ここから本文です
  • 邪馬台国論争、いまだに集結の目途が立ちませんが、私なりに混迷の原因と今後の見通しを考えました。何かご教示いただければありがたいです。

    1.再考すべき視点
    ①邪馬台国論争の大前提に、邪馬台国の存在するところには、必ず当時の日本列島最大の政治権力や文化的中心があったという暗黙の了解がある。だから、邪馬台国と同時代の地層から、何か大きな政治的文化的意味のある物が発見があると、そこが邪馬台国の所在地だと騒がれる。
    しかし、本当に当時の魏志倭人伝には、列島最強・最大の政治的文化的力のある国家たる邪馬台国が記録されていたのであろうか。
    ②また、その前提として、当時の魏志倭人伝の調査使節団が、日本列島の全体像を把握できたか、加えて、彼ら使節団に情報を与えた邪馬台国の人間自身も、どれだけ列島の全体像を把握していたか、これも冷静に考えるべきだ。

    2.邪馬台国の所在とその他の地域国家連合の存在
    ①私は、邪馬台国と同時代に列島には邪馬台国同様の複数の「連合国家」群があったと思う。北部九州、出雲日本海、吉備瀬戸内、大和近畿、東海など。
    ②しかも、その「国家連合」を構成する各クニの範囲は、市町村レベルだろう。たいてい一山越えれば隣のクニだ。したがって、邪馬台国連合国家の広がりは、今の市町村エリア30の範囲をカバーする程度。 となれば、もし邪馬台国が九州とすれば、その連合国家のエリアはせいぜい九州島の5分の1程度の範囲だろうし、大和だとすれば、奈良盆地にすっぽり入る程度の広がりだろう。
    ③また、当時の人間にとっての地理的理解は、自身の「連合国家」エリアが最大だろう。たとえば邪馬台国の人間なら、認識の範囲はそこに参加する30国止り。外部世界は狗奴国一つしか知らない。それ以外は地の果て。したがって、邪馬台国に限らず当時の倭人には、列島全体を俯瞰する認識能力など全く無かったということ。
    ④また、使節団の渡海・移動能力も考えるべし。数百年後の鑑真ですら5回も難破し6回目にしてようやく日本渡航に成功。魏の使節が半ば命懸けで渡航していたことも勘案すべき。ならば、水行20日とかを現代風に考えて九州から遠く大和などまで渡海したとするのは過大評価。おそらく、北部九州止りか、筑後川流域止りだっただろう。ましてや、使節団単独で列島全域を俯瞰することも不可能だったはず。
    ⑤つまり、当時、自分の連合国家エリアに留まる倭人は、列島全体を俯瞰する認識・行動能力など全く無く、魏の使節団も単独で日本列島をくまなく調べたはずもない。しかも、魏の使節団はせいぜい九州北部を移動した程度だとすれば、彼らの書いた邪馬台国というのは、自然と北部九州およびそれに隣接するエリアの話となる。しかし、だからといって、その当時、北部九州が唯一最大の政治権力・文化の中心地だったということにはならない。むしろ、近畿やその他の地域に、北部九州の邪馬台国より大きな政治権力と文化力をもった連合国家が、たとえば大和に存在した可能性も大いにあると言うこと。何せ、邪馬台国の人間も魏の使節団も、日本列島全体を俯瞰する能力などなかったのであるから。知らないことは書けないのだ。
    ⑥したがって、北部九州以外の地域、たとえば箸墓古墳周辺の古代都市遺跡がどれだけ大きく、またどれだけ遠方の土器を集積していたとしても、だからそこが邪馬台国だったということにはならない。別に、大きく高レベルに発達した地域が邪馬台国だったということではないからだ。それを、まるで魏の使節団が列島全体くまなく調査した結果、邪馬台国が最大最強の国家連合だったと書いているかのような前提に立つから、いつまでも遺跡・遺物の大きさ・多さに一喜一憂することになる。「邪馬台国=日本で唯一の最大最強の国家連合」という認識を捨てれば見えてくることだ。
    ⑦実際、北部九州にあった邪馬台国は、巫女の鬼道に頼るまやかしの連合国家ゆえに、早々に力を失った。むしろ、魏の使節団も知らなかった大和近畿地方の強大な国家連合が、吉備や出雲や東海も巻き込み、最終的に北部九州の邪馬台国を滅ぼしたか、吸収してしまったのだろう。おそらく、ほとんど大きな戦闘もなく北部九州の権益を禅譲させたのではないか。『日本書紀』や『古事記』に九州にまつわる神話が多く重要な役割をもっているのは、天皇家を中心に近畿の豪族がみんな渡来人であり、元々北部九州に拠点を持ちその後近畿に移動していった者たちだったからだろう。

  • <<
  • 681 662
  • >>
  • <<
  • 681 662
  • >>
並べ替え:
古い順
新しい順