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>>1735

>オタクの話は、いちいち漫画的だな。「密偵により江戸で起こったことはすべて分かっていた」なら、それはいつ誰が通報したんだ?史料名を言ってみろよ。ただの妄想だから、根拠はないだろうけど。W

歴史的資料を前に提示しても、君はそれを認めようとしないから、無駄なことはせん!

>「過激派の突き上げによる」とは?誰がどんな動きをしたのかね?逃げ回ってないで、根拠史料を提示してくださいよ。この部分も、オタクのフィクションかね?

西鄕が今あるのは、そもそも久光に対する誠忠組過激派の突き上げによる。

>小松も西郷も久光も、軍事力は手段であって、目的ではない。状況に応じて切るカードの一枚だ。だから久光は、西郷を再度上洛させたのであり、また軍も上洛させている。彼らは幕府軍の動向如何で戦争になるか回避できるかを慎重に見極めようとしていた。

そもそも久光は長く西郷と敵対関係にあった。藩内でも西郷の武力倒幕に対する風当りは強くなってきていたが、久光や家老の小松を含む上層武士と下級武士出身の西郷や大久保らの力が逆転しておったから、久光は、西郷を再度上洛せざるを得なかったのである。

>それが歴史というものだ。オタクの話は、歴史小説、映画の脚本であって、歴史ではない。現実の歴史は、複雑で将来は不透明なものだ。

「現実の歴史は、複雑で将来は不透明」だから、それを解明するのが歴史学というものだと思うが。

  • >>1739

    >戦争責任に絞れば、幕府にも薩摩にも原因はある。というより、戦争は一方が熱望して起こるものではなく、双方の加熱による事態の悪化が引き起こすものだ。
    >繰り返すと、戊辰戦争への道は、新政府と旧幕府の相互作用で高まっていった。
    > 大政奉還の混乱の中で、戦争回避という可能性は限りなく低い。幕府側も新政府側も、京阪に兵力の集中を行なった。
    11月13日、薩摩藩主島津茂久は、西郷らを帯同の上、4隻の軍艦に1000名を分譲させ上洛。その主力艦は、11月8日に購入したばかりの春日(1015t)だ。そして長州藩も、陸路と海路で約3000名が兵庫入りをした。
    > 一方、10月下旬には幕府側も、軍を上洛させた。10月19日、洋式陸軍の歩騎砲兵3個大隊に、遊撃隊120名が進発。10月24日には、老中稲葉正巳ら首脳が、4隻の幕府軍艦を率いて上京。12月14日にも、長鯨丸、長崎丸に歩兵2個大隊等が乗船して上京。
    > 兵力を増強した幕府側の戦意は高まるばかりで、兵庫にいた開陽丸艦長の榎本武揚は、実家への書簡で「とても一戦これなく候わでは、徳川氏の天下とても盛んに相成り申さず…クズクズさえ致し申さず候へば勝利は十分…」(12月14日、母親宛書簡)と書き残している。

    慶喜は会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬をニ条城に呼びつけて他出を禁じ、衝突を未然に阻止している。さらに感情にかられて騒ぎたてる幕軍兵力2万3千余を、京都のニ条城から大坂城に移して暴発を回避する。そして松平春嶽や伊達宗城らによる努力により、12月23日の三職会議の沙汰書は、辞官納地について領地返上を求めない内容に修正された。また、諸侯も新政府に応分の差出を行なうこととなり、慶喜の議定就任の内定も確定している。勿論、政府の決定を慶喜は受け入れておる。

  • >>1739

    江戸の情勢が、藩邸焼き討ちまで緊迫していたことは、西郷にとって想定外だった。だから国元に向けて送った書簡には、在京や在江戸の浪士に対して「大に舊幕の輩惡居候儀に御座候えば、早く江戸の浪士を倒し候策かと被相察候儀に御座候」(慶応四年一月一日付西郷書簡)とある。






    >上記は事件が終わった後のもので、実際の「西郷は江戸藩邸の浪士団活動停止の指示を承知していた」その時の歴的資料はなんですか?




     上記の西郷書簡には「いまだ譯も不相分、何れを可正筋も無之、其内決て暴動は不致段御届申出置候儀に御座候。」と書かれている。浪士の後方撹乱活動が停止しているという前提のもとに書かれている。




    >これをか書いたときは、西郷は密偵により江戸で起こったことはすべて分かっていたのだよ!それに、戦いの準備をするよに提携している藩に催促している。だから、この手紙は久光にたいする報告書のようなものだから、とぼけて書いたものだ。




     オタクの話は、いちいち漫画的だな。「密偵により江戸で起こったことはすべて分かっていた」なら、それはいつ誰が通報したんだ?史料名を言ってみろよ。ただの妄想だから、根拠はないだろうけど。w
     そもそも薩摩藩邸焼き討ちは、公然たる戦争行為だから、密偵など使わなくても噂は広まるよ。






    >歴史的資料を前に提示しても、君はそれを認めようとしないから、無駄なことはせん!



     それはおたくの方だ。慶応四年一月一日付西郷書簡で、薩摩藩江戸屋敷の焼き討ち事件の報告を受けた西郷が、江戸の事件に狼狽していることが証明されている。それをおたくは何の根拠もなく、一方的に否定している。


     ともかく、その「歴史的資料」に書いている密偵の名前は誰なんだ?「歴史的資料」があるなら、こそこそ隠して回らずに、きちんと提示したらいかが?

  • >>1739

    >久光は夏に上京したとき体調を崩し志半ばで鹿児島に帰ってから歩けない状態であった。茂久の京都への派遣が決定を見た時点で、久光は西郷の従軍を差し止めた。これは、賊臣慶喜を討てという密勅を持って走り回っておる過激な挙兵論者であった西郷を上洛させれば事態が悪しき方向に転じることを危惧したためです。ところが、過激派の突き上げによる西郷擁護論が高まり、 病中の久光もそれに押されて、結局は西郷の随行を認めることになる。






     「過激派の突き上げによる」とは?誰がどんな動きをしたのかね?
     久光が、完全に軍事行動に反対なら、そもそも大久保を帯同する説明がつかない。また西郷を置き残せばいいだけだし、上洛後も西郷の動きを規制していればいいだけ。




    >藩の方向は、藩内の勢力関係に依存して決定されるんですよ。これが基本です。当時の藩内の中心は、精忠組と言われた下士層出身の過激な若者らが大勢を占めていたのだよ。




     質問は理解できたかな?
     「過激派の突き上げによる」とは?誰がどんな動きをしたのかね?逃げ回ってないで、根拠史料を提示してくださいよ。この部分も、オタクのフィクションかね?






    >西鄕が今あるのは、そもそも久光に対する誠忠組過激派の突き上げによる。
    >そもそも久光は長く西郷と敵対関係にあった。藩内でも西郷の武力倒幕に対する風当りは強くなってきていたが、久光や家老の小松を含む上層武士と下級武士出身の西郷や大久保らの力が逆転しておったから、久光は、西郷を再度上洛せざるを得なかったのである。




     なぜ問いに対して答えずに、逃げ回っているのかね?「過激派の突き上げによる」とは?誰がどんな動きをしたのかね?逃げ回ってないで、根拠史料を提示してくださいよ。やっぱりこの話は、根も葉もない嘘なんだろ?


     
     小松も西郷も久光も、軍事力は手段であって、目的ではない。状況に応じて切るカードの一枚だ。だから久光は、西郷を再度上洛させたのであり、また軍も上洛させている。彼らは幕府軍の動向如何で戦争になるか回避できるかを慎重に見極めようとしていた。


     それは西郷にあっても同じ。西郷は、鳥羽伏見に続いて関東に追討軍を派遣して戦争を仕掛けた。その西郷が江戸無血開城と慶喜助命を一転して主張した。西郷にとって軍事力とは、ただの手札の一枚に過ぎないのだよ。いらなくなれば、いつでも捨てられるものだし、実際に捨てている。


     その時の西郷の心情については、後年「江城攻撃中止始末」の中で、
    「前に申上げた時の西郷の心持はこうであろうと想像します。西郷も慶喜は恭順であるから全くそう来ようということは、従前から会得して居るのである。然るに兵を鈍らしてはならず、また慶喜の恭順も立てねばならぬ。又、天下の大体のことに大いに関係する。それゆえに兵は、どこまでも大いに鼓舞して江戸に着して見るところが…
     明日の戦を止むると云うは勝に対しては易き話である。唯官軍の紛紜を畏るることは容易でない。多分板垣などは如何なる異論を以て来るかも知れぬ。…横浜パークスの一言を清が報じたので、西郷の意中は却て喜んで居るじゃろうと清は想像します。」と語られている。
     *清とは、渡辺清左衛門(大村藩士)