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ぶらり昔旅

ぶらり昔旅

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  • 2017/12/01 18:58
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    石川島(一)
    天明年間(1781〜1789)は飢饉の時代であった。穀物が収穫できない年が続いた。関東周辺の農民は翌年の種籾も食糧として消費してしまい、その土地に留まる希望がなくなり、文字どおり水飲み百姓となって食糧難民として江戸の町に流入してきた。
    町では米価の暴騰により諸物価も値上がりし、商店のなかには奉公人を雇い止めにし、店を縮小したり閉めるところもあった。米価の値上がりを見込んで米問屋は売り惜しんだため、庶民のなかには打ち壊しにはしるものもあった。
    住む家の無い者たちは、町家の軒下に筵を敷き菰を被って夜露を凌ぎ、薦被りとよばれた。隅田川の河原には水だけを飲んで日を過ごす者たちがたむろしていた。
    現代の東京では、鉄道のどこかの駅で人身事故は日常的に発生しているが、当時も行倒れ、野垂れ死に、土左衛門は日常的であり、犯罪が急増した。
    寛政(1789〜1801)の世になり、
    田沼意次に代わって老中筆頭となっていた松平定信は、世情が騒然とするなか、南北奉行など市中取締りの幹部たちに、無宿人・非人の対策を具申した。格別の妙案が出ないなかで手を挙げる者があった。彼は
    「非人の多きは国の恥なり」
    と言った。火付盗賊改の長谷川平蔵であった。
    その案とは、隅田川河口の佃島に隣接する石川島に彼らを収容する施設を作るというものであった。平蔵の意図したその施設は「授産場」であった。「授産」とは手に職を付けさせるという意味であり、職業訓練センターであった。石川島人足寄場とよばれた。
    寄場内には諸々の仕事を用意していて、どの職業を習得したいかは本人に選択させる。
    百姓をしたい者たち(農地を棄て離農して江戸へ流れて来た者たちであったろう)には、筑波山の麓に土地を用意していて就農させる。
    彼らが生産した物品は町で販売し、その代金は三年間の訓練が終了したときに、独立資金として本人に支給する。農業訓練をしていた者はそのまま独立させることにする。
    無宿人・非人を収容して職業訓練し生業に就かせ、離農した農民には再び米を生産させ、ひいては徳川家の増収にもつながる案であった。
    寛政の改革の一環として松平定信の採用するところとなり、開設費用として金五百両米五百石、次年度以降の運営資金として年三百両米三百石の予算が付けられた。

    現代の日本政府は、生活保護費の名目で現金を配っているが、平蔵は仕事を配ろうとしたのである。

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