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  • 古代史において、松本清張氏は活発に発言しました。『古代史疑』は邪馬台国を論じます。推理小説の大家が本業の技を古代史へ投入する……興味深いことです。また、氏は、こういう趣旨の発言をします……専門家はわれわれ素人の意見に見向きもしない……と。「ガラスの璧と伊都国」という論文の中です(朝日新聞、昭和51年2月5日夕刊3面)。発言部分を引用します。
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     「一大率」の強権については、これまであまり学会でいわなさすぎる。ふれてはいても、あっさりとしている。
     そのなかで、東洋史家栗原朋信氏の所論(実はわたしの主張への反論)は注目に値する。それは「史観」第七〇冊(昭和三十九年九月)に載った「邪馬台国と大和朝廷」というかなり長い論文の中である。
     「魏志が陳壽によって書かれているために、中国中心の観念で書いたので、主語を書き落したということは考えられ得ることである。しかし、そうすると、『一大率』も、行文上からはまた魏が置いた官としてうけとらなければならなくなるが……」
     これはあきらかに拙著「古代史疑」(昭和三十四年刊)を意識されての言い方である。なぜなら、倭人伝の潜在的な主語が魏であることも、一大率が魏=帯方郡の派遣官だというのも、この拙著ではじめて発言したことだからである。栗原氏が対象とする書名も著者名もあげないのは、ふしぎというほかはない。
     しかし、これは非専門の一般研究者に対する専門学者の無視または蔑視的態度であって、ひとり栗原氏だけではない。
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     以上を整理します。
       (1)昭和34年、松本『古代史疑』
          …一大率などについて論述。
       (2)昭和39年、栗原「邪馬台国と大和朝廷」
          …上記(1)の松本論述を無視して論述。
       (3)昭和51年、松本「ガラスの璧と伊都国」
          …上記(2)の「無視」を批判。
    こういう流れになります。なるほど、専門学者が一般研究者を無視したのでしょう。ところが、訂正記事が載りました。(3)の松本「ガラスの璧と伊都国」掲載の7日後です(昭和51年2月12日夕刊3面)。それを引用します。
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     五日付文化面、松本清張氏の「ガラスの璧と伊都国」の文中、松本氏の著書「古代史疑」が昭和三十四年刊とあるのは、昭和四十三年刊の誤りでした。従って、東洋史家栗原朋信氏が同三十九年九月に発表した論文「邪馬台国と大和朝廷」の中に無断で「古代史疑」をふまえて書いた部分があるという松本氏の指摘は事実と相違しますので、この箇所を削除します。
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     この訂正記事により整理し直します。
       (ア)昭和39年、栗原「邪馬台国と大和朝廷」
       (イ)昭和43年、松本『古代史疑』
       (ウ)昭和51年、松本「ガラスの璧と伊都国」
    [次段へ続く]

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