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  • しかし、ふと思ったんですけど、現象として、コンピュータシステムを見た場合、高度になればなるほど、アナログな存在に成っていくんですね。我々はそれが01の集積だと知っているわけですが、しかし、PCにしても、かつては、自分でハードの中身から、外側まで何となくデジタルな存在として認識出来ていた。つまり、構造が分かって、そのPCの現象にどういう意味があるのかが容易に理解出来た。しかし、システム、つまり、OSから始まり、ネット常態接続等、複雑になるにつれ、そこにはどういう構造があるのか理解しにくくなった。全てを理解するなんてのは不可能でしょう、どんなシステムエンジニアにも、いや、大体ってのは分かるかも知れない、しかし、OS一つとっても、それは、巨大なプログラムの塊で、しかも、それ自体がネット接続によって変化する存在になった。そもそも、デジタルな存在の黎明期におけるPCだって、アナログに見えるこの環境の影響を受ける存在だったわけで、完全なるデジタルな存在じゃなかったわけですが・・・。しかし、スマホの調子が機嫌が悪い等と言う話を聞き、また、自身のPCモニターをアナログ接続から、デジタル接続に変える事で、より使いにくくなる現実を見ると・・・アナログモニターの方が分かりやすいという意味でデジタルだったし、そういう意味合いから、大抵の演算処理器を備えた道具が高度になればなるほど、アナログ的に見えるという逆説的現象を感じるわけです。最終的にというか遠くない未来に我々は人の作為によって生み出されたデジタル機器の生み出す情報を自然と区別できなくなるでしょう。
    まぁそんなことを思いついたので適当に書きました。DOS時代が本当に懐かしい。
    てか、僕は基本、なんでも単純な方が分かりやすく、壊れにくいと思うほうで、だから、家電とかは最低の性能、つまり、デジタル処理が無い方が良いと思っている主義でして、ええ、なんでも、便利にってやっていると、結局壊れた時にわけがわからない。てか、もう数年前になりますけど、某テクノロジー企業の家電サポートのバイトやった時、新しいものってのは基本的に修理なんてしないんだって事を思い知りましたよ。まぁ修理するにしても、ユニットごと交換するわけですね・・・ええ、で、世界は高度なデジタルで覆われる程、よりアナログ的に見えて来る・・・って、意味分かりませんか、そうですか、

  • 仮に、一個の意思を持つ知的生命体を自称するならば、自他の区別を付けようという、まぁ単純な話である。
    環境情報の受容と、その情報処理と、その変化に過ぎないと自覚があるなら、少し考えて見よう。
    我々には他者など存在しないのだと、他者とは情報を処理する演算器に過ぎない。彼等、すなわち他者に情動を動かされ、負の感情を抱くことの無意味さを知ろう。
    なぜかって、我々が意思的任意の能動的情報処理をしない限り、この宇宙はただ、自身の意思とは関係なく流れるからだ。
    しかし、仮に自己なる概念から離れ、客観的に見る事が可能ならば、我々全ては、つまり、この宇宙は宇宙に於ける生命現象的な情報処理全てが、能動的では有り得ない、つまり、担々とエントロピー、即ち物理的現象が変化していくだけなのだ。
    だからだ、宇宙に対して自己と言う現象を認識し、他と自を区別し、自を世界と同一のものとする思考のみが、厳密に言って宇宙のエントロピー増大の進行に対する受動的情報処理から抜ける道なのである。
    宇宙を任意に変化させ得るのは、そういう情報処理器だけだ。物理的存在として、その処理能力があるモノだけが、意思的能動的な情報処理を行えると、まぁそう考える。
    時間とは何かとか・・・そりゃ、物理的現象の変化でしょ、
    結局ね、この宇宙は情報に還元出来る存在なわけですよ、仮にね、完全なる宇宙のシミュレーションが可能で、その情報処理速度が現実なるものに於ける宇宙を上回りさらに、膨大な因果を計算し知る事ができれば、現実の宇宙そのものを気軽に改変出来るわけじゃないですか、だから、結局、問題となるのは、情報処理量と速度になるわけで、全知全能の神になるのは、そういう単純な、ある意味、下らない技術上の問題かも知れないわけですよ。ええ、ここを押せばこうなる、ここを押さなければこうなるって計算できるってことは、そう言う事になりますね・・・

  • しかし、我々は自己を世界に存在する一個の精神現象を持つ特別な存在だと考えている。そして、それは、正解なのだ。
    そう、我々が自己と環境とを分ける事によって、自我なる概念が生まれ、そこに、情報としての世界との同一化と、宇宙現象との区別が生まれる。
    ただ、物理的化学的情報体として、存在する我々が、他を認識する時に、我々は唯一の宇宙の観測者となり、宇宙を能動的に変化させ得る存在となる。
    分かりにくいだろうか?では、自己が宇宙を観測出来ないとする、つまり、情報の送受信が出来なくなり、自身の情報が固定されたら、どうなるか、当然それは、自己と関わりない宇宙と言う現象がエントロピーの法則に従って動いていく「だけ」なのだ。
    我々、人類(とは限らないが)の一部が、自己を他と切り離す事によって、任意に情報を処理する場合のみ、我々は能動的な生という現象を行えると言っていい。
    これを読んでいる人間が、その認識を持ってない場合には、どうだろう?いや、読んでいなくても、そういう宇宙と世界と自分と他と、そういう情報的認識を持っていない場合はどうなのだろうか?果たしてそれは、厳密な意味で自己と他を区別出来ているのだろうか?そして、その場合における、その存在の個の意識や意思、能動的行動と言うものは、他からの情報受容による、その受動的情報処理から逃れられていると言えるのだろうか?
    私は言えないと思う。おそらく、この宇宙における、生命現象なるもの、そういう、我々も含む情報演算処理に於いて、能動的情報処理を行っているものは、極少数なのではないか?と考える。彼らは植物と変わらず、受動的存在であり、環境情報をただ、処理する情報処理器に過ぎない。先にも言ったように、植物と彼らの違いは情報処理速度の程度に過ぎないのだ。

  • 人間の成長とは何か?それは、環境への適応である。我々は現象として生じた物理的存在として、自身の物理的環境としての肉体を含む、様々な環境から情報を受容し、それを処理する存在でしかない。今、我々が自分の意識と呼ぶモノは、つまり、自我、或いは、心や魂と表現されうるものは、そういう、現象であり、それは、時間的物理的変化と我々が認識する、流動する、いや、エントロピーに従って流れる宇宙の終局的な何かへの過程に於ける、物理現象だ。
    しかし、我々は自分という存在を情報として規定している、それは瞬間瞬間的な、刹那のものであるが、確かに我々は、その時、唯一、この宇宙の中心に位置する事が本人の認識という行為によって可能なのだ。いや、宇宙というより、世界と言う方が良いだろうか?世界とは自分自身の自己認識によって形成される情報であり、故に、その自己認識こそが世界なのである。前にも何回か書いたように、我々個は世界と同一なのである。
    個の情報処理上、我々は自と世界を分け、すなわち、分かりやすく言うならば、主観と客観を分けて考えているわけだが、
    しかし、この世界は自己の任意の決定によってしか、変化しない、
    つまり、我々が宇宙を変動させる唯一の単位なのだ。
    関わりのない他者が、自身の任意による能動的な行動によってしか、変化させられない、と言えば分かりやすいだろうか?
    それとも、刹那の情報であり、情報演算器である我々が持つ物理的影響力を行使しない限り、自身と切り離された世界として、つまり、自分に含まれない現象として、この世界は流れていくと言えばいいだろうか?
    最初に戻ろう、人間の成長とは環境から受ける情報への適応に過ぎず、今、我々が持つ、この自己なる現象、情報は、つまり、自己の持つ物理的肉体と言う物理的化学反応の持つ可塑性によって時間的に存在している。そう我々は、この膨大なる時間と言う言葉を認めるなら、宇宙にとって刹那の化学反応に過ぎない、それは、他の生物現象、例えば植物と基本的には変わらず、つまり、神経系を持たない時間的物理的化学反応の継続という、そして、その連鎖なのである。植物と人間の違いは、その時間的物理的化学反応の複雑さと、その変化量の違いに過ぎないのである。

  • 鬱病の簡単な出来方、大人編
    人間は社会の中で生きる上で様々な自分の感情や意思に反した行いをしなければならないと思います。例えば、嫌いな上司に頭をさげ、売りたくないものを会社の利益の為に善人に話術で売りつける、社内の競争では自らの立身出世の為に、同期や友人を敵と見做し、少しでも優位に立とうと頑張らねばならない。全ては自分の為というより、自分の持つ家族や人間関係の為で合ったりする。
    意識的には常に頑張らねばならない。負けてはならない。と自分を叱咤し、そして、仕事や社会生活に邁進する。ストレスを感じている、しかし、まだ頑張れると信じて社会生活、会社生活に適応することが生きる道であると信じようとする。いや、生活する為にはそうせざる得ない、落ちこぼれ得て後ろ指刺されるような生活になる方が良いのか?そんな社会からの脅しもある。

    しかし、意識的に頑張ろう、今日一日頑張ろう、ストレスは酒で発散だ。嫌な上司にも機械的に頭を下げておけばいい。そして、自分は正常な普通の人生をこれからも全うしドロップアウトなどしない。或いは家族の為に頑張ろう。家族を食わせていくには嫌なこともキツイ事も仕方ない。皆同じように苦しんでいる。自分に出来ない筈がない。同期に負けるのは嫌だ。後輩に負けてたまるか。等々。
    我々はこういう状況下で頭は硬直化し、ひたすら頑張ろうとか負けてなるものかとか、そういう肯定的メッセージを頭に植え付け続けるのではないか?
    しかし、物を考え、感情や価値判断をしているのは無意識である。意識が無理やり叱咤しても、無意識が拒否すればそれは出来ないのである。
    さて、鬱病であるが、鬱病とは無意識が脳を守るために嫌な事をするな、という回路を形成する事である。その回路は意識がどんなに頑張ろうとしても、頑張ろうとするからこそ、昂進し意識を抑制する。
    人間の脳の可塑性は強い。一度の嫌な出来事が人生を変えるほどに強い。
    つまり、脳は意識と無意識に分かれているとしよう。
    思考は無意識でなされる。意識は無意識から上ってくる情報を言語化し、自己正当化する役目を持っている。
    意識はある程度、無意識をコントロールできるが、しかし、「頑張ろう」とか「まだ、大丈夫」とかこういう具体的なメリットのないつまり、快感の裏付けのない言葉は無意識に定着せず、むしろ、無意識に於いて負の回路を育てる結果になりかねない。

  • 私の住む大磯町では野良猫が減っています。悲しい事です。
    また、犬も犬同士がじゃれ合う事を否定する飼い主が多い。
    犬も猫も人生を生きている。ペットとしてではなく、もっと彼彼女を考えて接してあげませんか?

    私も小さいころパチンコで黒い虫を虐殺したことがある。嫌な気分になりました。アリの穴に水を流して何も感じなかったこともある。トカゲを水槽で飼って・・どうなったんだろうか・・。

    我々はもっと寛容になるべきだと感じます。
    嫌いでも実害がない限り生きている事を肯定してあげましょう。
    彼らは神経系を持つ我々と同じ快感を求めるだけの存在なのです。

    と言いつつ、蚊取り線香は焚いて寝ますけどね。

  • 虫が嫌いな人、居ますか?
    大抵の大人は虫が苦手ではないでしょうか?
    子供の頃は平気だったバッタやカミキリ、カブトムシ等々、いやむしろ好きだった人も多いはずです。
    では、なぜ、大人になるにつれ虫が苦手になっていくのか?
    私はおそらく、ゴキブリも手で掴めます。物理的に可能かどうかはやってみなければ分かりませんが?この前のゴキブリは足で素足でひねり潰して、よく観察しました。
    また、昔のトラウマから蛆が大嫌いでしたが、家の蛆を利用した肥料製造機「コンポスト?」って奴を覗き込んでよく観察しました。
    さて、何が怖いのでしょうか?何が嫌悪をもたらしているのでしょうか?
    分かりますか?

    人間は理解出来ないもの、認識が不確かなものを嫌います。
    ゴキブリなどは早くて足がばらばらに動き理解しがたい、そして、突然現れる。私もゴキブリが苦手でした。しかし、よく観察してみると、ゴキブリの様々な様子、足の一本一本を認識し、見てみると、なんで、こんなものに怖がっていたのか?と思うようになります。嫌悪感はまだありますけど、おそらく怖くはない。
    ゴキブリに対する嫌悪感とは文化的感覚の記憶的にも蓄積されたものですので、そうそう克服できないかもしれない。しかし、自分がゴキブリの何を怖がっているのかを考え分析し、よくゴキブリを見れば、ゴキブリは恐怖の対象ではなくなります。

    他の昆虫も、他の生物も同様でしょう。

    私は怖いもの不快なものを減らしていこうと思っています。
    手に載ったクモ。可愛らしいじゃないですか?
    まぁ家の家訓としてクモは殺すなってのがありまして。
    今までも、クモを殺すようなことはしませんでしたが。
    手に載ったままそのままでいても何ら不都合はない。

    この世界には色々な生物が生きています。我々と同様にですので、出来る限り実害を与えない生物に寛容になりませんか?

  • 私の方法論は簡単です。
    貴方が恐怖を持つもの、不安に感じるもの、この世に存在する全ての負の存在を克服するよう分析し、克服する。難しいですけどね。
    そして、自分の持つ肯定的な快感刺激を与えてくれる希望や欲望を具体的にイメージする。そして、そのイメージを無意識に植え付け、盛んに成功したイメージで興奮させる。それにより、貴方の中に強い回路が生み出される。負の回路に負けないくらいの強い回路にするんです。
    私が、上記を出来ているか?と言えば、出来ておりません。
    私は私を使って実験している途上です。昨日からまた、不安と疲労に襲われ、フェイスブックを開くのも躊躇した。
    しかし、それでも我々は希望や欲望を持って自身の世界を変えていかねばならない。
    人間はなぜ「生きる」のか、「生きている」からです。
    嫌な事、苦痛、苦悩は速やかに解消しましょう。
    逃げてもいい。しかし、考えることは止めないで欲しい。
    我々人間は世界を他の動物より正確に把握し、構築できる。

    大切なのは肯定的な快感を受けえる具体的な未来のイメージです。

  • 今、苦しんでいない貴方へ
    今、苦しんで必死に何かしらで刺激を受けようとしている貴方へ
    刺激、色々あります。簡単なものから言えば私が絶えずタバコを吸うように、ある種の薬物(アルコール等)睡眠薬、咳止め(エフェドリン、コデイン)、或いは、ゲーム、漫画、SNS、テレビ、音楽、男女関係、セックス、お金等々。
    我々人間は常に肯定的な刺激を求めている。つまり、常に快感を求めている。その手段はなんでもいいのです。苦しみ=快感が得られない状態、であるとするならば、その苦しみから抜け出すために自殺を考えたり、自分の体を傷つけたり、それを、人に開陳したり、様々な形で出る。
    そして、最終的には脳が器質的に変化する。要するに脳が意識を見放す感じで、防衛的な回路を作る。これが病気に逃げるということです。
    私は双極性障害です。病気に逃げました。
    でも、少し、自分を知れば、自分=世界を知れば、病気に逃げなくて済む。
    病気に逃げた人間はさらに苦しみます。周りの大切な人も巻き込んで。
    薬物中毒もそうでしょう。
    タバコ程度ならまだいい。肺がんになって本人が早死にするだけ、でも、アルコールや他の薬物は脳を壊す(物理的に)

    今、苦しんでない方、貴方は問題ありません。もし、苦しみが生まれたら、自分と自分の世界を考えましょう。
    今、苦しんでいる方、貴方はまだ病気に逃げず(既に病気かもしれませんが)、薬物に逃げず(既に薬物に逃げているかも知れませんが)、考えましょう。自分と周囲を。
    この世界は我々の脳が作り出す幻想です。この世界の主人公は貴方なのです。ある意味不可能はない。
    必要なのは具体的なイメージ出来る希望欲望です。それによって頭を興奮させてみて下さい。そして、その為の、その目的に達するための方法論を考えてみて下さい。
    貴方は、その希望や欲望を叶えることが出来る筈だ。
    私は出来ると確信?している。

  • 目的を規定する。愛せ執着できる女性を見つける。これを今後の具体的欲望として、希望として設定する。さぁ興奮を喚起せよ。脳をコントロールせよ。現実の中で見つけるのだ執着出来る人間を、その喜び、興奮を、無意識に無理やり根付かせよ、興奮させよ。ストレスに負けるな。委縮しようとする無意識に負けるな。俺にはやるべきことがある。経験してないことが沢山ある。その喜びを具体的にイメージして無意識に植え付けろ。そして、意識的にそれを興奮させよ。さすれば、お前は再び活動的になれる。様々な分析不能なストレスそれを吹き飛ばせ。興奮させよ。脳を意識的に染め上げろ。俺はやる。俺は出来る。そして、対象も見つけてやる。兎に角やるべきことはこれから沢山あるのだ。具体的な計画を立て、具体的にイメージして、方法論を探ろう。そして、行動し、そして、何らかの情報を得て、そして、さらに先に進もう。欲望は喚起し続けろ。目的は具体的に出来るだけ具体的に。善悪、他者への同情等いらないものは即刻切り捨てよ。目的に向かうのだ。具体的なイメージを持って。考えろ。達成された時の喜びを考えて、無意識に刷り込め。可能性は無限にあり、自分の行動如何によって全てが変わると認識せよ。私には全てが可能である。私の世界だ。望んだ通りに出来る。そう、私はこの世界の支配者である。全ては可能性として可能だ。現実問題として魅力的な女性というのは具体的にどういうものだろうか?私が、完全に執着できるような女性。それに出会う可能性、その方法論。まぁ急いでも仕方がない。今は欲望を具体的に無意識に強烈に喚起し興奮させよ。それが重要だ。

  • すみません。良く考えず、傲慢な話を下記で長々と書きました。無私な正義や善意はあり得ます。例えそれが、根本的には自身の快感原理に繋がっていようと。
    私欲ではなく、他者を思いやる心、これは群体として生存する生物の本能です。我々には他者を思いやる、共感し、悲しみ、怒る、本能があります。
    我々人間は他者を自然と愛します。それが犬や猫、他の動物、無機物であっても。
    下の発言にはそういう観点が抜けていました。
    私も母父愛犬弟を愛しています。
    そこに私欲はないでしょう。
    そう、人が社会に怒る時、悲しむ時、それは大概、無私な同情や共感なのでしょう。
    他者は自分の鏡です。私は他者を歪んだ目で見ている。
    人は他者の死を嫌います。これは何度も言いますが本能です。
    そして、この本能こそ、我々の社会を支え、また、正義や善意の元となるものです。

    そう、私は人をゆがんだ目で見ている。自分が歪んでいるから。
    私は自己中心的な欲望を肯定し、そして、他者に滅多に共感しません。この度起こった大量殺人に対しても全く被害者に共感、哀悼等を感じませんでした。

    はい、私は少し異常なのでしょう。
    しかし、今私は別アカウントである人物の文章を読んでいました。
    彼は純粋な他者への共感から怒り、悲しんでいるように見えた。
    それで、ああ、間違ってたなと気づけました。

    私のような人間ばかりになったらこの世は終わりです。
    はい、人類は遠からず滅亡するでしょう。

    私はこのページに於いて毒をまき散らしている。
    貴方が読んだ文章は毒です。
    共感はするべきじゃない。ただ、思考の道具として使っていただけると嬉しい。

    私は何を求めてフェイスブックでこうして喚いているのか?

    結局、充足できないこの不幸をまき散らしているだけなのか?それとも、少しでも他者との共感なり相互理解なりを望んでいるのか・・
    正直分かりません。
    ただ、今回の、今日の発言については何か嫌な気分が強いです。
    消しはしませんけど。
    そういうわけで、皆さん。私の言葉に毒されて嫌な人間にならないよう気を付けて下さい。

    情報は毒にも薬にもなるし、考える為の切っ掛けにもなる。
    全ては自分がどう処理するかです。

    では、この度はお見苦しいところをお見せしました。

  • 私が正義不正義、善悪等の言葉が嫌いという話を下記にしましたが。ある人からの問いかけにより、その解釈がより明瞭になったようなので、補足します。
    我々個人は個体と群体という二つの自我を持っていると仮定しましょう。
    個体として自身の正義不正義、善悪を語るのは実際問題恥ずかしいし、躊躇する人が多いでしょう。
    しかし、群体として、例えば「日本国民」として、正義不正義を語るとき、人は個体として自身を語る時より簡単に語れるものです。
    例えば、「憲法は改正すべし」とか、「憲法改悪断固反対」とか、「日本を戦争に巻き込むな」とか、「子供たちの未来の為に」とか、「安倍総理は許されん、ファシズムだ」とか、「朝鮮人は即刻この国を出てけ」とか、「日本社会が壊れていくのは何々の性だ」とか、いろいろありますよね。... もっと見る

  • 過多な情報は毒です。
    過去の偉大な思想家、学者、科学的情報や世に氾濫する不確かな情報。すべて多すぎれば毒です。
    勉強する。一見良い言葉です。しかし、それが訓練なら良い。しかし、その情報を自身のものとして無批判に受け取るだけの行為なら毒になり得ます。
    私たちが十分に精査し思考して考えられる情報は意外と少ない。
    昔左翼運動に興じていた若者たち。マルクス理論を真剣に考えたのでしょうか?ちゃんと自分の中で消化できていたのでしょうか?
    全ての情報は鵜呑みにせずに保留した方が良い。
    もちろん、社会生活の中で自分を飾るために知識を披露する必要性から、そういう人々を引用する、ありでしょう。ある意味、社会生活を送る上での技術です。
    しかし、真剣に議論等をする時に、ある学者の学説では等々他者の言葉を引き合いにして他者をやり込めようとする輩が多い。
    彼らは自分の中で情報を構造化してないから、自らの言葉の立脚点が自身で分からないのではないか?と感じることが多い。
    情報は大事です。精神を刺激してくれる。しかし、過多な情報を勉強する覚える無批判に受け入れる、考えないで受け入れる。これらは全て愚かでしょう。
    彼が言ったから、彼の言葉に共感したから、こういう権威ある学説だから、この新聞が言ってるから、、等々。

    我々は一人一人違う脳みそを持っていて、違う価値観を持っている。違う思考をしている筈であり、好きなものも違う。
    相手を寛容に見るこれは大事でしょう。だが、相手の考えを考えもせずに肯定したり、否定したりするべきではない。と自身も戒めたい。

    この情報過多の時代、貴方はどう生きますか?

  • 人権とは国家が国民に与えるものです。日本人は日本と言う国家がなくなれば人権つまり、貴方の社会的権利は失われる。それが分かってますか?考えたことありますか?私は数ヵ国語が喋れ、頭も体も自信があり、何処でも生きていけるという人はこの国家に執着しないで何処へでもお好きに行きなさい。しかし、この国にはこの国で生きていく人々が大勢いるのです。そして、祖先、子孫。我々は群体としてこの国家に責任を感じるべきだ。

  • そうですね、社会的に何かしらの問題、劣等感や悩みを抱えている人の方が、個体としての自分より群体としての自分を好むのではないかと考えます。個体としての正義はなかなか見つけづらい。しかし、群体としての正義不正義や善悪は自分個人の問題でないだけに、表現しやすい。そして、考えやすい、同じような問題提起を行っている人も大勢居て、逆の立場の人も大勢いる。楽しいですよ、そりゃ。

  • 私は小学校の時に広島の原爆資料館を見せられました。父は平和を愛する心を息子に与えたかったのかも知れない。しかし、私が感じたのは強烈な復讐心と劣等感でした。これが、私の一つの重要な根本です。私はこの国を守りたい。例え、この国を強制的に総動員してでも、他国から守りたい。そして、この「日本」という概念が永遠に存続するようにしたい。今はそういう社会問題国家問題に発言はしておりませんが、嘗ては某掲示板に於いて盛んに議論を戦わせて来ました。そして、そういう自分の考えを言葉にするという行為は大変に自分の益になりました。貴方がどういう社会像を望んでいても良いと私は思います。ただ、他者の言葉を借りるのではなく、自分で考えて言葉を発しましょう。それはすごく有意義なことです。だと私は考えます。

  • 私が複数のアカウントで発してきた言葉と一見矛盾するようですが、そして、矛盾していると思いますが。私は現在あまり社会問題に興味が沸きません。
    しかし、私の主体は、つまり自分とは個体と群体という形で存在していると考えております。
    そして、群体ですが、その概念をこの国「日本」に求めています。私はそういう意味で国粋主義者であり、民族主義者であり、ナショナリスト(意味重複)です。
    私は、国民一人一人の幸福にはあまり興味がありません。
    ただ、日本という概念と、自身の存続それを重要視しております。
    そして、また、私の美意識に於いて「日本」という概念は非常に重要です。
    私は他国が攻めてきたら絶対に戦います。自分という個体の生命を捨てても。と今は考えております。
    実際、私は自殺未遂前に皇城前で腹を切ろうかと考えました。
    ちょっと考え直して止めましたが。
    まぁ何を言っているのか自分でも分からなくなってきましたが。
    私は、日本という概念を大事にしておりますし、国家として極めて尊重しています。
    そして、愛国心を持って活動する方を真に応援する者です。
    説明不足かも知れませんが。私の政治的思想はこのようなものです。
    下記に誤解を受けるような文章を書きましたので一言書きたくなり、書きました。
    私は日本人の愛国者を愛しています。彼が例え愚かでもです。

  • 私は、善とか悪とか、正義とか不正義とか、普通とか現実とか、そういう言葉が嫌いです。まだまだ、思いつきそうだけど。兎に角嫌いです。正義を振りかざして善意をまき散らして正しく生きるという人は好感を持ちますが、愚かだとも思います。しかし、この社会には彼らが必要です。私が生命を維持し快適な生活を送るのにも必要です。はい、彼らは大切な存在ですので、そういう正義漢や善意の人は守ってあげましょう。

  • 村上龍という小説家の「愛と幻想のファシズム」の中で、彼は登場人物に「好きな事をしている限り人間は眠る必要はない」と言わせている。それがどうなのかはここでは言及しないが、実際のところ、無意識と意識の乖離が疲労を蓄積させていくのは事実だろう。要するに無意識がひとつの目的に向かっている場合、意識はそれに素直に従っていればいい。ただ、無意識が複数の欲求感情を具体的イメージなしに浮かべてくる場合だ。
    この場合には意識によってそれを解釈し、具体的目的をイメージして、意識が無意識をコントロールしてやる必要がある。
    おそらく、統合失調症はこの無意識の矛盾ではないかと推測する。私は統合失調症を調べたことがないので正確なことは言えないが。
    しかし、大概の脳の問題はこの意識無意識の構造で説明がつきそうである。
    そして、それを意識的にコントロール出来れば(あくまで無意識の願望に沿うように)貴方はより良い脳の状態を維持出来るだろう。
    脳の疲労、記憶力の落ち込み、頭痛、体の不調、全てが何らかのサインだと思って有り難く自分の無意識を分析しよう。
    分析し、それを攻略していけば、貴方はそれをコントロールできる。
    記憶も計算も思考も貴方は自由に出来る様になるだろう。
    苦手な虫も手で掴めるようになる。
    怖いもの、不安の対象全て貴方は克服できる。
    方法論さえ、その構造さえ、貴方の中に持てれば、後は実行するだけである。

  • 問題は、如何に無意識の暴走、興奮を止めるかです。これは鬱、躁どちらにも言えるでしょう。意識によって、無意識をコントロールする。これが必要なのです。
    我々は時に自己否定的感情に囚われ、それを意識的に否定しても否定しきれず、無意識化で恐怖や不安や焦燥等負の感情が暴走していく。
    鬱への移行を私はここ数十年何回、何十回?経験して来ました。
    そして、私の日記の今回の分析。
    明らかに、これは、何らかの情報を脳が受け取る事による脳の反応であると結論を出しました。
    私は仮説として、脳の細胞の消耗を考えていたのですが、それは、今は保留し、一旦否定しておきます。
    我々は意識的に考えているつもりで、情報のほとんどは無意識化で行われている。
    つまり、無意識が否定的情報を肯定し、その回路が活発に動き出すことによって、意識もまた、それに同調して行く。
    意識が幾ら、活発に活動せよと具体的内容なしに言っても、無意識は余計に負の回路を活発化させるだけでしょう。
    では、その対応策は何か?
    結論は希望です。欲望です。
    何が怖いのか、何が嫌なのか、何が・・・と分析しそれを分解して否定して克服することです。
    そして、その先にある希望への具体的道筋を喜びと共に無意識に植え付ける。
    要するに具体的な目的を設定し、問題を克服すると共に、その結果得られる喜び快感を設定し、無意識の興奮を喚起するということです。
    分かりにくいかも知れませんが。
    今のところ、私はこの方法論によって自己をコントロールし、鬱への移行を回避するテストを行います。

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