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書きたい時に

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  • 2019/01/15 10:42
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    書きたいことを 気軽に書いてみませんか。

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    ブラッピ 1月15日 10:42

    一昨日は当地では成人式だったらしく、多くの振袖姿の女性が、街中を闊歩していました。
    彼ら彼女らを見ると、必ず思い出すのが、昔の自分の成人式のことです。

    職場へ朝出勤しますと、総務の主任が「O君、朝礼が終わったら総務へ来てくれ」と言います。
    総務の主任さんは年齢もいってましたが物腰しの優しい方で、係の仕事でもあるのでしょうが、我々若い社員の世話を、日ごろから細かくやいてくれていたのです。

    朝礼後わたしは総務の部屋へ行きますと、他に若い社員が4名程揃い、主任さんの現れるのを待っています。
    やがて現れた主任さんは、腕の黒い袋を外しながら「君たちは今年成人式だから、裏庭で所長の訓示を受けます・・、それじゃあ行こうか・・」
    と,先頭に立ちました。
    会社の裏庭はコンクリートが張られた駐車場にも成っていて、雑然と停まった多くの車の間を、やや広い空き地まで歩き、主任さんの指示で5人が一列に並びました。

    やがて所長さんが現れ、気を付け、をしたわたし達を前に訓示が始まりました。
    内容は勿論憶えていませんが、多分「君たちも今日から目出度く成人と成った、今後はより仕事に励んでもらうと共に、それぞれ責任を持った生活をしてほしい」
    というようなことを話されたのでしょう。
    わたし達は主任の号令で礼をした後、それぞれが記念のアルバムを貰って解散しました。

    わたし達の会社では、入社数年までの若い者は、一部の大学卒業者を除き、ほとんどが交代制の一昼夜勤務をしていましたから、会社の所在地の市が開催する成人式には参加できず、会社内で二つの班の該当者達に、それぞれ所長が訓示を述べて成人式としていたのです。

    わたし達が解散しょうとしている時、駐車場内をちょうど柔道部の監督が横切りました。
    柔道部の監督さんも総務部に所属しているのですが、わたし達を見ていて、急に立ち止まると
    「エッ、o君、君は今頃成人式か・・・古い成人やなぁ~~」
    と、笑いながらも驚いているのです。
    わたしも実はそのように感じていたのです。
    わたしはこの成人式が済んで、9日すればもう21歳になるのですから。

    他の4名とは、作業服の汚れ具合も違いますし、ズボンのアイロンの線も随分前に無くなってしまっています。
    顔には薄く無精ひげも見えて、顔つきにも少しふてぶてしさが漂って来てる筈なのです。
    わたしはこの成人式の前年の1月には20歳に成っていたのですが、当時の習慣では、実際に20歳に成ってから後、次の年の1月15日前後の成人式に参加するように成っていたのです。

    高校を卒業して会社へ勤め、働き始めての一年間の差は、数年経った後の一年間とは比べ物に成らない程の様変わりが有ったのでしょう。
    既に柔道の試合にも会社を代表して出ていましたから、柔道部の監督さんが不思議がるのも無理は無い感じがしたものでした。
    雑然とし寒々しい駐車場の中、5名の作業服を着た若者が並び、20分ほどで終わった成人式が、ギョロ目で驚いていた監督さんの顔と共に思い出されます。

    やがてその年は、弟が高校を卒業して京都の大学へ入り、わたしのアパートへ取り合えず一緒に住み始め、田舎にいた姉が結婚して神戸にて新婚家庭を始め、わたしはようやく一昼夜勤務から解放されて、社内の一部所に移動し仕事をすることとなったのです。

    しかし秋ごろには祖父が80歳で亡くなり、わたしは久しぶりに葬儀の為帰郷しました。
    祖父の残した手帳には、その年の春のページに、わたしの移動のことが書かれていました。
    わたしの成人式の年、昭和41年は、忘れられない年となったのです。

  • 〇〇ちゃん おはよう。

    読んでくれてありがとうな^^

    弟の事は書きたいことが多いのだけど、ここではなるべく遠慮してるんよ^^;
    それでも過去には、夢に出てきた事と、今回読んでくれたことと、あとは〇江さんが60歳に成った時の手紙の事を書いたようや。
    あの手紙の話は、当時出てくれていたドルーリーさんも泣けたと言ってたなぁ。

    本当に弟とは仲が良かったからなぁ・・・。

    それでは兄姉妹皆も風邪など引かないように、おいちゃんもぼつぼつ遣ってるからな!!

  • 妹にすすめられて2016年3月1日の投稿を読ませてもらいました。あの日O駅にて見送った娘の中の真ん中です。そんなことあったなあ。と涙がでそうで、でも笑えました。 わたしも38年O市で過ごしていますが、あんなこと駅でしてる人見たことも聞いたこともありません。 
    今も思い出せばせつなくなるけど、大好きな父さんのことを書いてくれてありがとう! おいちゃん!!

  • 謹賀新年  今年もよろしくお願いいたします。

    と言いましても、ここは今月中には無くなるようですが・・・。

    まぁ今年もまた仕事に精一杯頑張ります。
    トシ相応に・・・^^

    皆さまもどうぞお元気にお過ごしください。

    正月3日間はゆっくり休みまして、近くの山へ何度か散歩に出かけました。
    2日と3日は娘も一緒でしたから、久しぶりにカメラを持って行って撮りました。

    良く見ると何となく体が斜めに成っているようですが、山道のデコボコの勢なのでしょう^^

    書きたい時に 謹賀新年  今年もよろしくお願いいたします。  と言いましても、ここは今月中には無くなるようですが・

  • 何時ものように映画のテキストリームに書いていましたら、どこかを触ったらしく、もうここが終了したのかと勘違いしてしまいました。

    トシは取りたくない物です^^;

  • 暇に任せて・・・。

    { 散歩 }

    今日は日曜日で雨が降り、暇そうですから仕事を休みました。
    それで一日家に居るのもどうかと、午後は散歩に出かけました。
    小雨で、濡れても良い位なのですが、傘を差し、とぼとぼと余り早足に成らないように歩きます。

    城跡の公園まで行こうかと思いましたが、すこし無理をしなければならない感じで、それ以前に在る、母校の高校付近まで行くこととしました。
    母校の高校は、もうすっかり様変わりしていまして、わたし達の在校時代の建物は有りません。
    いやいや、体育館がありました。

    体育館はわたし達が2年生の後半に出来たような感じですから、建物としては、体育館だけは当時からのままです。
    計算してみましたら、56年前の建造となります。
    体育館の中を窺いましたが、自分の姿がガラス戸に写るばかりで、中は見えません。

    高校の敷地を、グルリと回るように歩きますと、突き当りに成る最終地点の裏門から、プールが見えます。
    回りの石垣やコンクリートは随分古びています、このプールも約55年ほど前に出来た物なのです。
    そして何を隠そう、このプールに一番乗りで泳いだのはこのわたしなのです。
    久しぶりにプールを見てみると、わたしが泳いだのは第6コース位のようです。
    一番教室側の端のコースで、此処でしたら、教室からは死角に成りますから選んだのです。

    最初の注水の日、水浸60cm程の時、平泳ぎで50mを泳ぎました。
    その後数日して、賑々しく、プール開きがありまして、当時有名なオリンピック選手などが招待され、初泳ぎが行われたのでした。
    しばし、当時の歓声や、晴れやかだった雰囲気を思い出しながら古びたプールを眺めました。

    教室の建物が並ぶ間から、吹奏楽部の練習音が聞こえて来ます。
    誰かが教室の中から外を眺めたら、プールの石垣の下に佇む一人の老人を見つけたことと思います。
    但し、彼こそが半世紀以上前のその昔、掟を破って、そこのプールで一番最初に泳いだ悪ガキ生徒だったと言うことは、誰にも解らないことなのです。

    その後は家路に付きました。
    携帯を見たら、5200歩ほど歩いたことに成っていまして、90キロカロリー消費だそうです。
    90キロカロリーを調べて見ましたら、バナナ3分の2、ご飯軽く1杯の半分、リンゴでは半分の量だそうです。

    明日は朝の温度が8度の予報で、昼間も暖かく成りそうです。

  • 12月と成りまして、ここもお別れの時が近づいてきました。
    時々過去の自分の文を読み返しているのですが、とても全てはおろか、ほんの十数ページ分しか読めないようです。
    比較的最近のものから読み返していますが、やはりほとんどのものが記憶に残っています。
    そして読んでいて、文の流れの中で、途中引っ掛かりが出て来る事が多く、どうしてここは書き換えなかったかなぁ、と思う事もしばしばです。

    その時は、これでも良いだろうとか、まぁ良いは・・と思って挙げたのでしょうが、後で読み返すと、自分の文の稚拙さにどうしても気付かされてしまいます。
    毎日本を読まない事は無いのですが、やはり作家の文では、途中で引っ掛かりを感じることはまず無いのですね。
    偶にそういう時がありますと、自分が簡単な接続詞の平仮名を読み間違えたりしてることがほとんどです。
    校正が行き届いているせいもあるのでしょうが、編集者の意向も、かなり入る場合も多いようですね。

    それに比べますとわたしの文などは、如何にもやっつけ仕事でして、ガチャガチャっと書いて、後一度読み返して少し治す程度のことなのです。
    結局何度読み返しても、それほど流れるが如き文は書けませんので、まぁ良いか・・・と言う事になるのですね。
    元々深い意味の有ることは書いていませんので、それはそれで良い事なのでしょうが、一方で、やはりここでは書ける範囲は限られてしまいますね。

    個人的な事や、仕事の事など、深い所まで掘り下げて書きますと、公私ともにどうしてもいろんな問題が生じて来るでしょうから、常に当たり障りのない文を書くことと成ってしまいます。
    しかしそれでも、此処で書いている時間は、とても楽しい時間ではありました。

    一体何名の方に読んで頂いたのか解りませんが、多分数名の方達が読んでくれているのだろうなぁ、と言う思いを持って、書き続けてきました。
    「書きたい時に」という場所で、変なジイさんが何か書いてるぞ、という認識が、何名かの方々から持たれていればわたしとしては満足、という気持ちだったのです。
    思い返してみると、小学生の時に、作文や詩をクラスに発表した時と同じような満足感が持てた訳なのですね。

    相変わらず取り留めのない文になりましたが、今まで読んで下さいました方々へ。
    本当にありがとうございました。
    またどこかでお会いできましたら、どうぞよろしくお願いいたします。 

    ブラッピ

  • わたしには、小学生の子供の頃から、抱えてきた一つの疑問があることは、此処にも以前書いたことがありますが,その疑問について、最近に成って、ようやく手掛かり的なものを掴むことが出来たような気がしているのです。

    先ずその疑問なのですが。 以下のようなことなのです。
    1、 人はどうして殺し合いをし、そしてまた戦争をするのだろうか。
    2、 人はどうして、他人に暴力をはたらき,体を傷付けたり、また死に至るまでに心を傷つけたりするのだろうか。

    或る人にこのことを話した時、その人は「それは本能だから・・」と申しました。
    多分「本能」から来るものだろうとはわたしも考えていましたが、わたしの知りたいのは、その「本能」の存在理由に付いてなのです。
    何故人間にはそのような「本能」が備わっているのだろうか? どうして人間は、そのような「本能」を必要としているのだろうか?
    このことが、長く長く頭に暗雲として掛かっていたのでした。

    この「本能」の存在に付いて、或る人は、「人口調節のためだろう」と言います。
    「多分人口が増え過ぎないように、自然に調節する作用として、殺し合いつまりは戦争などが絶えることが無いのだろう」と言う意見です。
    しかし、現代の地球上の人口増加を、100年前から遡って見る時、この説にはどうしてもわたしは説得力が無いように思えますし、今後も人口が増え続けるであろうことを思いますと、戦争の存在数が追い付いていないような、そんな思いも単純にするのです。

    戦後70年余りの間、ヨーロッパやアジアでは、大きな戦争は起きていません。
    そしてまたヨーロッパ諸国や日本のような先進国は、戦争は無くても、人間が自ずから故意に出生数を調節した結果、人口は減り続けているようですし、一方アジアやアフリカでの一部の地域では、人口は増え続けていますが、大きな戦争は起きていないのです。
    一説では、世界の人口は、1950年には25億人、2011年で70億人、2050年には93億人に成るだろうとの予想もあるようです。

    それでも、過去の大戦が在ったからこそ人口は此処までに抑えられているのだ、という考え方も有るかもしれません。
    確かに、過去の大戦や闘いが無ければ、現在の人口は今以上に増えていた可能性が大きいでしょうが、その事が即、人口調節論への肯定に繋がるかと言いますと、先のような現実もあり、どうしても疑問が残ることは否めません。

    そこでわたしの到達した持論なのですが、最初に書きました人間の二つの「本能」に付きまして、その「存在理由」は厳然たるものが在るものの、「その存在価値」というものは、既に過去の遺物に成ってしまっているもののようなのです。

    結論から言いますと。 二つの本能は、人間が動物だから持ち続けている本能なのだ、と言う事なのです。
    この場合の動物とは、哺乳類であり、云い方を変えれば、肉食獣や雑食獣、つまり獣という括り方で考えています。
    良く過去には「鬼畜米英」とか「鬼畜生のような奴」などと言う言葉や字句が使われたようですが、正に人間とは畜生であり、鬼畜、つまり鬼のような畜の部分を持った生き物なのだということです。


    人間には猿人からホモサピエンスへと至る歴史が有りますが、どの歴史の中でも、過去から現代に至るまでに、動物(獣)としてのDNAを捨て去った時代は、未だに無かったのだろうと思うのです。
    「鬼畜米英」だけではなくて「鬼畜日本人」であり「鬼畜人類」とも言えるのですね。

    例えば我々が動物園で見る動物は、ほとんどのものが、人間と似た内臓の構造を持っていますし、子孫を残すのも、同じような方法を持って行っています。
    最近でこそ人口受精などが行われることと成りましたが、ほとんどの子供は、他の動物と同じ方法で出産にまで辿り着きます。
    猿人の時代から、このことに然程大きな変化は無いようです。 このことからしても、他の動物が持つ闘争本能を、猿人の時代から引き継いで、人類も保持してきたとしても別に特異なことでは無かろうと思うのです。

    つまり自然の優性保護、より強い者の遺伝子を残すべき、という自然の摂理の基に、我々人類も生きてきていると言えるようです。
    言い方を変えれば、この現代社会での生活の中でさへ、我々は猿人の時代から持ち続けて来た獣のDNAを引きずって生きている、と言えるのです。

  • {上のページからの続き}

    人類のDNAの中に、動物(獣)としてのDNAも含まれているとしても、勿論これの%には個体差も有り、周囲の環境から受ける刺激により顕在化する場合もあれば、一生潜在状態のままで、表面に現れない場合もあるでしょう。
    また男女の差もあるようです。
    男女の性別から考えましたら、圧倒的に男性の方に獣DNAは多く存在し、女性には希少例は在っても、平均的には極めて少ないことは過去の歴史を捉えて考えてみても解ります。
    過去から現代にいたる軍隊内での比率や、現在の刑務所内の男女比、それも粗暴犯以上の凶悪犯の数を比較しても解ることだと思います。

    それでは解り易く、人間内の獣DNAの存在の例を挙げてみましょう。
    先ず戦争です。
    これは獣の例でいえば、縄張り(テリトリー)に類した行動ですね。
    例えばライオンなどのように、グループを作り生活する種類では、それぞれに縄張りを作り、外から侵入しようとする雄が居た場合には、グループのボス的雄は命を懸けて追い出そうとします。

    人間のように殺し合いに即成らないのは、武器が歯であり牙であり、足の爪だからですね。
    それでも力が拮抗している場合は、即死にまで至らなくても、闘いの後に力尽きてどちらかが死に至る場合もあるでしょう。
    因みに、外から来た雄が、テリトリーを守ろうとする雄を闘いの結果追い出した時、外から来た新しい雄はテリトリー内の子供のライオンを全て食い殺すことは知られています。
    因みに。昔十字軍の進撃過程でも、似たようなことが行われたようですが。

    縄張りを守る場合、また食料になる動物の不足などで、他のグループの縄張りを侵そうとする場合、人間も同じような行動を取っている訳ですが、人間の場合は体格的には非力で、牙も爪もありませんから、相手を完全に倒すのには、どうしても武器に成る物が必要になります。

    トラやライオンは何百年経っても牙や爪で闘っていますが、人間の場合は敵同士でより効果的な武器の開発が必要に成って来たのですね。
    類人猿誕生以来50万年と言う説も有るらしいですが、獣が闘いを続けて来たように、人類も獣DNDを駆使して効率的武器を開発しては、いろいろと人間ならではの装飾辞を設けて戦ってきたのです。

    モーゼの十戒に、闘うことなかれや、盗むことなかれなどが有るようですが、これは宗教と言うものの力で、人間内の、獣DNAの沈静化を願って書かれたものだとも思うのですが、然程効果は無かったようです。
    そして他の多くの宗教もまた、人間の獣DNAからの決別を計ることが、目的の一つに成っているようですが、この願いは虚しく永遠の願いとして現在も続いているようであり、その方法論で争いさえ起きているようです。

    獣の場合は、食物の盗みや、殺し合いや、姦淫は日常の正常な行動なのですが、人間の場合も似たような行動を人間故に複雑化し、現在に至るまで獣DNAの命令に従って、営々として行い続けているようです。

  • {上のページからの続き}

    そしてまた、人間の中では人間性DNAと獣DNAのせめぎ合いの場面も多く有るようです。
    人間性DNAと、獣DNAのせめぎ合いは、猿人時代はゼロに等しくとも、近代に成るほど、頻度は高くなってきているようですね。

    その結果、大国間の戦争が少なく成るなど、人間性と呼ばれる、獣DNAとの対比DNAが、力を付けるように成って来ているように見えます。
    しかし、大国の間の戦争はともかく、個人間や複数間の争いや闘い、暴力行為は未だにあとを絶たないようですね。

    殺人事件があった場合、被害者の方が被疑者を指して「人間以下だ、人間じゃあない」などと語ったりしますが、その場合の犯人は、両DNAのせめぎ合いの結果、獣DNAが圧倒的に勝利をおさめた結果の行動であったと言えるのでしょう。
    つまりそのような犯罪行為時には、人間性DNAはほとんど影を潜めていた訳なのですね。

    人間性DNAと獣DNAのせめぎあいの結果、その場では獣DNAの方が勝利をおさめたとして考えられる、人間の行動を挙げてみます。

    戦争や殺人は既に挙げましたが、物を盗む行為や、また暴力を伴って物を盗む行為も、獣DNAの勝利によりもたらされた為として考えられるでしょう。
    また、暴力的いじめや、言葉による威嚇のいじめ、またセクハラと呼ばれる行動やパワハラと呼ばれる行動も含まれるでしょう。
    弱者をいじめて弄ぶ行為も、多くの動物の間で行われる行為です。 
    獣の世界に於ける強者が、子孫を残す権利を持った優位性を、周囲に示そうとしている行為の人間版とも考えられます。

    わたしは長い間、上記の、人間の不可解な行動(人間自身に取っても不利益に見える行動)に付いて考えて来ましたが、人間の中に獣DNAを置くことにより、その不可解な行動を起こす原因が理解できたような(このような分野の全くの素人ながら)気がしているのです。

    また一方、人間性DNAと獣DNAの存在の出現度を探る時、人間の具体的な行動の中で、解り難い行動も多く有ります。
    戦争はするのですが、戦闘後の兵士に対して、英雄視、する感覚はどちらのDNAに起因したものなのでしょうか。
    また戦争に関して、その殺戮行動を文学や映画で讃える一方、同時に反戦思考を植え付けようとする内容に関しては、両DNAの、どのような絡み合いにより起こるのでしょうか。
    また個々の問題を取り上げてみますと、介護疲れによる殺人や、安楽死への手助けなどはどのように解釈すれば良いのか。
    あるいわまた、自身の子に対する虐待や、継子に対する虐待への解釈も、一様には行きそうにありません。
    このように考えますと、両DNAの間の線引きというものは、明確なものが有るのでは無く、両者のDNAの相互干渉地帯及び現象というものが存在し、それぞれが滲み合う場合もありそうです。

    つまりこれらの事柄は、人間が、性善説では語り尽くせない事も、また一方、性悪説のみでも語り尽くせないことにも、大いに関係してくるのだろうと思われるのです。
    以上のこれらの内容に異論のある方も多いでしょうが、その道の素人の一つの説として(思い付くままの、甚だまとまりの無い文ながら)書かせていただきました。

    またこのような説が、既にその道では語られ尽くされている事柄でしたら、この文は、わたしの浅学故の稚拙な作文だったと言う事になります。

  • 風の噂では、ここテキストリームは、今年の12月で終了するらしいですね。
    ここで「書きたい時に」というタイトルで、3000以上の拙文駄文を書いて来ましたが、何となく寂しく成るような、また一面肩の荷が下りるような気もしています。

    ここの「書きたい時に」の以前には、「作家吉村昭氏の作品とその生き方」というタイトルで、掲示板へやはり数年間書き込みを続けまして、その当時はお二人の常連さんが居られて、楽しく語らいながら書き続けていたものでした。
    しかしその当時わたしとしては、どうも吉村氏に関連した話から外れた所で話が弾むことが、一つの懸念にも成っていまして、丁度仕事の方が煩雑に成ったことも有り、トピを終了してしまったのでした。

    しかしその後も、何事か駄文を書き連ねて行きたいという本能には勝てませんでした。
    それは、良く歌を歌う人や、良く山に登る人、また良く絵を描き続ける人にも共通するものなのだろうと思うのです。
    画家に絵を描くことを止めよ、と言ったり、作家が、文を書くことを止めよ、と命じられたりしますと、云われた方は、多分精神がおかしなことに成るのではと思うのですが、わたしのような極々凡人にも、多少はそのような因果がありまして、たとえ下手でも歌を歌いたいとか絵を描きたい人と同じで、何時も何かヘタな文を書いていませんと、気分が落ち着かない、ということに成ってるようなのです。

    例えば一週間何かを書かなくても、どうにか平気かもしれませんが、一か月間我慢することはとても無理な感じがするのですね。
    これは子供の頃から続いている癖でして、日記も中学生の頃から書き続けていますし、今でも、此処以外の人様の所二か所にも書き込んでいるのです。
    一つは映画関連の所で、もう一つは以前から知り合いの、元女教師の88歳の方のブログへの感想なのです。

    ブログの方へは、先日はこのような書き込みをしました。
    衣食足りて・・・  というタイトルでしたが

    「衣食足りて礼節を知る、という言葉が確かにありますけど、わたし的には、衣食足りて礼節を真似る、の方が正しいと思っています。
    真の意味で礼節を知る人は、衣食足りていなくても、礼節を伴う行動に終始しますし、そうでない人は、衣食足りて、礼節ある行動の真似はしていても、肝心な所で(例えばセクハラ、パワハラなどで)馬脚を現したりします。

    では、お前はどうだ、と問われたら・・・、ハイ、わたしの世界は元々、八つぁんクマさんの世界ですから・・・余りご縁が・・と答えます。」

    これに対して彼女のお答えは。

    まぁ日常真似だけでも出来ていれば良いでしょう。・・・ということで、戦後の飢餓時代を例にして書かれておられました。

    やはり戦後の大変な時代を生き抜いて来られた方には、「衣食足りて・・・」の、基本的な意味がわたしとは違うのですね。
    わたしの場合は、例えば、立派な背広を着ている人を指して「衣食足りて・・・」と言ってるのですが、彼女の場合は、飢えるか飢えないかの時代が基本になっているのでした。やはり年代の違いですねぇ。

    まぁそんなこんなを書き続けているのですが、それで、今後此処の書き所が無くなりましたら、どうしょうかと思っているのです。
    一応は、ブログという手が有ることを考えてみました。
    しかしちょっと、ブログの作り方、と言う所をみてみましたが、わたしには、なかなかに難しいことのようです。 

    もう今更ややこしいことには首を突っ込みたくないのですが、12月までにどうなるか、ぼつぼつと考えてみることとします。
    ぼつぼつと考えていましたら、何時の間にか此処が無くなっているかも知れませんが、その場合は、もしも此処を読んでいて下さっている方が居られましたら、早めながら心からお礼を申し上げたいと思います。

    そしてまた、終了までに何か駄文が思い付きましたら、書かせていただきたいと思います。

  • 9月も終わろうかという昨今ですが、此処に書くべき材料が浮かんで来ません。

    ネタ本にしようかと思っていた、吉村昭氏の「私の好きな悪い癖」も、例の「歴史小説名作館」のほうが面白いものですから、すっかり何所かへ置いたままとなっています。

    「歴史小説名作館」のほうは、相変わらず面白いです。
    現在は江戸時代も最終段階で、{江戸四}となっていますが、最初が「日本婦道記」山本周五郎で、これは既に過去に読んでいます。
    次が「赤毛の支天台」新田次郎、それから「手鎖心中」井上ひさし、これも以前読んでいます。
    その次が「雪の日のおりん」岩井護、「爪の代金五十両」南原幹雄、「南蛮うどん」泡坂妻夫と続きます。

    此処に後の作家の名前も書きたいのですが、ちょっと面倒になりました・・・・けど書きますと。
    大佛次郎 三浦哲郎 小松政二郎 村上元三 白石一郎 北原亜以子 司馬遼太郎 山手樹一郎 池波正太郎 笹沢佐保
    平岩弓枝 藤沢周平 伊藤桂一 解説 清原康正  となっています。 良い本ですねぇ。

    この本は、地元の図書館には有りませんので、県立図書館から此方の図書館へ回して貰っているようです。
    それで図書館へリクエストして、次の巻が届くまで二週間ほど空くのですが、これがまた良いのです。
    その間には、また違う毛色の本を読めますから。

    しかし本が面白いのは良いのですが、なかなか此処へ書く材料には行き当たりません。
    別にわたしの駄文に何方も関心は無いでしょうけど、何か書きたいなぁ、という気持ちだけは有るには有るのです・・・。

  • 先日「女神の見えざる手」という映画を見ましたが、アメリカの銃規制に関する法案の、国会提出に関連したロビー活動が描かれている内容でした。
    アメリカの銃問題は、古から語られていますが、一向に解決の兆しは見られませんね。
    銃と言う事から、我が国の刀のことを少し考えてみました。

    明治九年に廃刀令が発布されて以降は、警察官と軍人他、一部のもの以外は刀を所持してはいけなくなりまして、一般家庭に有った刀は、ほとんどが没収されてしまいました。
    とは言いましても、例えば我が家にしても、わたしが子供の頃には刀が押し入れに一振り有りまして白鞘本鞘も有り、ポンポンと叩く手入れ道具なども揃っていまして、短刀もやはり押し入れに三本程は有ったのです。
    代々我が家に伝わるものかどうかは知りませんが、父は晴れの日の夜には時々手入れもしていました。
    わたしは父が刀を手入れしている姿を、側に座って何度か見ていますが、父はその度に「家に刀が有ることは誰にも言ったらいけんぞ、お父さんが警察に捕まるんだからな」とわたしに告げたものでした。
    わたしは子供心に恐ろしき事実を知った面持ちで、座ったまま何時も「うん」と頷くばかりでした。

    そんな子供の頃、わたしの通う小学校の校庭に沿った路では、度々両手に手錠を掛けられた男が、刑事らしき者に、綱で繋がれて歩いて行く姿が見られたものでした。
    当時は進駐軍の方針で、国家警察と言うものと、地方警察という組織が別々に在りまして、その両方の警察を繋ぐ道が、丁度小学校の校庭の横の路になっていたのです。
    天気の良い日に校庭で体操をしていたり遊んでいると、手錠に反射した光がピカッーと光って届き、わたしは思わず何気ない顔で可能な範囲で近づいては、手錠の男の顔を確認したものでした。
    父親の言葉から、遠目には手錠の男はどうしても父の背格好のように見えてしまうのでした。
    学校から帰宅する時には、もうそんなことは忘れてしまっているのですが。

    その刀は割と良いものだったらしく、近所の刀好きの小父さんが、永年に亘って欲しがっていたことを知っていました。
    父が、警察へ届けていないから売られない、といいますと「な~に天井裏から出て来たと言えば、直ぐに許可が出るから関係ないよ、自分が世話をしてあげるよ」などと気安く請け合うのでした。
    結局その刀はその小父さんの熱意に負けて、警察へ届けて登録を済ませたのち、叔父さんの持ち物となりました。
    美術骨董価値が有る、と言事で、所持が認められるほどのものだったようです。

    話はちょっと変な方向へ行きましたが。
    アメリカの銃社会のように、我が国も江戸時代から続く刀社会だったらどうなっていたでしょうか。
    各家庭に刀の一振りや二振りは有り、脇差や匕首なら二~三本は何処にでも在る社会でしたら、おそらく今ほど安全な社会には成っていなかったでしょうね。
    現代良く取り上げられる、あおり運転、にしても、直ぐに切ったはったの血なまぐさい事に成ってしまうでしょうし、学校内でも、児童による匕首振り回し騒動などが頻発する社会に成っていたかも知れません。

    刀廃絶運動が展開されても、全国刀協会が、あおり運転のあげくに刀で襲われないようにするには刀を持つしかないのだ、と反発しそうですし、我々の祖先は刀があったからこそ、世界に誇るこの国を守ることができたのだとも言いそうです。

    そうしてみると、完全実施に時間は掛かったものの、廃刀令の効果と言うものは大きなものがあったのですね。
    元々濃厚に持っていた「お上」に対する服従の精神や、国土の狭さ、また農耕民族ということも幸いしたのかもしれません。
    アメリカも禁酒法実施の時、それより先に廃銃法も実施していたら、今ほど全米ライフル協会も勢いが無かったかもしれませんが、当時の考え方としては、銃より酒の方が危険な代物だったのでしょうかね。

    映画のことから、ふと思いつくままに書いてしまいました。

  • 最近はまた、吉村昭氏の随筆集「私の好きな悪い癖」を読んでいます。
    他のもう一冊の本と並行して、その時々で取っ替えながら読んでいるのですが、この本を読み始めましたのは、~此処「書きたい時に」へ書く材料がもしかして転がっているかも・・~ という不純?な目的も有ったからなのです。

    因みにもう一冊は「ドン、キホーテ」です。
    これは若い頃も読んでいるのですが、口語体の難解な本しか無くて途中で挫折していまして、今回娘の知り合いに教えて頂いた{青少年向き}の読み易いものの存在を知り読んでいるのです。
    難解且つややこしい文献は、{青少年向き}を読むに限りますね。
    以前も宗教の変遷に関した{青少年向け}の「神さまってなに」でしたか読みまして、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のややこしい関係などの大枠が解ったような気がしたものでした。
    吉村氏の「私の好きな悪い癖」を読み始めましたら、早速一つの文が浮かんできました。

    「ペニシリン」
    吉村氏の他の本の中でも何度か見ることができましたが、氏の若い頃の思い出の中に、自転車屋の親父さんからペニシリンの注射をしてもらう場面があるのですね。
    わたしの好きな場面で、読むたびに、縁側の陽だまりの奥の座敷の風景が目に浮かんでくるのです。
    氏は二十歳のころ、肺結核の末期患者となり、新しく我が国に導入されたばかりの、壮絶な開胸手術を受けています。
    術後三年ばかり後には、一応平癒して大学へ入学していたのですが、そんな或る日高熱が出て、自宅にて寝込んでしまうのですね。

    主治医の町医者と大学病院の先生が共に、結核の再発だと診断をし、絶対安静を指示されてしまいます。
    そんな時、親しくしていた自転車屋の主人が見舞いに来まして「なんにでも良く効くらしいペニシリンと言う薬があるから、毎日来て打ってあげるよ」と言って注射器で腕に打ってくれるのですね。
    断り切れなかった吉村氏でしたが、注射を打つと、四十度有った熱がたちまち下がり、平熱に成って体調も急に良くなるらしいのです。
    主治医の先生は非常に不思議がっていたようですが、注射が続くにつれて平熱の日が続きだし、咳も治まって、体調も良く成ったのですが、主治医の指示で相変わらず安静にして布団に臥せている生活は続けられるのです。
    その内、結核の専門医に診てもらうのですが、結核は完治しており、高熱が続いたのは肺炎に罹っていたから、ということがわかるのですね。
    その肺炎もペニシリンのお陰で完治していたことが判り、吉村青年が喜んで病院をあとにする姿が書かれています。

    わたしもペニシリンは何度か打たれました。 ほとんど風邪を引いた時のことだったようですが、社会人に成って、健康診断では何度かレントゲンの再検査を指示されましたから、もしかしたらその時肺炎の兆候も有ったのかも知れません。
    その当時何故かペニシリンの注射はお尻に打たれました。
    ベットに俯きに寝たわたしのズボンとパンツを看護婦さんが下げて、先生がブスリと片方のお尻に注射器の針を差し込むのですね。
    中学生くらいまでのことだったようで、余り恥ずかしさは感じませんでしたし、まな板の上の鯉的、あきらめの心境にその都度成っていた記憶があります。

    そんな或る日、両親のひそひそ話を聞いたことがありました。
    母親が何処かで聞いて来たらしく父親に話しているのです。
    「〇〇さんがこの間うちに来た後、近くの医院で死んだらしいんで」
    「えっ、あの日今までうちで借りていた金をまとめて払ってくれたばかりじゃないか」
    「そうなんよ、その足で医院に行って、ペニシリンを打ったらショック死したらしいのよ」
    「そうか・・・それにしても先にうちに来て・・・」
    「そうなんよ・・・可哀想になぁ」
    「そうか・・・」
    もう六十年も前になるような話ですが、ペニシリンと聞く度に、当時子供ながらに、話の中から、父母の心境を探っている自分が居たことを思い出すのです。

  • 長年事務所で使っていた椅子を二脚、市の廃棄物センターへ持って行きました。
    一つは大きなひじ掛けの付いた椅子で、大きな会社の課長級以上の使いそうなもので、もう一つは簡素な、会社で言えば平社員の使うような椅子です。
    それぞれが思い出の詰まったものなのですが、簡素な方は既にもう10年ほど前から壊れて使っておらず、大きな方は、最近とうとうキャスターが壊れてしまって使えなくなったのです。

    大きな方の椅子は、その昔の或る日、わたしの前職の先輩から「会社が椅子を廃棄処分にするから要らないか、まだ充分使えるから・・」との連絡が有って、トラックにて出かけ貰って帰った物でした。
    営業部長が使っていたとか言われましたが、大型でどっしりとして、湾曲した肘当ての付いた椅子は座り心地が良く、零細商店の社長よりは椅子の方が立派に見えて、当初、座らせて貰っている、といったような感じがしたものでした。

    しかし、その時に連絡してくれた先輩も今年で86歳と成りましたから、定年退職して26年にもなり、それからしますと、椅子は我が店の事務所で約28年間も使ってきたこととなるのです。
    元々大きな会社で10年は使われていた椅子は、28年の間にはすっかり古びて、ひじ当てのレザーは剥がれて、従業員が布で修理してくれていたものの、従業員の居ない最近は、下地の木の板がむき出しになっており、座る面は、これも前部のレザーが剥離して、留め金の列がむき出しに成って見えるほどになっていました。

    親しいお客さんからは「辛抱するなぁ・・」とか、「お金が有る人ほど、こんな椅子に平気で座るのよなぁ・・」とか皮肉も言われ、椅子をくれる以前から数十年間、毎週のように遊びに来ている先輩からは「まぁ良く長持ちさせるは・・あれから何年経ったのかなぁ・・」などと、半分呆れ顔で言われていました。
    わたしとしては別に辛抱している訳でも、木の下地まで見える椅子が恰好悪く思える訳でも無いのですが、ただ新しい椅子に取り換えることが面倒で、そのまま使っていただけなのです。

    しかしとうとう寿命が来ました。 或る日椅子の下に取り付けられたキャスターが一つ外れましたので、椅子を倒して捩じ込んだのですが、すぐにまた次のキャスターが外れ、そんなことが続く5回目ほどにはとうとう諦めてしまったのです。
    娘と二人で椅子を28年振り位に事務所から出し、軽四輪に乗せて、市の廃棄物センターへ持って行くこととしましたが、ついでに、もう一つ使わなくなっていたままの椅子も、持って行くことにしました。

    簡素な方の椅子ですが、その椅子も背もたれや座る面のレザーが剥がれ、背もたれには父の貼ったガムテープが付いたままになっています。
    一度同業者が知らずに掛けて、背もたれにもたれて、後ろにひっくり返りそうになった椅子ですから、座ることも無く、ただ父が使っていた机の前に置かれたままになっていたのでした。
    わたしと父の机は、事務所の中へ並べて置かれ、約25年の間、出張の多いわたしでしたが、時には並んで事務をとっていたものでした。
    父は平成9年に亡くなりましたから、その後21年間、父の椅子は父の机の前に置かれたままに成っていたのです。
    父が長年座っていた椅子ですし、父の修理した跡も見えますから、どうも捨ててしまう気に成れなくて置いたままになっていましたが、実際に父が座っていた頃は、幾分煙たい気分にも成っていたわたしですから、まぁ都合の良い感情でもあるのですけどね。

    娘と「さぁジイさん椅子を捨てるで」と言いながら事務所から出し、軽四輪に積んだ大きな椅子の横に積み込みました。
    「行って来るは」と、見送る娘をあとに出発して、約20分後には廃棄物処理場の入り口で手続きを済ませ、何やら大きな音が響いたり、燃えないゴミと粗大ごみの脈略無く捨てられた屋内処理場の片隅に椅子を二つ並べて、車の中から一度振り向いて見て帰ったのでした。

  • 先日、「徹子の部屋」を見るともなく見ていましたら、綾野剛という青年が出ていました。 
    映画俳優らしいのですが、少し内容を聞いていると「東京へ出て来て後、初めて小栗旬さんが部屋へ来た時に、余りに家具が無いので驚いていました」といった内容の話をしていました。
    ~そうだよなぁ、男の最初の一人暮らしは何も無いんだよなぁ~と、つい自分が大阪で初めてアパートへ住み始めた頃、昭和38年の頃のことを思い出してしまいました。

    18歳から19歳の頃でしたが、3畳一間で、トイレと流しは共同で風呂は近くの銭湯、家賃は3000円なのですが、二人で住んだので、二人で4500円ということにしてくれました。
    3畳一間に二人で住めたのは、お互いに一昼夜勤務で、反対の出勤番に会社でしてもらったからなのです。
    それで家具は無し、電化製品は勿論無し、有るのは田舎から送った布団だけでした。 
    それで暫くして、近所の八百屋さんからリンゴ箱を一つ貰いました。
    時々リンゴなどを買ってたので、頼み易く、お願いすると「良いよ持って行きな」と一箱出してきてくれました。

    リンゴ箱の空いた方に本を入れたり洗面器を入れたりして、それまでは畳の上に食物を並べて食べていたのですが、やや高い位置で食べることができるようになりました。
    その後一年後位に、ようやく三畳一間に一人で住めるようになりました。 同じアパートの同じ作りの部屋でした。
    今までの倍の住まいに出世したのですが、相変わらず家具はリンゴ箱一つだけで別に困ることもありませんでした。

    その内、母がわたしの生活を見に来ました。 ここらが父子家庭となっていた自分の息子の場合と違います。
    当時すでに離婚していたわたしは、同じく高校を卒業して大阪へ就職した息子のアパートへは、一度も行きませんでしたから。
    このような場合、どうも男同士ですと、自分の若い頃の心理を思ったりして、何となく行き辛いものがあるものなんですが、母親はそんなことは頓着無いのですね。
    「ちょっと行くで・・」と言って、田舎からズカズカと出てくるのですね。
    三畳一間の部屋ですから、流石に泊ることはせず、日帰りで九州へ帰って行きましたが、座敷箒と塵取りを買ってくれました。
    わたしがゴミを手で寄せて、空いた箱などに入れているのをじっと見ていたのですね。

    その後一年程経った頃でしょうか、同郷の柔道部の先輩が「同じアパートに来いよ」と誘ってくれたので、移ることとしました。
    今度は六畳一間で、トイレは共同で風呂はありませんが、コンクリの小さな流しが付いて水道の蛇口も付いていました。
    そこは家賃が6000円でした。 驚いたことに、グーグルの地図を見ると、未だにまだ残って建っているのです。
    わたしが居た、一階の角の部屋は、窓の開け閉めが非常に難しく、ほとんど開けたこともありませんでしたが、グーグルの地図でみると可笑しいことにそこの部屋だけ、サッシの窓に替えているのです。 
    他の窓は、木の枠のガラス窓のままでした。 しかしそのサッシ窓ももうすっかり古びて、今どき見なれない白い細いものなのです。

    そこのアパートへ移ってからは、家具らしきものが少しづつ増えました。
    まずテレビを買える経済状態になりました。 小さなテレビを初めて買って、部屋の畳の上に置いて、寝て見れば丁度よいような格好になりました。
    リンゴ箱は何時の間にか無くなり、また食品は畳の上に並べて食べたものでした。
    今のように、コンビニも無いし総菜屋も無いし、弁当屋も無いので、ご飯を食べる、ということは、和菓子屋で赤飯を買って食べるしかありませんでした。
    その頃は、竹の皮に赤飯を匁で計って乗せてくれました。 また、料理をせずに食べられるおかずで最も手軽なのが、焼き豚でした。

    赤飯と焼き豚を畳に広げて、水を飲みながら随分食べたものでした。 そうしていると、夜勤明けの先輩が「おーい銭湯へ行こう」と窓の外から呼ぶのです。
    先輩は別府の出身ですから、どうかすると一日に二回は銭湯へ行ったりします。
    わたしが「もう風呂屋は行きました」と答えると「もう一回いこうやぁ」と抵抗なく言えるのです。
    その内ちゃぶ台を買いました。 鉄の足を四つ開いて机状に成る物です。 これは随分長く持っていて、壊れない物ですから、田舎へ帰る時も持って帰りました。

    そんなころ、コタツを買いました。 それまでは寒い日は布団に入っていたのですが、ようやく電気の温かみを得ることができるようになったのです。
    それから次は洋服ダンスを買いました。 その前に掃除が面倒だから、割と早目に掃除機を買いました。
    これらが揃うのには、アパート生活を初めて4年ほどの月日が流れていました。 
    給料も少しづつ上がり、ボーナスを貰ったりした時に、少しづつ揃えていったのでした。

    その頃は、先輩たちに負けないように仕事を憶えて行くことが最も大きな目標であり、アパートの部屋は、ただ寝に帰るのみといった存在でしたから、家具も最小限の物しかなく、部屋の掃除もほとんどしたこともありませんでした。
    家具の面から見て、ようやく人間らしい生活に成ったのは、8年以上の独身生活の後に結婚をしてからのことだったのです。
    学校を出て都会へ就職のため出かけ、生活を始めた若い男たちは、わたしの息子も含めて、みんなそんなものだったのでしょう。
    今考えてみると、何とも懐かしきほろ苦き日々です。

  • この炎天下で、毎日不明者の捜索や、被災家屋家財の片付けが続けられていますね。
    被災者の方々や、ボランティアの方々も大変なご苦労のことと思われます。 
    どうか無理をされずに、休憩を取りながら、ご自身の健康に気を付けて作業をしていただきたいものだと思います。

    わたしも若い頃、山崩れで埋まった人の掘り出しに、たまたま加勢したことがありました。 
    水を含んだドロドロの赤土が山から民家へなだれ込んでいて、そこのお婆さんが生き埋めに成ったと言うのを聞いて、泥の斜面を登って行ったのですが、一足ごとに膝まで埋もれて、ようやく足を抜くと、長靴は泥の中に残ってしまいました。
    長靴は後で掘って探すこととしまして、二階家の壁の崩れた付近の泥を数名の人とスコップで掘りましたが、水をたっぷりと含んだ赤土はとても重たく、一度に多くの土をスコップへ乗せることはできませんでした。
    一時間も皆で掘ったでしょうか、ようやく体の一部が出て来て、それからは皆手で泥を除けていきました。

    家族の方は下の離れた庭から、わたしたちを見上げていましたが「もう良いですから、あとは家族でしますから」と何度か言われていました。
    しかしわたし達もその作業の大変さが解っていましたから、全身が出てくるまで、皆で泥土を掘り続けました。
    警察の人も数名掘っておられましたが、鑑識らしき人が、わたしたちにちょっと離れて下さいと言って、現れたお婆さんの遺体を写真に何枚か撮りました。

    わたしは自分の手伝いも此処までで良いだろうと、泥の斜面を下りて行き、長靴を掘り出して自分の仕事に戻ろうとしました。
    しかし、ドロドロに汚れた作業服で車に乗ることもできません。 付近を見ますと、幅2m位の農業用のコンクリートの溝に、深さ30cm程の比較的綺麗な水が勢いよく流れていました。
    わたしはポケットの中身を出して、作業服のまま水の中に横たわり、胸まで水に漬かって汚れを落としました。
    そうすると、一緒に土を掘っていた人達が何人か溝に入ってきました。 誰からともなく「あ~・・は~・・」と、言葉にならない言葉が出て来て、暫く水の流れの中に身を任せて空を見上げていました。
    そうして後、皆それぞれに分かれて去って行ったのでした。

    まだボランティアという言葉も知らない時代でしたが、その時のことを、災害のニュースを見る度思い出します。
    あの時のわたしは僅かに2時間ほど作業を手伝っただけで、しかもあの時は、限られた山の一部が崩れただけでしたので、近くに綺麗な水の流れが有り、わたしたちは浸かって息を吹き返すことができたのです。
    しかしテレビで見る被災地は、比較に成らない過酷な条件下にあるようです。 ほんとうに「どうかお気を付けて、ご苦労様です」と言わずにはおられません。

  • 最近はちょっと変わった本を読んでいます。
    人に寄ってはもうとっくにご存知の方も居られるでしょうが、わたしは当初この本を手にした時、「へーこんな本もあるのか」と、本当に驚いたようなことでした。

    この本を知ったのは、地元の図書館へ滝口康彦氏の本をリクエストしたことからでした。
    滝口氏の本を一冊読んで、著者の作風が気に入り、図書館内を探しましたが他に見当たりません。
    図書館へリクエストしますと、他の作者との共著のものなら有ります、ということでわたしの手元に届いたのです。

    その本は「歴史小説名作館」というものでした。 滝口氏の作品の載ってる本は、その第五巻で戦国(二)雲のかかる峯 と題が付いています。
    驚いたのはその本の内訳なのですが、以下のような作家の、短編集の構成になっています。

    藤沢周平 逆属の旗、 尾崎士郎 篝火、 山岡荘八 本阿弥辻の強盗、 井沢元彦 身中の虫、 以下作家名だけを書きますと、富田常雄 柴田錬三郎 
    遠藤周作 澤田ふじ子 松本清張 南条範夫 山田風太郎 来水明子 司馬遼太郎 永井路子 井伏鱒二 五味康祐 滝口康彦 となっています。

    本好きにとっては、驚くべき実に錚々たるメンバーです。
    この本の中でわたしが既に読んでいるのは、司馬遼太郎さんの「割って、城を」のみでした。

    しかもまたこの本はシリーズものの第五巻で、全部で第十二巻まであるのです。
    第一巻は、古代・王朝 虹の絵巻 そして第二巻は源平・鎌倉 もののふの譜 第三巻は南北朝・室町 暁闇にうごめく 第四巻は戦国(一)夢幻か
    そして第五巻が今度の本なのです。

    実はわたしは、浅学者ゆえの哀しさで、日本の歴史の中で、戦国時代以前には余り興味が無いほうなのです。 辛うじて戦国時代のものは、司馬遼太郎さんの著作を中心に数冊読んでいますが、それ以前のものとなりますと、ほとんど興味が無いものですから、全く読んでないのです。
    そこで実に丁度良い戦国後期からの巻を、図らずも読み始めたわけですが、その後の巻がまた宝の山の状態となっています。

    第六巻は江戸(一)剣の道はるか 第七巻江戸(二)忠臣たちの哀歌 第八巻江戸(三)太平にそむく 第九巻江戸(四)大川端秋色
    第十巻幕末(一)雄図ならず 第十一巻幕末(二)暗夜を斬る 第十二巻 維新、西南戦争 南の風、北の涙
    これらの巻の中に、キラ星の如き作家たちの短編中編が収められているのです。 何という事でしょう、です。

    第六巻以降は、特に幕末は好きで良く読んできた時代ですから、とても楽しみにしています。 
    大体一冊380頁位で上下二段の小さな字の装丁ですから、後全て読み終えるのに、どれほどの月日が掛かるのかも判りませんが、楽しみながらぼつぼつと読み進んで行くつもりです。 
    本好きにとって、突如として現れた、次の本に困らないというこの贅沢感は、何年振りのことでしょうか。

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