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書きたい時に

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  • 2018/11/12 13:54
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    書きたいことを 気軽に書いてみませんか。

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    ブラッピ 11月12日 13:54

    わたしには、小学生の子供の頃から、抱えてきた一つの疑問があることは、此処にも以前書いたことがありますが,その疑問について、最近に成って、ようやく手掛かり的なものを掴むことが出来たような気がしているのです。

    先ずその疑問なのですが。 以下のようなことなのです。
    1、 人はどうして殺し合いをし、そしてまた戦争をするのだろうか。
    2、 人はどうして、他人に暴力をはたらき,体を傷付けたり、また死に至るまでに心を傷つけたりするのだろうか。

    或る人にこのことを話した時、その人は「それは本能だから・・」と申しました。
    多分「本能」から来るものだろうとはわたしも考えていましたが、わたしの知りたいのは、その「本能」の存在理由に付いてなのです。
    何故人間にはそのような「本能」が備わっているのだろうか? どうして人間は、そのような「本能」を必要としているのだろうか?
    このことが、長く長く頭に暗雲として掛かっていたのでした。

    この「本能」の存在に付いて、或る人は、「人口調節のためだろう」と言います。
    「多分人口が増え過ぎないように、自然に調節する作用として、殺し合いつまりは戦争などが絶えることが無いのだろう」と言う意見です。
    しかし、現代の地球上の人口増加を、100年前から遡って見る時、この説にはどうしてもわたしは説得力が無いように思えますし、今後も人口が増え続けるであろうことを思いますと、戦争の存在数が追い付いていないような、そんな思いも単純にするのです。

    戦後70年余りの間、ヨーロッパやアジアでは、大きな戦争は起きていません。
    そしてまたヨーロッパ諸国や日本のような先進国は、戦争は無くても、人間が自ずから故意に出生数を調節した結果、人口は減り続けているようですし、一方アジアやアフリカでの一部の地域では、人口は増え続けていますが、大きな戦争は起きていないのです。
    一説では、世界の人口は、1950年には25億人、2011年で70億人、2050年には93億人に成るだろうとの予想もあるようです。

    それでも、過去の大戦が在ったからこそ人口は此処までに抑えられているのだ、という考え方も有るかもしれません。
    確かに、過去の大戦や闘いが無ければ、現在の人口は今以上に増えていた可能性が大きいでしょうが、その事が即、人口調節論への肯定に繋がるかと言いますと、先のような現実もあり、どうしても疑問が残ることは否めません。

    そこでわたしの到達した持論なのですが、最初に書きました人間の二つの「本能」に付きまして、その「存在理由」は厳然たるものが在るものの、「その存在価値」というものは、既に過去の遺物に成ってしまっているもののようなのです。

    結論から言いますと。 二つの本能は、人間が動物だから持ち続けている本能なのだ、と言う事なのです。
    この場合の動物とは、哺乳類であり、云い方を変えれば、肉食獣や雑食獣、つまり獣という括り方で考えています。
    良く過去には「鬼畜米英」とか「鬼畜生のような奴」などと言う言葉や字句が使われたようですが、正に人間とは畜生であり、鬼畜、つまり鬼のような畜の部分を持った生き物なのだということです。


    人間には猿人からホモサピエンスへと至る歴史が有りますが、どの歴史の中でも、過去から現代に至るまでに、動物(獣)としてのDNAを捨て去った時代は、未だに無かったのだろうと思うのです。
    「鬼畜米英」だけではなくて「鬼畜日本人」であり「鬼畜人類」とも言えるのですね。

    例えば我々が動物園で見る動物は、ほとんどのものが、人間と似た内臓の構造を持っていますし、子孫を残すのも、同じような方法を持って行っています。
    最近でこそ人口受精などが行われることと成りましたが、ほとんどの子供は、他の動物と同じ方法で出産にまで辿り着きます。
    猿人の時代から、このことに然程大きな変化は無いようです。 このことからしても、他の動物が持つ闘争本能を、猿人の時代から引き継いで、人類も保持してきたとしても別に特異なことでは無かろうと思うのです。

    つまり自然の優性保護、より強い者の遺伝子を残すべき、という自然の摂理の基に、我々人類も生きてきていると言えるようです。
    言い方を変えれば、この現代社会での生活の中でさへ、我々は猿人の時代から持ち続けて来た獣のDNAを引きずって生きている、と言えるのです。

  • {上のページからの続き}

    人類のDNAの中に、動物(獣)としてのDNAも含まれているとしても、勿論これの%には個体差も有り、周囲の環境から受ける刺激により顕在化する場合もあれば、一生潜在状態のままで、表面に現れない場合もあるでしょう。
    また男女の差もあるようです。
    男女の性別から考えましたら、圧倒的に男性の方に獣DNAは多く存在し、女性には希少例は在っても、平均的には極めて少ないことは過去の歴史を捉えて考えてみても解ります。
    過去から現代にいたる軍隊内での比率や、現在の刑務所内の男女比、それも粗暴犯以上の凶悪犯の数を比較しても解ることだと思います。

    それでは解り易く、人間内の獣DNAの存在の例を挙げてみましょう。
    先ず戦争です。
    これは獣の例でいえば、縄張り(テリトリー)に類した行動ですね。
    例えばライオンなどのように、グループを作り生活する種類では、それぞれに縄張りを作り、外から侵入しようとする雄が居た場合には、グループのボス的雄は命を懸けて追い出そうとします。

    人間のように殺し合いに即成らないのは、武器が歯であり牙であり、足の爪だからですね。
    それでも力が拮抗している場合は、即死にまで至らなくても、闘いの後に力尽きてどちらかが死に至る場合もあるでしょう。
    因みに、外から来た雄が、テリトリーを守ろうとする雄を闘いの結果追い出した時、外から来た新しい雄はテリトリー内の子供のライオンを全て食い殺すことは知られています。
    因みに。昔十字軍の進撃過程でも、似たようなことが行われたようですが。

    縄張りを守る場合、また食料になる動物の不足などで、他のグループの縄張りを侵そうとする場合、人間も同じような行動を取っている訳ですが、人間の場合は体格的には非力で、牙も爪もありませんから、相手を完全に倒すのには、どうしても武器に成る物が必要になります。

    トラやライオンは何百年経っても牙や爪で闘っていますが、人間の場合は敵同士でより効果的な武器の開発が必要に成って来たのですね。
    類人猿誕生以来50万年と言う説も有るらしいですが、獣が闘いを続けて来たように、人類も獣DNDを駆使して効率的武器を開発しては、いろいろと人間ならではの装飾辞を設けて戦ってきたのです。

    モーゼの十戒に、闘うことなかれや、盗むことなかれなどが有るようですが、これは宗教と言うものの力で、人間内の、獣DNAの沈静化を願って書かれたものだとも思うのですが、然程効果は無かったようです。
    そして他の多くの宗教もまた、人間の獣DNAからの決別を計ることが、目的の一つに成っているようですが、この願いは虚しく永遠の願いとして現在も続いているようであり、その方法論で争いさえ起きているようです。

    獣の場合は、食物の盗みや、殺し合いや、姦淫は日常の正常な行動なのですが、人間の場合も似たような行動を人間故に複雑化し、現在に至るまで獣DNAの命令に従って、営々として行い続けているようです。

  • {上のページからの続き}

    そしてまた、人間の中では人間性DNAと獣DNAのせめぎ合いの場面も多く有るようです。
    人間性DNAと、獣DNAのせめぎ合いは、猿人時代はゼロに等しくとも、近代に成るほど、頻度は高くなってきているようですね。

    その結果、大国間の戦争が少なく成るなど、人間性と呼ばれる、獣DNAとの対比DNAが、力を付けるように成って来ているように見えます。
    しかし、大国の間の戦争はともかく、個人間や複数間の争いや闘い、暴力行為は未だにあとを絶たないようですね。

    殺人事件があった場合、被害者の方が被疑者を指して「人間以下だ、人間じゃあない」などと語ったりしますが、その場合の犯人は、両DNAのせめぎ合いの結果、獣DNAが圧倒的に勝利をおさめた結果の行動であったと言えるのでしょう。
    つまりそのような犯罪行為時には、人間性DNAはほとんど影を潜めていた訳なのですね。

    人間性DNAと獣DNAのせめぎあいの結果、その場では獣DNAの方が勝利をおさめたとして考えられる、人間の行動を挙げてみます。

    戦争や殺人は既に挙げましたが、物を盗む行為や、また暴力を伴って物を盗む行為も、獣DNAの勝利によりもたらされた為として考えられるでしょう。
    また、暴力的いじめや、言葉による威嚇のいじめ、またセクハラと呼ばれる行動やパワハラと呼ばれる行動も含まれるでしょう。
    弱者をいじめて弄ぶ行為も、多くの動物の間で行われる行為です。 
    獣の世界に於ける強者が、子孫を残す権利を持った優位性を、周囲に示そうとしている行為の人間版とも考えられます。

    わたしは長い間、上記の、人間の不可解な行動(人間自身に取っても不利益に見える行動)に付いて考えて来ましたが、人間の中に獣DNAを置くことにより、その不可解な行動を起こす原因が理解できたような(このような分野の全くの素人ながら)気がしているのです。

    また一方、人間性DNAと獣DNAの存在の出現度を探る時、人間の具体的な行動の中で、解り難い行動も多く有ります。
    戦争はするのですが、戦闘後の兵士に対して、英雄視、する感覚はどちらのDNAに起因したものなのでしょうか。
    また戦争に関して、その殺戮行動を文学や映画で讃える一方、同時に反戦思考を植え付けようとする内容に関しては、両DNAの、どのような絡み合いにより起こるのでしょうか。
    また個々の問題を取り上げてみますと、介護疲れによる殺人や、安楽死への手助けなどはどのように解釈すれば良いのか。
    あるいわまた、自身の子に対する虐待や、継子に対する虐待への解釈も、一様には行きそうにありません。
    このように考えますと、両DNAの間の線引きというものは、明確なものが有るのでは無く、両者のDNAの相互干渉地帯及び現象というものが存在し、それぞれが滲み合う場合もありそうです。

    つまりこれらの事柄は、人間が、性善説では語り尽くせない事も、また一方、性悪説のみでも語り尽くせないことにも、大いに関係してくるのだろうと思われるのです。
    以上のこれらの内容に異論のある方も多いでしょうが、その道の素人の一つの説として(思い付くままの、甚だまとまりの無い文ながら)書かせていただきました。

    またこのような説が、既にその道では語られ尽くされている事柄でしたら、この文は、わたしの浅学故の稚拙な作文だったと言う事になります。

  • 風の噂では、ここテキストリームは、今年の12月で終了するらしいですね。
    ここで「書きたい時に」というタイトルで、3000以上の拙文駄文を書いて来ましたが、何となく寂しく成るような、また一面肩の荷が下りるような気もしています。

    ここの「書きたい時に」の以前には、「作家吉村昭氏の作品とその生き方」というタイトルで、掲示板へやはり数年間書き込みを続けまして、その当時はお二人の常連さんが居られて、楽しく語らいながら書き続けていたものでした。
    しかしその当時わたしとしては、どうも吉村氏に関連した話から外れた所で話が弾むことが、一つの懸念にも成っていまして、丁度仕事の方が煩雑に成ったことも有り、トピを終了してしまったのでした。

    しかしその後も、何事か駄文を書き連ねて行きたいという本能には勝てませんでした。
    それは、良く歌を歌う人や、良く山に登る人、また良く絵を描き続ける人にも共通するものなのだろうと思うのです。
    画家に絵を描くことを止めよ、と言ったり、作家が、文を書くことを止めよ、と命じられたりしますと、云われた方は、多分精神がおかしなことに成るのではと思うのですが、わたしのような極々凡人にも、多少はそのような因果がありまして、たとえ下手でも歌を歌いたいとか絵を描きたい人と同じで、何時も何かヘタな文を書いていませんと、気分が落ち着かない、ということに成ってるようなのです。

    例えば一週間何かを書かなくても、どうにか平気かもしれませんが、一か月間我慢することはとても無理な感じがするのですね。
    これは子供の頃から続いている癖でして、日記も中学生の頃から書き続けていますし、今でも、此処以外の人様の所二か所にも書き込んでいるのです。
    一つは映画関連の所で、もう一つは以前から知り合いの、元女教師の88歳の方のブログへの感想なのです。

    ブログの方へは、先日はこのような書き込みをしました。
    衣食足りて・・・  というタイトルでしたが

    「衣食足りて礼節を知る、という言葉が確かにありますけど、わたし的には、衣食足りて礼節を真似る、の方が正しいと思っています。
    真の意味で礼節を知る人は、衣食足りていなくても、礼節を伴う行動に終始しますし、そうでない人は、衣食足りて、礼節ある行動の真似はしていても、肝心な所で(例えばセクハラ、パワハラなどで)馬脚を現したりします。

    では、お前はどうだ、と問われたら・・・、ハイ、わたしの世界は元々、八つぁんクマさんの世界ですから・・・余りご縁が・・と答えます。」

    これに対して彼女のお答えは。

    まぁ日常真似だけでも出来ていれば良いでしょう。・・・ということで、戦後の飢餓時代を例にして書かれておられました。

    やはり戦後の大変な時代を生き抜いて来られた方には、「衣食足りて・・・」の、基本的な意味がわたしとは違うのですね。
    わたしの場合は、例えば、立派な背広を着ている人を指して「衣食足りて・・・」と言ってるのですが、彼女の場合は、飢えるか飢えないかの時代が基本になっているのでした。やはり年代の違いですねぇ。

    まぁそんなこんなを書き続けているのですが、それで、今後此処の書き所が無くなりましたら、どうしょうかと思っているのです。
    一応は、ブログという手が有ることを考えてみました。
    しかしちょっと、ブログの作り方、と言う所をみてみましたが、わたしには、なかなかに難しいことのようです。 

    もう今更ややこしいことには首を突っ込みたくないのですが、12月までにどうなるか、ぼつぼつと考えてみることとします。
    ぼつぼつと考えていましたら、何時の間にか此処が無くなっているかも知れませんが、その場合は、もしも此処を読んでいて下さっている方が居られましたら、早めながら心からお礼を申し上げたいと思います。

    そしてまた、終了までに何か駄文が思い付きましたら、書かせていただきたいと思います。

  • 9月も終わろうかという昨今ですが、此処に書くべき材料が浮かんで来ません。

    ネタ本にしようかと思っていた、吉村昭氏の「私の好きな悪い癖」も、例の「歴史小説名作館」のほうが面白いものですから、すっかり何所かへ置いたままとなっています。

    「歴史小説名作館」のほうは、相変わらず面白いです。
    現在は江戸時代も最終段階で、{江戸四}となっていますが、最初が「日本婦道記」山本周五郎で、これは既に過去に読んでいます。
    次が「赤毛の支天台」新田次郎、それから「手鎖心中」井上ひさし、これも以前読んでいます。
    その次が「雪の日のおりん」岩井護、「爪の代金五十両」南原幹雄、「南蛮うどん」泡坂妻夫と続きます。

    此処に後の作家の名前も書きたいのですが、ちょっと面倒になりました・・・・けど書きますと。
    大佛次郎 三浦哲郎 小松政二郎 村上元三 白石一郎 北原亜以子 司馬遼太郎 山手樹一郎 池波正太郎 笹沢佐保
    平岩弓枝 藤沢周平 伊藤桂一 解説 清原康正  となっています。 良い本ですねぇ。

    この本は、地元の図書館には有りませんので、県立図書館から此方の図書館へ回して貰っているようです。
    それで図書館へリクエストして、次の巻が届くまで二週間ほど空くのですが、これがまた良いのです。
    その間には、また違う毛色の本を読めますから。

    しかし本が面白いのは良いのですが、なかなか此処へ書く材料には行き当たりません。
    別にわたしの駄文に何方も関心は無いでしょうけど、何か書きたいなぁ、という気持ちだけは有るには有るのです・・・。

  • 先日「女神の見えざる手」という映画を見ましたが、アメリカの銃規制に関する法案の、国会提出に関連したロビー活動が描かれている内容でした。
    アメリカの銃問題は、古から語られていますが、一向に解決の兆しは見られませんね。
    銃と言う事から、我が国の刀のことを少し考えてみました。

    明治九年に廃刀令が発布されて以降は、警察官と軍人他、一部のもの以外は刀を所持してはいけなくなりまして、一般家庭に有った刀は、ほとんどが没収されてしまいました。
    とは言いましても、例えば我が家にしても、わたしが子供の頃には刀が押し入れに一振り有りまして白鞘本鞘も有り、ポンポンと叩く手入れ道具なども揃っていまして、短刀もやはり押し入れに三本程は有ったのです。
    代々我が家に伝わるものかどうかは知りませんが、父は晴れの日の夜には時々手入れもしていました。
    わたしは父が刀を手入れしている姿を、側に座って何度か見ていますが、父はその度に「家に刀が有ることは誰にも言ったらいけんぞ、お父さんが警察に捕まるんだからな」とわたしに告げたものでした。
    わたしは子供心に恐ろしき事実を知った面持ちで、座ったまま何時も「うん」と頷くばかりでした。

    そんな子供の頃、わたしの通う小学校の校庭に沿った路では、度々両手に手錠を掛けられた男が、刑事らしき者に、綱で繋がれて歩いて行く姿が見られたものでした。
    当時は進駐軍の方針で、国家警察と言うものと、地方警察という組織が別々に在りまして、その両方の警察を繋ぐ道が、丁度小学校の校庭の横の路になっていたのです。
    天気の良い日に校庭で体操をしていたり遊んでいると、手錠に反射した光がピカッーと光って届き、わたしは思わず何気ない顔で可能な範囲で近づいては、手錠の男の顔を確認したものでした。
    父親の言葉から、遠目には手錠の男はどうしても父の背格好のように見えてしまうのでした。
    学校から帰宅する時には、もうそんなことは忘れてしまっているのですが。

    その刀は割と良いものだったらしく、近所の刀好きの小父さんが、永年に亘って欲しがっていたことを知っていました。
    父が、警察へ届けていないから売られない、といいますと「な~に天井裏から出て来たと言えば、直ぐに許可が出るから関係ないよ、自分が世話をしてあげるよ」などと気安く請け合うのでした。
    結局その刀はその小父さんの熱意に負けて、警察へ届けて登録を済ませたのち、叔父さんの持ち物となりました。
    美術骨董価値が有る、と言事で、所持が認められるほどのものだったようです。

    話はちょっと変な方向へ行きましたが。
    アメリカの銃社会のように、我が国も江戸時代から続く刀社会だったらどうなっていたでしょうか。
    各家庭に刀の一振りや二振りは有り、脇差や匕首なら二~三本は何処にでも在る社会でしたら、おそらく今ほど安全な社会には成っていなかったでしょうね。
    現代良く取り上げられる、あおり運転、にしても、直ぐに切ったはったの血なまぐさい事に成ってしまうでしょうし、学校内でも、児童による匕首振り回し騒動などが頻発する社会に成っていたかも知れません。

    刀廃絶運動が展開されても、全国刀協会が、あおり運転のあげくに刀で襲われないようにするには刀を持つしかないのだ、と反発しそうですし、我々の祖先は刀があったからこそ、世界に誇るこの国を守ることができたのだとも言いそうです。

    そうしてみると、完全実施に時間は掛かったものの、廃刀令の効果と言うものは大きなものがあったのですね。
    元々濃厚に持っていた「お上」に対する服従の精神や、国土の狭さ、また農耕民族ということも幸いしたのかもしれません。
    アメリカも禁酒法実施の時、それより先に廃銃法も実施していたら、今ほど全米ライフル協会も勢いが無かったかもしれませんが、当時の考え方としては、銃より酒の方が危険な代物だったのでしょうかね。

    映画のことから、ふと思いつくままに書いてしまいました。

  • 最近はまた、吉村昭氏の随筆集「私の好きな悪い癖」を読んでいます。
    他のもう一冊の本と並行して、その時々で取っ替えながら読んでいるのですが、この本を読み始めましたのは、~此処「書きたい時に」へ書く材料がもしかして転がっているかも・・~ という不純?な目的も有ったからなのです。

    因みにもう一冊は「ドン、キホーテ」です。
    これは若い頃も読んでいるのですが、口語体の難解な本しか無くて途中で挫折していまして、今回娘の知り合いに教えて頂いた{青少年向き}の読み易いものの存在を知り読んでいるのです。
    難解且つややこしい文献は、{青少年向き}を読むに限りますね。
    以前も宗教の変遷に関した{青少年向け}の「神さまってなに」でしたか読みまして、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のややこしい関係などの大枠が解ったような気がしたものでした。
    吉村氏の「私の好きな悪い癖」を読み始めましたら、早速一つの文が浮かんできました。

    「ペニシリン」
    吉村氏の他の本の中でも何度か見ることができましたが、氏の若い頃の思い出の中に、自転車屋の親父さんからペニシリンの注射をしてもらう場面があるのですね。
    わたしの好きな場面で、読むたびに、縁側の陽だまりの奥の座敷の風景が目に浮かんでくるのです。
    氏は二十歳のころ、肺結核の末期患者となり、新しく我が国に導入されたばかりの、壮絶な開胸手術を受けています。
    術後三年ばかり後には、一応平癒して大学へ入学していたのですが、そんな或る日高熱が出て、自宅にて寝込んでしまうのですね。

    主治医の町医者と大学病院の先生が共に、結核の再発だと診断をし、絶対安静を指示されてしまいます。
    そんな時、親しくしていた自転車屋の主人が見舞いに来まして「なんにでも良く効くらしいペニシリンと言う薬があるから、毎日来て打ってあげるよ」と言って注射器で腕に打ってくれるのですね。
    断り切れなかった吉村氏でしたが、注射を打つと、四十度有った熱がたちまち下がり、平熱に成って体調も急に良くなるらしいのです。
    主治医の先生は非常に不思議がっていたようですが、注射が続くにつれて平熱の日が続きだし、咳も治まって、体調も良く成ったのですが、主治医の指示で相変わらず安静にして布団に臥せている生活は続けられるのです。
    その内、結核の専門医に診てもらうのですが、結核は完治しており、高熱が続いたのは肺炎に罹っていたから、ということがわかるのですね。
    その肺炎もペニシリンのお陰で完治していたことが判り、吉村青年が喜んで病院をあとにする姿が書かれています。

    わたしもペニシリンは何度か打たれました。 ほとんど風邪を引いた時のことだったようですが、社会人に成って、健康診断では何度かレントゲンの再検査を指示されましたから、もしかしたらその時肺炎の兆候も有ったのかも知れません。
    その当時何故かペニシリンの注射はお尻に打たれました。
    ベットに俯きに寝たわたしのズボンとパンツを看護婦さんが下げて、先生がブスリと片方のお尻に注射器の針を差し込むのですね。
    中学生くらいまでのことだったようで、余り恥ずかしさは感じませんでしたし、まな板の上の鯉的、あきらめの心境にその都度成っていた記憶があります。

    そんな或る日、両親のひそひそ話を聞いたことがありました。
    母親が何処かで聞いて来たらしく父親に話しているのです。
    「〇〇さんがこの間うちに来た後、近くの医院で死んだらしいんで」
    「えっ、あの日今までうちで借りていた金をまとめて払ってくれたばかりじゃないか」
    「そうなんよ、その足で医院に行って、ペニシリンを打ったらショック死したらしいのよ」
    「そうか・・・それにしても先にうちに来て・・・」
    「そうなんよ・・・可哀想になぁ」
    「そうか・・・」
    もう六十年も前になるような話ですが、ペニシリンと聞く度に、当時子供ながらに、話の中から、父母の心境を探っている自分が居たことを思い出すのです。

  • 長年事務所で使っていた椅子を二脚、市の廃棄物センターへ持って行きました。
    一つは大きなひじ掛けの付いた椅子で、大きな会社の課長級以上の使いそうなもので、もう一つは簡素な、会社で言えば平社員の使うような椅子です。
    それぞれが思い出の詰まったものなのですが、簡素な方は既にもう10年ほど前から壊れて使っておらず、大きな方は、最近とうとうキャスターが壊れてしまって使えなくなったのです。

    大きな方の椅子は、その昔の或る日、わたしの前職の先輩から「会社が椅子を廃棄処分にするから要らないか、まだ充分使えるから・・」との連絡が有って、トラックにて出かけ貰って帰った物でした。
    営業部長が使っていたとか言われましたが、大型でどっしりとして、湾曲した肘当ての付いた椅子は座り心地が良く、零細商店の社長よりは椅子の方が立派に見えて、当初、座らせて貰っている、といったような感じがしたものでした。

    しかし、その時に連絡してくれた先輩も今年で86歳と成りましたから、定年退職して26年にもなり、それからしますと、椅子は我が店の事務所で約28年間も使ってきたこととなるのです。
    元々大きな会社で10年は使われていた椅子は、28年の間にはすっかり古びて、ひじ当てのレザーは剥がれて、従業員が布で修理してくれていたものの、従業員の居ない最近は、下地の木の板がむき出しになっており、座る面は、これも前部のレザーが剥離して、留め金の列がむき出しに成って見えるほどになっていました。

    親しいお客さんからは「辛抱するなぁ・・」とか、「お金が有る人ほど、こんな椅子に平気で座るのよなぁ・・」とか皮肉も言われ、椅子をくれる以前から数十年間、毎週のように遊びに来ている先輩からは「まぁ良く長持ちさせるは・・あれから何年経ったのかなぁ・・」などと、半分呆れ顔で言われていました。
    わたしとしては別に辛抱している訳でも、木の下地まで見える椅子が恰好悪く思える訳でも無いのですが、ただ新しい椅子に取り換えることが面倒で、そのまま使っていただけなのです。

    しかしとうとう寿命が来ました。 或る日椅子の下に取り付けられたキャスターが一つ外れましたので、椅子を倒して捩じ込んだのですが、すぐにまた次のキャスターが外れ、そんなことが続く5回目ほどにはとうとう諦めてしまったのです。
    娘と二人で椅子を28年振り位に事務所から出し、軽四輪に乗せて、市の廃棄物センターへ持って行くこととしましたが、ついでに、もう一つ使わなくなっていたままの椅子も、持って行くことにしました。

    簡素な方の椅子ですが、その椅子も背もたれや座る面のレザーが剥がれ、背もたれには父の貼ったガムテープが付いたままになっています。
    一度同業者が知らずに掛けて、背もたれにもたれて、後ろにひっくり返りそうになった椅子ですから、座ることも無く、ただ父が使っていた机の前に置かれたままになっていたのでした。
    わたしと父の机は、事務所の中へ並べて置かれ、約25年の間、出張の多いわたしでしたが、時には並んで事務をとっていたものでした。
    父は平成9年に亡くなりましたから、その後21年間、父の椅子は父の机の前に置かれたままに成っていたのです。
    父が長年座っていた椅子ですし、父の修理した跡も見えますから、どうも捨ててしまう気に成れなくて置いたままになっていましたが、実際に父が座っていた頃は、幾分煙たい気分にも成っていたわたしですから、まぁ都合の良い感情でもあるのですけどね。

    娘と「さぁジイさん椅子を捨てるで」と言いながら事務所から出し、軽四輪に積んだ大きな椅子の横に積み込みました。
    「行って来るは」と、見送る娘をあとに出発して、約20分後には廃棄物処理場の入り口で手続きを済ませ、何やら大きな音が響いたり、燃えないゴミと粗大ごみの脈略無く捨てられた屋内処理場の片隅に椅子を二つ並べて、車の中から一度振り向いて見て帰ったのでした。

  • 先日、「徹子の部屋」を見るともなく見ていましたら、綾野剛という青年が出ていました。 
    映画俳優らしいのですが、少し内容を聞いていると「東京へ出て来て後、初めて小栗旬さんが部屋へ来た時に、余りに家具が無いので驚いていました」といった内容の話をしていました。
    ~そうだよなぁ、男の最初の一人暮らしは何も無いんだよなぁ~と、つい自分が大阪で初めてアパートへ住み始めた頃、昭和38年の頃のことを思い出してしまいました。

    18歳から19歳の頃でしたが、3畳一間で、トイレと流しは共同で風呂は近くの銭湯、家賃は3000円なのですが、二人で住んだので、二人で4500円ということにしてくれました。
    3畳一間に二人で住めたのは、お互いに一昼夜勤務で、反対の出勤番に会社でしてもらったからなのです。
    それで家具は無し、電化製品は勿論無し、有るのは田舎から送った布団だけでした。 
    それで暫くして、近所の八百屋さんからリンゴ箱を一つ貰いました。
    時々リンゴなどを買ってたので、頼み易く、お願いすると「良いよ持って行きな」と一箱出してきてくれました。

    リンゴ箱の空いた方に本を入れたり洗面器を入れたりして、それまでは畳の上に食物を並べて食べていたのですが、やや高い位置で食べることができるようになりました。
    その後一年後位に、ようやく三畳一間に一人で住めるようになりました。 同じアパートの同じ作りの部屋でした。
    今までの倍の住まいに出世したのですが、相変わらず家具はリンゴ箱一つだけで別に困ることもありませんでした。

    その内、母がわたしの生活を見に来ました。 ここらが父子家庭となっていた自分の息子の場合と違います。
    当時すでに離婚していたわたしは、同じく高校を卒業して大阪へ就職した息子のアパートへは、一度も行きませんでしたから。
    このような場合、どうも男同士ですと、自分の若い頃の心理を思ったりして、何となく行き辛いものがあるものなんですが、母親はそんなことは頓着無いのですね。
    「ちょっと行くで・・」と言って、田舎からズカズカと出てくるのですね。
    三畳一間の部屋ですから、流石に泊ることはせず、日帰りで九州へ帰って行きましたが、座敷箒と塵取りを買ってくれました。
    わたしがゴミを手で寄せて、空いた箱などに入れているのをじっと見ていたのですね。

    その後一年程経った頃でしょうか、同郷の柔道部の先輩が「同じアパートに来いよ」と誘ってくれたので、移ることとしました。
    今度は六畳一間で、トイレは共同で風呂はありませんが、コンクリの小さな流しが付いて水道の蛇口も付いていました。
    そこは家賃が6000円でした。 驚いたことに、グーグルの地図を見ると、未だにまだ残って建っているのです。
    わたしが居た、一階の角の部屋は、窓の開け閉めが非常に難しく、ほとんど開けたこともありませんでしたが、グーグルの地図でみると可笑しいことにそこの部屋だけ、サッシの窓に替えているのです。 
    他の窓は、木の枠のガラス窓のままでした。 しかしそのサッシ窓ももうすっかり古びて、今どき見なれない白い細いものなのです。

    そこのアパートへ移ってからは、家具らしきものが少しづつ増えました。
    まずテレビを買える経済状態になりました。 小さなテレビを初めて買って、部屋の畳の上に置いて、寝て見れば丁度よいような格好になりました。
    リンゴ箱は何時の間にか無くなり、また食品は畳の上に並べて食べたものでした。
    今のように、コンビニも無いし総菜屋も無いし、弁当屋も無いので、ご飯を食べる、ということは、和菓子屋で赤飯を買って食べるしかありませんでした。
    その頃は、竹の皮に赤飯を匁で計って乗せてくれました。 また、料理をせずに食べられるおかずで最も手軽なのが、焼き豚でした。

    赤飯と焼き豚を畳に広げて、水を飲みながら随分食べたものでした。 そうしていると、夜勤明けの先輩が「おーい銭湯へ行こう」と窓の外から呼ぶのです。
    先輩は別府の出身ですから、どうかすると一日に二回は銭湯へ行ったりします。
    わたしが「もう風呂屋は行きました」と答えると「もう一回いこうやぁ」と抵抗なく言えるのです。
    その内ちゃぶ台を買いました。 鉄の足を四つ開いて机状に成る物です。 これは随分長く持っていて、壊れない物ですから、田舎へ帰る時も持って帰りました。

    そんなころ、コタツを買いました。 それまでは寒い日は布団に入っていたのですが、ようやく電気の温かみを得ることができるようになったのです。
    それから次は洋服ダンスを買いました。 その前に掃除が面倒だから、割と早目に掃除機を買いました。
    これらが揃うのには、アパート生活を初めて4年ほどの月日が流れていました。 
    給料も少しづつ上がり、ボーナスを貰ったりした時に、少しづつ揃えていったのでした。

    その頃は、先輩たちに負けないように仕事を憶えて行くことが最も大きな目標であり、アパートの部屋は、ただ寝に帰るのみといった存在でしたから、家具も最小限の物しかなく、部屋の掃除もほとんどしたこともありませんでした。
    家具の面から見て、ようやく人間らしい生活に成ったのは、8年以上の独身生活の後に結婚をしてからのことだったのです。
    学校を出て都会へ就職のため出かけ、生活を始めた若い男たちは、わたしの息子も含めて、みんなそんなものだったのでしょう。
    今考えてみると、何とも懐かしきほろ苦き日々です。

  • この炎天下で、毎日不明者の捜索や、被災家屋家財の片付けが続けられていますね。
    被災者の方々や、ボランティアの方々も大変なご苦労のことと思われます。 
    どうか無理をされずに、休憩を取りながら、ご自身の健康に気を付けて作業をしていただきたいものだと思います。

    わたしも若い頃、山崩れで埋まった人の掘り出しに、たまたま加勢したことがありました。 
    水を含んだドロドロの赤土が山から民家へなだれ込んでいて、そこのお婆さんが生き埋めに成ったと言うのを聞いて、泥の斜面を登って行ったのですが、一足ごとに膝まで埋もれて、ようやく足を抜くと、長靴は泥の中に残ってしまいました。
    長靴は後で掘って探すこととしまして、二階家の壁の崩れた付近の泥を数名の人とスコップで掘りましたが、水をたっぷりと含んだ赤土はとても重たく、一度に多くの土をスコップへ乗せることはできませんでした。
    一時間も皆で掘ったでしょうか、ようやく体の一部が出て来て、それからは皆手で泥を除けていきました。

    家族の方は下の離れた庭から、わたしたちを見上げていましたが「もう良いですから、あとは家族でしますから」と何度か言われていました。
    しかしわたし達もその作業の大変さが解っていましたから、全身が出てくるまで、皆で泥土を掘り続けました。
    警察の人も数名掘っておられましたが、鑑識らしき人が、わたしたちにちょっと離れて下さいと言って、現れたお婆さんの遺体を写真に何枚か撮りました。

    わたしは自分の手伝いも此処までで良いだろうと、泥の斜面を下りて行き、長靴を掘り出して自分の仕事に戻ろうとしました。
    しかし、ドロドロに汚れた作業服で車に乗ることもできません。 付近を見ますと、幅2m位の農業用のコンクリートの溝に、深さ30cm程の比較的綺麗な水が勢いよく流れていました。
    わたしはポケットの中身を出して、作業服のまま水の中に横たわり、胸まで水に漬かって汚れを落としました。
    そうすると、一緒に土を掘っていた人達が何人か溝に入ってきました。 誰からともなく「あ~・・は~・・」と、言葉にならない言葉が出て来て、暫く水の流れの中に身を任せて空を見上げていました。
    そうして後、皆それぞれに分かれて去って行ったのでした。

    まだボランティアという言葉も知らない時代でしたが、その時のことを、災害のニュースを見る度思い出します。
    あの時のわたしは僅かに2時間ほど作業を手伝っただけで、しかもあの時は、限られた山の一部が崩れただけでしたので、近くに綺麗な水の流れが有り、わたしたちは浸かって息を吹き返すことができたのです。
    しかしテレビで見る被災地は、比較に成らない過酷な条件下にあるようです。 ほんとうに「どうかお気を付けて、ご苦労様です」と言わずにはおられません。

  • 最近はちょっと変わった本を読んでいます。
    人に寄ってはもうとっくにご存知の方も居られるでしょうが、わたしは当初この本を手にした時、「へーこんな本もあるのか」と、本当に驚いたようなことでした。

    この本を知ったのは、地元の図書館へ滝口康彦氏の本をリクエストしたことからでした。
    滝口氏の本を一冊読んで、著者の作風が気に入り、図書館内を探しましたが他に見当たりません。
    図書館へリクエストしますと、他の作者との共著のものなら有ります、ということでわたしの手元に届いたのです。

    その本は「歴史小説名作館」というものでした。 滝口氏の作品の載ってる本は、その第五巻で戦国(二)雲のかかる峯 と題が付いています。
    驚いたのはその本の内訳なのですが、以下のような作家の、短編集の構成になっています。

    藤沢周平 逆属の旗、 尾崎士郎 篝火、 山岡荘八 本阿弥辻の強盗、 井沢元彦 身中の虫、 以下作家名だけを書きますと、富田常雄 柴田錬三郎 
    遠藤周作 澤田ふじ子 松本清張 南条範夫 山田風太郎 来水明子 司馬遼太郎 永井路子 井伏鱒二 五味康祐 滝口康彦 となっています。

    本好きにとっては、驚くべき実に錚々たるメンバーです。
    この本の中でわたしが既に読んでいるのは、司馬遼太郎さんの「割って、城を」のみでした。

    しかもまたこの本はシリーズものの第五巻で、全部で第十二巻まであるのです。
    第一巻は、古代・王朝 虹の絵巻 そして第二巻は源平・鎌倉 もののふの譜 第三巻は南北朝・室町 暁闇にうごめく 第四巻は戦国(一)夢幻か
    そして第五巻が今度の本なのです。

    実はわたしは、浅学者ゆえの哀しさで、日本の歴史の中で、戦国時代以前には余り興味が無いほうなのです。 辛うじて戦国時代のものは、司馬遼太郎さんの著作を中心に数冊読んでいますが、それ以前のものとなりますと、ほとんど興味が無いものですから、全く読んでないのです。
    そこで実に丁度良い戦国後期からの巻を、図らずも読み始めたわけですが、その後の巻がまた宝の山の状態となっています。

    第六巻は江戸(一)剣の道はるか 第七巻江戸(二)忠臣たちの哀歌 第八巻江戸(三)太平にそむく 第九巻江戸(四)大川端秋色
    第十巻幕末(一)雄図ならず 第十一巻幕末(二)暗夜を斬る 第十二巻 維新、西南戦争 南の風、北の涙
    これらの巻の中に、キラ星の如き作家たちの短編中編が収められているのです。 何という事でしょう、です。

    第六巻以降は、特に幕末は好きで良く読んできた時代ですから、とても楽しみにしています。 
    大体一冊380頁位で上下二段の小さな字の装丁ですから、後全て読み終えるのに、どれほどの月日が掛かるのかも判りませんが、楽しみながらぼつぼつと読み進んで行くつもりです。 
    本好きにとって、突如として現れた、次の本に困らないというこの贅沢感は、何年振りのことでしょうか。

  • 高橋克彦さんの本を読んでいたら、彼の子供時代の遊びが物語の中で語られていた。 また「町内に数十人の子が居て、その内町内に残っているのは4人だけだ・・・」と言う文章から、自分の場合を考えてみた。

    わたしの生まれて育った町内は、古い住宅の立ち並ぶ街中で、家の前の100m程の長さの道は、車が一台どうにか通れるほどの道幅で、両側に隙間なく同じような住宅が並んでいた。
    勿論、舗装はされていない小石まじりの地面の道だった。

    その内、我が家と我が家の右隣の角家、またその家の前の同じく角の家、そして我が家の左側の家と、その前の家のみ、つまり通りの南端4軒の家のみがその通りで商売を営んでいた。
    当時の、その通りの両側の家の、高校生位までの子供の数を思い出しながら数えてみたら、27人程数えられた。
     
    そして現在その通りに残って生活している者は、一人八百屋のK坊だけだ。 K坊と言っても、もう50代だろう。
    我が家を含め、その通りで生活していた人達は、皆あちこちに移転してしまっており、現在は居酒屋風の店が多い通りに成っている。

    わたしの生まれて以来の記憶の中で、一番古いものは、それこそK坊のお祖母さんとの話の遣り取りで、今でもその場面は鮮明に覚えている。
    わたしが隣の家との境の電信柱の下で、三輪車に乗っている時、K坊(K坊はまだまだ生まれてもいなかったし、K坊のお母さんもまだ結婚もしてなかったが)のお祖母さんから話し掛けられた。
    「Jちゃんは幼稚園には何時から行くん」
    「さらいねん」
    「そうで再来年で・・・」
    それだけである。 どうも「さらいねん」という言葉は、意味不明ながら、親から何度か聞かされていたので、そう答えて置けば、大人は納得するようだと子供心に覚えていたようだ。

    その通りは、今でも信用金庫などへ行く時に自転車で良く通るから、電信柱を注意して見たら、やはり同じ所にやや細めのものが有った。
    そこの電柱は、K坊の店の前の大きな電柱と違い、昔からやや細めの物だったのだ。

    さらいねんが幼稚園、と言う事は、その時は3歳だったのだろう。
    今から丁度70年前のこととなる。
    当時は、下(しも)のひろ子ちゃんと何時も遊んでいた時期で、愛犬ジョンを飼い始める前の年になる。

    わたしの家は、家の前の通りを70m程離れた所に、もう一軒の下(しも)の家、と呼ばれていた家を持っていて、そこの家には、叔父夫婦が住んで居たり、親戚の家族が住んだり、また祖父夫婦が隠居家として、住んで居たりした。
    二組の叔父家族は、それぞれ銀行員と高校教師だったから、転勤によって、都合よく入れ替わって住んで居たようだ。

    わたしの2~4歳の頃は、銀行員の叔父家族が住んで居たので、従姉妹で同い年のひろこちゃんとは、毎日お互いの家を行き来して遊んでいた。
    今でも、ひろこちゃん、という音の響きには、特別の思いが有り、数十年ぶりに法事で会った時には、お互いに微笑みながらちゃん付で呼び合ったりしたものだった。

    その頃のわたしの最も好きな言葉は、ひろこちゃんのお母さんから語られる言葉だった。
    「ひろこは、Jちゃんといっしょに成れれば良いのにねぇ」
    本当に心のとろけそうな言葉だったが、恥ずかしくて、うつむいて聞いていたりしていたものだった。

    ひろこちゃんはその後、わたしたちが幼稚園に入園する直前に、一家で引っ越して行った。
    叔父の転勤先が、隣の県だったからだ。 気の抜けたようになったわたしの友達は、前年から飼っていた雑種犬のジョンだけだった。
    弟はまだ小さすぎて、遊び相手には成らなかったようだし、隣近所の男の子とも、余り遊ばなかったように記憶している。

    ジョンはその後、わたしが高校三年生に成るまで生きて、放し飼いながら毎日夕方には家に帰り餌を食べていたものだった。
    或る日、高校から帰ったわたしを、母親が心配顔で覗きながら「ジョンが死んだんで・・」と小声で告げた。
    幼稚園に入る前から、特別わたしに懐いていたジョンの死が、わたしに与えるショックを心配していることが察せられた。

    わたしは自分でも意外な程、冷静だった。 その頃では、すっかり動きの少なく成ったジョンを見ると、偶に頭に手をやる位になっており、ジョンの反応も少し尾を振るほどにしか喜びを現わさなくなっていたのだった。

    わたしと父は長靴を履き、わたしが「さらいねん」と答えた次の年から我が家に居たジョンの骸を、防波堤から海へと流した。
    そして次の年には、わたしは大阪へ就職のために出発した。

  • 大阪の地震では、痛ましい犠牲者がでました。
    小学生が挨拶運動の為に早めに登校していて、ブロック塀の下敷きに成るなど。 安全でなければ成らない学校が、幼い命を奪うような構造を有していたなど、本当に考えられない事です。

    あの塀を設置する時、学校側が建設会社にブロック塀を要請したのか、それなれば、建設会社は、違法だし安全上甚だ問題が有ると、学校へ返答しなかったのか。
    学校側はブロック塀の安全上の要件など、然程詳しくはないだろうから、建設会社の方から当然指摘されるべきことなのだが、それが成されて無い場合には、建設会社の責任は甚大なものとなるだろう。
    もし、建設会社の指摘が有ったにも関わらず、学校側が方針を変えず、建設会社は言いなりになってブロック塀を設置したとしたら、今度は両者に多大な責任が生じることとなる。

    しかしそれにしても何よりも、あの不安定で違法なブロック塀を立てる時、その場の建設会社の者は、なんの疑問も罪の意識も感じなかったのだろうか。
    自分の遣っている作業が、如何に危険な物を作り上げようとしているのか、そういった認識は無かったのだろうか。
    下の道路を子供たちが通るのは解っていて、さして鉄筋も使わないブロック塀を、下のブロック塀の上に積み上げていく。
    そしてそれにより、罪のない子供の命が犠牲に成る。

    あのブロック塀が倒れたTV画面を見る度、最近の人々の風潮のようなものを、目の当たりにした気がして仕方ないのです。

  • 本当に本当に久しぶりに、映画「かくも長き不在」をDVDで見ました。
    調べてみると、1961年フランスで制作、その年のパルム、ドールを獲得して、1964年に日本で公開、その年のキネマ旬報外国映画でベストワンとなっています。 わたしは多分、その公開年か翌年に見ている筈ですから、19歳か20歳の頃となります。
    これも多分となりますが、映画館は大阪北の、北野劇場だったのでしょう、今日までを思い返せば、半世紀以上のかくも長き年月です。

    この映画を見たのは、昭和で言えば39年か40年と成る訳ですが、わたしは昭和38年の2月24日に大阪の地を初めて踏みまして、その年か39年にはわたしの生涯のベストワン「ニュールンベルグ裁判」を見ています。
    その他にも思い付くままに書きますと、「鉄道員」や「刑事」「ワラの男」「若者のすべて」・・・また心に残るヨーロッパ戦線を画いた幾つかの戦争映画を見ています。

    当時35mmと言われていました映画でしたが、四角に近い小さ目の暗い画面から、多くの情感が、若い多感な心に沁み込んで行った記憶が残っています。
    この作品も、その中の一つですが、当時やはり強く心に響くものが有って、映画が終わっても暫くは、椅子から立ち上がり難かったことを思い出します。

    今回映画を見始めましたら、次のような文字が始めに写りました。
    「本作はフランス国立映画センターの協力により、オリジナルネガから4K解像度でデジタル化され、2K解像度で修復が行われた」

    内容は、戦争後のパリの、一街角で繰り広げられた物語なのですが、戦後20年にも満たない当時に見た感慨とは、また違った印象を受けることとなりました。
    戦後73年にもなった現在では、あの戦争で受けた人々の心の傷が、どうしても少し薄れた感覚としてしか、受け入れられなかったようであり、また、20歳前の頃の自分の抱いていた結婚観と、その後結婚をして離婚をした後の、自分の中の、夫婦と言うものに対する心の持ち様の変化が、映画を見ていて現れたようでもありました。
    映画の内容は、見たい方も居られるかと思いまして、ここでは割愛させて頂きます。

  • 明日は史上初の米朝首脳会談が開かれるようですね。 以前わたしは、米中露の三国で密約の上で、アメリカの北に対する攻撃が有るかも・・・、と書いた記憶が有るのですが、どうやらそうは成りませんでした。
    一方で、北も、絶対に負けることが判っている戦争を、選ぶ方向には進まないだろう、とも書きましたが、この方は当たり、色んな攻撃兵器の見せ付けを終えた後には、コロッと態度を変えて、首脳会議の実施の道へと舵を切って行きました。

    問題は明日の会議の行方ですが、まず考えられますことは、以前も有ったように、核兵器製造中止と核兵器製造工場の閉鎖を北が提示するのでしょう。
    それに対してトランプ氏は、一応次の、より進んだ段階を求めながらも、一定の成果有りということで、一部の経済制裁を中止するかもしれません。
    此処らの根拠は、トランプ氏の政治的行動成果強調のための、乞う希望的、拙速判断を予見したもので、北自体も考えそうな事なのです。

    それで先ず今回の会談は、友好ムードの内に閉幕し、次回の開催を、北は具体的日程は決めずに、あるいわ一応空約束はして、別れるような気がします。
    そこで問題は、核兵器製造中止と工場閉鎖の現地視察が、IAEAによって滞りなく実施されるかどうか、となる訳ですが、まずスンナリとは行かないでしょう。
    北としては、折角の虎の子の核兵器を手放すところまでには、トランプさん個人を信用できる、信頼に値する人間としては思っていないと思うのです。
    IAEAの査察も、以前のように肝心な所はお断りして、うやむやに済まそうとするだろうと思われます。

    この付近の北の対応は、先の北の中露との会談で確認織り込み済みのような気がします。
    ただこれら一連の行事の流れは、明日の米朝の会談からは、随分長いスパンで進んで行くように思われます。
    北としては、その間のアメリカをはじめとした、日韓の経済支援が欲しいからなのです。
    中露からも、米日韓に遠慮することなく援助を受られる、ということも、対中露会談で確認済のような気もします。
    とりあえずそれで一息付いて、後はまた核保有国としての地位の確立を、ジワリと世界に誇示して行きたいと言う事のように思うのです。

    これが今回の北の米朝会談の主目的なのでは、とも思うのですが、わたしの予想などは多分当たらないでしょうから、それ以上の真っ当な好結果を、是非期待したいものだと思います。

  • 先日久しぶりに「シェーン」をDVDでみました。 やはり名作ですね~。 西部劇ですが、とても細やかな心理描写を感じました。

    シェーンと、シェーンの転がり込んだ家族の夫婦との関係が、微妙に語られていましたね。
    シェーンとそこの奥さんは、お互いにちょっと好感を持ってしまうのですね。 
    それを男の子が無邪気に「僕シェーンが好きに成った、お母さんも好きだろぅ?」などと言うものですから、お母さんはシェーンが部屋を出た後、夫に
    「私を抱きしめて・・・」などと言いますね、心憎いような演出です。

    夫が一人で、悪人と対決する為に出かける場面も、繊細な心理描写がありますね。
    夫が妻に「俺もバカじゃないから、気が付いていたんだ、俺が死んだ後も生きていけるさ」と、暗にシェーンの存在を匂わせますね。

    それでシェーンは、夫が対決に出かけようとするのを懸命に、引き留めますね。
    夫を行かせず、自分が対決に出かけようとするのですね。
    しかし夫のほうも頑固者で「これは俺の問題だ!!」と、あくまで自分が出かけようとして、殴り合いになります。
    とうとうシェーンは、夫を拳銃で殴り倒し、自分が悪人との対決に出かけますね。
    男の子は「銃で殴るなんて卑怯だ!!」と、シェーンを責めますね。

    シェーンとしては、自分と妻の間に生じた、仄かな気持ちを理解してなお、悪との対決のために一人で出かけようとする夫を、絶対に行かせることはできないし、世話に成った家族の為に、夫を殴り倒してでも、自分こそが命を懸けて悪人と対決すべきなのだ、と思っているのですね。
    男の子が隠れて付いてくるのを知らず、シェーンは町の酒場へ、対決のために出かけて行きます。

    男の子の助けも有って、運よく3人の悪人を倒しますが、シェーンも腕に銃弾を受けます。
    男の子は「銃で殴るなんて卑怯だ!!」と言ってしまってことを泣きながら詫びますね。
    シェーンは去って行く前に、男の子の頭に手を乗せ「強い男になるんだぞ」と諭しますね。

    男の子は、馬で去っていく後ろ姿に、シェーンの名を呼び続けますが、強く成れと諭されたことから「シェーン帰って来てくれ」とは言い難いのですね。
    しかし、もう声も届かない程の遠くへシェーンが去り、見える姿も、夕もやの中で小さく成ってしまってから、本心から叫んでしまいますね。

    「シェイン、カムバーク」

  • 津本陽さんが亡くなったそうだ。 津本さんの作品を検索してみたが、以下の作品を読んでいるようだ。 他にも数点読んだ作品が有るようなのだが、一応、しかと記憶の有るのは、以下の作品のようだ。

    この中で、まず最初に読んだのは「薩南示現流」だった。 示現流の開祖の話で、重厚な筆運びに圧倒されるような気持に成ったものだった。
    その本はその後、高校時代から剣道をやっていた娘婿に、帰省の折進呈した。

    それから他の作家の本を読む間にも、ポツポツと読み続けてきた。
    以下、検索した既読の作品を張り付けて置く。

    『深重の海』(1978年、新潮社)のち文庫、集英社文庫 『南海綺譚』(1980年、文藝春秋)のち文庫(短編集) 『闇の蛟竜』(1981年、文藝春秋)のち文庫(維新期時代小説) 『明治撃剣会』(1982年、文藝春秋)のち文庫(短編集) 『薩南示現流』(1983年、文藝春秋)のち文庫(表題作は東郷重位を描く) 『剣のいのち』(1984年、朝日新聞社)のち文春文庫 『明治兜割り』講談社 1984 のち文庫(表題作は榊原鍵吉を描く) 『日本剣客列伝』講談社、1985 のち文庫 『柳生兵庫助』毎日新聞社 1986-1989 のち文春文庫、双葉文庫 『富士の月魄(つきしろ)』(1986年、文藝春秋)のち文庫(維新後の静岡藩を描く) 『清水次郎長』(1987年、角川書店)「修羅海道」文庫 『新陰流小笠原長治』新潮社 1987 のち文庫 『千葉周作』講談社、1988 のち文庫、角川文庫 『下天は夢か』(1989年、日本経済新聞社)のち講談社文庫、角川文庫、集英社文庫 『巨人伝』文芸春秋 1989 のち文庫(南方熊楠を描く) 『幕末大盗賊』光文社 1989 のち文庫 『黄金の海へ』文芸春秋 1989 のち文庫(紀伊国屋文左衛門を描く) 『北の狼 津本陽自選時代小説集』集英社文庫、1989 『お庭番吹雪算長』文芸春秋 1990 のち文庫 『幕末剣客伝』講談社 1991 のち文庫、双葉文庫(中島登を描く) 『夢のまた夢』(1993 - 1994年、文藝春秋)のち文庫、幻冬舎文庫(豊臣秀吉を描く) 『朱鞘安兵衛』光文社 1993 のち文庫 『前田利家』(1994年、講談社)のち文庫 『椿と花水木 万次郎の生涯』読売新聞社 1994 のち新潮文庫、双葉文庫、幻冬舎文庫 『大わらんじの男 八代将軍徳川吉宗』(1994 - 1995年、日本経済新聞社)のち文春文庫、幻冬舎文庫 『鉄砲無頼記』実業之日本社 1996 「鉄砲無頼伝」角川文庫(津田算長を描く) 『草笛の剣』読売新聞社 1997 のち文春文庫 『不況もまた良し』幻冬舎 2000 のち文庫 『過ぎてきた日々』(2002年、 角川書店) のち文庫  『続鉄砲無頼記』実業之日本社 2003 「信長の傭兵」角川文庫 『幕末御用盗』講談社 2003 のち文庫 『小説渋沢栄一』(2004年、日本放送出版協会)のち幻冬舎文庫 『名をこそ惜しめ 硫黄島魂の記録』文藝春秋 2005 のち文庫 『八月の砲声 ノモンハンと辻政信』(2005年、講談社) 国定忠治』光文社 2006 『焼刃のにおい』光文社 2007 のち文庫 豪血風録』PHP研究所 2007 のち文庫 『孤塁の名人 合気を極めた男・佐川幸義』文藝春秋 2008 のち文庫 『泥の蝶 インパール戦線死の断章』幻冬舎 2010 のち文庫

    以上の中で、最も記憶に残っているのは、ジョン万次郎の生涯を描いた「椿と花水木」だった。 この本は多くの方に勧めて、随分喜ばれたようだった。

    現在は 『異形の将軍 田中角栄の生涯』幻冬舎 2002 のち文庫 を読んでいる。 立花隆氏の「田中角栄研究」を何故かどうしても読む機会が無かったので、読んでみることにした。
    今のところ上巻をもう少しで読み終える所だが、なかなかに興味深く読んでいる。

  • 先日もまた仕入れ先へ車で出かけたが、何時ものように音楽好きの同業者が「いらっしゃい!!」と迎えてくれます。
    別に彼の会社ではないのですが、地元に住む彼は、遠路訪れるわたしを、そう言って笑顔で迎えてくれるのです。

    「ウエス、モンゴメリーのカバーに入ったCDを掛けたら、ビル、エバンスだったけど聞きながら来ました」
    「うわ~ウエス・・・、ビル、エバンス、良いなぁ・・・」
    「次にビル、エバンスのカバーを開けてCD入れたら、ミスチルだったです・・・」
    「うわ~幅がひろいなぁ!!」
    運転中、信号待ちなどでCDを入れ替えるから、どの入れ物に何のCDが入っているか、ムチャクチャに成っているのです。
    まぁ性格丸出しのようなものです。

    「そうですねぇ・・、子供の頃はラジオから流れる浪花節を良く聞いていましたよ」
    「ベベベンベン、旅行けば~~廣澤寅蔵よかったなぁ・・、わたしも好きで良く聞いてましたよ!!」
    それから暫くは、彼の浪花節の数節を聞くことと成った。
    彼はわたしより8歳ほど年上ですから、ラジオ歴はその分長いのです。

    「三味線が欲しくてねぇ・・、買いたかったけど子供だからお金は無いし・・」
    「三味線も良いですね・・そうや家には琵琶がありましたわ」
    子供の頃、二階の押し入れに琵琶とバチが有ったことを思い出しました。

    「津軽三味線も良いなぁ・・あの双子の兄弟の演奏良いですねぇ」
    「そうそうそう言えば、ジャズピアノと共演したことも有ったなぁ」

    1時から始まる取引まで、何時ものように、音楽や映画の話で盛り上がるのです。
    ひょんなことからお互いが音楽好きな事が解り、それまで30年程は、同じ所に通いながら話もしたことも無かったのに、急に親しくなりました。

    そうそう、わたしが品物を下見しながら、或る曲を口ずさんでいたことから、それを偶然聞いた彼が「それってジャズですね~」と話しかけて来たことから、映画の話になりまた音楽の話に成りと、話題が広がって行ったのでした。
    話始めた頃、007シリーズが話題になりました。 彼が「ゼロゼロセブン」と言うのを、一々「ダブルオーセブンと言ってください」と言いながら。

    或る日「007は原作の方が面白いですよ・・・」と、もう古くなったヤンフレミングの原作本を数冊貸してあげたところ、後で判ったことなのですが、彼は目が悪いにも関わらず全て読んでくれたようです。
    彼の感想がまた面白かったのです。
    「面白かったです、一番面白かったのはボンドが言う『フランス女のおへソはどうしてあんなに綺麗なんだろう』と言うところでしたよ」

    月に何度か、2時間弱の運転で出かけるのですが、彼の「いらっしゃい!!」に迎えられて、早速笑顔になれるのです。。

  • 毎日映画を見ています。 
    と言っても、当地には映画館がありませんし、映画館で映画を見るのは、金銭的にちょっとわたしには贅沢に過ぎますから、もっぱら100円のDVDを借りて来て見ています。
    ここ10年程では、毎年150本程の鑑賞記録が残っています。
    最後まで見終えた映画に付いては「A+」「A」「B+」「B」のランク付けを勝手にしていますが、「B」より下の映画は、途中で見るのを止めますので、記録はありません。

    そんなことから、途中で見るのを止めた映画も入れますと、レンタル店で借りる数としては、年間約200本近くに成るようです。
    年間200本近くの映画を借りても、なかなか気に入った作品には巡り合えません。
    去年は157本の映画を見終えていまして、今年は今までに48本見ていますが、「A+」は24本となっています。
    205分の48本ですから、約20%強の割合のようです。
    しかし「A」ランクは「A+」よりは多いです(今年だけで20程有りました)から、まぁ概ね満足、というものは見終えた中では50%に近く成るのかも知れません。

    しかし借りて来たものの、途中で止めて返した物を入れた全数からしますと、30%ほどにしか成らないような気がします。
    そこで此の文を読んでおられる方にお願いなのですが、過去に良い、と思われた映画が有りましたら、教えて頂けないでしょうか。
    わたしの好みの傾向をお知らせする意味から、過去の映画歴55年間のベストを挙げて置きます。
    「ニュールンベルグ裁判」 「イブの全て」 「東京物語」 「みんな元気」 「二十日ネズミと人間」 「若者のすべて」 「ゴッド、ファーザー全」等々、思い出せない物も多く有ります。

    また去年一年間と今年に掛けて見た映画の、「A+」評価の映画も挙げておきます。 これもまた新旧入り交じりで、洋画邦画が混じっています。
    基本的に、準新作か旧作で、レンタル料100円と成った物しか借りませんから、最新の作品は見ていません。
    「ロンサム、タブ」 「ホームランド」この二作はTVドラマ 「ハドソン川の奇跡」「ニュースの真相」「永遠の0」「東京暮色」小津作品「ある戦争」「アルジェの戦い」「野良犬」三船敏郎主演 「ジェーン」「黒部の太陽」政策意欲にA+ 「チャイナ、シンドローム」「おしゃれ泥棒」「暗殺者」韓国映画 「マリアンヌ」「パコ、デ、ルシア」スパニッシュ、ギター、ドキュメント 「みかんの丘」「パッセンジャー」「ライフ、オブ、デビットゲイル」「サバイバルファミリー」「ライオン」「ララ、ランド」「ヒットラーへの285枚の葉書」
    こんなところです。

    もしお薦めの映画を挙げて頂きましても、何しろここ10年程で、1500本程の映画を見て来ていますので、わたしが既に見ている場合も多いと思います。
    一応、未見の物で、わたしの好みに合いました場合のみ、ご返事をさせて頂きたいと思っております。
    本当に勝手なことで申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

  • 今日は久しぶりに朝から雨がふっています。
    朝の最低気温が21度で、最高温度が23度となっていますが、湿気を含んだ暖かい空気が澱んでいる感じで、それを混ぜ返すように時折生暖かい風が吹きます。
    3月末決算の打ち合わせに、経理係の人が来て、帳簿など付き合わせていましたが、鼻の下に生温いものを感じて手を触れると、鼻血が指に付きました。

    今朝珍しく熱いシャワーを浴びながら洗髪して、体が温もっていた上に、店内の暖かいドラッグストアへ行ってきたことが響いたようです。
    経理係の人が「えっ鼻血」 と少し驚いて聞きますが、自分としては珍しくも無いことで「高校の時、鼻の手術をして以来、暖かいと良く出るんよ」とティッシュをちぎって鼻の穴に入れました。

    高校の3年生の時、どうも鼻詰まりが酷く、時には軽い頭痛が続いて集中力が湧かないので、耳鼻科へ行ったところ、肥厚性鼻炎ということで手術を受けることになったのです。
    これは痛い手術でした。
    「ちょっと痛いよ」と、お医者さんが何度か言いますが、その度にノミのようなもので鼻の骨を削っているようで、顔全体に金槌で叩くノミの衝撃が伝わってきます。
    手術中、待合室で話している暢気そうな母の声が聞こえて来て、思わず「喧しい!!」と怒鳴ってしまいました。
    母はビックリして、何か言い訳をしながら照れ笑いをしているようでした。

    手術後も何日か痛みが続きました。
    鼻血が出止まなくて、胃に入ると下痢をすると言うので、吐き出そうとするのですが、唾と共に吐き出す力が出て来ません。
    顔は大きく腫れているようで、手で触ると、赤黒い消毒薬を塗り込められた両頬が盛り上がっているようです。
    何日間入院していたのか、夏休みも終わり授業が始まっていたのですが、10日ほどは学校を休んだようでした。

    付き合い始めた女生徒が心配しているだろうな、とは気に成っていましたが、赤く腫れ上がった顔が治まるまでは、そうそう学校へも登校できません。
    多分先生がクラスの皆に説明しているだろうと思い、連絡もせずそのままになっていました。

    鼻血はそれ以来半世紀以上、体の温もり加減により度々出てくるのです。
    冬でも、布団を顔に被って寝ると、朝鼻血が洗面台にポトポトと垂れ落ちます。
    不思議に夏には出て来ません。
    なにやら、外気と体温の微妙な関係が、鼻中の粘膜や毛細結果に影響を及ぼすのでしょう。

    それでも、近年はさすがに年齢から来るものか、回数が少なく成って来たようです。
    今日の鼻血も、今年初めてのようでした。
    この様子では、わたしにとっての鼻血も、高校時代に気まずく別れてしまった女生徒の思い出と共に、そう遠くない日々には忘れ去られることとなるのかも知れません。
    あの当時から数えてみれば、今でももう鼻血歴55年にもなるのですから。

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