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幻想譚の愉しみ

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    taky88 6月17日 14:31

    さらに日独伊三国同盟締結交渉が行われているとの情報が入り
    (この交渉は 39 年 1 月にドイツから日本に正式提案があり、
    8 月の独ソ不可侵条約締結で打ち切られた)、39 年 6 月には
    日本軍が中国天津の英・仏租界を封鎖し英国が米国務省に介入を
    依頼した。

    この種の事件が続発するに伴い、米国の対日感情は一挙に悪化した。

    米国は対日経済制裁手段として、39 年 7 月 26 日、
    1911 年の日米通商航海条約の廃棄を通告してきた。

    この条約はいずれか一方の国が廃棄通告をした6ヶ月後に
    失効することに定められていた。

    条約は 40 年 1 月 26 日に失効した。

    しかし、米国はおりからのヨーロッパ情勢の緊迫に伴い、
    日本に対しては 「条約を失効させるだけで実際の通商関係は
    変化させない。しかしそれを表明して日本に変化なしと
    解させるようなことはしない」 という方針をとり続けた。

    39 年 9 月 1 日、ドイツがポーランドに奇襲攻撃を加え、
    同 3 日、英・仏がドイツに宣戦を布告し、
    ヨーロッパの大戦が始まった。

    40 年 5 月のドイツ軍による電撃作戦によりフランスが屈服し
    英国が孤立すると、一種の支配の空白を生じた東南アジアの
    蘭印、仏印などに対する日本の南進に対して、米国の警戒心が
    よせられるようになった。

    日独伊三国同盟の締結はこの警戒心を一層強めた。

    40 年 9 月 23 日、日本軍は北部仏印に進駐した。

    9 月 13 日から開始された小林一三(いちぞう)特派大使、
    次いで交代して芳沢謙吉特派大使による日・蘭印交渉は、
    一方では蘭印が英米と連絡しながらの交渉であり、
    他方では交渉中に日本の松岡外相が蘭印を大東亜共栄圏に
    含めると演説したり――事実小林特使はそのような政治的要求を
    実現するように指示されていた――、平和的手段による
    資源獲得の経済交渉という性格から遠いものになった。

    41 年 6 月 17 日、芳沢特使は蘭印総督に交渉打ち切りを伝達した。

    対ソ国調整については、40 年 10 月 30 日、駐ソ大使建川美次
    (たてかわよしつぐ)が訓令によりソ連に日ソ不可侵条約締結を
    申し入れた。

    これに対してソ連のモロトフ外相は、日本が北樺太に持つ利権の
    解消を条件として、中立条約の締結を提議した。

  • 1938 年に入ると、ルーズベルト大統領も、ハル国務長官も、
    米国が両洋戦争に巻き込まれる可能性を考慮し始めた。

    38 年 5 月にはまず新ヴィンソン海軍拡張法が成立し、
    11 月には 「望ましい目標は 2 万の陸軍航空機と 2 万 4 千の
    生産能力である」 というルーズベルトの発言に応じた
    軍備拡張が開始された。

    伝統的に対一国作戦主義を採用してきた日本海軍は
    「昭和 13 年度帝国海軍作戦計画」 の策定に当たり、
    「現対支作戦中の情況に於て、更に他国と海戦する場合」
    「某国が我に対し開戦する場合には、他の諸国中必ず之に
    聯合するものあるべきは予想するに難からざる所なるを以て、
    少なくとも米露英支四国に対する場合」 を想定した
    作戦計画の策定を行うことになった。

    実際には日本にそれだけの経済力もなければ、
    日本海軍にその自信もなく、「軍令部における当時の願望は、
    外交施策により中国以外の国と戦争になることを絶対に避ける
    とともに、海軍軍備(当時、第四次海軍軍備充実計画が
    検討されていた)を増強してその地位を強固にすることであった」
    (『戦史叢書・大本営軍令部・連合艦隊〈1〉』)。

    米国も時を同じくして、これまでの対一国作戦計画主義から
    反枢軸総合軍事戦略計画立案への方針転換を行った。

    これまで対象国別にレッド(対英)、オレンジ(対日)、
    ブルー(対南米)と名付けられていた作戦計画は統合されて
    レインボー計画と名付けられた。

    レインボー計画は大西洋正面を第一とし、これまで米海軍が
    重点を指向していた太平洋正面を第二正面的な地位に落とした。

    その基本方針はつまるところ大西洋で独伊に攻撃的行動をとり、
    そのために東太平洋では防衛的行動をとる、ということであった。

    1938(昭和 13)年 11 月 3 日の近衛首相の 「東亜新秩序建設」
    声明は、日本がこれまで一応尊重の態度を表明していた
    ワシントン条約体制、特に中国を対象とする九ヶ国条約体制への
    公然たる挑戦であると、米国国務省に受け取られた。

  • 予算と資源の獲得を条件に三国同盟締結賛成に転じた海軍の動きは、
    まさに石原の言う 「巾着切り」 的行為であった。

    なおここに 「編制」 という用語が出てくるが、
    後に 「編成」 という用語もしばしば登場する。

    読者の混乱を招かないために簡単に解説しておく。

    明治憲法 12 条に 「天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む」
    とあるように、「編制」 とは軍事組織に係る制度である。

    戦時編制、平時編制、大本営編制、師団編制、連合艦隊編制
    などの用法は、それぞれの組織の内容について定めた制度を
    示すものである。

    他方 「編成」 は、「編制」 に基づき、
    あるいは 「編制」 に基づくことなく臨時に、
    実際の部隊などの軍事組織を編組することを意味する。

    例えば、動員部隊の編成、あるいは日清戦争、日露戦争当時の
    編制にはなかった連合艦隊(戦時の臨時編成)の編成、
    あるいは陸軍の編制にない軍や方面軍の編成などにも
    この語は使われる。

    師団の増設など新たな 「編制」 により、
    新設の編制部隊が編成されるという用語もある。

    なお 「建制」 という用語も登場するが、これは例えば
    某師団には某連隊と某連隊が所属するというような
    「編制」 の具体的な序列を意味する。


    II. 「南方作戦計画はできたか」

    ■ 日中戦争、仏印問題をめぐる日米関係

    日中戦争が本格化したとき、米国はこの戦争に
    米国の国内法である中立法を適用しなかった。

    ハル国務長官はその理由として、中立法はヨーロッパの戦争を
    念頭に置いたものであること、中立法に定めた禁輸兵器は
    日本より中国に必要なものであり、中立法が認める軍需品の
    現金・自国船購入は中国より日本に有利であること、
    中立法適用は非宣戦武力行使を戦争と認めることにより
    日本の中国封鎖を合法化し、米国の対中国貿易権との衝突により
    対日紛争に巻き込まれる危険性があること、を挙げた。

    しかし、ハル国務長官は商業ベースに乗った対中国経済援助に
    対しても 「日本にも同様なドル資金供与を行って公平・無差別な
    態度を示さなければ」 と反対した。

    米国の対日基本政策は自らの国際政策の原則(ワシントン条約・
    九ヶ国条約体制の維持)に忠実であり、決して対日宥和的では
    なかったが、反日的でもなかった。

  • このときの天皇と及川海相との問答は次のとおりであった。

    ―――――――――――――――――――――――――――――
    天皇 この程度のことは現下の情況に於てやむをえず、
       これで安心なり。

    大臣 さようであります。
       何ほどでも緩和しますれば兵力は逐次へらします。
       出師準備御下命の時機につきましては情況が
       さらに悪化した場合にお願いいたすのでありますが、
       一挙にいたしますれば物も窮屈になり
       予算も大きくなりまするが故に、この時機を選び
       御允裁を仰ぎました次第であります。
    ―――――――――――――――――――――――――――――

    『戦史叢書・大本営海軍部・聯合艦隊〈1〉』 は、
    「海軍の出師準備発動は、閣議の承認の下に天皇の名において
    発令されたものであった。それは有事の場合に備え、
    戦争の決意とは別問題として実施されたのである。
    ただ昭和 16 年に入って、出師準備の進展が、一部海軍中堅層の
    戦争への強気論と、表裏の関係をなしたことは、確かなようである」
    と書いている。

    いずれにせよ、「海軍の出師準備発動とこれに付随する後述のような
    聯合艦隊の編制強化は、国家の戦争決意に先んじて初められた」。

    「国家の戦争決意に先んじて始められた」 海軍の出師準備発動は、
    その進展とともに逆に海軍部内だけでなく、陸軍をも引きずって、
    翌年 9 月の御前会議における戦争決意へと駆り立てていく結果になる。

    そのもとはといえば、松岡外相と陸軍の要求に屈して
    日独伊三国同盟締結に海軍が賛成し、その代償として
    出師準備の名のもとに予算及び資源を要求し、
    その獲得に成功したという姑息な行動にあったと言えよう。

    『海軍戦争検討会議記録』 の中で、三国同盟反対の強硬派であった
    井上成美(しげよし)(米内海軍大臣、山本次官の下で軍務局長)は
    同盟締結に賛成した及川、豊田らを目の前において、
    「陸軍と仲良くするのは、強盗と手を握るが如し」 と発言している。

    井上は、1937 年の日中戦争の初期、当時参謀本部作戦部長として
    戦争不拡大に孤軍奮闘しつつあった石原莞爾が
    「陸軍が強盗なら、海軍は巾着切りだ」 と嘆息した事実を、
    このとき知っていたであろうか。

  •  また万一この包囲陣成形さられたる際、これを攻撃と
     見なすべきか否かは統帥府陸海軍大臣のご意見もあるべく、
     これはその時の情勢により決定すべきものにあらざるか。

    陸軍大臣:
     この問題はやはり当時の形成により決定する外なし。

    枢府議長:
     米国は自負心強き国なり。したがって我国の毅然たる態度の
     表示がかえって反対の結果を促進することなきやとも思う。
    ―――――――――――――――――――――――――――――

    この議題は政府の提出議案であるので、
    最後に首相が両統帥部長、枢密院議長の意見を求めた。

    参謀総長は賛成意見を述べ、軍令部総長は4項目の希望事項を
    付して賛成、枢密院議長は 「日米衝突は結局不可避のものと
    しても、近き将来においてこれを招来する如きなきよう
    十分の戒心を加えられ、万違算なきことを希望して本件に同意す」
    と消極的賛成の意を表明した。

    軍令部が付した4項目の希望事項は、
    「なしうる限り日米開戦はこれを回避するよう施策の万全を
     期すること」
    「南方発展は極力平和裡にこれをおこない、
     第三国との無用の摩擦を起こさざること」
    「有害なる排英米言動を厳しく取締まること」
    「海軍戦備及軍備の強化促進に関してはさきに政府の所信が
     海軍統帥部の意見と一致しあるを認めたるが、
     本件は特に重大なるをもって、さらに本機会においてこれが
     完遂に対し真剣なる協力を望みおくこと」
    であった。

    こうして、9 月 27 日、ベルリンで日独伊三国同盟の調印が
    行われた。

    日本は決定的な道を一歩進み出たのである。

    軍令部が御前会議で出した希望事項のうちの第4項目は、
    海軍を戦時編成に移行させるための出師(すいし)準備発動としての
    戦備の強化促進であった。

    「時局処理要綱」 決定後、軍令部は出師準備発動を要望したが、
    吉田海相がブレーキをかけていた。

    三国同盟締結を機会に出師準備の正式発動を、
    軍令部は求めるに至った。

    海軍の出師準備は陸軍の動員に等しく、予算支出を要するので
    閣議決定を経た後、天皇の命令によって行われる。

    日本海軍が正式に出師準備を発動するのは日露戦争以後初めてであり、
    各鎮守府などの参謀長も出師準備要項の知識がなかった。

    諸般の手続をととのえた後 11 月 15 日、及川海相が
    出師準備実施に関する上奏を行った。

  • ここで東条英機陸軍大臣が発言した。

    これから先の議論は今後の事態がその最悪の想定通りに
    進行したのであるから、国家の最高意思決定の場である
    御前会議での議論でこれだけ先のみとおしがつきながら、
    なぜ三国同盟を締結したのか、現在の常識からすれば
    理解に苦しむところである。

    ―――――――――――――――――――――――――――――
    陸軍大臣:
     石油に関しては陸軍においても海軍同様之を重要視しあり。
     
     この問題を推しすすめれば結局蘭印の問題となるべし。
     
     本件に関しては組閣そうそう大本営政府連絡会議において
     時局処理要綱を定め、支-那事変を速かに解決するとともに
     好機を捕捉して南方問題を解決すべく、蘭印に関しては
     しばらく外交的措置によりその重要資源の確保に努め、また
     場合によりては武力を行使することあるべき旨ほぼ決定しあり、
     決して無方針に進行しある次第にあらず。

     もとより蘭印資源の獲得は平和的手段によるを望むも
     また状況により武力行使をも定め政府の方針は決定しあり。

    枢府議長:
     外相の方針を聴き、また陸相より対南方の方針すでに
     決定したる旨を承知し、結構と存ず。

     蘭印は目下石油資源を獲得する唯一の所なり。

     平和的手段によれば可なるも万一武力行使の際、
     独伊に対しいかなる手を打ちありや。

    外務大臣:
     相談を開始しあるも、本件は対英開戦となり、一方的要求となり
     また双方の面目もあり、秘密の漏洩することもあり、独逸側の
     報酬を求むることもあるべく、本件は今後なお談合を進めたき
     考えなり。

    枢府議長:
     蘭印に対し日本の自由手腕をふるうことを、
     この際独伊側に認めしむること必要なり。

     また外相の説明による陰微の攻撃の解釈につき、米国が
     新西蘭土(ニュージーランド)又は濠州に根拠地を借用し
     日本包囲の状態を成形したる際、これを米国の対日攻撃と
     見なすことに決定しおくは今日は未定なりや、
     この点うけたまわりたし。

    外務大臣:
     米国のこの如き対日包囲陣成形を防止することが
     本条約の目的なり。

     この際毅然たる我国の態度のみがよく米国の包囲策を
     封じうるものなり。

  • 松岡外相は、「本協約の交渉に当たりても油の獲得は
    最も留意したるところにして、英米の資本なるも和蘭の石油の獲得
    ならびに将来日本に対する企業の許可等につき、和蘭本国を
    押えある独乙として何をなしうるかをオット、スターマーに
    質したるところ相当の骨折りをなすべしとのことなり。(中略)
    実は本協約の結果米国の禁輸を受くるは日本の最も苦痛と
    するところなるにより、独乙の油の半分位を日本に割譲するよう
    申込みおきたるところ、彼等は極力努力すべしといえり」 と、
    雲をつかむような大風呂敷の話をした。

    そんなことで軍令部は承知しない。

    軍令部総長は、「蘭印の油の資本は米英のものなり。本国政府は
    英国に逃れあり。故に和蘭本国を押さえたりとて独乙が蘭印の石油を
    自由になしうるや、外相の所見いかん」 と追及の手をとどめず、
    さすがに強気の松岡外相も 「困難なるべし」 と答えている。

    ここで問題は同盟条約の本質論に入った。

    議論の焦点については原枢密院議長の質問が要を得ているので
    引用しておく。

    ―――――――――――――――――――――――――――――
    軍令部総長殿下のご質問により私の質問せんとせしところは
    明瞭なりたるも、本条約は米国を目標とする同盟条約にして、
    これを公表することにより米の参戦を阻止せんとする独伊の
    考えなり。

    米国は最近英国に代わり東亜の番人をもって任じ、日本に対し
    圧迫を加えあるもなお日本を独伊側に加入せしめざらんがため
    かなりの手控えあるべし。

    しかるにこの条約の発表により日本の態度明白とならば
    極力日本に対する圧迫を強化し極力蒋を援助し日本の戦争遂行を
    妨ぐべく、また独伊に対し宣戦しあらざる米国は日本に対しても
    宣戦する事なく経済的圧迫をくわうべく、日本に対し石油、鉄を
    禁輸し又日本より物資を購入せず、長期にわたり日本を疲弊
    戦争に堪えざるに至らしむる如く計うべしと考えう。

    企画院総裁の説明によれば汎有(あらゆる)手段を尽して
    鉄石油の取得を計るとの事なるも不確実なり。

    また外相の説明も急の間にあわず量も少量なり。

    石油なくして戦争遂行不可能なり。

    蘭印の石油資本は英米にして和蘭政府は英国に逃れおる関係上、
    平和的手段にて石油を獲得する事は不可能と考えうるが、
    政府の所見うけたまわりたし。――(引用終わり)

  • 近衛の答弁は、「新事態の発生に伴い英米との貿易関係が
    いっそう悪化する事は予想しうべく、最悪の場合には
    輸入物資の入手全面的に不可能なる事もあるべし。
    我国の現状においては主要なる軍需資材を英米に待つこと多く
    したがって相当の困難は免れざるべし」 としながら、
    「軍官民の消費統制をいっそう強化し最も緊要なる方面に
    集中使用せば相当ながきにわたり軍需に支障なく、
    また日米戦争にあたりても比較的長く軍需に応じうべく
    相当長期の戦争に堪えうるものと考えます」 という、
    無責任なものであった。

    星野直樹企画院総裁の答弁も石油・航空ガソリンに関しては
    「石油は国内生産量僅少なるをもって鉄非鉄金属に比しさらに困る。
    陸海軍所要の分はそれぞれ貯蔵しあるをもって差支えなかるべく、
    特に最近まで最大の弱点たりし航空ガソリンは第一、第二次
    繰上げ輸入ならびに最近の特別輸入により相当量を
    入手し得たるをもって、他に比しむしろ有利の情況となれり」
    という程度の内容であり、それでは海軍は納得しなかった。

    軍令部総長は、「対米戦争ともなれば海軍が第一線に立ちて
    働くこととなる。(中略)海軍の貯蔵にて長期戦は不可能なり。
    この長期戦に要する石油の補充をいかがとするや、
    うけたまわりたし」 とさらに政府を追及した。

    企画院総裁は、「油の問題につきては前述のとおりなり、
    相当長期戦ともなれば北樺太、蘭印石油の取得絶対に必要なり。
    (中略)蘭印、北樺太は第一に考えられる処にして、最後の決心
    つきたる時はここより取る外なかるべく」 と答弁した。

    軍令部総長はさらに、「石油問題につきては大体確かなる取得の
    見込みなしと解して可なりや。なお一言すべきは 『ソ』 聯の
    供給を待つことは大なる期待を持ちえず。結局蘭印より
    取ることとなり、これには平和的と武力的との二方法あるも、
    海軍は極力平和的方法を望む」 と発言した。

    当時の北樺太の油田の産油量はわずかなものでとうてい日本の
    戦時需要量をまかなう期待は持てなかったので、
    言われるように蘭印産の石油に期待するほかなかった。

    しかし、どうやって蘭印から石油を手に入れるのかが
    問題であった。

  • 吉田 15 年秋、山本が上京したとき、近衛公との話の内容を、
      私に語ったところでは、同公手記のとおりであった。

    及川 自分も好ましくないが、それ以外に打つ手がない。
      山本もそんな考えなら、自分と同じだからと決心した。

    豊田 同盟は世界平和のためなり。
      平沼内閣当時の反対理由は解消せり。
    ―――――――――――――――――――――――――――――

    当時の及川大臣が、吉田前大臣が反証をあげたにもかかわらず、
    もの言えぬ死者である山本五十六長官に責任を転嫁しようとする
    態度はみぐるしいとしか言いようがない。

    及川大臣の定見のなさに比べて、豊田次官は同盟締結に積極的な
    確信犯としての態度を戦後に至るまで保ち続けている。

    吉田海相時代、すでに海軍省内は阿部勝雄軍務局長以下が
    同盟賛成に回っていたので、新任の豊田次官が積極的賛成とあれば
    及川大臣としては打つ手がなかったのも事実であろう。

    もっとも、これから見るように軍令部は同盟締結に消極的であった。

    なおこの検討会議で 「近衛手記中、事実と相違の点なきや」 との
    質問に対し、吉田は 「私が同盟で煩悶して病気になったと出ているが、
    私の在任中、三国同盟は問題にならなかった」 と答えている。

    陸・海・外務の課長局長級、次官級の会議では具体的な問題に
    なっていたが、同盟反対論の吉田海相が在任中は閣僚レヴェルの
    問題にできなかったのであり、「問題にならなかった」 わけではない。


    ■ 日独伊三国同盟――第3回御前会議

    1940 年 9 月 19 日、第3回の御前会議が開かれた。

    議題は日独伊三国同盟条約案である。

    この御前会議での議論については沢田茂参謀次長の
    「御前会議控え」 が残されている。

    議論の焦点は同盟が対米関係に及ぼす影響であった。

    伏見宮博恭(ひろやす)王軍令部総長は、まず
    「本同盟の結成により英米との貿易関係はいっそう変化し
    最悪の場合は依存物資の取得いよいよ至難と認められ、
    また日米戦争は持久戦となる公算の大なるが、
    支-那事変による国力消耗の現状にかんがみ国力持続の見とおし
    ならびにこれが対策いかに」、と質問した。

  • 次官曰く 「今日となりては海軍の立場もご諒承願いたい。
    ただこの上はできるだけ三国条約における軍事上の援助義務が
    発生せざるよう外交上の手段によりてこれを防止する以外に
    道がない」。

    其後暫くして聯合艦隊司令長官山本五十六大将が上京したので
    会見した。

    同大将は最強硬なる同盟反対論者で、平沼内閣当時、
    米内海相が頑強に三国条約に反対したのも当時の次官たりし
    山本大将の輔佐が与って力があったと思われる。

    余は大将に、豊田次官よりかくかくの話ありと述べたるに、
    大将は 「今の海軍本省はあまりに政治的に考え過ぎる」 というて
    痛く不満の様子であった。

    余は日米戦争の場合大将の見込如何を問うた処、大将曰く
    「それは是非やれといわれれば初め半歳か一年の間は随分暴れて
    御覧に入れる。しかしながら二年三年となればまったく確信は持てぬ。
    三国条約ができたのはいたし方ないが、かくなりし上は
    日米戦争を回避するよう極力努力を願いたい」 とのことであった。
    ―――――――――――――――――――――――――――――

    山本連合艦隊司令長官の 「初め半歳か一年の間は随分暴れて
    御覧に入れる」 という有名な発言は、ひとつには海軍省の
    政治化への現場責任者としての不満、もう一つは外交的手段による
    日米戦争回避の努力に期待する以外に道がない、という文脈の中で
    言われた言葉である。

    ここで豊田貞次郎海軍次官は 「もはや国内の政治が許さぬ」 ことを
    理由に上げているが、『戦史叢書大本営海軍部・連合艦隊〈1〉』
    によれば、実は及川大臣とともに就任した 「豊田次官は三国条約
    締結に主役を演じ 『豊田大臣、及川次官』 と形容されるほどで
    あった」 と非難されている。

    戦後に行われた海軍首脳による 『豊田戦争検討会議記録』 で、
    吉田、及川、豊田の間に同盟締結をめぐるやりとりがある。

    ―――――――――――――――――――――――――――――
    及川 同盟締結は、自分の着任早々であり、前からの経緯も
      ゆっくり考える暇もなかったので、山本〈五十六〉長官の
      上京を求め、その意見を聞いたところ、山本長官も
      情況もここに至ればやむをえない。それも一法ならんと答え、
      他によい方法はないか、一晩考えさせてくれと述べ、
      翌朝いたし方なからんと答えたり。

  • 「昭和天皇独白録」 は、三国同盟締結について、
    「吉田〔善吾海軍大臣〕は海軍を代表して同盟論に賛成したのだが、
    内閣が発足すると間もなく、米国は軍備に着手し出した。
    之は内閣の予想に反した事で吉田は驚いた、そして心配の余り
    強度の神経衰弱にかゝり、自殺を企てたが、止められて果さず
    後辞職した」 という。

    しかし、以下の記録を見るとき、天皇の 「独白」 のこの部分は
    全く信用し難い。

    吉田海相の 「自殺未遂」 など、どのような根拠に基づく発言なので
    あろうか。

    『近衛手記」 が 「三国同盟条約締結には具体目標が二つあるので
    ある。第一はアメリカの参戦を防止し戦禍の拡大を防ぐことである。
    第二は対蘇親善関係の確立である」 と書いているように、
    三国同盟は対米同盟であった。

    それだけに米国がヨーロッパの戦争に参戦すれば日本が対米戦争に
    巻き込まれる危険性も大きく、この危険を避けるために海軍は
    同盟締結に強く反対した。

    『近衛手記』 は海軍の内情について次のように書いている。

    ―――――――――――――――――――――――――――――
    吉田海相が組閣当初に於て三国枢軸強化ということには同意した。

    然しながら進んで軍事上の援助を含む三国同盟となっては
    海軍として大問題である。

    果して吉田海相は大いに煩悶したらしい。

    而して心臓病が昂じ俄に辞職した。

    然るに及川大将が海相となるや直に海軍は
    三国同盟に賛成したのである。

    余は海軍の余りにあっさりした賛成振りに不審を抱き、
    豊田海軍次官を招きて其事情を尋ねた。

    次官曰く 「海軍としては実は腹の中では三国条約に反対である。
    しかしながら海軍がこれ以上反対することはもはや国内の政治が
    許さぬ。故にやむをえず賛成する。海軍が賛成するのは政治上の
    理由からであって、軍事上の立場から見ればまだ米国を向こうに
    まわして戦うだけの確信はない」。

    余曰く 「これは誠に意外の事をうけたまわる。国内政治のことは
    我々政治家の考えるべきことで、海軍がご心配にならんでも
    よいことである。海軍としては純軍事上の立場からのみ
    検討せられて、もし確信なしというならばあくまで反対せらるるが
    国家に忠なるゆえんではないか」。

  • 国防外交の重点施策は 「国是遂行に遺憾なき軍部を充実す」
    「其重点を支-那事変の解決に置き」 の2点であった。

    ついで 7 月 27 日(刊本史料には 「7 月 22 日連絡会議決定」
    と記入されている)、大本営政府連絡会議で 「世界情勢の推移に
    伴う時局処理要綱」 が決定された。

    その基本線は、「帝国は世界情勢の変局に対処し内外の情勢を
    改善し速に支-那事変の解決を促進すると共に好機を補足し
    対南方問題を解決す」 るにあった。

    そのための対外施策として、「独伊との政治的結束を強化」
    「対蘇外交の飛躍的調整」、対米関係については 「帝国の
    必要とする施策遂行に伴う已むを得ざる自然的悪化は敢て之を
    辞せざるも常に其動向に留意し我より求めて摩擦を多からしむるは
    之を避くる如く施策す」 という方針が決められた。

    「時局処理要綱」 の核心とも言うべき 「対南方施策」 は、
    仏印については 「援蒋行為遮断の徹底」「我が軍の補給担任、
    軍隊通過及飛行場使用等を容認」「帝国の必要なる資源の獲得」、
    蘭印に対しては 「外交的措置に依り其重要資源確保」、
    「対南方武力行使」 に関しては 「戦争対手を極力英国のみに
    局限するに努む」 る方針であった。

    ここに武力行使を含む南進政策が決定されたのであった。

    しかし、この 「時局処理要綱」 に盛られた南進政策は
    ヨーロッパにおけるドイツの動きに便乗したものであり、
    火事場泥棒的な政策でしかなかった。

    対英武力行使の時機も 「内外の情勢特に有利に進展するにいたらば」
    と、ドイツの対英作戦進捗の仕方次第という考え方であった。

    この方針に基づいて 8 月以降、日本軍の北部仏印進駐の交渉が行われ、
    途中陸軍の無断越境事件などの紛争を生じたが、9 月 22 日に
    日・仏印軍事細目協定が成立して北部仏印進駐が実現された。

    最大の問題は日独伊三国同盟の締結であった。

    米内海軍大臣のあとを継いで阿部信行内閣、米内内閣、
    第二次近衛内閣と留任し続けた吉田善吾海軍大臣は、
    「時局処理要綱」 にある 「独伊との政治的結束強化」 を
    軍事同盟の締結であるとは解釈せず、同盟締結に消極的な態度を
    とり続けたが、9 月3 日病気で倒れて入院、翌 4 日に大臣を辞職、
    5 日に後任海軍大臣に及川古志郎が就任し、
    海軍の同盟反対は軟化した。

  • 『木戸幸一日記』 によれば 7 月 8 日に阿南惟幾(これちか)
    陸軍次官が来訪し「最近四五日中に政変を見るやも知れず。
    軍は世界情勢の急激なる変化に対応し万全を期しつつあるところ、
    米内々閣性格は独伊との話合いを為すには極めて不便にして、
    兎もすれば手遅れとなる虞(おそれ)あり、此の重大時機に
    対応する為めには内閣の更迭も不得止(やむをえず)との決意を
    なせる次第なり。而して陸軍は一致して近衛公の出馬を希望す」
    と述べたという。

    7 月 16 日、陸軍大臣畑俊六(はたしゅんろく)の単独辞職により
    米内内閣は総辞職した。

    『畑俊六日誌』 によれば、この間畑は一貫して米内首相に協力的、
    好意的であるが、参謀総長閑院宮載仁(ことひと)親王の
    捺印がある 「陸軍大臣への要望」 なる文書をつきつけられ、
    「総長宮殿下の捺印もあるものなり。こゝまで追い込められては
    余として当然進退を明にせざるべからざることゝなれり」 と、
    やむをえず辞職するに至った。

    皇族の権威を利用しての倒閣であった。

    「昭和天皇独白録」 は、「日独同盟論を抑える意味で米内を
    総理大臣に任命した。そして米内に大命を授けると同時に
    畑を呼んで、米内を援ける事を要望した。処がこの要望したことが
    はからずも禍をなして陸軍の反対を招いた。(中略)内閣は
    陸軍の為に圧せられたのである。米内と畑はよくやったと思う」
    と述べているが、『畑俊六日誌』 を読めば、
    確かに畑の米内首相への協力ぶりは天皇の評価どおりである。

    ただし、畑陸相が辞表を提出して米内内閣を総辞職に追い込んだのが、
    ほかならぬ天皇の身内である皇族の閑院宮参謀総長が
    畑陸相辞職勧告に自ら捺印した結果である事実に、
    天皇は触れていない。

    このような記述から戦争責任が身内の皇族に及ぶことを防ぐための
    配慮を読み取ることができる。

    7 月 22 日に成立した第二次近衛内閣は 26 日に
    「基本国策要綱」 を決定した。

    外務大臣は松岡洋右(ようすけ)である。

    この 「要綱」 は世界の趨勢が 「数個の国家群の生成発展を
    基調とする新なる政治経済文化の創成」 の方向にあるという
    認識のもとに 「国防国家の完成に邁進」 し、「先ず皇国を
    核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を
    建設する」 ことを国是として掲げた。

  • また 「私は軍が斯様に出師準備を進めているとは思って居なかった」
    というが、後で詳しく述べるように、海軍の出師準備は
    天皇の裁可を得て進めていたのであり、その進行状況については
    天皇はその都度報告を受けていた。

    陸軍は海軍の出師準備の内容について 8 月 14 日に初めて海軍から
    説明を受けて驚いたという有様であり、机上の研究は別として、
    対米英戦争の具体的な内容は殆ど何もしていなかった。

    この御前会議決定は、決定に定めた期限までに日米交渉が妥結せず、
    この決定を行った第三次近衛内閣総辞職の原因となり、
    後継の東条英機内閣によって決定の白紙還元かどうかが
    問題にされることになる。

    そのような決定がどうしてこの時機に行われたのであろうか。


    ■ 南進決定の時局処理要領

    1940 年 5 月 10 日、ナチス・ドイツはいわゆるブリッツ・クリーク
    (電撃戦)によってオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、北仏に
    侵攻作戦を開始し、英仏連合軍をダンケルクの海岸に包囲し、
    フランスは 6 月 22 日にドイツへの事実上の降伏である
    休戦協定に調印した。

    オランダ女王と政府は英国に亡命した。

    ダンケルクでその陸軍が大打撃を受けた英国はヨーロッパで孤立し、
    そのドイツへの屈服も時間の問題であるとする観測が日本で強まった。

    日本が資源確保のための最大の目標としていた蘭領インド
    (インドネシア)を植民地としているオランダ本国が
    ドイツの占領下に入り、これまで重慶の国民政府への
    援助ルートとなっていた仏領インドシナを支配しているフランスが
    ドイツの事実上の支配下に入った。

    ヨーロッパ情勢の急変により東南アジアに対するヨーロッパの
    植民地支配国の力が弱体化し、日本にとって南方進出の好機と
    考えられるに至った。

    その当時の内閣は海軍大将の現役を退いて組閣した
    米内(よない)光政内閣であったが、米内は海軍大臣当時、
    陸軍が推進しようとした日独伊三国同盟の締結に反対し続けた。

  • 近衛はそれでは、両総長を呼んで納得の行く迄尋ねたら、
    と云うので、急に両人を呼んで、近衛も同席して一時間許り話した。

    この事は朝日新聞の近衛の手記に書いてある事が大体正確で、
    この時も近衛は、案の第一と第二との順序を取替える事は
    絶対に不可能ですと云った。

    翌日の会議の席上で、原枢密院議長の質問に対し及川が
    第一と第二とは軽重の順序を表しているのではないと説明したが、
    之は詭弁だと思う。

    然し近衛も、5 日の晩は一晩考えたらしく翌朝会議の前、
    木戸の処にやって来て、私に会議の席上、
    一同に平和で事を進める様諭して貰い度いとの事であった。

    それで私は予め明治天皇の四方の海の御製を懐中にして、
    会議に臨み、席上之を呼んだ、之も近衛の手記に詳しく出て居る。
    ―――――――――――――――――――――――――――――

    しかし、天皇が 「大体正確」 と評価している近衛の手記には、
    「私は近衛に対し、交渉に重点を置く案に改めんことを要求したが、
    近衛はそれは不可能ですと云って承知しなかった」 という趣旨の
    天皇の発言は記録されていない。

    この部分については 『杉山メモ』 は応答を省略しているが、
    杉山総長から説明を受けた田中新一作戦部長の 「業務日誌」 には、
    「『本国策要領』 の趣旨は、できるだけ外交の推進にあり。
    従って本文の一、ニは置き換えられてよかるべきものと
    考えうるが如何」 という天皇の質問に対し、両総長は
    「そのとおりでございます」 と答えたと記録されている。

    この 「業務日誌」 では、近衛も 「両総長の言の如く、まず第一は
    外交交渉にあります」 と述べ、これに対して天皇が 「わかった。
    承認しよう」 と明確な承認を与えている。

    また、1945 年 12 月 22 日から翌年 1 月 23 日にかけて
    4 回にわたって行われた海軍首脳による 「特別座談会」
    (『海軍戦争検討会議記録』)の席上で、9 月 5 日夜天皇の
    下問に答えた永野軍令部総長は、そのときの発言について、
    「ここに於て、永野は 『原案の一項と二項との順序を
    変更いたし申すべきや、否や』 を奏問せしが、御上は
    『それでは原案の順序でよろし』 とおおせられたり」 と、
    天皇の 「独白」 とは逆の事実を述べている。

  • 記録が作成された動機については、天皇の回想 「独白」 に
    立ち会った側近の一人木下道雄著 『側近日誌』1946 年 2 月 25 日の
    項に 「戦犯審判開始が漸次遅るる訳は、M司令部に甲乙の議論ある由、
    厚彦王よりお話ありたる由。とにかく側近としても、
    陛下の御行動につき、手記的なものを用意する必要なきやにつき
    御下問あり。これは発表の有無は別として、内記部長を専らこれに
    当たらしむべきことを申上ぐ」 とあり、同 3 月 18 日の項に
    「かねての吾々の研究事項進捗すべき御熱意あり」 とのことで
    「独白」 が始められているので、連合軍によるA級戦犯裁判に
    そなえての記録作成であったことがわかる。

    その記録が寺崎のもとに保管されいていた理由は、日米開戦まで
    駐米大使館一等書記官であった寺崎が敗戦後の 46 年 2 月に
    宮内省御用掛に任じられ、天皇とマッカーサー司令部との連絡に
    あたっていた(現に 1947 年 9 月に沖縄の長期軍事占領の継続を
    希望するとの天皇のメッセージを占領軍にもたらしたのも
    寺崎であった)からであろう。

    しかし、3 月 20 日には寺崎を通じて、「天皇を戦犯とする考え方に
    対し(極東委員会参加国にありと付言せり)元帥は反対の意見を
    表明し、天皇にして戦犯と指名せられんか、日本は混乱に陥り、
    占領軍の数は多量に増強せらるるを要すべしと華府(ワシントン)に
    報告したること」(『側近日誌』)という、マッカーサーの結論が
    天皇に伝えられている。

    ただ、この時期、天皇は退位論の渦の中にあり、
    まだその結論は出ていない。

    そうした条件のもとで語られたのがこの 「独白」 である。

    9 月 6 日の御前会議の顛末について天皇は次のように語っている。

    ―――――――――――――――――――――――――――――
    9 月 5 日午後 5 時頃近衛が来て明日開かれる御前会議の案を見せた。

    之を見ると意外にも第一に戦争の決意、第二に対米交渉の継続、
    第三に 10 月上旬頃に至るも交渉の纏まらざる場合は
    開戦を決意すとなっている。

    之では戦争が主で交渉は従であるから、私は近衛に対し、
    交渉に重点を置く案に改めんことを要求したが、
    近衛はそれは不可能ですと云って承知しなかった。

    私は軍が斯様に出師(すいし)準備を進めているとは
    思って居なかった。

  • 参謀本部はこの日の御前会議のために 「帝国国策遂行要領に
    関する御前会議に於ける質疑応答資料」 なる詳細な想定問答集を
    準備していた。

    それは、「一 対米英戦争は避けられぬか」「ニ 対米英戦争
    目的如何」「三 対米英戦争の見透特に如何にして戦争を
    終結せんとするか」「六 戦争準備を十月下旬とせる理由如何」
    「七 十月下旬を目途とせる理由如何」「八 『外交上要求達成の
    目途なき場合直に開戦を決意す』 とあるが其の意義は如何」
    など、31 項目に及ぶ質問を選びその答弁を準備していた。

    しかし、御前会議の質疑応答はもちろん、その前日の天皇の
    参謀総長に対する質問もそこまで踏み込むことなく、
    「帝国国策遂行要領」 を決定してしまった。

    杉山参謀総長は御前会議の所感として、「此日原議長の質問に
    対しては杉山参謀総長が解[ママ]答すべく将に椅子を立たむとせる
    時に及川大臣が起立答弁せしを以て、原議長は 『及川大臣の
    答弁ありしも大本営政府は懇談せられたる結果故統帥部も
    及川大臣と同意見と解し質問打ち切る』 とて両総長の答弁を
    不要とする発言をなせるを以て敢て発言せざりし次第なりしも、
    直接 『遺憾なり』 とのお言葉ありしは恐懼の至なり。

    恐察するに極力外交により目的達成に努力すべき御思召なることは
    明なり。

    又軍部が何か戦争を主とすることを考え居るにあらずやと
    お考えかとも拝察せらるる節なしとせず」 と、書き記している。

    本書の校正段階で、『文藝春秋』 1990 年 12 月号に
    「昭和天皇独白録」 が発表された。

    この記録は 1946 年の 3 月 18 日から 4 月 8 日にかけて 4 日間、
    5 回にわたり、昭和天皇が松平慶民(よしたみ)宮内大臣、
    松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、
    寺崎英成(ひでなり)御用掛の 5 人の側近に語った回想を
    筆記したものである。

    この記録を残したのは御用掛の寺崎であり、記録の公表に
    踏み切ったのは、記録を保存していた在米の寺崎の娘
    マリコ・テラサキ・ミラーであった。

  • 翌日の午前会議の冒頭、近衛首相は 「帝国としては、この際
    一方において速かにいかなる事態の発生にも応ずべき諸般の
    準備を完整すること当然でありますが、多面あらゆる外交上の
    手段を尽して戦禍を未然に防ぐに務めねばなりません。

    万一右外交的措置が一定期間内に功を奏せざるに至りたるときは、
    自衛上最後の手段に訴うることもやむを得ないと存ずるので
    あります」 と口述し、両総長および企画院総裁に所管事項の
    説明を求めた。

    永野軍令部総長は、「ただいま総理大臣より概括的の説明が
    ありましたが、帝国といたしましては極力平和的手段により
    現下の難局を打開し帝国の発展及安固を将来に確保する途を
    発見することに努力を傾注すべきであるはもちろんのことに
    存じます。

    しかしながら万一平和的打開の途なく戦争手段によるの
    やむなき場合に対し統帥部として作戦上の立場より
    申し上げますれば」 という形で、その説明を始めている。

    また説明を終えるにあたっても、「なお一言付け加えたいと
    思いますが、平和的に現在の難局を打開しもって帝国の
    発展安固を得る途はあくまで努力してこれを求めなければ
    なりませぬ。決して避けうる戦をも是非戦わなければならぬ
    という次第では御座いませぬ」 と繰り返している。

    杉山参謀総長は、「ただいま軍令部総長の説明には陸軍としても
    全然同意でございます」 と切り出したうえ、「而してこの際
    平和か戦争かを決するため外交上最後的手段を尽くすべきは
    申すまでもないことでありまして、この外交交渉間は
    我が作戦準備の行動が米英を刺激しましてせっかくの
    外交交渉に支障を招くが如き事態に立ち至らざるよう、
    統帥部としては作戦準備の実行に関し慎重を期している次第で
    ございます」 との前提のもとに、説明をした。

    にもかかわらず、天皇が両統帥部長を名指しで 「一言も答弁は
    しなかったがどうか」 と質問したので、永野軍令部総長は
    「御説明の時にも本文に二度この旨を言っております」
    と答えたのであった。

    なぜ天皇はこのように執拗であったのか。

    結論を言えば、天皇が外交を主とすることに固執したのは
    平和愛好の立場からというより、対米戦争に自信がなかったから、
    ということになる。

  • 余は之に対し奉り、「一二の順序は必ずしも軽重を示すものに
    あらず、政府としてはあくまで外交交渉を行い、交渉が
    どうしてもまとまらぬ場合に戦争の準備に取り掛かるという
    趣旨なり」 と申し上げ、尚 「この点につき統帥部に御質問の
    思召あらば、御前会議にては場所がらいかがかと考えられますから、
    今すぐに両総長を御召になりましてはいかが」 と奏上せしに、
    「すぐに呼べなお総理大臣も同席せよ」 との御言葉であった。

    両総長は直に参内拝謁し、世も陪席した。

    陛下は両総長に対し、余に対する御下問と同様の御下問あり、
    両総長は余と同じ奉答した。
    ―――――――――――――――――――――――――――――

    確かに、近衛が書いていることも両総長呼び出しの理由の
    一つであったことは否定できない。

    しかしそれだけの問題であれば、「御前会議にては場所がら
    いかがか」 という問題ではない。

    現に翌日の御前会議では原枢密院議長も天皇もこの質問を
    しているのである。

    天皇が統帥部の両総長に聞きたかったのは、御前会議の席上では
    質問と答弁がはばかられるもう一つの問題、つまり開戦後に
    勝利の成算があるかどうかであったと考えられる。

    その点に関する天皇の質問については、近衛の手記の方が
    辛辣な内容になっている。

    ―――――――――――――――――――――――――――――
    続いて陛下は杉山参謀総長に対し、「日米こと起こらば、
    陸軍としては幾許(いくばく)の期間に片付ける確信ありや」
    と仰せられ、総長は 「南洋だけは3ヶ月位にて片付けるつもりで
    あります」 と奉答した。

    陛下は更に総長に向わせられ、「汝は支-那事変勃発当時の
    陸相なり。その時陸相として 『事変は1ヶ月位にて片付く』
    と申せしことを記憶す。しかるに4ヶ年の長きにわたり
    まだ片付かんではないか」 と仰せられ、総長は恐懼して、
    支-那は奥地が開けており予定通り作戦し得ざりし事情を
    くどくどと弁明申し上げた処、陛下は励声一番、総長に対せられ、
    「支-那の奥地が広いと言うなら、太平洋はなお広いではないか。
    いかなる確信あって三月と申すか」 と仰せられ、総長は唯
    頭を垂れて答うるを得ず、此時軍令部総長助け船を出し(下略)
    ―――――――――――――――――――――――――――――

  • 【総長】障害を排除してやらねばなりませぬ。

    【御上】予定通りできると思うか。お前の大臣の時に
       蒋介石はすぐ参ると言うたがまだやれぬではないか。

    参謀総長あらためてこの機会に私の考えておりますことを
    申し上げますと前提し、日本の国力の漸減することを述べ、
    弾撥力のあるうちに国運を興隆せしむる必要のあること
    また困難をはいじょしつつ国運を打開する必要のあることを奏上す。

    【御上】絶対に勝てるか(大声にて)。

    【総長】絶対とは申し兼ねます。しかし勝てる算のあることだけは
       申し上げられます。必ず勝つとは申し上げ兼ねます。
       なお日本としては半年や一年の平和を得ても
       続いて国難が来るのではいけないのであります。
       20 年 50 年の平和を求むべきであると考えます。

    【御上】あゝわかった(大声にて)。

    永野軍令部総長は大阪冬の陣のことその他のことを
    申し上げたるところ、御上は興味深く御聴取あそばされたるが如し。

    最後に総理左記を奉答す。

    【総理】両総長が申しましたる通り最後まで平和的外交手段を尽し、
       やむにやまれぬ時に戦争となることは両総長と私どもとは
       気持はまったく一であります。
    ―――――――――――――――――――――――――――――

    この質疑応答の記録のあとに、杉山総長は自分の所感として、
    「南方戦争に対し相当御心配である様拝察す」 と書き入れ、
    さらに侍従武官長の所感として 「此の重大事項を一回の連絡会議で
    決めたことが総理に対する種々の御下問となったのではないかと
    拝察す」 と書き加えている。

    この間の経緯について 『近衛文麿手記・平和への努力』 に
    記載されている内容はいくらか違っている。

    まず天皇が両総長を呼び出して質問するにいたった経緯について、
    近衛手記は次のように記している。

    ―――――――――――――――――――――――――――――
    御前会議前日、余は参内して議題帝国国策遂行要領を内奏した処、
    陛下には 「之を見ると、一に戦争準備を記し、ニに外交交渉を
    掲げている。なんだか戦争が主で外交が従であるかの如き感じを
    受ける。この点について明日の会議で統帥部の両総長に
    質問したいと思うが・・・」 と仰せられた。

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