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    ginkan12345 9月21日 02:20

    >>3348

      山上臣憶良【(憶良に借名の)君臨者・聖武太上天皇】の
      天平【勝宝】折込歌(巻五・八○七)
    銀も金も玉も何せむに【勝】れる【宝】子にしかめやも

     【寓喩】訳=裏意(真意)
    「銀」=【しろがね・銀=斯廬(しろ・新羅の古名)】も
    「金」=【くがね・金(旧金=百済)も】も
    「玉」=【投馬国(とまや ←倒語)、大倭(→ やまと)国の玉(君臨者)】も
    何せむに【勝】れる【宝】子(家来達が転じて)御民(国民)にしかめやも

      【裏意(真意)訳】
    新羅【銀】も、百済【金】も、大倭(やまと)国【玉】も、
    御民(国民)無しには、一体何になるのだろう……。
    御民(国民)あっての、国なんだぞ! 聖武太上天皇

  • 高句麗に続き百済も「中国史」、中国の主張に韓国騒然―米華字メディア

    Record China2017年9月14日12時10分

    13日、米華字メディアの多維新聞によると、中国と韓国の歴史論争は常に敏感な話題となっているが、中国でこのほど、百済が中国の歴史に含まれるとする主張が初めて確認されたことを受け、韓国社会が騒然としている。資料写真。
    2017年9月13日、米華字メディアの多維新聞によると、中国と韓国の歴史論争は常に敏感な話題となっているが、中国でこのほど、百済が中国の歴史に含まれるとする主張が初めて確認されたことを受け、韓国社会が騒然としている。

    13日付の韓国紙・東亜日報によると、中国政府が資金支援し改訂した中国の新しい歴史書で、高句麗や渤海国(唐末)はもとより、百済まで中国史の一部として編入されたことが確認された。

    韓国陸軍士官学校軍事史学科のイ・サンフン教授が12日、「百済歴史編年」「高句麗歴史編年」など「東北古代民族歴史編年双書」5巻シリーズを分析した結果として明らかにした。

    高句麗や扶余の歴史を中国史の年号に従って記述したこの双書の中の「百済の歴史の初期から中国史」という主張は、中国学界で初めて出されたものだ。

    双書の編者で中国長春師範大学の姜維公(ジアン・ウェイゴン)教授は、「百済歴史編年」内の小論文「百済起源問題探討」で、「中国学界はこれまで、百済を韓国史の範囲内としていたが、百済の前期の歴史は事実上、中国史に含まれる」とし、「百済は4世紀半ばに朝鮮半島の漢江流域に移動したが、百済が中国史に含まれるという事実を変えることはできない。紀元前2世紀から4世紀半ばまで漢江流域は中原王朝の所有だった」と主張している。
    Record Chinaより引用


    >日本の支配下にあった時期以外、百済は中国の属国であった。

    日本は、百済の要請を受け、兵站も困難な時代に援軍を派遣しました。

    https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/f71a6d5833869134098abc1b5fb11e87/1/3339

  • >>3339

    >三世紀前半からの古墳時代は、文字通り日本列島各地で多くの古墳が造られた時期である。
    なかでも巨大古墳はほとんどが前方後円墳だった。
    三世紀前期に纏向遺跡で始まった纏向型前方後円墳の築造は、わずか百年足らずの短い期間のうちに、東は千葉県や福島県など、また西は鹿児島県まで見られるようになった。
    したがって、ヤマト王権の勢力は、すでにこの時期に東北の南部から九州の南部にかけた広い領域に拡大していたのである。<

    間違っている!
    【◆銅鐸圏(燕)】公孫氏の遺跡と、【▲矛圏(物部氏)】難升米や
    【●鏡圏(蘇我氏)】臺与の遺跡とを区別せねばならない!

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  • 日本は文化、文明の発信地でもあった

    三世紀前半からの古墳時代は、文字通り日本列島各地で多くの古墳が造られた時期である。
    なかでも巨大古墳はほとんどが前方後円墳だった。
    三世紀前期に纏向遺跡で始まった纏向型前方後円墳の築造は、わずか百年足らずの短い期間のうちに、東は千葉県や福島県など、また西は鹿児島県まで見られるようになった。
    したがって、ヤマト王権の勢力は、すでにこの時期に東北の南部から九州の南部にかけた広い領域に拡大していたのである。

    古墳時代に造られた仁徳天皇陵は、世界最大の古墳である。
    墳丘の長さは、486メートル、体積は140万立方メートルという大きさです。
    また、二重周濠と外堤を持ち、外堤まで含めると長辺840メートルの巨大な墓域となる。

    それから仁徳天皇陵には、高さ1メートルにも及ぶ大型の円筒埴輪が6万本並べられていた。
    日本列島では、墳丘の長さが300メートル以上の前方後円墳が七基、200メートル以上が三五基、また100メートル以上の古墳が三〇二基(うち二九一基が前方後円墳)確認されている。
    短期間のうちに、夥しい数の巨大な墓が造営されたことは世界史上、類を見ない。
    これは日本国史の大きな特徴の一つです。

    日本書紀の価値観によれば、律令国家成立以前の大和地方を本拠とする統治機構はひとくくりに大和朝廷と定義する。
    ヤマト王権(古墳時代前期)が発展したのが大和朝廷(古墳時代中期以降)であるというのが事実です。

    なお、高句麗の好太王碑文(こうたいおうひぶん)に日本のことを記した文字あります。これによると、四世紀末から五世紀初頭にかけて、日本が朝鮮半島に軍を派遣したそうです。百済を助けるために高句麗と戦ったとのことです。日本の参戦により、高句麗の朝鮮半島統一を阻止し、百済を存続させることができました。この時期から562年までの間、大和朝廷は朝鮮半島南部の任那(加羅)に拠点を持ってました。また朝鮮半島南西部の栄山河流域に前方後円墳が発見されてます。日本列島以外で前方後円墳があるのはここだけです。
    この時代、朝鮮半島南部を大和朝廷は支配していたのです。

    https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/f71a6d5833869134098abc1b5fb11e87/1/2026

  • >>3319

    我が国の巨大前方後円墳は、平安時代の日本国・大和朝廷の捏造が在る!
    たとえば、
    倭人里巨大メジャー「55m/倭人里」の、代表的な実例
    http://ginga3396.blog.fc2.com/blog-entry-654.html

  • 大きさ異なる埴輪列…壬生・愛宕塚古墳で確認
    2017年09月06日
     壬生町壬生甲の「愛宕塚古墳」で、先月から発掘調査を進めている愛宕塚古墳発掘調査団が5日、大きさの異なる二つの円筒埴輪はにわの列を確認したと発表した。良好な状態で埴輪列が残る大型古墳は全国的にも珍しいという。

     同古墳は6世紀後半の前方後円墳で、1926年に国の史跡に指定された。今回は「保存活用計画書」策定のため、初めて本格的な発掘調査が行われている。これまで、墳丘を中心に四方から4本の溝(幅1メートル)を掘って調べてきた。

     調査団の田中裕・茨城大教授と日高慎・東京学芸大教授によると、円筒埴輪列は、墳丘下の平坦へいたん面と、その外側の周溝を挟んだ周堤(土塁)の上で確認された。内側の埴輪は直径約20センチ、高さ約50センチで、外側の周堤の埴輪は直径約30センチ、高さ約80センチだった。

     一般的な古墳の円筒埴輪の大きさは同じで、墳丘部と周堤部で埴輪の規格が異なるのは、大阪府高槻市の「今城塚古墳」など全国で数例しかないという。

     内側の埴輪の数は推定約350本。外側は約570本。周堤上からは、円筒埴輪のほか、武人、盾持ち人、馬と思われる埴輪の一部が確認されている。

     埴輪列は墳頂部にもあると考えられ、古墳を三重に回る埴輪列が存在する可能性が高い。

     今回の調査では、墳丘の側面に大人の頭ほどの河原石が並べられた「葺ふき石」と呼ばれる造りも見つかり、現在の群馬方面からの影響がうかがえるという。

     また、墳丘の全長はこれまで77メートルと考えられていたが、82メートルになることや、周堤の外側に二重目の周溝(幅3メートル、深さ1・5メートル)があることも確認された。

     発掘は来年3月まで行われ、今後は石室の位置確認とその周辺も発掘する。今月9日には現地説明会が行われる。

    http://www.yomiuri.co.jp/local/tochigi/news/20170906-OYTNT50082.html
    もちろんこの頃には、大和朝廷は日本全国を統治していた。

    https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/f71a6d5833869134098abc1b5fb11e87/1/3290

  • >>3314

    人麻呂隠岐島流罪地【終焉地】⇒ いろは歌(七行書き)「咎なくて死す」・清少納言 作
    これを記憶しておけ!

  • >>3233

    >諡号は、高徳の人に没後、追贈する称号をいう。

    一般的にはそうだが、「聖徳太子の諡号」は、【清少納言が追贈した諡号】である!
    いろは歌(七行書き)「咎なくて死す」・清少納言 作
    http://ginga3396.blog.fc2.com/blog-entry-1122.html

  • 犬の埴輪など260点紹介
    2017年08月22日
    瓢箪山古墳で出土した犬の埴輪(右)橿原市

     ◇橿考研博物館 昨年度出土品速報展

     2016年度の県内の主な発掘調査を紹介する速報展「大和を掘る35」が橿原市の県立橿原考古学研究所付属博物館で開かれている。埴輪はにわ、土器、瓦など約30遺跡の出土品約260点を展示している。9月3日まで。

     一辺が約70メートルで、飛鳥時代最大級の方墳と判明した明日香村の小山田こやまだ古墳(7世紀前半)では、古墳の時期を推定する根拠の一つとなった軒丸瓦などを展示している。

     巨大な横穴式石室と家形石棺をもつ6世紀後半の條じょうウル神がみ古墳(御所市)では、墳丘の盛り土が確認されたことなどから、以前より推定されていた前方後円墳である可能性が高まったと報告。また、前方部から石棺片とみられる凝灰岩なども出土した。

     三宅町の瓢箪山ひょうたんやま古墳(5世紀後半~6世紀前半)では、額に「綾杉文あやすぎもん」と呼ばれる線刻模様が彫られた珍しい犬の埴輪が出土。シカなどを追う険しい表情を表現したとみられる。他に、東大寺東塔院跡(奈良市)出土の創建期の軒丸瓦や平城京左京二条三坊(同)で出土した緑釉りょくゆう瓦などもある。

     同館の豊岡卓之館長は「今回は古墳の紹介や出土品の展示が多く、古墳の歴史を学ぶことができる。様々な展示を見て、オール奈良で文化財保護に取り組んでいることを感じてほしい」と話している。
    読売新聞より引用
    http://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20170821-OYTNT50420.html

    https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/r2bbvoabfmeaa4hbcygobf9qa4n5bfoga1ya1ya1ya1ya1y/1/563

  • 法隆寺>ゆかりの4市と交流協定
    7/22(土) 18:42配信 毎日新聞より引用
    斑鳩町の小城利重町長(中央)を中心に手を携える5市町の首長ら=奈良県斑鳩町の法隆寺で2017年7月22日午前11時27分、郡悠介撮影
     世界遺産・法隆寺(奈良県斑鳩町)で22日、奈良時代に寺の運営を支えた「食封(じきふ)」があったという記録が残る全国4市と同町が交流協定を結んだ。

     4市は兵庫県姫路市▽同県朝来市▽神奈川県小田原市▽群馬県高崎市。食封は古代律令制の仕組みで、指定した土地(封戸(ふこ))が社寺などに物資や労役を提供した。

     1400年の歴史を持つ法隆寺をゆかりとし、今後は住民交流イベントなどを開く予定だ。同寺の大野玄妙管長は「人々が知識を分かち合い、平和な社会に」と時を超えた交流に期待。


    https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/f71a6d5833869134098abc1b5fb11e87/1/3233

    https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/f71a6d5833869134098abc1b5fb11e87/1/3224

  • >>3233

    同一人物の、雄略天皇(聖徳太子)=「山(赤人 憶良)柿(人麻呂)の門」
    =聖武太上天皇(大津皇子)である!

  • >>3218

    歴代天皇に諡号(シゴウ)が贈られてます。
     死後付けられたということを理由にその呼称が使えないとすれば、歴代の天皇はすべて諡号(しごう)(没後のおくり名)であるから、いちいち、大和言葉の長い名称を書かなければならず、歴史教育の用語体系は大混乱となる。歴史教育には国民の歴史意識を育てる独自の役目がある。
    「聖徳太子」は諡号です。聖徳太子は、用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。日本書紀には、厩戸皇子なども記されてますが、昔から一般的に「聖徳太子」で広く知れ渡り親しまれてきました。
    聖徳太子(574年~622年)は、用明天皇の第二皇子であり、「法起寺塔露盤銘」(706年頃)には【上宮太子聖徳皇】、『古事記』(712年)には【上宮之厩戸豊聡耳命】、『日本書紀』(720年)には【厩戸皇子】を中心に【豊耳聡聖徳】、【東宮聖徳】などと記されている。
    その後、『懐風藻』(751年)において【聖徳太子】と初めて記載され、それ以降は『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』などにはいずれも【聖徳太子】と記載され、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見られなくなった。

    したがって、遅くともこの時期には【聖徳太子】が一般的な名称となり、今日まで1000年以上の長期間にわたり一般的に【聖徳太子】と呼ばれてきた。

    以上のことから「聖徳太子」は飽くまで「聖徳太子」と呼ぶべきであり、幼少期などの呼称(厩戸皇子など)を小中高の歴史教育で用いるべきではない。

    諡号は、高徳の人に没後、追贈する称号をいう。
     また、諡号を贈ることは天皇の大権の一つとされ、天台宗の開祖・最澄には「伝教大師」、真言宗の開祖・空海に「弘法大師」が贈られました。
    真言宗の開祖であられる空海は、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られました。

    例えば、弘法大師のことを・「まお」ちゃん・と呼ぶ人は、ほとんどいませんよね。

    >「聖徳太子」は「聖徳太子」なのです。聖徳太子は皇太子殿下なのですから、諡号の「聖徳太子」を呼称として学校教育でも統一すべきです。

    〉その通りですね。「聖徳太子」を呼称として学校教育でも統一すべきですね。

    >「聖徳太子」を嫌いな韓流の反日学者は、教科書の編集スタッフから外れてください。

    いい国つくろう鎌倉幕府がなくなったのも、天皇を軽視する現れですね。1192→1185 恐ろしい傾向

  • >>3224

    >大和朝廷によって統合される前から、三輪山、伊勢、出雲、熱田、南九州をはじめ各地に信仰があったと思われる。
    それらの神話群を、一つの流れを持つ一つの神話にまとめ上げたのが、『古事記』だ。
    その結果、多くの異なった信仰が、一つの神話体系として理解されるようになった。だから、日本では宗教戦争が起きたことがない。<

    hondara2003 は、間違っている!
    畿内は、そもそもは、公孫氏の支配地だった
    http://ginga3396.blog.fc2.com/blog-entry-1113.html

  • >>3207

    大和朝廷によって統合される前から、三輪山、伊勢、出雲、熱田、南九州をはじめ各地に信仰があったと思われる。
    それらの神話群を、一つの流れを持つ一つの神話にまとめ上げたのが、『古事記』だ。
    その結果、多くの異なった信仰が、一つの神話体系として理解されるようになった。だから、日本では宗教戦争が起きたことがない。

    そのことは、聖徳太子が示した「和」の国家戦略とも通じている。
    聖徳太子は603年に冠位十二階を定めて、役人の位を十二段階に分け、従来の制度を改め、優れた人材を登用できる制度を発足させた。
    そして、604年には十七条憲法を制定し、理想の国家像が示されたのである。
    ここで注目したいのは、十七条憲法の冒頭の一文である。
     一に曰く、和を以って貴しとなし、・・・。しかれども、上和(かみやわら)ぎ下睦(しもむつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざん。
     (一にいう。和を大切なものとし・・・・。しかし上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、おのずと物事の道理に適い、何事も成就するものである)
    聖徳太子が冒頭に示したのは「和の精神」だった。
    「和」は自己の主体性を保ちながら他者と協調することであり、自己の主体性を失って他者と協調する「同」とは似て非なるものである。そして、このことこそ、世界を代表する宗教が普遍的に理想とする精神にほかならない。
    日本が中国王朝の冊封体制に組み込まれず、日本は日本として輝くことができたのは、和の精神が貫かれたからでもある。

    「聖徳太子」は飽くまで「聖徳太子」と呼ぶべきであり、幼少期などの呼称(厩戸皇子など)を小中高の歴史教育で用いるべきではない。


    >推古天皇の時代には法隆寺の銘文の他、天寿国繍帳の銘文など「天皇」号史料が多く存在する。
    法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背裏面に刻された銘文には、病に伏した時、身内や親密な間柄の人が互いに病気平癒の祈願をし、もし死に至ったときには成仏を祈念することの重要性、そして仏教観を刻されています。
    聖徳太子等身の釈迦像の造像からもわかるように、聖徳太子は、仏と成り、永遠に仏教と和の貴さを世界中に伝え、発願の成就を祈り、成仏に導くことを決意されたのです。
    釈迦三尊像の銘文には「法皇」、薬師如来像の銘文には「天皇」「聖王」などが刻されています。

  • >>3218

    勉強が足らんな!(笑)
    聖徳太子は、生没年が西暦574年~622年では無い!
    実際には、死後・諡号として「聖徳太子」と名付けられたのである!

  • 歴代天皇に諡号(シゴウ)が贈られてます。
     死後付けられたということを理由にその呼称が使えないとすれば、歴代の天皇はすべて諡号(しごう)(没後のおくり名)であるから、いちいち、大和言葉の長い名称を書かなければならず、歴史教育の用語体系は大混乱となる。歴史教育には国民の歴史意識を育てる独自の役目がある。
    「聖徳太子」は諡号です。聖徳太子は、用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。日本書紀には、厩戸皇子なども記されてますが、昔から一般的に「聖徳太子」で広く知れ渡り親しまれてきました。
    聖徳太子(574年~622年)は、用明天皇の第二皇子であり、「法起寺塔露盤銘」(706年頃)には【上宮太子聖徳皇】、『古事記』(712年)には【上宮之厩戸豊聡耳命】、『日本書紀』(720年)には【厩戸皇子】を中心に【豊耳聡聖徳】、【東宮聖徳】などと記されている。
    その後、『懐風藻』(751年)において【聖徳太子】と初めて記載され、それ以降は『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』などにはいずれも【聖徳太子】と記載され、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見られなくなった。

    したがって、遅くともこの時期には【聖徳太子】が一般的な名称となり、今日まで1000年以上の長期間にわたり一般的に【聖徳太子】と呼ばれてきた。

    以上のことから「聖徳太子」は飽くまで「聖徳太子」と呼ぶべきであり、幼少期などの呼称(厩戸皇子など)を小中高の歴史教育で用いるべきではない。

    諡号は、高徳の人に没後、追贈する称号をいう。
     また、諡号を贈ることは天皇の大権の一つとされ、天台宗の開祖・最澄には「伝教大師」、真言宗の開祖・空海に「弘法大師」が贈られました。
    真言宗の開祖であられる空海は、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られました。

    例えば、弘法大師のことを・「まお」ちゃん・と呼ぶ人は、ほとんどいませんよね。

    >「聖徳太子」は「聖徳太子」なのです。聖徳太子は皇太子殿下なのですから、諡号の「聖徳太子」を呼称として学校教育でも統一すべきです。


    〉その通りですね。「聖徳太子」を呼称として学校教育でも統一すべきですね。

    「聖徳太子」を嫌いな韓流の反日学者は、教科書の編集スタッフから外れてください。
    「聖徳太子」は「聖徳太子」と教科書に載せなさい。

  • >>3211

    「清少納言」は、【聖書 納言】をモジッた名前で在り、
    【本名は、高階貴子(たかしな たかこ)】である!

  • >>3208

    どうしようもない歴史音痴の低能児▼無知アホ糞馬鹿 genkinisusumu め!(笑)

    「聖徳太子」は、【(同一人物の、蘇我大王家)雄略天皇&聖武太上天皇】である!
    阿倍晋三し、高松塚古墳(首を切り落とされた物部氏・天武の遺体)
    &革命・明治政府の末裔である!
    ゆえに、文科省も「邪馬台国畿内狂」の大嘘付きである!(笑)

  • >「聖徳太子」は飽くまで「聖徳太子」と教科書には載せるべきです。


    神の子である日本人は、成仏することもできるのです。
    聖徳太子の宗教弾圧をしない祈願システムの浸透が、世界平和につながります。
    感謝の気持ちで「聖徳太子」と教科書には呼称を統一すべきです。

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