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神武東征は事実か?

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  • 2018/02/21 14:17
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  • 記紀に記す神武東征はありましたか?
    天照大御神からの天皇制を正当化する架空物語ですか。
    東征の事実を示す考古学的資料はなく、東征する以上は大和に何らかの王権があり、それにとり替わるべく出発したのでしょうが高天原に大和をしのぐ文化、経済基盤があったのでしょうか?

    コスト的には東征には幾らかかりますか?長期にわたり東征するわけですが、兵の疲労もあり、また進軍する先々で補充も可能だったのでしょうか?

    熊野から大和に入るルートは多くの兵が動ける道ではないです。ゲリラ的人員でヤマトに侵攻したのでしょうか?
    神武東征説には疑問点がおおいですね~

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  • 30099(最新)

    asi***** 2月21日 14:17

    >>30097

    > 双方中円墳も播磨(有年原・田中)→吉備(楯築)そして最終形が纏向の櫛山古墳なのだから瀬戸内の影響は無視できない。
    > ならば前方後円墳も同じ。

    有年原・田中の墳丘墓は円形周溝墓であり、この墳丘墓群の中には同じような方形周溝墓もある。この円形周溝墓は播磨から阿波などを含めた東瀬戸圏の円形周溝墓の中のひとつであって、同系統の墓。
    有年原の墳丘墓は、岡山の盾築双方中円墳方向への発展を示している。
    突出部は極めて小さい。
    これらの東瀬戸圏の円形周溝墓は、その後纏向に前方後円型の墳丘墓が出現した時期にもそのまま従来と同じ形が継続されていて、纏向型へ発展する兆しはない。
    つまり、その円形周溝墓の形で完成していたとみるべき。
    纏向の前方後円型の墳丘墓とは別系統の墳墓群と考えるべき。
                    ∩∩

  • >>30096

    >前方後円墳のルーツは二つあり、ひとつは尾張の前方後方型墳丘墓で、一つは吉備の円墳。
    >前方後方方墳丘墓の後方部を吉備の円墳に置き換えた。

    尾張の前方後方型墳丘墓って一宮の?あれは2世紀くらいではなかった?
    そんなものより一部に陸橋の残る円形周囲溝墓が紀元前に瀬戸内に出てるのだからそれがルーツであろう。
    だいたい吉備の円墳って何?

  • >>30096

    > > 小さなことをごちょごちょあげつらっても仕方ない。
    > > 寺沢さんは纏向古墳群の前身として西条52号をあげている。
    >
    > 寺沢薫さんは、間違っていると思う。
    > 西条52号の前方部は、石塚古墳のようにバチ形に開いてない。
    > 52号には、周濠がない。

    話しが小さい。
    双方中円墳も播磨(有年原・田中)→吉備(楯築)そして最終形が纏向の櫛山古墳なのだから瀬戸内の影響は無視できない。
    ならば前方後円墳も同じ。

  • >>30095

    > 小さなことをごちょごちょあげつらっても仕方ない。
    > 寺沢さんは纏向古墳群の前身として西条52号をあげている。

    寺沢薫さんは、間違っていると思う。
    西条52号の前方部は、石塚古墳のようにバチ形に開いてない。
    52号には、周濠がない。

    > > > 別系統なわけがない、前方後円墳は東瀬戸内がルーツだ。
    前方後円墳のルーツは二つあり、ひとつは尾張の前方後方型墳丘墓で、一つは吉備の円墳。
    前方後方方墳丘墓の後方部を吉備の円墳に置き換えた。
                  ∩∩

  • >>30078

             ∩∩
    > >
    > > 別系統とはどういう意味だ。
    > > ホケノにも播磨の西条52号にも内行花文鏡という同じ祭器が出ている。
    >
    > 西条52号はみごとな柄鏡型の弥生墳丘墓で、これは双方中円墳の片側の参道を取った形。
    > 基本的に円墳で、周濠なし。
    > 後方部が大きく開き、幅の広い周濠を持つ前方後円墳の祖形とはならない。
    > ホケノ山の石室が徳島の墳墓の影響を受けているとする説に反対しないし、鏡についても副葬品の共有という同系統の儀礼のもとに葬られたことを否定しないが、石塚の墳形自体はそれら東瀬戸の円墳系統とは異なるものだと思う。


    小さなことをごちょごちょあげつらっても仕方ない。
    寺沢さんは纏向古墳群の前身として西条52号をあげている。


    >
    > > 別系統なわけがない、前方後円墳は東瀬戸内がルーツだ。

  • >>30089

    狗奴国の東遷?

    拘奴国が山口県あたりに在ったという記載が「後漢書」にある。

    おそらく新しい情報と言うより、古い情報ではなかったか。

    卑弥呼が擁立された時期、後漢の末期は拘奴国が山口県あたりに在って、
    三国の時代の邪馬台国の南に狗奴国があった。

    こう素直に読むべきではなかろうか。
    二つは似た名前だが別の国でしょう。

  • >>30077


    >
    > > 何を言ってるのか分からない。
    > > 女王とは最高位の人物。
    > > 3世紀の最高位の女性でトヨという名前の人物は限られる、というかたった一人。
    > > 天トヨ津媛しかいません。
    > > 違う、いや他にいるというなら文献と一緒に具体的に出してください。
    > > 脱漏があったであろうなんて単なるイチャモン。
    > > こんなの小学生でもわかる話だ。
    >
    >  実際に日本の古代の史料から、同一名(諱、官途、仮名〈けみょう〉など)の人物が何人も同世代ないし同時期に、同一家系内で存在する事実が存在する。それが欠史8代というssnさんもお認めの極めてそれら史料が少ない時期に無かった、と言い得るのか?という話と、後は中国史書の読み方の問題で「宗族」という語彙の解釈が根拠です。可能性(蓋然性)の提起と、現にその資料がないという反論とは平行線なので、おそらく決着はつかないでしょう。
    >  お互いに自分の主張を維持する、と言う事で、この問題は当面何らかの新資料なり展開があるまで、中止したいと思います


    卑弥呼の刀としか考えられない中平銘鉄刀が出た和邇氏の祖が、
    トヨ津媛であり崇神(4世紀前半)より数世代前の九州から関東まで含む国の最高位の女性である。
    「同一名(諱、官途、仮名〈けみょう〉など)の人物が何人も同世代ないし同時期に、同一家系内で存在する事実」
    と言われても最高位は【1人】ですから。
    またトヨ津媛の時代にトヨという女性がいたという証拠も出せていない。
    あなたのレスは反論にさえなってない。

    こんなものもう終了ですよ。

  • >>30090

    > > 後漢書の著者ハンヨウが狗奴国の位置を邪馬台国の「東」としたのは、独自の考えがあったか、または「東」とする別の記録があったかですが、私は、ハンヨウは独自の解釈があったのだと思います。「東」とする記録が別にあったことは確認されていません。  
    >
    >  仰る通りです

    ハンヨウが自信をもって書いた倭國大和説は、当時南宋へ朝貢してきた讃の使節団から得た情報を元にしたものだった、と思うわけです。∩∩

  • >>30085

    > >  現行陳壽『三國志』は全て南朝劉宋の裴松之注を前提にしています。『魏略』の情報は注釈者が記載したものです。元嘉の文運隆盛の象徴として挙げられる三大書と評された内の二つが裴松之注の『三國志』、范曄の『後漢書』です。

    > 「魏略」逸文は、「翰苑」(唐代)に付された雍公叡の注として残っており、問題の箇所は「女王之南又有狗奴国」となっています。
    魏志倭人伝はこの「魏略」の文章を採録したものとみられますが、「魏略」でも「南」となっていて、魏志倭人伝の「南」は誤記ではあり得ません。

     それが実は、私が邪馬台国東遷説の可能性を認める大きな理由の一つです。
    但し范曄も当然『魏略』はチェックしていた筈なので、そこに「南」ではなく「東」になってい居た可能性が残ってはいますが

    > >  范曄の『後漢書』東夷列傳が「東」「一海を渡って」「拘奴國」がある、と書いたことを軽視してよい理由は何もありません。彼も多くの学徒を集めて、書籍を蒐集し、自ら本紀とレt伝を書きました。しかも「六夷」砂わっ夷蛮列伝、当然東夷伝を含む6巻には自負心があったのは獄中から同族若年者に出した遺言ともいうべき書簡にも明記されています。
    > >  これを低評価するのは、どうも石原道弘氏の岩波文庫版の中国正史日本版の解説に影響されているのでは無いか?と考えらえます。范曄は『東観漢記』その他、現在は裴松之注でも伝えられていない当時の史書群を当然参照していたのです。
    >
    > 後漢書の著者ハンヨウが狗奴国の位置を邪馬台国の「東」としたのは、独自の考えがあったか、または「東」とする別の記録があったかですが、私は、ハンヨウは独自の解釈があったのだと思います。「東」とする記録が別にあったことは確認されていません。  

     仰る通りです

  • >>30057

    日本書記には天皇の享年をかいてないのが少なからずある。

    日本書記の年代ははおそらく約4倍ぐらいに引き延ばされている。
    ところが天皇の享年は約2倍。

    となると整合性が無くなるので、享年を記載しなかったのでしょう。

  • >>30069

    イザナギ尊が南九州のアワギハラの海で禊を行ったそのアワギハラの場所は、天孫が降臨後に住んだ吾田(南さつま市阿多)だと思われるが、イザナギ尊はそこで日神を生んだ。
    オオヒルメ貴と名がついている。
    この吾田に住んだのが天孫のニニギ尊であり、その子孫が神武だ。
    とすると、神武の兄の五瀬が生駒の戦いで形勢が悪くなって、「今、私は日神の子孫であるので、その日神に向って戦っているのは天道に逆らっていることになる(だから形勢が悪くなっている)」と認識したときのその「日神」は、イザナギ尊が生んだ日神を指していることになる。
    もちろん、先祖のニニギ尊は天照大神の孫であるのだから、日神は天照大神を指すのであるが、その天照大神はアワギハラの日神(オオヒルメ貴)の別名だとされているのであるので、五瀬が言った日神はアワギハラの日神ということが言える。
    アワギハラの日神は、あきらかに太陽神である。
    さて、住吉大社で神官を務めた船木氏は、神武の子の八井耳命から出た一族であることが古事記に記されている。
    古事記を編纂した太安万侶の多氏は八井耳命から出た一族で、八井耳命から出た氏族の筆頭株である。
    その多氏の太安万侶が書いた古事記の中で五瀬が言及する祖先神の日神とは、アワギハラのオオヒルメ神なので、生駒の東の伊勢の海に昇ってくる太陽を想定していることが分かる。
    さて、住之江の住吉大社の神官を務めた船木氏について、「住吉大社神代記」では、船木氏の遠祖大田田神が大八州国の天下に日神を出し奉った、と記されているとされている。
    そして、その船木氏の同族が伊勢にもいたとされているのだ。伊勢で日神を祀っていたということになる。
    この「日神を天下に出して祀った」ということは、「太陽の霊格を船に載せて海の彼方から招き迎えるというのは、海人族に広く行われた風習であった。インドネシアやポリネシアの南方諸民族の例も多く報告されているから、南方系海洋民族の風習であった」(真弓常忠氏)と解釈されている。
    つまり、船木氏は、南九州阿多族の日神を祀る役目の祭祀者の末裔氏族だということが推定され、船木氏の祖先神が神武の子の八井耳命から出ているとされているのは、まさにこうしたことが背景にあると考えることができるのだ。
    天皇の祖先神は日神であり、天照大神ではないのかも知れない。
                     ∩∩

  • >>30084

    >  そこで、会稽郡太守だった後漢末の曹操の一族の曹胤の安徽省亳県から発見された「倭人字磚」が問題になります。森浩一氏が引用した李燦氏の解釈が正しければ、会稽郡に倭人集団がいたことになるし、又倭 国乱(卑弥呼以前の)と関連付けられる。私はその説を採り、且つ神武兄弟は、東鯷人=南九州の倭人との協調派であり、帥升は武闘派だった、と考える

    山東半島南側の付け根の海州湾にある連云港から西へ向かいますと徐州があり、その徐州の近くにご指摘の安徽省亳県があります。さらに西に行きますと商丘に至ります。
    「倭人磚」がみつかったのは上海ではなく、この山東半島の近くということですから、この地理的位置からしますと北九州との関連が考えられ、南九州との関わりは少ないと思われます。
    東鯷との関連は上海がある呉地方が想定されますから、呉では東鯷の情報が極めて少なかったことが分かっていますので、呉と東鯷との使節団の行き来を想定するのは無理があるのではないでしょうか。
                         ∩∩

  • >>30079

    > アマトヨツが、王族出自(多臣、和邇臣など初期分出と伝える皇別氏族を含む)であれば、問題なく認めます。しかし肝心の卑弥呼の候補者である神武の皇后は、明らかに他氏族なので、「宗族」という条件を満たさないから認められないのです。

        事代主
         ┣━━━━━━━┓    
       クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
         ┣━━━━━━┓
         建飯勝  ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
         ┃            ┃
        建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没) 
         ┃            ┃
        豊御気主         トヨ津 ━━ 懿徳
         ┃               ┃
       大御気主             孝昭
         ┃               ┃
        阿田賀田須         天足彦国押人命
                         ┃
                       和邇日子押人命



    宗家とは大物主一族(左側)、ヒメ踏鞴も天トヨ津も宗族です。
    明らかに他氏族なのは神武であり、彼は王でも何でもない。
    宗を男系と規定し、男系でつながってるかどうかどうかなんて中国人が調べ上げるわけがない、
    小さな事にこだわり過ぎ。

    最後の大物主が阿田賀田須。
    先代旧事本紀には彼の妻の名だけが書かれてない。
    間違いなくモモソ媛でしょう。
    中平銘鉄刀の出た和邇氏は今も和爾坐赤阪比古神社で阿田賀田須を祀ってます。

  • >  現行陳壽『三國志』は全て南朝劉宋の裴松之注を前提にしています。『魏略』の情報は注釈者が記載したものです。元嘉の文運隆盛の象徴として挙げられる三大書と評された内の二つが裴松之注の『三國志』、范曄の『後漢書』です。

    「魏略」逸文は、「翰苑」(唐代)に付された雍公叡の注として残っており、問題の箇所は「女王之南又有狗奴国」となっています。
    魏志倭人伝はこの「魏略」の文章を採録したものとみられますが、「魏略」でも「南」となっていて、魏志倭人伝の「南」は誤記ではあり得ません。

    >  范曄の『後漢書』東夷列傳が「東」「一海を渡って」「拘奴國」がある、と書いたことを軽視してよい理由は何もありません。彼も多くの学徒を集めて、書籍を蒐集し、自ら本紀とレt伝を書きました。しかも「六夷」砂わっ夷蛮列伝、当然東夷伝を含む6巻には自負心があったのは獄中から同族若年者に出した遺言ともいうべき書簡にも明記されています。
    >  これを低評価するのは、どうも石原道弘氏の岩波文庫版の中国正史日本版の解説に影響されているのではb無いか?と考えらえます。范曄は『東観漢記』その他、現在は裴松之注でも伝えられていない当時の史書群を当然参照していたのです。

    後漢書の著者ハンヨウが狗奴国の位置を邪馬台国の「東」としたのは、独自の考えがあったか、または「東」とする別の記録があったかですが、私は、ハンヨウは独自の解釈があったのだと思います。「東」とする記録が別にあったことは確認されていません。  

    >  昔私がまあトンデモ説ですが、「欠史八代南北朝説」というのを出したことがあります。神武兄弟は、畿内からニギハヤヒ一族に招かれたが、外戚たるトミヒコは権力を奪われるのを怖れ、彼らと戦った。ニギハヤヒ一族のウマシマヂによってトミヒコが除かれ、畿内に倭人諸国の王権が確立すべきところが、その死後に分裂して、小勢力となった、というものです。でその間鳴かず飛ばずだった

    面白そうな古代史本のようですね。
    神武朝は成立せず、小国で鳴かず飛ばずだったのが、雌伏数百年で南北朝の南朝として復活しようとした…。
                        ∩∩

  • >>30080

    > >  この場合、半島南部に倭人の国が多数あったとでも考え、それをも「倭」と認めた、という中国側の認識があったことになるが、無理でしょう。
    > >  郡の役人もチェックするし、
    >
    > 魏志韓伝では、韓は倭に接す、と書いてあります。朝鮮半島南端部に倭人と同類の者たちが少なからずいたことを示しています。
    >
    > 又東鯷人の会稽郡への献見は、「鯷海」=「東シナ海」を横断しての航海能力が日本列島人に在った、と考えるべきでしょう
    > > > >  東鯷人は南九州以外に比定することは困難であり、それを認めれば、邪馬台国は南九州ではありえないことになります
    > > > この東鯷は、どこにあったか不明ですが、台湾でなければ、先島諸島と考えるのが筋ですね。
    > > > 沖縄本島ではないと思います。
    > >
    > >  台湾や先島にはそれを行うような勢力⦅は⦆なかったでしょう。日本列島にしかない

    > 東鯷人なるものが呉などへ渡っていて交易を継続していたのであれば、呉地方や越地方にもっとはっきりした伝承が残っているはずです。
    > しかし、東鯷についての具体的な情報は皆無です。遭難した漁師が漂着したというような不確実な情報がわずかにあるのみです。
    > 朝貢するような使節団が行ったり来たりするような情景は描けません。

     そこで、会稽郡太守だった後漢末の曹操の一族の曹胤の安徽省亳県から発見された「倭人字磚」が問題になります。森浩一氏が引用した李燦氏の解釈が正しければ、会稽郡に倭人集団がいたことになるし、又倭 国乱(卑弥呼以前の)と関連付けられる。私はその説を採り、且つ神武兄弟は、東鯷人=南九州の倭人との協調派であり、帥升は武闘派だった、と考える

  • >>30076

    > > 私は邪馬台国近畿説が8割~9割、中北部九州からの東遷、というのが1~2割なので、九州島内部のみを考えられるasiさんの御説に従う訳には行きません(笑)
    それに邪馬台国と戦争状態にあった狗奴国~拘奴国が南に隣接していたなら、そんな内戦を起こすこともできません。矢張り邪馬台国は九州島には収まらない可能性が高い

    > 邪馬台国畿内説をとる方は、狗奴国の地理的位置について倭人伝の記述を誤りとみなすことがほとんどですが、この狗奴国の地理的位置は邪馬台国の所在地を求める上で、極めて重要なファクターであり、無視するわけにはまいりません

     同感です

    > 倭人伝が採録した魏略の文章でも狗奴国は邪馬台国の南と記述されており、この「南」は変更不可です

     現行陳壽『三國志』は全て南朝劉宋の裴松之注を前提にしています。『魏略』の情報は注釈者が記載したものです。元嘉の文運隆盛の象徴として挙げられる三大書と評された内の二つが裴松之注の『三國志』、范曄の『後漢書』です。
     范曄の『後漢書』東夷列傳が「東」「一海を渡って」「拘奴國」がある、と書いたことを軽視してよい理由は何もありません。彼も多くの学徒を集めて、書籍を蒐集し、自ら本紀とレt伝を書きました。しかも「六夷」砂わっ夷蛮列伝、当然東夷伝を含む6巻には自負心があったのは獄中から同族若年者に出した遺言ともいうべき書簡にも明記されています。
     これを低評価するのは、どうも石原道弘氏の岩波文庫版の中国正史日本版の解説に影響されているのではb無いか?と考えらえます。范曄は『東観漢記』その他、現在は裴松之注でも伝えられていない当時の史書群を当然参照していたのです。
     

    > 邪馬台国畿内説では邪馬台国を大和に置きますが、その南は吉野であり熊野となります
    ここに強力な勢力を維持できる稲作可能な平地は、ほとんどありません
    邪馬台国の所在地が大和であるという説は、まず成り立ちませんね

     昔私がまあトンデモ説ですが、「欠史八代南北朝説」というのを出したことがあります。神武兄弟は、畿内からニギハヤヒ一族に招かれたが、外戚たるトミヒコは権力を奪われるのを怖れ、彼らと戦った。ニギハヤヒ一族のウマシマヂによってトミヒコが除かれ、畿内に倭人諸国の王権が確立すべきところが、その死後に分裂して、小勢力となった、というものです。でその間鳴かず飛ばずだった

  • >>30072

    > >  縄文末期の小山推計に対して、西日本の考古学者が異議を述べているのはご存知だと思います。東日本には縄文時代、サケ・マスが河川に遡上するので、人工を養う力が大きかった(西日本に比し)、という東大山内清男氏の所謂「サケ・マス論」の影響があり、西日本における淡水魚資源、コイ科の魚類を軽視している、という反論などがあります。あと、民族誌から北米先住民の狩猟採集民の人口密度を根拠に、小山推計の西日本や近畿の過小評価を批判するものです。
    >
    > 西日本の縄文、弥生の人口過疎の根底には、照葉樹林の広がりがあるのかも知れません。
    > 照葉樹林の生成には気温の高まりがあるので、高い気温→高生産性のイメージがあるのではないでしょうか。
    > しかし、照葉樹林自体は果実の生産性は高くなく、栗やドングリなどに比べて椎などは小粒でエネルギー源としては良好ではありません。
    > このような照葉樹林のもとで暮らした縄文、弥生の西日本が人口過疎であったとしても、その理由は立つのではないでしょうか。
    > また、魚などについても、親潮が卓越する北日本のほうが豊かですね。
    >                 ∩∩

     琵琶湖の湖底医籍などの発掘がある程度の考古学的資料になっているようですが実は時間が無くて、私も調べていないので。書店に瀬田遺跡などの本が並んでいるのですが。
     後縄文農耕(というか栽培)で、豆類などが中部高地から拡散する過程で、西日本にも広がりますが、この辺りをどう考えるべきかも問題です。今は別なことに時間を採られているので、残念ながら手を出せない状況ですが、時間を作って、人口問題も剣塗油したいと思っています

  • >>30074

    >  この場合、半島南部に倭人の国が多数あったとでも考え、それをも「倭」と認めた、という中国側の認識があったことになるが、無理でしょう。
    >  郡の役人もチェックするし、

    魏志韓伝では、韓は倭に接す、と書いてあります。朝鮮半島南端部に倭人と同類の者たちが少なからずいたことを示しています。

    又東鯷人の会稽郡への献見は、「鯷海」=「東シナ海」を横断しての航海能力が日本列島人に在った、と考えるべきでしょう
    > > >  東鯷人は南九州以外に比定することは困難であり、それを認めれば、邪馬台国は南九州ではありえないことになります
    > > この東鯷は、どこにあったか不明ですが、台湾でなければ、先島諸島と考えるのが筋ですね。
    > > 沖縄本島ではないと思います。
    >
    >  台湾や先島にはそれを行うような勢力阿なかったでしょう。日本列島にしかない

    東鯷人なるものが呉などへ渡っていて交易を継続していたのであれば、呉地方や越地方にもっとはっきりした伝承が残っているはずです。
    しかし、東鯷についての具体的な情報は皆無です。遭難した漁師が漂着したというような不確実な情報がわずかにあるのみです。
    朝貢するような使節団が行ったり来たりするような情景は描けません。
                    ∩∩

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