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zarakokuの部屋

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  • 2017/01/25 18:22
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  • 出た!予想通りzarakokuが2ちゃんに降臨www

    http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1477753100/l50

    598からがズラ国です。
    もうあのジジイの行動が手に取るようにわかりますwww

  • >>2052

    多分、あの異常粘着体質ですから、2ちゃんに現れると予想しますw

    そしてここへのレスを2ちゃんに書き込むかもしれません。
    というか以前、あの男はそれをやってましたからw

  • >>2051

    本当ですね。でも一ヶ月くらい、同じことをコピペするだけだから、消えてもほとんど影響ないでしょう。

  • >>2046

     【九州王朝・笑】論者って、この程度のクズばかり。


    >太宰府を囲む広大な「羅城」的遺跡は、当然太宰府の防衛線戦としての、戦闘ラインであり、そんなものは、郭務ソウらの唐の軍官が来ていては、造れる筈がないのですから、だから、白村江の前の、「万里の長城」的な建造物になるのであり、


     zaraは、羅城と万里の長城を同じものだと思っているようだ。w
     太宰府周辺に巡らされたのは、大陸との緊張状態から、追加で施された防衛施設であって、羅城とは全く別のものだ。
     
     
     唐が倭國に送り込んだのは、兵力と言えるほどのものではない。200人ほどもおらず、要は外交使節とその随員に過ぎない。そんなものに、倭國が怯えるとでも言うのかね。w
     それに務悰らが倭國に駐留している天智天皇3年の内に、水城等の長大な防衛線まで構築している。

     それに倭國にとって、九州は国土防衛の最前線に過ぎない。九州を制圧されれば、次に関門海峡で防ぐ。関門海峡を扼するのは長門城だ。長門城を突破されたら、次は広島、愛媛のしまなみラインで防ぐ。来島海峡の付け根、高縄半島にあるのが、永納山城だ。ここも瀬戸内海を東進するであろう唐を阻止する防衛ラインだ。


    「永納山城は、 日本で最も古い城である 「古代山城」 の一つです。 古代山城は、 教科書にも出 てくる 「白村江の会戦 (663 年)」 前後の国際的緊張関係の下、 築かれたと考えられる城です。 『日本書紀』 には古代山城に関する記載が見られ、 白村江での敗戦後、 百済の亡命貴族の指揮 の下に築城された、 とあります。 このような文献に名の出てくる山城は、 築城年代のはっきりしてい るものが多いのですが、 永納山城を含め文献に名のない山城の時期については、 いまだ細かい点 で意見が分かれています。 しかし、 近年の各地の山城の調査成果からおおよそ 7 世紀の後半~ 8 世紀の前半に築かれたということは間違いないと考えられています。  また、 築城目的については、 単に国家防衛という一側面のみで捉えられるのか、 他の目的もあっ たのか、 現在も調査成果に基づく研究が続けられています。」(平成22年度 国史跡永納山城跡 現地説明会資料・西条市教育委員会より引用)





     このように倭國中枢の畿内を守るのに、二重三重の防衛戦が設定されている。九州は前の出城に過ぎない。
    防衛すべき中枢は、畿内にある。



     zaraと愉快な仲間たちは、現実の遺物、遺構、史料を無視して、【九州王朝・笑】の妄想にふけっている。

    zarakokuの部屋  【九州王朝・笑】論者って、この程度のクズばかり。   >太宰府を囲む広大な「羅城」的遺跡は、当然太

  • >>2045

     zaraは、虚ろな目で同じことを呟くだけ。一番のzaraでさえこの体たらくなんだから、他の【九州王朝・笑】論者は推して知るべし。

    >古賀さんの紹介では、最近、7世紀とされていた古宮遺跡の最下層の更に下から、更に古い遺跡層が発掘された、という事であったから、6世紀にまで遡る可能性があり…
    >噴砂の痕跡があったんなら、そのはるか前に出来た事になる。
    >噴砂事件のはるか前の古宮遺跡の、更に古い古い遺跡層が発掘されたんだから、6世紀に遡るもの。



     古宮遺跡は、679年筑紫大地震による噴砂の上にあり、これによって古宮遺跡は7世紀末以降の施設だとわかる。そして、6、7世紀の掘立式の官衙であれば、これも全国各地から出土している。


    >以前に書いたように、大和政権の国府が出来たのがそもそも8世紀になってからであり、だから、古宮遺跡は、始めから「大和政権の地方の国府」ではなかったのであり、


     これは、なんの根拠も提示されていない。もちろん全くの作り話だ。



    >7世紀中頃の難波京は、筑紫の土器が出土しているから、九州倭國の分都であり、筑紫の太宰府が618年であるから、それ以前の都であった久留米の古宮遺跡は、6世紀にまで遡る事になる。


     
     他所の土器が出土したら、他所はその地の植民地とする考えがくるくるなだけ。 




    >久留米の曲水の宴跡も、隣の朝妻遺跡の付属のものには全くなっていなかったし、当時、曲水の宴をするような都は、太宰府がまだ完成していなかったんだし、太宰府にもないんだから、久留米しかなかった訳で。


     曲水の宴跡である鑓水遺構は、古宮国庁とは関係無い。ましてや鑓水遺構があるから、そこが都であるなんてとんでもない妄想だ。
     古宮国庁にしろ朝妻国庁にしろ、「遠の朝廷」と言われた太宰府以下の筑後国府にすぎない。
     筑後国は律令体制下の上国であり国司の階級は従五位下の中堅貴族だ。
    従五位は、中央でも天皇主催の曲水宴に呼ばれる階級だ。
    「天皇御鳥池塘。宴五位已上。賜禄有差。又召文人。令賦曲水之詩。」(続日本紀)
    「天皇御松林宮。宴五位以上。引文章生等、令賦曲水」(続日本紀)
     中央に復帰してからを考えると、地方の赴任先でも練習するのに越したことはない。



    >しかも、曲水の宴は、建築物から少し離れた草木に囲まれて鄙びた川辺でするものであり、朝妻遺跡の壁のきわでなどでは、しないものであり、その意味でも、古宮遺跡から離れているから、古宮遺跡時代に造られたものになる訳で。


     曲水の宴をネタに嘘八百を並べても、意味がない。
     蘭亭序のように庭の流水を使っての曲水の宴もある。
     
     そして10世紀の朝妻国庁の時代には、都では寝殿造りが標準だった。だから中堅貴族の国司の公邸である国司館もそれに準拠して作られた。その鑓水遺構だ。

    zarakokuの部屋  zaraは、虚ろな目で同じことを呟くだけ。一番のzaraでさえこの体たらくなんだから、他の【九州王

  • >>2042

     ここでも、zaraは目と耳を塞いでうずくまり、独り言を呟くだけになった。【九州王朝・笑】論者って、この程度のクズばかり。


    >太宰府を囲む広大な「羅城」的遺跡は、当然太宰府の防衛線戦としての、戦闘ラインであり、


     羅城というのは、都市の外縁だ。太宰府の場合、坊城部分よりはるかに広い。純軍事的な防衛線である。つまり羅城という都市の一部ではない。
     白村江以後唐軍が侵攻する危険性が高まった情勢を受けての、防御線構築だ。


    >そんなものは、郭務ソウらの唐の軍官が来ていては、造れる筈がないのですから、だから、白村江の前の、「万里の長城」的な建造物になるのであり、

     
     唐が倭國に送り込んだのは、兵力と言えるほどのものではない。200人ほどもおらず、要は外交使節とその随員に過ぎない。そんなものに、倭國が怯えるとでも言うのかね。w
     それに務悰らが倭國に駐留している天智天皇3年の内に、水城等の長大な防衛線まで構築している。

     それに倭國にとって、九州は国土防衛の最前線に過ぎない。九州を制圧されれば、次に関門海峡で防ぐ。防衛すべき中枢は、畿内にある。

    「7世紀、東アジアに激震が起こった。大陸を統一した唐帝国が、朝鮮半島の新羅と結び三国鼎立の半島の勢力図を塗り替えようと軍を興したためだ。新羅よりも強国で飛鳥(奈良)の政権と友好的だった百済が660年に滅ぼされる。亡国の遺民は時の天智天皇に百済復興を呼びかけると、天智帝はそれに応え、東アジアにおけるプレゼンスを確保すべく軍勢を半島に送った。これが世に言う白村江の戦い(663年)である。結果は周知の通り、大敗である。
     唐・新羅連合軍が我が領土に攻め寄せてくるかもしれない。天智帝は国内の防備を固めるべく、列島を改造した。大陸に近い九州では、沿岸部にあった宮宅などの行政・外交施設を内陸に移し、水城・大野城・基肄城が建設された。後に遠朝廷(とおのみかど)と呼ばれる大宰府政庁の礎ともなる大工事である。ほぼ同じくして、九州の隣国長門(現山口県)にも長門城(ながとのき)が築かれた。今日も下関港からは韓国への定期航路があるほど、長門と韓半島は身近で、奈良の王権も北九州に次いで重要な場所として早い時期に国府を置いていた。長門城は、筑紫のそれと同じく最前線に位置しているといっても過言ではない。
     長門国は、王権のある近畿への大動脈・瀬戸内海への入口でもある。長門国と筑紫国に挟まれた関門海峡は、動脈へいたる“長き門”である。長門国は、北部九州にあった外交の拠点守備のネットワークにも、瀬戸内海から近畿にいたる防御のネットワークにも属する、極めて戦略的なポイントであることは間違いないだろう。」(九州博物館振興財団のHPより)

     zaraと愉快な仲間たちは、現実の遺物、遺構、史料を無視して、【九州王朝・笑】の妄想にふけっている。

    zarakokuの部屋  ここでも、zaraは目と耳を塞いでうずくまり、独り言を呟くだけになった。【九州王朝・笑】論者って、

  • >>2041

     zaraは、虚ろな目で同じことを呟くだけ。九州王朝論者なんて、zaraでさえ幼児レベルのレスしかできない。

    >古賀さんの紹介では、最近、7世紀とされていた古宮遺跡の最下層の更に下から、更に古い遺跡層が発掘された、という事であったから、6世紀にまで遡る可能性があり…
    >噴砂の痕跡があったんなら、そのはるか前に出来た事になる。
    >噴砂事件のはるか前の古宮遺跡の、更に古い古い遺跡層が発掘されたんだから、6世紀に遡るもの。



     古宮遺跡は、679年筑紫大地震による噴砂の上にあり、これによって古宮遺跡は7世紀末以降の施設だとわかる。そして、6、7世紀の掘立式の官衙であれば、これも全国各地から出土している。


    >以前に書いたように、大和政権の国府が出来たのがそもそも8世紀になってからであり、だから、古宮遺跡は、始めから「大和政権の地方の国府」ではなかったのであり、


     これは、なんの根拠もない全くの嘘。



    >7世紀中頃の難波京は、筑紫の土器が出土しているから、九州倭國の分都であり、筑紫の太宰府が618年であるから、それ以前の都であった久留米の古宮遺跡は、6世紀にまで遡る事になる。


     この部分に関しては、知人がうまいことを言っているので借用させていただく。
     他所の土器が出土したら、他所はその地の植民地とする考えがくるくるなだけ。 




    >久留米の曲水の宴跡も、隣の朝妻遺跡の付属のものには全くなっていなかったし、当時、曲水の宴をするような都は、太宰府がまだ完成していなかったんだし、太宰府にもないんだから、久留米しかなかった訳で。





     曲水の宴跡である鑓水遺構は、古宮国庁とは関係無い。ましてや鑓水遺構があるから、そこが都であるなんてとんでもない妄想だ。
     古宮国庁にしろ朝妻国庁にしろ、「遠の朝廷」と言われた太宰府以下の筑後国府にすぎない。
     筑後国は律令体制下の上国であり国司の階級は従五位下の中堅貴族だ。
    従五位は、中央でも天皇主催の曲水宴に呼ばれる階級だ。
    「天皇御鳥池塘。宴五位已上。賜禄有差。又召文人。令賦曲水之詩。」(続日本紀)
    「天皇御松林宮。宴五位以上。引文章生等、令賦曲水」(続日本紀)
     中央に復帰してからを考えると、地方の赴任先でも練習するのに越したことはない。



    >しかも、曲水の宴は、建築物から少し離れた草木に囲まれて鄙びた川辺でするものであり、朝妻遺跡の壁のきわでなどでは、しないものであり、その意味でも、古宮遺跡から離れているから、古宮遺跡時代に造られたものになる訳で。


     なんだ。それなら朝妻国庁において出土した鑓水遺構は、曲水の宴と関係ないことになる。zaraは自爆した。w

  • >>2032

     zaraは、虚ろな目で同じことを呟くだけ。九州王朝論者なんて、zaraでさえ幼児レベルのレスしかできない。

    >古賀さんの紹介では、最近、7世紀とされていた古宮遺跡の最下層の更に下から、更に古い遺跡層が発掘された、という事であったから、6世紀にまで遡る可能性があり…
    >噴砂の痕跡があったんなら、そのはるか前に出来た事になる。
    >噴砂事件のはるか前の古宮遺跡の、更に古い古い遺跡層が発掘されたんだから、6世紀に遡るもの。



     古宮遺跡は、679年筑紫大地震による噴砂の上にあり、これによって古宮遺跡は7世紀末以降の施設だとわかる。そして、6、7世紀の掘立式の官衙であれば、これも全国各地から出土している。




    >高良山は、高良大社の神職系の居地であり、タリシホコらは、現久留米市街地付近の曲水の宴遺跡などの地域に都があったんでしょうね。

     曲水の宴跡である鑓水遺構は、古宮国庁とは関係無い。ましてや鑓水遺構があるから、そこが都であるなんてとんでもない妄想だ。


    >当時、曲水の宴をするような都は、太宰府がまだ完成していなかったんだし、太宰府にもないんだから、久留米しかなかった訳で。

     その根拠は?そもそも、なぜ曲水宴が行われるのが都なんだね?「漢人毛 筏浮而 遊云 今日曽和我勢故 花縵世奈」(万葉集)大伴家持は、赴任先の越中で、曲水宴を楽しんでいる。

     そもそも曲水の宴は、鑓水で行うものと限らない。「秦昭王三月上巳、置酒河曲、見金人自河而出」(続斉諧紀) 「三月三日、長安水邊多麗人一咏一觴,會稽山陰修」(不下帯編) 曲水の宴は川でできるし、それは日本でも同じ。

     と言うことで、嘘をついて古宮国庁を日本最古だと言い張ったり、鑓水遺構を持ち出しても意味がない。よく覚えておけ。クズ。

  • >>2031

    太宰府を囲む広大な「羅城」的遺跡は、
     当然太宰府の防衛線としての、戦闘ラインであり、
     そんなものは、郭務ソウらの唐の軍官が来ていては、造れる筈がないのですから、
     だから、白村江の前の、「万里の長城」的な建造物になるのであり、
     
     大和などには、そんなものは全く存在しないんだから、
     (大和ではなく)、太宰府が「倭國の都であった事の証拠」になる。

     「南→東」の嘘つき騙しの大和説の、「近隣諸国民への蔑視差別敵対の侵略殺戮支配戦争」をゼミ学生に鼓舞扇動して戦争に行かせようとするごまかしは、
     ヒトラーやトランプやISイスラムや麻原や暴力団組長や安部自民公明や稲田や高市や曽野や桜井らや読売産経らと同じように、
     憲法違反の・・・・犯罪者であり、
     皆様、怖いですから、触らないようにしましょうね。

  • >>2029

     キョクウのゼミ教官のごまかしは、虚ろな目で同じようなことを貼り付けて呟くだけ。

     戦争狂であり、
     うつろな目で同じ事を貼り付ける分裂幻覚妄想の・・・・症状になってしまっており、
     ゼミ学生らを戦争に行かせようとするんだから、
     稲田や高市や安部らと同じく・・・・は怖い怖い。

     古賀さんの紹介では、最近、7世紀とされていた古宮遺跡の最下層の更に下から、更に古い遺跡層が発掘された、という事であったから、6世紀にまで遡る可能性があり、

     噴砂の痕跡があったんなら、そのはるか前に出来た事になる。

     噴砂事件のはるか前の古宮遺跡の、更に古い古い遺跡層が発掘されたんだから、6世紀に遡るもの。

     以前に書いたように、大和政権の国府が出来たのがそもそも8世紀になってからであり、
     だから、古宮遺跡は、始めから「大和政権の地方の国府」ではなかったのであり、
     だから、発掘した通説学者の「古宮遺跡の年代比定の7世紀中頃」という説明自体が、何の根拠もない。
     勿論、大和の政庁建築は、飛鳥京が最初であって、それまではなく、
     7世紀中頃の難波京は、筑紫の土器が出土しているから、九州倭國の分都であり、
     筑紫の太宰府が618年であるから、それ以前の都であった久留米の古宮遺跡は、6世紀にまで遡る事になる。

     前述のように、古宮遺跡は、7世紀以前の政庁跡であるから、
     8世紀の地方の大国の国府と比べたって何の意味もなく、インチキなだけ。

     飛鳥京が、古宮や太宰府や難波宮を模した事になり、

     ごまかしはいずれの件においても、大和が倭國を併合吸収継承した後の話で自慢をするという、全く時代錯誤の貼り付けばかりの・・・・アホであった訳で。

     久留米の曲水の宴跡も、隣の朝妻遺跡の付属のものには全くなっていなかったし、
     当時、曲水の宴をするような都は、太宰府がまだ完成していなかったんだし、太宰府にもないんだから、
     久留米しかなかった訳で。

     しかも、曲水の宴は、建築物から少し離れた草木に囲まれて鄙びた川辺でするものであり、
     朝妻遺跡の壁のきわでなどでは、しないものであり、
     その意味でも、古宮遺跡から離れているから、古宮遺跡時代に造られたものになる訳で。

  • >>2028

     ここでも、zaraは目と耳を塞いでうずくまり、独り言を呟くだけになった。w


    >太宰府を囲む広大な「羅城」的遺跡は、当然太宰府の防衛線戦としての、戦闘ラインであり、そんなものは、郭務ソウらの唐の軍官が来ていては、造れる筈がないのですから、だから、白村江の前の、「万里の長城」的な建造物になるのであり、

     
     唐が倭國に送り込んだのは、兵力と言えるほどのものではない。200人ほどもおらず、要は外交使節とその随員に過ぎない。そんなものに、倭國が怯えるとでも言うのかね。w


     第一、郭務悰らが倭國に駐留している天智天皇3年の内に「是歲、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城。」と、製剤な防御施設を構築している。

     この水城は、明らかに博多湾に上陸して、内陸へ侵攻する唐軍を防ぐものだ。羅城より目立つし、唐にとっては露骨な戦闘施設だよ。
     この水城を見れば、zaraのお話が浮世離れしていることがわかる。


    >…白村江の前の、小規模万里の長城的な建造物であり、大和などにはないから、太宰府が倭國の都であった事の証拠になるんでしょう。

     太宰府の集権に設けられたのは、地形を利用した軍事的な防衛線。これは太宰府が、倭國の中でも攻撃を受ける危険性の高い辺縁部にあるという証拠だ。帝都のお飾り的な羅城とは、一見して違う。

     
     郭務悰とその随員を歓迎しつつ、同時に見せつけている訳で。天智天皇は、この硬軟両方の手を尽くして、白村江の戦いの失地回復を行った。

    zarakokuの部屋  ここでも、zaraは目と耳を塞いでうずくまり、独り言を呟くだけになった。w   >太宰府を囲む広大

  • >>2027

     zaraは、虚ろな目で同じことを呟くだけ。w

    >古賀さんの紹介では、最近、7世紀とされていた古宮遺跡の最下層の更に下から、更に古い遺跡層が発掘された、という事であったから、6世紀にまで遡る可能性があり…
    >噴砂の痕跡があったんなら、そのはるか前に出来た事になる。
    >噴砂事件のはるか前の古宮遺跡の、更に古い古い遺跡層が発掘されたんだから、6世紀に遡るもの。



     古宮遺跡は、679年筑紫大地震による噴砂の上にあり、これによって古宮遺跡は7世紀末以降の施設だとわかる。そして、6、7世紀の掘立式の官衙であれば、これも全国各地から出土している。




    >高良山は、高良大社の神職系の居地であり、タリシホコらは、現久留米市街地付近の曲水の宴遺跡などの地域に都があったんでしょうね。

     だから古宮国庁が、都の跡だと言う気だろ。しつこいよ。
     曲水の宴跡である鑓水遺構は、古宮国庁とは関係無い。ましてや鑓水遺構があるから、そこが都であるなんてとんでもない妄想だ。
     

    >久留米の曲水の宴跡も、隣の朝妻遺跡の付属のものには全くなっていなかったし、


     7世紀末の古宮遺跡とは、もっと関係ないけど。古宮遺構と、朝妻地区の鑓水遺構は、距離も離れている上に、古宮国庁の防衛線(大溝遺構)の外にある。
     筑後国府の国司館でも、平安時代(10世紀)の朝妻国庁時代の施設だ。


    >当時、曲水の宴をするような都は、太宰府がまだ完成していなかったんだし、太宰府にもないんだから、久留米しかなかった訳で。



    「四民並びに江渚池沼の間に出で、清流に臨んで流杯曲水の飲を為す」(荊楚歳時記)南朝においては民間も貴族も川が「曲水の宴」の場所。また蘭亭序のように庭の流水を使っての宴もある。
     日本でも川、池等々で「曲水の宴」を行なっていた。多賀城下や、藤原道長のように私邸の庭の遣り水で行なっていた。どれも「曲水の宴」だ。

     と言うことで、嘘をついて古宮国庁を日本最古だと言い張ったり、鑓水遺構を持ち出しても意味がない。よく覚えておけ。クズ。

  • >>2026

     太宰府を囲む広大な「羅城」的遺跡は、
     当然太宰府の防衛線としての、戦闘ラインであり、
     そんなものは、郭務ソウらの唐の軍官が来ていては、造れる筈がないのですから、
     だから、白村江の前の、「万里の長城」的な建造物になるのであり、
     
     大和などには、そんなものは全く存在しないんだから、
     (大和ではなく)、太宰府が「倭國の都であった事の証拠」になる。

     「南→東」の嘘つき騙しの大和説の、「近隣諸国民への蔑視差別敵対の侵略殺戮支配戦争」をゼミ学生に鼓舞扇動して戦争に行かせようとするごまかしは、
     ヒトラーやトランプやISイスラムや麻原や暴力団組長や安部自民公明や稲田や高市や曽野や桜井らや読売産経らと同じように、
     憲法違反の・・・・犯罪者であり、
     皆様、怖いですから、触らないようにしましょうね。

  • >>2025

    キョクウのゼミ教官のごまかしは、戦争狂であり、
     うつろな目で同じ事を貼り付ける分裂幻覚妄想の・・・・症状になってしまっており、
     ゼミ学生らを戦争に行かせようとするんだから、
     稲田や高市や安部らと同じく・・・・は怖い怖い。

     古賀さんの紹介では、最近、7世紀とされていた古宮遺跡の最下層の更に下から、更に古い遺跡層が発掘された、という事であったから、6世紀にまで遡る可能性があり、

     噴砂の痕跡があったんなら、そのはるか前に出来た事になる。

     噴砂事件のはるか前の古宮遺跡の、更に古い古い遺跡層が発掘されたんだから、6世紀に遡るもの。

     以前に書いたように、大和政権の国府が出来たのがそもそも8世紀になってからであり、
     だから、古宮遺跡は、始めから「大和政権の地方の国府」ではなかったのであり、
     だから、発掘した通説学者の「古宮遺跡の年代比定の7世紀中頃」という説明自体が、何の根拠もない。
     勿論、大和の政庁建築は、飛鳥京が最初であって、それまではなく、
     7世紀中頃の難波京は、筑紫の土器が出土しているから、九州倭國の分都であり、
     筑紫の太宰府が618年であるから、それ以前の都であった久留米の古宮遺跡は、6世紀にまで遡る事になる。

     前述のように、古宮遺跡は、7世紀以前の政庁跡であるから、
     8世紀の地方の大国の国府と比べたって何の意味もなく、インチキなだけ。

     飛鳥京が、古宮や太宰府や難波宮を模した事になり、

     ごまかしはいずれの件においても、大和が倭國を併合吸収継承した後の話で自慢をするという、全く時代錯誤の貼り付けばかりの・・・・アホであった訳で。

     久留米の曲水の宴跡も、隣の朝妻遺跡の付属のものには全くなっていなかったし、
     当時、曲水の宴をするような都は、太宰府がまだ完成していなかったんだし、太宰府にもないんだから、
     久留米しかなかった訳で。

     しかも、曲水の宴は、建築物から少し離れた草木に囲まれて鄙びた川辺でするものであり、
     朝妻遺跡の壁のきわでなどでは、しないものであり、
     その意味でも、古宮遺跡から離れているから、古宮遺跡時代に造られたものになる訳で。

  • >>2015

    >太宰府を囲む広大な「羅城」的遺跡は、当然太宰府の防衛線戦としての、戦闘ラインであり、そんなものは、郭務ソウらの唐の軍官が来ていては、造れる筈がないのですから、だから、白村江の前の、「万里の長城」的な建造物になるのであり、

     
     天智天皇は、対馬にも太宰府周辺にも、多くの城塞を作っているではないか。唐の大軍が博多湾に上陸して侵攻することを想定して、水城という長大な防衛施設を作っているではないか。


     そもそも唐が倭國に送り込んだのは、兵力と言えるほどのものではない。200人ほどもおらず、要は外交使節とその随員に過ぎない。
     むしろ倭國が大規模な防衛線を構築しているのを見せつけるという戦略もある。
     そして、この戦略は功を奏した。

     唐は高句麗や百済に大軍を送って滅ぼした。しかし倭國に対しては、白村江で水軍を壊滅させたにもかかわらず、日本列島に軍を送るでもなく、かえって倭國に対して外交交渉中に戦争捕虜をどんどん送還している。



    >…白村江の前の、小規模万里の長城的な建造物であり、大和などにはないから、太宰府が倭國の都であった事の証拠になるんでしょう。

     太宰府の集権に設けられたのは、地形を利用した軍事的な防衛線。これは太宰府が、倭國の中でも攻撃を受ける危険性の高い辺縁部にあるという証拠だ。帝都のお飾り的な羅城とは、一見して違う。
     
     これは太宰府だけではない。同様に倭國の辺縁にあって、軍事的緊張の中にあった多賀城とか秋田城とかとそっくり。

    zarakokuの部屋 >太宰府を囲む広大な「羅城」的遺跡は、当然太宰府の防衛線戦としての、戦闘ラインであり、そんなものは、

  • >>2014

     zaraは、虚ろな目で同じことを呟くだけ。w

    >古賀さんの紹介では、最近、7世紀とされていた古宮遺跡の最下層の更に下から、更に古い遺跡層が発掘された、という事であったから、6世紀にまで遡る可能性があり…
    >噴砂の痕跡があったんなら、そのはるか前に出来た事になる。
    >噴砂事件のはるか前の古宮遺跡の、更に古い古い遺跡層が発掘されたんだから、6世紀に遡るもの。



     古宮遺跡は、679年筑紫大地震による噴砂の上にあり、これによって古宮遺跡は7世紀末以降の施設だとわかる。そして、6、7世紀の掘立式の官衙であれば、これも全国各地から出土している。


    >以前に書いたように、大和政権の国府が出来たのがそもそも8世紀になってからであり、…


     全く根拠を示さずに、一方的に妄想を垂れ流しただけ。w


    >勿論、大和の政庁建築は、飛鳥京が最初であって、それまではなく、7世紀中頃の難波京は、筑紫の土器が出土しているから、九州倭國の分都であり、


     笑える。そんな屁理屈が通用するなら、北九州からは6世紀前半の伽耶土器が出土しておる。6世紀前半には、筑紫は半島の植民地であったことになる。w
     zaraのアホ説など、所詮その程度の小理屈だ。土器は、人と物の交流があったことを示すものであり、難波宮に九州人が出仕していたという証拠になるだけ。




    >私は、「曲水の宴遺跡などの地域」と言うように、都のあった「地域」を特定し、…

     曲水の宴跡である鑓水遺構は、古宮国庁とは関係無い。ましてや鑓水遺構があるから、そこが都であるなんてとんでもない妄想だ。
     

    >久留米の曲水の宴跡も、隣の朝妻遺跡の付属のものには全くなっていなかったし、


     7世紀末の古宮遺跡とは、もっと関係ないけど。古宮遺構と、朝妻地区の鑓水遺構は、距離も離れている上に、古宮国庁の防衛線(大溝遺構)の外にある。
     筑後国府の国司館でも、平安時代(10世紀)の朝妻国庁時代の施設だ。


    >当時、曲水の宴をするような都は、太宰府がまだ完成していなかったんだし、太宰府にもないんだから、久留米しかなかった訳で。


     朝妻国庁の鑓水遺構より、飛鳥の古宮遺跡(飛鳥小墾田宮)の苑池遺構の方がずっと古いわけだが。
     文化の先進地飛鳥と辺縁の筑後とでは、400年くらい時代差があるな。w



     ただ曲水の宴は、鑓水で行うものと限らないし、都でやると決まったものではない。
    「秦昭王三月上巳、置酒河曲、見金人自河而出」(続斉諧紀) 「三月三日、長安水邊多麗人一咏一觴,會稽山陰修」(不下帯編) 曲水の宴は川でできるし、それは日本でも同じ。「三月丙寅。車駕臨博多川。以宴遊焉。是日。百官・文人及大学生等各上曲水之詩」(続日本紀)

     地方の田舎貴族が、自然の川でやったりもする。だから筑後の田舎豪族が、飛鳥
    に出仕して恥をかかないように、地元の小川で曲水の宴をやらなかったとは言えないけどね。w

  • >>2023

    >(ssn)どうしたんだ、ジジイwとうとうお迎えが来たのか?w<

     どうしたんだ、「南→東」の嘘つき騙しの大和説の、「竹島での戦争を鼓舞扇動」するキョクウの分裂幻覚妄想の・・・・の犯罪者のガキー。w。
     とうとう、警察からお迎えが来たのか?。w。

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