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    そもそも『古事記』と『日本書紀』の記紀は、初代天皇の即位で国が成立したことの経緯を記し、建国の精神を後世に伝えていくために完成した、国家が編纂した我が国最古の歴史書である。

    記紀は、天武天皇の勅命により国家が編纂した歴史書である。
    記紀が国家により編纂された点は、重要な意味がある。
    記紀は個人が任意に書いたものと違い、もっとも公式な文書であって、そこに書かれていることは当時の政府の公式見解であることを意味するからだ。
    そして、現在の政府も『日本書紀』の見解を踏襲している。

    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=r2bbvoabfmeaa4hbcygobf9qa4n5bfoga1ya1ya1ya1ya1y&sid=1835208&mid=107

    正式な歴史書である正史『日本書紀』によれば、初代神武天皇の橿原宮(奈良県橿原市)での即位が我が国の建国で、これは紀元前660年、すなわち今から約2700年前に相当する。

    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835208&tid=r2bbvoabfmeaa4hbcygobf9qa4n5bfoga1ya1ya1ya1ya1y&sid=1835208&mid=105

    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=r2bbvoabfmeaa4hbcygobf9qa4n5bfoga1ya1ya1ya1ya1y&sid=1835208&mid=188


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  • 2089 2052
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  • 2089(最新)

    man***** 8月20日 21:15

    >>2070

    日本書紀』には天照大御神の詔(みことのり)として、こう書かれてあります。「葦原千五百秋瑞穂の国(=日本)は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。」と。ちなみに、神武天皇は天照大御神の玄孫の子であらせられます。つまり、神武天皇の子孫であることがはっきりしている人物に皇位を継承させるべきと『日本書紀』には書かれてあります。これが皇位継承のしきたりです。

    125代にわたる全ての天皇は、このしきたりにのっとられて、「男系」の血筋にそって皇位を継がれてこられました。

  • >>2068

    中国文明ってそれなりに繋がってあるが、国家としては幾度も出来て、幾度も滅んでおる。

    日本は建国以来、繋がっている。
    儒教的観念からすれば天皇が道徳的だから続いて来たことに成る。
    だから、皇統断絶を願いたくて仕方がないのだ。

  • >>2066

    韓国紙・東亜日報によると、中国政府が資金支援し改訂した中国の新しい歴史書で、高句麗や渤海国(唐末)はもとより、百済まで中国史の一部として編入されたことが確認された。

    韓国陸軍士官学校軍事史学科のイ・サンフン教授が、「百済歴史編年」「高句麗歴史編年」など「東北古代民族歴史編年双書」5巻シリーズを分析した結果として明らかにした。

    高句麗や扶余の歴史を中国史の年号に従って記述したこの双書の中の「百済の歴史の初期から中国史」という主張が、中国学界で初めて出された。

    双書の編者で中国長春師範大学の姜維公(ジアン・ウェイゴン)教授は、「百済歴史編年」内の小論文「百済起源問題探討」で、「中国学界はこれまで、百済を韓国史の範囲内としていたが、百済の前期の歴史は事実上、中国史に含まれる」とし、「百済は4世紀半ばに朝鮮半島の漢江流域に移動したが、百済が中国史に含まれるという事実を変えることはできない。紀元前2世紀から4世紀半ばまで漢江流域は中原王朝の所有だった」と主張している。
    Record Chinaより引用

    >日本の支配下にあった時期以外、百済は中国の属国であった。

    日本は、百済の救援要請を受け、兵站も困難な時代に援軍を派遣しました。

  • どうしようもない無知アホ糞馬鹿man***** め、大嘘を書くな!

    我が国ににおける巨大古墳は、平安時代の日本国の築造だ!

    >大和朝廷は朝鮮半島南部の任那(加羅)に拠点を持ってました。<
    どうしようもない無知アホ糞馬鹿man***** め、根も葉もない大嘘を言うな!

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  • 日本は文化、文明の発信地でもあった
    三世紀前半からの古墳時代は、文字通り日本列島各地で多くの古墳が造られた時期である。
    なかでも巨大古墳はほとんどが前方後円墳だった。
    三世紀前期に纏向遺跡で始まった纏向型前方後円墳の築造は、わずか百年足らずの短い期間のうちに、東は千葉県や福島県など、また西は鹿児島県まで見られるようになった。
    したがって、ヤマト王権の勢力は、すでにこの時期に東北の南部から九州の南部にかけた広い領域に拡大した。
    古墳時代に造られた仁徳天皇陵は、世界最大の古墳である。
    墳丘の長さは、486メートル、体積は140万立方メートルという大きさです。
    また、二重周濠と外堤を持ち、外堤まで含めると長辺840メートルの巨大な墓域となる。
    それから仁徳天皇陵には、高さ1メートルにも及ぶ大型の円筒埴輪が6万本並べられていた。
    日本列島では、墳丘の長さが300メートル以上の前方後円墳が七基、200メートル以上が三五基、また100メートル以上の古墳が三〇二基(うち二九一基が前方後円墳)確認されている。
    短期間のうちに、夥しい数の巨大な墓が造営されたことは世界史上、類を見ない。
    これは日本国史の大きな特徴の一つです。

    日本書紀の価値観によれば、律令国家成立以前の大和地方を本拠とする統治機構はひとくくりに大和朝廷と定義する。
    ヤマト王権(古墳時代前期)が発展したのが大和朝廷(古墳時代中期以降)であるというのが事実です。

    なお、高句麗の好太王碑文に日本のことを記した文字あります。これによると、四世紀末から五世紀初頭にかけて、日本が朝鮮半島に軍を派遣したそうです。百済を助けるために高句麗と戦ったとのことです。日本の参戦により、高句麗の朝鮮半島統一を阻止し、百済を存続させることができました。この時期から562年までの間、大和朝廷は朝鮮半島南部の任那(加羅)に拠点を持ってました。また朝鮮半島南西部の栄山河流域に前方後円墳が発見されてます。日本列島以外で前方後円墳があるのはここだけです。
    この時代、朝鮮半島南部を大和朝廷は支配していたのです。

    https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/r2bbvoabfmeaa4hbcygobf9qa4n5bfoga1ya1ya1ya1ya1y/1/2879

  • >>2068

    どうしようもない歴史音痴の無知アホ糞馬鹿トンデモおたんこ nas め、
    自分勝手な解釈 大間違いの、大嘘を言うな!(嗤) 

    仁徳天皇は、天武と陵を取り換えた、雄略天皇である!

  • >>1854

    仁徳天皇の頃は史上最強の時代だったのではあるまいか。

    中国は南北分裂時代、朝鮮も同じ。

    だから、あれだけの墓が出来たのだ。
    百済なども日本の墓を真似た。
    それが悔しくて、今、韓国ではその墓をブルドーザーで壊してる。😢

    なお倭人は半島南端には住んでいたでしょう。
    そうでなければ数度の出兵も考え難い。

  • >>2059

    日本が新羅や百済を征服した記述は、中国・朝鮮・日本の歴史書にありますし、任那日本府の存在からも、日本側が朝鮮半島南部を支配下においていた事は間違いありません。

    「広開土王碑」には、「もともとは、新羅と百済は高句麗の属民で朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民としてしまった。」 と公開した碑に刻まれています。

    「日本書紀」にも日本が新羅・百済を支配していた記述があります。

    全く違った系統の歴史書で話が一致しており、中国・韓国・日本のどの文献にも、日本が朝鮮に支配された記述はなく、日本側が支配していた事は疑いようがありません。

    四世紀末から五世紀初頭にかけて、日本が朝鮮半島に軍を派遣したそうです。百済を助けるために高句麗と戦ったとのことです。日本の参戦により、高句麗の朝鮮半島統一を阻止し、百済を存続させることができました。この時期から562年までの間、大和朝廷は朝鮮半島南部の任那(加羅)に拠点を持ってました。また朝鮮半島南西部の栄山河流域に前方後円墳が発見されてます。日本列島以外で前方後円墳があるのはここだけです。
    この時代、朝鮮半島南部を大和朝廷は支配していたのです。
    > これが史実です。
    >
    >
    >
    > 中国の史料『東夷伝』の記述
    > 「新羅も百済も日本を大国として敬い、仰ぎ、通商していた」
    >
    > 中国の史料『三国志』の記述
    > 「朝鮮半島南部は倭人が支配していた」
    >
    > 高句麗の史料『広開土王碑』の記述
    > 「日本が新羅と百済を属国にした」

  • >>2062

      山上臣憶良【(憶良に借名の)君臨者・聖武太上天皇】の
      天平【勝宝】折込歌(巻五・八○七)
    銀も金も玉も何せむに【勝】れる【宝】子にしかめやも

     【寓喩】訳=裏意(真意)
    「銀」=【しろがね=斯廬(しろ・新羅の古名)の銀】も
    「金」=【くがね(旧金=百済)の金も】も
    「玉」=【投馬国(とまや ←倒語)が転じて、大倭(→ やまと)国の玉(君臨者)】
    も何せむに【勝】れる【宝】子(家来達が転じて)御民(国民)にしかめやも

      【裏意(真意)訳】
    新羅【銀】も、百済【金】も、大倭(やまと)国【玉】も、
    御民(国民)無しには、一体何になるのだろう……。
    御民(国民)あっての、国なんだぞ! 聖武太上天皇

  • >>2062

    どうしようもない、無知アホ糞馬鹿man***** だな!(笑)

    >日本列島以外で前方後円墳があるのはここだけです。
    この時代、朝鮮半島南部を大和朝廷は支配していたのです。
    > これが史実です。<

    任那の一部を大伴金村(高市皇子)が、卑弥弓呼(崇峻・天武)に譲ったのさ!

  • >>2059

    >これが史実です。
    中国の史料『東夷伝』の記述
    「新羅も百済も日本を大国として敬い、仰ぎ、通商していた」<

    大嘘を言うな、
    どうしようもない無知アホ糞馬鹿トンデモ hon***** は、間違って居る!(笑)
    『東夷伝』の時代には、新羅も百済も、大国・日本国も、無い!
    あるのは、【▲矛圏(物部氏)】難升米の、邪馬壹(やまい)国と、
    【●鏡圏(蘇我氏)】臺与の、邪馬臺(やまと)国だけである!

  • >>2055

    これが史実です。



    中国の史料『東夷伝』の記述
    「新羅も百済も日本を大国として敬い、仰ぎ、通商していた」

    中国の史料『三国志』の記述
    「朝鮮半島南部は倭人が支配していた」

    高句麗の史料『広開土王碑』の記述
    「日本が新羅と百済を属国にした」

  • >>2053

      山上臣憶良【(憶良に借名の)君臨者・聖武太上天皇】の
      天平【勝宝】折込歌(巻五・八○七)
    銀も金も玉も何せむに【勝】れる【宝】子にしかめやも

     【寓喩】訳=裏意(真意)
    「銀」=【しろがね=斯廬(しろ・新羅の古名)の銀】も
    「金」=【くがね(旧金=百済)の金も】も
    「玉」=【投馬国(とまや ←倒語)が転じて、大倭(→ やまと)国の玉(君臨者)も】も何せむに【勝】れる【宝】子(家来達が転じて)御民(国民)にしかめやも

      【裏意(真意)訳】
    新羅【銀】も、百済【金】も、大倭(やまと)国【玉】も、
    御民(国民)無しには、一体何になるのだろう……。
    御民(国民)あっての、国なんだぞ! 聖武太上天皇

    私は、この最高傑作歌に辿り着けた喜びを噛み締めている。
    彼ありてこその日本国、なのである。

    木簡を削りし聖武の小刀は半分以下に身の細りけり  銀河 秋彩
    子に勝る宝物無し 白玉の子を失ひて初めて判る  銀河 秋彩

  • 日本が新羅や百済を征服した記述は、中国・朝鮮・日本の歴史書にありますし、任那日本府の存在からも、日本側が朝鮮半島南部を支配下においていた事は間違いありません。

    「広開土王碑」には、「もともとは、新羅と百済は高句麗の属民で朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民としてしまった。」 と公開した碑に刻まれています。

    「日本書紀」にも日本が新羅・百済を支配していた記述があります。

    全く違った系統の歴史書で話が一致しており、中国・韓国・日本のどの文献にも、日本が朝鮮に支配された記述はなく、日本側が支配していた事は疑いようがありません。

    四世紀末から五世紀初頭にかけて、日本が朝鮮半島に軍を派遣したそうです。百済を助けるために高句麗と戦ったとのことです。日本の参戦により、高句麗の朝鮮半島統一を阻止し、百済を存続させることができました。この時期から562年までの間、大和朝廷は朝鮮半島南部の任那(加羅)に拠点を持ってました。また朝鮮半島南西部の栄山河流域に前方後円墳が発見されてます。日本列島以外で前方後円墳があるのはここだけです。
    この時代、朝鮮半島南部を大和朝廷は支配していたのです。

  • >>2053

    >古墳時代に造られた仁徳天皇陵は、世界最大の古墳である。

    明日変わらず、どうしようもない無知アホ糞馬鹿man***** だな!(笑)
    通称 仁徳天皇陵、実は、生前築造の天武店の絵量である!
    勉強しなおせ!(笑)

  • >>2050

    日本は文化、文明の発信地でもあった
    三世紀前半からの古墳時代は、文字通り日本列島各地で多くの古墳が造られた時期である。
    なかでも巨大古墳はほとんどが前方後円墳だった。
    三世紀前期に纏向遺跡で始まった纏向型前方後円墳の築造は、わずか百年足らずの短い期間のうちに、東は千葉県や福島県など、また西は鹿児島県まで見られるようになった。
    したがって、ヤマト王権の勢力は、すでにこの時期に東北の南部から九州の南部にかけた広い領域に拡大した。
    古墳時代に造られた仁徳天皇陵は、世界最大の古墳である。
    墳丘の長さは、486メートル、体積は140万立方メートルという大きさです。
    また、二重周濠と外堤を持ち、外堤まで含めると長辺840メートルの巨大な墓域となる。
    それから仁徳天皇陵には、高さ1メートルにも及ぶ大型の円筒埴輪が6万本並べられていた。
    日本列島では、墳丘の長さが300メートル以上の前方後円墳が七基、200メートル以上が三五基、また100メートル以上の古墳が三〇二基(うち二九一基が前方後円墳)確認されている。
    短期間のうちに、夥しい数の巨大な墓が造営されたことは世界史上、類を見ない。
    これは日本国史の大きな特徴の一つです。

    日本書紀の価値観によれば、律令国家成立以前の大和地方を本拠とする統治機構はひとくくりに大和朝廷と定義する。
    ヤマト王権(古墳時代前期)が発展したのが大和朝廷(古墳時代中期以降)であるというのが事実です。

    なお、高句麗の好太王碑文に日本のことを記した文字あります。これによると、四世紀末から五世紀初頭にかけて、日本が朝鮮半島に軍を派遣したそうです。百済を助けるために高句麗と戦ったとのことです。日本の参戦により、高句麗の朝鮮半島統一を阻止し、百済を存続させることができました。この時期から562年までの間、大和朝廷は朝鮮半島南部の任那(加羅)に拠点を持ってました。また朝鮮半島南西部の栄山河流域に前方後円墳が発見されてます。日本列島以外で前方後円墳があるのはここだけです。
    この時代、朝鮮半島南部を大和朝廷は支配していたのです。

    https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/r2bbvoabfmeaa4hbcygobf9qa4n5bfoga1ya1ya1ya1ya1y/1/2879

  • >>2050

    どうしようもない、無知アホ糞馬鹿man***** め!(笑)
    我が国の巨大前方後円墳の殆どは、平安時代の日本国大和朝廷のねつ造である!(笑)

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