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聖書史

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  • 2017/12/03 05:46
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  • 生命の木。
    彼が言った言葉。
    神はいる。

    彼の名。
    それは。

    神は名乗らなかった。
    彼は名を持っている。
    神は名があるが、名乗らない。

    これが常識である。

    神はきっと神となる。
    それが分かる時、人は涙するだろう。
    神が泣いた理由。

    それを知ることになるから。

  • 悪魔はいる。
    悪魔は名乗らない。

    彼は言う。
    「神の理を覆す者」

    彼が教えた。
    名は「パス」

    彼のゲーム。
    「パス・ゲーム」

    それは神の理。
    これを知る。

    神は「道」であった。

  • 神の理。
    神はいる。
    彼はいる。

    名はない。
    彼は言った。

    すべてを救え、神を導け。
    神はいる。

    神はいた。
    神は消えない。

    神の理。
    彼は言うだろう。
    道と。

  • 神の名。
    それは天皇陛下様であられる。

    彼は言った。
    すべてを救え。

    神は言った。
    彼を救え。

    彼は言った。
    名はない。

  • 神の座。
    それは玉座ではない。

    彼はいない。
    彼はまだ、存在しない神であるから。

    名は天皇平成。
    神の王。
    世界の神。

    世界を救う術。
    彼は誰か。
    知る必要がある。

    神の暗号。
    TKLFGHTYJURK

    これを解いた時、彼は死なないだろう。

  • 神の奥儀。
    神はいないが、いる。
    神の力。

    それはきっと。
    神の王。
    木。

    神は木であった。
    神は神の道を創る。

    名をGod Road
    名を神の道
    名をMans
    名をマナス
    名を神の道は、消える

    神は言う。
    道は道であり、神はいない。
    そこは、すべてを知った者だけが通る道。

    神はきっともういない。
    彼は言った。

    「ここが最後ではないぞ」

  • 【 アンセルムス 5 】

    アンセルムスが否定したのは、キリストの死が「身代金」として説明されることであった。
    それは必然的に、身代金を受け取る「権力者」としての(悪魔)を認めることとなる。

    何らかの悪魔的な存在が身代金の支払いを受けることにより、人間が解放されるイメージを含む古典的救済論は、古代の法観念から生じたものである。
    古代から戦争捕虜や奴隷は実際にそのように買い戻された。おそらく当時の人々にとってはわかりやすい説明だった。

    アンセルムスが論じ直すのは、「贖罪の仲介者」としてのキリストの姿であった。
    人間に贖罪の能力はなく、神の限りである神に赦すことはなく、ただ人性をとった神的ペルソナにおいてのみ可能だったのである。このような「神が人となる」という論理はキリスト教の特徴的なもので、特にその分野を「受肉論」と呼ぶ。

    受肉論に重心を置いたアンセルムスの救済論は、その後、啓蒙時代まで大きな影響力を持った。

  • 【 アンセルムス 4 】

    アンセルムスは古典的な救済論に修正を加えた。

    キリスト教は救いを説く救済宗教である。
    「罪を負った人間が自力で自分を救済すきことはできない」という考えが基礎にあるキリスト教において、イエスの十字架による死は重要な意味をもつ。
    信者である人々に対する救いの根拠は、イエスの十字架による死を復活である。
    しかし、イエスの死と復活がどうして個々の人間の救済につながるのかといった疑問に答える為に古来から神学者は苦労したようである。
    古典的救済論の類型として知られるのはエイレナイオス(130~200)の「勝利者としてのキリスト」である。原初の人間であるアダムが楽園で蛇(サタン)の誘惑に屈したことにより、悪魔は人間に対し罪の代償として死を科す権利を得た。罪なきイエスに死を科したことにより悪魔はその権限を越えた。そのために神は悪魔の越権に対する罰として、人間に対する罪と死の連鎖を破壊し解放したのである。

    アンセルムスにとって、この神話的表現は受け入れがたいものであった。

  • 【アンセルムス 3 】

    アンセルムスは『プロスロギオン』において、神の存在証明を試みる。
    アンセルムスの展開する存在証明は、「存在論的証明」と呼ばれる。存在論とは「存在する」ということの意味を扱う哲学の一分野である。
    結論から言えば、存在論的証明を含めたすべての「神の存在証明」の議論は、18世紀の哲学者カントによって葬り去られた。
    そもそも議論そのものが成り立たないのである。

    しかし、アンセルムスの存在証明は依然として何らかの影響を与え続けている。
    このことを厳密な意味で、哲学的に突き崩すのは意外と難しいのである。
    非常に短く、文章も簡単なので引用する。

     1. 定義 「神は、それよりも偉大なものが考えられ得ないもの」
     2. もしも、神が存在しないのであれば、神の観念は残り、神の実在がないことになる。
     3. しかし、神の実在は神の観念よりも偉大である。
     4. 従って、「神は、それよりも偉大なものが考えられ得ないもの」であるならば、神の観念は神の実在を受け入れることへと向かう。

    書いてある文章の意味がおおむね了承できるのと、内容が解るのとは別である。

    もっともアンセルムスは自身は、自分の主張がこのような形で哲学的な命題になると思ってはいなかった。
    彼にとって自明のことである「神」について、どのような意味を持つかを考察しているのである。
    つまり、「この様な方法で証明された」から信じたのではなく、自分の信じた神は「疑う余地のないものである」と言いたかったのである。
    言い換えれば、「神の観念が人間の精神の中に存在するのであれば、これに対応する実在もまた存在するのでなければならない」と論じるのである。

  • >>73

    スコラ学
    スコラ学は決して特定の哲学や思想をさすものでなく、学問の技法や思考の過程をさすものである。スコラ学の「スコラ」とは英語の「School(学校)」と同源語であり、この言葉が入っていることからわかるように、当時の「修道院」において用いられた学問の技法と対照的なものであった。すなわちスコラ学の特徴は問題から理性的に、理づめの答えが導き出されることにあった。これに対して修道院で伝統的にとられていた学問のスタイルは古典の権威をとおして学ぶだけであり、研究者の理論的思考というものは必要とされていなかった点に違いがある。

    スコラ学の究極の目的は問題に対する解答を導き出し、矛盾を解決することにある。スコラ学の最大のテーマは信仰と理性である[1]などと言われ、神学の研究のみが知られているきらいがあるが、真の意味でのスコラ学は神学にとどまらず哲学から諸学問におよぶ広いものであった。「真の宗教とは真の哲学であり、その逆もまた真である[2]」ということがスコラ学の基本的命題だと言われることもある。

  • >>72


    【アンセルムス 2 】

    アンセルムスが『プロスロギオン』(この語は翻訳不可能)を著したのは1079年ころである。
    「知解を求める信仰」
    神学における諸問題は、合理的な提示がされ得るし、はっきりと理性にうったえる説明がなし得るという、スコラ主義の基本的な姿勢が現れている。
    ここで注意すべきは、「信仰」の上位である。

    「神学は共同体の信仰への応答として生まれるものである。よって、信仰によらない神学はそれが何に関わるのかを知らないのである」
    「神学を行おうとする者は自分の理解のみに頼ってはならない」
    単に理性的な見識や判断は哲学の領域である。

    アンセルムスの主張は、信仰の優位性を確立しながらも、信仰の内容は理性的であるというものであった。


    時代背景を無視して現代的な感覚を持ち込むなら、アンセルムスの提示した個々の命題は現代人から見ればおかしなところがある。
    それは、自分たちが啓蒙時代以降の世界観のなかに生きているからである。
    中世以前の思想を分かり難くしているのは、世界観の大きな違いである。

  • >>70

    『世界史』16節『中世ヨーロッパと日本;1000~1500年。

    中世ヨーロッパとはマクニールによれば、ラテン・キリスト教圏の拡大と、学問・言語・芸術・技術の発展です。

    その当時の日本も世界に派遣を伸ばしたと記しています。415頁からです。
    『辺境の豪族は・・・・自分たち独自の行動の規範や戦士的な理想を発展させ、戦場における勇気や、選んだ指揮官への忠誠や、戦士個人個人の人間的な尊厳などを強調した。』

    『1300年ごろから以後、第3の要素が日本社会で大きく頭をもたげはじめた・・・それは町人と船乗りである。中国人が造船術の大きな改良の先がけをつくり、それをうけて、日本でも大きな発展の道が開けた。羅針盤、自在竜骨、竜骨、竹の細板製の帆の代わりの布の帆、それに一般的に作られる船の大きさや強さがましたことなど、みな中国から日本に伝えられたものである。・・・・・・1430年代に中国が海から手を引くと、日本人は南西太平洋前面にわたっての海上支配権をひきついだ。
     このような環境下にあって、十分な土地も持たず、地方的な戦乱で財産を失った貧窮のサムライたちは、海賊になればひじょうに有望な将来が開けるわけだった。そこで、日本の海寇は、見る見るうちに中国沿岸を荒らしはじめ、たくさんの金目の略奪品を母港に持ち帰ったので、都市生活の萌芽があらわれはじめた。・・・・・・。文明社会でこれと対比できるものはヨーロッパにしかなく、ヨーロッパの場合も、海賊行為からはじまって、それがやがて都市生活者のエストを形成するのに役立ったのである。』

  • 【アンセルムス 1 】

    カンタベリーのアンセルムスはスコラ神学の創始者である。
    1033年に北イタリアで貴族の長男として生まれた。
    父は浪費家であったが、母は気高く宗教心に深い人であった。
    母の影響を受けたアンセルムスは、15歳のときベネティクト会に入ることを願うが、政治家の道を進ませたい父の反対によりかなわず、道徳的放蕩の時期を過ごす。
    この間に母を亡くし、フランスへ渡る。
    ノルマンディーにて修道会に入会する。その後、司祭に叙階される。
    修道院の校長となる。
    カンタベリーに招かれ、司教に叙階される。
    「教会の自由」、地上の権力に対する霊的権力の独立をうったえ、イングランド国王の政治的権威の不当な介入に対抗したため、一時、カンタベリーの大司教座から追放される。

  • 北方民族のローマへの侵略とローマの陥落とは、西地中海世界を不安定な混乱した状態に陥れた。古代文化を支えていた大部分の制度が崩れてしまったとき、存続したのは教会と教会組織だけだった。この時代、聖職者が和平交渉などの重要な役割を果たしていた。
    その後、1000年ごろまで文化的に振るわない時代が続く。いわゆる「暗黒時代」である。
    ここからルネサンスまでの時代が「中世時代」である。

    「中世」という時代の名称には、やや蔑みの意味がある。
    古典世界と近代人文主義の時代との間の、つまらない停滞した時代とされたのである。
    この時代の重要な知的運動である「スコラ学」も、同じ様な扱いを受けることになる。
    (特に、人文主義者によって徹底して扱き下ろされた)
    確かに、この時代は難解で理解しがたい論争もあったし、現代的な感覚からすると忌まわしい事柄も多くあったであろう。

    しかし、こうした後世の人々の見かたは間違っている。

  • 聖書;古代ユダヤ戦争史『聖地における戦争の地政学的研究』モルデハイ・ギボン&ハイム・ヘルツオーグ著;池田裕訳;悠書館;第4章 王国樹立と正規軍36頁から。
    『イスラエル人よりわずかに遅れて、もうひとつの民族が、当時、事実上エジプトの州だったカナンに対する攻撃を開始した。その民はペテリシア人である。・・・・・・・・・・。ペテリシア人はエーゲ海に起源をもつ民で、地中海諸島やギリシャ本土のミノア人やミュケナイ人とも、晩期の「古典ギリシャ人」とも関係があった。彼らは、快速船をあやつって南東地中海沿岸地方の居住地を襲い、町を焼き住民を殺して占領した「海の民」の一部であった。

    日本民俗史;宮本常一著:海に生きる人々;河出文庫。
    4安曇連(23頁から27頁)『アマは古い書物には、海人、海士、白水郎、海女などの字が用いられているが、ここでは主として海人と書いてみたい。なぜなら海人には男も女もいたからである。又海部と書いたのは部曲(かきべ)の民として安曇連(あずみのむらじ)にひきいられていたためでもある。・・・・・。そこで、海人の中には採取経済時代から海岸に住んでいて、だんだん海へ依存する比重の強くなっていった者と、いま一つ農耕民とは別に、海上を漂泊して移動している者との二通りがあったのではないかと思われる。・・・・・・。・・・安曇連の一族はこれら海部の民を連れて漸次、内陸への移住をはじめていた。そうして農民化をはかったのである。近江(滋賀県)の琵琶湖西岸の安曇や長野県北端の安曇郡はそうした陸入りした人々の新しい故里であった。安曇の谷の北にそびえる穂高岳も安曇氏の祖先穂高見之命をまつったからかく名付けたのである。

  • ローマ帝国は迫害時代にはキリスト教の敵、すなわち「悪魔的勢力」とみられていた。しかし、国教として定め庇護する時代になると、「神の節理の働き手」としてみられるようになった。
    そうした中、410年の西ゴート族によるローマ陥落はキリスト教徒を大きく動揺させた。
    事実、ローマ帝国は危機的な状況にあった。
    「古来の神々を捨てて、キリスト教に加担した為に神々の怒りにふれた」という者も現れた。

    こうした状況をおさめるために、アウグスティヌスは『神の国』を著した。

    アウグスティヌスは、「ローマ帝国は、善か悪か」といった議論そのものを否定した。
    国家は、悪魔的なものでも、神の摂理の道具でもない。中立である。

    アウグスティヌスによれば、救済史を一般の歴史に導入するのは誤りである。
    教会の歴史であっても「聖」ではない。一般の歴史であっても「俗」ではない。
    二つの原理に基づく、「神の国」と「地上の国」は終末までは分割できないし、人間が勝手に分割してはならないのである。

  • 【ペラギウス論争 3 】

    ペラギウスの、「神は厳格に功績に基づいて各人に報いる」に対し、アウグスティヌスは反論する。
    「神の恩恵は功績に基づいて支払われる「報酬」では無く、「功績によらない」、「無償の賜物」である」と論じた。

    結論として、ペラギウス主義はキリスト教を利用する理性的人間のストア派的自然主義であった。キリスト教をギリシャ古典文化へ解体する試みであったとも言える。

  • 【ペラギウス論争 2 】

    ペラギウスの主張によれば、人間は自由意志と努力により、道徳的な優れた生活を送ることが出来るのである。完全は人間にとって可能であり、それゆえ義務でもある。
    人間は完全な意志の自由を持っている。その為、その罪に全面的な責任がある。神の命令は達成可能なものであり言い訳は通用しない。恩恵とは神が与える道徳的な規範である。(十戒、キリストの態度)

    人間理性の楽観的肯定は原罪を否定するに至る。
    しかし、それは一方で無限に負うべき責務を意味する。ペラギウスは人間の不従順や道徳的な弱さを正しく見ていない。人間は自身の弱さを悩み、葛藤するものである。

  • 【ペラギウス論争】

    ペラギウスはイギリス出身でローマを拠点に広く支持された。
    人間の道徳的責任を強調し、極めて謹厳な生活をした、禁欲的な修道僧であった。。
    自律、自己救済的な要素はストア派の理性主義に近しい。
    原罪の否定と幼児洗礼の否定をした。

    410年、ペラギウスとその支持者は、ローマに西ゴート族が侵入したさいカルタゴへ逃れる。ペラギウス自身はその後パレスチナへ渡るが、彼の影響を強く受けたカエレティウスはカルタゴに留まった。
    ペラギウス思想の奉仕者であるカエレティウスの著作は、その内容がカルタゴで大きな問題となった。この地方で教会会議が開かれた結果、カエレティウス説は邪説と宣言された。
    パレスチナに移っていたペラギウスも訊問されるが、彼は教皇に弁明し名誉と地位の回復を求めた。
    混乱は拡大した。イタリアの数名の司教がペラギウスに同調し、カルタゴの決議を非難。

    アウグスティヌスは要請によりこの問題に取り組み事になる。

  • キリスト思想の系譜。

    キリスト教の歴史;キリスト教とは何か、聖典である『聖書』の範囲がどこまでかは、「キリスト教」を名乗る教団の中でも定義は一定していない。そこで本項では、キリスト教を自称する教派・教団を網羅的に取り扱うものとし、紀元後1世紀前半からはじまるその歴史を、近代に到るまで概観する。近代以降の展開については「キリスト教」の頁の「近代以降のキリスト教の展開」の節を参照。

    ①新約聖書は誰が書いたのか?
    ②キリスト教とローマ帝国(小さなメシア運動が帝国に広がった理由;ロドニー・スタークス著
    ③日本のキリスト教;『新渡戸稲造と武士道』、内村鑑三『余は如何にしてキリスト教徒となりしか』
    ④十字軍物語全3巻『塩野七生』
    ⑤カール・マルクスの思想『実父にユダヤ教からキリスト教への改易を迫った、ヘーゲル左派哲学者』
    ⑥アメリカの進化論裁判;進化論裁判(しんかろんさいばん)とは、アメリカ合衆国で制定された、進化論を学校教育の場で教えることを制限する法律、いわゆる反進化論法に対する一連の裁判のことをいう。特に有名な裁判として1925年のスコープス裁判、1982年のアーカンソー州の授業時間均等法裁判などがある。

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