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>>1739

>戦争責任に絞れば、幕府にも薩摩にも原因はある。というより、戦争は一方が熱望して起こるものではなく、双方の加熱による事態の悪化が引き起こすものだ。
>繰り返すと、戊辰戦争への道は、新政府と旧幕府の相互作用で高まっていった。
> 大政奉還の混乱の中で、戦争回避という可能性は限りなく低い。幕府側も新政府側も、京阪に兵力の集中を行なった。
11月13日、薩摩藩主島津茂久は、西郷らを帯同の上、4隻の軍艦に1000名を分譲させ上洛。その主力艦は、11月8日に購入したばかりの春日(1015t)だ。そして長州藩も、陸路と海路で約3000名が兵庫入りをした。
> 一方、10月下旬には幕府側も、軍を上洛させた。10月19日、洋式陸軍の歩騎砲兵3個大隊に、遊撃隊120名が進発。10月24日には、老中稲葉正巳ら首脳が、4隻の幕府軍艦を率いて上京。12月14日にも、長鯨丸、長崎丸に歩兵2個大隊等が乗船して上京。
> 兵力を増強した幕府側の戦意は高まるばかりで、兵庫にいた開陽丸艦長の榎本武揚は、実家への書簡で「とても一戦これなく候わでは、徳川氏の天下とても盛んに相成り申さず…クズクズさえ致し申さず候へば勝利は十分…」(12月14日、母親宛書簡)と書き残している。

慶喜は会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬をニ条城に呼びつけて他出を禁じ、衝突を未然に阻止している。さらに感情にかられて騒ぎたてる幕軍兵力2万3千余を、京都のニ条城から大坂城に移して暴発を回避する。そして松平春嶽や伊達宗城らによる努力により、12月23日の三職会議の沙汰書は、辞官納地について領地返上を求めない内容に修正された。また、諸侯も新政府に応分の差出を行なうこととなり、慶喜の議定就任の内定も確定している。勿論、政府の決定を慶喜は受け入れておる。

  • >>1743

     戦争責任に絞れば、幕府にも薩摩にも原因はある。というより、戦争は一方が熱望して起こるものではなく、双方の加熱による事態の悪化が引き起こすものだ。




    >それなら別に歴史を語る必要はないと思うが。




     それが歴史というものだ。オタクの話は、歴史小説、映画の脚本であって、歴史ではない。現実の歴史は、複雑で将来は不透明なものだ。
     繰り返すと、戊辰戦争への道は、新政府と旧幕府の相互作用で高まっていった。
     


     大政奉還の混乱の中で、戦争回避という可能性は限りなく低い。幕府側も新政府側も、京阪に兵力の集中を行なった。
     11月13日、薩摩藩主島津茂久は、西郷らを帯同の上、4隻の軍艦に1000名を分譲させ上洛。その主力艦は、11月8日に購入したばかりの春日(1015t)だ。そして長州藩も、陸路と海路で約3000名が兵庫入りをした。


     一方、10月下旬には幕府側も、軍を上洛させた。10月19日、洋式陸軍の歩騎砲兵3個大隊に、遊撃隊120名が進発。10月24日には、老中稲葉正巳ら首脳が、4隻の幕府軍艦を率いて上京。12月14日にも、長鯨丸、長崎丸に歩兵2個大隊等が乗船して上京。


     兵力を増強した幕府側の戦意は高まるばかりで、兵庫にいた開陽丸艦長の榎本武揚は、実家への書簡で「とても一戦これなく候わでは、徳川氏の天下とても盛んに相成り申さず…クズクズさえ致し申さず候へば勝利は十分…」(12月14日、母親宛書簡)と書き残している。


     薩摩藩江戸藩邸焼き討ちは、これらの後、12月25日に発生している。鳥羽伏見の戦いは、避けようがなかったのだよ。




    >慶喜は会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬をニ条城に呼びつけて他出を禁じ、衝突を未然に阻止している。さらに感情にかられて騒ぎたてる幕軍兵力2万3千余を、京都のニ条城から大坂城に移して暴発を回避する。そして松平春嶽や伊達宗城らによる努力により、12月23日の三職会議の沙汰書は、辞官納地について領地返上を求めない内容に修正された。また、諸侯も新政府に応分の差出を行なうこととなり、慶喜の議定就任の内定も確定している。勿論、政府の決定を慶喜は受け入れておる。




     しかし上記の通り幕府側は、軍事対決を目指して動いている。それが慶喜の本意でないなら、幕軍は慶喜を捨てて暴走し始めたということだ。

     もっとも慶喜の本意にも、疑いの目が注がれている。そんな見方をするのは、大政奉還の建白書を慶喜その人に上程した後藤象二郎である。

     大政奉還後の見通しについて、後藤象二郎がイギリス人に語った内容が残っている。
     「明らかに後藤は、大君の一見愛国心に富み、自己の利益をかえりみないが如き行動に疑惑の眼を向けている。彼によれば、大君の行動は自派の勢力の内の動揺している部分、不満を抱いている部分を、再度自分の指揮下に結集するための策略に過ぎないのかもしれないのである。」
    (1867年12月22日付け、スタンレー外相宛てパークス駐日公使報告書)


     鳥羽・伏見の戦いの伏線は、大政奉還直後から始まっているのだよ。