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>>1801

> 事態は、新政府側も幕府側も、複雑を極めている。平和一辺倒なら戦争が回避できたというお花畑の妄想は、現実世界では通用しない。まあ、どっちにしろ戊辰戦争を回避できた可能性は、限りなく低いがね。

複雑ではない、簡単である。現実世界では、たんなる指導権争いである。
武力をもってでも打倒を目指した幕府は消滅していたので、「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相 桑名中将に「誅戮」をくわえるには、「一ト通リ条理ヲ立テ」る新たなる段取りが必要になったのだ。つまり名目だよ。

>別に薩摩藩の動きに変動はない。幕府との決別、新政府の確立という大戦略はいささかも変わっていませんが、何か?

幕府は消滅しておるよ!

>ようやく理解しえたね!

残念です!

  • >>1804

     大政奉還後の薩摩藩の動きに変動はない。幕府との決別、新政府の確立という大戦略はいささかも変わっていませんが、何か?


    「勅命候義重罪不可免候二付、征夷大将軍職ヲ奪、削封ノ上諸侯之列二被召加度」(大久保利通「久光公に呈せし意見書」)
     薩摩藩では、「征夷大将軍職ヲ奪、削封ノ上諸侯之列二被召」という大戦略があって、そのための和戦両にらみで準備を進めている。


     ただ圧倒的指導力を持って、政局をリードする勢力が無かった。キーマンの一人である慶喜にしても、これまでの言動に変節が多かったのと、臣下であるはずの幕府組織を統制できていない。
     
     ただ薩摩の軍事力が、幕府側にある程度の圧力となり、大政奉還の受け入れの要素となっていた部分もある。大政奉還直後の10月19日、佐幕派の大垣藩士が、正親町三条実愛に語ったところでは「一、水会一万有之故、薩二千位を攘は、易き事に候へ共、(薩摩の)本国大国故、敵になしかたきこと」(嵯峨実愛手記)とある。
     事態は、新政府側も幕府側も、複雑を極めている。その中で戊辰戦争を回避できた可能性は、限りなく低い。




    >複雑ではない、簡単である。現実世界では、たんなる指導権争いである。武力をもってでも打倒を目指した幕府は消滅していたので、「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相 桑名中将に「誅戮」をくわえるには、「一ト通リ条理ヲ立テ」る新たなる段取りが必要になったのだ。つまり名目だよ。




     その主導権争いの決着を、軍事力でつけるか政治決着でつけるかは状況による。政戦いずれにも対応できるように準備するのは、当然のことだ。
     慶応3年末の時点で、慶喜が大政奉還し「幕府が消滅していた」のは、あくまで紙の上でのこと。実際は幕府直轄の軍事力も、また親幕府の大名群も健在だ。その最右翼である会津らは強硬姿勢を解いていない。


    「此の時会桑二藩は大兵を擁して京都に駐在し、依然として徳川家の重鎮たり。其藩主肥後守、越中守こそ大政奉還の大義を了解しつらめ。其藩士に到りては旧幕府に眷戀たる者多かりければ、公は板倉伊賀守に告げて『…会桑二藩をも各本国に就かしめん』と仰せられしに、伊賀守は遮って、『二藩は万一の変ある時有力なる後援なれば、帰国せしめんこと然るべからず。また帰国せよと命じたりとも、諾せざるは明なり。其他の兵士も同様なり』と稱して従わず。」(昔夢会筆記)








    >薩長芸にとって、「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相、桑名中将に「誅戮」を加えよとすれば「戦闘ありき」でなければならんのだ。




     しかし西郷は、幕府を支える軍事力が四散して、軍事的優勢が動かない段階になったとたん、一転して慶喜助命に動くではないか。
     また容保も定敬も赦免されており、「誅戮」されていませんな。新政府にとっては、幕府軍の抵抗が熄めば戦闘をする理由も意図も無かった。




    ようやく理解しえたね!




    あめでとう!