの無意識の欲求は傷つけられないこと、安全、隠れ家を求めることです。そしてそれが挫折するとき、充足はありません。そのとき私は私自身を隔離し始めます。』(K)


    私の学習経過:

    『 支配は、関係を破壊する分離・孤立・自己閉鎖の過程。

    私自身の意見、欲望、野心、支配の衝動に囲まれ・・関係がないなら、真の生存が可能か。

    絶え間ない衝突・悲しみ。関係の中の安全、隠れ家を求める・・挫折、充足はない。私自身を隔離する。』

    子育て・教育・社会の中で、私たちは知らない間に支配・服従の関係をつくって・・この社会に欲望と対立と暴力と、その結果としての権力構造と貧困・格差をもたらしているようです。

  • 【 支配と服従(2) 】
    『 まず最初に、人は支配の明白な、露骨な形に気づくに違いないのではないでしょうか。私たちの大抵は、少しでも気を配っているなら、それに気づきます。しかし無意識的な支配があり、それに私たちの大抵は気づいていません。

    この支配しようという無意識的な欲望は、奉仕、愛、親切であるなどの外観や偽装をとリます。無意識的な支配しようという欲望は様々な形の下に存在します。そしてこの事実を理解することが、他人による人の表面的支配を単に規制しようとすることより、はるかに重要であると私は思います。

    さて、わたしたちが無意識的に支配することを望むのはなぜでしょうか。多分私たちの大抵は私たちが様々なレベルで支配することに気づいていないのです―家族の中だけでなく、言葉のレベルでも同様に。そしてまた権力を求め、成功を求めるこの内部の欲望があります。それらは皆支配のしるしです。

    なぜ私たちは他人を支配することを望むのでしょうか、あるいは他人にこびへつらうことを。もしも慎重に、意識してその質問を自分自身に問うなら、応答は何でしょうか。私たちの大抵はなぜ私たちが支配することを望むのか知らないでしょう。

    まず第一に、その中に感覚、誰かを支配することの無意識の快楽があります。それが私たちをして支配したがらせる唯一の動機でしょうか。確かにそれはその一部です。しかしそれにはもっと多くが、もっと深い意味があります。

    あなたは、男か女として、関係の中で支配しているあなた自身をいままでに見守ったことがあるのかどうなのかなと私は思います。そしてあなたがそれを意識したなら、あなたの応答、あなたの反応は何だったでしょうか。
    そしてなぜ私たちは支配すべきでないのでしょう。 関係の中で、それは生ですが、支配を通して私たちは理解するでしょうか。』(K)


    私の学習経過:

    『 支配しようという無意識的な欲望は、奉仕、愛、親切などの外観や偽装をとる・・この事実を理解することが重要。

    私たちは様々なレベルで支配することに気づいていない―権力、成功を求める欲望・支配のしるし。

    誰かを支配することの無意識の快楽・・もっと深い意味が。

    関係―生の中で、支配を通して私たちは理解するか。』

    他者・社会に対する自分の心・意識・・その奥にある願望と意志に気づいていないのか・・・。

  • <<
  • 1170 1151
  • >>
並べ替え:
古い順
新しい順