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    邪馬壹国の位置は「魏志・倭人伝」に記されている行程記事に明確に記されています。コノ行程記事を正しく、解析スルには行程記事解析の”心得”が必要です。クイズ的で参加される皆さんには失礼だとは思いますが、結論に対して批判するだけよりも考察しながら解析して、いく方がオモシロイので行程記事解析に入る前に先ずは「解析の心得」からという事でお願いします。

    謎解き:「水行」と「船行」は同じ”水域”を行程する訳ですが陳寿は何故、「水行」とは別に「船行」という表示をしたのでしょう?

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  • 25664(最新)

    emh***** 1月21日 23:20

    >>25661

    >邪馬台国論争に限ったことか否かは判らないが、大学教授という肩書きを持つ人のレベルがあまりにもひどい。<

    「魏志・倭人伝」行程記事解析で、正しい行程論は、加治木義博説である!
    但し、残念ながら、加治木義博も、邪馬臺(→ やまと)国の発祥地の、投馬国(とまや ←)
    トカラ列島の宝島(倭が君は~が謳われた観音堂 大鍾乳洞)は、知らなかった!

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  • >>25660

    > 遠慮無く言わせてもらうならば「本当は、間違っているのは倭人伝ではなく、貴方の頭だ。」

    あはっ!!
    「本当は、間違っているのは倭人伝ではなく、貴方の頭だ。」はここの読者を意識して言った訳ではない。
    邪馬台国論争に限ったことか否かは判らないが、大学教授という肩書きを持つ人のレベルがあまりにもひどい。
    邪馬台国は沖縄だとか、四国だとか、東北だとか、「ホントにマジで言ってるの?」と思ったりする。
    「文系じゃないの?もう少し、まともな読解力とか無いの?」とか日頃から思っていたのに、数日前にウキィペディアを読んだ感想が「本当は、間違っているのは倭人伝ではなく、貴方の頭だ。」と本気で腹が立ったので、つい書き込んでしまった。
    俺も最初倭人伝を読んだ時はそうだったように、素人ならば知らなかったり、判らなかったりは当たり前のことだ。
    この台詞はウキィペディアに書き込む程の知識人に対するものであった。申し訳ない。

  • >>25659

    そればかりではない。糸島の国は九州でも有数の立派な遺跡を残すほど栄えていたのである。他の国に頼らなくても、糸島だけで立派に自立していたのだ。
    交流するのに極めて不便な場所にあるのに、一体何が悲しくて、代々の王が全員邪馬台国に付き従う必要があったのだろう。このことからだけでも、糸島の国が伊都国だったとは考えづらいと言えるだろう。
    ~~~~~~~
    勿論、伊都国が糸島にあったと言う、矛盾はこれだけではない。
    話を進めれば、後には「倭人伝では邪馬台国の場所は絶対に判らない。倭人伝は出鱈目だ。倭人伝は信用できない。」と言うしかなくなる程の矛盾が待ち構えている。
    遠慮無く言わせてもらうならば「本当は、間違っているのは倭人伝ではなく、貴方の頭だ。」

  • また、伊都国については【王遣使詣京都帯方郡諸韓國及郡使イ委國皆臨津捜露傳送文書賜遣之物詣女王不得差錯】「王が使者を派遣して京都・帯方郡・諸韓国に行く時、及び帯方郡からの使者がイ委国へ来た時は、いつも港で検査を行い、女王に伝送する文書や賜物が間違うことは許されない。」とある。
    邪馬台国は伊都国の南にある。と言う事は、邪馬台国は間違いなく南の背振山地を越えた場所にあるのだ。
    一体何を言いたいのかと言えば、
    使者が邪馬台国と諸外国との交流をするには必ず伊都国へ行かねばならないのだ。
    ところが、
    背振山地の南にある邪馬台国からすれば糸島は背振山地に蓋をされた形で、唐津か福岡を迂回して行くしかないのだ。
    そんな、地理的に不便な場所に諸外国の交流の窓口、邪馬台国の出先機関など設置しないだろう。
    もし、設置したとしたら「お前、本当に頭大丈夫か?」のレベルである。

  • 倭人伝は伊都国の人口について【有千餘戸】と記載している。
    ところが、糸島の人口は千餘戸ではなく、万餘戸だったと言う。
    それこそ、一度ならず来て長期間滞在していたのであるから、見ても判る、聞いても判る人口をそれほど間違えるはずも無いではないか。

  • >>25654

    末盧国の真東には背振山地が聳えている。
    末盧国から東南と言えば間違いなく、背振山地の南側の佐賀平野であり、
    背振山地の北側にあたる糸島は完全に東北なのだ。
    戦争においては方角を90度も間違えるのは自殺行為となる。
    軍人たる梯儁が方角について90度も間違えるようないい加減な扱いをするはずもない。
    また、
    伊都国については【郡使往来常所駐】[郡使が行き来する時にいつも駐在する所である。]とある。
    勅使は一度ならず来て、長期間ここに滞在していたのだ。見ても判る、聞いても判る方角を90度も間違えるとはとても考えられない。
    ~~~~~~
    近代まで糸島、唐津間は道が無く、陸路ではなく船で往来していたと言う。
    それに
    某K国からの密航者は唐津ではなく、糸島半島に上陸していた事からも判るように、海流の影響で、壱岐からは唐津よりも糸島に上陸する方が遙かに楽なのである。
    蒨絳百人前・紺靑百人前・白絹百人前・金八両・五尺刀二振り・銅鏡百枚・眞珠と鉛丹それぞれ十一㎏・その他の大量の品物もあるのだ。
    第一、
    伊都国が、一支国から船で簡単に行ける場所にあったのだとすれば、
    卑弥呼の朝貢に答えてわざわざ倭へ来た大切な友好使節団を五百里も離れた場所に下ろし、地元民も通行しない難所を陸行させるとは正気の沙汰ではない。

  • >>25652

    末盧国は松浦半島

    呼子に上陸して東南陸行で伊都国なら怡土でいい。

    なぜ陸行したか。

    交易、交流と調査が目的でしょう。
    大きな荷物は伊都国まで船で運んだ可能性もあろう。

  • >>25654

    隋書には都斯麻國と言う記載がある。対馬国のことだ。
    何が言いたいのかと言えば都を〔と〕ではなく、〔つ〕と言っているのだ。
    だとするならば、伊都国とは怡土の国〔いとのくに〕のことではなかった可能性もある。つまり、伊都国があったのは糸島ではなかったかもしれないのだ。
    ~~~~~~
    また、倭人伝によれば奴国は伊都国と不弥国の間にあって、双方からそれぞれ百里離れている。
    ところが、
    其餘旁國遠絶不可得詳(その他は旁らの国でも遠く離れているので詳しくは知り得ない。)として列挙した国の中にも奴国があるのだ。
    つまり、奴国は二つあったのである。
    ~~~~~~~
    伊都国が糸島にあったと言うのは確定事項ではない。
    伊都国が糸島にあった根拠は【怡土の国】と【奴国】だけなのである。他の根拠は皆無なのだ。
    然るに、【怡土の国】と【奴国】と言う唯一の根拠が極めて怪しいのだ。
    本当に伊都国は糸島にあったと断言できるものなのだろうか。

  • >>25653

    知らず知らずのうちに農薬散布してしまったのかもしれない。
    毒虫が完全にいなくなってしまった。死んでなけりゃいいんだが。

    末盧国(唐津)から九十度も違った糸島へ進むのは間違いだ。
    倭人伝の解釈を間違えれば、倭人伝の謎が解けようはずもない。

    伊都国が糸島にあった確証は皆無のはずだ。
    あるなら、是非とも提示してほしい。
    伊都国が糸島に無かった根拠なら数多あるぞ。

  • 伊都国には港があった。
    ならば、
    わざわざ奴国、不弥国へ寄り道せずに伊都国から邪馬台国へ行けたのだ。
    水行二十日水行十日陸行一月も同じ理由。
    ~~~~~~~
    倭人伝を読み解くには陳寿の筆法が使用されていることを理解する必要がある。
    わざと、一見矛盾するような事実が記載されている。
    しかし、それは嘘でも矛盾でもない。
    その理由を読み解きなさい、と言うことなのである。
    ~~~~~~~
    嘘、本当の矛盾、記述の間違い(距離、方角など)などがあったら、読み解くことは不可能だ。
    たとえ、嘘、本当の矛盾、記述の間違いが無かったとしても、
    あると考えただけで読み解くことは不可能なのである。
    例えば、
    一見矛盾に見えたものは、嘘、矛盾、記述の間違い、と言ったらそれで終わり。
    ~~~~~
    あるでしょ?一見矛盾。
    残り一千三百里に水行二十日水行十日陸行一月。

  • >>25648

    投馬国は大村湾あたりに在ったか

    南という方向としては正しいだろう。

    水行20日もまあ合う。

    大村湾沿岸部全体の人口を数えれば戸数5万は有り得よう。

    ただ、全体を一つの国と見渡すには大いに疑問が有る。

    それと比定できるような地名が無い。

    よって難しいと判断せざるを得ない。

  • >>25650

    【計其道里當在會稽東冶之東】(その道里を計算すれば、ちょうど會稽東冶の東にあることになる。)
    と倭人伝に記載してある。これをもって邪馬台国は會稽東冶の東にあったという意見もあるが、陳寿はそんなことは言っていない。
    帯方郡から會稽東冶の東まではほぼ 1200kmであるが、帯方郡から邪馬台国までの距離を計算した萬二千餘里というのは丁度それぐらいであると言っているだけである。
    ~~~~~~~
    其人壽考或百年或八九十年
    其人(倭人で)
    壽考(長生きは)
    或百年或八九十年(あるいは100年、あるいは 8 、90年である。)
    これは勅使が見聞きして事実であると考えたものである。
    当時は戸籍も年号も無かった可能性が高く、正確な年齢を知るのはほぼ不可能だったに違いない。
    つまり、これが事実であったかどうかは又別問題であるから、この文を根拠に議論を発展させていくのは無意味である。「勅使はそう考えていた」以上の意味は何もない。
    ~~~~~
    まだ書きたいことは多数あるが、人気もないことだし、以上で終わることにする。

  • >>25649

    隋書
    には【夷人不知里數但計以日】(夷人は里数を知らないので、ただ日数で測る。)とある。
    ところが倭人伝には
    確かに倭の国ではなく距離がわからないほど遠い国までの距離については、
    【復在其東南船行一年可至】と日数で記載しているものの、
    倭の国または倭の国から比較的近くにある国については、
    【周旋可五千餘里】【去女王四千餘里】と距離で記載しているのである。
    邪馬台国は田油津媛の時に神功皇后に攻め滅ぼされて、政権を奪われている。
    卑弥呼が魏に239年に朝貢してから約400年に書かれた隋書は邪馬台国と政権を奪って邪馬台国になりすました勢力との区別がつかずに、情報が混乱しているようである。

  • >>25647

    明年上遣文林郎裴清使於倭國(明年、帝は文林郎裴清を倭の国へ派遣した) 
    度百濟行至竹(百濟を度り竹島に至る)
    南望羅國(南に羅國を望み、)
    經都斯麻國迥在大海中(都斯麻國を經て、迥かに大海の中に在る)
    又東至一支國(又、東に一支國に至り)
    又至竹斯國(又、竹斯國に至り)
    又東至秦王國(又、東に秦王國に至る) 
    其人同於華夏(其の人は華夏と同じで) 
    以爲夷州疑不能明也(夷洲とするものの、疑いがあって本当の事は分からない) 
    又經十餘國達於海岸(又十餘國を経て海岸に達す) 
    自竹斯國以東皆附庸於倭(竹斯國より以東ははみな倭に付属している)

    同じ隋書の冒頭には【イ委國在百濟新羅東南水陸三千里】と認識して、実際に都斯麻國、一支國、竹斯國は南の方角にあるのに行程記事は、東南へも南へも一切進んでいない。
    これは明らかに誤情報、あるいは情報の混乱があるようである。
    問題なのは、どこにあるかわからない秦王國について、【又東至秦王國】と、同様に東にあると記載しているのである。
    それまで全て方角を同じように間違えながら、秦王國からいきなり正しい方角を記載しているという保証はない。
    ならば、【東至秦王國】とは【南至秦王國】または【東南至秦王國】だった可能性もある。
    そう考えれば隋書に唐突に【有阿蘇山】などという文が出てくるのも理解できる。
    百濟から東へ百年進んでも辿りつかないし、完全に見当違いの方角にあるのだったら【有阿蘇山】などと紹介する意味も皆無であろう。

  • >>25645

    投馬国はどこか<

    豊前だろうか。

    人口的には間に合うだろう。

    しかし地域として海岸部分の平野部は長すぎる。

    南に水行20日というのも当てはまりがたい。

    加えて投馬に似た地名が存在しない。

    安本氏は馬の崩し字を與、与と間違えたという説を提唱している。
    最初は投與と書いてあったのだというのだ。
    苦しいですね。
    せめて異書に存在していればまだしも、それもない。

    難しいでしょう。

    それと旁21国よりも身近でなければなるまい。
    豊前なら旁21国と同じぐらいの距離だろう。
    であるからして、比定しがたいのだ。

  • 日本人が書いた文書、報告書などは、可能な限り間違いがないよう正確に記載されるに違いない。
    しかし、
    筆者の知り得た情報の質、筆者の能力などにより信頼性には当然のごとく差があるだろう。
    文書によって錯誤やあいまいな点がほとんどなかったり、逆に多かったりしても仕方がないと言えるのだ。
    古代中国の文書においても同じである。
    信頼性の高い文書や、信頼性に疑問のある文書があるのは当然のことなのである。

    隋書は636年~656年に完成したが、それは、卑弥呼が魏に239年に朝貢してから約400年後のことである。
    隋書が卑弥呼について述べることは、現代日本人が江戸時代初めの頃の中国人について述べるようなものだろう。
    400年も前の情報について真偽を確かめる術はない。知り得た情報の質が問題なのである。
    魏志倭人伝と隋書について検討してみたい。

  • >>25644

    【正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣イ委國拜假倭王併齎詔賜金帛錦○刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩】
    正始元年の記事はこれが全てである。
    【太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣イ委國拜假倭王併齎詔】
    が一つの文であるから、残りは
    【賜金帛錦○刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩】だけとなる。
    この中で主語は【倭王】である。
    よって、次のように訳することになる。
    正始元年(正始元年に)
    太守弓遵(帯方郡太守の弓遵は)
    遣建中校尉梯儁等(建中校尉梯儁等を派遣して)
    奉詔書印綬(詔書と印綬を持って)
    詣イ委國(イ委國へ行き)
    拜假倭王(皇帝の代理として倭王に授け)
    併齎詔(並びに詔をもたらした)
    賜金帛錦○刀鏡采物(金帛錦○刀鏡采物を賜って)
    倭王因使上表答謝詔恩(倭王は使者に上表文を託して詔の恩に対して答礼の謝辞を述べた)
    ………………………
    現代中国語には賜に「賜る」という意味は無いのかもしれないが
    学研漢和大辞典によれば
    【{動詞}たまわる(たまはる)。目上の人から物などをもらう。いただく。「賜暇」】
    と、「賜る」という意味があったことがわかる。

  • >>25641

    投馬国はどこか

    都万か

    南に偏してやいないか。
    鹿児島に邪馬台国があれば狗奴国の場所が無くなる。

  • >>25642

    > ①【奉詔書印綬詣倭 国】
    > 「詔書印綬を奉じて」
    > ②【詣倭 国】
    > 「倭 国へ詣で」
    > ③【拝仮倭王】
    > 「倭王に皇帝の代理として授け」
    > ④【併齎詔】
    > 「併せて詔をもたらした」
    > の主語は全て太守弓遵である。
    > 太守弓遵が建中校尉梯儁等を太守弓遵の代理として遣わしたのだ。
    > ところが、
    > ⑤【賜金帛錦○刀鏡采物】
    > 金帛錦○刀鏡采物を賜わしたのは太守弓遵ではなく、魏の皇帝である。
    > つまり、①②③④と⑤は主語が違うのだ。
    > だから、
    > 「並びに、詔をもたらし、金、帛、錦、○、刀、鏡、采物を下賜した。」と訳すことはできない
    > のである。

    卑弥呼が賜った金印紫綬については
    【假金印紫綬裝封付帯方太守假綬】と帯方太守に(付)預けて授ける、
    と言っているのであるから、③【拝仮倭王】の主語は間違いなく帯方太守なのだ。
    ところが、
    下賜した品物については
    【皆装封付難升米牛利】「全部を包装して難升米と牛利に(付)預ける。」
    と言っているのであるから、帯方太守は品物を預かっていないのだ。
    つまり、
    帯方太守は品物を預かっていないので、帯方太守が品物を卑弥呼に授けることも下賜することもできないのである。
    だから、
    ①②③④の主語は帯方太守であるが⑤の主語は帯方太守にはなりえないのだ。
    すなわち、
    「並びに、詔をもたらし、金、帛、錦、○、刀、鏡、采物を下賜した。」と訳すことはできない のである。

    倭人伝は補足説明を一切していない。補足説明しなくても分かるような
    事実だけを記載しているのだ。
    下賜品を卑弥呼に授けたのは帯方太守ではないと、わかる事実を一度ならず記載しているということは、それが重要な意味を持つということである。
    それについては長くなるので、もし機会があれば述べよう。
    もうすでに分かっている人も多いと思うが、
    次回は⑤の主語について記載したい。

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