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>>1780

>・・この事態を受けて、慶喜との政治的妥協の可能性を最終的に断念した久光の決断により、薩摩藩指導部は武力倒幕路線を確定する。」

「慶喜との政治的妥協の可能性を最終的に断念した久光の決断により、薩摩藩指導部は武力倒幕路線を確定する。」のは、いつですか?
その時の薩摩藩指導部とは、だれだれですか?
その会議の内容は?
「久光の決断」であった歴史的資料はなんですか?

>そして、久光が代理として送り出した茂久は長州、芸州と戦闘勃発時の協力を約して上洛する。

「長州、芸州と戦闘勃発時の協力を約して」とは何ですか?
それはいつ取り決めをしたのですか?
取り決めのその実際の内容はどのようなものですか?

>別に薩摩藩の動きに変動はない。幕府との決別、新政府の確立という大戦略はいささかも変わっていませんが、何か?

それは政府に対する反乱ですね。

> 幕府を倒し、新政府を樹立するのに、和戦両睨みの柔軟な戦略を駆使するのは、久光にしろ西郷にしろ、同じだ。

では、久光と西郷は反乱の首謀者ですね!

>根本的なことを言えは、800万石の直轄領と分厚い譜代大名をもつ幕府が、たかが薩長主体の勢力に押されまくって、結局潰れざるを得なかった。そこまで失政を重ね、衰弱していた。
 幕府は第一次長州征伐から鳥羽伏見まで、圧倒的優勢の軍事力を持って戦いに臨み、しかも敗れた。

根本的なことを言えば明治維新とは統治経験がない少数の若者らによって日本をダメにしただけだ。

>慶喜にしても、この動きを全く制止していない。まあ制止できなかったのかもしれないが、いずれにしても新政府、幕府双方とも可燃性の高い状態にあった。この時点でも、在京薩摩藩では、江戸の別働隊(後方かく乱用の浪士団)の動きを静止している。

慶喜が大政奉還の考えを表明したとき、その実現に向けてことさら尽力したのが、薩摩側です。だから、薩摩側に戦う戦意は無くなっている。だが西郷と大久保と君は別だがね。


>「政府転覆の反乱」などではない。大政奉還した後に、慶喜の統制を離れた幕府急進派が攻撃を仕掛ける場合の対策だ。

政府転覆の反乱でなければ、なんというのかね?

>だから、兵を上洛させた時点では何ら戦闘は起きていない。

戦かう名分が無くなてしもたからです。戦かうには名分が必要です。名分がなければ、兵たちに戦う気力は生まれんからね。

  • >>1781

     別に薩摩藩の動きに変動はない。幕府との決別、新政府の確立という大戦略はいささかも変わっていませんが、何か?


    >それは政府に対する反乱ですね。


     幕府を倒し、新政府を樹立するのに、和戦両睨みの柔軟な戦略を駆使するのは、久光にしろ西郷にしろ、同じだ。
     
     本来的に言えば、幕府は一機関であって、政府そのものでは無い。




    >では、久光と西郷は反乱の首謀者ですね!




     違うね。政権内の政治抗争に過ぎない。
     「勅命候義重罪不可免候二付、征夷大将軍職ヲ奪、削封ノ上諸侯之列二被召加度」(大久保利通「久光公に呈せし意見書」)


     
     薩摩藩では、「征夷大将軍職ヲ奪、削封ノ上諸侯之列二被召」という大戦略があって、そのための和戦両にらみで準備を進めている。

  • >>1781

     根本的なことを言えは、800万石の直轄領と分厚い譜代大名をもつ幕府が、たかが薩長主体の勢力に押されまくって、結局潰れざるを得なかった。そこまで失政を重ね、衰弱していた。
     幕府は第一次長州征伐から鳥羽伏見まで、圧倒的優勢の軍事力を持って戦いに臨み、しかも敗れた。




    >根本的なことを言えば明治維新とは統治経験がない少数の若者らによって日本をダメにしただけだ。




    明治維新を遂行し、明治政府の実務に当たったのは、「統治経験がない少数の若者ら」などではないよ。少しは歴史を勉強しなさい。
     藩の実務についていた行政マンと、藩や政府が計画的に育成した人材たちだ。




     さて内政外交の失敗した幕府権力の衰退が隠しきれなくなっているのは、幕末を相当遡る天保年間からだ。
     それでも禁門の変から第一長州征伐までは、まだ幕府権力は優勢を保っていた。しかし、第二次長州征伐以降、幕府の衰退は、なけなしの財政力をつぎ込んで整備した軍事力でも救えなかった。


     無策な幕府が自壊していくのとは逆に、藩政改革を進めた諸藩が発言力を強め、その流れの行き着く先が大政奉還であった。




     ペリー来航以後、幕府は外交軍事に緊要な洋学の研究と通訳育成等の目的を持って、蕃書調所を創設した。安政二年のことだが、そこに採用された教授陣は、陪臣と浪人ばかり。人材育成一つ取っても、幕末の日本を支える人材は、諸藩が提供したものだ。


     7人の教授と助教授は、箕作阮甫(津山藩)、杉田成卿(小浜藩)、高畠五郎(徳島藩)、松本弘安(薩摩藩)、東條英庵(長州藩)、原田敬策(備中浪人)、手塚律蔵(佐倉藩)、川本幸民(三田藩)、田島順輔(安中藩)。


     明治日本が躍進したのは、優秀な人材の輩出が大きいが。人材を計画的に育成したのは諸藩であって、幕府ではない。

  • >>1781

    >いずれにしても、11月18日に三田尻で長州藩世子の広封と茂久の両人が面会を果たします。つまり薩長両藩トップが初めて対面した、この日に、薩・長・芸の三藩の軍勢で大阪を占拠したあと、薩摩藩がその軍力によって御所を制圧し、天皇の身柄を確保する。そのあと長州藩兵が上洛するという政府転覆の反乱計画を取り決めます。
    >政府転覆の反乱でなければ、なんというのかね?


     
    「政府転覆の反乱」などではないよ。幕府と日本を代表する政府とは、別のものだ。朝幕二元体制ではどうにもならなくなったから、朝廷に権限を一元化することを目指すだけのこと。
     そのためには大政奉還した後に、慶喜の統制を離れた幕府急進派が攻撃を仕掛ける場合の対策だ。だから、兵を上洛させた時点では何ら戦闘は起きていない。




    >戦かう名分が無くなてしもたからです。戦かうには名分が必要です。名分がなければ、兵たちに戦う気力は生まれんからね。




     戦う名分があった江戸城総攻撃でも、現実には攻撃せず、無血開城している。このように、薩摩の西郷にあっては、軍事力は政治目的を達成するための手段であって、目的ではない。だから、不要となれば行使しない。




     薩摩、長州、芸州の三者合議は、吉井の言う「事態をとことんまで推し進めていく」ための準備である。しかし、同時に吉井が再三にわたって、薩摩藩江戸藩邸に待機中の浪士の活動を停止させているのも事実だ。
     大政奉還という政治決断が確定するまでは、戦いという事態に備える。そして江戸総攻撃直前の段階で、もやは幕府軍の組織的反撃の可能性が無くなったのを見て、軍事力行使というカードを引っ込めた。薩摩藩の戦略は、戦闘一途ではなく、柔軟で重厚だ。

  • >>1781

     久光が代理として送り出した茂久は長州、芸州と戦闘勃発時の協力を約して上洛する。






    >「長州、芸州と戦闘勃発時の協力を約して」とは何ですか?それはいつ取り決めをしたのですか?取り決めのその実際の内容はどのようなものですか?




     11月18日に三田尻で長州藩世子の広封と茂久の両人が面会を果たします。つまり薩長両藩トップが初めて対面した、この日に、薩・長・芸の三藩の軍勢で大阪を占拠したあと、薩摩藩がその軍力によって御所を制圧し、天皇の身柄を確保する。そのあと長州藩兵が上洛するという政府転覆の反乱計画を取り決めます。


    慶応三年十一月十八日、長州藩の海の玄関三田尻では、「薩長芸三藩出兵同盟」が約定されていた。
    一、三藩とも浪華根拠のこと。
    一、根拠守衛、薩藩ニ小隊へ長芸のうち相加へ候事。
    一、薩侯御一手は京師を専任とす。
    一、長芸のうち一藩、京師を応援す。
    一、薩侯御著坂二十一日にて、二十三日御入京。(長州藩は)廿六日、三田尻出浮(輸送船上)の兵出帆、西之宮著。薩藩より京師の模様報知の上、進入の・。
    一、○義は山崎路よ西之宮へ脱、詰まり芸州までの事。(維新史 第五巻)
    最後の項目の○は、マルでは なく、タマないしはギョクの符号である。事がうまく運ばなかった場合には、玉体を擁して京都 から山崎を経て西宮へ脱出し、船に乗せて海路広島へ拉し去るという「奪玉」の計画である。