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>>1793

> 薩摩藩として軍を上洛させる以上、当然に戦闘を覚悟している。そのための薩長芸の協議をした。
 しかし、同盟軍である芸州は、これより先に動いている。10月16日に芸州軍500が状況している。つまり西郷、小松が帰国し、久光らの御前会議をしている間も、事態は動いている。
 そして既述の通り10月、11月の間も在京幕府軍の増強が続いており、戦闘の危険性は高まっている。
 有事に対する備えの必要性は高まっている。ただし、軍事力を発動するかどうかとは別物だ。薩長芸にとって、絶対戦闘ありきではない。薩摩軍の増援部隊が到着して以後も、戦闘は行われていない。
 長州の品川弥二郎は、島津茂久や西郷の乗る薩摩軍船に同乗させてもらって、上洛して情勢探索をしている。
 11月27日付けで報告書を国許に送っている。その中で「火急二一発ト申訳二参サル」「将軍、大政ヲ朝廷へ帰シ候二付イテハ一ト通リ条理ヲ立テ、其上聞サル時ハ、コノ前ノ秘書通リ御事ノヨシ…」と書いている。
 薩摩も長州も、和戦両にらみで動いているんだよ。

「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相、桑名中将に「誅戮を加う」という戦闘の名目が「将軍、大政ヲ朝廷へ帰シ候二付」「火急二一発ト申訳二参サル」になった。そこで、「一ト通リ条理ヲ立テ」新たなる戦闘する名目が必要になったのだ。
つまり慶喜を「殄戮」して、さらに会津宰相と桑名中将を「誅戮」するという西鄕らの武力をもってでも打倒を目指した幕府は消滅していたからです。これが「薩摩軍の増援部隊が到着して以後も、戦闘は行われ」なかった理由です。だから、「薩摩も長州も、和戦両にらみで動いている」わけではなし、薩長芸にとって、「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相、桑名中将に「誅戮」を加えよとすれば「戦闘ありき」でなければならんのだ。

  • >>1801

    > 事態は、新政府側も幕府側も、複雑を極めている。平和一辺倒なら戦争が回避できたというお花畑の妄想は、現実世界では通用しない。まあ、どっちにしろ戊辰戦争を回避できた可能性は、限りなく低いがね。

    複雑ではない、簡単である。現実世界では、たんなる指導権争いである。
    武力をもってでも打倒を目指した幕府は消滅していたので、「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相 桑名中将に「誅戮」をくわえるには、「一ト通リ条理ヲ立テ」る新たなる段取りが必要になったのだ。つまり名目だよ。

    >別に薩摩藩の動きに変動はない。幕府との決別、新政府の確立という大戦略はいささかも変わっていませんが、何か?

    幕府は消滅しておるよ!

    >ようやく理解しえたね!

    残念です!

  • >>1801

     薩摩藩として軍を上洛させる以上、当然に戦闘を覚悟している。そのための薩長芸の協議をした。
     しかし、同盟軍である芸州は、これより先に動いている。10月16日に芸州軍500が状況している。つまり西郷、小松が帰国し、久光らの御前会議をしている間も、事態は動いている。そして既述の通り10月、11月の間も在京幕府軍の増強が続いており、戦闘の危険性は高まっている。
     有事に対する備えの必要性は高まっている。ただし、軍事力を発動するかどうかとは別物だ。薩長芸にとって、絶対戦闘ありきではない。薩摩軍の増援部隊が到着して以後も、戦闘は行われていない。
     長州の品川弥二郎は、島津茂久や西郷の乗る薩摩軍船に同乗させてもらって、上洛して情勢探索をしている。
     11月27日付けで報告書を国許に送っている。その中で「火急二一発ト申訳二参サル」「将軍、大政ヲ朝廷へ帰シ候二付イテハ一ト通リ条理ヲ立テ、其上聞サル時ハ、コノ前ノ秘書通リ御事ノヨシ…」と書いている。
     薩摩も長州も、和戦両にらみで動いているんだよ。






    >「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相、桑名中将に「誅戮を加う」という戦闘の名目が「将軍、大政ヲ朝廷へ帰シ候二付」「火急二一発ト申訳二参サル」になった。そこで、「一ト通リ条理ヲ立テ」新たなる戦闘する名目が必要になったのだ。
    つまり慶喜を「殄戮」して、さらに会津宰相と桑名中将を「誅戮」するという西鄕らの武力をもってでも打倒を目指した幕府は消滅していたからです。これが「薩摩軍の増援部隊が到着して以後も、戦闘は行われ」なかった理由です。




     まず、慶喜その人は、長州藩の上洛を許容していた。12月2日の朝議で、長州藩が大阪にとどまることは承認された。長州藩をめぐる情勢は好転しつつあった。 しかし、会津はこれに反対していた。(嵯峨実愛手記、丁卯日記)
     会桑に関しては、12月21日付け、簑田宛西郷書簡において「…勤皇の兵、追々出来、勢い盛大に罷り也申し候。只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候。…」ともある。






    >だから、「薩摩も長州も、和戦両にらみで動いている」わけではなし、薩長芸にとって、「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相、桑名中将に「誅戮」を加えよとすれば「戦闘ありき」でなければならんのだ。




     オタクは、日本の歴史に疎いようだね。現実の歴史では、慶喜も松平容保(会津)も定敬(桑名)も誅殺されていないんだよ。
     しかし慶応3年11月の段階では、慶喜が大政奉還を宣言しただけ。幕府陸海軍も、幕府側に立つ大名群も多数いる。しかもその幕府勢力を、慶喜は統制できていない以上、戦闘という選択肢は放棄できないのは当然だ。








     それに、オタクは、『西鄕らの武力をもってでも打倒を目指した幕府は消滅していたからです。』ということで、本当にいいのかね?
     そうなれば薩摩藩藩邸の焼き討ちは、大名同士の私闘になる。そして鳥羽伏見の戦いは、政府に対する反乱になる。オタクとしては、絶対にあってはならないことじゃないのか。w