ここから本文です

神武東征は事実か?

  • 30,267
  • 7
  • 2018/05/16 22:56
  • rss
  • 記紀に記す神武東征はありましたか?
    天照大御神からの天皇制を正当化する架空物語ですか。
    東征の事実を示す考古学的資料はなく、東征する以上は大和に何らかの王権があり、それにとり替わるべく出発したのでしょうが高天原に大和をしのぐ文化、経済基盤があったのでしょうか?

    コスト的には東征には幾らかかりますか?長期にわたり東征するわけですが、兵の疲労もあり、また進軍する先々で補充も可能だったのでしょうか?

    熊野から大和に入るルートは多くの兵が動ける道ではないです。ゲリラ的人員でヤマトに侵攻したのでしょうか?
    神武東征説には疑問点がおおいですね~

  • <<
  • 30267 30248
  • >>
  • 30267(最新)

    asi***** 5月16日 22:56

    飛鳥時代などの天皇がたびたび行幸したとされる吉野宮跡(宮滝遺跡=吉野郡吉野町宮滝)で、正殿とみられる大型建物跡がみつかったそうだ。
    これまで東吉野村が吉野宮のあったところだとする説もあって議論が続いていたが、これで決着かとみられているようだ。

    ところで、この宮滝遺跡は縄文時代の貝殻文土器が出たことで知られている。
    南九州系の縄文人が移住してきたところだとみられるが、この宮滝はちょうど熊野へ直行するルートと伊勢へ直行するルートの交わるところにある。
    天武が吉野に隠棲したのは、伊勢か熊野へ亡命するためだったと考えれば、この宮滝の位置は納得できる。
    また、宮滝から熊野へ直行するルートは、日本書紀が描く南九州から来た神武の熊野越えの道そのものだし、そして、その神武が定めた都である畝傍山東南麓の地は、天武が着工して持統が建設を進めた藤原宮の一部がかかる立地に当たる。
    この吉野の宮滝は、神武とのゆかりが強い立地にあるといえそうだ。∩∩

  • >>30263

    裸国黒歯国

    九州北部からの神武東征路と一致するのではないか。

    東南船行1年で到達する。

    邪馬台国畿内大和派はどう考えているのであろうか。
    もっとも、方位は適当なんだから、どこでも比定できるかな。

  • >>30244

    まずトヨが、中平銘鉄刀の和邇氏の祖・孝昭天皇の母親であるトヨ津媛(懿徳天皇后)であると認められますか?
    話しはそこからです。

  • >>30242

    >何回も繰り返していますが、「宗族」記事から父系制氏族内で発見できなければ、はっきり言って「牽強付会」と言わざるを得ない

    こっちも何回も繰り返しますが、「宗族」を男系のみか女系も含めた一族、王族、クラン、リネージと見るか、
    この結果がヒメ(踏鞴五十鈴)媛とトヨ津媛の関係から後者だと分るわけです。

    以前にもhnさんは崇神から神武まで9世代だと断定された。
    私は6世代でも9世代でもどちらも有りで考えてヒメとトヨがいる6世代だと主張した。

    私の方が正しいのです。

    >「ヒメ」等単に美称に過ぎませんし、「トヨ」もそうです。

    ヒメが付く媛は「ヒメ(踏鞴五十鈴)媛」しかいません。
    もっとも彼女の義理姉の日向賀牟度美良姫(ひむかのかむとみらひめ)という女性もいますが、
    日向は地名なので関係ないでしょう。

    トヨも最高位のトヨはトヨ津媛しかいません。
    今現在、ミチコさんという名前の女性は日本に多数いますが、
    最高位のミチコさんは美智子皇后しかいないのと同じです。

  • >>30239

    神武東征には薩摩隼人の水軍が関与している。

    以後特別な関係が続いたでしょう。

    神武も隼人の血が入っている。

  • >>30254

    >  私はやはり傭兵だと思いますよ。で、大王から直接給与を受け取るのも、その証拠であり、ある種私的な存在で、公的武力ではなかった、と言う事でしょう

    近習隼人は公的な存在ではなかったという点では一致しますが、殉死までする隼人は傭兵とはまた別の存在だったと思いますがね。∩∩

  • >>30253

    > > 吉野熊野は山肌が急峻なので、焼畑農耕は無理ですか。
    >
    >  焼畑をするのであれば、ごく狭い適地を数年後に捨てて、さてその時の焼き畑用地がない、というような状況であり、到底生業としては、焼畑農耕は無理でしょう。むしろ定住しての畑と谷川に降りてのうおつり、山での採集と狩猟、という複合的な生業体系の一環としてなら、辛うじて畑作は出来ますが、焼畑は本来移動するので、それなりに広い土地利用が必要でしょう

    そのような焼畑の伝統が吉野あたり一帯にあれば、口承で伝えられたでしょうから、そうした言い伝えがないのであれば、焼畑はなかったのでしょう。

    > > その獣皮を普段着の衣服とするのは、重すぎませんか
    >
    >  冬場には役立ちそうですが。大和さんが欲しがっていましたが、非売品とか
    >
    > > 獣皮は獣を狩る際に、鎧みたいに用いたのではないでしょうか。
    >
    >  普通に着込んだのでは?

    毛がそのままついたチョッキのようなあの毛皮物ですか。
    あれでしたら、防護服にはなりませんね。
    しかし、尻尾まで残して、腕部分に新たに皮袖を付け加えたそのような獣皮服だったら、これはかなりの防護服になりますね。
    神武が出会った尻尾ある者とは、このようなものを着た者たちではなかったでしょうか。∩∩

  • >>30241

    >  AD57年に後漢光武帝に金印を与えられた倭 奴国王が存在する以上、前漢時代に楽浪郡に献見した倭人100余国及び中国側の楽浪郡の役人たちは、皆それを前提に外交をすることになった筈です。

    その通りだと思います。

    >であれば、AD107年の倭の使者は、当然倭 奴国王家の使者でなければなりません。しかし、「倭 国王帥升等」という表記であれば、AD57年の倭 奴国の後継だと考える事も出来るが、

    その通りだと思いますね。

    >「倭 面土」「倭 回土」という国名であったのであれば、別な国が倭人諸国の盟主である事の承認を求めて、大量の生口を献上した、と言う事になります。

    間違いないと思います。

    >  で、先ずAD57年の「倭 奴国王」の解釈が問題になる。是を私のように、「倭 国王」を意味し、「奴」は「匈奴」の「奴」のように中華意識からの蔑称として「倭」字に添えられたと解釈するか、博多湾岸あたりの「奴」国だと考えるかです。前者であれば、「倭 奴国王」は実は伊都国の王或いは「面土國」(末盧?)でもどこでも良い。しかし、AD57年に冊封を受けた「王」の正統な後継者でなければならない、という条件が当然楽浪郡の中国人官吏には前提になっている筈です。

    面土国側は、少なくとも、そうした証明ができなければならないでしょうね。


    >帥升の生口大量献上は、何らかの意図があり、同時にその希望を中国側に適えてもらうには、従来の「方物」献上では、無理だという判断があったことになります。

    何らかの明確な考えがあったことは、確かでしょう。
    もっとも、そのような生口人数が後漢王朝が求める朝貢儀礼として妥当なものであると面土国側が考えたとすれば、朝貢事情に疎いといわざるを得ないことになります。
    しかし、面土国側はそれを強行しているわけですから、朝貢儀礼を知っている奴国ではないことが推測されます。
    また、通常の渡海航路は奴国や委都国が押さえていたと思われますから、生口を乗せる大量の舟を必要とする渡海は奴国などに妨害されたと思われます。
    そうした妨害がなく渡海できたとすれば、それには独自に航路を保持していた者たちを想定しなければなりませんす。その可能性があるのは107年当時としては、宗像だけではないでしょうか。あるいは、その宗像と組んだ勢力でしょう。∩∩

  • > これは中央アジアでヒッタイトが製鉄技術を確立したときから連綿と受け継がれた考え方だと思われますね。
    >
    >  ヒッタイトはアナトリアで、中央アジアとは言い難い。中東でしょう

    その通りです。
    間違えました。∩∩

    > > そして、太陽が洞窟で休むとされるのは、製鉄の炉とその中の火との関係からの発想ではないのでしょうか
    >
    >  そうではなく、中国神話やシベリアの神話のように、東から上がった太陽が西に没し、翌朝また東から上がる、という天文現象の解釈でしょう。で、複数の太陽が輪番で天空に上がり、日没後の夜に、地中の通路を通って、自分の治下の住居で休む。その地下住居=洞窟から、仕事に励む(東から昇って地上を照らす)、というわけです。で中国では義和という母親が子の太陽の世話を見る。10個の太陽だと母親も複数になる。
    >  その後に鍛冶集団が「火の神」との関連で若干の神話の就職があった。
    >
    > > 沖縄では、太陽は海底の大型巻貝から出て昇るとされるようです。巻貝の穴は陸の洞穴にあたりますね。
    >
    >  「てだ(天道、つまり太陽を意味する)があな(穴)」という語彙が、琉球語で「東」を意味する語彙です。もう一つ「ひが」比嘉もあり、これは「ひがし」と同源でしょう。ただ、どうも日本神話と言うよりは中国の影響のように思われます。
    >  ひがし」<「ひむかし」で「日向か(迎)・し(シは風位、方位を意味する)」ですが、その「し」が脱落した形でしょう

    フィリピンでしたか東南アジアの人類創生神話では、洞窟から男二人女一人の集団が現れ、男子一人は洞窟へ帰り、残りの男女がこの世界に残って最初の人類となった、というのがみられます。
    天照大神の岩戸神話は、この話とそっくりです。
    ホモサピエンスも長い洞窟暮らしを経てきていますから、真実味があのますね。
    これは、太陽が休む洞窟の話とは少しことなりますが。∩∩

  • >>30248

    >  崎山理氏は、「櫛」だとしていますが、「櫛」も「串」も似たようなもので、同じ語でしょう。

    櫛も串も発音はクシで同じですし、櫛の場合は串が何本もあり、また用途が異なっているだけで、一方は髪の毛に突き通し、また一方は単体で何かを突き刺すその機能は同じですね。
    ただ、櫛で魚は突けませんし、串で髪の毛は梳けませんが。
    この串字、あるいはクシ音を地名としているのは、南九州から三重県にかけての太平洋沿岸に多いのではないてしょうか。∩∩

  • >>30249

    > > 岸は、前にnasさんが言っていたアイヌ語のピシ(浜)と同系の言葉ではないでしょうか。∩∩
    >
    >  崎山理氏は、「隼人語」の「必至」ヒシ(『大隅国風土記』の郷名)で、「ヒセ」(干瀬)の意味で、海中の洲で、干潮時に現れるが、島迄干瀬を通って、歩いて行けるので、転じて「ハシ」(橋)になったとも。少し穿ち過ぎかも。
    >  尚『万葉集』では「比自」=洲(14:3448)と書かれているそうです

    比自を(海の干瀬)とする解釈がみられます。
    干をヒと読むのは、干上がるのヒでしょうね。
    乾く意味の言葉として、東南アジアの言葉に、ヒ音があったように思います。
    それやこれやみますと、隼人語の必死(ヒシ=干瀬)も南方系の言葉のようにみえますね。∩∩

  • >>30251

    >  なるほど。どうしても「王道」「「覇道」という中国の語彙が連想されてしまうので。
    >  ただ日本神話も重層的に成立し、創造神・創生神=ムスビの神、とイザナギ・イザナミ及び三貴神、とでは銘カヌニ、神の世代差、があります。ギリシャ神話のように、Titan神族とオリュンポスの神々、或いは北欧神話のように、神がはっきり分類されていない、日本列島に関してのみ、天津神と国つ神と言う分類はなされていますが。
    >  本来は神界である天上界~高天原の神が、分類されるべきなのでしょうが。神の「世代」が明確ではない

    ギリシャ神話など古代神話はフォークロア段階から都市国家成立後の国家神話への変遷が深く研究されていて、その成り立ちが解明されているようです。
    その点、確かに、日本の神話は“世代”が明確ではないですね。
    記紀の神話のどの部分がフォークロアであり、どの部分が政治的にデフォメルされているのかなど、判断できる材料に乏しいようです。
    そして、神話成立の時期の違いもありますね。
    ギリシャ神話などはずっ~と古いのに対して、記紀神話の中核をなすものは紀元後の成立なのではないでしょうか。あるいは、ぐ~んと新しいのかも知れませんしね。

    > > いずれにしましても、天照大神の元々の姿は、尾張氏や海部氏の部族神である天照神であり、纏向連合政権成立の旗頭であった尾張の勢力や尾張と同族の海部族の部族神が政権成立後に連合政権の大部族神に祀られた、というのがワイの考えです。∩∩
    >
    >  「天照」は飽く迄も神、特に太陽神の「形容」であり、本来は固有名詞ではなかったので、余り囚われる必要はない、と思いますが

    神武紀をみますと、どうしても、“とらわれて”しまいます。∩∩

  • >>30250

    > > 串本の串は、尖がったその砂州の形から名づけた言葉だったと推測されているようです。∩∩
    >
    >  う~ん、この話を聞くと、「ひし」「干瀬」が「端」になる、という崎山氏の説も、あながち間違いではないかも

    串(クシ)と干瀬(ヒシ→端ハシ)が同根の言葉か、ということですね。
    nasさんの考えでは、アイヌ語で浜はヒシと言い、このヒシ音は熊野地方で潜って魚を突くときのヤスのことをヒシといい、尖っていることをヒシとすることでは浜のすぐ沖などに取り残された干瀬も尖っている形のものがあって干瀬をヒシと呼んだか、と考えたものです。
    岸もヒシ由来かもしれませんね。
    串(クシ)と干瀬(ヒシ・ヒセ)は関連があるかも知れませんね。∩∩

  • >>30236

    > > > そして、この隼人は律令時代になっても特権をもって処遇されているようです。∩∩

    > >  身辺護衛も近習の大きな役目ですよ。
    > >  応神自体が、九州勢力を率いて、ヤマトを打倒した形ですからね。当然寝返りの可能性の高い、畿内系の者に身辺の世話や護衛は任せられない

    > 近習の役目としては、確かにボディーガードもあったでしょうね。
    > 近習隼人は、応神氏族の身内集団ではなかったのでしょうか。

     先祖が共通、という神話伝承はあったが、実際には同族としての扱いは受けられなかったでしょうね

    > 儀式の際には、先触れもしています。
    > 宮の警護では、大王の近衛である大伴の兵士らとともに宮の回りを巡回したようです。
    > ただ、隼人は大伴から給与をもらっていたのではなく、大王から直接給付されていたように思います。
    > ですので、隼人は大王自身に所属し、そのために大王の崩御に際して殉死できたわけですね。

     つまり、大伴、物部は、応神以前からの、ヤマト大王家の武力だったので、身辺警護までは任せられなかった、と言う事でしょう

    > ワイは、隼人は傭兵ではなく、大王の出身氏族に属する特別な集団だったと思いますね。∩∩

     私はやはり傭兵だと思いますよ。で、大王から直接給与を受け取るのも、その証拠であり、ある種私的な存在で、公的武力ではなかった、と言う事でしょう

  • >>30235

    > >  昔、大和緑狸さん、勘太郎さんたちと、「吉野熊野奥駆けの旅」をしたことがあり⦅ます⦆(大和さんのご案内)。険峻な山地で、まともに焼き畑も出来そうにない、狩猟採集と、谷にある川での漁撈しか生業は無理の様でした。
    > >  そこで、「尾ある人」のモデルになった様な風景を見ました。
    > >  尾の有る獣の皮を吊るしていたのです。それを着込めばまさに「尾有る人」ヰヒカと言う事になります。

    > 吉野熊野は山肌が急峻なので、焼畑農耕は無理ですか。

     焼畑をするのであれば、ごく狭い適地を数年後に捨てて、さてその時の焼き畑用地がない、というような状況であり、到底生業としては、焼畑農耕は無理でしょう。むしろ定住しての畑と谷川に降りてのうおつり、山での採集と狩猟、という複合的な生業体系の一環としてなら、辛うじて畑作は出来ますが、焼畑は本来移動するので、それなりに広い土地利用が必要でしょう

    > 吉野あたりの縄文時代は、川筋で魚を取り、林では堅果、山中では猪などの獣を獲っていたのでしょうね。

     その生業が、弥生時代まで続く、と言う事なのでしょうね。
     だから、強兵ではあるでしょう

    > その獣皮を普段着の衣服とするのは、重すぎませんか

     冬場には役立ちそうですが。大和さんが欲しがっていましたが、非売品とか

    > 獣皮は獣を狩る際に、鎧みたいに用いたのではないでしょうか。

     普通に着込んだのでは?

  • >>30234

    > >  そうでしょうね。箸墓の前方部の土器は、その胎土が地元桜井産で、⦅後円⦆部は吉備産。前方後円墳は、最初に円墳が築造され、後に前方部が築造された。
     それがおよそ推測できるが、実際には後円部の内部が発掘できないので、?が伴う。
    > >  どこかで、伝天皇陵や皇族陵を、発掘しないと、結論は得られないのでしょうが

    > 大王や天皇の墓されるものの実年代確定には、発掘調査が必要なことはおっしゃる通りですね。
    > しかしまあ、被葬者の尊厳という点からして、宮内庁が発掘厳禁とするのもやむを得ませんよね。それを無理やり調査だとはならないでしょう。

     まあ、周濠や陪塚が精一杯かもしれませんが

    > そして、これまでの他の大型墓の副葬品からみても、大王墓の副葬品から実年代が確定できるかというと、それも不確かです。
    > まあ、ぼちぼちとやっていくよりないでしょうね。∩∩

  • >>30233

    > >  時間が取れずにひと月ぶりのコメントになってしまうので、気が引けますが、覇権神と言うのは、神話学的に無理だと思います。雷神や武器を扱う神格であれば、「覇権」神と言えると思いますが

    > 天照大神は(天下神)だと、当初はこの語彙を用いたのですが、やや意図が通じにくいと考えて(天下神=覇権神)と説明的に表現し、その後(覇権神)と移りました。
    > ですので、ワイの意図としては(天下を治める権利を持つ神)という意味で(覇権神)としたわけですね。
    > (天下神)という語彙に戻せば、その神格は必ずしも(武威)にあるということにはなりません。

     なるほど。どうしても「王道」「「覇道」という中国の語彙が連想されてしまうので。
     ただ日本神話も重層的に成立し、創造神・創生神=ムスビの神、とイザナギ・イザナミ及び三貴神、とでは銘カヌニ、神の世代差、があります。ギリシャ神話のように、Titan神族とオリュンポスの神々、或いは北欧神話のように、神がはっきり分類されていない、日本列島に関してのみ、天津神と国つ神と言う分類はなされていますが。
     本来は神界である天上界~高天原の神が、分類されるべきなのでしょうが。神の「世代」が明確ではない

    > いずれにしましても、天照大神の元々の姿は、尾張氏や海部氏の部族神である天照神であり、纏向連合政権成立の旗頭であった尾張の勢力や尾張と同族の海部族の部族神が政権成立後に連合政権の大部族神に祀られた、というのがワイの考えです。∩∩

     「天照」は飽く迄も神、特に太陽神の「形容」であり、本来は固有名詞ではなかったので、余り囚われる必要はない、と思いますが

  • >>30226

    > 和歌山県串本町の歴史をみてみますと、串本と潮岬はかつて離れていて、潮岬は島で串本側から砂州が延びていたそうです。
    > 現在は、この砂州が延びて潮岬にとどいて陸繋砂州となり、串本と潮岬はつながっています。
    > つながる前にはこの砂州が尖がって、潮岬側へ串のように突き出ていたというふうなことですね。
    > 串本の串は、尖がったその砂州の形から名づけた言葉だったと推測されているようです。∩∩

     う~ん、この話を聞くと、「ひし」「干瀬」が「端」になる、という崎山氏の説も、あながち間違いではないかも

  • >>30223

    > > 串間の串
    > >
    > > あくまで直感的ひらめきによる独断偏見の類ですが、
    > >
    > > 岸の意味じゃあなかろうか。
    > >
    > > 杵島とか鹿島にも通づる?
    >
    > 岸は、前にnasさんが言っていたアイヌ語のピシ(浜)と同系の言葉ではないでしょうか。∩∩

     崎山理氏は、「隼人語」の「必至」ヒシ(『大隅国風土記』の郷名)で、「ヒセ」(干瀬)の意味で、海中の洲で、干潮時に現れるが、島迄干瀬を通って、歩いて行けるので、転じて「ハシ」(橋)になったとも。少し穿ち過ぎかも。
     尚『万葉集』では「比自」=洲(14:3448)と書かれているそうです

  • >>30221

    > > 熊野には鵜殿という地名がある。
    > > これは宮崎の鵜戸神宮を彷彿させる地名です。
    > > 串間と串本なんかも似ている。
    > > 移動が有ったのではないか。
    >
    > 串木野というところも鹿児島にありますね。
    > 串は、潜って魚を獲るヤスのことではないでしょうか。

     崎山理氏は、「櫛」だとしていますが、「櫛」も「串」も似たようなもので、同じ語でしょう。

  • <<
  • 30267 30248
  • >>
並べ替え:
古い順
新しい順