ここから本文です

言葉の藻屑

  • 44
  • 3
  • 2018/01/07 15:53
  • rss
  • <<
  • 44 24
  • >>
  • 44(最新)

    Lucy 1月7日 15:53

    虐待、毒親、いじめ、嫌がらせ、ハラスメント…
    暴力の加害者は不満や怒りを感じている。
    そういうものの原因に「嫉妬」があるように思う。
    それを自覚してない、できないかもしれない。
    自覚しても感情が強すぎてどうにもならない。
    「被害者にも原因がある」と言ったりする。
    ただし、その「被害者側の原因」というのは、
    加害者が勝手に感じる妄想だと私は思う。
    その妄想は、加害者にとって許されないことや
    頑張っても手に入れられない「特権」のようなものを
    被害者は当たり前のように生まれつき持っていて、
    それを加害者の目の前で見せつけるのだ。
    そういうことを無視できない不満や苛立ち。
    その不快感に耐えられず誰かに害を与えれば、
    害を与えられた被害者の変化や様子を見る
    加害者に同じ影響として返ってくるので、
    双方にとって結果的に害になってしまう。
    誰も幸福にならない、どちらも不幸に引きずり込まれる。

  • 昔は理解に苦しむ不可解な謎だった
    毒親とかハラスメントとかいう
    加害者の気持ちを想像してみる。
    彼らもかつては被害者だった。
    繰り返された被害の経験によって、
    「愛」や「感謝」というような、
    人間らしく生きるために必要なのに
    与えられる以外に正当性のないものを
    誰かから強引に奪い取るでもしないと
    死ぬまで与えられることはないという
    信念のような確信があるのだ。
    しかも、誰かに要求して得てしまった
    「愛」や「感謝」は決して本物ではない。

  • 「過去と未来両方の組み合わせから現在が作られている」
    「現在は、過去と未来両方から影響を受けた結果だ」
    という誰かの話を聞いて思った。
    今自分がいる世界の未来と過去が逆転して時間が進む
    別世界があるのではないかと。しかも、
    それら二つの世界は、今の自分の意識にとって
    一つの世界として認識できないため、
    どちらかでしか生きられないということではないか。

  • 些細なことで激怒することを何度も繰り返して、
    そのたび死にたくなるほど自分を責めた。
    激怒したことも自分を責めたことも何もかも
    すべてが間違っていたにもかかわらず、
    そうするしかなかったというよりも、
    すべてはそうなるべくしてなったとわかった。

  • 時は流れるとか、過去・現在・未来というけど、
    現在は今の一瞬のことであり、
    前後に未来と過去が延々と続く。
    いや、未来なんてものは本当はまだ存在しない。
    過去にしても過ぎ去ってしまった幻になる。
    あるのは今の瞬間だけ?いや、幻になった
    過去と、まだ存在しない未来の間の一瞬は
    時間に最小単位がなければ存在しない。
    もし、時間に最小単位があるなら、まさに
    その一瞬だけ世界のすべては存在する。
    しかし、もしなかったら本当は、
    何も存在しない、あるのは誰かの夢…

  • 今さら当たり前のことに気付いた。
    幸福に必要な物事、
    これなくして絶対に幸福になれないもの。
    自分に関わる人たち生物たちが
    喜ぶ姿を望み、思いやること。
    誰かを傷つければ、傷つけた記憶が
    刻まれ自分の一部として一体化する。
    それで自分が幸福になれるわけがない。
    自分が傷つけられるのと同じ記憶になるから。
    すぐ消えるはかない意識よりも
    圧倒的支配力を持つ潜在意識では
    他者と自己を区別できないから。

  • 密かに好意を寄せている人が絵描きの話を書いていた。
    私はまだ歩けない幼少時に家の床を這いながら壁に
    絵を描き始めた。生まれた瞬間こそ記憶にないが、
    六か月で歩くようになる以前に、言葉を話して
    絵を描き始めたことを自分でも覚えている。
    しかしなぜか歳とともに絵も言語も苦手になった。
    学校で成績が良かったのは理系だった。
    今でも理系。それでも何歳になっても
    ごくたまに美術館に絵を観に行くことがある。
    有名な絵で好きなのは一つもない。
    誰にも観られず通り過ぎられる陰鬱な暗い
    風景画がなぜか必ず一点だけあったりして
    私はそういう絵に惹かれるし、自分でも
    描きたいと思っている。最近、絵ではない
    理想の風景写真をネット上で見てしまった。
    系外惑星の想像風景より美しい。
    昔から「理想」を求めてきた気がする。
    若い時、理想の肖像画を描いていた。
    それも陰鬱な人の姿だった。モデルは実在しない。
    パソコンで描いた絵をホームページに載せてる
    のは手描きが一切なく、自動生成とかで
    他人からすればまるで別人かもしれない。
    そういえば自分が尊敬する人物がある一人の画家だった。
    他の書籍は売ったり捨ててもその人の著作と
    ろくでもないコミックだけ残っている。

  • 子供の時、障害を持つ同級生に慕われていた。
    たまに彼女の姿を思い出すことがあって
    今も生きているのか、生きていればどうしているのか気になる。
    彼女には私にはない自信や自尊心があるように見えた。
    当時の私は長く生きる自信がなかった。
    精神的に過酷な生活で更年期よりつらい不調があったから。

    彼女の人生どうであろうと彼女は立派に生きただろう。
    私は身勝手な自分の生き方にもかかわらず
    客観的に幸福だと思われるだろう人生になった。
    主観的に彼女も私もおそらく間違いなく不幸だった。
    ただし、人生が本当に終わってしまった後、
    幸か不幸かなんて問題ではないだろう。

  • 知識人の多くは、意識の理由からジレンマを抱え
    足元の理由を盾にする。
    鉾と盾の理由から漁夫の利を恐れ、現実の利害で文章を構築する。
    いや、それも面白いのだが、ならば、実質的な行動の方が、余程
    面白い。
    仮想は代償を払わないから勝手な想像を許していると想う輩は、多いだろう。
    しかし、それが、自分の身を経たとき認識も変わる。
    現実へ重きを置いていながら、現実の進捗に気づかない理由がある。
    想像の欠如であれば、また進展が生まれるのも、ジレンマの理由なのかも
    しれない。

  • 具体的な物事の感性を自分の中で消化しようとするとき
    では、その展開を想像する。
    確執的な感性へ拘ることで、他の想像の意味を演繹出来ないことや
    類推が根拠を探し出すことが出来ないことなど、想像の理由は
    発展性から懐疑が付きまとう。
    言葉の本来の意味は、自己の概念を形象化することだ。
    形式が腐敗を生み、継承が堕胎を繰り返して来た理由の多くは
    純粋を求める心理が故である。
    人の発展の根拠が人類へ寄与する根拠無くして、大義が無いとする
    大義さえ嘘と想える程、おそらく、自己への興味は尽きないのだ。

  • 例え、現実が嘘であったとしても、それをデジャブだとしたら
    嘘ではなくなる。感性を支配するものが感覚を信じる限り、そこへ
    転換を想像することはできない。
    真偽は、機序の方向性にある。

  • 何も愛していない時は虚しい。
    いや、愛した手応えというか、
    愛する対象から何か反応がないと
    伝わらない通じないものになるわけで、
    愛も伝わったり通じて初めて成立するものだろうから、
    あるものを愛したいけど、かなわない。
    何かに愛されてはいるらしいが、
    愛されているだけだと幸福なだけで、
    それが何ともつまらない。
    たぶん不幸も求めている。
    いや、幸福とか不幸など無意味になるほど
    とんでもない経験をして魂に刻み付けたい
    のかもしれない。

  • 外を一人で歩いている時いろんな雑念がわいてくる。
    ある日こんなことを思った。心に関してよく、
    「ありのまま」で良いとかそのほうが良いと言うが、
    心はよく偽ったりする、それがダメ。
    え、なんで?「ありのまま」を許すなら、
    すべてがありのままだから何もかもOKじゃない?
    偽ることも「ありのまま」だから、いや違う?
    私にとって偽ることも含めて自分だけど、
    偽る部分だけ自分ではないとして排除しなければならないのか?
    自分のすべてを認めるわけではないのか。
    結局、偽らない自分だけしか許されないってことか。
    偽る必要がない世界で生きられるなら幸せなことだ。

  • 意識と認識を知識と置き換えて観る。
    少なくとも、確定的な意識へ近づくだろう。
    いや、認識を証明することに近いかもしれない。
    現実の確定的な証明をするとき、多くの場合、物理に照らした数式がある。
    1+1=2という数式を確定的な現実と捉える理由を証明しなければならない。
    もし、意識と認識が知識を凌駕することがあるとすれば、この数式は虚構の産物となる。
    数理が道理を構築した上で、知識が2という結果を証明するとすれば、何の意味があるのだろう?
    それが、意識と認識の役目なのでわないだろうか。

  • あなたがよく使う「意識」ってどういう意味?
    と返された時、答えられなかった。
    あれから何年たったか、今ある考えが浮かんだ。
    「自分を映す鏡」ではないかと。
    「鏡」には当時、別の考えがあった。
    世界のすべてを、自分の内部だけで感じるということだった。
    つまり「見える他人は自分自身」
    他人のことについて表現すると、まず
    自分自身のことになってしまう原因。
    他人の真実は、その人そのものにでもならない限り
    本当の意味では永遠にわからない。
    では、共感は何なのか。
    同じだと思い込んでいるだけではないか。
    いや、本当に同じこともあるだろう。
    同じ星の同じ種類の生物だったら、
    同じように感じるほうが多そうだ。

  • 随分と独りよがりのことを語った。
    それは、自分の認識する範囲で、言葉とした。
    自分の認識する能力を信じてのことだが、しかし、自分が想うことは
    それ以外のことだ。
    人の動機への疑問である。
    行動を強要する動機への疑問だった。
    自分を含め、動機が衝動的な場合を想定した。
    そうした想定では、自分の立場も同一と考える。
    独りよがりの、理由と根拠のない限り、動機の理由を還元することが
    できない。
    動機の理由が、もし、認識以外の理由だとする想定である。
    内的な動機は、二元的の、外的な理由を証明するものだとする因子を問うものだ。
    人の動機が、五次元の理由から、多次元の動機の影響を受けていると想えていた。
    つまり、求めざるして、自己表現をする理由の因子を問うものである。

  • 私が、自分の現実を見つめるということは、自分のなすべきことへ
    行動することを意味する。もちろん、それは、自分の選択ではない。
    与えられた仕事としての認識の行為といえる。
    分別とか認識というものが、現実へ効力を持つものだと証明するのは
    、可笑しなことに、自分の意志なのかもしれない。与えられたものでありながら
    そうした現実を認識できないとしたら、きっと、自分の何処かに、理解できない
    自分の存在を意識することになる。
    自己矛盾を避けるために、そう理解しようとしているのだ。
    「自分の意志」などと大層な事柄でないと、自分が一番知っていることなのだが
    「分別」という言葉を用いるなら、「背に腹は代えられぬ」だけのことだ。
    だから、飛散した死体を拾いながら、いつ、自分が同じ死体となるか想像してしまう。
    人を動かすものとは、何だろうと考える。
    失意や絶望と並行し、希望と野心が、両極の立場で慢心を得たとしても、目的とは
    どんな意味を持つのだろうか?
    そもそも、与えられた生命の尊厳を、どう捉えるものなのか、自分へ問わねばならないのだ。
    生命の原点から、意志在って存在を問い、意志無くして存在を問うことの矛盾を見つめたとき
    回帰の意味を知るかもしれない。
    我々は、試されているのかもしれない。

  • 今の家に引っ越し後あまりならなくなっていたのに、
    久しぶりに睡眠障害の金縛りになった。
    今回も変な物が見えた。
    視界の上半分に肉のようなものが見えた。
    最初、何なのかさっぱりわからなかった。
    それは、自分の瞼を内側から見たものだった。
    自分が睡眠中、目を半分開ける癖があることを思い出した。
    しっかり目を閉じると眠れなくなるからだ。

  • 事故現場で肢体が散乱している。
    肉片と血潮は、風圧から飛散し、線路沿いの雑草が赤く染まっている。
    綺麗なピンク色の骨片と、線路沿いにコロガル、白濁した眼球の瞳が此方を向いている。
    時折、嘔吐する警察官が背中を他の警察官に撫でられる足の傍らに、脳みその飛び出た
    頭蓋が横たわっている。
    電車が好きで、その使命を教えられた。
    しかし、線路上で佇む「物体」を通過してしまう。
    ブレーキを掛けたのは、衝撃の鈍い音でしかなかった。
    私は、犯罪者なのか、それとも、傍観者にしか過ぎないのか・・
    いや、死を受け入れる者に、私の考え方など、どうでも良いことなのだろう。
    私が見つめなければいけないのは、この現実なのだ。

  • どうでもよいほど些細で何でもないことで
    死にたくなるほど何度も自分を責め苛む。
    一つでも不完全な欠点などを見つけるまで記憶を
    全力で掘り起こして、見つけた些細な過ちを用いて
    自分がどれほど死すべき有害な存在であるかを
    証明してしまうのだ。自分の心の中で
    何度も厳しく裁かれ有罪になる私は、
    死ねば地獄に落ちると決まっている。
    というよりも、魂が地獄に適している。
    地獄がいちばん落ち着く居場所なのだ。
    沈黙…中略
    誰かにとって「死すべき有害な存在」が、
    世界で繁栄している最たるものであり、
    私もそういうありふれた一個体に過ぎない。

  • <<
  • 44 24
  • >>
並べ替え:
古い順
新しい順