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歴史山手線ゲ~ム

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  • 2015/03/09 11:40
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    歴史山手線ゲーム
    どっかのトピでお目にかかった人もいるかと思いますこのゲ〜ムですが、もっともっと
    歴史好き人口を増やすべく参上つかまつりました。

    【説明】
    ☆これから出す歴史問題に20解答していただきます。20解答終了すれば次の人が新しい
     問題を出題し又20解答します。その繰り返しです。
     但し問題を出される方は自分で20解答把握しているのが条件となります。
     歴史に関わる問題に限ります。

    ☆解答される方は1回1解答1日2解答とします。解答の前に#を付けてください。
     下には解答に関するコメントを少し頂くとありがたいです。
     
    ☆NGを出された場合はそれに気づいた方が、NGを出された方が気を悪くなさらない
     程度に指摘してあげて下さい。NGを出された方のナンバ〜が次の解答者のナンバ〜
     となりますのでお間違えなく。

    ☆解答された方の話題に触れたい方は、遠慮なさらずその方にレスを送ってくださって
     けっこうです。

    それでは実験的にやってみましょうか。

    問題:天下分け目の東西合戦関が原!西軍の武将を挙げてください?
     


     

     
     

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  • とうとう過去ログが閲覧できなくなったようですが、
    山手線ゲームの過去ログに関しては、こちらで閲覧できます。

    http://rekishi-yamanote.jimdo.com/山手線ゲーム/

  • >>15927

    1974(昭和49)年までアメリカ合衆国の「メンソレータム社」の塗り薬メンソレータムの日本国内の販売権を持ち、製造も手がけていた。1905(明治38)年に滋賀県八幡商業学校に赴任してきたキリスト教伝道師・ヴォーリズが創業者であり、社名の由来は近江と「人類皆兄弟」の精神から命名したもので、兄弟で設立した会社ではない。1920(大正11)年に近江セールズ株式会社を創業し、メンソレータム輸入販売開始した。1944(昭和19)年 2月 近江セールズ株式会社を株式会社近江兄弟社と改称している。しかし、創業者・ヴォーリズの亡きあと、経営難から自主再建を断念し、1974年に近江兄弟社は倒産し、メンソレータムの販売権も返上した。
    その翌年1975年にメンソレータムの販売権はロート製薬が取得し、さらに1988年にメンソレータム社もロート製薬に買収された。近江兄弟社は、大鵬薬品工業の資本参加で再興を図り、メンソレータムの製造設備を利用してオリジナルの類似製品で、メンソレータムの略称として従前より商標登録してあった「メンターム」を主力ブランドとしている。
    ヴォーリズは近江商人発祥地である滋賀県八幡を拠点に精力的に活動したことから、「青い目の近江商人」と称された。

    ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories)1880年生〜1964年没。建築家、実業家。
    アメリカのカンザス州レブンワース生まれ。1900年、建築家志望でマサチューセッツ工科大学入学が決定していたが、家庭の経済状況から近くのコロラドカレッジ理工系課程に入学。YMCA活動を開始。1902年、学生宣教義勇軍大会での講演に感激し、外国伝道への献身を決意。のちの関西学院第4代院長・ベーツと知り合い、文系課程に転じ、1904年にコロラドカレッジ哲学科を卒業。コロラドスプリングスYMCAの主事補となった。
    1905年に滋賀県立商業学校の英語科教師として来日する。1907年に八幡基督教青年会館を建設してバイブル・クラス(近江ミッション)を開設したため、町民の反感を買い教師を解職させられた。
    1908年に京都YMCA内に建築設計監督事務所を開き、日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸けた。学校、教会、YMCA、病院、百貨店、住宅など、その種類も様式も多彩。
    1919年に子爵令嬢・一柳満喜子と自ら設計した明治学院の礼拝堂で結婚式を挙げた。1941年に日本に帰化し、一柳米来留(めれる、米国より来りて留まるという洒落)と名乗った。
    実業家として、1910年に建築家のレスター・チェーピン、吉田悦蔵と3人で「ヴォーリズ合名会社」設立し、建築設計・建築関連資料輸入などを手掛けた。1918年に結核療養所「近江療養院」(近江サナトリアム)を開設。1920年には近江セールズ株式会社を創業し、メンソレータームなど皮膚薬のトップメーカーとして業績を挙げ、近江療養院などの病院、老人保健施設、学校なども経営した。
    讃美歌などの作詞作曲を手がけ、音楽についての造詣も深く、一時はハモンドオルガンの輸入代理業務も行っていた。
    太平洋戦争終戦直後には、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称されている。

    1951年、藍綬褒章受章(社会公共事業に対する功績による)。1961年、黄綬褒章受章(建築業界における功績による)。没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章を受章。

  • >>15926

    江戸後期の天保年間、政治的には水野忠邦や鳥居耀蔵あたりがブイブイ言わせていた、一番面倒な時代に、幕府の意を受けて、江戸の町人の発案をでっち上げて、小藩や旗本領などをターゲットに禁じ手の再検地が行われ、彦根などの大藩は体よく自治を主張して検地を逃れ、近江甲賀郡や野洲郡あたりを巡検した怪しい役人大野某は、碌に検地も行わないまま暗に賄賂や饗応を求めて練り歩き、各地の庄屋がリードする形で三上山のふもとの三上村一揆に発展し、検地の延期を勝ち取るものの、幕府は首謀者として庄屋たちを捕らえて、正式に裁くのも問題があるため、拷問にかけてほぼ全員を死なせてしまいます。
    幕府の終わりの始まりのような時代だったようです。

  • >>15925

    近江国甲賀郡地方に伝わる忍術流派の総称で、山を一つ隔てた伊賀国の伊賀流と並ぶ有名な忍術の一派として知られる。甲賀流という単一の流派はなく、甲賀地方に伝わる複数の流派を合わせて甲賀流と呼ばれている。
    現在の滋賀県甲賀市・湖南市周辺を拠点にし、普段は農業をして自給し、行商をして各地の情報を探り、指令が下ると戦場やその後方で工作活動に励んだ。手妻や薬の扱いに長け、その名残として現在も製薬会社が多い。
    室町時代より守護大名・近江源氏佐々木六角氏の傘下に属しながらも、「惣」を形成し多数決で決定・運営しており、この時期では全国的にも極めて珍しい自治組織であった。
    室町時代後期の鈎の陣において、山中でゲリラ戦を展開し、幕府本陣を奇襲するなど、六角氏を助けた53家の地侍達を甲賀五十三家と呼び、さらに感状を貰い重きを置かれた家を「甲賀二十一家」と称した。
    文明19/長享元(1487)年に将軍足利義尚が、幕府の命令に従わない六角久頼・高頼父子を征討するため、諸国の大名を動員して軍を発した。六角父子は、直接対決を避けて甲賀城に移動したため、義尚は本陣を栗太郡鈎の安養寺へ移し(鈎の陣)、甲賀城を攻め落城させたが、甲賀武士達によるゲリラ戦、時に義尚の本陣に火を放つなど、幕府軍を苦しめた。義尚が陣中に没したため戦いは終結したが、この時の神出鬼没のゲリラ戦や高い戦闘力の印象が、甲賀武士達を全国に知らしめることになった。

    戦国時代になると、小領主達は「同名中」という一族集団を形成。独立性は高かく、六角氏の支配も十分に及ばなかったという。織田信長に甲賀を席巻されるようになると、甲賀の侍衆たちは甲賀郡を単位とした連合体(甲賀郡中惣)を結成、六角氏の下で諜報に戦闘にと活躍していった。天正13(1586)年羽柴秀吉によって甲賀の侍衆は改易処分となり、浪人となり没落した。

    滋賀県甲賀市甲賀町隠岐に、萬川集海の翻訳者・研究家である柚木俊一郎によって、1983年に開園した甲賀の里忍術村があり、甲賀市甲南町竜法師2331番地には甲賀五十三家の筆頭格・望月出雲守の旧居(元禄年間建築)が甲賀流忍術屋敷として残されている。

    江戸時代前期に甲賀五十三家の筆頭格望月家出身の望月与右衛門は、島原の乱に出陣する松平信綱を近江水口で出迎え、参陣を申した。忍びとして一揆勢の籠城する原城の見取り図の作成を命じられたが失敗した。続いて城方の兵糧米の奪取の命を受け、海側から城内に侵入し、米俵13俵を奪い取る戦果を上げた。翌寛永15(1638)年側衆の中根正盛の命を受け、城内を偵察し、兵糧が尽きかけていることを報告。この報を得て、信綱は総攻撃を決断、原城を落城させることに成功したという。

  • >>15924

    肉用牛としての歴史が長く、三大和牛の1つとされる。
    明治時代になり西洋文化の影響で公に牛肉食が始まると、近江牛はブランド牛として全国に普及した。
    幕末から明治にかけて、東京に進出した牛肉卸売小売業「米久」を開業した竹中久次などの近江商人が近江牛の普及に一役買った。
    当初、輸送のため神戸港に運ばれてきた近江牛などを在留外国人が賞味し、神戸ビーフとよばれていたともいわれる。
    かつては、滋賀県産を満たすのに必要な肥育期間の基準が無かったため、県外産の牛を1晩県内に置いて翌日に市場に出しても「近江牛」と呼称できたが、平成17(2005)年に牛の肥育履歴偽装事件で近江肉牛協会の幹部が逮捕されたのを機に、同年12月「滋賀県産」とみなす基準を含めた近江牛の定義が決められた。

    江戸時代、近江彦根藩は牛の屠殺と牛肉生産を唯一公認されていた。元来牛皮革は、武士に取って鎧や鞍などを作る材料であった。彦根藩は譜代筆頭として京・西国に対する要地にあり、4千の兵力を維持するために牛馬の皮は欠かせない品物だった。彦根藩が生産した皮革は、毎年陣太鼓用に幕府に献上、他藩にも販売された。
    皮を剥いだあとの牛肉は食用として用いられた可能はあるが、慣習的に禁じられていた。
    元禄年間に3代藩主・井伊直澄の家臣・花木伝右衛門(生没年不詳)は、江戸在勤中に読んだ『本草網目』に従い、黄牛(あめうし、立派な牛の意)の良肉を主材に『反本丸(へんぽんがん)』と言う薬用牛肉を製造したことが記録として残っている。形状については何も記されていないが、『近江牛』を世に広め、牛肉食が禁じられていた江戸時代に食用の道をつけた。

    中国明朝の薬学・博物学書『本草網目』の和刻版では「黄牛の肉は佳良にして甘味無毒、中を安んじ気を増し、脾胃を養い腰脚を補益す」と書かれている。
    中山道鳥居本宿(滋賀県鳥居本町)では、『湖水清製 反本丸』と書かれた版木が残っており、反本丸が堂々と売られていた事を示す。
    元禄年間に赤穂浪士・大石内蔵助が堀部弥兵衛から味噌漬けの彦根牛の贈り物を受けたことを示す手紙が残っている。
    安永10(1781)年以降、彦根藩より『養生肉』の名で味噌漬けの牛肉を将軍家や親藩諸家に献上している。寛正年間には彦根藩で乾燥牛肉製法を始め,将軍・家斉に干牛肉を献上している。しかし、安政年間に藩主・井伊直弼は殺生禁断のため、水戸斉昭に恒例の牛肉献上を中止している。近江牛を楽しみにしていた水戸藩士が、近江牛の献上を断った井伊直弼を恨み、桜田門外で討ったとする俗説がある。

  • >>15921

     干菓子の「らくがん」は、近江八景の一つである「堅田の落雁」に
    因んで名づけられたという語源説があるそうです。大津に本店のある
    鮎屋さんでも扱っていますが、「落雁」というと金沢を連想してしまう
    のは、銘菓「長生殿」のなせる業でしょうか。

  • >>15920

    かつては鬱蒼とした森が広がり歌枕として知られました。
    次第に縮小されて、今は中山道と新幹線とに挟まれたところに、
    奥石(おいそ)神社の社叢として保たれています。

  • >>15919

     「じぇじぇ!」ではなく「ぜぜじょう」ですが・・・
     関ヶ原の戦いの後に、徳川家康が築城を命じた琵琶湖の浮城です。
     城作りの名手藤堂高虎が縄張りし、湖水の中に本丸、二の丸を配置する
     つくりで、本丸には四層構造の天守があったそうです。
     湖面に映える美しい城郭は浮世絵などにも取り上げられましたが
     琵琶湖の湖水に洗われた石垣はたびたび修築のやむなきに至り、
     これが膳所藩の財政を逼迫させ、廃藩置県の際、膳所藩は廃城願を新政府に
     提出し全国の藩に先駆けて城の解体を断行したそうです。

  • >>15918

    元は普通の温泉だったはずですが、今は普通ではないイメージが強くなっています。

    >長良山

    正しくは「長等山」ですね。
    三井寺の正式名称も「長等山園城寺」ですね。

  • >>15917

    大津市にある景勝地です。背後には三井寺があり、桜の名所としても有名です。

     『千載集』 さゞなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山櫻かな

     「昔ながら」と「長良山」が掛詞となっているこの歌は平忠度の絶唱であり、
     
      長良山と桜を強く結びつける一首となったようです。

  • 東国から凱旋した日本武尊は、この山の神を侮ったために祟りにあって下山後ほどなく亡くなります。

    山全体が石灰石でできているそうで、山腹がどんどん削られてコンクリに使われています。

  • >>15915

    国土グループを築いた堤康二郎は近江の出身だそうで、
    その点では、いわゆる○○商人の系統を継いでいるのかもしれません。

  • >>15914

    清盛のお抱え白拍子が滋賀県出身の祇王、祇女の姉妹で、地元の村が水利が悪くて
    困っていると旦那である清盛に相談すると、気前よく用水を作ってくれて、
    それが今でも利用されていると言われます。
    母親も含めて、三人が囲われて、調子よく暮らしていましたが、仏御前という
    新参の白拍子が売り込みに現れて、清盛は間に合っていると断るものの、
    祇王が「上げてあげればいいじゃないの」、と意見すると、女に意見されたのに
    キレた清盛は、三人を追い出して、代わりに仏御前を屋敷に入れます。

  • >>15913

    お伊勢に参らばお多賀にも参れ、お伊勢お多賀のお子である
    とか言われたそうですが、要はイザナギ、イザナミを祀る神社として
    尊崇を集めています。
    このお多賀さまのお守りが、お多賀杓子というしゃもじで、
    これが変化して「おたまじゃくし」となり、略して「おたま」。
    そうして、形態がよく似たカエルの幼生もオタマジャクシと
    呼ばれることになります。

  • >>15912

    穴太(あのう)は近江坂本の隣の村ですが、ここに先進の技術を持った石工集団を
    構成し、方々で戦国大名に抱えられて城郭の建築などに活躍したとされます。
    秀吉も実は穴太と関係の深い技術集団出身なのではないかとも言われます。

  • >>15911

    琵琶湖からの注ぎ口を扼する要衝に古い時代から架けられた橋で、多くの合戦の
    舞台にもなっています。
    江戸期には東海道と中山道のルートでもあり、多くの旅人が通りましたが、
    草津宿から山田という村へ出て、大津宿へ湖上をショートカットするルートも
    人気があったそうで、ただ湖が荒れると危険なので、「急がば回れ」という
    ことわざもこのことから出来たと言われます。

  • >>15910

     大津市にある古刹です。創建は奈良時代とされますが、
    かの紫式部がここに参篭し『源氏物語』を執筆したと伝
    えられることで有名です。
    またこちらの鏡餅の形が一風変わっており、ご本尊にお
    そなえする鏡餅は、餅とみかんを複数組み合わせた立体
    パズル(?)的な様相をしています。
    これはインドの仏舎利の形を模しているとのことです。

  • >>15907

    北近江浅井郡にあり、琵琶湖に浮かぶ小島に弁財天が祀られ、
    平経正などの竹生島詣を題材にした平曲や謡曲があります。

  • >>15905

    佐々木氏は宇多源氏とされますが、実際には近江の古い土豪の家系ではないかとも言われます。
    宗家は後に京極と六角に分かれますが、いずれも近江にはこだわりが強く、滋賀県を語るには欠かせない氏族です。

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