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聖書史

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  • 2018/12/06 23:31
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    sei***** 12月6日 23:31

    ヘレニズム世界にはギリシャ哲学からなる知的な古典文化の蓄積があり、キリスト教はその正当性を高い知的水準で示さねばなりませんでした。
    教父ユステノス(100~165)はキリスト教をプラトン哲学との関連により弁証を試みます。
    ロゴス・スペルマティコス「種子的ロゴス」、キリスト教はプラトン主義のロゴスの顕れとされます。

  • キリスト教の勢力は最初の数十年間、ローマ帝国によって、問題になるほどものではありませんでしたが、不平不満の多い時代、大衆の心理は、風変わりなで異質な人々を排除しようと働くことがあります。

    多くは誤解と偏見ですが、こうした非難はすでにユダヤ人に対しても向けられていました。
    ユダヤ教徒とキリスト教徒は次第に区別されるようになるものの、しばしは混同され、ユダヤ戦争におけるユダヤ人反乱の際、ユダヤ人への非難はキリスト教徒にも向けられました。

    ドミティアヌス帝(在位81~96)のもとでキリスト教徒へ迫害が起こりました。
    とくに小アジアでの弾圧は酷いもので、この迫害が『ヨハネ黙示録』の形式に関連しているとされます。
    当時の小アジアは激しいメシア待望の機運が高まっていました。キリストの再臨とエルサレルを中心とした普遍的王国の建設がまじかに迫っているというものでした。
    こうした動向を、ユダヤのゼロデ主義に悩まされたローマの官憲は非常に警戒し、激しい弾圧となりました。

    ネルウァ帝(在位96~98)が即位すると、迫害の嵐は一旦おさまり緊張緩和の時期が訪れます。
    その後しばらくして、帝国内にキリスト教徒がきわめて多数であることが報告されると、民衆の敵意が再燃しました。このころはローマ帝国の行政からの積極的な迫害は比較的少ないものの、キリスト教徒は法的に不安定であり、常に危険にさらされていました。

    度々起こる迫害にもかかわらず、帝国内のあらゆる階層にキリスト教徒の数は増加していきます。

  • 60年代後半になると、生前のイエスを直接に知る弟子たちはいなくなり、教会の世代交代が起こり始めます。
    まず初めに、『マルコによる福音書』が成立します。伝承ではヨハネ・マルコが福音記者とされていますが、それを示す証拠はありません。
    その後に、『マタイによる福音書』、『ルカによる福音書』が成立します。この二つ文書は、マルコ文書を参照しつつ、イエスの語録に関する資料(Q資料)を独自の観点から書き足しています。
    これら三つの文書は共通点も多く、共観福音書と呼ばれます。
    90年代に成立した『ヨハネによる福音書』は、共観福音書とは異なった観点を書き出しています。

  • ペテロ、パウロの殉教、エルサレルの陥落は、キリスト教徒にとって衝撃的な出来事でした。
    信徒の置かれた状況は危機的でしたが、約束されたキリストの再臨と神の王国の到来は未だに起こることはありません。
    差し迫った終末観は揺らぎ、信仰から脱落する者や異端的な傾向に走る者が出始めました。
    この時期から生前のイエスの姿を書きとめようとする動きが出てきます。

  • 第一次ユダヤ戦争により、ユダヤ教のあり方も大きく変化します。
    神殿が破壊された為、神殿祭司階級のサドカイ派は姿を消し、ファリサイ派が主流となりました。
    神殿に代わって、会堂(シナゴーグ)がユダヤ人の精神性の継承の場となります。

    ローマ帝国内のキリスト教はユダヤ主義を後退させ、教会の主流を形成するのはエルサレム以外の異邦人教会へと移り変わっていきました。
    キリスト教は、地中海世界のヘレニズム文化と深く関わることとなります。

  • 66年、総督フロールスの政策に対する不満からユダヤ人の反乱が起こります。

    当初、反乱軍はシリアから派遣されたローマ軍を敗退させなど、ユダヤ人の抵抗運動は激しいものでした。
    翌年、ウェスパシアヌスが6万のローマ軍を従え、ガリラヤの抵抗戦線を壊滅すると、ユダヤ人はエルサレムに籠城し抵抗します。
    69年、ウェスパシアヌスが皇帝に即位。息子ティトゥスがローマ軍司令官となり、エルサレムを包囲します。

    70年、エルサレム陥落。街と神殿は破壊されました。

    ユダヤ人反抗勢力はマサダの砦に立てこもり、なお抵抗を試みましたが、73年にマサダは壊滅し、ユダヤ人の反乱は鎮圧されます。

  • キリスト教がローマ帝国の領土内で拡がり信徒数が増えると、非キリスト教徒は危機意識を持ち始めます。
    64年7月、ローマは大火に見舞われました。
    皇帝ネロ(在位54~68)は、この火災の責任をキリスト教徒になすりつけます。異質な存在であるキリスト教徒は、民衆の不満のはけ口、スケープゴートとして凄惨な迫害を受けました。
    パウロ、ペテロはこの迫害により殉教します。

  • パウロは異邦人への宣教で大きな役割を果たしました。
    キリスト教はユダヤ教の一派から離れ、民族宗教の枠を超えた普遍性へ発展し、地中海世界に広まっていきます。

    パウロは、以前は熱心なユダヤ教徒でキリスト教の積極的な弾圧者でしたが、ダマスクスへキリスト教徒の逮捕に向かう途中で回心し、以後、キリスト教教会の最も重要な人物の一人となります。

  • ステファノの殉教事件後、教会に対する迫害がおこり、急進的なヘレニストグループがエルサレムから追放されます。
    彼らの一部はアンティオケアに逃れ、その地で宣教活動をおこないました。
    当初は、ユダヤ人が対象でしたが、やがてユダヤ人以外の人々にも広まるようになります。

    ユダヤ教の影響の強いエルサレムのグループとヘレニストのグループが、新しく増えた異邦人信徒の扱いをめぐって対立します。

    この問題は49年のエルサレム会議で一応決着しますが、再び蒸し返されることになります。

  • ユダヤ人の言語は、ヘブル語、アラム語ですが、当時のエルサレムには、ギリシア語で会話するユダヤ人が多くの居ました。

    ユダヤ人たちは古い時代から、パレスチナ以外の地域にも多く住んでいました。
    他国に移り住んでいるユダヤ人の多くは、他国との交易で使われる商用の共通言語である「ギリシア語」を日常的に使っていました。
    長い期間他の地に移り住んで世代を経ても、ユダヤ人は聖書と集会によりその民族性を保っていましたが、何世代か経つうちに言語はギリシア語に代わっていったようです。こうした外国在住(多くはギリシャ語圏)のユダヤ人をヘレニストのユダヤ人といいます。

    初期のキリスト教共同体によるイエスの教えは、ユダヤ以外の国で生まれ育ち、エルサレムに移住または、一時的に滞在する外国語を話すユダヤ人(ヘレニスト)の間に広まるようになりました。

  • イエスはガリラヤ出身で、エッセネ派の一派である「洗礼者ヨハネの教団」に加わりますが、まもなくして独自に伝道を始めます。
    イエスはガリラヤ地方の宣教で、一時、民衆の爆発的支持を受けますが、多くの大衆は彼ら自身の救世主像をイエスに押しあてているだけで、その理解は大きくずれていました。

    イエスの人気の高まりと、従来の宗教体制へ批判ととれる発言に対し、パリサイ派やサドカイ派は警戒心を懐くようになります。
    パリサイ派やサドカイ派はイエスを告発し、ローマ総督ピラトに詰め寄り、ローマ帝国の政治犯として死刑にしてします。

    イエスの公活動の期間は1年から長くとも4年弱と推測されます。その後の影響を思うと驚くほど短い期間です。

  • エルサレム神殿の司祭階級であるサドカイ派は、大司祭の家系や有力貴族の出身者で占められていて議員を兼ねる者も多く、富裕階級でかなり政治的なグループです。
    思想的には保守ですが、支配者であるローマ帝国など外国思想にはやや寛容で妥協的でした。そのほうが商取引に有利であるのと、ローマ軍の実力を知っていた為です。
    成文律法のみを認め口伝律法を認めない立場です。

    ファリサイ派は、地方の会堂を拠点に、民衆に対して指導的なグループで、成文律法だけだなく口伝律法も認め極端に律法に忠実でした。
    外国文化には対立的で、民衆に根を下ろしているため実質的なユダヤ教の中心勢力です。律法解釈をおこなう律法学者や教師(ラビ)を輩出しました。

    エッセネ派は、隠遁的な修道者グループで、俗世間を離れて禁欲的な生活を送ったようです

  • ヘレニズムによる文化的な融合が進むなかで、ユダヤ人は独自の宗教性を維持し続けます。
    特に律法遵守と神殿礼拝は重要視されます。その為、律法の解釈を行ない民衆を指導する者や神殿の司祭階級の権威が高まり、やかて民衆と乖離するようにもなります。

  • ハスモン王朝末期の内戦を利用し、ローマ帝国の支援によりユダヤ王となったヘロデ大王は、ローマ風の都市開発をさかんにおこないローマより政策を推し進めました。
    また一方では、エルサレム第二神殿の大改修により、熱心なユダヤ教信仰者の歓心を得るなど、政治的才能の高い人物でした。しかし、晩年は継承問題などの猜疑心から、自分の子供までも処刑しました。

  • バビロン捕囚後、エルサレムに帰還したユダヤ民族は、アケメネス朝ペルシアのもとで聖書の編纂や神殿の再建をすることになりました。
    アレクサンドロス大王の征服事業によって、アケメネス朝ペルシアは滅びます。
    アレクサンドロス大王の統一も大王の一代で終わり、代わってギリシア系の王朝セレウコス朝がパレスチナの支配者となります。

    セレウコス朝が、ユダヤ人に対しユダヤ教の信仰を禁じため、武力抵抗がおこり、マカベの兄弟たちによってハスモン朝が成立します。450年ぶりに復活したユダヤ人国家でしたが、今度はローマ帝国の支配によりエルサレムを含むパレスチナはローマ帝国の属領となります。

  • カエサルが共和制の伝統を重んじる反対派に暗殺され、第2回の三頭政治を経て、オクタビアヌスのもとでようやく内乱は終結します。その後、ローマの共和制はオクタビアヌスの単独支配へ質的な転換をとげました。

    オクタビアヌス(在位前27~後14)は、元老院からはアウグストゥス(尊厳者)の称号をうけますが、自身をプリンケプス(市民の中の第一人者)と自称しました。共和制の形式を尊重しつつも広範囲な権限を自分一人に集中させ、実質的な独裁統治をおこないました。これ以降、ローマは帝政期をむかえます。

     五賢帝の時代、帝政期の前半200年間は平和がつづき、「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)と呼ばれるようになります。各地にローマ風の都市が建設されました。

  • 前3世紀前半、イタリア半島内の統一を実現した都市国家ローマは、フェニキア人の植民市カルタゴと、3度にわたるポエニ戦争(前264~前146)により、これをほろぼし、地中海世界をしだいに支配下に治めていきました。
    しかし、対外発展のかげで、長年の征服戦争による中堅市民の没落が深刻化していました。
    戦死者が増え、不在の耕地が荒廃すると、そうした土地を買い占めて一部の有力者が征服地から大量に供給される奴隷を使って大規模な土地経営をおこないました。そのため、穀物価格は下落し、中堅市民層の中小農民の離農がさらにすすみ、無産市民への転落がすすみました。
     グラックス兄弟の改革がおこなわれるも、有力者は閥族派と平民派に分かれて争い、同盟市の反抗や奴隷の反乱も加わり、ローマは内乱期に入ります。
    やがて共和制の伝統を無視した三頭政治がおこなわれ、結果ユリウス・カエサル(前100~前44)が独裁権を得ました。

  • アレクサンドロス大王が死ぬと広大な帝国は、プトレマイオス朝エジプト、セレウコウス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアの三つの王国に分裂します。

  • マケドニア王アレクサンドロス大王(在位前336~前323)はペルシア遠征をおこない、10年のあいだにギリシャ・エジプトからインダス川流域にいたる大帝国を建設しました。
    オリエント東方文化と融合した新しいギリシア風の文化が形成されることとなります。これを「ヘレニズム」といいます。

    ポリスの市民的意識は薄れ、世界市民主義と個人主義の時代の到来により、人々の意識も大きく変化しました。

  • マケドニアが、カイロネイアの戦い(前338年)でギリシアのアテネやテーバイを中心としたポリス連合に勝利すると、実質的にギリシア都市国家時代は終わりを迎えることとなります。
    アリストテレスが学園を開いたころ、時代の流れは大きな変化のときでもありました。

    アリストテレスの場合は、より自然にある個物そのものに着目します。

    個物は様々な要因、要素によって成り立ちます。あるものが何であるかを決定づける本質であるところ「形相(エイドス)」と、そのものを構成する素材である「質料(ヒュレー)」です。
    本質である形相(エイドス)は、イデアのように別の次元にあるものではなく、ものごとに内在するとアリストテレスは考えました。
    また、種子は大木となる形相を含むが、それはまだ実現されていない「可能的状態(ディナミス)」であり、それが実現された状態を「現実的状態(エネルゲイア)」と呼びました。
    こうした自然界にある成長の過程や変化していこうとする力を「作用因」と呼び、そのものの真の姿形が「目的因」とされます。
    こうして全体が個物の存在を成り立たせている、それが「実体(ウーシア)」です。

    アリストテレスにはある種の目的論的な自然観をみることができます。

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