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  • 『太神宮諸雑事記』(だいじんぐうしょぞうじき)は、伊勢神宮側の基本史料の一つです。
    「神道大系」の解題を引用すれば、
    「この本は二巻に分かれ、第一巻は垂仁天皇の二十五年より後一条天皇の長元八年<乙亥(1035年)>九月までの五十八代に亙る一千四十年の記事を収め、第二巻は後朱雀天皇の長暦元年<丁丑(1037年)>より後三条天皇の延久元年(1069年)十一月十二日<辰甲>までの三代に亙る三十三年間の記事を収める。」と言い、作者は同解題に、
    「皇大神宮祢宜荒木田徳雄神主<貞観十七年(875)祢宜拝任、延喜五年(905)辞任。>の家々に代々相伝されて来た古記文があって、その後、その孫の興忠神主<応和元年(961)祢宜拝任、天元元年(978)辞任。>・その子の氏長神主<天元元年(978)祢宜拝任、長保三年(1001)辞任。>・その子の延利神主<長徳元年(995)祢宜拝任、長元三年(1030)辞任。>・その子<系図に拠れば孫に当たる。>延基神主<長元二年(1029)祢宜拝任、承暦二年(1078)卒去。>等が代々これを相伝し、且つ各自が日記を書き継いで来たものである」と言われる。
    神宮史料として有名な『皇太神宮儀式帳』、「延喜の大神宮式」、『倭姫命世記』等は、既に詳細な注釈などがありますが、『太神宮諸雑事記』に関しては、管見ですが目にしません。
    実見できない遠い過去の出来事は、残された史資料を見る事しか知り得ません。
    そこで、今回無謀とは思いますが、この掲示板をおかりして『太神宮諸雑事記』の訳注を試みたいと思います。無学で文才もない私一人では、独りよがりに陥り、間違いを犯し、拙い訳文となりますので、ご批判、ご助言等、皆様のご協力をいただければ幸いです。

    凡例
    一、原文のテキスト底本は、多くの公立中央図書館に蔵書される群書類従本(神祇部三 巻第三)を使用。
    二、他に神道大系の校訂本(神宮編一)を参照。
    三、原文を適時切り、「原文」、「訳文」、「語注」の順に掲載。
    四、原文の改行やパソコンで表示出来ない旧字、変体字の新字への変換は適時行う。
    五、訳文(現代語的訳文)は、原文を尊重しながら意味を取ることに重点を置く。
    六、原文は基本的には漢文(倭習漢文)であり、その漢字の読み等は、神道大系本に付される諸本の傍訓などを参照。
    七、原文で本文に対する小書き文字(文中注釈文や仮名漢字)等は< >でくくる。

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  • 428(最新)

    mkp***** 12月12日 15:19

    >>427

    掲示板の廃止に伴い、
    このトピも途中ですが、
    終了させて頂きます。
    ありがとうございました。

  • >>425

    つづき

    「訳文」(「原文」60)
    即ち其の宣旨に稱く。
    左弁官、伊勢太神宮(司)に下す。
    例に依って職掌供奉を豊受宮禰宜神主土主に命じるべし事。
    右、今月十六日宮司眞仲解状を得て(そこに)云く。
    去九月廿七日の宣旨を蒙りて稱く。
    且は上祓に科し、彼、家口(家人)ともにその身を祓い清め、
    且は五箇月の間、職掌供奉を停止すべし。
    豊受神宮禰宜神主の汚穢過怠の事は、永く現任を解却すべしことなり。
    しかれども皇太神宮の事は、諸社と異なると言えれば、
    上祓を科し、且は彼、家口(家人)ともにその身を祓い清め、
    且は五箇月の間、職掌供奉を停止し、
    あとで(後日)官裁にまかせて従事(復職)せよ。
    國司ならびに太神宮司、宜しく承知し、宣に依って行えと言う。
     <以上が「去九月廿七日宣旨稱」の文書>
    去る九月以後、已に五箇月に及ぶも、従事(復職)を命じられない。
    宮中の神事供奉に限りあり(従事人の定員が決められている)。
    朝夕の御膳の勤め、なんぞ其れに恐れ無らんや。
    官裁を望み請う、
    裁報にしたがって、神事に預かり仕え、國家の祈祷を命じられる事を、と言う。
     <以上が「宮司眞仲解状云」の文章>
    左大臣宣す。勅を奉り、請に依って、本の如く供奉職掌を命じる。
    國司ならびに太神宮司、宜しく承知し、宣に依って行えと言う。
     <以上が「即其宣旨稱」の文章>
    其の後、十箇年を限(「経」か)、
    又件の死穢の事が出てきて、大祓を科され、解任せられるなり。

  • >>424

    「原文」60
    即其宣旨稱。
    左弁官下伊勢太神宮。
    應令依例職掌供奉豊受宮禰宜神主土主事。
    右得今月十六日宮司眞仲解状云。
    蒙去九月廿七日宣旨稱。
    可且科上祓、祓清彼家口共其身、
    且停止五箇月間職掌。
    豊受神宮禰宜神主汚穢過怠事、須永解却見任也。
    然而皇太神宮事異諸社者、
    科上祓、且祓清彼家口共其身、
    且停止五箇月間職掌供奉、追任官裁従事。
    國司并太神宮司宜承知依宣行之者。
    去九月以後已及于五箇月、不令従事。
    有限宮中神事供奉。
    朝夕御膳勤、何無其恐哉。
    望請官裁、
    隋裁報、預仕神事、令國家祈祷者。
    左大臣宣。奉勅、依請令如本供奉職掌。
    國司并太神宮司宜承知依宣行之者。
    其後限十箇年、又件死穢事出来、科大祓、被解任也。

    「語注」
    【其宣旨稱】:「其」は「承和の宣旨」を指す。「稱(いわく)」は「云」と同じ。最後の文末の「者」と対応し、「稱・・・者。」の文章構造を取り、この間が「承和の宣旨」の引用文章である事を示す。
    【宮司眞仲】:「二所太神宮例文」に「<第三十(大宮司)>眞仲:散位春魚七男。承和二年三月五日任。在任六年」とある。
    【解状云】:大宮司眞仲からの神主土主の復職に関する要望書。ここも「云・・・者。」の文章構造をとり、「解状」の文章は、下文の「望請官裁、隋裁報、預仕神事令國家祈祷者。」の「者」までを指す。
    【九月廿七日宣旨稱】:この「稱」も「稱・・・者。」の文章構造を為し、解状の中で、「九月廿七日宣旨」の引用を示し、この引用文は「國司并太神宮司宜承知依宣行之者」の「者」までである。*(私見):ここでは、「宣旨」には「稱」を使い、「解状」には「云」を使うなどの書き分けが見られる。
    【然而】:「大系本」の傍訓に「しかれども」とある。
    【追】:おって。「《副詞》〔時・場所などをかえて〕のちほど。あとで。後刻。」(国語辞典)
    【國司并太神宮司】:「類従本」原文は「國并太神宮」であるが、「大系本」にしたがった。下文も同様。

    「訳文」につづく

  • >>423

    つづき

    「訳文」(「原文」59)
    同日の宣旨に云う。
    左弁官、伊勢国・太神宮司に下す。
    豊受神宮禰宜神主従五位下神主土主の位記を勘取し、進上すべし事。
    右、彼の宮神の祟りあるにより、勘申(調査報告)すべき由は、
    伊勢國ならびに太神宮司に宣旨を下され、已におわる。
    爰に、去七月十日の追勘状(調査報告書)に云く、
    禰宜土主、仁壽元年(851年)八月に、死人の穢に触れても、
    恣に御膳を調備し、神事に供奉し、
    その過怠、違例の由、勘申の言上に具さなり。
    仍って、大祓を科し、現任を解却すべきの由、おわると言う。
    右大臣宣す。勅を奉じて、彼の宮(宮司)に命じるに、
    祓の使いに付けて、土主の位記を勘進して、
    (命令に)したがって大祓に科すべしと言う。
    抑も件の土主は、去る承和六年(839)九月廿七日にも、
    汚穢の過怠に依って、上祓いに科され、
    五箇月の間、釐務(リム)を停止し、職掌を解却するも、
    同七年(840)正月廿八日を以て、本職に還復せられた。

  • >>422

    「原文」59
    同日宣旨云、
    左弁官下伊勢国太神宮司。
    應勘取進上豊受神宮禰宜神主従五位下神主土主位記事。
    右依有彼宮神之祟、可勘申之由、
    被下宣旨於伊勢國并太神宮司已了。
    爰、去七月十日追勘状云、
    禰宜土主、以仁壽元年八月、觸死人穢、恣調備御膳供奉神事、
    其過怠違例之由、勘申言上具也。
    仍科大祓、可解却見任之由畢者。
    右大臣宣、奉勅、仰彼宮、
    付祓使、應勘進土主位記、隋科大祓者。
    抑件土主、以去承和六年九月廿七日、
    依汚穢之過怠、科上祓、
    五箇月之間停止釐務、解却職掌、
    以同七年正月廿八日、被還復本職畢。

    「語注」
    【宣旨】:嵯峨天皇以降の公家様文書の一つ。佐藤進一著『古文書学入門』(法政大学出版局1971年)に、「内侍から蔵人とくにその職事(シキジ)に勅命を伝え、職事から上卿(多くは大臣)に伝え、上卿は事柄の内容によって、これを外記局、弁官、内記などに伝えて発布せしめた。こうして外記局か弁官から勅命を伝えるために発布された文書を宣旨という。」と言う。
    【位記】:(ゐき)「位を授くる時の記文をいふ。(中略)文官には式部省よりこれを授け、武官には兵部省よりこれを授く。」(関根正直他著『有識故実辞典』)
    【釐】:(リ)「治也」(康煕字典)。《書·堯典》允釐百工、庶績咸熙。《傳》釐、治也。
    【承和六年】:西暦839年。「承和」は仁明天皇の治世にあたるが、「神宮雑事」はこの時代が抜けている。『二所太神宮例文』の「依狂病耳聾目盲并神役不仕科被停止所職例」に「禰宜土主:承和七年(840)九月、依隠穢之過怠、解任所職。同八年正月、被還復本職本座。爰承和七年以後経十二年、又死穢出来。以不浄之身、従神事之間、依神御祟、仁壽二年八月十九日、被解任。畢、依盲目之訴、永承六年(1051)停任畢。」と載る(*ここに「永承六年停任畢」とあるが、これでは年齢が200歳を超える。恐らく年号に間違いがあろう。)

    「訳文」につづく。

  • >>421

    「原文」58
    其官符云、
    太政官符伊勢國并太神宮司
    應科大祓豊受太神宮禰宜神主土主事。
    使中臣蔭孫六位下大中臣朝臣眞助、
    卜部従八位下卜部宿禰直忠。
    右依度々天變恠奇、
    令卜食於神祇官陰陽寮之處、
    豊受神宮禰宜神主土主以不浄之身供奉神事之由御祟者。
    就於在國宮司等、令勘申之日、土主過怠其旨尤重者。
    右大臣宣。奉勅、科大祓、兼解却見任者。
    差件等人使、発遣如件。國司宮司宜承知依宣行之、符到奉行。
    参議従四位下兼行右近衛中将守大弁藤原朝臣氏宗。
    右大史正六位上山口宿禰稲麻。
    仁壽二年八月十九日者。

    「語注」
    【其官符】:仁壽二年(852)八月十九日の官符原文の引用。
    【應・・・事】:官符の事書き部分(命令の内容)。
    【陰陽寮】:原文は「陰陽道」だが、
    上文に「陰陽寮」とあり、「道」を「寮」に改めた。
    【者】:大系本の傍訓に「といへれば」とある。
    【國司宮司】:類従本は「國宮」だが、大系本に従う。
    【宜】:大系本により補う。

    「訳文」
    その官符に云う。
    太政官、伊勢國ならびに太神宮司に符す。
    豊受太神宮禰宜神主土主に大祓を科すべき事。
    使いの中臣は、蔭孫六位下大中臣朝臣眞助、
    卜部は、従八位下卜部宿禰直忠。
    右、度々の天変怪奇に依って、
    神祇官と陰陽寮に卜食をさせたところ、
    豊受神宮禰宜神主土主が不浄の身を以て、
    神事に供奉したことによる御祟りと言う。
    在国の宮司等に就いて、勘申させた日(所か)、
    土主の過怠、その旨が尤も重いと言う。
    右大臣宣し、勅を奉り、(土主に)大祓を科し、兼ねて現任を解くと言う。
    件等の人(大中臣と卜部)を使いに遣わし、発遣すること件の如し。
    國司、宮司、宜しく承知し宣に依って行い、符、到れば奉行せよ。
    参議従四位下兼行右近衛中将守大弁藤原朝臣氏宗。
    右大史正六位上山口宿禰稲麻。
    仁壽二年八月十九日者。

  • >>415

    「原文」57
    同二年六七月之間、頻天變之上、御薬度々御也。
    仍令卜食給之處、神祇官陰陽寮勘申云、巽方太神、若觸死穢事、神事供奉歟。仍重所祟給也。
    又令返問給。巽方内外太神御坐。何神宮乎者。
    勘申云、外宮之神民歟。
    仍下遣官使、被尋糺本宮之處、去年八月三日夜、犲狼喰損童之由勘注上奏了。
    仍同八月十九日、禰宜従五位下神主土主科大祓、解却見任既了。

    「語注」
    【御】:「大系本」の傍訓に「まします」とある。
    【卜食】:うらばみ。卜定のこと。『令義解』「職員令」に「神祇官:伯一人掌・・・卜兆<卜者、灼亀也。(中略)是卜部之執業、非長官自行之事。」。また同書に「中務省・陰陽寮:陰陽師六人<掌占筮相地><謂、占者、極数、知来曰占也。筮者著曰筮也。相者視也。」同書「神祇令」に「卜食(うらはめる)<謂、凡卜者必先墨亀、然後灼之、兆順食墨、是為卜食。」
    【勘申】:カンジン。かんがえもうす。
    【御坐】:「大系本」の傍訓に「おはします」とある。
    【神民】:「類従本」は「祇民」だが、「大系本」の「神民」に従う。
    【尋糺】:ジンキュウ。たずねただす。
    【解却】:解任。
    【見任】:現任(現職)。

    「訳文」
    同二年(仁寿二年)六、七月の間、頻りに天変の上、(天皇)みくすりを度々ましますなり。
    仍って、卜食をさせ給うところ、神祇官、陰陽寮の勘申いわく「巽(たつみ)方の太神で、あるいは死穢の事に触れて、神事を供奉するか。」
    仍って重ねて祟り給うところなり。
    また、返問させたまいて、「巽方は内外太神おはします。いずれの神宮か」と。
    勘申いわく、「外宮の神民か。」
    よって、官使を下し遣わし、本宮を尋糺したところ、去年(仁寿元年)八月三日夜、犲狼が童を喰い損ずる由を勘注し、上奏しておわる。
    仍って同(仁寿二年)八月十九日に、禰宜従五位下神主土主を大祓に科し、現任を解き、既におわる。

  • >>419

    >「ちゃんとオチは付くんだろうな。」

    これは訳注の試みで、おちはありません。
    「神宮諸雑事記」は一応神宮最古の歴史書で、
    各種論文に引用されることが多い文献ですが、
    管見ですが、この全編を通した訳注が見あたりません。
    それでは、作ってみようと始めて、はや数年。
    おちよりも終わりが心配になる今日この頃です。

  • >>414

    > 仁寿元年八月三日、終日大風吹、洪水・・・
    豊受宮禰宜神主土主宅犲狼入来、生年十三歳之童男一人喰畢・・・髑髏與左方足竈前残・・・
    而間以同年九月十四日、件禰宜土主之男子死亡。又以同月廿三日家女頓滅了//

    三名の子女が相次いで変死してるんだが、そりゃ一体どういう名前の火曜サスペンスなんだよ。禰宜土主之男子というのも子供かな。ええ歳したオサーンならば、何らかの役職についてそうだし。
    ちゃんとオチは付くんだろうな。とムク犬に云っても仕方ないんで、太神宮諸雑事記サンよ。

    もうこれは、名探偵の登場を願うしかないな、できれば華やかなのがいいね。
    というわけで、慎重に鑑識作業にあたる斎王探偵さんだ。
    http://img.4travel.jp/img/tcs/t/album/500/10/78/15/500_10781525.jpg
    http://4travel.jp/travelogue/10781525

    悪霊島なんてのが比較的似てるかな。守衛は神主、片帆はその子供(娘)で、髑髏與左方足竈前残といた死亡状況だ。流石に架空の神社が事件現場なのだが。
    http://hm-hm.net/horror/%E6%82%AA%E9%9C%8A%E5%B3%B6-%E9%87%91%E7%94%B0%E4%B8%80%E8%80%95%E5%8A%A9%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA
    > 数日後、その矢で胸を刺されて巴の夫・守衛が殺され、片帆も絞殺死体で発見されました//

  • >>417

    > さて、ご指摘の件ですが、もう少し具体的に言っていただくと助かります//

    ムク犬よ、少しは自分でモノを考えなよ、「365及びそれ以降で言及した、天平勝宝六年六月廿六日、盗取御稲十八 における、簿外資産化と全く同じだね」と書いてあるんだしさ。
    御前さ、莫迦の癖して簿外資産という単語にグダグダ云ってただけだったよな、何一つ理解も出来ないマンマでさ。

  • >>416

    >「天長三年七月十三日条も全く解釈できないんだよ。」

    久々のご返信、ありがとうございます。
    さて、ご指摘の件ですが、
    もう少し具体的に言っていただくと助かります。

  • >>409

    > 仰る通り「大物忌」は重要な神宮神職です。「原文」(16)で、初出しましたので、
    そこの「語注」に載せています。以下再掲いたします//

    あのな、そういう事ではなくてさ、「大物忌」という物の正しい解釈が出来ないとね、天長三年七月十三日条も全く解釈できないんだよ。ムクポよ、御前はトロい香具師だね。
    なお、この条々が記された理由も、365及びそれ以降で言及した、天平勝宝六年六月廿六日、盗取御稲十八 における、簿外資産化と全く同じだね。

  • >>414

    「訳文」(「原文」56)
    文徳天皇
    仁寿元年(851)八月三日、終日(一日中)大風吹き、洪水。
    即ち國内の堂塔は倒伏し、人宅は損亡し、牛馬は共にたおれ死んでおわる。
    而して、件の大風夜に、豊受宮禰宜神主土主の宅に、犲狼が入り来たり、
    年齢十三歳の童男一人が喰われおわれり。
    家中男女は敢えて知らざるや、
    明朝見れば、ドクロと左方の足が竈(かまど)の前に残れり。
    家主の禰宜はこれを見て、いそぎ住宅を退出の後、三七日を経て、宅に帰り入りて、即ち神事に仕え奉る。
    しかる間、同年九月十四日に、件の禰宜土主の男子(息子)が死亡。
    (さらに)また、同月二十三日に、(当家の)家女が急死しておわる。

  • >>413

    「原文」56
    文徳天皇
    仁寿元年八月三日、終日大風吹、洪水。
    即國内堂塔倒伏、人宅損亡、牛馬共斃死畢。
    而件大風夜、豊受宮禰宜神主土主宅犲狼入来、
    生年十三歳之童男一人喰畢<連里>。
    家中男女敢不知也、
    明朝見<波>、髑髏與左方足竈前残<連里>。
    家主禰宜見之、急退出住宅之後、經三七日、帰入於宅<天>、即供奉神事。
    而間以同年九月十四日、件禰宜土主之男子死亡。
    又以同月廿三日家女頓滅了。

    「語注」
    【文徳天皇】:第五十五代天皇(帝王編年記)。嘉祥三年(850)三月二十一日父仁明天皇の崩御により同日践祚。同年四月十六日即位。御年二十四。『文徳天皇実録』に「諱道康。仁明天皇長子也。母藤原氏、贈太政大臣正一位冬嗣之女也。年十六。承和九年(842)八月乙丑《四》立爲皇太子。」とある。この「神宮雑事」に父親の「仁明天皇」の時代が抜けている。
    【仁寿元年】:西暦851年(4月28日改元)。
    【神主土主】:『二所太神宮例文』に「<四門>五月麿四男。承和六年(839)任。在任十三年。」とあり、『文徳天皇実録』に「嘉祥三年(850)九月甲申《十》天照太神宮祢宜從八位下神主繼長、豊受太神宮祢宜從八位上神主土主等、授外從五位下。」とある。
    【斃死】:ヘイ・シ。たおれて死ぬ。「斃」一字でも死ぬの意味が包含される。「死」の字は「大系本」に無く、衍字か。
    【犲狼(サイロウ)】:やまいぬと、おおかみ。「類従本」に「犲」の字が無いが、「大系本」や後文により補う。
    【生年】:ショウネン。年齢。
    【童男】:ドウナン。をのわらべ。当家の雑務に従事する少年。「僮(童):謂役使也、未冠人也」(新撰字鏡)。
    【髑髏】:ドクロ。されかうべ。頭蓋骨。
    【三七日】:み・なぬ(の)か。21日目(3×7=21)。
    【男子】:ダンシ。をのこ。ここでは、神主土主の「むすこ」を言う。
    【頓滅】:トンメツ。急死。
    【家女】:ケジョ。家に就く女。ここでは当家の下女を言うか

  • >>412

    「訳文」(「原文」55)
    天長六(829)年九月、太神宮御遷宮。
    同年五月三日、勅使の参宮がおわる。
    勅使は、王は散位従五位下信忠王、中臣は正六位上大中臣朝臣定實、忌部なり。
    しかして、件の勅使が参宮奉幣の間、俄に雷鳴電光鳴り響き、天地ともに振動し、雨くだることそそぐが如し。
    即ち一時の間に、洪水岸を洗う。
    ここに、同年六月五日より、天皇の薬をめすこと切々なり。
    よって、本官(神祇官)ならびに陰陽寮が、(占い)かんがえ申して、巽方(たつみかた・東南)の太神宮が不浄の事に依り(天皇に)祟るかと云う。
    その日、天皇に示現めされ、汚穢の事を告げ、一つ一つ示したまえり。
    よって、夢想の告に恐れましまして、宣旨をくだされ、取り調べたところ、
    前日(6月4日)に、勅使の中臣定實が、離宮宿坊に、随身の馬が流産の由つぶさとなる。
    しかも、定實は件の事を隠忍し、ひそかに(死産の子馬を)掘って埋めさせて、参宮した由で、事の隠れ無きなり。
    度会郡司、驛の専(「別」か)當等がその申し文を進上した。
    これにより、国司、宮司等が件の申し文を副えて上奏しおわる。
    ただし、王忠信、中臣定實等(官使につくか)は、離宮院に追い下げられる。
    同年七月十九日に、信忠は上祓に科され、定實は大祓に科されて、謝遣せしめられる(帰された)。
    かつは(一方で)、同日に勅使参宮し、汚穢の由を祈られておわる。
    同(天長)八年(831)九月、豊受太神宮遷宮。

  • >>411

    「語注」(「原文」55)
    【天長六年】:西暦829年
    【太神宮御遷宮】:『二所太神宮例文』に「天長六年<己酉>内宮遷宮。<淳和天皇御宇>自弘仁元年及廿年」とある。
    【(勅使)参宮(畢)】:類従本は「参宮」だけだが、大系本により「勅使」と「畢」を補う。また五月の例祭に勅使派遣はなく、この派遣目的は不詳。
    【震(動)】:大系本により「動」を補う。
    【雨下】:大系本の送りカナは「雨下<ルコト>」。
    【沃】:そそぐ。
    【於爰】:ここに。「話題の転換を示す。さて。それで。」。大系本は「於」を「乎」とし、前句末尾につけるが、これは採用しない。
    【御示現】:神が夢に現れ示すこと。後文の「夢想之告」につながる。
    【尋糺】:ジンキュウ。たずねただす。取り調べる。
    【離宮宿坊】:離宮院の中にある使者等の宿泊施設。「離宮院」は「原文」39の語注参照。また『続日本後紀』に「承和六年(八三九)十二月庚戌《二》。遣參議從四位上行春宮大夫兼右衛門督交室朝臣秋津。奉珍幣於伊勢大神以齋宮燒損也。又去天長元年九月依多氣齋宮遠離太神宮。毎事無便。卜定度會離宮。以爲齋宮焉。」とあり、天長年間は離宮院に斎宮が移されていた。これはこの時の体が弱い斎内親王(氏子)のためと思われるが、結局彼女は天長四年に病弱により帰京した。
    【落胎】:ラクタイ。流産か。
    【而】:しかも。前述の事柄にさらに他の事柄が加わる時の接続詞。
    【隠忍】:インニン。隠し忍ぶ。
    【驛専(「別」か)當】:駅の「長」であるが、専任の「専當」か、兼任の「別當」か判別つかず。
    【国(司)宮司】:類従本は「国宮司」だが、大系本により「司」を補う。
    【(付官使歟)】:この文言は、筆記者の自注とみて、( )でくくった。
    【(被)追下】:類従本は「被」が無いが、大系本により補う。
    【謝遣】:シャケン:礼をのべて帰らせる。
    【豊受太神宮遷宮】:『二所太神宮例文』に「天長八年<辛亥>外宮遷宮。自内宮遷宮隔中一年。」とある。

  • >>410

    「原文」55
    天長六年九月、太神宮御遷宮。
    同年五月三日、(勅使)参宮(畢)。
    勅使王散位従五位下信忠王、中臣正六位上大中臣朝臣定實、忌部也。
    而件勅使参宮奉幣之間、俄雷電鳴響、天地共震(動)、雨下如沃。
    即一時之間、洪水洗岸。
    於爰自同六月五日、天皇御薬切々也。
    仍本官并陰陽寮勘申云、巽方太神宮依不浄事祟歟。
    即日天皇御示現、告汚穢事、條々示給<倍利>。
    仍夢想之告恐御<天>、被下宣旨、尋糺之處、
    前日勅使中臣定實<加>、離宮宿坊<仁>、随身駄落胎由具也。
    而定實隠忍件事、竊令堀埋<天>、参宮之由。無事隠也。
    渡會郡司驛専(「別」か)當等進上其申文。
    因之、国(司)宮司等副件申文上奏了。
    但、王忠信、中臣定實等(付官使歟)(被)追下離宮院。
    以同年七月十九日、信忠科上祓、定實科大祓、被令謝遣。
    且以同日、勅使参宮、被祈申汚穢之由了。
    同八年九月、豊受太神宮遷宮。

    (次「語注」)

  • >>407

    <「語注」【淳和天皇】の追記。>

    また『帝王編年記』には、「(天長)二年(825)乙巳、水江浦嶋子、自蓬莱帰朝。経三百四十八年也。」と、俗に云う浦島太郎がこの時期に帰国したと言う面白記事を載せる。

  • >>408

    >「訳注を付すならば、大物忌については必須に思えるんだがね。」

    仰る通り「大物忌」は重要な神宮神職です。
    「原文」(16)で、初出しましたので、
    そこの「語注」に載せています。
    以下再掲いたします。

    【大物忌(おほものいみ)】:「大物忌」は、各種「物忌」の筆頭。「物忌」は、神職の童男童女(童男は宮守物忌と山向物忌だけ)から卜占で選ばれ、この童男童女達が、清浄を尊ぶ祭礼行事での中心的役割を担う。「大物忌父」や「物忌父」とは、その童女童男を補佐する父親(実父または義父)。
    外宮(豊受宮)の「大物忌」は、「外宮儀式帳」に「他人火物不食、宮大垣内、立忌庤造、不帰後家(実家)、宮侍(中略)二所大神<乃>朝<乃>大御饌、夕<乃>大御饌<乎>日毎斎敬供奉。」と俗世を離れ、清浄な生活を保ち、役割としては、「御炊物忌」「御塩物忌」「土師物忌(内宮)」等と共に毎日の神饌をそなえる。その任期は、天明八年(1788)の『続郷談』(大日本地誌大系本)に「外宮大物忌子は、月事(初潮)なるを期として解任せしを寛延中(1748~1750)智彦卿(松木智彦)執印(外宮長官)の時に、十二歳を限りと定め玉ふ。十三歳は婚嫁の年なり。戸令曰、凡男十五、女年十三以上聴婚嫁。内宮の例は不聞。・・・別式あるべきか。」。
    内宮の「大物忌」は、斎内親王の代役的存在。その由来は、「内宮儀式帳」に「此初太神<乎>頂奉斎倭姫内親王、朝廷還参上時<仁>、今禰宜神主公成等先祖天見通命<乃>孫川姫命、倭姫<乃>御代<仁>大物忌為<弖>、以川姫命、大神<乎>令傅奉。」と述べ、役割は「今、従斎内親王、大物忌者、於太神近傅奉。昼夜不避、迄今世最重。」と斎内親王に従って大神に近習すると言う。また同書に「以上三人物忌等<波>(大物忌・宮守物忌・地祭物忌)、宮後川(五十鈴川か)不度。若誤度時<波>、更不任用、即却。」と日常的に厳格さが求められた。 
    「物忌」は『神宮雑例集』「供奉始事」に「神主<乃>女子等未夫婚<乎>物忌<爾>定。」とある。 『延喜式』には「大神宮三座;物忌九人<童男一人、童女八人、父九人>」(伊勢神宮式)とあり、他に別宮や外宮の物忌の人数もここに記される。

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